客野宮治『蘇我氏の研究』

 文芸社より2015年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者は日本古代史の専門家ではなく医師とのことで、その点は不安でしたが、読み放題だったので、読んでみました。本書の主題は今でも議論のある蘇我氏の出自の解明で、諱に着目しての検証は興味深いと思います。まず本書は、7世紀までの天皇(という称号は7世紀以降でしょうが、皇后などと共に、本書と同様に便宜的に用います)および皇族の諱に着目し、地名か資養氏族名に由来するものの、皇子・皇女の名の多くが資養氏族名に由来するようになったのは欽明天皇の皇女からで、ほとんど全てと言えるほどになったのは額田部皇女(推古天皇)以降となり、それ以前は地名由来のものが多い、と指摘します。

 そのうえで本書は、蘇我氏の出自を検証します。蘇我氏の出自に関しては、大和曽我と河内石川と大和葛城といった説がありますが、本書も指摘するように、いずれにも問題点があり、まだ議論は続いています。蘇我氏については、稲目よりも前の世代の実在性を疑う見解が多いように思いますが、本書も、朝鮮半島の国名や人名に因んだ名が多いことから、その実在性に疑問を呈しています。ただ、確かに稲目よりも前の蘇我氏の実在性には大いに疑問が残るものの、本書のように断定までできるのかとなると、やや躊躇いもあります。

 少なからぬ研究者も蘇我氏の実質的な初代と認めるだろう稲目は、本書が指摘するように確かに不思議な人物で、宣化天皇の代に唐突に大臣という高位に就任し、娘が欽明天皇の妻となり、その間の子供たちが相次いで即位します。それにも関わらず、稲目に対する批判や敵対的行動はとくに伝えられていません。稲目の後継者となった馬子は、587年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の丁未の役で物部守屋を攻め滅ぼしたとされますが、本書は、丁未の役の要因は皇位継承争いで、馬子が真に警戒したのは宅部皇子(宣化天皇の皇子)だった、と推測します。丁未の役の後に即位した崇峻天皇は馬子を殺したいと言って警戒され、逆に殺害されたと言われていますが、本書は、崇峻天皇の真の標的は敏達天皇の皇后だった額田部皇女だっただろう、と推測します。馬子の跡を継いだ蝦夷について、指導力がなく一族をまとめきれず、祖父のような絶対的権威も父のような圧倒的権力もなかった、と本書は評価します。

 本書は、稲目の代での蘇我氏の急速な台頭、皇族と蘇我氏との間での殺害を伴う抗争が続発しているにも関わらず、それ以外の氏族はほぼ蚊帳の外であったこと、稲目から代替わりするごとに、抵抗が増えるなど勢威が低下していることを説明できるのは、蘇我氏が皇族だったとの想定だけである、と指摘します。次に本書は、稲目が宣化朝で大臣に任命されたことから、宣化天皇の実子ならば皇子として政務に携わればよく、継体天皇もしくは安閑天皇の息子だろう、と推測します。さらに本書は、稲目が宣化朝で尾張国屯倉の籾を運んだ、との記事から、稲目は尾張氏と関わりがあったと考えられるため、安閑と宣化の母が尾張氏の出身であることを根拠に、稲目は安閑天皇の息子だろう、と推測します。安閑天皇に子供がいたとの記録の初出は、15世紀成立の『本朝皇胤紹運録』です。安閑天皇の皇后は仁賢天皇の娘とされる春日山田皇女で、稲目は春日山田皇女の息子で、臣籍降下したのだろう、と本書は推測します。蘇我氏は天皇家の分家というか副王的存在で、権威を天皇が、実務的権力を蘇我氏が担った、というわけです。外部から大和に迎えられた継体天皇一家は大和での地盤が弱く、天皇を支える有力な家臣として、前王統の血も継承した高貴な身分の稲目を取り立てたのだろう、と本書は推測します。

 本書は、稲目が安閑天皇と春日山田皇女との間の息子である、という前提に立てば、その後の歴史的事件を解釈しやすい、と指摘します。丁未の役で殺害された宅部皇子は宣化天皇ではなく安閑天皇の息子で、安閑天皇には子供がいないとされたため、宣化天皇の息子とされたのだろう、と本書は推測します。また本書は、蘇我氏本宗家が山背皇子を推古天皇没後に後継者として推さず、上宮王家を滅ぼした一因は、馬子がその弟の境部摩理勢と葛城の所領、さらには蘇我氏の宗主権をめぐって潜在的な争いがあり、『伊予湯岡碑文』から境部摩理勢と上宮王家が親しかったと考えられるからで、蝦夷が境部摩理勢を攻め滅ぼしたことは、蘇我氏内部に本宗家への警戒を強めた、と推測します。なお本書は、境部摩理勢討伐と上宮王家滅亡は同一の事件だった、と推測します。さらに本書は、非蘇我系とされる押坂彦人大兄の系図についても疑問を呈します。押坂彦人大兄の母親である広姫は息長真手王の娘とされますが、敏達天皇の皇后となるには身分が低すぎ、実は稲目の娘だったのではないか、と本書は推測します。後に蘇我氏本宗家を打倒した皇極天皇一族が、自らを正当化するために蘇我氏本宗家を朝敵としたので、広姫の出自が改竄された、というわけです。

 乙巳の変に関する本書の見解も通説とは大きく異なり、舒明天皇没後に皇位継承者として最有力だったのは古人大兄皇子で(これは有力説と言えるでしょう)、古人大兄皇子が即位すれば、政治的に没落が予想された、宝皇女(皇極天皇)や軽王子(孝徳天皇)といった茅渟王一族が舒明天皇没後に起こした武力クーデタだった、とされます。つまり、乙巳の変に相当する事件は645年6月ではなく641年10月に起きた、というわけです。本書は、蘇我氏の役割は継体皇統の確立にあり、それが果たされた時にはその役割は終わっていて、副王の如き存在は天皇にとって邪魔になっていた、と指摘します。なお本書は、中臣鎌足は蘇我入鹿の弟で、中大兄皇子(天智天皇)は漢皇子(本書では、父の高向王は蘇我馬子の息子とされます)と同一人物であり、大海人皇子(天武天皇)の方が正当な後継者だった、と推測しています。

 やや警戒しながら読み始めた本書は、蘇我氏の急速な台頭を説明できている点で、興味深いと思います。ただ、まず、大化以前に天皇と蘇我氏との間で権威と権力の二分化があったのかとなると、疑問が残ります。また、蘇我氏が急速に台頭したように見える点について、従来説と違い本書がよく説明できているのは確かですが、母親は蘇我氏出身である持統天皇の子孫もしくは妹(こちらも母親が蘇我氏の元明天皇)が天皇だった時代に、『日本書紀』が編纂されているわけで、蘇我氏が安閑天皇の息子だったこと、安閑天皇に子供がいたこと、押坂彦人大兄皇子の母親である広姫の真の出自(稲目の娘)を改竄することが必要だったのか、とくに安閑天皇に子供がいたことを隠蔽する点については、かなり疑問が残ります。まあ、本書が指摘するように、皇族に匹敵する出自の「副王」の存在は、天皇への権威と権力の集中を図る律令国家にとって都合が悪かった、と解釈できないわけではありませんが。

 また、乙巳の変に相当する事件が舒明天皇没後すぐに起きたとの見解も、古人大兄皇子の即位を阻止するためと本書では説明されますが、古人大兄皇子がまだ当時の即位可能年齢に達しておらず、舒明天皇の皇后だった宝皇女が即位した、とも考えられます。また本書は、聖徳太子は即位しており、聖徳太子没後に推古天皇が即位したと主張しますが、当時、世代をさかのぼるような即位があり得たのか、疑問が残ります。他にも、五世王など律令制的な規定を6~7世紀に遡及させてよいのか、中臣鎌足が蘇我入鹿の弟だとすると確かに都合は悪そうだと言っても、中臣氏よりも上位の出自に改竄できたのではないか、などといった疑問もありますが、非専門家の私にとって、本書は推理小説を読む感覚で楽しく読み進められました。

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