平山優『武田氏滅亡』
角川選書の一冊として、角川学芸出版より2017年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は武田氏滅亡の過程を、おもに武田勝頼の武田氏の家督継承の頃から取り上げますが、勝頼の誕生の背景と、諏方氏を継ぐべき人物として位置づけられていたことにも序章で言及しています。ただ、諏方家臣団の反発を考慮してか、勝頼の諏方氏当主としての実質的な行動はなく、勝頼は中途半端な位置づけの人物で、父の武田信玄とその嫡男の義信を支える武田御一門衆の一人として一生を過ごすはずだった、と本書は指摘します。ただ、勝頼は兄の義信に次ぐ地位に位置づけられ、信玄の弟など他の武田御一門衆よりも上位に位置づけられていたようです。
武田氏における勝頼の位置づけが大きく変わったのは、武田と今川の関係が悪化し、義信が幽閉された後に若くして没したからです。信玄は1568年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)12月、今川との同盟を破棄して駿河に侵攻します。本書は、今川領国の動揺を見た信玄が、1563年頃には今川との同盟関係を再考し始めていたのではないか、と推測します。信玄は同盟国の今川よりも、今川氏当主の氏真が敵視する織田氏との関係を優先し、同盟を締結します。このように武田氏と今川氏との関係が悪化する中で、信玄と嫡男の義信の関係も悪化しました。義信は岳父である今川義元の存命中から今川寄りの立場を取るなど武田氏では今川派の代表的存在で、父の信玄はそれに不満だったようです。1565年、義信方の武田氏重臣が粛清され、義信は幽閉処分となり、1567年に没しました。
今川氏との関係が悪化し、同盟を破棄するに至って、武田氏は北条氏から同盟を破棄され、窮地に陥ります。信玄はこの窮地を、長きにわたって宿敵だった上杉氏との和睦や、織田氏および徳川氏との同盟で切り抜けようとしますが、今川領を分割すべく盟約を結んだ徳川とは、今川領の分割で対立し、やがて明確な敵対関係となります。信玄は徳川氏の同盟相手である織田氏に徳川家康を見放すよう要請しますが、織田信長は応じず、中立的立場を堅持します。義信の死後、1571年に勝頼は甲府に迎え入れられ、義信に代わる後継者として位置づけられます。北条氏康の死後、上杉謙信に不信感を抱いていた息子の北条氏政は武田氏との同盟を復活させ、武田氏の外交的立場は改善されます。これを受けて信玄は、家康との同盟を続ける信長にも不信感を募らせていたことから、織田氏を攻撃対象と考えるに至ったようです。1572年10月、信玄は徳川領への侵攻を開始し、武田氏と織田氏の同盟関係は終わりますが、信長はこれを信玄の裏切りと考え、深く恨んでいたようです。こうして徳川氏と織田氏を敵に回した状態で、1573年4月12日、信玄は病没します。信玄の後を継いだ勝頼は、この関係も引き継ぐことになり、それが外交や軍事行動も含めて勝頼の行動を制約することになりました。
遺言により父である信玄の死を秘匿しながら新たな武田家当主としての活動を始めた勝頼ですが、その権力基盤は不安定だったようで、内藤昌秀など家督相続以前から関係の悪い重臣がいたようです。本書は、こうした勝頼の権力基盤の脆弱性はその出生に起因する、と指摘します。勝頼は「諏方四郎勝頼」もしくは俗称で「伊那四郎」であり、「武田勝頼」ではなかった、というわけです。信玄の息子は、勝頼を除いてその名前には武田氏の通字である「信」が入っています。この家督継承期の諸問題に勝頼が対処し、軍事行動が停滞していた間に、同盟関係にあった朝倉氏と浅井氏は信長に攻め滅ぼされ、境目の国衆の中には離叛する者もいました。勝頼は1574年になって本格的な軍事行動を開始し、遠江の徳川方の高天神城を攻略するなど、成果を挙げます。これにより、信長は勝頼への低評価を改め、警戒するようになります。しかし、1575年5月21日の長篠合戦で武田軍は徳川と織田の連合軍に大敗し、多くの重臣が討ち死にします。本書は、勝頼には決戦志向があり、それは権力基盤の脆弱性を克服するための焦りのためでもあっただろう、と指摘します。
勝頼は長篠合戦での大敗北後、北条氏との縁組や武田御一門衆の穴山信君の重用などにより、領国支配を立て直し、徳川氏および織田氏との対決に備えようとします。また、長篠合戦で多くの重臣が討ち死にしたことにより、信玄以来の譜代家老衆の力が弱まり、勝頼側近の家臣団が台頭します。長篠合戦での大敗北後、武田氏は遠江や三河や東美濃の所領も失っていきますが、勝頼は劣勢に立たされたことを認識していたようで、1575年10月頃には宿敵の上杉氏との和睦を成立させます。本書は織田氏と上杉氏の断交の一因として、この武田氏と上杉氏の和睦を挙げています。勝頼は足利義昭の構想に同意して上杉・北条との三国同盟締結を図り、これは北関東の諸大名の反対もあってか挫折したものの、毛利輝元とは同盟を締結し、上杉と北条との関係を強化しつつ、信長と対峙します。
こうして信長と対峙すべく北条や上杉や毛利などと提携していた勝頼ですが、1578年3月に上杉謙信が急死し、情勢が大きく変わります。謙信の死後、養子の景勝と景虎の間で抗争が勃発しますが(御館の乱)、景勝の家督相続は直ちに認められており、家督相続争いが乱の直接的契機ではなかったようです。乱の直接的契機は景勝と三条城主の神余親綱との対立で、景勝の強硬な方針に反感を抱いた越後国衆が景勝に反乱を起こし、景虎を擁立して本格的な内乱となりました。この時、北条氏政は北関東の諸大名との戦いに忙殺されており、勝頼に援軍を要請したものの、直ちに異母弟の景虎救出のため越後に大軍を派兵できる状況にはありませんでした。その後、氏政は上野まで進軍したものの、越後には本格的に侵攻せず、降雪を恐れてか撤収します。氏政の要請に応じて越後への侵攻のため北信濃に軍を進めた勝頼は、景勝から和睦の提案に困惑したようですが、武田信豊と春日虎綱の献言もあり、進軍を停止し、交渉を継続します。武田軍が停止中に景勝が各地の景虎勢力を攻撃すると、武田軍は再度前進し、春日山城まで18kmの地点まで迫りますが、上述のように北条軍の動きが鈍かったため、武田軍のみが負担を負う状況になっていました。この情勢で勝頼は景勝と和睦しますが、本書は景勝から勝頼への提案条件を、謙信存命時からの上杉と武田の和睦の延長だったのではないか、と推測しています。ただ、景勝が和睦から軍事同盟に昇華させようとしたのに対して、勝頼は北条氏との調整に注意を払っていなかったようだ、と指摘します。しかし、勝頼と景勝の同盟は景勝と景虎の和睦を前提としたものだったので、景虎と北条氏は攻撃対象から除外されていました。結局、景勝と景虎の和睦は短期間で破綻したものの、勝頼は両者の間で中立的立場を示しつつ、北信濃などで領土を拡大することに成功します。本書は、勝頼が御館の乱を収束させ、最終的には武田と北条と上杉の三国同盟成立を構想していたのではないか、と推測します。御館の乱は、北条軍が越後まで侵攻しなかったこともあって、景勝が優勢となり、景虎は1579年3月に自害に追い込まれます。
この御館の乱の結果、武田氏と北条氏の関係は悪化し、ついには同盟決裂となります。氏政は勝頼に、景虎に加勢して景勝を攻め滅ぼすよう期待していましたが、上述のように勝頼は景勝と景虎の和睦を図り、景勝と同盟を締結します。氏政はこの件で勝頼への不信感を強め、それが武田氏と北条氏との同盟決裂の要因となったようです。北条氏との関係が悪化したことで、勝頼は新たな同盟を模索し、佐竹氏と接触します。武田氏と佐竹氏の同盟は1579年10月までには成立しましたが、勝頼の意図は単なる北条氏対策ではなく、織田との和睦も見据えたものでした。一方、北条氏は長年武田氏と対立してきた徳川氏と同盟を締結し、さらには織田氏にも接近します。勝頼は、信長が荒木村重の離反などで苦戦していることから、織田氏との和睦に期待をかけていたようですが、信長は西国情勢が好転したことから、武田氏討滅の方針を変えませんでした。勝頼は、信長の養女を母とする息子の信勝への家督継承や、人質として甲斐にいた信長の息子の源三郎(信房)の送還により織田氏との和睦を図りますが、結局和睦は実現しませんでした。
こうして勝頼の織田氏との和睦交渉は失敗に終わりましたが、本願寺を屈伏させるまで織田軍が西国に注力していたこともあり、武田氏は上野などで北条氏の勢力圏を奪っていき、本拠地を甲府から韮崎へと移そうと考え、築城を開始します(新府城)。その結果、活発な軍事活動とともに負担が増加し、領内の不満は高まったようです。さらに、1581年3月、武田方の高天神城が徳川軍により陥落させられたことは、武田氏にとって大打撃となりました。家康は信長の助言を受け入れて、武田氏の援軍が到来せずに高天神城が陥落した、と印象づけるように城を攻めました。これにより信長と家康の思惑通り、勝頼は頼りにならない、との疑念が武田家臣に広まったようです。信長は武田家臣への調略を進め、1582年1月、信濃木曽郡の有力国衆で武田一門衆の木曽義昌が織田信忠に内通します。この情報は直ちに勝頼に伝わり、勝頼は木曽義昌討伐のために出兵しますが、義昌からの援軍派遣要請を受けた信長は直ちに出陣を決意し、信濃の武田方の国衆や軍役衆は相次いで織田方に降ります。織田軍に呼応して徳川軍は駿河に侵入し、駿府城を占領すると、すでに内応していた穴山梅雪が徳川方に寝返ります。情勢把握に手間取っていた北条氏も織田・徳川軍に呼応して遅ればせながら参陣し、高遠城も陥落して異母弟の仁科信盛も討ち死にしたことで、ついに進退が窮まったと判断した勝頼は新府城から落ち延びて東に向かい、小山田信茂の居城である岩櫃を目指します。しかし、小山田信茂も離反し、勝頼は1582年3月11日に自害もしくは討ち死にし、妻と息子の信勝も同時に死亡しました。こうして戦国大名としての武田氏は滅亡し、その領国は解体され、織田家臣団に分配されました。
武田氏における勝頼の位置づけが大きく変わったのは、武田と今川の関係が悪化し、義信が幽閉された後に若くして没したからです。信玄は1568年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)12月、今川との同盟を破棄して駿河に侵攻します。本書は、今川領国の動揺を見た信玄が、1563年頃には今川との同盟関係を再考し始めていたのではないか、と推測します。信玄は同盟国の今川よりも、今川氏当主の氏真が敵視する織田氏との関係を優先し、同盟を締結します。このように武田氏と今川氏との関係が悪化する中で、信玄と嫡男の義信の関係も悪化しました。義信は岳父である今川義元の存命中から今川寄りの立場を取るなど武田氏では今川派の代表的存在で、父の信玄はそれに不満だったようです。1565年、義信方の武田氏重臣が粛清され、義信は幽閉処分となり、1567年に没しました。
今川氏との関係が悪化し、同盟を破棄するに至って、武田氏は北条氏から同盟を破棄され、窮地に陥ります。信玄はこの窮地を、長きにわたって宿敵だった上杉氏との和睦や、織田氏および徳川氏との同盟で切り抜けようとしますが、今川領を分割すべく盟約を結んだ徳川とは、今川領の分割で対立し、やがて明確な敵対関係となります。信玄は徳川氏の同盟相手である織田氏に徳川家康を見放すよう要請しますが、織田信長は応じず、中立的立場を堅持します。義信の死後、1571年に勝頼は甲府に迎え入れられ、義信に代わる後継者として位置づけられます。北条氏康の死後、上杉謙信に不信感を抱いていた息子の北条氏政は武田氏との同盟を復活させ、武田氏の外交的立場は改善されます。これを受けて信玄は、家康との同盟を続ける信長にも不信感を募らせていたことから、織田氏を攻撃対象と考えるに至ったようです。1572年10月、信玄は徳川領への侵攻を開始し、武田氏と織田氏の同盟関係は終わりますが、信長はこれを信玄の裏切りと考え、深く恨んでいたようです。こうして徳川氏と織田氏を敵に回した状態で、1573年4月12日、信玄は病没します。信玄の後を継いだ勝頼は、この関係も引き継ぐことになり、それが外交や軍事行動も含めて勝頼の行動を制約することになりました。
遺言により父である信玄の死を秘匿しながら新たな武田家当主としての活動を始めた勝頼ですが、その権力基盤は不安定だったようで、内藤昌秀など家督相続以前から関係の悪い重臣がいたようです。本書は、こうした勝頼の権力基盤の脆弱性はその出生に起因する、と指摘します。勝頼は「諏方四郎勝頼」もしくは俗称で「伊那四郎」であり、「武田勝頼」ではなかった、というわけです。信玄の息子は、勝頼を除いてその名前には武田氏の通字である「信」が入っています。この家督継承期の諸問題に勝頼が対処し、軍事行動が停滞していた間に、同盟関係にあった朝倉氏と浅井氏は信長に攻め滅ぼされ、境目の国衆の中には離叛する者もいました。勝頼は1574年になって本格的な軍事行動を開始し、遠江の徳川方の高天神城を攻略するなど、成果を挙げます。これにより、信長は勝頼への低評価を改め、警戒するようになります。しかし、1575年5月21日の長篠合戦で武田軍は徳川と織田の連合軍に大敗し、多くの重臣が討ち死にします。本書は、勝頼には決戦志向があり、それは権力基盤の脆弱性を克服するための焦りのためでもあっただろう、と指摘します。
勝頼は長篠合戦での大敗北後、北条氏との縁組や武田御一門衆の穴山信君の重用などにより、領国支配を立て直し、徳川氏および織田氏との対決に備えようとします。また、長篠合戦で多くの重臣が討ち死にしたことにより、信玄以来の譜代家老衆の力が弱まり、勝頼側近の家臣団が台頭します。長篠合戦での大敗北後、武田氏は遠江や三河や東美濃の所領も失っていきますが、勝頼は劣勢に立たされたことを認識していたようで、1575年10月頃には宿敵の上杉氏との和睦を成立させます。本書は織田氏と上杉氏の断交の一因として、この武田氏と上杉氏の和睦を挙げています。勝頼は足利義昭の構想に同意して上杉・北条との三国同盟締結を図り、これは北関東の諸大名の反対もあってか挫折したものの、毛利輝元とは同盟を締結し、上杉と北条との関係を強化しつつ、信長と対峙します。
こうして信長と対峙すべく北条や上杉や毛利などと提携していた勝頼ですが、1578年3月に上杉謙信が急死し、情勢が大きく変わります。謙信の死後、養子の景勝と景虎の間で抗争が勃発しますが(御館の乱)、景勝の家督相続は直ちに認められており、家督相続争いが乱の直接的契機ではなかったようです。乱の直接的契機は景勝と三条城主の神余親綱との対立で、景勝の強硬な方針に反感を抱いた越後国衆が景勝に反乱を起こし、景虎を擁立して本格的な内乱となりました。この時、北条氏政は北関東の諸大名との戦いに忙殺されており、勝頼に援軍を要請したものの、直ちに異母弟の景虎救出のため越後に大軍を派兵できる状況にはありませんでした。その後、氏政は上野まで進軍したものの、越後には本格的に侵攻せず、降雪を恐れてか撤収します。氏政の要請に応じて越後への侵攻のため北信濃に軍を進めた勝頼は、景勝から和睦の提案に困惑したようですが、武田信豊と春日虎綱の献言もあり、進軍を停止し、交渉を継続します。武田軍が停止中に景勝が各地の景虎勢力を攻撃すると、武田軍は再度前進し、春日山城まで18kmの地点まで迫りますが、上述のように北条軍の動きが鈍かったため、武田軍のみが負担を負う状況になっていました。この情勢で勝頼は景勝と和睦しますが、本書は景勝から勝頼への提案条件を、謙信存命時からの上杉と武田の和睦の延長だったのではないか、と推測しています。ただ、景勝が和睦から軍事同盟に昇華させようとしたのに対して、勝頼は北条氏との調整に注意を払っていなかったようだ、と指摘します。しかし、勝頼と景勝の同盟は景勝と景虎の和睦を前提としたものだったので、景虎と北条氏は攻撃対象から除外されていました。結局、景勝と景虎の和睦は短期間で破綻したものの、勝頼は両者の間で中立的立場を示しつつ、北信濃などで領土を拡大することに成功します。本書は、勝頼が御館の乱を収束させ、最終的には武田と北条と上杉の三国同盟成立を構想していたのではないか、と推測します。御館の乱は、北条軍が越後まで侵攻しなかったこともあって、景勝が優勢となり、景虎は1579年3月に自害に追い込まれます。
この御館の乱の結果、武田氏と北条氏の関係は悪化し、ついには同盟決裂となります。氏政は勝頼に、景虎に加勢して景勝を攻め滅ぼすよう期待していましたが、上述のように勝頼は景勝と景虎の和睦を図り、景勝と同盟を締結します。氏政はこの件で勝頼への不信感を強め、それが武田氏と北条氏との同盟決裂の要因となったようです。北条氏との関係が悪化したことで、勝頼は新たな同盟を模索し、佐竹氏と接触します。武田氏と佐竹氏の同盟は1579年10月までには成立しましたが、勝頼の意図は単なる北条氏対策ではなく、織田との和睦も見据えたものでした。一方、北条氏は長年武田氏と対立してきた徳川氏と同盟を締結し、さらには織田氏にも接近します。勝頼は、信長が荒木村重の離反などで苦戦していることから、織田氏との和睦に期待をかけていたようですが、信長は西国情勢が好転したことから、武田氏討滅の方針を変えませんでした。勝頼は、信長の養女を母とする息子の信勝への家督継承や、人質として甲斐にいた信長の息子の源三郎(信房)の送還により織田氏との和睦を図りますが、結局和睦は実現しませんでした。
こうして勝頼の織田氏との和睦交渉は失敗に終わりましたが、本願寺を屈伏させるまで織田軍が西国に注力していたこともあり、武田氏は上野などで北条氏の勢力圏を奪っていき、本拠地を甲府から韮崎へと移そうと考え、築城を開始します(新府城)。その結果、活発な軍事活動とともに負担が増加し、領内の不満は高まったようです。さらに、1581年3月、武田方の高天神城が徳川軍により陥落させられたことは、武田氏にとって大打撃となりました。家康は信長の助言を受け入れて、武田氏の援軍が到来せずに高天神城が陥落した、と印象づけるように城を攻めました。これにより信長と家康の思惑通り、勝頼は頼りにならない、との疑念が武田家臣に広まったようです。信長は武田家臣への調略を進め、1582年1月、信濃木曽郡の有力国衆で武田一門衆の木曽義昌が織田信忠に内通します。この情報は直ちに勝頼に伝わり、勝頼は木曽義昌討伐のために出兵しますが、義昌からの援軍派遣要請を受けた信長は直ちに出陣を決意し、信濃の武田方の国衆や軍役衆は相次いで織田方に降ります。織田軍に呼応して徳川軍は駿河に侵入し、駿府城を占領すると、すでに内応していた穴山梅雪が徳川方に寝返ります。情勢把握に手間取っていた北条氏も織田・徳川軍に呼応して遅ればせながら参陣し、高遠城も陥落して異母弟の仁科信盛も討ち死にしたことで、ついに進退が窮まったと判断した勝頼は新府城から落ち延びて東に向かい、小山田信茂の居城である岩櫃を目指します。しかし、小山田信茂も離反し、勝頼は1582年3月11日に自害もしくは討ち死にし、妻と息子の信勝も同時に死亡しました。こうして戦国大名としての武田氏は滅亡し、その領国は解体され、織田家臣団に分配されました。
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