ティワナク遺跡の先コロンブス期人類集団のゲノムデータ

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ティワナク遺跡とその周辺の先コロンブス期人類集団のゲノムデータを報告した研究(Popović et al., 2021)が公表されました。小規模な社会から定住生活(つまり村や都市)への移行を形成する動機と意図は、考古学の主要な問題の一つです。チチカカ湖の畔の近くの海抜3850mに位置するティワナクは、地球上の他の少ない場所と同様に、社会的複雑性の自発的かつ一時的台頭の最もありそうもない事例です(図1A)。紀元後千年紀のほぼ半分(紀元後500~1000年頃)ほど、ティワナクはアンデス南部で最も影響力のある中心地の一つでした(図1B)。以下は本論文の図1です。
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 100年以上の考古学的調査により、紀元後500年頃(以下、明記しない年代は全て紀元後です)の主要な儀式場としてのチチカカ湖盆地の文化的および人口統計学的変化がティワナクの出現にどのように先行したのか、明らかにされてきました。チチカカ湖盆地南東部は、チチカカ湖も含まれるアルティプラノ(Altiplano)高原の他地域よりも温暖な気候に恵まれており、少なくとも初期中期形成期(紀元前1500~紀元前100年頃)から人々が密集して暮らしており、この期間には小さな政治的に独立した村々が存在していました。交易の増加と共通の宗教的伝統の出現は、複数共同体の政治形態の形成につながり、300年頃のティワナクの最初の形成で頂点に達しました。

 ティワナクの出現は、明らかに社会経済的・思想的・人口統計学的変化を伴っていました。たとえば、デサグアデロ(Desaguadero)川流域の主要な中心地であるホンコー・ワンカネ(Khonkho Wankane)は、後期形成期(100~500年頃)末にほぼ放棄されましたが、ルクルマタ(Lukurmata)は隣接するカタリ(Katari)川渓谷の重要な集落であり続けました。ティワナクはチチカカ湖盆地においてその中核地域を越えた最初の古代国家で、この過程でチチカカ湖南部地域の広範な領域を従属させたか、さもなくば影響を及ぼした点で、注目に値します(図1C)。

 ティワナクはチチカカ湖地域における最初の大都市で、儀式行事の最盛期には2万人もの人口が推定されています。ティワナクの記念碑は、ティワナクの植民地時代および現代の町の南東部に位置する平原に数kmも広がっており(図1D)、多くの小さな建物を伴う6ヶ所ほどの主要な儀式建造物が含まれます。他のアンデス地域文化のように、ティワナクの儀式慣行は多様な集団間のある程度の政治的統一を築きました。ティワナク市の儀式の中核は、宇宙論と神話と物理的空間との間の一体化に関する信仰に基づいて設計されています。

 ティワナク遺跡で最初の記念碑である半地下神殿は、3~5世紀に隣接するカラササヤ(Kalasasaya)基壇およびケーリ・カーラ(Kheri Khala)複合により補完されました。7世紀頃、ティワナク遺跡においてかなりの変化がアカパナ(Akapana)基壇の建設とともに起きました。数世紀後、それ以前の建物は破壊され、プトゥニ(Putuni)複合が建設されました。別の階段状基壇であるプマプンク(Pumapunku)神殿の建設は7世紀半ばにティワナク遺跡南東部で始まり、その建造物は何世紀にもわたって改築され続けました。これら記念碑の広場地域間およびその周辺には、家屋や台所や大きな中庭を含む塀で囲まれた混合でした。

 ティワナク遺跡の中心は、半分のアンデスの十字架状に構築された17mの高さの記念碑的基壇であるアカパナです。考古学的証拠では、アカパナは共同の饗宴や供物を含む儀式の場だった、と示唆されます。その基壇底部では、ヒト遺骸の堆積がラクダ類の骨や土器の破片の混合とともに見つかっています。これらのヒト遺骸は、発掘者により儀式の供物として解釈されました。これらヒト遺骸の分析により、死亡時もしくは死後すぐの手足切断の証拠が見つかりました。この分析の報告者によると、これらの犠牲は神々とのつながりを明らかにすることにより、エリートがその力を証明するために使用されました。別の解釈は、最近征服され、服従することになった人口集団の神聖な祖先を切断した、新たなエリート階級です。

 ティワナク文化は無文字で、考古学的研究が主要な情報供給源であることを意味します。過去1世紀の研究により、ティワナク遺跡に存在する建造物の設計と規模と分布が提供されてきました。しかし、ティワナク遺跡の人口統計学に関する基本的な問題が残っています。学術的見解は、人口稠密な都市から、季節ごとの巡礼者の生活で周期的に利用される、その他の時期はほぼ無人の儀式中心地だった、とするものまであります。ティワナク市の居住パターンに関係なく、考古学的および生物考古学的調査は、ティワナク遺跡における個体の多様な集団の存在を示唆します。これらの発見は最近、ティワナク遺跡で発掘された3個体のゲノムデータにより裏づけられ、そのうち1個体は外来祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示しました(関連記事)。

 ティワナク遺跡における明らかな人口集団の多様性の背後にある構造の説明は、好戦的なものから温和なものまで、つまり強制的移住から自発的な巡礼と交易までさまざまです。ティワナクは他の政治的組織体を統合し、その中心部と飛び地で労働力を動員することができました(図1C)。ティワナクの政治経済は、高地農耕やラクダ類の放牧や湖の利用など地元の生産だけではなく、低地資源、とくにトウモロコシの利用確保のため、アンデス南部から中央部を経ての、広範な交易と植民地関係にも依存していました。

 本論文は、考古学と古ゲノムの手法の組み合わせを利用し、ティワナクの儀式中心地に焦点を当て、アンデス中央部における人口集団の構造と動態への洞察を得ます。ティワナク文化(500~1000年頃)と関連するボリビアのチチカカ湖地域の古代人13個体と、ワリ(Wari)文化(500~1000年頃)およびインカ文化(1400~1540年頃)と関連するペルー南部のコロプナ(Coropuna)火山地域の4個体のゲノム規模情報が調べられました。これらの集団の遺伝的構成が分析され、古代および現代の人口集団との類似性が比較され、分析対象遺骸の絶対年代が再調査されます。この結果は、ティワナクにおける複雑な人口史を明らかにします。この研究は、地元自治体の許可を得て進められました。


●標本

 ボリビアとペルー南部のチチカカ湖近くの先コロンブス期遺跡の93標本が調べられ、18個体で0.15~2.56倍の網羅率のゲノム配列が得られました。そのうち1個体(TW098)は古代DNAの信頼性に関する品質基準の閾値を満たさなかったので、以後の分析から除外されました。1個体(TW059)のX染色体の汚染率はわずかに高い(5.5%)と推定されましたが、それは一塩基多型(SNP)の限定的な数に基づいたもので、他の全ての汚染推定値が閾値を満たしていることから、分析に用いられました。


●考古学的状況と放射性炭素年代測定

 考古学的状況と層序に基づく古代の個体群の年代測定は、各個体の骨格遺骸の直接的な放射性炭素年代測定により確認されました。本論文のデータセットには、チチカカ湖盆地からの13個体が含まれ、その年代は300~1500年頃です。ティワナクの儀式中心地遺跡外の居住集団は、5個体で構成されます。この5個体のうち4個体は、カタリ川流域の近くで発見されました(TW013とTW020とTW027とTW028、以下、LUKと呼ばれます)。個体TW033(以下、ORUと呼ばれます)は、カタリ川流域から200km離れたオルロ(Oruro)のトトカチ(Totocachi)で発掘されました。

 LUK集団は3期間を表す個体群が含まれる、と放射性炭素年代測定により明らかになりました。個体TW013の年代は300年頃で、ティワナクの政治的組織体にカタリ川流域が組み込まれる前となります。他の2個体(TW020とTW027)はそれぞれ1100年頃と1010年頃で、ティワナクが社会政治的中心としての地位を失った期間です。最後に、個体TW028の年代は1470年頃で、インカ帝国によりこの地域が占領されていた期間です。ORU個体(TW033)の年代は、ティワナク遺跡が放棄された後で、おそらくはすでにその後の文化を表します。

 他の8個体は、ティワナク遺跡の儀式中核内のさまざまな場所で発見されました。ヒトと非ヒト動物の骨の複雑な収集の一部である個体TW060は供物として解釈され、乳児個体TW061は、アカパナ基壇の基底部沿いの沖積層で発見されました。TW059は、建設用盛土に覆われて下向きに置かれた完全な個体なので、この基壇の大きな変更を示す犠牲の有力候補です。TW063は、プトゥニ基壇の攪乱しており、かなり採石された南の外壁で発見された、単一の頭蓋です。TW097個体は、半地下神殿とアカパナ基壇との間に造られた小石の敷き詰められた盛土に置かれており、四肢の位置は埋葬用の束で包まれた個人と一致します。

 TW056は、カラササヤ基壇の北東角沿いのモノリト・デスカベザド(Monolito Descabezado)の石柱に隣接する、土器と骨(ヒトと非ヒト動物)と灰の混じった堆積に混入した部分的個体です。この場所で発見されたより完全な個体の位置は、拘束されていた人物と一致することから、生贄的な性格と示唆されます。しかし、この個体については、DNAの保存状態が充分ではなく、下流分析を行なえませんでした。2個体(TW004とTW008)は正確な出土地が不明ですが、アカパナ基壇の発掘に由来する、と思われます。下流分析に用いられた「TIW」集団には、アカパナで発見されたすでに刊行された(関連記事)3個体(I0976とI0977とI0978)も含まれます。

 2個体(TW059とTW063)はチチカカ湖盆地とアンデス南部全体で、ティワナクの強い影響を受けた期間に暮らしていました。6個体の年代は950年頃で、これはティワナクの衰退が始まったころと考えられており、1個体の年代は1100年頃で、これはティワナク遺跡の積極的な維持後の期間です。ティワナク文化と直接的に関連する個体群に加えて、ペルー南部のコロプナ火山周辺の、1000~1450年頃となる後期中間期から1400~1540年頃となる後期ホライズン(Late Horizon)の遺跡で発見された4個体(以下、CORと呼ばれます)でゲノムデータが生成されました(図1A)。

 この地域はインカ期だけではなくその前にも重要な儀式と巡礼の中心地で、ワリ文化とティワナク文化の影響の痕跡があります。920年頃の1個体(CO001)は、クルクンチェ(Culcunche)における牧畜民の埋葬に由来し、おそらくはマウカラクタ(Maucallacta)の儀式中心地を主催した地元の人口集団を表しています。1500年頃の1個体(CO066)はマウカラクタに由来しますが、1560年頃の1個体(CO154)はマウカラクタの近くに位置する集落であるアンタウラ(Antaura)に由来します。1320年頃となる最後の1個体(CO193)は、近くのコタウアシ(Cotahuasi)渓谷で発見されたミイラです。


●主成分分析とADMIXTUREでの遺伝的類似性

 まず、主成分分析(PCA)と教師なしADMIXTURE分析を用いて、個体群の遺伝的類似性の定性的評価が実行されました。第一主成分(PC1軸)は、ヨーロッパ祖先系統を有さない現在の南アメリカ大陸個体群のデータを用いて計算されます。現在の個体群のゲノムデータセットはさまざまな技術を用いて生成され、その最終的な交差により共通の199175ヶ所のSNPが得られました。新たに得られた古代の個体群と他の利用可能な南アメリカ大陸の古代の個体群とが、計算された主成分に投影されました(図2A・B)。PCA図は、個体のほとんどがその人口集団内にまとまる、と示しました。アマゾンとアンデスの人口集団の分岐が見つかり、以前の研究の結果を裏づけます。COR個体群は他の古代ペルー個体群とまとまり、ララマテ(Laramate)のようなペルー南部高地や、ウルヤヤ(Ullujaya)とパルパ(Palpa)のようなペルー南部沿岸部の個体群と最も密接です(関連記事)。以下は本論文の図2です。
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 現在のボリビア人は、チチカカ湖盆地の古代の個体群と緊密にまとまります。しかし、TIW個体群はこの古代チチカカ湖のまとまりの範囲外となります。個体TW056はアマゾンとコロンビアの現代人およびペルー北部沿岸の古代の個体群の分散したまとまり内に投影されますが、個体TW059はペルーの南北の集団間に投影されます(図2A・B)。教師なしADMIXTURE分析は、最小の交差検証(CV)誤差となるK(系統構成要素)=5では、祖先構成要素の2つが、カリティアナ人(Karitiana)とスルイ人(Suruí)というブラジルの2つの人口集団において支配的で特徴的と示します(図2C、カリティアナ人が赤色でスルイ人が青色)。黄色の構成要素は、アルゼンチン北部のグラン・チャコ(Gran Chaco)の人口集団であるウィチ人(Wichi)に特徴的です。残りの2構成要素は、ペルーのアマゾン人口集団(緑色)とアンデスの人口集団(紫色)で支配的です。

 LUK個体群は、ORUやリオ・アンカラネ(Rio Uncallane)やイロコ(Iroco)やミラフローレス(Miraflores)といった他の古代チチカカ湖個体群とともに、その祖先系統のほとんど(95%超)が単一の構成要素(紫色)に由来します。一方、TIW個体群のほとんどは、他の構成要素を少なくともある程度の割合で示しました。例外的個体はTW004とTW0097とI0977で、ほぼ排他的に紫色の構成要素を示します(図2C)。


●f統計による祖先系統モデル化

 分析対象の個体群の遺伝的構成をより詳しく調べるため、f3およびf4統計が計算されました。全ての計算で、アフリカ中央部の狩猟採集民であるムブティ人が「外群」として用いられました。共有される遺伝的浮動はf3統計で、この研究の各17個体(個体と表記)と、全ての他の個体および人口集団(検証と表記)との間で測定されました。f3統計に基づいて、MDS(多次元尺度構成法)図と近隣結合系統樹が生成されました(図2Dおよび図3)。

 f4形式(ムブティ人、人口集団;個体1、個体2)と(ムブティ人、個体;集団1、集団2)でf4統計の包括的計算が実行されました。この場合、「個体」は分析対象の個体を表しますが、人口集団もしくは集団は、以前の研究(関連記事)で定義された特定の地域および期間の古代の人口集団もしくは集団か、現在の人口集団を表します。有意に負のZ得点(Z<−3)は、個体1が個体2とよりも検証人口集団の方と、もしくは集団2とよりも集団1の方と多くのアレル(対立遺伝子)を共有する、と示唆します。以下は本論文の図3です。
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 f3およびf4統計によると、LUK個体は相互と、もしくはチチカカ湖地域の他の古代の個体群と最高の類似性を示しました(図2Dおよび図3)。ルクルマタ個体群の均質性が、f4統計(ムブティ人、検証;LUK個体1、LUK個体2)を用いてさらに調べられ、この場合のLUK個体1とLUK個体2は、それぞれルクルマタ個体群のあり得る組み合わせを表します。これらの検定も、どのf4統計(ムブティ人、検証;LUK、チチカカ湖古代人)も、有意ではありませんでした。この結果が示すのは、ルクルマタ個体群はルクルマタのどれか、もしくはチチカカ湖地域の古代の個体群の集団とよりも、検証集団のどれかの方と有意に多くのアレルを共有している、ということです。複数のf4統計を要約し、検証された2人口集団で要求される異なる祖先系統供給源の最小数を判断するqpWave/qpAdmを用いて、本論文の統計的解像度の限界まで、ルクルマタ人口集団が遺伝的に均質であり、古代のチチカカ湖人口集団とともに、祖先系統の単一の波で説明できる、と分かりました(図4)。以下は本論文の図4です。
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 同じ戦略を用いて、ティワナクの儀式中核の個体群の集団は異質で、祖先系統のさまざまなパターンを認識できる、と分かりました。4個体(TW004とTW008とTW060とTW097)は、すでに刊行された2個体(I0977とI0978)と同様に、チチカカ湖古代人とともに祖先系統の1つの供給源を用いてモデル化できます。2個体(TW059とTW063)は、祖先系統の単一の供給源を用いてモデル化できず、代わりに少なくとも2つの供給源が必要とされるように、混合の強い証拠を示しました。この祖先系統の追加の供給源はアマゾンである可能性が高く、それは、チチカカ湖古代人とアマゾンもしくはグラン・チャコ(Gran Chaco)の供給源とのモデルだけが、データに適合するからです。

 1個体(TW061)はゲノム網羅率がひじょうに低いため、分析の解像度が制約され、祖先系統の単一の供給源としてチチカカ湖古代人とチリ北部人との間で区別できませんでした。TW061と、プカラ(Pukara)およびピカ・オチョ(Pica Ocho)というチリ北部の2集団との間の外群f3統計の最高値は、TW061がチリ北部関連祖先系統を有していたかもしれない、と示唆します(図3)。1個体(I0976)は、祖先系統の単一の供給源でモデル化できますが、ペルー南部高地とチリ北部の祖先系統間の区別はできませんでした。しかし、外群f3統計は、TW061とペルー集団との間の密接な類似性を示しました(図2Dおよび図3)。

 最大の外れ値個体はTW056で、f4統計とqpWave(図4)の両方で示唆されるように、排他的にアマゾン関連祖先系統を示しました。外群f3統計とf4統計が示唆したのは、ペルーのアマゾン人口集団がTW056個体と最高の共有される遺伝的浮動を示した、ということです(図3)。TW056の特徴は、安定同位体の窒素15と炭素13の分析でも表され、この女性個体の特性は本論文およびすでに刊行された研究で検証された他のチチカカ湖盆地個体から外れています。

 トトカチの単一個体(TW033)は、祖先系統の単一の供給源でモデル化されますが、ペルー南部高地とチリ北部の集団間で区別できませんでした。f4統計も、TW033個体が古代チチカカ湖集団とよりもペルー南部高地集団の方と高い類似性を有している、と示しました。f4統計(ムブティ人、古代人集団、COR1、COR2)のどれも有意ではなかったので、コロプナ個体群の間の有意な違いは見つかりませんでした。外群f3統計とf4統計とqpWaveモデル化は、ペルー南部人口集団と近いことを示唆しました(図3)。1個体(CO066)だけが単一の供給源でモデル化できず、ペルー南部沿岸部から北部へのわずかな構成要素と、ペルー南部沿岸部との組み合わせとして最適にモデル化されました。


●考察

 本論文の結果は、チチカカ湖盆地が少なくとも300年頃からヨーロッパ人の到来までかなり遺伝的に均質だった、と示します。これは、300年頃~1500年頃の広範な時間枠の4個体で構成されている、ルクルマタ遺跡でよく示されています。これら4個体は遺伝的類似性を示しており、少なくとも12世紀間は、かなりの文化的および政治的変化にも関わらず、大きな遺伝的置換が起きなかった、と示唆します。現在の南アメリカ大陸人口集団の以前の遺伝学的研究は、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)もしくはゲノムデータを用いて、先コロンブス期と現在のアンデス中央部人口集団は両方遺伝的に均質で、その人口集団間の高水準の遺伝子流動により特徴づけられる、と示唆しました。対照的に本論文では、ペルー中央部および南部とチチカカ湖盆地の先コロンブス期の個体間の重なりはほとんど見つかりませんでした(図2および図3)。本論文の結果は、過去2000年間のアンデス中央部の異なる地域内の均質性を示唆した以前の発見(関連記事)を裏づけます。しかし、アンデスのさまざまな地域間の接触は完全に欠如していたわけではなく、それは、ペルー北部との類似性を示すコロプナ地域の個体と、ペルー南部のアンデス地域もしくはチリ北部の人口集団との遺伝的類似性を示す個体により示されています。

 ボリビアのアルティプラノ高原人口集団の遺伝的均質性を考えると、ティワナクの儀式中核の個体群の集団は、その多様性の点で際立っています。数個体はチチカカ湖盆地人口集団との密接な類似性を示す一方で、他の個体は異なる祖先系統か混合祖先系統を示します。その影響の最盛期に、ティワナク国家はチチカカ湖盆地外の、ペルー南部のモケグア(Moquegua)やボリビアのコチャバンバ(Cochabamba)やチリ北部のアサパ(Azapa)といった肥沃な渓谷に達しました(図1C)。ティワナク遺跡で見つかる外来土器群の顕著な存在は、複合施設の特定の場所に居住した民族集団が居住した、というシナリオを裏づけます。

 ストロンチウム同位体と頭蓋修飾に基づく以前の研究は、近隣地域、おそらくはティワナク政治的組織体の周辺のティワナクと提携した遺跡からの個体群の存在を示唆しました。アマゾン地域などはるか遠くの人口集団との接触の証拠はずっと限定的で、ジャガーの犬歯製首飾りや、熱帯低地動物相の図像表現や、熱帯植物遺骸や、低地幻覚物質のように、孤立した人工物にのみ基づいています。完全にアマゾン地域祖先系統を有する1個体(TW056)のティワナク遺跡における存在は、犠牲の供物というかなり特殊な状況の1個体にすぎませんが、ティワナク遺跡とアマゾン地域との間の接触が物質の交換に限定されておらず、人々の身体的移動を含んでいた、と論証します。

 遠方地域との接触は、チチカカ湖盆地祖先系統とアマゾン地域および/もしくはグラン・チャコ祖先系統との組み合わせを示す、2個体(TW059とTW063)の発見によりさらに確証されました。ゲノムデータに基づくと、これらの個体がチチカカ湖盆地へのすでに混合した来入者だったのか、それとも在来祖先系統を有する来入者や人々の子孫だったのか、判断できません。来入者とチチカカ湖盆地個体との間の混合が地元で起きた、とする後者のシナリオの方が、ティワナク遺跡の儀式中核外のチチカカ湖盆地個体群で、これまでに外来の遺伝的祖先系統の兆候が見つからなかったことを考えると、可能性はより高いようです。

 ティワナク社会の組織とその最終的な放棄を理解するのに重要なのは、アカパナ基壇周辺の同時代の多数のヒト遺骸の解釈です。儀式の供物の蓄積は、征服戦争の成功後にアステカの首都で歴史的に記録された生贄により例示されるように、捕虜や新たなエリートにより征服された人々の公的破壊として解釈できます。このモデルは、標本がさまざまな起源の犠牲者を含んでいる、と予測します。アカパナと関連する8個体で構成されるTIWデータセットのうち5個体は、基壇底部で状況が確認されました。そのうち1個体(I0976)を除いて全て、チチカカ湖盆地に完全な祖先系統がたどれますが、チチカカ湖盆地人口集団の遺伝的均質性により、これらの個体の起源をこの地域内で正確に追跡することはできません。しかし、この個体群が、チチカカ湖盆地外のより遠方の祖先系統間の痕跡を示す、儀式中核の他の場所で発掘された個体群と異なることは、注目に値します。

 アカパナ関連個体群のほとんどの直接的な放射性炭素年代は、10世紀半ばのティワナク現象末に向かっています。この年代測定は、階層を確立して統合する手段として組織化された暴力の使用を裏づけるには遅すぎます。それらの個体は、基壇基底部と関連する準備された表面に蓄積した沖積層に位置し、個体の差異をより想起させるパターンと、ワカス(huacas)として知られる地元の神聖な遺跡への供物を表しています。おそらく、記念碑と関連する社会政治的組織が権力を失い、および/もしくはティワナクのエリートが大規模で正式な饗宴を開催してその後片付けをする能力をもはや失ったので、人々の集団は自身の裁量で供物を残せました。

 ティワナクで観察されたような、ヒトの生贄の強化が危機にあり解決策を模索している社会を示唆する、との事例が報告されています。ティワナク遺跡の放棄の方法と過程は議論の対象ですが、一部の学者は10世紀後半を、遺跡の放棄に向かう漸進的もしくは急激な低下として考えています。ティワナク遺跡とその後のティワナク文化の終焉を、1100年頃に始まり、畝の畑作農耕体系を崩壊させた旱魃が原因と考える人もいます。他の人々は、この説明があまりにも環境決定論的だと考え、1000年頃以後のティワナクの存在の証拠はほとんどないものの、畝の畑作は数世紀持続した、という事実を指摘します。

 本論文で報告された新たなゲノムデータと放射性炭素年代は、各地域が外部人口集団との交換をほとんどせずに内部の均質性を維持したように見えるアンデス中央部のほぼ静的な遺伝的景観において、近隣の渓谷とずっと遠くの場所両方の人々が、ティワナク政治的組織体の直接的な影響外からでさえティワナク遺跡にやって来た、と論証します。特定の個体がそうした旅を行なったか連れて来られた理由は決して分からないかもしれませんが、本論文のデータは、そうした人々および/もしくは子孫がティワナクで痕跡を残した、と示唆します。アカパナと関連するヒト遺骸の対照的な在来祖先系統は、興味深い発見です。この供物の選択が、ティワナク内の出自に基づく何らかの社会的階層に基づくのか、社会政治的組織の変化の結果なのか、生贄とされた個体がチチカカ湖盆地内の敵対的な政治権力の構成員だったのかどうか、不明です。この問題を解決するには、ティワナク遺跡内およびティワナクの影響を受けた地域の遺伝学と同位体と考古学のデータが必要になるでしょう。


参考文献:
Popović D. et al.(2021): Ancient genomes reveal long-range influence of the pre-Columbian culture and site of Tiwanaku. Science Advances, 7, 39, eabg7261.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abg7261

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