シチリア島における中石器時代と新石器時代との間のゲノムと食性の不連続性
シチリア島における中石器時代と新石器時代との間のゲノムと食性の不連続性に関する研究(Yu et al., 2022)が公表されました。人類史における最も影響力のある変化の一つは、比較的遊動的な狩猟採集から定住農耕への生計慣行の移行でした。ユーラシア西部における新石器化の一次地帯は肥沃な三日月地帯とアナトリア半島東部にまたがっていましたが、二次再構成もしくは別個の一次中核としてのアナトリア半島中央部および西部の役割は、議論されています。
8700~8500年前頃までに、土器の知識の有無に関わらず初期農耕民のいくつかの集団は、エーゲ海周辺で共同体を確立しました。これらのいくつかでは、後にバルカン半島全域でスタルチェヴォ・ケレス・クリス(Starčevo-Körös-Criș)やカラノヴォ(Karanovo)やセスクロ(Sesklo)といった文化複合が8100~8000年前頃に発展しました。農耕慣行は考古学的に異なる経路沿いに、ヨーロッパと地中海北西部アフリカ全域に拡大しました。
新石器時代のスタルチェヴォ・ケレス・クリス複合およびその後に連続する線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)と関連する初期農耕民は、ドナウ川沿いにバルカン半島からヨーロッパ中央部へと大陸部経路に続き、そこからさらに北方と西方に拡大しました(いわゆるドナウ川・大陸部経路)。並行して、農耕慣行と土器はギリシアとバルカン半島から地中海沿岸を西方に拡大しました(いわゆる地中海経路)。
8100~8000年前頃以降、地中海地域における新石器化の過程は、さまざまな在来の新石器時代遺構の連続により形成されました。さまざまな農耕民集団と在来の狩猟採集民集団との間の相互作用は文化的傾向とともに、地中海東部のインプレッサ(Impressa)や地中海西部のカルディウム(Cardial)といった遺構など、複雑な新石器時代の斑状をもたらしました。
古代DNA研究は、ヨーロッパの新石器化の理解にかなり寄与してきました。浮かび上がってきた全体像は、初期農耕民の大規模な拡大が、ヨーロッパにおける農耕への移行を促進し、さらには起源になった、というものです。ヨーロッパ初期農耕民(EEF)における農耕民祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のほぼ全ては、地中海経路と関連する初期農耕民を含めて、アナトリア半島北西部のバルシン(Barcın)やアナトリア半島北部のエーゲ海沿いのレヴェニア(Revenia)といった遺跡の初期農耕民で見つかるゲノム多様性の部分集合を表しています。しかし、ギリシアのペロポネソス半島のディロス(Diros)遺跡の初期農耕民は、バルシン遺跡で見つかる遺伝的多様性外に位置づけられる祖先構成要素を有していました。
さらに古代DNA研究では、基礎となる新石器化の人口統計学的過程は、ヨーロッパ内の地域間で異なっていた可能性が高いことも示唆されてきました(関連記事1および関連記事2)。大陸部経路沿いのヨーロッパ中央部と西部と北部の初期農耕には、家畜化された動物と栽培化された植物など、近東新石器時代に特徴的な要素が含まれていました。これらの地域の初期農耕民には、在来のヨーロッパ狩猟採集民からのゲノム寄与はごくわずかしかありませんでした。
対照的に、地中海経路沿いの農耕要素のより漸進的な出現については、考古学的証拠があります。とくに、EEFへの中石器時代採食民の寄与は地域によって異なり、バルカン半島とフランス南部とイベリア半島ではより高いものの、イタリア半島では違います。しかし、EEFの遺伝的データの大半が、大陸部経路沿いに拡大した集団に由来する、と注意することが重要です。地中海経路については、おもな不確実性はイタリア半島のインプレッサ土器(Impressa Ware)文化の拡大を中心としています。
最近、イタリア半島の一部の前期新石器時代農耕民がイランのガンジュダレー(Ganj Dareh)遺跡の初期農耕民および/もしくはコーカサスの狩猟採集民(CHG)と関連する追加の祖先構成要素を保持しているかもしれない、と示されました(関連記事)。これは、タリア半島の一部の前期新石器時代農耕民が、既知の地中海西部およびヨーロッパ中央部農耕民と比較して、異なる集団の子孫だった可能性を高めます。
シチリア島は地中海の中心的位置を占めており、農耕開始の最初の証拠の一部は早くも8000年前頃かそれ以前(8200年前頃)にさえさかのぼります。しかしこれまで、シチリア島では後期中石器時代および前期新石器時代個体群の利用可能な古代ゲノムはありませんでした。そのため、農耕慣行の最初の出現の根底にある人口統計学的過程と、ヨーロッパおよびアフリカ北部の地中海沿岸に進んできた初期農耕民集団の起源は、不明なままです。
シチリア島北西部のデッルッツォ洞窟(Grotta dell’Uzzo)は、地中海中央部のヒトの先史時代を理解するための独特な遺跡です。デッルッツォ洞窟の層序は、後期上部旧石器時代、中石器時代における継続的な居住、中期新石器時代までを網羅しており、その後の居住の痕跡があります。これは、狩猟採集から農耕への移行で起きた、文化と生計と食性の変化への直接的で前例のない洞察を提供します。さらに、前期新石器時代農耕の要素と関連するインプレッサ土器土層が、500年の時間枠で急速に出現しました。インプレッサ土器の最初の土層は8000~7700年前頃に出現し、7800~7500年前頃となるステンティネッロ(Stentinello)もしくはステンティネッロ/クロニオ(Kronio)集団が続きます。多数の放射性炭素年代一式があるさまざまな中石器時代および前期新石器時代物質遺構により、地中海の中石器時代から新石器時代の移行の文脈では独特な特徴で、中石器時代シチリア島の採食民のゲノム構造と、採食から農耕への移行の根底にある人口統計学的過程を、直接的に調べられるようになります。
●標本
シチリア島での採食から農耕牧畜への移行の根底にある生物学的過程を調べるため、シチリア島北西部のデッルッツォ洞窟の年代区分された19個体について、ゲノム規模データと食性を推定する安定同位体データがともに分析されました。遺伝的分析に使用された骨格要素の直接的な放射性炭素年代が得られ、食性再構築には同じ骨のコラーゲンから安定同位体(炭素13と窒素15)が決定されました。DNA分析では、最終的なデータセットに868755ヶ所の常染色体一塩基多型(SNP)が含まれ、本論文で新たに報告される個体では53352~796174ヶ所のSNPが網羅され、平均深度は0.09~9.39倍です。
この新たなデータは、ヨーロッパとアジアとアフリカの現代人および古代人のデータと比較されました。本論文では、前期中石器時代(EM、較正年代で10700年前頃)から前期青銅器時代(EBA、4100年前頃)までの約6000年にわたる19個体について、人口集団のゲノムと食性同位体の分析が提供されます。シチリア西部のファヴィニャーナ(Favignana)島のドリエンテ洞窟(d’Oriente)洞窟の続グラヴェティアン(Epigravettian)期(堆積物の炭に基づく放射性炭素年代測定で14200~13800年前頃)の狩猟採集民個体(オリエンテC)が、本論文のデータとともに分析されました。
●先史時代シチリア島の遺伝的に異なる人類集団
新たに生成された放射性炭素年代により、本論文の時代区分における先史時代のシチリア島人は、デッルッツォ洞窟で証明された異なる考古学的期間、つまり前期中石器時代とカステルノヴィア(Castelnovian)後期中石器時代と前期新石器時代と中期新石器時代と前期青銅器時代に対応する5群に分類できる、と確証されました(図1A)。刊行された古代および現代のヨーロッパ人の遺伝的データと併せて分析すると、デッルッツォ個体群は主成分分析(PCA)に基づいて4集団にまとまります(図1C)。以下は本論文の図1です。
最古となる中石器時代の2集団はヨーロッパ西部の中石器時代狩猟採集民(WHG)のクラスタ(まとまり)内に収まり、PCAでの位置と対での外群f3統計の両方により示されるように、その遺伝的祖先系統に微妙な違いがあります(図1B)。デッルッツォ洞窟の最初の集団には最古の2個体(直接的な放射性炭素年代測定で較正年代では10750~10580年前頃、図1A)が含まれ、この2個体は続グラヴェティアンに先行する伝統と類型論的にも様式的にも類似した石器インダストリーを製作しており、以前に刊行された続グラヴェティアンのオリエンテC個体(較正年代で14200~13800年前頃)と密接に関連しています。
これら3個体は全て、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U2′・3′・4′・7′・8′・9の系統内に収まり、これらのmtHgは続グラヴェティアンと関連するシチリア島のサン・テオドーロ(San Teodoro)遺跡の個体群と関連しており、イタリア半島のより古いグラヴェティアンと関連するパグリッチ108(Paglicci108)個体でも報告されました。この3個体は、WHGクラスタにおける他の個体と比較して、大量の遺伝的浮動を相互とも共有していました。本論文はこの3個体を、シチリア前期中石器時代(シチリアEM)と分類します。
その次の期間の狩猟採集民集団には9個体が含まれ、較正年代では8650~7790年前頃となります(以下、基本的に較正年代です)。そのうち7個体は考古学的に後期中石器時代と対応しており、おそらくはフランス南部とイタリア半島とダルマチアとシチリア島における後期中石器時代の石刃と台形様石器遺構の変種である、カステルノヴィア文化の一部です。地中海西部では、カステルノヴィア文化がイベリア半島幾何学中石器時代および上部カプサ文化(Capsian)との強い年代と様式と技術のつながりを有していますが、石刃と台形様石器の遺構はポントス地域とさらに先のユーラシアの陸地にも広がっています。
他のより新しい2個体(UZZ71とUZZ88、7990~7960年前頃)は、デッルッツォ洞窟における新石器時代の側面の提案されている最初の出現と重複します。この2個体は、主成分空間と対での外群f3統計では、後期中石器時代カステルノヴィア文化に分類される採食民の多様性内に収まります(図1B)。さらに、これらの個体のmtHgはヨーロッパの後期中石器時代WHGで典型的なmtHg-U4およびU5に分類され、最初の集団とは異なります。結果として、UZZ71とUZZ88はシチリアLM狩猟採集民個体群に分類されます(シチリアLM、9個体)。
第三の集団には直接的に放射性炭素年代測定が適用された7430~6660年前頃の個体群が含まれ、年代的にはデッルッツォ洞窟の前期~中期新石器時代農耕民遺構と重複し、インプレッサ土器文化により特徴づけられます(シチリアEN、7個体)。主成分空間では、これら7個体は先行するシチリア島狩猟採集民(HG)ではなくヨーロッパ南東部およびアナトリア半島の初期農耕民とともに分類されます(図1C)。ミトコンドリアゲノムで充分な網羅率のある全ての農耕民個体は、ヨーロッパ初期農耕民に特徴的なmtHgを有しており、それはU8b1b1 (2個体)とN1a1a1(1個体)とJ1c5(1個体)とK1a2(1個体)とH(1個体)です。これらの個体は、デッルッツォ洞窟の中期新石器時代個体(UZZ61)と同年代の、シチリア島のフォッサト・ディ・ストレット・パルタンナ(Fossato di Stretto Partanna)遺跡の中期新石器時代農耕民と主成分空間では微妙な違いを示しました。
第四の集団と最も新しい年代となる第五の集団には4150~3970年前頃の1個体(UZZ57)が含まれ、前期青銅器時代に分類されます(デッルッツォEBA)。UZZ57個体は前期新石器時代個体群から、いわゆる「草原地帯」関連祖先系統を有する鐘状ビーカー(Bell Beaker)現象および他の後期新石器時代(LN)・青銅器時代(BA)集団と関連する個体群の方向へと移動します。この祖先系統はユーラシア西部の草原地帯遊牧民に特徴的で、青銅器時代にヨーロッパ全域に拡大しました(関連記事)。類似の変化は、以前に刊行されたシチリア島の前期青銅器時代個体群でも見られます(関連記事)。UZZ57個体のYHgはR1b1a1b1a1a2で、これは青銅器時代のヨーロッパでは一般的であり、シチリア島の青銅器時代個体群でも報告されました(関連記事)。
●中石器時代と前期新石器時代のシチリア島におけるゲノムの変化
約3000年にわたる中石器時代の11個体は、経時的なゲノム下部構造の変化の調査に独特な機会を提供します。さまざまなユーラシア西部狩猟採集民(X)についての、f4形式(チンパンジー、X;シチリアLM狩猟採集民、シチリアLM狩猟採集民)のf4単系統性統計での、シチリアEMとシチリアLMの狩猟採集民(HG)における祖先系統のより直接的な比較により、地理と関連するパターンが明らかになります(図2A)。有意に負のf4値が示すのは、シチリアEM狩猟採集民が、地中海関連祖先系統を有するイベリア半島の上部旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民と同様に、14000年前頃となるイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体に代表されるまとまりを含むヨーロッパ西部(南西部)狩猟採集民とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有する、ということです。対照的に、シチリアLM狩猟採集民は、ヨーロッパ北部および東部(南東部)とロシアの上部旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民と有意により多くのアレルを共有します。これは、中石器時代のシチリア島における遺伝的類似性の変化を示唆します。以下は本論文の図2です。
シチリアEMとシチリアLMとの間の類似性の違いは、シチリアEMに残存するマグダレニアン(Magdalenian)関連のベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡の個体(GoyetQ2)的な祖先系統か、あるいはシチリアLM狩猟採集民におけるヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)関連祖先系統か、その両方により説明できます。そのため、qpWaveとqpAdmに基づく混合モデルを用いて、シチリアEMとシチリアLMの遺伝的祖先系統がより明確に特徴づけられました。その結果、14000年前頃となるイタリア半島北部のヴィラブルナ個体を含む全ての他の検証されたユーラシア西部狩猟採集民を除いて用いられた外群一式に関して、シチリアEM狩猟採集民の祖先系統はイタリア半島のアペニン山脈の11900年前頃となるコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)の狩猟採集民とのクレードとしてモデル化できる、と分かりました。WHG祖先系統とマグダレニアン関連祖先系統についてさまざまな代理の混合を検定したその後の2方向qpAdm混合モデルは、シチリアEM狩猟採集民の遺伝子プールについては却下されました。qpGraphモデル化に基づく混合図も、ヴィラブルナの姉妹枝としてシチリアEM狩猟採集民に適合し、マグダレニアン関連祖先系統への寄与の可能性があります。
続いて、シチリアEMとシチリアLMとの間の遺伝的連続性の程度が調べられ、シチリアLMがqpWaveおよびqpAdmに基づく祖先系統モデルでEHG関連供給源からの異なる祖先系統に由来するのかどうか、明示的に検証されました。その結果、シチリアEM狩猟採集民とコンティネンツァもしくはヴィラブルナのイタリア半島狩猟採集民のどちらの祖先系統も、シチリアLM狩猟採集民の祖先系統に充分な適合を提供できない、と分かりました。代わりに、シチリアEM狩猟採集民80.8±1.3%とEHG19.2±1.3%の二重祖先系統が、支持されるモデルをもたらしました(図3A)。とくに、シチリアEM狩猟採集民だけが、シチリアLM狩猟採集民においてWHG関連祖先系統の代理として使用できます。イタリア半島のコンティネンツァとヴィラブルナの狩猟採集民を含むユーラシア西部狩猟採集民との全ての他のモデルは、p<0.05で却下されました。これは、シチリアLM狩猟採集民におけるWHG関連祖先系統は先行する在来のシチリア島採食民に由来する可能性が最も高い、と示唆します。シチリアEM狩猟採集民とEHGとの間の混合は20±5世代前と推定され、これは8800年前頃に相当し、デッルッツォ洞窟における後期中石器時代の開始と一致します。以下は本論文の図3です。
さらに、より詳細なf4単系統性統計により示唆されるように、ヨーロッパ北部および東部(南東部)の狩猟採集民へのシチリアLM狩猟採集民の観察された類似性がさらに調べられました。観察された類似性と一致して、2方向混合モデルでは、シチリアLM狩猟採集民のEHG関連祖先系統は、スカンジナビア半島とラトビアとウクライナとルーマニアの鉄門(Iron Gates)の狩猟採集民で見つかる祖先系統と近似し得る、と分かりました。これは、中石器時代のシチリア島における持続する在来祖先系統とともに、外来祖先系統のわずかな寄与を確証します。
注目すべきことに、シチリアEM狩猟採集民について世界規模のヌクレオチド多様性(π)はその後のシチリアLM狩猟採集民と比較して低い、と分かりました。さらに、シチリアEM狩猟採集民では大量のROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)断片、とくに親族関連性を表す最短の4~8cM(センチモルガン)超のROHが検出されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。
短いROH断片の量は、後のシチリアLM狩猟採集民も含めて全ての他のヨーロッパ上部旧石器時代もしくは中石器時代狩猟採集民や、イタリア半島の同時代のコンティネンツァ狩猟採集民およびヴィラブルナ狩猟採集民と比較してずっと多くなっています。まとめると、これらの結果はシチリアEM狩猟採集民における小さな有効人口規模を示唆しており、それは、人口集団のボトルネック(瓶首効果)や、おそらくは外来祖先系統の流入による後期中石器時代における人口規模の増加から生じたかもしれません。
シチリア初期農耕民(シチリアEN)は主成分空間では、ヨーロッパ初期農耕民(EEF)に最も近く、先行する在来のシチリア狩猟採集民とは近くありません(図1C)。外群f3統計(ムブティ人;シチリアEN、X)を用いて、他の同時代の古代人集団のどれがシチリアENと最高の遺伝的類似性を示すのか、調べられました(図2B)。PCAの結果と一致して、シチリア島初期農耕民は、バルカン半島とギリシアとヨーロッパ中央部のさまざまな前期新石器時代農耕民と最も多くの遺伝的浮動を共有します。対照的にシチリアEN農耕民は、在来の狩猟採集民集団との混合の結果としてより高い割合の狩猟採集民祖先系統を有していた、フランスやイベリア半島など地中海西部沿岸の個体群とのゲノム類似性は低くなっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これはシチリア島における中石器時代から新石器時代への移行での遺伝的祖先系統の大きな置換との調査結果を裏づけ、イタリア半島のEN農耕民での報告と類似しています。
これをさらに調べるため、f4混合統計(チンパンジー、シチリアLM狩猟採集民;アナトリアENバルシン、シチリアEN)を用いて、アナトリアENバルシンをEEF祖先系統の基準として用いた場合、シチリアEN農耕民が先行するシチリアLM狩猟採集民と共有される過剰なアレルを保持しているのかどうか、検証されました。統計は有意に正で、シチリアEN農耕民における過剰な在来狩猟採集民祖先系統が示唆されます。じっさい、qpAdmに基づく混合モデルでは、在来のシチリアLM狩猟採集民はシチリアEN農耕民の遺伝子プールに7.5±0.9%を寄与した、と推定されます。
注目すべきことに、在来狩猟採集民の混合兆候は、以前に刊行されたフォッサト・ディ・ストレット・パルタンナ遺跡のシチリアMN(中期新石器時代)農耕民(在来のシチリアLM狩猟採集民祖先系統の推定割合は11.9±0.9%)と比較すると有意に低くなっています。全体的に、これは微妙ではあるものの検出できる、新石器時代シチリア島農耕民における在来狩猟採集民祖先系統の寄与と「復活」の可能性を示唆します。重要なことに、刊行されたシチリアMN農耕民はシチリアEN集団の最も新しい(6830~6660年前頃)農耕民個体(UZZ61)と同時代で、フォッサト・ディ・ストレット・パルタンナ遺跡などシチリア島の他の場所で「復活(農耕民と狩猟採集民との混合)」は紀元前七千年紀半ばまでに起きたものの、その時までにデッルッツォ洞窟では起きなかった、と示唆されます。
前期青銅器時代(EBA)の個体(UZZ57)は主成分空間では、草原地帯関連祖先系統を有する後期新石器時代の鐘状ビーカー現象およびEBA集団と関連する個体群の方へと動いており、シチリア島の他のEBA個体群での観察と類似しています。これはqpAdmにより確証され、UZZ57個体は在来のシチリアEN祖先系統とヤムナヤ(Yamnaya)文化のサマラ(Samara)集団により表される「草原地帯祖先系統」との2方向混合としてモデル化できます。UZZ57個体における草原地帯祖先系統の寄与は21.0±3.5%と推定され、他の刊行されたシチリアEBA集団の範囲内に収まります。
●シチリア島の後期中石器時代の採食民は初期農耕のいくつかの側面を採用しましたか?
シチリア島の中石器時代から新石器時代への移行期の根底にある過程にさらに光を当てるため、食性の推定についての安定同位体(炭素13と窒素15)と、本論文の時代区分での各個体についての祖先系統特性がともに分析されました。異なる祖先系統を有する異なる時代区分の個体は、同位体的に異なる食性だった、と分かりました(図3B)。安定同位体データから、デッルッツォ洞窟のEM狩猟採集民はおもに陸生の獲物の狩猟に依存しており、かなりの植物性食料の寄与があったものの、海洋資源消費は限定的だった、と示されました。対照的に、EHG祖先系統を有するシチリアLM狩猟採集民の食性は、海洋性タンパク質の顕著により高い割合によって特徴づけられます。シチリアEN農耕民の同位体値は、陸生の農耕食性と一致します。全体的に、個体ごとの同位体と祖先系統の特定は、食性が大まかには分類されたゲノムのまとまりと対応し、考古学的期間ごとの生計を証明する、と示されます。
しかし、遺伝的にはLMでは最古級となる7960~7790年前頃の女性2個体(UZZ71とUZZ88)は、広義のカステルノヴィア文化と関連するLM狩猟採集民のゲノム多様性内に、200年後にも関わらず完全に収まります(図1C)。両個体は、ステンティネッロ/クロニオ土器と関連する後のシチリアEN農耕民とも、先行するLM狩猟採集民とも異なる同位体値を示します(図3B)。UZZ71個体の食性の特性(炭素13が−18.9‰、窒素15が14.5‰)は淡水タンパク質の摂取を示唆しており、バルカン半島の鉄門の中石器時代狩猟採集民の報告と類似しています。一方、UZZ88個体の同位体組成(炭素13が−19.2‰、窒素15が7.1‰)は、低水準の動物性タンパク質消費の陸生農耕食性を示唆します。UZZ88個体についての狩猟採集民祖先系統特性と陸生農耕食性の観察された組み合わせは、二つの方法で説明できます。それは、農耕牧畜が在来の生計慣行に強い影響を及ぼし、および/もしくは一部の採食民が侵入してくる農耕集団の一部になった、ということです。
逆に、遺伝的構成が侵入してきた農耕民に典型的なUZZ77個体は、中石器時代の陸生資源に依存する採食民とより類似した食性の特性(炭素13が−18.8‰、窒素15が12.5‰)を有しています。UZZ88個体とUZZ77個体の組み合わされた遺伝的データと同位体データは、在来狩猟採集民と侵入してくる農耕民との間のある程度の相互作用を示し、フォッサト・ディ・ストレット・パルタンナ遺跡でも証明されたように、農耕導入後のシチリア島における狩猟採集民祖先系統の低い割合とも一致します。
●考察
アペニン半島(イタリア半島)は長く、25000~18000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)における退避地の一つと考えられており、そこからヨーロッパは再植民されました。シチリア島における現生人類(Homo sapiens)の存在の最初の証拠は19000~18000年前頃にさかのぼり、陸橋がイタリア半島とシチリア島をつないだ期間の後です。イタリア半島とシチリア島には上部旧石器時代の居住の証拠がある多くの遺跡がありますが、採食民人口集団は中石器時代に減少したようで、デッルッツォ洞窟のEM狩猟採集民が続グラヴェティアン伝統に由来する石器インダストリーを製作した、という観察と一致します。人口集団のゲノム多様性の大きな減少と、シチリアEM狩猟採集民における大量の短いROH 領域は、コンティネンツァ洞窟の中石器時代採食民との高水準の共有される遺伝的浮動とともに、シチリア島の採食民に影響を及ぼした人口集団のボトルネックを示唆し、それはイタリア半島中央部でも起きた可能性があります。
シチリア島のいくつかの後期続グラヴェティアン(グラヴェット文化)遺跡には、マグダレニアン(マドレーヌ文化)を含むフランコ・カンタブリア地域と類似した動物像が刻まれた岩壁が含まれています。イタリア半島北部のヴィラブルナ遺跡の続グラヴェティアン関連の14000年前頃となる狩猟採集民と比較して、シチリアEM狩猟採集民は、エルミロン(El Mirón)遺跡やバラマ・グイラニャ(Balma Guilanyà)遺跡など、マグダレニアンおよびアジリアン(Azilian)と関連するイベリア半島の狩猟採集民の方とより高い遺伝的類似性を有しています。
以前の研究では、コンティネンツァ洞窟の中石器時代狩猟採集民について、同様の類似性が報告されました。ヴィラブルナ遺跡個体と比較して、コンティネンツァ洞窟もしくはデッルッツォ洞窟の個体では余分なマグダレニアン関連祖先系統が見つかりませんが、エルミロン遺跡やバラマ・グイラニャ遺跡を含むイベリア半島の狩猟採集民は続グラヴェティアン関連祖先系統を有している、と示唆されました(関連記事)。これは、イベリア半島の狩猟採集民における続グラヴェティアン関連祖先系統はイタリア半島南部・中央部に由来する可能性が高い、と示唆します。考古学とゲノムの結果から、イタリア半島南部の続グラヴェティアンとイベリア半島のマグダレニアンおよびアジリアン(アジール文化)との間の深いつながりが示唆され、さらなる調査が必要です。
シチリアEM狩猟採集民と比較して、シチリアLM狩猟採集民はEHG関連供給源からの18~21%の祖先系統を有しており、中石器時代における祖先系統の変化の証拠を提供します(図3A)。LGM後に、続グラヴェティアンと関連する採食民はイタリア半島とヨーロッパ南東部の両方で拡大しました。イタリア半島南部と同様に、バルカン半島も氷期の退避地でした。現在、バルカン半島の続グラヴェティアンの採食民で利用可能なゲノムはありません。しかし、この地域の中石器時代狩猟採集民は、ヨーロッパ南東部でEHG関連祖先系統を有する最古の狩猟採集民集団の一つで、バルカン半島はシチリアLM狩猟採集民で見つかる過剰なEHG祖先系統の候補地として示唆されます。これは、ヨーロッパ北部および東部から近東およびコーカサスへと向かうEHGおよびAHG(アナトリア半島狩猟採集民)関連祖先系統との、狩猟採集民の長期の相互作用領域についての以前の報告(関連記事)を強調します。この人口集団は、ヨーロッパ中央部および南部への石刃と台形様石器の移行の西進の過程でシチリア島へと拡大した可能性が高く、それは9300年前頃となる気候異常後に始まったようです。
対照的に、シチリアEN農耕民についての古代ゲノム規模データは、採食から農耕への移行期におけるほぼ完全な遺伝的置換を示します。先行する後期中石器時代狩猟採集民は、デッルッツォ洞窟のEN農耕民に最大で約7%程度寄与しました(図3A)。これが示唆するのは、農耕への移行は前期新石器時代における大規模な初期農耕民による在来採食民人口集団の置換を含んでおり、イタリア半島のリパビアンカ(Ripabianca)遺跡やコンティネンツァ洞窟遺跡およびヨーロッパの他地域の初期農耕民についての以前の結果と同様である、ということです。
しかし、新石器時代開始期の頃の数個体の異なる食性と中間的な放射性炭素年代は、狩猟採集民と農耕民がシチリア島で生計慣行を最初に交換した、という暫定的証拠を提供します。狩猟採集民祖先系統と農耕・漁撈食性を有する個体が観察された一方で、農耕民の祖先系統を有する1個体は陸生の採食民食性を有していました(図3B)。これらの各個体のストロンチウム同位体分析がないため、こうした個体のうち1個体もしくは複数個体が地元民ではない可能性を除外できませんが、これは、UZZ71個体とUZZ88個体の事例における遺伝的背景ではありそうになく、この2個体はデッルッツォ洞窟のLM狩猟採集民と同じ遺伝的構成を有しています。これは、混合した採食・漁撈・農耕経済が、農耕牧畜導入後の最大数世紀間、デッルッツォ洞窟で確立していたのかどうか、という問題につながります。この可能性は、漁撈が中石器時代よりも前期新石器時代において一般的に行なわれるようになった、と示唆するデッルッツォ洞窟遺跡の動物考古学的証拠と一致します。
かなり稀ですが、セルビアとルーマニアの鉄門地域やブルガリアのマラク・プレスラヴェッツ(Malak Preslavets)遺跡などバルカン半島と、フランスの地中海沿岸で、狩猟採集民の農耕要素採用事例が報告されています。さらに、マグレブの前期新石器時代農耕民の利用可能な数点の祖先系統特性は、この地域の15000年前頃となるイベロモーラシアン(Iberomaurusian)採食民との強い人口集団ゲノム連続性を示しました(関連記事1および関連記事2)。まとめると、これらの事例は、シチリア島北部から西部など地中海沿岸部および西部地域における初期農耕民と狩猟採集民との間の一般的に高められた相互作用の共同証拠を提供します。将来の研究では、地中海沿岸地域において、在来採食民の文化変容が、大陸部経路沿いの地域と比較して、新石器化の過程でより重要な役割を果たした可能性を調べられます。
地中海中央部および西部への拡大経路は、地中海における新石器時代への移行に関する考古学的議論の不可欠な一部を形成します。イベリア半島のEN農耕民集団の以前の結果と一致して、シチリアEN農耕民も、地中海南部のアフリカ北部集団ではなく、バルカン半島および大陸部経路と関連するヨーロッパ中央部のEN集団と遺伝的類似性を共有していました。したがって、シチリア島とイベリア半島の初期農耕民の大半は、バルカン半島で大陸部経路と同じ起源を共有し、ジブラルタル海峡および/もしくはシチリア海峡を横断しなかった地中海北部経路沿いに拡大した集団の子孫だった、と想定するのが節約的です。
全体的に本論文は、同じ遺跡の6000年にわたる遺伝的および食性変化を提示します。デッルッツォ洞窟の個体群のゲノムデータは、後期中石器時代と前期新石器時代と前期青銅器時代における少なくとも3回の遺伝的侵入の証拠を示しており、最も顕著な人口集団変化は中石器時代から新石器時代への移行期に起きました。ゲノムと同位体の証拠を組み合わせると、新石器時代の最初期に、在来の狩猟採集民と侵入してくる農耕民は遺伝的に相互作用していただけではなく、それぞれの生計慣行にも影響を及ぼしていたかもしれない、と明らかになります。
ゲノム祖先系統の分析だけでは文化変容を検出できないかもしれない、と注意することが重要です。本論文および採食民と農耕民との相互作用についての多くの先行研究では、採食民の文化変容は、考古学的文脈の記述とともにゲノム祖先系統と安定同位体データと正確なAMS放射性炭素年代を共同分析することによってのみ、検出できました。したがって学際的手法は、地中海における採食から定住農耕への移行の包括的理解を得るための、最も強力な研究戦略です。以下は本論文の要約図です。
●この研究の限界
この研究の重要な長所は、地中海の中心の単一遺跡における前期~中期完新世の遺伝的および食性変化についての見解を提供することです。この研究の標本抽出戦略は、中石器時代と新石器時代のさまざまな段階を網羅することに成功し、ゲノムと食性の重要な変化を検出できるようになりました。しかし、先史時代の骨遺骸の性質は、とくに少なくとも5000年にわたっている場合、各段階では数標本よりも多く処理することが困難になります。
中石器時代から新石器時代への移行は、この研究にとって重要な時期で、短期間の段階だったと示され、放射性炭素年代測定により検出可能な年代範囲よりも短い可能性が高そうです。これは考古学的観点では、とくに複雑な層序と重複堆積物的な堆積のある洞窟遺跡については、「干し草の山の中の針」のシナリオを扱っている、と意味します。したがって、狩猟採集民と初期農耕民との間の接触期の頃に起きたかもしれないことについての本論文の解釈は、3個体(UZZ71とUZZ77とUZZ81)の遺伝的および同位体データにおもに依存しています。
それにも関わらず、本論文の再構築は本論文で提示された遺伝的および同位体データだけではなく、刊行された同位体データと、デッルッツォ洞窟で行なわれたかなりの量の考古学と動物考古学と考古植物学的研究にも依拠しています。この種の調査が直面するもう一つの限界は、中石器時代から新石器時代への移行期の遺跡や堆積物の不足で、地中海ではわずかな文脈により表されます。
参考文献:
Yu H. et al.(2022): Genomic and dietary discontinuities during the Mesolithic and Neolithic in Sicily. iScience, 25, 5, 104244.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2022.104244
8700~8500年前頃までに、土器の知識の有無に関わらず初期農耕民のいくつかの集団は、エーゲ海周辺で共同体を確立しました。これらのいくつかでは、後にバルカン半島全域でスタルチェヴォ・ケレス・クリス(Starčevo-Körös-Criș)やカラノヴォ(Karanovo)やセスクロ(Sesklo)といった文化複合が8100~8000年前頃に発展しました。農耕慣行は考古学的に異なる経路沿いに、ヨーロッパと地中海北西部アフリカ全域に拡大しました。
新石器時代のスタルチェヴォ・ケレス・クリス複合およびその後に連続する線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)と関連する初期農耕民は、ドナウ川沿いにバルカン半島からヨーロッパ中央部へと大陸部経路に続き、そこからさらに北方と西方に拡大しました(いわゆるドナウ川・大陸部経路)。並行して、農耕慣行と土器はギリシアとバルカン半島から地中海沿岸を西方に拡大しました(いわゆる地中海経路)。
8100~8000年前頃以降、地中海地域における新石器化の過程は、さまざまな在来の新石器時代遺構の連続により形成されました。さまざまな農耕民集団と在来の狩猟採集民集団との間の相互作用は文化的傾向とともに、地中海東部のインプレッサ(Impressa)や地中海西部のカルディウム(Cardial)といった遺構など、複雑な新石器時代の斑状をもたらしました。
古代DNA研究は、ヨーロッパの新石器化の理解にかなり寄与してきました。浮かび上がってきた全体像は、初期農耕民の大規模な拡大が、ヨーロッパにおける農耕への移行を促進し、さらには起源になった、というものです。ヨーロッパ初期農耕民(EEF)における農耕民祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のほぼ全ては、地中海経路と関連する初期農耕民を含めて、アナトリア半島北西部のバルシン(Barcın)やアナトリア半島北部のエーゲ海沿いのレヴェニア(Revenia)といった遺跡の初期農耕民で見つかるゲノム多様性の部分集合を表しています。しかし、ギリシアのペロポネソス半島のディロス(Diros)遺跡の初期農耕民は、バルシン遺跡で見つかる遺伝的多様性外に位置づけられる祖先構成要素を有していました。
さらに古代DNA研究では、基礎となる新石器化の人口統計学的過程は、ヨーロッパ内の地域間で異なっていた可能性が高いことも示唆されてきました(関連記事1および関連記事2)。大陸部経路沿いのヨーロッパ中央部と西部と北部の初期農耕には、家畜化された動物と栽培化された植物など、近東新石器時代に特徴的な要素が含まれていました。これらの地域の初期農耕民には、在来のヨーロッパ狩猟採集民からのゲノム寄与はごくわずかしかありませんでした。
対照的に、地中海経路沿いの農耕要素のより漸進的な出現については、考古学的証拠があります。とくに、EEFへの中石器時代採食民の寄与は地域によって異なり、バルカン半島とフランス南部とイベリア半島ではより高いものの、イタリア半島では違います。しかし、EEFの遺伝的データの大半が、大陸部経路沿いに拡大した集団に由来する、と注意することが重要です。地中海経路については、おもな不確実性はイタリア半島のインプレッサ土器(Impressa Ware)文化の拡大を中心としています。
最近、イタリア半島の一部の前期新石器時代農耕民がイランのガンジュダレー(Ganj Dareh)遺跡の初期農耕民および/もしくはコーカサスの狩猟採集民(CHG)と関連する追加の祖先構成要素を保持しているかもしれない、と示されました(関連記事)。これは、タリア半島の一部の前期新石器時代農耕民が、既知の地中海西部およびヨーロッパ中央部農耕民と比較して、異なる集団の子孫だった可能性を高めます。
シチリア島は地中海の中心的位置を占めており、農耕開始の最初の証拠の一部は早くも8000年前頃かそれ以前(8200年前頃)にさえさかのぼります。しかしこれまで、シチリア島では後期中石器時代および前期新石器時代個体群の利用可能な古代ゲノムはありませんでした。そのため、農耕慣行の最初の出現の根底にある人口統計学的過程と、ヨーロッパおよびアフリカ北部の地中海沿岸に進んできた初期農耕民集団の起源は、不明なままです。
シチリア島北西部のデッルッツォ洞窟(Grotta dell’Uzzo)は、地中海中央部のヒトの先史時代を理解するための独特な遺跡です。デッルッツォ洞窟の層序は、後期上部旧石器時代、中石器時代における継続的な居住、中期新石器時代までを網羅しており、その後の居住の痕跡があります。これは、狩猟採集から農耕への移行で起きた、文化と生計と食性の変化への直接的で前例のない洞察を提供します。さらに、前期新石器時代農耕の要素と関連するインプレッサ土器土層が、500年の時間枠で急速に出現しました。インプレッサ土器の最初の土層は8000~7700年前頃に出現し、7800~7500年前頃となるステンティネッロ(Stentinello)もしくはステンティネッロ/クロニオ(Kronio)集団が続きます。多数の放射性炭素年代一式があるさまざまな中石器時代および前期新石器時代物質遺構により、地中海の中石器時代から新石器時代の移行の文脈では独特な特徴で、中石器時代シチリア島の採食民のゲノム構造と、採食から農耕への移行の根底にある人口統計学的過程を、直接的に調べられるようになります。
●標本
シチリア島での採食から農耕牧畜への移行の根底にある生物学的過程を調べるため、シチリア島北西部のデッルッツォ洞窟の年代区分された19個体について、ゲノム規模データと食性を推定する安定同位体データがともに分析されました。遺伝的分析に使用された骨格要素の直接的な放射性炭素年代が得られ、食性再構築には同じ骨のコラーゲンから安定同位体(炭素13と窒素15)が決定されました。DNA分析では、最終的なデータセットに868755ヶ所の常染色体一塩基多型(SNP)が含まれ、本論文で新たに報告される個体では53352~796174ヶ所のSNPが網羅され、平均深度は0.09~9.39倍です。
この新たなデータは、ヨーロッパとアジアとアフリカの現代人および古代人のデータと比較されました。本論文では、前期中石器時代(EM、較正年代で10700年前頃)から前期青銅器時代(EBA、4100年前頃)までの約6000年にわたる19個体について、人口集団のゲノムと食性同位体の分析が提供されます。シチリア西部のファヴィニャーナ(Favignana)島のドリエンテ洞窟(d’Oriente)洞窟の続グラヴェティアン(Epigravettian)期(堆積物の炭に基づく放射性炭素年代測定で14200~13800年前頃)の狩猟採集民個体(オリエンテC)が、本論文のデータとともに分析されました。
●先史時代シチリア島の遺伝的に異なる人類集団
新たに生成された放射性炭素年代により、本論文の時代区分における先史時代のシチリア島人は、デッルッツォ洞窟で証明された異なる考古学的期間、つまり前期中石器時代とカステルノヴィア(Castelnovian)後期中石器時代と前期新石器時代と中期新石器時代と前期青銅器時代に対応する5群に分類できる、と確証されました(図1A)。刊行された古代および現代のヨーロッパ人の遺伝的データと併せて分析すると、デッルッツォ個体群は主成分分析(PCA)に基づいて4集団にまとまります(図1C)。以下は本論文の図1です。
最古となる中石器時代の2集団はヨーロッパ西部の中石器時代狩猟採集民(WHG)のクラスタ(まとまり)内に収まり、PCAでの位置と対での外群f3統計の両方により示されるように、その遺伝的祖先系統に微妙な違いがあります(図1B)。デッルッツォ洞窟の最初の集団には最古の2個体(直接的な放射性炭素年代測定で較正年代では10750~10580年前頃、図1A)が含まれ、この2個体は続グラヴェティアンに先行する伝統と類型論的にも様式的にも類似した石器インダストリーを製作しており、以前に刊行された続グラヴェティアンのオリエンテC個体(較正年代で14200~13800年前頃)と密接に関連しています。
これら3個体は全て、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U2′・3′・4′・7′・8′・9の系統内に収まり、これらのmtHgは続グラヴェティアンと関連するシチリア島のサン・テオドーロ(San Teodoro)遺跡の個体群と関連しており、イタリア半島のより古いグラヴェティアンと関連するパグリッチ108(Paglicci108)個体でも報告されました。この3個体は、WHGクラスタにおける他の個体と比較して、大量の遺伝的浮動を相互とも共有していました。本論文はこの3個体を、シチリア前期中石器時代(シチリアEM)と分類します。
その次の期間の狩猟採集民集団には9個体が含まれ、較正年代では8650~7790年前頃となります(以下、基本的に較正年代です)。そのうち7個体は考古学的に後期中石器時代と対応しており、おそらくはフランス南部とイタリア半島とダルマチアとシチリア島における後期中石器時代の石刃と台形様石器遺構の変種である、カステルノヴィア文化の一部です。地中海西部では、カステルノヴィア文化がイベリア半島幾何学中石器時代および上部カプサ文化(Capsian)との強い年代と様式と技術のつながりを有していますが、石刃と台形様石器の遺構はポントス地域とさらに先のユーラシアの陸地にも広がっています。
他のより新しい2個体(UZZ71とUZZ88、7990~7960年前頃)は、デッルッツォ洞窟における新石器時代の側面の提案されている最初の出現と重複します。この2個体は、主成分空間と対での外群f3統計では、後期中石器時代カステルノヴィア文化に分類される採食民の多様性内に収まります(図1B)。さらに、これらの個体のmtHgはヨーロッパの後期中石器時代WHGで典型的なmtHg-U4およびU5に分類され、最初の集団とは異なります。結果として、UZZ71とUZZ88はシチリアLM狩猟採集民個体群に分類されます(シチリアLM、9個体)。
第三の集団には直接的に放射性炭素年代測定が適用された7430~6660年前頃の個体群が含まれ、年代的にはデッルッツォ洞窟の前期~中期新石器時代農耕民遺構と重複し、インプレッサ土器文化により特徴づけられます(シチリアEN、7個体)。主成分空間では、これら7個体は先行するシチリア島狩猟採集民(HG)ではなくヨーロッパ南東部およびアナトリア半島の初期農耕民とともに分類されます(図1C)。ミトコンドリアゲノムで充分な網羅率のある全ての農耕民個体は、ヨーロッパ初期農耕民に特徴的なmtHgを有しており、それはU8b1b1 (2個体)とN1a1a1(1個体)とJ1c5(1個体)とK1a2(1個体)とH(1個体)です。これらの個体は、デッルッツォ洞窟の中期新石器時代個体(UZZ61)と同年代の、シチリア島のフォッサト・ディ・ストレット・パルタンナ(Fossato di Stretto Partanna)遺跡の中期新石器時代農耕民と主成分空間では微妙な違いを示しました。
第四の集団と最も新しい年代となる第五の集団には4150~3970年前頃の1個体(UZZ57)が含まれ、前期青銅器時代に分類されます(デッルッツォEBA)。UZZ57個体は前期新石器時代個体群から、いわゆる「草原地帯」関連祖先系統を有する鐘状ビーカー(Bell Beaker)現象および他の後期新石器時代(LN)・青銅器時代(BA)集団と関連する個体群の方向へと移動します。この祖先系統はユーラシア西部の草原地帯遊牧民に特徴的で、青銅器時代にヨーロッパ全域に拡大しました(関連記事)。類似の変化は、以前に刊行されたシチリア島の前期青銅器時代個体群でも見られます(関連記事)。UZZ57個体のYHgはR1b1a1b1a1a2で、これは青銅器時代のヨーロッパでは一般的であり、シチリア島の青銅器時代個体群でも報告されました(関連記事)。
●中石器時代と前期新石器時代のシチリア島におけるゲノムの変化
約3000年にわたる中石器時代の11個体は、経時的なゲノム下部構造の変化の調査に独特な機会を提供します。さまざまなユーラシア西部狩猟採集民(X)についての、f4形式(チンパンジー、X;シチリアLM狩猟採集民、シチリアLM狩猟採集民)のf4単系統性統計での、シチリアEMとシチリアLMの狩猟採集民(HG)における祖先系統のより直接的な比較により、地理と関連するパターンが明らかになります(図2A)。有意に負のf4値が示すのは、シチリアEM狩猟採集民が、地中海関連祖先系統を有するイベリア半島の上部旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民と同様に、14000年前頃となるイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体に代表されるまとまりを含むヨーロッパ西部(南西部)狩猟採集民とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有する、ということです。対照的に、シチリアLM狩猟採集民は、ヨーロッパ北部および東部(南東部)とロシアの上部旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民と有意により多くのアレルを共有します。これは、中石器時代のシチリア島における遺伝的類似性の変化を示唆します。以下は本論文の図2です。
シチリアEMとシチリアLMとの間の類似性の違いは、シチリアEMに残存するマグダレニアン(Magdalenian)関連のベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡の個体(GoyetQ2)的な祖先系統か、あるいはシチリアLM狩猟採集民におけるヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)関連祖先系統か、その両方により説明できます。そのため、qpWaveとqpAdmに基づく混合モデルを用いて、シチリアEMとシチリアLMの遺伝的祖先系統がより明確に特徴づけられました。その結果、14000年前頃となるイタリア半島北部のヴィラブルナ個体を含む全ての他の検証されたユーラシア西部狩猟採集民を除いて用いられた外群一式に関して、シチリアEM狩猟採集民の祖先系統はイタリア半島のアペニン山脈の11900年前頃となるコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)の狩猟採集民とのクレードとしてモデル化できる、と分かりました。WHG祖先系統とマグダレニアン関連祖先系統についてさまざまな代理の混合を検定したその後の2方向qpAdm混合モデルは、シチリアEM狩猟採集民の遺伝子プールについては却下されました。qpGraphモデル化に基づく混合図も、ヴィラブルナの姉妹枝としてシチリアEM狩猟採集民に適合し、マグダレニアン関連祖先系統への寄与の可能性があります。
続いて、シチリアEMとシチリアLMとの間の遺伝的連続性の程度が調べられ、シチリアLMがqpWaveおよびqpAdmに基づく祖先系統モデルでEHG関連供給源からの異なる祖先系統に由来するのかどうか、明示的に検証されました。その結果、シチリアEM狩猟採集民とコンティネンツァもしくはヴィラブルナのイタリア半島狩猟採集民のどちらの祖先系統も、シチリアLM狩猟採集民の祖先系統に充分な適合を提供できない、と分かりました。代わりに、シチリアEM狩猟採集民80.8±1.3%とEHG19.2±1.3%の二重祖先系統が、支持されるモデルをもたらしました(図3A)。とくに、シチリアEM狩猟採集民だけが、シチリアLM狩猟採集民においてWHG関連祖先系統の代理として使用できます。イタリア半島のコンティネンツァとヴィラブルナの狩猟採集民を含むユーラシア西部狩猟採集民との全ての他のモデルは、p<0.05で却下されました。これは、シチリアLM狩猟採集民におけるWHG関連祖先系統は先行する在来のシチリア島採食民に由来する可能性が最も高い、と示唆します。シチリアEM狩猟採集民とEHGとの間の混合は20±5世代前と推定され、これは8800年前頃に相当し、デッルッツォ洞窟における後期中石器時代の開始と一致します。以下は本論文の図3です。
さらに、より詳細なf4単系統性統計により示唆されるように、ヨーロッパ北部および東部(南東部)の狩猟採集民へのシチリアLM狩猟採集民の観察された類似性がさらに調べられました。観察された類似性と一致して、2方向混合モデルでは、シチリアLM狩猟採集民のEHG関連祖先系統は、スカンジナビア半島とラトビアとウクライナとルーマニアの鉄門(Iron Gates)の狩猟採集民で見つかる祖先系統と近似し得る、と分かりました。これは、中石器時代のシチリア島における持続する在来祖先系統とともに、外来祖先系統のわずかな寄与を確証します。
注目すべきことに、シチリアEM狩猟採集民について世界規模のヌクレオチド多様性(π)はその後のシチリアLM狩猟採集民と比較して低い、と分かりました。さらに、シチリアEM狩猟採集民では大量のROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)断片、とくに親族関連性を表す最短の4~8cM(センチモルガン)超のROHが検出されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。
短いROH断片の量は、後のシチリアLM狩猟採集民も含めて全ての他のヨーロッパ上部旧石器時代もしくは中石器時代狩猟採集民や、イタリア半島の同時代のコンティネンツァ狩猟採集民およびヴィラブルナ狩猟採集民と比較してずっと多くなっています。まとめると、これらの結果はシチリアEM狩猟採集民における小さな有効人口規模を示唆しており、それは、人口集団のボトルネック(瓶首効果)や、おそらくは外来祖先系統の流入による後期中石器時代における人口規模の増加から生じたかもしれません。
シチリア初期農耕民(シチリアEN)は主成分空間では、ヨーロッパ初期農耕民(EEF)に最も近く、先行する在来のシチリア狩猟採集民とは近くありません(図1C)。外群f3統計(ムブティ人;シチリアEN、X)を用いて、他の同時代の古代人集団のどれがシチリアENと最高の遺伝的類似性を示すのか、調べられました(図2B)。PCAの結果と一致して、シチリア島初期農耕民は、バルカン半島とギリシアとヨーロッパ中央部のさまざまな前期新石器時代農耕民と最も多くの遺伝的浮動を共有します。対照的にシチリアEN農耕民は、在来の狩猟採集民集団との混合の結果としてより高い割合の狩猟採集民祖先系統を有していた、フランスやイベリア半島など地中海西部沿岸の個体群とのゲノム類似性は低くなっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これはシチリア島における中石器時代から新石器時代への移行での遺伝的祖先系統の大きな置換との調査結果を裏づけ、イタリア半島のEN農耕民での報告と類似しています。
これをさらに調べるため、f4混合統計(チンパンジー、シチリアLM狩猟採集民;アナトリアENバルシン、シチリアEN)を用いて、アナトリアENバルシンをEEF祖先系統の基準として用いた場合、シチリアEN農耕民が先行するシチリアLM狩猟採集民と共有される過剰なアレルを保持しているのかどうか、検証されました。統計は有意に正で、シチリアEN農耕民における過剰な在来狩猟採集民祖先系統が示唆されます。じっさい、qpAdmに基づく混合モデルでは、在来のシチリアLM狩猟採集民はシチリアEN農耕民の遺伝子プールに7.5±0.9%を寄与した、と推定されます。
注目すべきことに、在来狩猟採集民の混合兆候は、以前に刊行されたフォッサト・ディ・ストレット・パルタンナ遺跡のシチリアMN(中期新石器時代)農耕民(在来のシチリアLM狩猟採集民祖先系統の推定割合は11.9±0.9%)と比較すると有意に低くなっています。全体的に、これは微妙ではあるものの検出できる、新石器時代シチリア島農耕民における在来狩猟採集民祖先系統の寄与と「復活」の可能性を示唆します。重要なことに、刊行されたシチリアMN農耕民はシチリアEN集団の最も新しい(6830~6660年前頃)農耕民個体(UZZ61)と同時代で、フォッサト・ディ・ストレット・パルタンナ遺跡などシチリア島の他の場所で「復活(農耕民と狩猟採集民との混合)」は紀元前七千年紀半ばまでに起きたものの、その時までにデッルッツォ洞窟では起きなかった、と示唆されます。
前期青銅器時代(EBA)の個体(UZZ57)は主成分空間では、草原地帯関連祖先系統を有する後期新石器時代の鐘状ビーカー現象およびEBA集団と関連する個体群の方へと動いており、シチリア島の他のEBA個体群での観察と類似しています。これはqpAdmにより確証され、UZZ57個体は在来のシチリアEN祖先系統とヤムナヤ(Yamnaya)文化のサマラ(Samara)集団により表される「草原地帯祖先系統」との2方向混合としてモデル化できます。UZZ57個体における草原地帯祖先系統の寄与は21.0±3.5%と推定され、他の刊行されたシチリアEBA集団の範囲内に収まります。
●シチリア島の後期中石器時代の採食民は初期農耕のいくつかの側面を採用しましたか?
シチリア島の中石器時代から新石器時代への移行期の根底にある過程にさらに光を当てるため、食性の推定についての安定同位体(炭素13と窒素15)と、本論文の時代区分での各個体についての祖先系統特性がともに分析されました。異なる祖先系統を有する異なる時代区分の個体は、同位体的に異なる食性だった、と分かりました(図3B)。安定同位体データから、デッルッツォ洞窟のEM狩猟採集民はおもに陸生の獲物の狩猟に依存しており、かなりの植物性食料の寄与があったものの、海洋資源消費は限定的だった、と示されました。対照的に、EHG祖先系統を有するシチリアLM狩猟採集民の食性は、海洋性タンパク質の顕著により高い割合によって特徴づけられます。シチリアEN農耕民の同位体値は、陸生の農耕食性と一致します。全体的に、個体ごとの同位体と祖先系統の特定は、食性が大まかには分類されたゲノムのまとまりと対応し、考古学的期間ごとの生計を証明する、と示されます。
しかし、遺伝的にはLMでは最古級となる7960~7790年前頃の女性2個体(UZZ71とUZZ88)は、広義のカステルノヴィア文化と関連するLM狩猟採集民のゲノム多様性内に、200年後にも関わらず完全に収まります(図1C)。両個体は、ステンティネッロ/クロニオ土器と関連する後のシチリアEN農耕民とも、先行するLM狩猟採集民とも異なる同位体値を示します(図3B)。UZZ71個体の食性の特性(炭素13が−18.9‰、窒素15が14.5‰)は淡水タンパク質の摂取を示唆しており、バルカン半島の鉄門の中石器時代狩猟採集民の報告と類似しています。一方、UZZ88個体の同位体組成(炭素13が−19.2‰、窒素15が7.1‰)は、低水準の動物性タンパク質消費の陸生農耕食性を示唆します。UZZ88個体についての狩猟採集民祖先系統特性と陸生農耕食性の観察された組み合わせは、二つの方法で説明できます。それは、農耕牧畜が在来の生計慣行に強い影響を及ぼし、および/もしくは一部の採食民が侵入してくる農耕集団の一部になった、ということです。
逆に、遺伝的構成が侵入してきた農耕民に典型的なUZZ77個体は、中石器時代の陸生資源に依存する採食民とより類似した食性の特性(炭素13が−18.8‰、窒素15が12.5‰)を有しています。UZZ88個体とUZZ77個体の組み合わされた遺伝的データと同位体データは、在来狩猟採集民と侵入してくる農耕民との間のある程度の相互作用を示し、フォッサト・ディ・ストレット・パルタンナ遺跡でも証明されたように、農耕導入後のシチリア島における狩猟採集民祖先系統の低い割合とも一致します。
●考察
アペニン半島(イタリア半島)は長く、25000~18000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)における退避地の一つと考えられており、そこからヨーロッパは再植民されました。シチリア島における現生人類(Homo sapiens)の存在の最初の証拠は19000~18000年前頃にさかのぼり、陸橋がイタリア半島とシチリア島をつないだ期間の後です。イタリア半島とシチリア島には上部旧石器時代の居住の証拠がある多くの遺跡がありますが、採食民人口集団は中石器時代に減少したようで、デッルッツォ洞窟のEM狩猟採集民が続グラヴェティアン伝統に由来する石器インダストリーを製作した、という観察と一致します。人口集団のゲノム多様性の大きな減少と、シチリアEM狩猟採集民における大量の短いROH 領域は、コンティネンツァ洞窟の中石器時代採食民との高水準の共有される遺伝的浮動とともに、シチリア島の採食民に影響を及ぼした人口集団のボトルネックを示唆し、それはイタリア半島中央部でも起きた可能性があります。
シチリア島のいくつかの後期続グラヴェティアン(グラヴェット文化)遺跡には、マグダレニアン(マドレーヌ文化)を含むフランコ・カンタブリア地域と類似した動物像が刻まれた岩壁が含まれています。イタリア半島北部のヴィラブルナ遺跡の続グラヴェティアン関連の14000年前頃となる狩猟採集民と比較して、シチリアEM狩猟採集民は、エルミロン(El Mirón)遺跡やバラマ・グイラニャ(Balma Guilanyà)遺跡など、マグダレニアンおよびアジリアン(Azilian)と関連するイベリア半島の狩猟採集民の方とより高い遺伝的類似性を有しています。
以前の研究では、コンティネンツァ洞窟の中石器時代狩猟採集民について、同様の類似性が報告されました。ヴィラブルナ遺跡個体と比較して、コンティネンツァ洞窟もしくはデッルッツォ洞窟の個体では余分なマグダレニアン関連祖先系統が見つかりませんが、エルミロン遺跡やバラマ・グイラニャ遺跡を含むイベリア半島の狩猟採集民は続グラヴェティアン関連祖先系統を有している、と示唆されました(関連記事)。これは、イベリア半島の狩猟採集民における続グラヴェティアン関連祖先系統はイタリア半島南部・中央部に由来する可能性が高い、と示唆します。考古学とゲノムの結果から、イタリア半島南部の続グラヴェティアンとイベリア半島のマグダレニアンおよびアジリアン(アジール文化)との間の深いつながりが示唆され、さらなる調査が必要です。
シチリアEM狩猟採集民と比較して、シチリアLM狩猟採集民はEHG関連供給源からの18~21%の祖先系統を有しており、中石器時代における祖先系統の変化の証拠を提供します(図3A)。LGM後に、続グラヴェティアンと関連する採食民はイタリア半島とヨーロッパ南東部の両方で拡大しました。イタリア半島南部と同様に、バルカン半島も氷期の退避地でした。現在、バルカン半島の続グラヴェティアンの採食民で利用可能なゲノムはありません。しかし、この地域の中石器時代狩猟採集民は、ヨーロッパ南東部でEHG関連祖先系統を有する最古の狩猟採集民集団の一つで、バルカン半島はシチリアLM狩猟採集民で見つかる過剰なEHG祖先系統の候補地として示唆されます。これは、ヨーロッパ北部および東部から近東およびコーカサスへと向かうEHGおよびAHG(アナトリア半島狩猟採集民)関連祖先系統との、狩猟採集民の長期の相互作用領域についての以前の報告(関連記事)を強調します。この人口集団は、ヨーロッパ中央部および南部への石刃と台形様石器の移行の西進の過程でシチリア島へと拡大した可能性が高く、それは9300年前頃となる気候異常後に始まったようです。
対照的に、シチリアEN農耕民についての古代ゲノム規模データは、採食から農耕への移行期におけるほぼ完全な遺伝的置換を示します。先行する後期中石器時代狩猟採集民は、デッルッツォ洞窟のEN農耕民に最大で約7%程度寄与しました(図3A)。これが示唆するのは、農耕への移行は前期新石器時代における大規模な初期農耕民による在来採食民人口集団の置換を含んでおり、イタリア半島のリパビアンカ(Ripabianca)遺跡やコンティネンツァ洞窟遺跡およびヨーロッパの他地域の初期農耕民についての以前の結果と同様である、ということです。
しかし、新石器時代開始期の頃の数個体の異なる食性と中間的な放射性炭素年代は、狩猟採集民と農耕民がシチリア島で生計慣行を最初に交換した、という暫定的証拠を提供します。狩猟採集民祖先系統と農耕・漁撈食性を有する個体が観察された一方で、農耕民の祖先系統を有する1個体は陸生の採食民食性を有していました(図3B)。これらの各個体のストロンチウム同位体分析がないため、こうした個体のうち1個体もしくは複数個体が地元民ではない可能性を除外できませんが、これは、UZZ71個体とUZZ88個体の事例における遺伝的背景ではありそうになく、この2個体はデッルッツォ洞窟のLM狩猟採集民と同じ遺伝的構成を有しています。これは、混合した採食・漁撈・農耕経済が、農耕牧畜導入後の最大数世紀間、デッルッツォ洞窟で確立していたのかどうか、という問題につながります。この可能性は、漁撈が中石器時代よりも前期新石器時代において一般的に行なわれるようになった、と示唆するデッルッツォ洞窟遺跡の動物考古学的証拠と一致します。
かなり稀ですが、セルビアとルーマニアの鉄門地域やブルガリアのマラク・プレスラヴェッツ(Malak Preslavets)遺跡などバルカン半島と、フランスの地中海沿岸で、狩猟採集民の農耕要素採用事例が報告されています。さらに、マグレブの前期新石器時代農耕民の利用可能な数点の祖先系統特性は、この地域の15000年前頃となるイベロモーラシアン(Iberomaurusian)採食民との強い人口集団ゲノム連続性を示しました(関連記事1および関連記事2)。まとめると、これらの事例は、シチリア島北部から西部など地中海沿岸部および西部地域における初期農耕民と狩猟採集民との間の一般的に高められた相互作用の共同証拠を提供します。将来の研究では、地中海沿岸地域において、在来採食民の文化変容が、大陸部経路沿いの地域と比較して、新石器化の過程でより重要な役割を果たした可能性を調べられます。
地中海中央部および西部への拡大経路は、地中海における新石器時代への移行に関する考古学的議論の不可欠な一部を形成します。イベリア半島のEN農耕民集団の以前の結果と一致して、シチリアEN農耕民も、地中海南部のアフリカ北部集団ではなく、バルカン半島および大陸部経路と関連するヨーロッパ中央部のEN集団と遺伝的類似性を共有していました。したがって、シチリア島とイベリア半島の初期農耕民の大半は、バルカン半島で大陸部経路と同じ起源を共有し、ジブラルタル海峡および/もしくはシチリア海峡を横断しなかった地中海北部経路沿いに拡大した集団の子孫だった、と想定するのが節約的です。
全体的に本論文は、同じ遺跡の6000年にわたる遺伝的および食性変化を提示します。デッルッツォ洞窟の個体群のゲノムデータは、後期中石器時代と前期新石器時代と前期青銅器時代における少なくとも3回の遺伝的侵入の証拠を示しており、最も顕著な人口集団変化は中石器時代から新石器時代への移行期に起きました。ゲノムと同位体の証拠を組み合わせると、新石器時代の最初期に、在来の狩猟採集民と侵入してくる農耕民は遺伝的に相互作用していただけではなく、それぞれの生計慣行にも影響を及ぼしていたかもしれない、と明らかになります。
ゲノム祖先系統の分析だけでは文化変容を検出できないかもしれない、と注意することが重要です。本論文および採食民と農耕民との相互作用についての多くの先行研究では、採食民の文化変容は、考古学的文脈の記述とともにゲノム祖先系統と安定同位体データと正確なAMS放射性炭素年代を共同分析することによってのみ、検出できました。したがって学際的手法は、地中海における採食から定住農耕への移行の包括的理解を得るための、最も強力な研究戦略です。以下は本論文の要約図です。
●この研究の限界
この研究の重要な長所は、地中海の中心の単一遺跡における前期~中期完新世の遺伝的および食性変化についての見解を提供することです。この研究の標本抽出戦略は、中石器時代と新石器時代のさまざまな段階を網羅することに成功し、ゲノムと食性の重要な変化を検出できるようになりました。しかし、先史時代の骨遺骸の性質は、とくに少なくとも5000年にわたっている場合、各段階では数標本よりも多く処理することが困難になります。
中石器時代から新石器時代への移行は、この研究にとって重要な時期で、短期間の段階だったと示され、放射性炭素年代測定により検出可能な年代範囲よりも短い可能性が高そうです。これは考古学的観点では、とくに複雑な層序と重複堆積物的な堆積のある洞窟遺跡については、「干し草の山の中の針」のシナリオを扱っている、と意味します。したがって、狩猟採集民と初期農耕民との間の接触期の頃に起きたかもしれないことについての本論文の解釈は、3個体(UZZ71とUZZ77とUZZ81)の遺伝的および同位体データにおもに依存しています。
それにも関わらず、本論文の再構築は本論文で提示された遺伝的および同位体データだけではなく、刊行された同位体データと、デッルッツォ洞窟で行なわれたかなりの量の考古学と動物考古学と考古植物学的研究にも依拠しています。この種の調査が直面するもう一つの限界は、中石器時代から新石器時代への移行期の遺跡や堆積物の不足で、地中海ではわずかな文脈により表されます。
参考文献:
Yu H. et al.(2022): Genomic and dietary discontinuities during the Mesolithic and Neolithic in Sicily. iScience, 25, 5, 104244.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2022.104244
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