ノルマンディーの新石器時代墓地の被葬者の遺伝的分析
ノルマンディーの新石器時代墓地の被葬者の遺伝的分析結果を報告した研究(Rivollat et al., 2022)が公表されました。ヒト集団に関する古代DNA研究は、社会組織、とくに生物学的関連性に関する習慣に光を当てることができます。記念碑と単一墓、集合埋葬と個体埋葬などさまざまな埋葬状況、したがって、社会組織の対照的形態にも関わらず、ヨーロッパ新石器時代の初期から末期のデータは、父系に向かって収束します(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。
本論文では、先史時代の社会が血縁関係・子孫の集団への組織化(規模に応じて家族か氏族か部族)とみなされ、その子供は民族学的定義によると生物学的父親の集団に帰属します。他の学者は冶金開始後の父系制度を説明しますが(関連記事1および関連記事2)、これらは利用可能なデータで常に論証可能とは限りません(関連記事)。DNAデータと並行して得られたか、独立して得られた放射性ストロンチウム同位体比は、そのパターンの特定に役立つことができます(関連記事)。女性の外来を示す同位体兆候は多くの場合、女性族外婚に基づく父方居住親族制度における女性の移動性の証拠として解釈されます。本論文で組み合わされた証拠は、女性が外部集団から来るのに対して、男性の父方家族における結婚後の居住を示唆します(関連記事)。
フランスのノルマンディーのフルーリー・シュル・オルヌ(Fleury-sur-Orne、略してFLR)の墓地(図1)は、ヨーロッパで最初の記念碑的埋葬の出現に属しており、大西洋の巨石社会に先行します。紀元前五千年紀の第2四半期に建てられたこの記念碑的埋葬は、土で造られた長い塚で構成されており、その長さは一部では300mに至ります。これらの記念碑は「パッシー(Passy)」現象に属し、その名称は遺跡名に由来します。これらの記念碑は、局所的な中期新石器時代が始まった、紀元前4700年頃のヨンヌ県とセーヌ川上流域(以下、パリ盆地)に起源がある、セルニー(Cerny)文化の一部です。その後、パッシー型記念碑もしくはパッシー型建造物(STP)は、FLRが位置するノルマンディーに広がりました。以下は本論文の図1です。
パッシー型記念碑はおそらく、高位の個人を記念して建てられました。これまで、個人の社会的地位の解釈は、パリ盆地の資料集成で行なわれた生物考古学的分析に基づいています。記念碑的墓地の埋葬の特徴は、死者の生物学的および社会的地位による墓地の空間的構成とともに、詳細に調べられています。男女両方がこれらの墓地に埋葬され、亜成人も同様です。セルニー文化の墓地全体で、埋葬慣行は社会的地位と性別(ジェンダー)による階層化の一貫した定義を共有しているようです。具体的には、矢や矢筒やおそらくは弓とともに埋葬された権力者の1分類は、「狩猟者」として特定されています。成人の資料集成では、これらの狩猟者は男性だけで、その筋骨格のストレス標識はアーチェリーの活動と一致します。まとめると、男性かアーチェリーか狩猟か、さらに広く野生世界に与えられた認識は、パリ盆地におけるセルニー文化の観念形態を特徴づけます。
ノルマンディーでは、パッシー型記念碑はセルニー文化にも属しています。FLRの他に、航空調査によって3ヶ所の記念碑的墓地が知られており、それはロッツ(Rots)とブランヴィル・シュル・オルヌ(Blainville-sur-Orne)とキュルヴェルヴィル(Cuverville)です。これら4ヶ所の記念碑墓地は緊密な塊を形成しており、約10kmの間隔で配置されています(図1A)。FLRは広範に発掘された唯一の墓地で、パッシー現象のノルマンディーの基準となっています。墓地には合計で32ヶ所のSTPがあり、そのうち1つの塚(29号記念碑)はまだ保存されていました。17基の墓が、塚の半分の中心軸に沿って見つかりました。ほとんどの記念碑には単一墓がありますが、そのうち3ヶ所(8号と31号と37号)には墓が2基あり、1ヶ所の記念碑(28号)には墓が3基あります。
興味深いことに、1ヶ所の二重埋葬(953号墓)は、目に見える記念碑と関連していません(図1A)。記念碑的建物と墓と死者の社会的地位に関するデータは、パリ盆地における遺跡との現象の均一性を証明します。FLR墓地の構造は、パリ盆地セルニー文化墓地の構造と同じ習慣を守っています。墓と死者と特定の副葬品(矢)は、共有された象徴的関係を確証します。骨格の形態学的性別評価は、部分的にしか保存されていませんが、男性が多いことを示唆します。しかし、FLRにおける死者の埋葬体系および堆積パターンのいくつかの側面(たとえば、墓にある皮を剥がれたヒツジの供物)は、亜成人の欠如もしくは側溝での埋葬とともに、パリ盆地の埋葬とは異なっています。他のノルマンディー地域の遺跡の利用可能な情報がほとんどないこと(長い塚や鏃やヒツジ)、とくにロッツ遺跡で行なわれた部分的調査によると、ノルマンディーの墓地は、パリ盆地やFLRとの特有の類似性についてさらに解明することがなければ、パッシー現象に属していると推測できます。
15個体の骨格要素からの直接的な放射性炭素年代測定は、主要な使用時期が紀元前4600~紀元前4300年頃だったことを示唆します。全員既存の記念碑内に埋葬された新石器時代の3個体(記念碑24号と29号と31号)の年代は、紀元前4000年頃以後となります。紀元前四千年紀前半には、石の新たな塚が建造されましたが、より新しい期間(青銅器時代と古典古代)には、既存の記念碑内に時折埋葬が追加されました。これらのより新しい期間の埋葬は、本論文では検討されません。
これまで、パッシー型墓地に埋葬された人々の古代DNA分析は、FLRの数個体を標的として、大陸水準での集団遺伝学的類似性に焦点が当てられました(関連記事)。FLRの遺跡内分析は、生物学的関連性および考古学的文脈に基づいて、集団の社会組織を推測する可能性を提供します。FLR遺跡には均質な集団が居住していたのでしょうか?墓地には1家族もしくは数家族が葬られましたか?(生物学的)子孫の慣習は集団の遺伝的構造から推測できますか?そうした調査は、記念碑の地位(関連しているか独立した系統)、墓地自体の地位(地元の1エリート系統なのか、複数の集中した系統なのか)、より広く紀元前五千年紀末と紀元前四千年紀初頭との間の地域の居住に間接的に取り組みます。
●データ概要
本論文は、FLRの完全な新石器時代遺跡のゲノム規模データを提示します。以前の研究(関連記事)のデータに6個体が新たに追加され、FLR遺跡で発見された新石器時代の19個体のうち15個体で、古代DNAデータが得られました(錐体骨が8点、歯が3点、長骨が4点)。残りの4個体は、骨格の保存状態がひじょうに悪かったので、標本抽出できませんでした。さらに、調査対象の個体すべてに放射性炭素年代があります。0.05%超の内在性DNAのライブラリだけが選択され、1個体(37-6)が除外されました。この品質基準に合格した残りの14個体については、約120万ヶ所の一塩基多型(SNP)で濃縮され(1240kデータ)、完全なミトコンドリアゲノムデータとY染色体データが得られ、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました(図2A)。以下は本論文の図2です。
1240kデータについては、ヒトゲノムを疑似半数体とみなして、部位ごとに1つのアレル(対立遺伝子)が無作為に呼び出されました。遺伝的性別と片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のみが報告されている1個体(31-5A)を除いて、13個体がゲノム規模下流分析に用いられました。FLR遺跡のヒト遺骸の保存状態が良好ではないので、限定的な骨学的観察しかできませんが、形態学的年齢分類は広範なものの、全個体が成人に分類されました。パリ盆地のセルニー文化の比較骨格データに基づき、骨盤を用いて二次診断法にしたがって、骨学的男性が4個体で推定できました。遺伝的(染色体)性別は14個体で特定でき、そのうち13個体が男性で、1個体が女性でした。
mtDNAが分析され、FLR遺跡の全個体で決定された完全なミトコンドリアゲノム再構築に基づいて、11の異なるハプロタイプが特定されました。これらはおもに、新石器時代農耕民に特徴的なmtHg-J・K・T・Hです。3個体(1-5と8-6と953A)のmtHgはU5bの派生系統で、31-5A個体のmtHgは、ヨーロッパの中石器時代狩猟採集民(HG)から継承された可能性が高いU8a1です。mtHg-U5・U8の割合は、中期新石器時代のヨーロッパ西部で観察された核およびミトコンドリアゲノムの両方での、狩猟採集民的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合と一致しています。
FLR遺跡の男性のYHgは、少なくとも3つの異なるハプログループに特定されました。一部の個体は(1-5、8-5、8-6、24-5、26-5)、以前の研究(関連記事)で分析されました。YHg-H2(P96)は6個体で確認され、パリ盆地の他の新石器時代遺跡でも見つかっています。YHg-G2a2a1a(PF3177)は3個体で確認され、YHg-G2a2a(PF3147)は2個体以上で確認されたものの、それ以上細分するのに利用可能な診断SNPはありません。YHg-H2・G2aは現在のドイツとフランスの前期および中期新石器時代においては一般的で、アナトリア半島農耕民および関連する初期ヨーロッパ農耕民の多数で見られる主要なYHgです。
さらに、FLR遺跡では特定のYHg-H2mが見つかっています。これは最近になって、地中海新石器時代拡散経路との関連で記載されており(関連記事)、アイルランドでも発見されているので、フランスの新石器時代集団を地中海の新石器時代拡大と関連づけます。なお、現在の遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)の命名法に関して、YHg-H2mはYHg-H2とH2aとH2a1とH2c1aのSNPの混合により定義づけられることに要注意です。Y染色体のSNPがひじょうに少ないため、1個体(24-5)はYHg-H2*に分類できたものの、それ以上の分類はできませんでした。最後に、2個体(29-5と31-5A)はそれぞれYHg-I2a1aとI2a1a2で、上部旧石器時代と中石器時代の狩猟採集民で一般的なYHg-I2の下位系統となります。このYHgは前期~後期新石器時代のヨーロッパ西部でも見つかっており、現在まで存続しています。
●遺伝的識別と人口史
ユーラシア西部現代人のデータセットで主成分分析(PCA)が用いられ、古代の個体群がその遺伝的差異に投影され、拡張データセットが定性的に調べられました(図3A)。FLR遺跡集団は、ヨーロッパ西部の新石器時代個体群と同様に、フランスの同時代の中期新石器時代集団の変動性内に収まりますが、例外となる外れ値2個体(24-5と29-5)があり、その年代は紀元前4000年頃以後で、別々に説明されます。集団多様性を検証するため、f3外群検定(個体1、個体2;ムブティ人)が、制御として同時代の遺跡に由来する3個体を加えて、FLR遺跡の全個体に適用されました。FLR遺跡で最古級となる5個体(19-5、26-5、28-6、35-5、37-5)のまとまりが際立っており、墓地の初期段階における小さな共同体が示唆されます。しかし、この5個体のYHgはH2*とG2a*の両方で、少なくとも2つの父系が最初期からFLR遺跡を使用していた、と示唆されます。FLR遺跡の全個体は、異なる地域集団間よりも高い集団類似性を有しています。この発見は、地域的にノルマンディーに限られた共同体によるFLR遺跡の初期使用との仮説を裏づけ、パリ盆地かフランスの東部か西部の比較対象である同年代の個体群による使用の可能性は低そうです。以下は本論文の図3です。
YHg-H2mの発見を反映して、f3統計(FLR、検証集団;ムブティ人)によると、紀元前4000年前頃以前のFLR集団(FLR>4000)は、ヨーロッパ中央部もしくはフランス東部の集団とよりも、新石器時代拡大の第一段階における前期新石器時代イベリア半島集団の方とわずかに高い類似性を示します。紀元前5000年頃以降、より東方の地域もしくはイタリア半島集団と比較して、最初はフランスで、後にブリテン島とアイルランド島で、ひじょうに類似したf3値が観察されます。
次に、f4統計(ムブティ人、検証集団A;FLR>4000、検証集団B)を用いてFLR集団と他のフランス集団との間のクレード(単系統群)性が検証されました。この場合、新石器時代ヨーロッパのA集団と、フランスのさまざまな新石器時代期間と地域のB集団が検証されました。その結果、FLR>4000は、パリ盆地のギュルジー(Gurgy、略してGRG)遺跡やアルザスのミヒェルスベルク(Michelsberg)のベルクハイム(Bergheim)やフランス南部のクロス・デ・ロック(Clos de Roque)など、中期新石器時代フランス集団とクレードを形成すると分かり、この時代における大規模な遺伝的均質性を示唆します。
しかし、FLR>4000は先行する前期新石器時代の線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)集団とはクレードを形成せず、代わりに、紀元前五千年紀以降のイタリア半島とイベリア半島とドイツの全てのヨーロッパ西部集団、および紀元前4000年頃に先行するアイルランド島の集団とより高い類似性を有しています。これはPCAで観察されたLBKフランス集団の、ヨーロッパ南東部および中央部の前期新石器時代集団との遺伝的類似性、およびFLR>4000が属する中期新石器時代ヨーロッパ西部クラスタ(まとまり)との明確な断絶を確証します。
しかし、興味深いことに、FLR>4000とフランス南部の前期新石器時代遺跡であるペンディモン(Pendimoun、略してPEN)との間のクレード性を検証すると、FLR>4000はイタリア半島およびイベリア半島の前期新石器時代集団と同様に、ドナウ川沿いの拡大の波の初期段階の新石器時代集団と、より多い祖先系統を共有しています。ペンディモン遺跡集団に存在する過剰な狩猟採集民祖先系統はこのパターンを説明し、前期新石器時代におけるこの地域の特異性を浮き彫りにします。全体的に、FLRの初期段階は前期新石器時代イベリア半島集団との遺伝的類似性、次により広範にヨーロッパ西部全域(つまり、イベリア半島とブリテン島およびアイルランド島を含む大西洋沿岸)によって特徴づけられ、新石器時代について以前に論証されたつながりを(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)反映しており、上述のYHg-H2mと一致します。
2個体(24-5と29-5)はともに、PCAでは主要なFLR集団から情報に動いており、年代は紀元前4000年頃以後です(図2A)。そのうち1個体(24-5)は、PC2軸ではより高い位置ですが、f3外群分析ではFLR集団の残りと変わらないようです。しかし、もう一方の個体(29-5)はFLR集団との類似性がより少なく、PC2軸と一致していますが、中期新石器時代で知られている地域的変異性とも一致しています。さらに、この個体(29-5)は狩猟採集民祖先系統の量が最低です(図3C)。
上述のように、新石器時代ヨーロッパ人は、遺伝的に分化した在来集団とは異なる狩猟採集民構成要素を有しています(関連記事)。f4統計(外群、FLR外れ値;検証狩猟採集民、ロシュブール)を用いて外れ値2個体(24-5と29-5)における多様な狩猟採集民構成の存在が調べられましたが、条件づけられたルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の在来狩猟採集民個体を超えて、特定の狩猟採集民との誘引は検出されませんでした。次にf3統計(FLR、検証集団;ムブティ人)が適用され、ヨーロッパ新石器時代集団への特定の類似性が検証されましたが、一貫性のない観察が得られ、網羅率の問題、およびひじょうに微妙な違いを識別するためのこの手法により提供される解像度の限界に関連している可能性が高そうです。
最後に、qpAdmを介して外れ値個体(24-5)における祖先系統の遠位供給源も調べられ、新石器時代イラン人で最大化される構成要素の祖先系統が約17%と検出されました。これはヨーロッパ全域の拡散におもに関わった供給源とは別の新石器時代供給源を表しており、その痕跡はヨーロッパ全域のいくつかの新石器時代集団とヨーロッパ南東部の同時代の銅器時代集団でも見つかっています(関連記事1および関連記事2)。この構成要素は、新石器時代における拡大する初期農耕民によりアナトリア半島西部構成要素とともに散発的にもたらされた可能性があり、紀元前4000年頃以前のFLR集団と比較してその外れ値個体(24-5)の明確な区別を説明します。対照的にqpAdmは、もう一方の外れ値個体(29-5)について、特定の追加の構成要素間で区別できず、これはおそらく比較的低い網羅率のためで、モデルを却下する能力の欠如が、不正確な遺伝的特徴づけをもたらしています。
外れ値3個体(24-5と29-5と31-5A)は、紀元前4000年頃以後となるFLR遺跡の第二段階に属しますが(図2A)、29-5号墓のみが逸脱した埋葬特徴を示します。29-5号墓は、塚の外の29号記念碑の南側の溝に沿って位置し(図1A)、副葬品の中に磨かれた斧の切れ口部分があり、紀元前4000年頃以後の考古学的記録に現れます。これは、29-5号墓が塚の建造からずっと後に配置されたことを示唆します。対照的に、他の外れ値個体(24-5と31-5A)の埋葬における扱いは、より古い時期の個体群と区別できません(両者ともに記念碑の中心軸に沿って位置しますが、24-5号墓には鏃が含まれます)。
31-5A個体は、別の個体(31-5B)の10cm上に埋葬され、31-5B個体の年代は墓地の主要時期内に収まります。この2個体の放射性炭素年代における500年の時間的間隙は、その層序的位置を考えると驚くべきことです。しかし、最も新しい時期の個体群の年代の中断は、遺伝的外れ値の状態と一致し、紀元前4000~紀元前3500年頃に先行する共同体とは無関係に、この地域へ新たに到来した集団を示唆します。
FLR遺跡の外れ値2個体(31-5Bと24-5)と主要時期の個体群との間のつながりの性質は、埋葬の連続性と生物学的不連続性との間の矛盾に照らして不明なままです。青銅器時代と古典古代の墓の場合のように、葬儀のつながりは非常に近いので、後の新石器時代期間において古い葬儀の記念碑を無作為に機会主義的に再利用した可能性は低そうです。後の時期の個体群は、FLR遺跡の先祖との象徴的な社会的および/もしくは系図上のつながりを確立するため、意図的に埋葬された、と推測されます。フランス西部の紀元前4000年頃以後のヒト遺骸がおもに羨道墳で発見されること(つまり、死者が間違いなく選ばれた埋葬)は、注目に値します。したがって、これら3個体は、その期間のとくに稀な埋葬状況を表しています。
●遺伝的関連性と空間組織と社会的推論
新石器時代において一般的に観察されたように、FLR遺跡集団におけるミトコンドリアの多様性も比較的高くなっています。じっさい、14個体のうち11個体は異なるmtHgを有していますが、mtHg-K1a+195とU5b1はそれぞれ3個体と2個体に共有されています。対照的に、Y染色体の多様性は低いものの、FLR遺跡の第一段階において特定された2つのYHg(G2a2aとH2m)は、この時期に一般的です。
ソフトウェアHapROHを適用して、本論文の分析対象個体群でROH(runs of homozygosity)が識別されました(図2B)。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(同型接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。この分析に適した高網羅率の9個体のうち、1個体(8-5)のみが長いROHの証拠を示し、その両親がある程度の近親(ハトコなど比較的密接な生物学的関係を共有したかもしれません)だったことを示唆します。1個体(8-5)を除く長いROHの全体的な欠如は、このネクロポリスを使用した集団が充分に大きな規模か、近親交配を避けるための管理された配偶慣行を有していた、と示唆します。
社会組織にさらに光を当てるため、葬儀構造とともに分析された個体間の遺伝的関連性が調べられました。2組(8-5と8-6、および953Aと953B)は1親等の関連があり、親子か全キョウダイ(両親が同じキョウダイ、両親の一方のみを共有する場合は半キョウダイ)と示唆されます。両方の事例で、個体の関連性の組み合わせで同じmtHgが共有されていないことを考えると、父と息子の関係を推測できます。父と息子の組み合わせ(8-5と8-6)は、個体8-5の使用の後期に東方へと拡張された8号記念碑を共有しています(図1A)。細長い部分に埋葬された個体(8-5)の地位は、最初の個体(8-6)の地位を永続させているようです。父から息子への高い社会的地位の継承は、ここでは墓の位置により示唆されています。父と息子の両方が単一の記念碑に埋葬されているという事実は、家族の記念碑との解釈と一致します。
残念ながら、2基の墓を含む他の2ヶ所の記念碑(31号と37号)は、各組み合わせのうち1個体しかゲノムデータを提供しないので、本論文のシナリオへのさらなる裏づけは提供されません。したがって、要注意なのは、8号記念碑で見られる家族はFLR遺跡内では例外である可能性を除外できない、ということです。しかし、二重埋葬の953号墓では、第二の父と息子の組み合わせがあるものの、目に見える記念碑とは関連づけられていません(図1A)。この埋葬は孤立しているか、その記念碑が完全に平に耕されています。野外観察とこの2体(953Aと953B)の骨格の配置分析によると、この2体の同時堆積が最も妥当な解釈です。同時の死亡が共通の墓を説明できると考えると、この組み合わせの地位は記念碑8号の組み合わせとは異なっている可能性が高そうです。
2親等を超えた遺伝的関係は、ソフトウェアREAD(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAからの親族関係推定)では確実には検出できません。しかし、FLR遺跡の全個体間の対での外群f3統計(ムブティ人;個体1、個体2)でも、無関係な個体間の他のより密接な類似性は明らかになりませんでした。現状では、記念碑間の密接な生物学的つながりは検出されていません。FLR墓地の各記念碑が単一系統を表していることを考えると、無関係な個体の数は、生物学的意味で集団の数に大まかには対応しています。したがって、本論文のデータが示唆するのは、FLR遺跡が中心的な場所で、そこでは独立した男性エリートの人物が父系に応じてさまざまな記念碑の個々の墓に集められた、ということです。
FLR遺跡において、遺伝的物質を得られた記念碑で観察されたパターンが他の32ヶ所の記念碑に適用されるか、あるいは置き換えられたならば、多くの系統が墓地を利用したに違いない、と仮定できます。しかし、放射性炭素年代により得られたFLR遺跡の最初の200年の使用期間(過大評価の可能性はあります)を考慮すると、FLR遺跡で回収された個体の数は、厳密な父系相続モデル下で予測される個体数を満たしていません。失われた個体の多くは、発掘された人々と関連していた、と推測できます。
HapROHから得られた結果で、集団全体が充分に大きいと示唆されているとしても、社会的意味での系統の数と氏族の規模との間の関連は、未解決の問題になっています。残念ながら、この地域の居住はこの期間についてよく理解されておらず、それは、記念碑墓地の同時代の居住遺跡が特定されていない、という事実のためです。サン・マルタン・ド・フォントネ(Saint-Martin-de Fontenay)のジグエー(Diguet)の囲い地遺跡はFLR遺跡から3km離れており、例外かもしれませんが、その柵が防御的役割を示唆するのならば、居住機能は判断できません。FLR遺跡周辺の集落の数と規模が不明である限り、墓地に埋葬された重要な個体が出土したこの地域の規模は評価不能です。
個体間のゲノム関連性と墓地の埋葬構成は、生物学的親族の父系体系を示唆します。埋葬の記念碑性は、父親から息子へのこの相続が、社会政治的権威の男性の相続と一致する、と示唆します。これは、ひじょうに体系化された文脈だったに違いないと推測され、それにより女性1個体(31-5B)の存在が注目に値します。この女性の墓は31号記念碑の中央軸に位置しており、全ての男性と同様に、使用の第一段階でのことでした。さらに、彼女は4点の鏃とともに埋葬されており、この鏃は、セルニー文化では男性と排他的に関連していると考えられている様式です。この場合、男性の性別(ジェンダー)による人工物の帰属は、生物学的性別帰属性を超えています。これは、この女性にとっての必須条件と、したがって、葬儀を通じてこの記念碑墓地への利用を認められた、男性として提示された性別(ジェンダー)を示唆しています。
●まとめ
パッシー現象の特定の建造物は、ゲノムデータが利用可能な、おもにブリテン島とアイルランド島の大西洋沿岸の後の期間で知られている、他の記念碑的文脈とはひじょうに強く対照的です。アイルランド島では、羨道墳には数個体(時には数十個体)を収容できる部屋があります。成人の男女と亜成人はともに埋葬され、その遺伝的親族が示唆するのは、島の水準にて、生物学的および社会的親族の意味で、葬儀構成が完全な家族体系で構築されている、ということです(関連記事)。
ブリテン島では、ヘイズルトンノース(Hazleton North)の新石器時代の石塚に5世代の家族27個体が含まれ、配偶の複雑なパターンがあり、密接な生物学的関連性で強く築かれた葬儀体系を示します(関連記事)。羨道墳での死者の扱いは、パッシー式の巨大で長い塚に埋葬された数個体の埋葬とはきわだって対照的です。どちらもかなりの大きさですが、この埋葬記念碑の2つの様式は、異なる選択習慣やおそらくは社会組織および地位体系の異なる形態を示しており、全ての記念碑的建造物が同じ意味を有するわけではない、と示唆します。
FLR遺跡の集団全体で利用可能な古代DNAは、この遺跡の理解を大きく高めます。FLR遺跡に埋葬された個体の特定の選択は、当時のより大きな共同体の代表的な断片とはみなせません。FLR遺跡で埋葬された男性エリートは、パリ盆地で観察された体系、つまりパッシー型記念碑埋葬現象と多くの類似性を共有していました。しかし、要注意なのは、ノルマンディーとパリ盆地が同じ埋葬現象の一部だったとしても、地域ごとに表現がことなることです。
FLR遺跡の観察がパッシー現象全体に適用できないことにも、注意が必要です。たとえば、FLRのネクロポリスにおける亜成人の欠如は、重要な対比点を構成します。パリ盆地では、数人の子供が成人男性と類似した社会的地位もしくは機能を有しています。FLR遺跡における遺伝的識別特性により示唆された父親から成人の息子への明らかに排他的な父系体系はパリ盆地の状況とは対照的で、特権的人物の生涯における相続戦略と子供の地位に疑問を提起します。骨の保存の問題や墓の浅さのために子供の遺骸が時間の経過により消えて見つからなかったか、さもなれば、高い地位の獲得はより年長になってのみ認められました。
最後に、FLR遺跡の埋葬パターン内で女性が1個体だけ統合されていることは、女性が男性と同じく多数埋葬されたパリ盆地の記念碑墓地における死者の選択とは異なっています。しかし、FLR遺跡における男女の埋葬間の区別は、男性の評価を高めることにつながるので、女性は見えにくくなります。FLR遺跡では、男性の象徴を授けられた女性が1個体だけ存在することで、セルニー文化の地域的表現における男性の帰属性の重要性が強調されます。
参考文献:
Rivollat M. et al.(2022): Ancient DNA gives new insights into a Norman Neolithic monumental cemetery dedicated to male elites. PNAS, 119, 15, e2120786119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2120786119
本論文では、先史時代の社会が血縁関係・子孫の集団への組織化(規模に応じて家族か氏族か部族)とみなされ、その子供は民族学的定義によると生物学的父親の集団に帰属します。他の学者は冶金開始後の父系制度を説明しますが(関連記事1および関連記事2)、これらは利用可能なデータで常に論証可能とは限りません(関連記事)。DNAデータと並行して得られたか、独立して得られた放射性ストロンチウム同位体比は、そのパターンの特定に役立つことができます(関連記事)。女性の外来を示す同位体兆候は多くの場合、女性族外婚に基づく父方居住親族制度における女性の移動性の証拠として解釈されます。本論文で組み合わされた証拠は、女性が外部集団から来るのに対して、男性の父方家族における結婚後の居住を示唆します(関連記事)。
フランスのノルマンディーのフルーリー・シュル・オルヌ(Fleury-sur-Orne、略してFLR)の墓地(図1)は、ヨーロッパで最初の記念碑的埋葬の出現に属しており、大西洋の巨石社会に先行します。紀元前五千年紀の第2四半期に建てられたこの記念碑的埋葬は、土で造られた長い塚で構成されており、その長さは一部では300mに至ります。これらの記念碑は「パッシー(Passy)」現象に属し、その名称は遺跡名に由来します。これらの記念碑は、局所的な中期新石器時代が始まった、紀元前4700年頃のヨンヌ県とセーヌ川上流域(以下、パリ盆地)に起源がある、セルニー(Cerny)文化の一部です。その後、パッシー型記念碑もしくはパッシー型建造物(STP)は、FLRが位置するノルマンディーに広がりました。以下は本論文の図1です。
パッシー型記念碑はおそらく、高位の個人を記念して建てられました。これまで、個人の社会的地位の解釈は、パリ盆地の資料集成で行なわれた生物考古学的分析に基づいています。記念碑的墓地の埋葬の特徴は、死者の生物学的および社会的地位による墓地の空間的構成とともに、詳細に調べられています。男女両方がこれらの墓地に埋葬され、亜成人も同様です。セルニー文化の墓地全体で、埋葬慣行は社会的地位と性別(ジェンダー)による階層化の一貫した定義を共有しているようです。具体的には、矢や矢筒やおそらくは弓とともに埋葬された権力者の1分類は、「狩猟者」として特定されています。成人の資料集成では、これらの狩猟者は男性だけで、その筋骨格のストレス標識はアーチェリーの活動と一致します。まとめると、男性かアーチェリーか狩猟か、さらに広く野生世界に与えられた認識は、パリ盆地におけるセルニー文化の観念形態を特徴づけます。
ノルマンディーでは、パッシー型記念碑はセルニー文化にも属しています。FLRの他に、航空調査によって3ヶ所の記念碑的墓地が知られており、それはロッツ(Rots)とブランヴィル・シュル・オルヌ(Blainville-sur-Orne)とキュルヴェルヴィル(Cuverville)です。これら4ヶ所の記念碑墓地は緊密な塊を形成しており、約10kmの間隔で配置されています(図1A)。FLRは広範に発掘された唯一の墓地で、パッシー現象のノルマンディーの基準となっています。墓地には合計で32ヶ所のSTPがあり、そのうち1つの塚(29号記念碑)はまだ保存されていました。17基の墓が、塚の半分の中心軸に沿って見つかりました。ほとんどの記念碑には単一墓がありますが、そのうち3ヶ所(8号と31号と37号)には墓が2基あり、1ヶ所の記念碑(28号)には墓が3基あります。
興味深いことに、1ヶ所の二重埋葬(953号墓)は、目に見える記念碑と関連していません(図1A)。記念碑的建物と墓と死者の社会的地位に関するデータは、パリ盆地における遺跡との現象の均一性を証明します。FLR墓地の構造は、パリ盆地セルニー文化墓地の構造と同じ習慣を守っています。墓と死者と特定の副葬品(矢)は、共有された象徴的関係を確証します。骨格の形態学的性別評価は、部分的にしか保存されていませんが、男性が多いことを示唆します。しかし、FLRにおける死者の埋葬体系および堆積パターンのいくつかの側面(たとえば、墓にある皮を剥がれたヒツジの供物)は、亜成人の欠如もしくは側溝での埋葬とともに、パリ盆地の埋葬とは異なっています。他のノルマンディー地域の遺跡の利用可能な情報がほとんどないこと(長い塚や鏃やヒツジ)、とくにロッツ遺跡で行なわれた部分的調査によると、ノルマンディーの墓地は、パリ盆地やFLRとの特有の類似性についてさらに解明することがなければ、パッシー現象に属していると推測できます。
15個体の骨格要素からの直接的な放射性炭素年代測定は、主要な使用時期が紀元前4600~紀元前4300年頃だったことを示唆します。全員既存の記念碑内に埋葬された新石器時代の3個体(記念碑24号と29号と31号)の年代は、紀元前4000年頃以後となります。紀元前四千年紀前半には、石の新たな塚が建造されましたが、より新しい期間(青銅器時代と古典古代)には、既存の記念碑内に時折埋葬が追加されました。これらのより新しい期間の埋葬は、本論文では検討されません。
これまで、パッシー型墓地に埋葬された人々の古代DNA分析は、FLRの数個体を標的として、大陸水準での集団遺伝学的類似性に焦点が当てられました(関連記事)。FLRの遺跡内分析は、生物学的関連性および考古学的文脈に基づいて、集団の社会組織を推測する可能性を提供します。FLR遺跡には均質な集団が居住していたのでしょうか?墓地には1家族もしくは数家族が葬られましたか?(生物学的)子孫の慣習は集団の遺伝的構造から推測できますか?そうした調査は、記念碑の地位(関連しているか独立した系統)、墓地自体の地位(地元の1エリート系統なのか、複数の集中した系統なのか)、より広く紀元前五千年紀末と紀元前四千年紀初頭との間の地域の居住に間接的に取り組みます。
●データ概要
本論文は、FLRの完全な新石器時代遺跡のゲノム規模データを提示します。以前の研究(関連記事)のデータに6個体が新たに追加され、FLR遺跡で発見された新石器時代の19個体のうち15個体で、古代DNAデータが得られました(錐体骨が8点、歯が3点、長骨が4点)。残りの4個体は、骨格の保存状態がひじょうに悪かったので、標本抽出できませんでした。さらに、調査対象の個体すべてに放射性炭素年代があります。0.05%超の内在性DNAのライブラリだけが選択され、1個体(37-6)が除外されました。この品質基準に合格した残りの14個体については、約120万ヶ所の一塩基多型(SNP)で濃縮され(1240kデータ)、完全なミトコンドリアゲノムデータとY染色体データが得られ、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました(図2A)。以下は本論文の図2です。
1240kデータについては、ヒトゲノムを疑似半数体とみなして、部位ごとに1つのアレル(対立遺伝子)が無作為に呼び出されました。遺伝的性別と片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のみが報告されている1個体(31-5A)を除いて、13個体がゲノム規模下流分析に用いられました。FLR遺跡のヒト遺骸の保存状態が良好ではないので、限定的な骨学的観察しかできませんが、形態学的年齢分類は広範なものの、全個体が成人に分類されました。パリ盆地のセルニー文化の比較骨格データに基づき、骨盤を用いて二次診断法にしたがって、骨学的男性が4個体で推定できました。遺伝的(染色体)性別は14個体で特定でき、そのうち13個体が男性で、1個体が女性でした。
mtDNAが分析され、FLR遺跡の全個体で決定された完全なミトコンドリアゲノム再構築に基づいて、11の異なるハプロタイプが特定されました。これらはおもに、新石器時代農耕民に特徴的なmtHg-J・K・T・Hです。3個体(1-5と8-6と953A)のmtHgはU5bの派生系統で、31-5A個体のmtHgは、ヨーロッパの中石器時代狩猟採集民(HG)から継承された可能性が高いU8a1です。mtHg-U5・U8の割合は、中期新石器時代のヨーロッパ西部で観察された核およびミトコンドリアゲノムの両方での、狩猟採集民的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合と一致しています。
FLR遺跡の男性のYHgは、少なくとも3つの異なるハプログループに特定されました。一部の個体は(1-5、8-5、8-6、24-5、26-5)、以前の研究(関連記事)で分析されました。YHg-H2(P96)は6個体で確認され、パリ盆地の他の新石器時代遺跡でも見つかっています。YHg-G2a2a1a(PF3177)は3個体で確認され、YHg-G2a2a(PF3147)は2個体以上で確認されたものの、それ以上細分するのに利用可能な診断SNPはありません。YHg-H2・G2aは現在のドイツとフランスの前期および中期新石器時代においては一般的で、アナトリア半島農耕民および関連する初期ヨーロッパ農耕民の多数で見られる主要なYHgです。
さらに、FLR遺跡では特定のYHg-H2mが見つかっています。これは最近になって、地中海新石器時代拡散経路との関連で記載されており(関連記事)、アイルランドでも発見されているので、フランスの新石器時代集団を地中海の新石器時代拡大と関連づけます。なお、現在の遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)の命名法に関して、YHg-H2mはYHg-H2とH2aとH2a1とH2c1aのSNPの混合により定義づけられることに要注意です。Y染色体のSNPがひじょうに少ないため、1個体(24-5)はYHg-H2*に分類できたものの、それ以上の分類はできませんでした。最後に、2個体(29-5と31-5A)はそれぞれYHg-I2a1aとI2a1a2で、上部旧石器時代と中石器時代の狩猟採集民で一般的なYHg-I2の下位系統となります。このYHgは前期~後期新石器時代のヨーロッパ西部でも見つかっており、現在まで存続しています。
●遺伝的識別と人口史
ユーラシア西部現代人のデータセットで主成分分析(PCA)が用いられ、古代の個体群がその遺伝的差異に投影され、拡張データセットが定性的に調べられました(図3A)。FLR遺跡集団は、ヨーロッパ西部の新石器時代個体群と同様に、フランスの同時代の中期新石器時代集団の変動性内に収まりますが、例外となる外れ値2個体(24-5と29-5)があり、その年代は紀元前4000年頃以後で、別々に説明されます。集団多様性を検証するため、f3外群検定(個体1、個体2;ムブティ人)が、制御として同時代の遺跡に由来する3個体を加えて、FLR遺跡の全個体に適用されました。FLR遺跡で最古級となる5個体(19-5、26-5、28-6、35-5、37-5)のまとまりが際立っており、墓地の初期段階における小さな共同体が示唆されます。しかし、この5個体のYHgはH2*とG2a*の両方で、少なくとも2つの父系が最初期からFLR遺跡を使用していた、と示唆されます。FLR遺跡の全個体は、異なる地域集団間よりも高い集団類似性を有しています。この発見は、地域的にノルマンディーに限られた共同体によるFLR遺跡の初期使用との仮説を裏づけ、パリ盆地かフランスの東部か西部の比較対象である同年代の個体群による使用の可能性は低そうです。以下は本論文の図3です。
YHg-H2mの発見を反映して、f3統計(FLR、検証集団;ムブティ人)によると、紀元前4000年前頃以前のFLR集団(FLR>4000)は、ヨーロッパ中央部もしくはフランス東部の集団とよりも、新石器時代拡大の第一段階における前期新石器時代イベリア半島集団の方とわずかに高い類似性を示します。紀元前5000年頃以降、より東方の地域もしくはイタリア半島集団と比較して、最初はフランスで、後にブリテン島とアイルランド島で、ひじょうに類似したf3値が観察されます。
次に、f4統計(ムブティ人、検証集団A;FLR>4000、検証集団B)を用いてFLR集団と他のフランス集団との間のクレード(単系統群)性が検証されました。この場合、新石器時代ヨーロッパのA集団と、フランスのさまざまな新石器時代期間と地域のB集団が検証されました。その結果、FLR>4000は、パリ盆地のギュルジー(Gurgy、略してGRG)遺跡やアルザスのミヒェルスベルク(Michelsberg)のベルクハイム(Bergheim)やフランス南部のクロス・デ・ロック(Clos de Roque)など、中期新石器時代フランス集団とクレードを形成すると分かり、この時代における大規模な遺伝的均質性を示唆します。
しかし、FLR>4000は先行する前期新石器時代の線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)集団とはクレードを形成せず、代わりに、紀元前五千年紀以降のイタリア半島とイベリア半島とドイツの全てのヨーロッパ西部集団、および紀元前4000年頃に先行するアイルランド島の集団とより高い類似性を有しています。これはPCAで観察されたLBKフランス集団の、ヨーロッパ南東部および中央部の前期新石器時代集団との遺伝的類似性、およびFLR>4000が属する中期新石器時代ヨーロッパ西部クラスタ(まとまり)との明確な断絶を確証します。
しかし、興味深いことに、FLR>4000とフランス南部の前期新石器時代遺跡であるペンディモン(Pendimoun、略してPEN)との間のクレード性を検証すると、FLR>4000はイタリア半島およびイベリア半島の前期新石器時代集団と同様に、ドナウ川沿いの拡大の波の初期段階の新石器時代集団と、より多い祖先系統を共有しています。ペンディモン遺跡集団に存在する過剰な狩猟採集民祖先系統はこのパターンを説明し、前期新石器時代におけるこの地域の特異性を浮き彫りにします。全体的に、FLRの初期段階は前期新石器時代イベリア半島集団との遺伝的類似性、次により広範にヨーロッパ西部全域(つまり、イベリア半島とブリテン島およびアイルランド島を含む大西洋沿岸)によって特徴づけられ、新石器時代について以前に論証されたつながりを(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)反映しており、上述のYHg-H2mと一致します。
2個体(24-5と29-5)はともに、PCAでは主要なFLR集団から情報に動いており、年代は紀元前4000年頃以後です(図2A)。そのうち1個体(24-5)は、PC2軸ではより高い位置ですが、f3外群分析ではFLR集団の残りと変わらないようです。しかし、もう一方の個体(29-5)はFLR集団との類似性がより少なく、PC2軸と一致していますが、中期新石器時代で知られている地域的変異性とも一致しています。さらに、この個体(29-5)は狩猟採集民祖先系統の量が最低です(図3C)。
上述のように、新石器時代ヨーロッパ人は、遺伝的に分化した在来集団とは異なる狩猟採集民構成要素を有しています(関連記事)。f4統計(外群、FLR外れ値;検証狩猟採集民、ロシュブール)を用いて外れ値2個体(24-5と29-5)における多様な狩猟採集民構成の存在が調べられましたが、条件づけられたルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の在来狩猟採集民個体を超えて、特定の狩猟採集民との誘引は検出されませんでした。次にf3統計(FLR、検証集団;ムブティ人)が適用され、ヨーロッパ新石器時代集団への特定の類似性が検証されましたが、一貫性のない観察が得られ、網羅率の問題、およびひじょうに微妙な違いを識別するためのこの手法により提供される解像度の限界に関連している可能性が高そうです。
最後に、qpAdmを介して外れ値個体(24-5)における祖先系統の遠位供給源も調べられ、新石器時代イラン人で最大化される構成要素の祖先系統が約17%と検出されました。これはヨーロッパ全域の拡散におもに関わった供給源とは別の新石器時代供給源を表しており、その痕跡はヨーロッパ全域のいくつかの新石器時代集団とヨーロッパ南東部の同時代の銅器時代集団でも見つかっています(関連記事1および関連記事2)。この構成要素は、新石器時代における拡大する初期農耕民によりアナトリア半島西部構成要素とともに散発的にもたらされた可能性があり、紀元前4000年頃以前のFLR集団と比較してその外れ値個体(24-5)の明確な区別を説明します。対照的にqpAdmは、もう一方の外れ値個体(29-5)について、特定の追加の構成要素間で区別できず、これはおそらく比較的低い網羅率のためで、モデルを却下する能力の欠如が、不正確な遺伝的特徴づけをもたらしています。
外れ値3個体(24-5と29-5と31-5A)は、紀元前4000年頃以後となるFLR遺跡の第二段階に属しますが(図2A)、29-5号墓のみが逸脱した埋葬特徴を示します。29-5号墓は、塚の外の29号記念碑の南側の溝に沿って位置し(図1A)、副葬品の中に磨かれた斧の切れ口部分があり、紀元前4000年頃以後の考古学的記録に現れます。これは、29-5号墓が塚の建造からずっと後に配置されたことを示唆します。対照的に、他の外れ値個体(24-5と31-5A)の埋葬における扱いは、より古い時期の個体群と区別できません(両者ともに記念碑の中心軸に沿って位置しますが、24-5号墓には鏃が含まれます)。
31-5A個体は、別の個体(31-5B)の10cm上に埋葬され、31-5B個体の年代は墓地の主要時期内に収まります。この2個体の放射性炭素年代における500年の時間的間隙は、その層序的位置を考えると驚くべきことです。しかし、最も新しい時期の個体群の年代の中断は、遺伝的外れ値の状態と一致し、紀元前4000~紀元前3500年頃に先行する共同体とは無関係に、この地域へ新たに到来した集団を示唆します。
FLR遺跡の外れ値2個体(31-5Bと24-5)と主要時期の個体群との間のつながりの性質は、埋葬の連続性と生物学的不連続性との間の矛盾に照らして不明なままです。青銅器時代と古典古代の墓の場合のように、葬儀のつながりは非常に近いので、後の新石器時代期間において古い葬儀の記念碑を無作為に機会主義的に再利用した可能性は低そうです。後の時期の個体群は、FLR遺跡の先祖との象徴的な社会的および/もしくは系図上のつながりを確立するため、意図的に埋葬された、と推測されます。フランス西部の紀元前4000年頃以後のヒト遺骸がおもに羨道墳で発見されること(つまり、死者が間違いなく選ばれた埋葬)は、注目に値します。したがって、これら3個体は、その期間のとくに稀な埋葬状況を表しています。
●遺伝的関連性と空間組織と社会的推論
新石器時代において一般的に観察されたように、FLR遺跡集団におけるミトコンドリアの多様性も比較的高くなっています。じっさい、14個体のうち11個体は異なるmtHgを有していますが、mtHg-K1a+195とU5b1はそれぞれ3個体と2個体に共有されています。対照的に、Y染色体の多様性は低いものの、FLR遺跡の第一段階において特定された2つのYHg(G2a2aとH2m)は、この時期に一般的です。
ソフトウェアHapROHを適用して、本論文の分析対象個体群でROH(runs of homozygosity)が識別されました(図2B)。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(同型接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。この分析に適した高網羅率の9個体のうち、1個体(8-5)のみが長いROHの証拠を示し、その両親がある程度の近親(ハトコなど比較的密接な生物学的関係を共有したかもしれません)だったことを示唆します。1個体(8-5)を除く長いROHの全体的な欠如は、このネクロポリスを使用した集団が充分に大きな規模か、近親交配を避けるための管理された配偶慣行を有していた、と示唆します。
社会組織にさらに光を当てるため、葬儀構造とともに分析された個体間の遺伝的関連性が調べられました。2組(8-5と8-6、および953Aと953B)は1親等の関連があり、親子か全キョウダイ(両親が同じキョウダイ、両親の一方のみを共有する場合は半キョウダイ)と示唆されます。両方の事例で、個体の関連性の組み合わせで同じmtHgが共有されていないことを考えると、父と息子の関係を推測できます。父と息子の組み合わせ(8-5と8-6)は、個体8-5の使用の後期に東方へと拡張された8号記念碑を共有しています(図1A)。細長い部分に埋葬された個体(8-5)の地位は、最初の個体(8-6)の地位を永続させているようです。父から息子への高い社会的地位の継承は、ここでは墓の位置により示唆されています。父と息子の両方が単一の記念碑に埋葬されているという事実は、家族の記念碑との解釈と一致します。
残念ながら、2基の墓を含む他の2ヶ所の記念碑(31号と37号)は、各組み合わせのうち1個体しかゲノムデータを提供しないので、本論文のシナリオへのさらなる裏づけは提供されません。したがって、要注意なのは、8号記念碑で見られる家族はFLR遺跡内では例外である可能性を除外できない、ということです。しかし、二重埋葬の953号墓では、第二の父と息子の組み合わせがあるものの、目に見える記念碑とは関連づけられていません(図1A)。この埋葬は孤立しているか、その記念碑が完全に平に耕されています。野外観察とこの2体(953Aと953B)の骨格の配置分析によると、この2体の同時堆積が最も妥当な解釈です。同時の死亡が共通の墓を説明できると考えると、この組み合わせの地位は記念碑8号の組み合わせとは異なっている可能性が高そうです。
2親等を超えた遺伝的関係は、ソフトウェアREAD(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAからの親族関係推定)では確実には検出できません。しかし、FLR遺跡の全個体間の対での外群f3統計(ムブティ人;個体1、個体2)でも、無関係な個体間の他のより密接な類似性は明らかになりませんでした。現状では、記念碑間の密接な生物学的つながりは検出されていません。FLR墓地の各記念碑が単一系統を表していることを考えると、無関係な個体の数は、生物学的意味で集団の数に大まかには対応しています。したがって、本論文のデータが示唆するのは、FLR遺跡が中心的な場所で、そこでは独立した男性エリートの人物が父系に応じてさまざまな記念碑の個々の墓に集められた、ということです。
FLR遺跡において、遺伝的物質を得られた記念碑で観察されたパターンが他の32ヶ所の記念碑に適用されるか、あるいは置き換えられたならば、多くの系統が墓地を利用したに違いない、と仮定できます。しかし、放射性炭素年代により得られたFLR遺跡の最初の200年の使用期間(過大評価の可能性はあります)を考慮すると、FLR遺跡で回収された個体の数は、厳密な父系相続モデル下で予測される個体数を満たしていません。失われた個体の多くは、発掘された人々と関連していた、と推測できます。
HapROHから得られた結果で、集団全体が充分に大きいと示唆されているとしても、社会的意味での系統の数と氏族の規模との間の関連は、未解決の問題になっています。残念ながら、この地域の居住はこの期間についてよく理解されておらず、それは、記念碑墓地の同時代の居住遺跡が特定されていない、という事実のためです。サン・マルタン・ド・フォントネ(Saint-Martin-de Fontenay)のジグエー(Diguet)の囲い地遺跡はFLR遺跡から3km離れており、例外かもしれませんが、その柵が防御的役割を示唆するのならば、居住機能は判断できません。FLR遺跡周辺の集落の数と規模が不明である限り、墓地に埋葬された重要な個体が出土したこの地域の規模は評価不能です。
個体間のゲノム関連性と墓地の埋葬構成は、生物学的親族の父系体系を示唆します。埋葬の記念碑性は、父親から息子へのこの相続が、社会政治的権威の男性の相続と一致する、と示唆します。これは、ひじょうに体系化された文脈だったに違いないと推測され、それにより女性1個体(31-5B)の存在が注目に値します。この女性の墓は31号記念碑の中央軸に位置しており、全ての男性と同様に、使用の第一段階でのことでした。さらに、彼女は4点の鏃とともに埋葬されており、この鏃は、セルニー文化では男性と排他的に関連していると考えられている様式です。この場合、男性の性別(ジェンダー)による人工物の帰属は、生物学的性別帰属性を超えています。これは、この女性にとっての必須条件と、したがって、葬儀を通じてこの記念碑墓地への利用を認められた、男性として提示された性別(ジェンダー)を示唆しています。
●まとめ
パッシー現象の特定の建造物は、ゲノムデータが利用可能な、おもにブリテン島とアイルランド島の大西洋沿岸の後の期間で知られている、他の記念碑的文脈とはひじょうに強く対照的です。アイルランド島では、羨道墳には数個体(時には数十個体)を収容できる部屋があります。成人の男女と亜成人はともに埋葬され、その遺伝的親族が示唆するのは、島の水準にて、生物学的および社会的親族の意味で、葬儀構成が完全な家族体系で構築されている、ということです(関連記事)。
ブリテン島では、ヘイズルトンノース(Hazleton North)の新石器時代の石塚に5世代の家族27個体が含まれ、配偶の複雑なパターンがあり、密接な生物学的関連性で強く築かれた葬儀体系を示します(関連記事)。羨道墳での死者の扱いは、パッシー式の巨大で長い塚に埋葬された数個体の埋葬とはきわだって対照的です。どちらもかなりの大きさですが、この埋葬記念碑の2つの様式は、異なる選択習慣やおそらくは社会組織および地位体系の異なる形態を示しており、全ての記念碑的建造物が同じ意味を有するわけではない、と示唆します。
FLR遺跡の集団全体で利用可能な古代DNAは、この遺跡の理解を大きく高めます。FLR遺跡に埋葬された個体の特定の選択は、当時のより大きな共同体の代表的な断片とはみなせません。FLR遺跡で埋葬された男性エリートは、パリ盆地で観察された体系、つまりパッシー型記念碑埋葬現象と多くの類似性を共有していました。しかし、要注意なのは、ノルマンディーとパリ盆地が同じ埋葬現象の一部だったとしても、地域ごとに表現がことなることです。
FLR遺跡の観察がパッシー現象全体に適用できないことにも、注意が必要です。たとえば、FLRのネクロポリスにおける亜成人の欠如は、重要な対比点を構成します。パリ盆地では、数人の子供が成人男性と類似した社会的地位もしくは機能を有しています。FLR遺跡における遺伝的識別特性により示唆された父親から成人の息子への明らかに排他的な父系体系はパリ盆地の状況とは対照的で、特権的人物の生涯における相続戦略と子供の地位に疑問を提起します。骨の保存の問題や墓の浅さのために子供の遺骸が時間の経過により消えて見つからなかったか、さもなれば、高い地位の獲得はより年長になってのみ認められました。
最後に、FLR遺跡の埋葬パターン内で女性が1個体だけ統合されていることは、女性が男性と同じく多数埋葬されたパリ盆地の記念碑墓地における死者の選択とは異なっています。しかし、FLR遺跡における男女の埋葬間の区別は、男性の評価を高めることにつながるので、女性は見えにくくなります。FLR遺跡では、男性の象徴を授けられた女性が1個体だけ存在することで、セルニー文化の地域的表現における男性の帰属性の重要性が強調されます。
参考文献:
Rivollat M. et al.(2022): Ancient DNA gives new insights into a Norman Neolithic monumental cemetery dedicated to male elites. PNAS, 119, 15, e2120786119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2120786119
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