遠山美都男『新版 大化改新 「乙巳の変」の謎を解く』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2022年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、同じく中公新書の一冊として1993年2月に刊行された『大化改新 六四五年六月の宮廷革命』の改訂版で、この旧版は私も購入しており、本書の購入の検討にあたって久々に本棚から取り出しました。新版のはしがきに、旧版からの大きな変更点が取り上げられていたので、本書の購入を決断しました。その大きな変更点とは、女帝の前身である大后は大王権力から自立した権力基盤を有した主体的存在だった、とする女帝権力の再評価、血縁による世襲から血統による世襲への変遷という視点での王位継承変遷の再評価、王権と藤原氏の関係性に歴史的段階があったことを指摘した基本史料の再評価です。

 本書はまず、『日本書紀』と『藤氏家伝』に基づいて645年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)6月12日の乙巳の変(本書では6月12日~6月14日の一連の事件が乙巳の変とされています)について簡略に再構成し、乙巳の変の前提となる政治状況を史料批判に基づいて推測した後に、乙巳の変、さらにはその後の政治的変動(大化改新)を考察していきます。乙巳の変の前提となる政治状況でまず取り上げられるのは、中大兄皇子の皇位(大王位)継承資格ですが、本書は後漢への朝貢にまでさかのぼり、倭国(日本)における王権継承の変容を検証します。それに関して本書の見通しは、軍事と外交の能力を要求され、複数の系統から王が推戴されていた時代から、欽明「天皇(大王)」の即位を契機として世襲王権が成立した、というものです。本書は、王を輩出する複数の系統が存在する不安定な王位継承状況の克服が課題となっており、王を輩出してきた複数の系統を祖先に持つ欽明が、単一の王家を創出するに相応しかった、と推測します。これにより、世襲王権が成立した、というわけです。

 この世襲王権に依存・寄生する存在として誕生したのが蘇我氏で、蘇我氏が大王家に対抗し、王権簒奪を企てることはあり得なかった、と本書は指摘します。そのため、乙巳の変で擁立していた古人大兄に見放されると、蘇我本宗家はあっさり滅亡した、というわけです。世襲王権が成立しても、前代からの名残として、即位の条件で能力と一定以上の年齢世代が重視され、群臣が大王を選出しました。初の「女帝」とされる推古もそうした即位条件を満たしていましたが、本書は、推古が大后(大王位継承候補者を産んだか育てた実績がある大王の妻)として独自の政治・経済的基盤を有していたことも大きな要因だった、と指摘します。大后は同時に複数存在し得る地位で、それと似ていたのが、大王位継承者をある程度限定するため、母を同じくする王子たちの長子が称した大兄です。推古は、当初は厩戸皇子(聖徳太子)、後には田村皇子(舒明天皇)を指名することで、群臣に推戴される大王から王権が自立していった、と本書は評価します。推古と同様に大后としての実績と能力を評価されて即位したのが、中大兄の母である皇極でした。本書は、皇極は乙巳の変により強制退位となったのではなく、その後も権力を保持していた、と指摘します。

 次に本書は、藤原(中臣)氏と王権との関係について検証します。本書は、藤原氏の初代である鎌足が最晩年に天智により最上位貴族に列せられ、それが後の権勢の基礎になり、鎌足の息子の不比等(史)が蘇我氏の女性(娼子)と結婚したことにより、皇位継承者の外戚となり得る尊貴性を獲得した、と指摘します。不比等の娘の宮子が皇子を産み、この皇子が後に即位したことにより(聖武天皇)、藤原氏は特権的な地位を得ます。それが、『日本書紀』など奈良時代の文献に反映され、藤原(中臣)氏と王権との特別な関係が乙巳の変の頃にまで遡及させられている、と本書は指摘します。

 本書はこうした認識を踏まえて、乙巳の変と大化改新を改めて検証します。まず本書は、軽皇子(孝徳天皇)と鎌足の関係はきわめて強く、乙巳の変で蘇我本宗家打倒側に加担した有力者も、多くが中大兄よりも軽皇子の方と密接な関係にあった、と指摘します。旧版と同じく本書も、乙巳の変における軽皇子の役割を重視ます。軽皇子は、棚ぼたで乙巳の変後に即位したような存在感のない人物ではなく、首謀者だった、というわけです。逆に中大兄は、血統こそ有力な皇位(大王位)継承候補者だったものの、まだ若くてこの時点での即位の可能性はなく、乙巳の変において危険な役割を担っていることからも、その軍事的資質を評価され、いわば現場指揮官的な地位にあった、と本書は指摘します。

 乙巳の変の直接的契機としては、皇極がまだ有力な皇位継承候補者だった山背大兄の排除を蘇我入鹿に命じ、蘇我本宗家の支持が得られる古人大兄を後継者と決めたことで、自身の即位の可能性が消えることから軽皇子とその支持者が強硬手段をとった、と推測されています。さらに本書は、当時のアジア東部情勢の激変の中、生前譲位により権力の空白期間を圧縮することも重要な目標になった、と指摘します。一方で、乙巳の変の主因は皇位継承問題であり、明確な国政改革の見取り図が当初からあったわけではないだろう、とも推測されています。

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