近世ポルトガルのアフリカ出身男性個体の学際的研究

 近世ポルトガルのアフリカ出身男性個体の学際的調査結果を報告した研究(Peyroteo-Stjerna et al., 2022)が公表されました。1930年10月1日、考古学者はポルトガルのテージョ(Tagus)川流域のカベッソ・ダ・アモレイラ(Cabeço da Amoreira)の貝塚で、注目すべき1基の墓を特定しました。ポルトガルのテージョ川およびサド(Sado)川流域の貝塚は、紀元前6500~5000年前頃となる後期中石器時代の最後の狩猟採集民の埋葬地として用いられました。この墓はこの地域における中石器時代狩猟採集民の墓に似ていたので、際立って目立っていたわけではありませんが、ひじょうに高身長のよく保存された遺骸が含まれていたので、注目されました。アモレイラの他の全ての墓と同様に、それは目立たず、遺物は含まれていませんでした。

 カベッソ・ダ・アモレイラに埋葬された中石器時代人口集団の調査中に、ヨーロッパの中石器時代狩猟採集民で知られているもののと一致しない、1930年代の埋葬に関する傑出した遺伝学的結果に遭遇しました。考古学と歴史的記録と遺伝学と放射性炭素年代測定と安定同位体分析を統合した学際的手法が採用され、この個体の年代と遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と起源地が調べられました。我々の分析が示すのは、アフリカ人系統の成人が、カベッソ・ダ・アモレイラに16~18世紀の間のある時点で埋葬された、ということです。この発見は、近代における先史時代貝塚の珍しい使用を調べ、アフリカの個人の埋葬のための先史時代貝塚の最近の利用についての動機を探求する、独特な機会を提供しました。

 近世ヨーロッパ史におけるアフリカ人共同体の歴史は、大西洋間奴隷貿易と強く結びついています。15~19世紀の間、ポルトガルだけで1年につき3000人の奴隷を受けいれていました。この期間にポルトガルに到来したほとんどのアフリカ人は奴隷貿易により捕らえられましたが、一部の個体は、低い社会的地位と人種的偏見の下で、自由になり比較的独立していました。大西洋奴隷貿易とその結果に関する研究は、文字情報源に依拠してきましたが、安定同位体や遺伝学など生体分子法は、個体史に新たな洞察を提供しつつあります(関連記事)。

 ポルトガルでは、主要な交易所での奴隷墓の最初の遺伝学的研究により、歴史的記述と一致して、捕虜のアフリカ西部祖先系統が確証されました。しかし、ほとんどの場合、この期間におけるポルトガルのアフリカ人の個体史もしくは具体的な地理的および民族誌的起源はほとんど知られておらず、それは、歴史的記録から常に明らかとは限らないからです。この研究は、学際的分析が、とくに大西洋間奴隷貿易期のようなそうした記録の乏しい事象を扱うさいに、どのように歴史的問題を解決できるのか、事例を提供します。


●考古学的資料

 考古学的な貝塚は、世界中の沿岸や湖水や河川環境で見られます。こうした貝塚遺跡の期間は過去14万年にわたり、形式や大きさや用途や年代は大きく異なります。その外見は貝類食料の地元での加工の結果で、貝塚の多くの場所は定住地および/もしくは葬儀や儀式の場所でした。

 カベッソ・ダ・アモレイラは、テージョ川河口のムージェ(Muge)川の岸の中石器時代埋葬がある多くの貝塚の一つです。リスボンの北東約80kmに位置するカベッソ・ダ・アモレイラ(図1)は、16世紀にはポルトガル王室に、17世紀初期以降は貴族により所有されていた歴史的な農地にあります。考古学的調査は1884~1885年に始まりましたが、これまでに特定された29個体のヒト遺骸は、数十年後の1930年代と1960年代と2000年代初期に発掘されました。以下は本論文の図1です。
画像

 この研究で分析対象とされた個体は1930年代に発見され、上顎と左上顎第一小臼歯の歯根が標本抽出され、識別番号(mug019)が割り当てられました。骨は断片化され、カベッソ・ダ・アモレイラで発見されたいくつかの骨格と混合していたため、詳細な骨学的分析はできませんでした。


●年代

 カベッソ・ダ・アモレイラの骨と炭と貝殻の多数の放射性炭素年代は一貫して、紀元前6500~紀元前5000年前頃の後期中石器時代となります。分析対象となる個体の年代は、骨のコラーゲンの放射性炭素年代測定に基づいて非較正で292±32年前と推定されました。較正年代では、1529~1763年(95.4%信用区間)となり、93.7%信用区間では1631~1763年となります(図2)。以下は本論文の図2です。
画像


●考古学的記録

 mug019遺骸は、1930年10月1日に貝塚の最上層から40cmの地点で発掘されました。mug019遺骸は、下肢が上肢に近く屈曲している横向きの状態で葬られていた、と記載されています。頭蓋は断片化しており、前腕の骨は頭蓋の近くで発見されました。これは、埋葬時には少なくとも片方の上肢が頭の近くにあったことを示唆します。

 この遺骸は同じく1930年に発掘された他の2点の骨格より保存状態がよく、その身長はムージェ貝塚で発掘された他の個体の平均よりも高かった、と報告されました。これは、この個体が外れ値である可能性を示唆します。墓の床は砂質で、傾斜していました。この遺跡では砂が自然に採取できますが、同じ深さで発掘された他の墓では砂質の墓床は観察されておらず、墓床が準備された可能性を示唆します。ムージェ貝塚のほとんどの被葬者がそうであるように、この骨格遺骸と関連する副葬品もしくは他の物質文化との関連は見つかりませんでした。


●遺伝学的分析

 X染色体とY染色体の網羅率の比率により、mug019個体は男性と明らかになりました。そのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はアフリカで広く見られるL3b1aで、アフリカ西部および中央部では最も一般的なmtHg-L3の下位系統の一つになっており、チャド湖盆地では最も一般的な系統の一つです。mug019のY染色体ハプログループ(YHg)はE1b1aで、サハラ砂漠以南のアフリカでは最も高頻度です。YHg-E1b1aは、ナイジェリアとコンゴとカメルーンとガボンとギニアビサウと南アフリカ共和国のバンツー語族話者でよく見られます。したがって、mug019の片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)は両方ともアフリカの祖先系統を示します。

 主成分分析では、mug019が現在のアフリカ西部の人口集団、とくにバンツー語族話者人口集団とより高いゲノム類似性を有する、と示されました(図3A)。外群f3統計を用いて、どの現代アフリカ人口集団がmug019と遺伝的に近いのか検証され、マンデンカ人(Mandenka)およびガンビア人とより高い得点が得られ、それに続くのが他のアフリカ北部および西部の人口集団でした(図3B)。以下は本論文の図3です。
画像

 ADMIXTUREを用いての、アフリカとヨーロッパの人口集団の個体群に基づく教師なしモデルに基づく遺伝的クラスタ化は、よく知られた祖先系統構成要素を示します。K(系統構成要素数)=5と仮定すると、ヨーロッパとアジア南部・西部・東部および北アメリカ大陸の人口集団で最大化される遺伝的構成要素が区別されます。mug019の遺伝的祖先系統パターンは、マンデンカとガンビアの現在のアフリカ西部人口集団の個体群で見られるものと類似しています(図4)。じっさい、mug019のクラスタ化は、全ての祖先系統較正要素の選択を通じて、マンデンカおよびガンビアの個体群と一致します。以下は本論文の図4です。
画像

 特定の特徴を制御すると知られている、いくつかの遺伝子領域が調べられました。ダッフィー・ヌル(Duffy null)との関連でよく見られるFY*Bアレル(対立遺伝子)が特定され、マラリアに対するある程度の耐性が示唆されます。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)アレルは見つからず、mug019はラクターゼ不耐性だった、と示唆されます。人口集団における肌の色素沈着の変異は、いくつかの遺伝子に影響される複雑な特徴です。mug019は、ヨーロッパよりもアフリカの人口集団においてより高い頻度で見つかる色素沈着に作用する遺伝子多様体を示します。しかし、これらの遺伝子は表現型の差異のごく一部を占めるにすぎず、これに加えて、mug019の限定的な配列網羅率がmug019の表現型のより堅牢な評価を妨げます。


●安定同位体と食性と起源地

 炭素13と窒素15の分析から、C4植物が主要なカロリー源(60±17%)で、海産資源(24±16%)がそれに続く、と示唆されます(図5)。分析結果は、C3植物(9±7%)とC3陸生動物(8±7%)からの寄与が比較的小さいことを明確に示します。しかし、とくに95%信用区間では、C4植物と二枚貝など低栄養の海洋食資源について、推定値の重複が一部あります。以下は本論文の図5です。
画像

 全体的に、イベリア半島の典型的な中世の後の食性は地元のC3食料に依存しているので、mug019の出身地が、イベリア半島外のC4作物が容易に入手可能な地域であることを示唆します。アフリカ西部では、伝統的な植物性食料生産体系は、サハラ砂漠南端から森林地帯の北端まで広がるソルガム・雑穀地帯(C4植物)、コートジボワールのバンダマ川の湿潤森林地帯の稲作地帯(C3植物)、東部森林地帯の野菜農耕地帯(C3植物)の古くから確立していた3つの作物地帯に依存してきました。これらの結果は、mug019がアフリカ西部で暮らしていたことを裏づけられます。

 酸素18値の分析から、mug019の出身地はイベリア半島外で、確率が最も高いのはセネガルとモーリタニアの沿岸部であり、続いてガンビアと示されます(図6)。以下は本論文の図6です。
画像

 これらの結果から、mug019はポルトガルに到来するまでの数年間、現在のモーリタニアとセネガルとガンビアになる、アフリカ西部沿岸地域のどこかで暮らしていた、と示唆されます(図7)。以下は本論文の図7です。
画像


●歴史的記録

 大西洋間奴隷貿易データベースでは、16~18世紀にポルトガルに輸送された奴隷の購入の主要地域として、アフリカ西部、とくにギニアビサウとガンビアを示唆します。その他の購入場所には、カーボベルデ島やガーナやセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)や大西洋沖やベニンなどがあります。教区の埋葬記録では、奴隷か元奴隷かアフリカ人が祖先として記録されている、男性7人が確認されました。ほとんどの教区簿冊はカトリックの習慣にしたがって、教会墓地での奴隷埋葬を報告しています。しかし、奴隷もしくは元奴隷の処遇について他に記録された方式は通常、教会では登録されていませんでした。

 埋葬場所もしくは死亡時の状況がmug019の埋葬を説明するかもしれないので、2つの教区簿冊を詳しく調べる必要がありました。まず、1633年5月5日付の記帳には、ほとんどの記述とは異なり、埋葬場所が明示されていない奴隷の埋葬が記録されています。次に、1676年11月1日の報告では、貝塚があり、mug019が見つかった場所であるアルネイロ・ダ・アモレイラ(Arneiro da Amoreira)で、ジョアン(João)という名の若い男性が殺害された、と言及されています。犠牲者の肌は焦げ茶色もしくは茶色であり、教会墓地に埋葬された、と説明されています。ジョアンの社会的地位については言及されていません。


●考察

 本論文の組み合わされた生体分子の結果は、ポルトガルのムージェのカベッソ・ダ・アモレイラの貝塚に16~18世紀に埋葬された、セネガンビア起源のアフリカ人祖先系統の男性遺骸の発見を裏づける、強い証拠を提示します。当時、奴隷貿易はアフリカからヨーロッパへとヒトが到来するさいの主要な強制力でした。mug019個体は、現在のアフリカ西部個体群との強い遺伝的類似性が確認されました。歴史的記録はこの期間における奴隷購入のおもな場所として赤道付近のアフリカ西部を示しますが、本論文のゲノム規模分析は、ナイジェリア人もしくはアンゴラ人など赤道もしくは赤道付近のアフリカ西部人口集団とのより低い類似性を示唆します。代わりに、mug019がセネガンビア起源だとすると、16~18世紀にギニアビサウとガンビアから出発し、ポルトガルに連行された奴隷の輸送記録と一致します。しかし、貿易中心地が常に、奴隷が最初に捕らえられた場所を表しているとは限りません。さらに、遺伝学と地理との関連は、比較データセットで利用可能な参照人口集団の分布に制約され、現在の人口集団の分布パターンが4世紀前と類似していることを前提としています。

 同位体データは遺伝学的結果と一致します。mug019の食性はC4植物と海産物にある程度依拠しており、ポルトガルに到来する前におそらく数年間暮らしていたアフリカ沿岸部の半乾燥地域の伝統的な食性と一致します。当時のポルトガルではC4植物由来の食料は一般的に消費されていなかったので、ポルトガルで生まれた個人がそうした食性パターンを示すとは予測されません。一方、C3植物はアフリカ西部の熱帯湿潤地帯(野菜農耕地帯もしくは稲作沿岸部など)において優占的で、この地域は歴史的記録によるとmug019の起源地だったのにかもしれません。さらに、酸素安定同位体を用いてmug019の出身地域を絞り込み、そのデータでは沿岸部地域の可能性がより高いと示され、海産物消費の兆候と一致します。

 教区簿冊の文書では、mug019を明確には特定できませんでした。これは、教区簿冊の不完全性、詳細もしくは正確さの欠如により説明できます。記録された茶色もしくは焦げ茶色の男性が調査された埋葬と同じ場所で殺害されましたが、犠牲者が教会墓地に埋葬された、教区簿冊ではと述べられています。さらに、殺害された男性の記述された肌の色は、「異人種」間の個体の説明に用いられた可能性がありますが、本論文の結果は、mug019が混合していないアフリカ祖先系統を有する、と示します。

 3世紀以上の間、アフリカ人は、新たな宗教や名前や言語の採用を強制されながら、故郷や家族からポルトガルへと残忍に移動させられました。1761年にポルトガルは、ポルトガルに上陸した全ての新たな捕虜は到着時に解放されるべきと決定した法令で、奴隷制廃止の過程を開始しましたが、奴隷の人数は1836~1839年に完全に廃止されるまで多いままでした。16世紀以降のポルトガルの文献と図版と絵画は、アメリカ大陸でも記録されているように、社会文化的独自性と価値を維持するため、アフリカ人共同体により発展した戦略の証拠を提供します。カトリックの祝祭は、祖先の霊と神々の崇拝とともに、アフリカの楽器と踊りと伝統的な服で祝われました。新たな環境における古代の慣行の再発明は、出生や結婚や死と関連するアフリカの社会文化的慣行の維持のため、必要な隠れ場所を提供した都市近郊においてとくに明確です。

 8000年前頃の遺跡における16~18世紀頃のmug019男性個体の埋葬は、ヨーロッパへと連行されたアフリカの文化的な信仰および慣行の維持の別の事例かもしれませんが、この慣行は歴史的記録に記載されていません。その単純さにも関わらず、mug019の墓は砂の層で配置されているようで、一見すると逸脱した場所での埋葬の準備の水準を示唆します。現在まで、貝塚がアフリカ西部で活発に用いられていることは注目に値します。とくにセネガンビアでは、貝塚の使用には古代と現代の墓地が含まれます。ヒトも含めて動物の骨が多数あることを考えると、他の多くの遺跡と同様に、アモレイラはおそらく地元の人口集団に古代の埋葬地として知られていました。

 非キリスト教徒の葬儀慣行の他の事例は、カナリア諸島の奴隷の墓地で特定されてきており、本土よりも教会とスペイン王権の支配が緩いと説明されています。これは、リスボンに比較的近く、少なくとも16世紀以来貴族が所有しているアモレイラには当てはまりません。しかし、ポルトガルの貝塚におけるmug019の埋葬は、おそらくアフリカ西部の社会文化的伝統に従って、アモレイラのアフリカ人共同体により意味のある場所として認識されていたことを示唆しているかもしれません。将来の調査により、これが孤立事象なのか、より広範な運動の一部なのか、明確にできるかもしれません。


●まとめ

 よく知られた中石器時代の貝塚に埋葬された、驚くほど最近の事象(16~18世紀)の特定とさらなる調査は、考古学と歴史学と生体分子手法を統合する学際的手法の適用でのみ可能でした。ヒト遺骸や歴史的記録の不完全性にも関わらず、複数の調査項目の交差により、大西洋間奴隷貿易期におけるポルトガルのアフリカから到来したポルトガルの第一世代個体の生死の特定側面の再構築が可能となりました。さもなくば、考古学的文脈で骨格資料から詳細に検討することはできなかったでしょう。さらに、異なる調査項目が同じ結論に収束したことで、結果に堅牢性と再現性が与えられました。この研究は、ひじょうに断片的な証拠から情報を回収する生体分子考古学の威力を論証しますが、より重要なことは、大規模研究では不明瞭だった近世ヨーロッパにおける個々のアフリカ人の生活史を調べる、学際的研究の価値を示したことです。


参考文献:
Peyroteo-Stjerna R. et al.(2020): Multidisciplinary investigation reveals an individual of West African origin buried in a Portuguese Mesolithic shell midden four centuries ago. Journal of Archaeological Science: Reports, 42, 103370.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2022.103370

この記事へのコメント