レヴァントのイスラム教初期の被葬者のゲノムデータ
レヴァントのイスラム教初期の被葬者のゲノムデータを報告した研究(Srigyan et al., 2022)が公表されました。中東は人類史において比類なき存在です。現生人類(Homo sapiens)の出アフリカ移動およびネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との混合から、農耕の拡大と「文明」の出現まで、中東は何千年もの間、遺伝的および文化的歴史の交差点でした。考古学および歴史学の資料は社会・文化的側面への役に立つ洞察を提供しますが、古代DNAは過去の遺伝的情報の回収を可能とし、人口史の理解における重要な間隙を埋めます。
中東のさまざまな期間の多くの古代DNA研究は、この地域における遺伝的歴史の一般的な概要を提供してきました。これらの古代DNA研究には、新石器時代の最初のこの地域の農耕集団(関連記事)とそのヨーロッパへの拡大(関連記事)、および同時代の新石器時代集団間の遺伝的分化の説明が含まれます(関連記事1および関連記事2)。後者の銅器時代には、独特な文化的慣行および関連する人口移動の証拠が、とくにレヴァント南部におけるこの地域の動的な歴史を浮き彫りにします(関連記事1および関連記事2)。
さらに、レヴァントにおける青銅器時代から鉄器時代のゲノム研究も混合と人口移動を報告しており、現代の人口集団とのある程度の連続性が示唆されています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。より最近の時間尺度では、中世(関連記事)と現代の人口集団の研究が、遺伝的構造とこれらの構造の形成における文化および宗教の果たす役割を説明しています。とくに、以前に十字軍として特定されたレバノンの中世の個体群に関する研究(関連記事)は、その祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、ヨーロッパか、在来か、ヨーロッパ人と近東人との間の混合と論証しました。これらの兆候は現代のレバノン人集団では検出できず、一時的なものにすぎなかった、と示唆されます。これは、ヨーロッパから中東へのかなりの移動、在来人口集団との混合、最終的には経時的な「希釈」へと至る、十字軍のような歴史的な宗教的事象の証拠を提供しました。
現代レバノン人口集団の遺伝的分析から、過去千年におけるイスラム教のような宗教の拡大と関連する人口移動は、レヴァントにおける階層化につながった、と示唆されます。さらに南方では、現代のイエメンからのデータが他の中東集団と組み合わされ、遺伝的構造と地理との間にはほとんど相関が見つかりませんでした。したがって、中東における遺伝的多様性の分布が、複雑性の追加水準としての分化を伴う入り組んだ過程仮定の結果であることは明確です。
古代末期は3~8世紀の間と大まかに定義されており、アラブのイスラム教帝国の出現と関連する、文化と宗教の激変の時期でした。ビザンティンのシリア・パレスチナは、7世紀前半(630年代)にイスラム教アラブ人により征服された地域の事例を表します。この地域は、ダマスカスで661年にウマイヤ朝カリフが設立され、帝国の政治的中心地となりました。しかし、この地域のアラブ化とイスラム化は、アブドゥルマリク(Abd al-Malik)により率いられた7世紀の最後の10年まで完全には起きていませんでした。そのため、アラム人とビザンツ人とキリスト教徒の遺産は、何十年にもわたって新たなアラブのイスラム教支配および文化的価値観と相互作用しました。750年のカリフの崩壊と、イラクへの政治的中心地の移転は、シリア・パレスチナにおける政治的周縁化と経済的衰退を引き起こしました。したがって、ウマイヤ朝カリフの時期には、この地域は中東全域で起きた多くの政治的および宗教的変化を反映している可能性が高そうです。
古代DNA分析は、この動的な期間のゲノムの概要を提供する強力な手段で、レヴァントの現在戦いが続いており近づきにくい領域の、過去の人口統計学的過程への洞察を提供します。しかし、近東考古学の焦点の多くが葬儀遺骸に焦点を当ててきた一方で、イスラム教埋葬はほとんど調査されてきませんでした。それは、そうした研究が死者を害するか乱す、とみなされる可能性があるからです。本論文は、イスラム教墓地とは関係がないものの、イスラム教葬儀の指標で埋葬された、現代のシリアの先史時代の1ヶ所の遺跡で見つかったウマイヤ期の2個体の考古ゲノム分析を提示します。この2個体は、ほとんどの近隣のレヴァント集団ではなく、現代のベドウィンおよびサウジアラビア人の集団とのゲノム類似性が見つかりました。この2個体の遺骸は、シリア・アラブ共和国の古代と博物館の総局(DGAM)により収集・整理・公開されており、そのゲノム研究はこの地域の祖先系統と歴史を理解するための貴重な資料です。
●新石器時代遺跡の上にある2つの歴史的埋葬
この研究では、シリアのカラッサ(Qarassa)村の新石器時代遺跡である、テル・カラッサ北(Tell Qarassa North)で発掘された被葬者2個体のゲノム解析が実行されました(図1a)。テル・カラッサ北は通常、先史時代の遺跡として知られていますが、分析された2個体は遺跡表面層の狭い2基の墓地で見つかり、ウマイヤ期(7~8世紀)と直接的に年代測定されました(表1)。ヒト遺骸と関連する文化的遺物はなく、ウマイヤ期墓地の証拠はこの遺跡では記録されていませんでした。
ウマイヤ期の被葬者2個体(UEB)は、相互にひじょうに近くに位置していました。新石器時代の被葬者では身体が屈曲した姿勢で置かれていましたが、ウマイヤ期の被葬者は臥位で置かれており、その向きは東西で、西側に頭を向け、新石器時代層に嵌入した遺構内で顔を南に向けていました(図1b)。骨格要素の分布から、両個体の身体は埋葬前に包まれていた、と示唆されます。死亡時推定年齢は、男性個体syr005が14~15歳(図1b)、女性個体syr013が15~21歳頃です(表1)。死亡時年齢の推定は、歯の萌出パターン、長骨の先端の癒合、鎖骨の胸骨末端の閉鎖といった基準に基づいています。以下は本論文の図1です。
放射性炭素年代とともに、メッカに面する身体を包むことと位置と向きは、初期イスラム教埋葬に従うムスリムの葬儀と一致します。しかし、この2個体は伝統的なムスリム墓地に埋葬されていませんでした。これは、遊牧人口集団や巡礼者や逸脱した埋葬や疫病犠牲者など、死や文化的自己認識の特別な状況により説明できる可能性があります。死後24時間以内にムスリムの埋葬が行なわれるという要件により、いくつかの妥協が必要になったかもしれません。ムスリムの埋葬を定義する特徴の一つは、墓1基につき1個体だけの埋葬と知られており、夫婦は一緒に埋葬されず、家族墓が禁止されていることを意味します。それにも関わらず、たまに極端な状況では、この禁止は疫病もしくは戦争犠牲者のため緩和されることがあり得ます。また、syr005個体(較正年代で1294±18年前)とsyr013個体(較正年代で1302±15年前)の放射性炭素年代が近いことから、両個体は同じ時期に死亡した、と示唆されます。
●ゲノム配列決定と実地調査分析
このウマイヤ期の2個体(syr005とsyr013)の遺伝的独自性、およびその過去と同時代と現在の中東人口集団との関連性を調べ、現在研究が充分には行なわれていない紛争地域であるシリアの過去の遺伝的差異に光を当てるため、この2個体の錐体骨のショットガン配列が実行され、その深度網羅率はsyr005が0.16倍、syr013が6.15倍です(表1)。両個体の配列データは、死後損傷と内在性古代DNA分子から予測される断片化の特徴的パターンを示しました。ミトコンドリアと常染色体とX染色体の水準での汚染推定は、異なる4手法全てで低水準と確証されました(5%未満)。両個体の生物学的性別推定法により、syr005は男性、syr013は女性と特定されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、syr005がJ2a2a1a1、syr013がR0a2と決定されました。両者はアラビア半島と近東とアフリカの一部では一般的で、標本の広範な地理的位置と一致します。さらに、syr005のY染色体ハプログループ(YHg)はJと決定され、これは中東全域で最も一般的です。
現代の人口集団との遺伝的類似性の一般的パターンをさらに調べるため、主成分分析(PCA)が実行され、この新たに配列されたウマイヤ期の2個体(UEB)が、近東とヨーロッパ西部とアフリカ北部とサハラ砂漠以南のアフリカの古代人262個体とともに、現代の中東とアラビア半島とヨーロッパとアフリカ北部の人類集団の広範な一式に投影されました。UEBは中東とアラビア半島の現代人の遺伝的差異間に収まり、アラビア半島の方へと動いています。さらに、地域的差異をより深く理解するため、第二のPCAが実行され、中東とアラビア半島とコーカサスの現代人37集団に限定されました(図2)。UEBがあらゆる刊行された古代のレヴァントの個体群とクラスタ化しない(まとまらない)一方で、最も密接な古代人集団は青銅器時代カナン人および新石器時代と銅器時代と青銅器時代のレヴァントの集団でした。現代の人口集団では、UEBはアラビア半島に起源があるか居住していると知られている集団間に位置し、つまりサウジアラビア人とイエメンのユダヤ人とベドウィンAおよびBでした。したがって全体的に、syr005個体とsyr013個体(UEB)は、ベドウィンの2集団間に位置し、他のレヴァントの現代人とは明確な遺伝的区別を示します。以下は本論文の図2です。
古代と現代の人口集団の遺伝的構成への洞察を得るため、ヨーロッパと中東の1321個体一式(合計で現代は73、古代は28人口集団)で、教師なしADMIXTURE分析が実行されました(図3)。K(系統構成要素数)=2・4・5・6については、異なる無作為初期値での全ての反復は一貫した結果に収束しました。したがって、K=6が解像度と結果の堅牢性との間の妥協とみなされます。K=4では、新たな構成要素がおもに先史時代のレヴァント集団で現れます。つまり、ナトゥーフィアン(Natufian)と新石器時代レヴァントおよびアナトリア半島と銅器時代レヴァントの集団と、後期青銅器時代のカナン人とUEBです。これはアラビア半島・中東の現代人集団全体でも中程度の割合で見られ、一部のヨーロッパ集団ではより低い割合で見られます。K=5では、この構成要素は二分割され、一方は古代レヴァント集団に排他的に現れますが(K=4のように)、UEBでは少量で、ベドウィンBで最大化される第二の構成要素の高い値を示した中東・アラビア半島の現代の人口集団では存在しませんでした。K=6では、別の構成要素がベドウィンBで現れ、サウジアラビア人やベドウィンAやイエメンのユダヤ人のような集団と中東の人口集団で、それぞれ高い割合から中程度の割合で存在しました。UEBはK=5で見られる新石器時代レヴァントの少量の構成要素とともに、この構成要素も高い割合で有しています。以下は本論文の図3です。
PCAとADMIXTURE分析により示唆されるような、UEB標本と現代のベドウィンやサウジアラビア人やイエメンのユダヤ人との間の人口集団の類似性についての解像度を高めるため、外群f3統計(シリア人、検証集団;ムブティ人)が実行されました。その結果、ベドウィンBおよびサウジアラビア人と共有される高い遺伝的浮動が観察されましたが(図4)、別の形式の外群f3統計(検証集団X、UEB;ムブティ人)の類似の値を考えると、どの現代人集団が最高の類似性を有するのか確証するには、さらなる分析が必要でした。以下は本論文の図4です。
syr013個体の中程度の網羅率データを完全に利用するため、古代DNAに設計された遺伝子型決定ソフトを用いて二倍体遺伝子型が呼び出されました。他の古代の個体群で利用可能な疑似半数体データと比較して、これらの二倍体遺伝子型ではsyr013個体と現代の人口集団との間の関係のより詳細な規模の分析が可能となります。Beagle4.1版を用いて、syr013個体と現代の人口集団との間の同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)の領域の共有が分析されました。IBDとは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示しており、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。他の結果と一致して、IBD領域の最大数と全長は、ヒト起源2.0データセットにおける複数のベドウィンB個体群およびサウジアラビア人1個体と共有されていました(図5a)。これは、UEBとレヴァントの遊牧民との間、およびアラビア半島とのつながりを確証します。以下は本論文の図5です。
次にさまざまなシナリオが検証され、配列されたUEB標本と現代の地域人口集団との間で最も可能性が高い人口集団類似性が調べられました。D統計(UEB、A;検証集団X、ムブティ人)が実行され、UEBとAで構成される集団との関連で、あるいは、AとXとの間もしくはUEBとXとの間で共有される過剰なアレル(対立遺伝子)があるならば、Xが外群なのかどうか、検証されました。ベドウィンBとサウジアラビア人を集団AおよびXの候補として検証すると、この接続形態を用いてデータと一貫する人口集団形状はない、と分かりました。サウジアラビア人とUEBとの間で共有される過剰なアレルのため、ベドウィンBはサウジアラビア人を除外してUEBの姉妹集団として却下されましたが、サウジアラビア人はUEBとベドウィンBとの間で共有される過剰なアレルのため、姉妹集団として却下されました。UEBをサウジアラビア人とベドウィンBの外群として検証すると、UEBが自身の集団を形成し、本論文の参照データではどの現代の人口集団とも直接的には合致しないと確証するデータと一致するシナリオである、と明らかになりました。
●UEBのゲノム祖先系統のモデル化
遺伝学的観点からは、現在のレヴァントの人口集団は、さまざまな先史時代人口集団に由来するさまざまな割合で構成される遺伝的祖先系統の連続体に収まります。最近の研究は、レヴァントとアラビア半島のゲノム史における違いを示唆します。レヴァントにおいては、古代のレヴァント人とイラン人とユーラシア東部狩猟採集民の割合がより高く、アラビア半島では過剰なアフリカ祖先系統があります(関連記事)。レヴァント自体の中では、シリア人やパレスチナ人やヨルダン人などの集団も、近隣人口集団と比較してより高いアフリカ祖先系統を有する、と示唆されてきました。これら異なる祖先系統をより詳しく理解するため、qpAdmを用いて、UEBおよび関連する現代と歴史時代のレヴァント人口集団についてのさまざまなシナリオが調べられました。
可能性がある祖先系統の供給源として、新石器時代レヴァント、新石器時代イラン、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)、エチオピアのモタ洞窟(Mota Cave)の4500年前頃の1個体(関連記事)でほぼ表されるアフリカ東部古代人が用いられました。分析の結果、ほとんどの古代人集団はこれら4供給源全てを必要とはしないものの、そのうちいくつかは常に、レヴァント新石器時代(N)とイランNとWHGもしくはモタ個体の混合としてモデル化できます。例外はアシュケロン(Ashkelon)の後期青銅器時代個体群で、イランNなしでモデル化できます(関連記事)。
UEBはレヴァントN(61±6%)とイランN(39±6%)の2方向混合としてか、WHGからのわずかな祖先系統寄与(6±4%)も伴うものの、供給源としてモタ個体で機能するモデルはありません。興味深いことに、ベドウィンBとサウジアラビア人とイエメンのユダヤ人は4供給源全てでモデル化できます。つまり、それぞれレヴァントN(56.8±2.7%、55.1±2.8%、57.9±2.7%)とイランN(34.3±4.3%、37.6±4.4%、33.2±4.4%)、WHG(2.7±1.6%、3.2±1.7%、3.6±1.7%)とモタ個体(6.2±0.9%、4.1±0.9%、5.3±0.9%)で、レヴァントNとイランNとモタ個体からのみの場合もあります。さらに、現代レバノンのほとんどの人口集団は、キリスト教徒とキプロス島人を除いて、4供給源全ての混合として示すことができます(図6)。以下は本論文の図6です。
したがって、ベドウィンBとサウジアラビア人がUEBと最も近い現代の人口集団のように見える、という他の分析からの兆候にも関わらず、これら現代人集団は合致モデルにアフリカ東部祖先系統を必要としたので、qpAdmのわずかに異なる結果が得られました。UEBは、その最も近縁な現代の人口集団とは対照的にアフリカ関連祖先系統が欠如しており、これはD統計の結果が(UEBをサウジアラビア人とベドウィンBへの外群として位置づけます)原因かもしれず、さまざまなシナリオにより説明できます。たとえば、新石器時代レヴァント人の祖先背景は、アフリカ関連祖先系統の導入により「希釈」されたかもしれません。つまり、それがUEBの後で起きたわけです。
これは、ずっと早期の他の歴史時代のレヴァントの個体群がどれも、祖先供給源としてモタ個体と合致するモデルを生成するように見えない、という観察も説明できるかもしれません。じっさい、アフリカ関連祖先系統でうまくモデル化できた古代の個体群は、新石器時代のモロッコ人だけです(関連記事)。この説明と一致して、UEBをすでに刊行された時間的により近いレヴァントの個体群とモタ個体の2方向混合としてモデル化しようと試みると、全てのモデルでモタ個体関連祖先系統の高い標準誤差が得られ、刊行されたレヴァントの個体群からのわずか数点の成功した単一供給源モデルが見つかりました。さらに、現代のレヴァント人口集団をUEBとモタ個体の混合としてモデル化しようと試みると、全ての人口集団がUEBからの多量の祖先系統(80~99%)とモタ個体からのさまざまな寄与(0.1~20%)を必要としました。
UEBが、アラビア半島からレヴァントへとイスラム教初期に移住してきて、経時的に近隣人口集団との混合を妨げ、本論文のデータで観察されたひじょうに浮動的な人口集団が生まれたという、強い文化的障壁を経た集団の代表である可能性もあります。これは、遺伝的に類似した遺伝子型のネゲヴのベドウィンがアラビア半島からネゲヴおよびシナイ地域へと700年頃、つまりイスラム教拡大の直後に移住した、という事実と一致します。しかし、大規模な移住と宗教・文化の層序化についての決定的な推論には、人口集団水準の遺伝学および考古学的データが必要です。それはとくに、アラビア半島関連祖先系統がUEBのずっと前にレヴァントに存在していたからです。
歴史時代のUEBはゲノムデータが最小量の人口集団で、UEBにおける正確な推定もしくはヨーロッパかアフリカの祖先系統の完全な却下を制約しているので、祖先系統の推定に影響を及ぼしていることに注目すべきです。しかし、あらゆるアフリカ祖先系統の存在を完全に否定できないとしても、全ての分析は一貫して、UEBにおけるアフリカ祖先系統の低水準を示唆します。歴史時代のUEBの解像度低下により、この段階でのより信頼できる推定が妨げられますが、本論文で観察された遺伝的違いは、人口構造の最近の歴史の影響と同様に、わずかに異なる軌跡、およびサウジアラビア人やベドウィンと比較しての長期の他集団との接触を示唆している可能性があります。類似の結果は、損傷部位に限定されたUEBからのデータで繰り返されたモデルでも得られました。
●UEBにおける低い遺伝的多様性
UEBの遺伝的多様性への洞察を得るため、条件付きヌクレオチド多様性(CND)が0.205±0.003と推定されました。本論文の参照対象における全ての現代の中東人口集団と比較すると、syr005個体とsyr013個体は最低水準の遺伝的多様性を示しました。比較のため、アンダマン諸島の先住狩猟採集民で、小さな人口規模と長期の孤立のため遺伝的多様性がきょくたんに低いと知られているオンゲ人を含めた結果、syr005個体とsyr013個体よりもCND値が低い、と示されました。しかし、古代と現代の人口集団間の比較と、配列と一塩基多型(SNP)チップデータがいくらかの偏りを受けるかもしれないことに注意すべきです。
syr005個体とsyr013個体との間の低い遺伝的違いにも関わらず、無関係な個体の組み合わせで予測されるように、個体間距離は個体内距離のほぼ2倍なので、両個体が親族である証拠は見られません。遺伝的多様性の低さは、小さな人口規模および/もしくは個体間の近親交配の結果かもしれないので、近親交配の程度を判断するためにROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)が分析されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。
syr013個体では、他の中東人口集団と比較して、ROH断片の数の多さと累積長が観察されます(図5b)。CNDの結果と一致してこれから示唆されるのは、syr013個体が、小さく、および/もしくは近親交配の人口集団の一部だった、ということです。この結果が欠失部位によりかなり大幅に影響を受けないよう確実にするため、syr013個体で網羅されている部位に限定してSGDP(サイモンズゲノム多様性計画)で分析が実行され、類似のパターンが明らかになりました。これらの調査結果も、レヴァントの遊牧民で見られるものと類似の社会構造を示唆しており、部族もしくは氏族構造の集団への個人の帰属は、親族関係、外部の部族との婚姻への強い障壁とその結果としての低い遺伝的多様性、小さな人口規模、潜性(劣性)疾患の高い発生率と関連しています。
●UEBの表現型への洞察
ウマイヤ期シリアのラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)の可能性を調べるため、LPと関連すると知られている5ヶ所のSNPが検証されました。本論文で分析された5ヶ所のSNPは全て、MCM6遺伝子のイントロンでラクターゼをエンコードするLCT遺伝子の下流に位置し、MCM6遺伝子は、LCT転写の転写促進因子として機能します。具体的には、13910C/T、13915T/G、14010G/C、13907C/G、稀な多様体である14107G/Aです。LPは常染色体の顕性(優性)形質と知られているので、単一の派生アレル(対立遺伝子)の存在は、乳の消化に充分です。
興味深いことに、標本syr013の9点の読み取りは、SNPの13915T/Gにマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)されると分かり、そのうち5点は派生的アレルで、4点は祖先的アレルなので、syr013個体は異型接合で乳糖(ラクトース)耐性だった、と示唆されます。6000年以上前の家畜化から始まったこの地域におけるラクダの群の長い歴史にも関わらず、異型接合であるsyr013個体はゲノムデータではこの多様体の最初の観察を示します。
LPは、syr005標本では対象部位を網羅する読み取りがなかったので、検証できませんでした。それにも関わらず、この調査結果は再度、アラビア半島とのつながりを描き出します。それは、この多様体が現代アラブの人口集団(頻度は72~88%)や、乳消費でアラビア半島のラクダ(ヒトコブラクダ)に伝統的に依存してきて、高水準のLP表現型(ベドウィンでは75%超)を示す牧畜民では一般的だからです。アラブ人で頻繁に見られる、家族性高コレステロール血症やグルコース-6-リン酸脱水素酵素欠損症や鎌状赤血球貧血やバルデービードル症候群など、他の常染色体の顕性もしくは潜性状態も検証されましたが、病原性アレルはsyr013個体では見つかりませんでした。
●UEBの食性
錐体骨から抽出されたコラーゲン標本による安定同位体分析を用いて、UEBにおける食性消費パターンの推定が試みられました。UEBについての大量安定同位体データは、動物性タンパク質摂取が多いC3陸上食性で典型的です(それぞれ、炭素13が−18.5‰と−19.2‰、窒素15が+11.5‰と+13.1‰)。乾燥した場所や肥料を用いる慣行の場所からの食物消費も、高い窒素値を説明する可能性があります。その期間の比較動物相もしくはヒトのデータがなければ、これらの影響の程度の確認は困難です。
本論文のデータが歴史時代と原初歴史時代からの安定同位体の地域的データセット(レバノンやエルサレムやヨルダン北部やシリア)で文脈化され、前期および後期ローマ期、パルティア、ビザンツ、中世、いくつかの現代のデータが含まれます。さらに、このデータが13~19世紀のヨルダンのベドウィンの墓から得られたデータと比較されました。地域的なデータセットは、本論文で分析されたUEBの両個体について類似の炭素13値を示すものの、エルサレムの聖スティーブン教会個体を除いて一般的に窒素15値は低く(6.8~9.5%)、例外はレバノンで発掘されたヨーロッパ祖先系統を有する中世の個体です(窒素15が11.3‰)。この個体はヨーロッパ出身で、中東の個体とは(埋葬される前には)異なる食性だったかもしれません。聖スティーブン教会修道院の個体は、他のデータセットの窒素15値よりも高い値を示す傾向にあります(7.3~12.6%、68個体のうち6個体は11.5%以上)。この遺跡の高い窒素15値は、動物性タンパク質消費に起因していました。
ベドウィンのデータセットは、UEBの両個体に対して同等(およびより高い)窒素15値比を示しますが(10~17.3%)、炭素13値は少なくなっています。ベドウィンの高い窒素15値は、血液や乳(製品)や肉を含む「かなりの量の動物性タンパク質」に起因し、高い炭素13値の比率は、おもにC4もしくはC4-C3生態系の生息と資源開発に起因します。高い窒素15値が水産資源の摂取に影響を受けたのかどうか調べるため、化合物特異的アミノ酸および炭素同位体値が得られました。UEBの両個体では、炭素13グリシンと炭素13フェニルアラニンの値は10~13‰、炭素13バリンと炭素13フェニルアラニンの値は約0~1%、炭素13ロイシンと炭素13フェニルアラニンの値は負です。これらの値は、水産資源の顕著な摂取なしの陸生食性と一致します。テル・カラッサの両個体(syr005個体とsyr013個体)の同位体値は、高水準の動物性タンパク質消費(つまり、ベドウィンのデータセットのような牧畜食料獲得)の食性として最良に説明できるものの、ほぼ排他的に(他の地域的データセットのように)C3生態系から得られた、と結論づけられます。
本論文で議論された安定同位体データの大半は、皮層の長骨と肋骨から抽出されたコラーゲン標本で測定され、例外は、大臼歯から標本抽出された4標本と、この研究のように錐体骨から得られたデータです。以前の研究では、錐体骨の同位体兆候は子供期の食性を反映している、と主張され、肋骨や大腿骨の標本と比較して錐体骨では、炭素13値がわずかに低く(0.3%未満)、窒素15値がわずかに高い(0.8%未満)と報告されています(人口集団水準では)。この相殺が本論文のデータセットに適用される場合でも、これらの違いはテル・カラッサの両個体の食性解釈に影響しないでしょう。
この食性解釈は、個体のベドウィンの祖先系統構成要素およびsyr013個体のLP多様体の存在と興味深いことに一致します。古代イスラム教個体群の食性の安定同位体研究はイベリア半島(およびバレアレス諸島)で調べられてきましたが、他の場所ではさほど広範ではありません。以前の研究では、一部のよく知られた文化的違い(イスラム教における豚肉の禁止やキリスト教における断食や魚食)にも関わらず、ムスリムの食性が同時代のキリスト教徒と区別される明確な同位体兆候を有している、という強い証拠はない、と結論づけられました。その研究では、そうした区別を調べるにはさらなる研究が必要で、ウマイヤ期における食性安定同位体の知識を拡大するには、中東でさらなる研究が必要になる、と強調しています。
●病原体のメタゲノム選別
UEBの両個体(syr005個体とsyr013個体)が伝統的なムスリム墓地に埋葬されなかったことについてあり得る説明は、両個体が疫病犠牲者を表しているかもしれない、というものです。いくつかの考古ゲノム研究は、考古学的遺骸から抽出されたDNAでさまざまな病原体配列の識別に成功しました。本論文は、さまざまな既知の病原体からのDNAについて、この研究の配列を選別し、syr005個体で感染症の原因となり得るさまざまな真正細菌種の痕跡の可能性を見つけました。配列の数が限られているので、これらの調査結果を明確には証明できず、複雑な感染がUEB両個体の死に関わったのかどうかを実証するには、追加の研究が必要でしょう。
●まとめ
古代DNAの方法論と分子技術の継続的な開発と改善は一貫して、古代DNA回収の時空間的限界を押し上げ(関連記事1および関連記事2)、より古い期間とDNAの保存に不利な環境(たとえば高温湿潤)を探求してきました。中東とアラビア半島は人類史の時系列で重要な地域であり、ますます多くの古代DNA研究がその遺伝的歴史を理解しようと試みてきました。中東はDNAの保存条件が悪いことを考えると、成功した研究はありますが、この過程は世界のより環境的に古代DNA研究に好適な地域よりも遅い、と証明されつつあります。それにも関わらず、その歴史的重要性を考えると、新しく回収された各DNA配列は、現在立ち入り困難な戦争で被災した地域のゲノムおよび文化の難問に重要な断片を追加します。
先史時代の遺跡の上に埋葬されたウマイヤ期の2個体は、ヒト起源2.0データセットでは、イスラエルのネゲヴ砂漠の現代のベドウィンの下位集団(ベドウィンB)や、アラビア半島のサウジアラビア人と遺伝的に密接だった(ものの同一ではない)個体を表している、と本論文は、は推定できました。いくつかの供給源は、テル・カラッサ(Tell Qarassa)地域を占拠し、および/もしくはアラビア半島からシリアへとウマイヤ期に移住した、歴史時代の遊牧民集団の存在を記録しています。しかし、この期間の同時代の遺伝的データの欠如は、そうした集団間のより詳細な下部構造についての解像度を制約します。さらに、ゲノム手法は個体の祖先系統を分析し、過去の人口統計学と人口動態を推定する強力な手段ですが、遺伝的データセットは、地域および文化および/もしくは考古学的帰属を遺伝子型決定された個体に用いることがよくあります。したがって、UEBはいくつかの遊牧民集団と遺伝的に類似しているものの、その正確な文化的帰属の決定は、ゲノム分析では答えられない問題です。
考古学的文脈は、その埋葬慣行に関してわずかにより多くの情報をもたらす、と証明されています。つまり、キリスト教が主流の地域におけるおそらくは初期のイスラム教支持者だっただろう個体群を示しているように見える、メッカへの向き、独立した墓、遺骸を包むことです。テル・カラッサの墓は伝統的なムスリムの状況を表していません。つまり、利用可能な証拠からは、伝統的なムスリム墓地はこの期間の恒久的居住地の近くに位置していなかったようです。これは、UEB両個体(syr005個体とsyr013個体)がこの地域では短期滞在のムスリムだった可能性を示唆します。骨への外傷の欠如と若い年齢から、UEB両個体は病死し、それはおそらく中東を541~749年に周期的に荒らしたユスティニアヌス疫病だった、と示唆されます。具体的には、UEB両個体の年代は、アズ・スユティ(as-Suyuṭī)によりシリアで報告されている、イスラム暦79年(698年)の疫病発生と関連しているかもしれません。しかし、病原体の決定的証拠は見つからず、UEB両個体の正確な死因の特定は困難なままです。
7世紀後半もしくは8世紀初頭にテル・カラッサに埋葬された2個体(syr005個体とsyr013個体)のゲノム祖先系統から、シリアにおける初期イスラム教社会を垣間見ることができます。この研究は、ムスリム集団による先史時代埋葬遺跡の再利用の可能性へのさらなる洞察を提供します。一般的水準では、この埋葬は、遠隔地でも続いた特定のイスラム教埋葬儀式の、初期採用の追加の兆候を提供します。現時点では、この期間と関連するこの地域の遺伝学的研究の事例はなく、初期イスラム教埋葬と関連する唯一の遺伝的データは、フランス南部の2個体の研究です。本論文の結果は、シリアの地方におけるムスリムのアラブ人の初期の存在を示唆します。この地域のさまざま集団からの広範な追加の標本抽出が、その現在の遺伝的構造の理解と、集団遺伝学と臨床研究にとって意味があるかもしれない、相対的に遺伝的には孤立した人口集団の特定の可能性には重要です。中東は、複雑な歴史と多様な民族および遺伝的構成のある地域ですが、過去と現在の遺伝的構造に関する現在の理解は、表面を引っ掻いただけのようです。
参考文献:
Srigyan M. et al.(2022): Bioarchaeological evidence of one of the earliest Islamic burials in the Levants. Communications Biology, 5, 554.
https://doi.org/10.1038/s42003-022-03508-4
中東のさまざまな期間の多くの古代DNA研究は、この地域における遺伝的歴史の一般的な概要を提供してきました。これらの古代DNA研究には、新石器時代の最初のこの地域の農耕集団(関連記事)とそのヨーロッパへの拡大(関連記事)、および同時代の新石器時代集団間の遺伝的分化の説明が含まれます(関連記事1および関連記事2)。後者の銅器時代には、独特な文化的慣行および関連する人口移動の証拠が、とくにレヴァント南部におけるこの地域の動的な歴史を浮き彫りにします(関連記事1および関連記事2)。
さらに、レヴァントにおける青銅器時代から鉄器時代のゲノム研究も混合と人口移動を報告しており、現代の人口集団とのある程度の連続性が示唆されています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。より最近の時間尺度では、中世(関連記事)と現代の人口集団の研究が、遺伝的構造とこれらの構造の形成における文化および宗教の果たす役割を説明しています。とくに、以前に十字軍として特定されたレバノンの中世の個体群に関する研究(関連記事)は、その祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、ヨーロッパか、在来か、ヨーロッパ人と近東人との間の混合と論証しました。これらの兆候は現代のレバノン人集団では検出できず、一時的なものにすぎなかった、と示唆されます。これは、ヨーロッパから中東へのかなりの移動、在来人口集団との混合、最終的には経時的な「希釈」へと至る、十字軍のような歴史的な宗教的事象の証拠を提供しました。
現代レバノン人口集団の遺伝的分析から、過去千年におけるイスラム教のような宗教の拡大と関連する人口移動は、レヴァントにおける階層化につながった、と示唆されます。さらに南方では、現代のイエメンからのデータが他の中東集団と組み合わされ、遺伝的構造と地理との間にはほとんど相関が見つかりませんでした。したがって、中東における遺伝的多様性の分布が、複雑性の追加水準としての分化を伴う入り組んだ過程仮定の結果であることは明確です。
古代末期は3~8世紀の間と大まかに定義されており、アラブのイスラム教帝国の出現と関連する、文化と宗教の激変の時期でした。ビザンティンのシリア・パレスチナは、7世紀前半(630年代)にイスラム教アラブ人により征服された地域の事例を表します。この地域は、ダマスカスで661年にウマイヤ朝カリフが設立され、帝国の政治的中心地となりました。しかし、この地域のアラブ化とイスラム化は、アブドゥルマリク(Abd al-Malik)により率いられた7世紀の最後の10年まで完全には起きていませんでした。そのため、アラム人とビザンツ人とキリスト教徒の遺産は、何十年にもわたって新たなアラブのイスラム教支配および文化的価値観と相互作用しました。750年のカリフの崩壊と、イラクへの政治的中心地の移転は、シリア・パレスチナにおける政治的周縁化と経済的衰退を引き起こしました。したがって、ウマイヤ朝カリフの時期には、この地域は中東全域で起きた多くの政治的および宗教的変化を反映している可能性が高そうです。
古代DNA分析は、この動的な期間のゲノムの概要を提供する強力な手段で、レヴァントの現在戦いが続いており近づきにくい領域の、過去の人口統計学的過程への洞察を提供します。しかし、近東考古学の焦点の多くが葬儀遺骸に焦点を当ててきた一方で、イスラム教埋葬はほとんど調査されてきませんでした。それは、そうした研究が死者を害するか乱す、とみなされる可能性があるからです。本論文は、イスラム教墓地とは関係がないものの、イスラム教葬儀の指標で埋葬された、現代のシリアの先史時代の1ヶ所の遺跡で見つかったウマイヤ期の2個体の考古ゲノム分析を提示します。この2個体は、ほとんどの近隣のレヴァント集団ではなく、現代のベドウィンおよびサウジアラビア人の集団とのゲノム類似性が見つかりました。この2個体の遺骸は、シリア・アラブ共和国の古代と博物館の総局(DGAM)により収集・整理・公開されており、そのゲノム研究はこの地域の祖先系統と歴史を理解するための貴重な資料です。
●新石器時代遺跡の上にある2つの歴史的埋葬
この研究では、シリアのカラッサ(Qarassa)村の新石器時代遺跡である、テル・カラッサ北(Tell Qarassa North)で発掘された被葬者2個体のゲノム解析が実行されました(図1a)。テル・カラッサ北は通常、先史時代の遺跡として知られていますが、分析された2個体は遺跡表面層の狭い2基の墓地で見つかり、ウマイヤ期(7~8世紀)と直接的に年代測定されました(表1)。ヒト遺骸と関連する文化的遺物はなく、ウマイヤ期墓地の証拠はこの遺跡では記録されていませんでした。
ウマイヤ期の被葬者2個体(UEB)は、相互にひじょうに近くに位置していました。新石器時代の被葬者では身体が屈曲した姿勢で置かれていましたが、ウマイヤ期の被葬者は臥位で置かれており、その向きは東西で、西側に頭を向け、新石器時代層に嵌入した遺構内で顔を南に向けていました(図1b)。骨格要素の分布から、両個体の身体は埋葬前に包まれていた、と示唆されます。死亡時推定年齢は、男性個体syr005が14~15歳(図1b)、女性個体syr013が15~21歳頃です(表1)。死亡時年齢の推定は、歯の萌出パターン、長骨の先端の癒合、鎖骨の胸骨末端の閉鎖といった基準に基づいています。以下は本論文の図1です。
放射性炭素年代とともに、メッカに面する身体を包むことと位置と向きは、初期イスラム教埋葬に従うムスリムの葬儀と一致します。しかし、この2個体は伝統的なムスリム墓地に埋葬されていませんでした。これは、遊牧人口集団や巡礼者や逸脱した埋葬や疫病犠牲者など、死や文化的自己認識の特別な状況により説明できる可能性があります。死後24時間以内にムスリムの埋葬が行なわれるという要件により、いくつかの妥協が必要になったかもしれません。ムスリムの埋葬を定義する特徴の一つは、墓1基につき1個体だけの埋葬と知られており、夫婦は一緒に埋葬されず、家族墓が禁止されていることを意味します。それにも関わらず、たまに極端な状況では、この禁止は疫病もしくは戦争犠牲者のため緩和されることがあり得ます。また、syr005個体(較正年代で1294±18年前)とsyr013個体(較正年代で1302±15年前)の放射性炭素年代が近いことから、両個体は同じ時期に死亡した、と示唆されます。
●ゲノム配列決定と実地調査分析
このウマイヤ期の2個体(syr005とsyr013)の遺伝的独自性、およびその過去と同時代と現在の中東人口集団との関連性を調べ、現在研究が充分には行なわれていない紛争地域であるシリアの過去の遺伝的差異に光を当てるため、この2個体の錐体骨のショットガン配列が実行され、その深度網羅率はsyr005が0.16倍、syr013が6.15倍です(表1)。両個体の配列データは、死後損傷と内在性古代DNA分子から予測される断片化の特徴的パターンを示しました。ミトコンドリアと常染色体とX染色体の水準での汚染推定は、異なる4手法全てで低水準と確証されました(5%未満)。両個体の生物学的性別推定法により、syr005は男性、syr013は女性と特定されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、syr005がJ2a2a1a1、syr013がR0a2と決定されました。両者はアラビア半島と近東とアフリカの一部では一般的で、標本の広範な地理的位置と一致します。さらに、syr005のY染色体ハプログループ(YHg)はJと決定され、これは中東全域で最も一般的です。
現代の人口集団との遺伝的類似性の一般的パターンをさらに調べるため、主成分分析(PCA)が実行され、この新たに配列されたウマイヤ期の2個体(UEB)が、近東とヨーロッパ西部とアフリカ北部とサハラ砂漠以南のアフリカの古代人262個体とともに、現代の中東とアラビア半島とヨーロッパとアフリカ北部の人類集団の広範な一式に投影されました。UEBは中東とアラビア半島の現代人の遺伝的差異間に収まり、アラビア半島の方へと動いています。さらに、地域的差異をより深く理解するため、第二のPCAが実行され、中東とアラビア半島とコーカサスの現代人37集団に限定されました(図2)。UEBがあらゆる刊行された古代のレヴァントの個体群とクラスタ化しない(まとまらない)一方で、最も密接な古代人集団は青銅器時代カナン人および新石器時代と銅器時代と青銅器時代のレヴァントの集団でした。現代の人口集団では、UEBはアラビア半島に起源があるか居住していると知られている集団間に位置し、つまりサウジアラビア人とイエメンのユダヤ人とベドウィンAおよびBでした。したがって全体的に、syr005個体とsyr013個体(UEB)は、ベドウィンの2集団間に位置し、他のレヴァントの現代人とは明確な遺伝的区別を示します。以下は本論文の図2です。
古代と現代の人口集団の遺伝的構成への洞察を得るため、ヨーロッパと中東の1321個体一式(合計で現代は73、古代は28人口集団)で、教師なしADMIXTURE分析が実行されました(図3)。K(系統構成要素数)=2・4・5・6については、異なる無作為初期値での全ての反復は一貫した結果に収束しました。したがって、K=6が解像度と結果の堅牢性との間の妥協とみなされます。K=4では、新たな構成要素がおもに先史時代のレヴァント集団で現れます。つまり、ナトゥーフィアン(Natufian)と新石器時代レヴァントおよびアナトリア半島と銅器時代レヴァントの集団と、後期青銅器時代のカナン人とUEBです。これはアラビア半島・中東の現代人集団全体でも中程度の割合で見られ、一部のヨーロッパ集団ではより低い割合で見られます。K=5では、この構成要素は二分割され、一方は古代レヴァント集団に排他的に現れますが(K=4のように)、UEBでは少量で、ベドウィンBで最大化される第二の構成要素の高い値を示した中東・アラビア半島の現代の人口集団では存在しませんでした。K=6では、別の構成要素がベドウィンBで現れ、サウジアラビア人やベドウィンAやイエメンのユダヤ人のような集団と中東の人口集団で、それぞれ高い割合から中程度の割合で存在しました。UEBはK=5で見られる新石器時代レヴァントの少量の構成要素とともに、この構成要素も高い割合で有しています。以下は本論文の図3です。
PCAとADMIXTURE分析により示唆されるような、UEB標本と現代のベドウィンやサウジアラビア人やイエメンのユダヤ人との間の人口集団の類似性についての解像度を高めるため、外群f3統計(シリア人、検証集団;ムブティ人)が実行されました。その結果、ベドウィンBおよびサウジアラビア人と共有される高い遺伝的浮動が観察されましたが(図4)、別の形式の外群f3統計(検証集団X、UEB;ムブティ人)の類似の値を考えると、どの現代人集団が最高の類似性を有するのか確証するには、さらなる分析が必要でした。以下は本論文の図4です。
syr013個体の中程度の網羅率データを完全に利用するため、古代DNAに設計された遺伝子型決定ソフトを用いて二倍体遺伝子型が呼び出されました。他の古代の個体群で利用可能な疑似半数体データと比較して、これらの二倍体遺伝子型ではsyr013個体と現代の人口集団との間の関係のより詳細な規模の分析が可能となります。Beagle4.1版を用いて、syr013個体と現代の人口集団との間の同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)の領域の共有が分析されました。IBDとは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示しており、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。他の結果と一致して、IBD領域の最大数と全長は、ヒト起源2.0データセットにおける複数のベドウィンB個体群およびサウジアラビア人1個体と共有されていました(図5a)。これは、UEBとレヴァントの遊牧民との間、およびアラビア半島とのつながりを確証します。以下は本論文の図5です。
次にさまざまなシナリオが検証され、配列されたUEB標本と現代の地域人口集団との間で最も可能性が高い人口集団類似性が調べられました。D統計(UEB、A;検証集団X、ムブティ人)が実行され、UEBとAで構成される集団との関連で、あるいは、AとXとの間もしくはUEBとXとの間で共有される過剰なアレル(対立遺伝子)があるならば、Xが外群なのかどうか、検証されました。ベドウィンBとサウジアラビア人を集団AおよびXの候補として検証すると、この接続形態を用いてデータと一貫する人口集団形状はない、と分かりました。サウジアラビア人とUEBとの間で共有される過剰なアレルのため、ベドウィンBはサウジアラビア人を除外してUEBの姉妹集団として却下されましたが、サウジアラビア人はUEBとベドウィンBとの間で共有される過剰なアレルのため、姉妹集団として却下されました。UEBをサウジアラビア人とベドウィンBの外群として検証すると、UEBが自身の集団を形成し、本論文の参照データではどの現代の人口集団とも直接的には合致しないと確証するデータと一致するシナリオである、と明らかになりました。
●UEBのゲノム祖先系統のモデル化
遺伝学的観点からは、現在のレヴァントの人口集団は、さまざまな先史時代人口集団に由来するさまざまな割合で構成される遺伝的祖先系統の連続体に収まります。最近の研究は、レヴァントとアラビア半島のゲノム史における違いを示唆します。レヴァントにおいては、古代のレヴァント人とイラン人とユーラシア東部狩猟採集民の割合がより高く、アラビア半島では過剰なアフリカ祖先系統があります(関連記事)。レヴァント自体の中では、シリア人やパレスチナ人やヨルダン人などの集団も、近隣人口集団と比較してより高いアフリカ祖先系統を有する、と示唆されてきました。これら異なる祖先系統をより詳しく理解するため、qpAdmを用いて、UEBおよび関連する現代と歴史時代のレヴァント人口集団についてのさまざまなシナリオが調べられました。
可能性がある祖先系統の供給源として、新石器時代レヴァント、新石器時代イラン、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)、エチオピアのモタ洞窟(Mota Cave)の4500年前頃の1個体(関連記事)でほぼ表されるアフリカ東部古代人が用いられました。分析の結果、ほとんどの古代人集団はこれら4供給源全てを必要とはしないものの、そのうちいくつかは常に、レヴァント新石器時代(N)とイランNとWHGもしくはモタ個体の混合としてモデル化できます。例外はアシュケロン(Ashkelon)の後期青銅器時代個体群で、イランNなしでモデル化できます(関連記事)。
UEBはレヴァントN(61±6%)とイランN(39±6%)の2方向混合としてか、WHGからのわずかな祖先系統寄与(6±4%)も伴うものの、供給源としてモタ個体で機能するモデルはありません。興味深いことに、ベドウィンBとサウジアラビア人とイエメンのユダヤ人は4供給源全てでモデル化できます。つまり、それぞれレヴァントN(56.8±2.7%、55.1±2.8%、57.9±2.7%)とイランN(34.3±4.3%、37.6±4.4%、33.2±4.4%)、WHG(2.7±1.6%、3.2±1.7%、3.6±1.7%)とモタ個体(6.2±0.9%、4.1±0.9%、5.3±0.9%)で、レヴァントNとイランNとモタ個体からのみの場合もあります。さらに、現代レバノンのほとんどの人口集団は、キリスト教徒とキプロス島人を除いて、4供給源全ての混合として示すことができます(図6)。以下は本論文の図6です。
したがって、ベドウィンBとサウジアラビア人がUEBと最も近い現代の人口集団のように見える、という他の分析からの兆候にも関わらず、これら現代人集団は合致モデルにアフリカ東部祖先系統を必要としたので、qpAdmのわずかに異なる結果が得られました。UEBは、その最も近縁な現代の人口集団とは対照的にアフリカ関連祖先系統が欠如しており、これはD統計の結果が(UEBをサウジアラビア人とベドウィンBへの外群として位置づけます)原因かもしれず、さまざまなシナリオにより説明できます。たとえば、新石器時代レヴァント人の祖先背景は、アフリカ関連祖先系統の導入により「希釈」されたかもしれません。つまり、それがUEBの後で起きたわけです。
これは、ずっと早期の他の歴史時代のレヴァントの個体群がどれも、祖先供給源としてモタ個体と合致するモデルを生成するように見えない、という観察も説明できるかもしれません。じっさい、アフリカ関連祖先系統でうまくモデル化できた古代の個体群は、新石器時代のモロッコ人だけです(関連記事)。この説明と一致して、UEBをすでに刊行された時間的により近いレヴァントの個体群とモタ個体の2方向混合としてモデル化しようと試みると、全てのモデルでモタ個体関連祖先系統の高い標準誤差が得られ、刊行されたレヴァントの個体群からのわずか数点の成功した単一供給源モデルが見つかりました。さらに、現代のレヴァント人口集団をUEBとモタ個体の混合としてモデル化しようと試みると、全ての人口集団がUEBからの多量の祖先系統(80~99%)とモタ個体からのさまざまな寄与(0.1~20%)を必要としました。
UEBが、アラビア半島からレヴァントへとイスラム教初期に移住してきて、経時的に近隣人口集団との混合を妨げ、本論文のデータで観察されたひじょうに浮動的な人口集団が生まれたという、強い文化的障壁を経た集団の代表である可能性もあります。これは、遺伝的に類似した遺伝子型のネゲヴのベドウィンがアラビア半島からネゲヴおよびシナイ地域へと700年頃、つまりイスラム教拡大の直後に移住した、という事実と一致します。しかし、大規模な移住と宗教・文化の層序化についての決定的な推論には、人口集団水準の遺伝学および考古学的データが必要です。それはとくに、アラビア半島関連祖先系統がUEBのずっと前にレヴァントに存在していたからです。
歴史時代のUEBはゲノムデータが最小量の人口集団で、UEBにおける正確な推定もしくはヨーロッパかアフリカの祖先系統の完全な却下を制約しているので、祖先系統の推定に影響を及ぼしていることに注目すべきです。しかし、あらゆるアフリカ祖先系統の存在を完全に否定できないとしても、全ての分析は一貫して、UEBにおけるアフリカ祖先系統の低水準を示唆します。歴史時代のUEBの解像度低下により、この段階でのより信頼できる推定が妨げられますが、本論文で観察された遺伝的違いは、人口構造の最近の歴史の影響と同様に、わずかに異なる軌跡、およびサウジアラビア人やベドウィンと比較しての長期の他集団との接触を示唆している可能性があります。類似の結果は、損傷部位に限定されたUEBからのデータで繰り返されたモデルでも得られました。
●UEBにおける低い遺伝的多様性
UEBの遺伝的多様性への洞察を得るため、条件付きヌクレオチド多様性(CND)が0.205±0.003と推定されました。本論文の参照対象における全ての現代の中東人口集団と比較すると、syr005個体とsyr013個体は最低水準の遺伝的多様性を示しました。比較のため、アンダマン諸島の先住狩猟採集民で、小さな人口規模と長期の孤立のため遺伝的多様性がきょくたんに低いと知られているオンゲ人を含めた結果、syr005個体とsyr013個体よりもCND値が低い、と示されました。しかし、古代と現代の人口集団間の比較と、配列と一塩基多型(SNP)チップデータがいくらかの偏りを受けるかもしれないことに注意すべきです。
syr005個体とsyr013個体との間の低い遺伝的違いにも関わらず、無関係な個体の組み合わせで予測されるように、個体間距離は個体内距離のほぼ2倍なので、両個体が親族である証拠は見られません。遺伝的多様性の低さは、小さな人口規模および/もしくは個体間の近親交配の結果かもしれないので、近親交配の程度を判断するためにROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)が分析されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。
syr013個体では、他の中東人口集団と比較して、ROH断片の数の多さと累積長が観察されます(図5b)。CNDの結果と一致してこれから示唆されるのは、syr013個体が、小さく、および/もしくは近親交配の人口集団の一部だった、ということです。この結果が欠失部位によりかなり大幅に影響を受けないよう確実にするため、syr013個体で網羅されている部位に限定してSGDP(サイモンズゲノム多様性計画)で分析が実行され、類似のパターンが明らかになりました。これらの調査結果も、レヴァントの遊牧民で見られるものと類似の社会構造を示唆しており、部族もしくは氏族構造の集団への個人の帰属は、親族関係、外部の部族との婚姻への強い障壁とその結果としての低い遺伝的多様性、小さな人口規模、潜性(劣性)疾患の高い発生率と関連しています。
●UEBの表現型への洞察
ウマイヤ期シリアのラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)の可能性を調べるため、LPと関連すると知られている5ヶ所のSNPが検証されました。本論文で分析された5ヶ所のSNPは全て、MCM6遺伝子のイントロンでラクターゼをエンコードするLCT遺伝子の下流に位置し、MCM6遺伝子は、LCT転写の転写促進因子として機能します。具体的には、13910C/T、13915T/G、14010G/C、13907C/G、稀な多様体である14107G/Aです。LPは常染色体の顕性(優性)形質と知られているので、単一の派生アレル(対立遺伝子)の存在は、乳の消化に充分です。
興味深いことに、標本syr013の9点の読み取りは、SNPの13915T/Gにマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)されると分かり、そのうち5点は派生的アレルで、4点は祖先的アレルなので、syr013個体は異型接合で乳糖(ラクトース)耐性だった、と示唆されます。6000年以上前の家畜化から始まったこの地域におけるラクダの群の長い歴史にも関わらず、異型接合であるsyr013個体はゲノムデータではこの多様体の最初の観察を示します。
LPは、syr005標本では対象部位を網羅する読み取りがなかったので、検証できませんでした。それにも関わらず、この調査結果は再度、アラビア半島とのつながりを描き出します。それは、この多様体が現代アラブの人口集団(頻度は72~88%)や、乳消費でアラビア半島のラクダ(ヒトコブラクダ)に伝統的に依存してきて、高水準のLP表現型(ベドウィンでは75%超)を示す牧畜民では一般的だからです。アラブ人で頻繁に見られる、家族性高コレステロール血症やグルコース-6-リン酸脱水素酵素欠損症や鎌状赤血球貧血やバルデービードル症候群など、他の常染色体の顕性もしくは潜性状態も検証されましたが、病原性アレルはsyr013個体では見つかりませんでした。
●UEBの食性
錐体骨から抽出されたコラーゲン標本による安定同位体分析を用いて、UEBにおける食性消費パターンの推定が試みられました。UEBについての大量安定同位体データは、動物性タンパク質摂取が多いC3陸上食性で典型的です(それぞれ、炭素13が−18.5‰と−19.2‰、窒素15が+11.5‰と+13.1‰)。乾燥した場所や肥料を用いる慣行の場所からの食物消費も、高い窒素値を説明する可能性があります。その期間の比較動物相もしくはヒトのデータがなければ、これらの影響の程度の確認は困難です。
本論文のデータが歴史時代と原初歴史時代からの安定同位体の地域的データセット(レバノンやエルサレムやヨルダン北部やシリア)で文脈化され、前期および後期ローマ期、パルティア、ビザンツ、中世、いくつかの現代のデータが含まれます。さらに、このデータが13~19世紀のヨルダンのベドウィンの墓から得られたデータと比較されました。地域的なデータセットは、本論文で分析されたUEBの両個体について類似の炭素13値を示すものの、エルサレムの聖スティーブン教会個体を除いて一般的に窒素15値は低く(6.8~9.5%)、例外はレバノンで発掘されたヨーロッパ祖先系統を有する中世の個体です(窒素15が11.3‰)。この個体はヨーロッパ出身で、中東の個体とは(埋葬される前には)異なる食性だったかもしれません。聖スティーブン教会修道院の個体は、他のデータセットの窒素15値よりも高い値を示す傾向にあります(7.3~12.6%、68個体のうち6個体は11.5%以上)。この遺跡の高い窒素15値は、動物性タンパク質消費に起因していました。
ベドウィンのデータセットは、UEBの両個体に対して同等(およびより高い)窒素15値比を示しますが(10~17.3%)、炭素13値は少なくなっています。ベドウィンの高い窒素15値は、血液や乳(製品)や肉を含む「かなりの量の動物性タンパク質」に起因し、高い炭素13値の比率は、おもにC4もしくはC4-C3生態系の生息と資源開発に起因します。高い窒素15値が水産資源の摂取に影響を受けたのかどうか調べるため、化合物特異的アミノ酸および炭素同位体値が得られました。UEBの両個体では、炭素13グリシンと炭素13フェニルアラニンの値は10~13‰、炭素13バリンと炭素13フェニルアラニンの値は約0~1%、炭素13ロイシンと炭素13フェニルアラニンの値は負です。これらの値は、水産資源の顕著な摂取なしの陸生食性と一致します。テル・カラッサの両個体(syr005個体とsyr013個体)の同位体値は、高水準の動物性タンパク質消費(つまり、ベドウィンのデータセットのような牧畜食料獲得)の食性として最良に説明できるものの、ほぼ排他的に(他の地域的データセットのように)C3生態系から得られた、と結論づけられます。
本論文で議論された安定同位体データの大半は、皮層の長骨と肋骨から抽出されたコラーゲン標本で測定され、例外は、大臼歯から標本抽出された4標本と、この研究のように錐体骨から得られたデータです。以前の研究では、錐体骨の同位体兆候は子供期の食性を反映している、と主張され、肋骨や大腿骨の標本と比較して錐体骨では、炭素13値がわずかに低く(0.3%未満)、窒素15値がわずかに高い(0.8%未満)と報告されています(人口集団水準では)。この相殺が本論文のデータセットに適用される場合でも、これらの違いはテル・カラッサの両個体の食性解釈に影響しないでしょう。
この食性解釈は、個体のベドウィンの祖先系統構成要素およびsyr013個体のLP多様体の存在と興味深いことに一致します。古代イスラム教個体群の食性の安定同位体研究はイベリア半島(およびバレアレス諸島)で調べられてきましたが、他の場所ではさほど広範ではありません。以前の研究では、一部のよく知られた文化的違い(イスラム教における豚肉の禁止やキリスト教における断食や魚食)にも関わらず、ムスリムの食性が同時代のキリスト教徒と区別される明確な同位体兆候を有している、という強い証拠はない、と結論づけられました。その研究では、そうした区別を調べるにはさらなる研究が必要で、ウマイヤ期における食性安定同位体の知識を拡大するには、中東でさらなる研究が必要になる、と強調しています。
●病原体のメタゲノム選別
UEBの両個体(syr005個体とsyr013個体)が伝統的なムスリム墓地に埋葬されなかったことについてあり得る説明は、両個体が疫病犠牲者を表しているかもしれない、というものです。いくつかの考古ゲノム研究は、考古学的遺骸から抽出されたDNAでさまざまな病原体配列の識別に成功しました。本論文は、さまざまな既知の病原体からのDNAについて、この研究の配列を選別し、syr005個体で感染症の原因となり得るさまざまな真正細菌種の痕跡の可能性を見つけました。配列の数が限られているので、これらの調査結果を明確には証明できず、複雑な感染がUEB両個体の死に関わったのかどうかを実証するには、追加の研究が必要でしょう。
●まとめ
古代DNAの方法論と分子技術の継続的な開発と改善は一貫して、古代DNA回収の時空間的限界を押し上げ(関連記事1および関連記事2)、より古い期間とDNAの保存に不利な環境(たとえば高温湿潤)を探求してきました。中東とアラビア半島は人類史の時系列で重要な地域であり、ますます多くの古代DNA研究がその遺伝的歴史を理解しようと試みてきました。中東はDNAの保存条件が悪いことを考えると、成功した研究はありますが、この過程は世界のより環境的に古代DNA研究に好適な地域よりも遅い、と証明されつつあります。それにも関わらず、その歴史的重要性を考えると、新しく回収された各DNA配列は、現在立ち入り困難な戦争で被災した地域のゲノムおよび文化の難問に重要な断片を追加します。
先史時代の遺跡の上に埋葬されたウマイヤ期の2個体は、ヒト起源2.0データセットでは、イスラエルのネゲヴ砂漠の現代のベドウィンの下位集団(ベドウィンB)や、アラビア半島のサウジアラビア人と遺伝的に密接だった(ものの同一ではない)個体を表している、と本論文は、は推定できました。いくつかの供給源は、テル・カラッサ(Tell Qarassa)地域を占拠し、および/もしくはアラビア半島からシリアへとウマイヤ期に移住した、歴史時代の遊牧民集団の存在を記録しています。しかし、この期間の同時代の遺伝的データの欠如は、そうした集団間のより詳細な下部構造についての解像度を制約します。さらに、ゲノム手法は個体の祖先系統を分析し、過去の人口統計学と人口動態を推定する強力な手段ですが、遺伝的データセットは、地域および文化および/もしくは考古学的帰属を遺伝子型決定された個体に用いることがよくあります。したがって、UEBはいくつかの遊牧民集団と遺伝的に類似しているものの、その正確な文化的帰属の決定は、ゲノム分析では答えられない問題です。
考古学的文脈は、その埋葬慣行に関してわずかにより多くの情報をもたらす、と証明されています。つまり、キリスト教が主流の地域におけるおそらくは初期のイスラム教支持者だっただろう個体群を示しているように見える、メッカへの向き、独立した墓、遺骸を包むことです。テル・カラッサの墓は伝統的なムスリムの状況を表していません。つまり、利用可能な証拠からは、伝統的なムスリム墓地はこの期間の恒久的居住地の近くに位置していなかったようです。これは、UEB両個体(syr005個体とsyr013個体)がこの地域では短期滞在のムスリムだった可能性を示唆します。骨への外傷の欠如と若い年齢から、UEB両個体は病死し、それはおそらく中東を541~749年に周期的に荒らしたユスティニアヌス疫病だった、と示唆されます。具体的には、UEB両個体の年代は、アズ・スユティ(as-Suyuṭī)によりシリアで報告されている、イスラム暦79年(698年)の疫病発生と関連しているかもしれません。しかし、病原体の決定的証拠は見つからず、UEB両個体の正確な死因の特定は困難なままです。
7世紀後半もしくは8世紀初頭にテル・カラッサに埋葬された2個体(syr005個体とsyr013個体)のゲノム祖先系統から、シリアにおける初期イスラム教社会を垣間見ることができます。この研究は、ムスリム集団による先史時代埋葬遺跡の再利用の可能性へのさらなる洞察を提供します。一般的水準では、この埋葬は、遠隔地でも続いた特定のイスラム教埋葬儀式の、初期採用の追加の兆候を提供します。現時点では、この期間と関連するこの地域の遺伝学的研究の事例はなく、初期イスラム教埋葬と関連する唯一の遺伝的データは、フランス南部の2個体の研究です。本論文の結果は、シリアの地方におけるムスリムのアラブ人の初期の存在を示唆します。この地域のさまざま集団からの広範な追加の標本抽出が、その現在の遺伝的構造の理解と、集団遺伝学と臨床研究にとって意味があるかもしれない、相対的に遺伝的には孤立した人口集団の特定の可能性には重要です。中東は、複雑な歴史と多様な民族および遺伝的構成のある地域ですが、過去と現在の遺伝的構造に関する現在の理解は、表面を引っ掻いただけのようです。
参考文献:
Srigyan M. et al.(2022): Bioarchaeological evidence of one of the earliest Islamic burials in the Levants. Communications Biology, 5, 554.
https://doi.org/10.1038/s42003-022-03508-4
この記事へのコメント