ヨーロッパとアジア南西部の初期農耕民の遺伝的起源(追記有)

 ヨーロッパとアジア南西部の初期農耕民の遺伝的起源に関する研究(Marchi et al., 2022)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。先史時代遺跡の骨格遺骸の遺伝的分析は、「新石器時代革命」として考古学ではよく説明される過程を通じて、新たな人々や物質文化や慣行とともに8600年前頃にヨーロッパへと定住と食料生産をもたらした変化について、知識を大いに増やしました。これらの過程は、最初に植物が栽培化されて動物が家畜化されたアジア南西部では、11700年前頃の転換点に達した、と考えられています。アジア南西部から、二つの主要な経路、つまり「地中海」経路と「ドナウ川」経路に沿ってヨーロッパへと農耕が拡大した、と広く合意されており、本論文で取り上げられるのは「ドナウ川」経路です。このよく発達した考古学的説明にも関わらず、世界最初の農耕民の遺伝的起源と、関連する過程の時空間的範囲は理解しにくいままで、それはおもに、農耕拡大の最初の段階に関わる人口集団に由来する高品質の古代ゲノムが欠けているためです。

 これまで、古遺伝学的研究により、ヨーロッパの初期農耕民(EF)は同時代のヨーロッパ大陸に居住していた完新世狩猟採集民(HG)とは遺伝的に異なる、と確証されてきました。明らかに、EFとHGとの間の遺伝的交換は農耕拡大の初期段階では限定的で、後の段階でより緊密な交換が起きました(関連記事)。ヨーロッパ大陸部に存在したほとんどの農耕民は、9000年前頃にエーゲ海盆地とマルマラ(Marmara)地域に居住していた人口集団の子孫だったようですが、その究極的な遺伝的および地理的起源は、依然として議論になっています。

 エーゲ海の前期新石器時代(EN)農耕民は、アナトリア半島中央部農耕民と明確に関連していますが、レヴァント南部の先土器新石器時代農耕民とも類似性を示します。これは、農耕の西方への拡大前のこうした全人口集団の共通起源を示唆しており、その可能性がある地域は肥沃な三日月地帯で、現在のイランとイラクとイスラエルとパレスチナとヨルダンとレバノンとシリアとトルコが含まれる、考古学的に重要な地域です。しかし先行研究では、エーゲ海農耕民は肥沃な三日月地帯の東翼、つまりイランとイラク北部のザグロス地域の初期農耕人口集団とは遺伝的に異なっている、とも明らかになっており(関連記事)、アジア南西部全域の遺伝的に異なる集団により農耕慣行が並行して採用された、と示唆されます。

 さらに、アナトリア半島中央部の続旧石器時代と新石器時代の人口集団間の遺伝的連続性のいくつかの証拠があり(関連記事)、大きな遺伝子流動のない農耕への局所的移行が示唆されます。全体像をさらに複雑にするのは、一部のアナトリア半島EFが、ジョージア(グルジア)西部のコティアス・クルデ(Kotias Klde)遺跡で発見された9700年前頃となる個体のゲノム(関連記事)により表される、コーカサスHGとの類似性も示すことです(関連記事)。コーカサスHG自体は、初期イラン新石器時代農耕民や、後のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の牧畜民と密接に関連している、と考えられています。

 ヨーロッパとアジア南西部の初期農耕人口集団のゲノムの歴史を理解する努力にも関わらず、時空間的枠組みに埋め込まれた人口統計や分岐や移住の詳細な歴史的シナリオはまだ欠如しています。以前にわずか数点の分析で、新石器時代集団とHG集団の祖先間分岐年代が推定されました(関連記事)。使用されたモデルは、さらに単純化されていました。上述の古遺伝学的結論はおもに、通常は網羅率の低いゲノムおよび/もしくは確認されたSNP(一塩基多型)一式に基づいて計算される、記述的分析と要約統計(主成分分析や混合分析やf4統計など)の解釈に由来します。そうしたデータは、「人口ゲノム(ゲノム情報を用いた人口統計学的モデル化の省略表現)」分析への統合は困難です。本論文の目的は、アジア南西部とヨーロッパのEFの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と、HGとの分化に寄与した過程の再構築です。そのため、アジア南西部からヨーロッパ西部~中央部のライン川流域へと達する時空間的区分に沿って分布する、初期完新世農耕民とHGの15点の高解像度ゲノムが生成されました(図1)。以下は本論文の図1です。
画像

 DNAは、初期完新世のヨーロッパとアナトリア半島の最重要の遺跡の一部で回収された骨格から抽出されました(表1)。具体的には、エーゲ海盆地の最初の農耕村落ではコティアス・クルデ(Kotias Klde)とバルシン(Barcın)とアクトプラクルク(Aktopraklık)とネア・ニコメディア(Nea Nikomedeia)、バルカン半島中央部の鉄門(Iron Gates)峡谷と他地域ではレペンスキ・ヴィール(Lepenski Vir)とフラサク(Vlasac)とグラド=スタルチェヴォ(Grad-Starčevo)とヴィンチャ=ベロ・ブルド(Vinča-Belo Brdo)、ヨーロッパ中央部ENの最古級墓地と最大の墓もしくは「虐殺」遺跡ではクラインハーダースドルフ(Kleinhadersdorf)とアスパルン=シュレッツ(Asparn-Schletz)とエッセンバッハ=アメルブレイテ(Essenbach-Ammerbreite)と(Dillingen-Steinheim)とディリンゲン=シュタインハイム(Dillingen-Steinheim)です(図1)。


●古代の個体群の遺伝的構造と類似性

 古代の個体群と現代の参照人口集団のゲノムの中立部位で実行されたMDS(多次元尺度構成法)は、古代の個体群の3クラスタ(まとまり)を明らかにします(図2A)。それは、ヨーロッパHG、西方(ヨーロッパとアナトリア半島)EF、イランのEF個体(WC1)およびコーカサスの中石器時代HG個体(KK1)です。確認されたSNPに基づく以前の分析と一致して(関連記事)、西方EFはサルデーニャ島現代人と最も強い類似性を示し、例外は、ヨーロッパ南部の他地域の現代の個体群とまとまる(クラスタ化する)と明らかになる、イングランドの1個体(CarsPas1)とアナトリア半島北部EFの2個体(Bar8とAKT16)です。対照的に、旧石器時代と中石器時代のヨーロッパHGは、全ての現代ヨーロッパ人と遺伝的によく区別されます。以下は本論文の図2です。
画像

 イランEFとコーカサスHGは、その標本抽出地域の現代の人口集団と遺伝的に密接なようで、そうした地域におけるある程度の長期の遺伝的連続性と一致します。この観察は、選択に影響するかもしれない部位を含めて全ゲノムでMDS分析を実行すると、さらに顕著になります。一般的に、MDSが中立部位だけではなくゲノム全体で計算されると、古代の個体群は現代の個体群により近くなるようです。これは、背景選択で影響を受けたゲノム領域の進化がより遅いことにより説明可能です。全ゲノムMDSで見られるもう一つの顕著な違いは、西方EFがサルデーニャ島人とよりも一部の他のヨーロッパ南部人の方と密接であることです。


●人口ゲノムモデル化推定

 研究を進めるため、上述の3つのMDSクラスタのそれぞれから抽出された高解像度の古代ゲノムを用いて、人口集団分化の代替モデルがまず対比されました。各クラスタから標本抽出された個体は、相互につながっているものの、ほとんど標本抽出されていない人口集団から構成される、大規模な構造化されたメタ個体群(アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)に属する人口集団に由来する、と仮定されました。そうしたモデルは文献では「大陸・島嶼」モデルと記載されており、標本抽出の直前のメタ個体群(大陸)からの遺伝子流動の単一の波を受け取った、標本抽出された人口集団(島々)を伴います。

 3つのメタ個体群は、ヨーロッパとアジア南西部全域の古代ゲノムの地理的分布を反映する、西方と中央と東方に指定されました。これら3メタ個体群は、ヨーロッパ西部HG(西方)、ヨーロッパとアナトリア半島の西方EF(西方)、イランEF(東方)を表しています。次に、追加の古代の個体群が最初のモデルにじょじょに追加され、その祖先系統および他の人口集団との関係が推測されました。したがって、ますます複雑になるモデルを構築して検証でき、人口統計学的シナリオが得られました(図3)。以下は本論文の図3です。
画像


●全てのEFはコーカサスHGと遠位共通祖先系統を有しています

 さまざまな研究とは対照的に本論文では、KK1個体により表されるコーカサスHGと西方EFは全て、中央メタ個体群の祖先の人口集団から派生した、と分かりました。これは、KK1個体が西方ヨーロッパHGとよりもEFの方と密接に関連していた、と示す最近の遺伝学的研究と一致します。この祖先的中央メタ個体群は、14200年前頃(95%信頼区間で19000~13700年前)に西方メタ個体群から遺伝子プールの約14%(95%信頼区間で8~26%)を受け取りました。

 WC1個体により表されるイラン新石器時代人口集団の祖先は、この最初の混合に影響を受けず、むしろ中央メタ個体群との15800年前頃の分岐(95%信頼区間で25600~14300年前)後に、東方メタ個体群から13600年前頃(95%信頼区間で24600~11000年前)に分岐しました。コーカサスHGはイランのEFとより密接な遺伝的類似性を示しますが(図2A・B)、本論文の分析では、コーカサスHGは全ての西方EFと共通の祖先系統を有している、と示唆されます。


●西方EFの祖先は西方HGと混合しました

 西方EFの祖先は西方メタ個体群から遺伝子流動の第二の波を12900年前頃(95%信頼区間で13900~9400年前)に約15%(95%信頼区間で6~17%)受け取りましたが、コーカサスHGは受け取りませんでした。この追加の混合を含まないモデルは可能性が低いため、却下されました。したがって、西方EFの祖先は西方メタ個体群からの遺伝子流動の繰り返し事象の産物です。その後、これらの人口集団は12900~9100年前頃に遺伝的浮動の高まった期間のため、コーカサスHGと分岐しました(図3および図4)。じっさい、その有効人口規模は浮動のこの比較的長い期間に620個体(95%信頼区間で72~2150個体)へと減少し、これは祖先集団からだけではなく、コーカサスおよびヨーロッパの狩猟採集民と、イランEFからも遺伝的に分岐した、と分かりました(図4)。以下は本論文の図4です。
画像


●アナトリア半島とエーゲ海の農耕民の分化

 アナトリア半島北西部(アクトプラクルク遺跡とバルシン遺跡)とギリシア北部(ネア・ニコメディア遺跡)の人口集団は、相互に9300~9100年前頃(95%信頼区間で12000~9100年前)と同じ頃に分岐したようで、EFによるより広範なエーゲ海地域の植民中だった可能性があります。対照的に、ボンクル(Boncuklu)遺跡により表されるアナトリア半島中央部のEFは、少なくともその1000年前となる10500年前頃(95%信頼区間で11000~10500年前)に分岐しました。

 アナトリア半島とエーゲ海の人口集団が西方メタ個体群からのさまざまな量の最近の遺伝子流動を示すことは、周辺HGとのさまざまな水準の相互作用を示唆します。じっさい、ギリシア北部のゲノムは、ボンクル遺跡個体(10%、95%信頼区間で3~15%)やバルシン遺跡個体(12%、95%信頼区間で6~16%)や、とくにアクトプラクルク遺跡個体(17%、95%信頼区間で11~18%)よりも、HGからの遺伝子移入の程度は3%(95%信頼区間で1~11%)とさらに低くなっています。続旧石器時代伝統と新石器時代伝統の両方に影響を受けたと以前の研究で説明されている遺跡である、アクトプラクルクの個体で見つかる西方メタ個体群との高水準の混合は、混合分析(図2B)、およびAKT16個体が他の西方EFよりもヨーロッパHGと大きな遺伝的類似性を示すf統計と一致します。


●ヨーロッパ中央部への新石器時代農耕民の段階的な人口拡大

 ヨーロッパへのEFの漸進的拡大を理解するため、セルビアとオーストリアとドイツの3つのEN人口集団を含めることにより、既存の人口統計学的モデルが拡張されました。このモデルは空間的には明示的ではありませんが、EF拡大の側面を遺跡の時空間的分布から推測できます。より広範なエーゲ海地域(アナトリア半島北西部もしくはギリシア北部)に起源があり、バルカン半島を経由し、いわゆるドナウ川回廊沿いにセルビア、次にはオーストリア、最終的にはドイツへと拡大したEFの厳密な段階的移住での単純なモデルは、エーゲ海から直接的にオーストリアへと長距離の移住を可能とするシナリオよりもよく裏づけられる、と分かりました。初期農耕共同体はドナウ川沿いの拡散のモデル化された各段階でわずかなHG個体を組み込んだ、と分かり、これは以前の推定値(3~9%)と一致します。

 西方メタ個体群からEF人口集団への遺伝子移入なしのシナリオは、遺伝子移入有のシナリオよりも可能性が低くなります。中石器時代のフラサク遺跡で発見された個体の新たに配列されたゲノムと密接に関連する西方メタ個体群からの遺伝子移入をモデル化しても、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡とフランスのビション(Bichon)遺跡の個体と関連するような他のヨーロッパ狩猟採集民集団で、遺伝子移入がじっさいに起きた可能性を除外できません。じっさい以前の遺伝学的研究では、さまざまな中石器時代の背景がヨーロッパのさまざまな地域でEF遺伝子プールへ遺伝子移入したかもしれない、と示唆されました。


●東西メタ個体群間のLGMでの分岐

 北西部モデルは、新石器時代前の人口集団の深い分岐に関しても重要な洞察を提示します。東西のメタ個体群の祖先間の分岐は、25600年前頃(95%信頼区間で31300~17300年前)にさかのぼる、と推定されます。これは、ヨーロッパ西部HGとイランEF(77000~46000年前頃)もしくはヨーロッパEF(46000年前頃)の祖先間の以前に推定された分岐年代よりずっと新しくなります。しかし、これら以前の推定分岐年代は、ボトルネック(瓶首効果)なしの比較的単純なモデルを用いて、最近だけの混合かまったく混合がない形態を想定して得られたものでした。

 本論文では追加のシナリオが調べられ、メタ個体群の分岐年代についてのこれら単純化の影響が評価されました。予測されたように、メタ個体群の枝でのボトルネックなしのモデルは、東西のメタ個体群の39000年前頃とずっと古い分岐年代につながり、以前の推定値よりも一致しますが、このモデルは本質的に本論文のモデルより可能性が低くなります。一方、西方HGメタ個体群と西方EFの祖先との間の混合なしのモデルは、東西のHGメタ個体群間のずっと新しい分岐年代につながるものの、そのデータとの適合性はひじょうに低くなります。ビション遺跡とロシュブール遺跡の西方ヨーロッパHGをフラサク遺跡の新たに配列された中石器時代個体群と比較すると、ヨーロッパHG人口集団はすでに最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)となる22800年前頃(95%信頼区間で24700~16700年前)に分岐し、ビション遺跡とロシュブール遺跡の人口集団は続いてその約1000年後に相互と分岐した、とさらに明らかになります。


●ヨーロッパのHGにおける多様性低下はLGMの大規模なボトルネックに起因します

 中立部位での異型接合性により定量化された遺伝的多様性は、EFよりもHGでずっと低く、例外は以前の研究と一致してアナトリア半島北西部のEFです。HGゲノムはさらに、ヨーロッパHG内の親族関連性を示唆する中間的な(200万~1000万塩基対)ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)のより大きな割合を示しており、通常は小さな人口規模に起因し、MSMC2分析でも小さな人口規模が観察されます。しかし、興味深いことに、本論文のモデルではHGの有効人口規模はほとんどのEF、とくにアナトリア半島EF(Bon002とAKT16とBar25)よりも大きいと推定され、わずか数百個体の有効人口規模が示され、中間的な長さのROHの高い割合と一致します。

 したがって、ヨーロッパHG間で観察されるより低い遺伝的多様性は、小さな孤立した集団で暮らしていた個体群というよりは、むしろひじょうに強いLGMボトルネックに起因するようです。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(同型接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。


●推定されたモデルはゲノムデータの主要な特徴を再現します

 最も完全な人口統計学的シナリオ(図3)下で模擬実験されたゲノムデータは、実際のデータで実行されたMDS図(図2A)で観察されたものとひじょうに類似している、人口集団の関係につながります。それは、3クラスタが明確に見え、ヨーロッパHGは全て相互に近接して西方EFとは著しく異なっており、対照的にコーカサスHGとイランEFは区別されたままです。さらに、図3で提示されたモデル下で模擬実験されたデータに適合する単純化された混合図は、じっさいのデータで計算されたものと一致するf統計につながります。したがって、図3のモデルで推測された全ての人口集団関係はf統計により確証されます。

 最後に、本論文のモデルにしたがって模擬実験されたデータで実行された混合分析は、それらで観察されたものとひじょうに類似した混合割合につながります(図4B)。とくに、コーカサスHGはMDS図での近接性と一致して、イランEFと共有される大きな黄色の構成要素を示します。したがって、観察されたデータと模擬実験されたデータとの間で良好な適合は、本論文のモデルに基づく手法の事後検証を提供します。


●明示的な人口統計学的モデル化から得られた進化的洞察

 網羅率10倍を超える古代ゲノムの配列決定により、ヨーロッパの初期完新世で利用可能な高品質の全ゲノムデータが3倍になっただけではなく、選択の影響が最小限の偏りのない遺伝標識一式について、遺伝的分析が可能となりました。そうした中立的な遺伝標識は、後期更新世から前期完新世にかけてのヨーロッパとアジア南西部の人口史の再構築に理想的に適しています。本論文のモデル化は長年の仮定と解釈を確証することに加えて、新石器時代への移行と西方への拡大に先行する人口統計学的過程について、いくつかの重要な洞察を提供します。


●LGMまでに起きたヨーロッパHGの分岐

 本論文のモデルでは、ヨーロッパHGは、LGMにおけるひじょうに深刻なボトルネックを経た後、23000年前頃にはすでに2つの下位集団(西方1と西方2)に分岐しており(図5C)、遺伝的多様性が低水準であることと対応します(図2C)。以前の研究とは対照的に、HGは一般的に同時代のEFよりも有効人口規模が大きい、と分かりました(図3)。そうした比較的大きい有効人口規模は、人口集団の分化を遅らせることにつながる可能性があり、さまざまなHG集団が長い分岐時間と広範な地理的分布にも関わらず、密接な遺伝的類似性を示す理由を説明できるかもしれません。

 HGの大きな有効人口規模は、集団間の長距離の遺伝的交換に起因するかもしれません。対照的に、明らかに大きな人口規模にも関わらず、EFの推定される低い有効人口規模から、新石器時代への移行が局所的なEFの有効人口規模の減少と関連しており、「定住化」もしくは土地への拘束と、ボンクルおよびアシュクル・ヒュユク(Aşıklı Höyük)の土器新石器時代遺跡で観察されたように、小規模な農耕共同体間の限定的な遺伝子流動に起因する可能性がある、と示唆されます。


●西方EFの祖先はコーカサスHGと関連します

 コーカサスHGは西方EFと共通祖先を有している、と示され、それは両者が東西のメタ個体群の祖先間の混合事象の痕跡を示すからです(図3)。この歴史的関係にも関わらず、本論文のモデルは依然として、イランEFとのコーカサスHGのゲノムの明らかな類似性を予測します。たとえば、KK1個体とWC1個体により共有される黄色の構成要素は、じっさいのデータと模擬実験されたデータ(図2Bおよび図4B)や、MDS図の近接性(図2Aおよび図4A)で見つかります。これは、遺伝的類似性の観察されたパターンが、じっさいの祖先系統関係の再構築には充分ではないことを示します。


●特定の人口統計学的過程は祖先人口集団からのEFとHGの分化を説明します

 本論文は人口ゲノムモデル化(ゲノム情報を用いた人口統計学的モデル化の省略表現)を通じて、特定の人口統計学的過程が過去の人口集団の遺伝的分岐をどのように引き起こしたのか、論証できます。本論文はじっさい、標本抽出された古代の個体群のゲノム多様性だけではなく、特定の時点での祖先人口集団から抽出された個体群のゲノム多様性を模擬実験できるので、標本抽出された個体群との関係を予測できます(図4A)。たとえば、全ての標本抽出された個体の祖先人口集団は、イランEFおよびコーカサスHGと遺伝的に密接に関連する、と推測されます。図4Aでも示されるように、ヨーロッパHG(西方メタ個体群)の祖先はLGMボトルネックのため祖先人口集団からかなり分岐しており、MDS図の左上側の外れ値の位置が説明されます。

 西方EFの祖先(中央メタ個体群)はまず、祖先人口集団およびイランEFと近かったものの、西方HGメタ個体群との二つの連続した混合事象により、西方EFの祖先はMDS図ではヨーロッパHGにより近くなりました。それにも関わらず、西方EFの祖先を全ての他集団と特に異なるものにしたのは2500年以上の激しい遺伝的浮動で、MDS図の右上側に位置することになります(図4A)。この急速な分岐過程は、アナトリア半島を通っての拡散期間に置きた繰り返しの創始者効果に起因するかもしれない、と本論文は仮定します。西方EFは以前には他のアジア南西部集団間の遺伝的中間、もしくは西方HGとのイランおよびレヴァント南部の新石器時代人口集団との間の混合としてとして説明されましたが、この最初の混合兆候は古典的な混合分析では隠れたままで、それは、アナトリア半島を通ってのこれら人口集団の移動中に起きた遺伝的浮動により次第に浸食されたからです(図4B)。

 西方メタ個体群との2回の主要な混合事象の直後に模擬実験された人口集団は混合として現れますが(12000年前頃のEF祖先集団、図4B)、この最初の兆候は、完全に無関係な遺伝子プールをより多く有するように見える(図4Bの緑色の構成要素)西方EFの出現(および移住)とともに、経時的に次第に消滅します。その後の世代におけるMDS図(図4A)でのわずかに中心に近づいた位置は、西方メタ個体群および中央メタ個体群としてモデル化された周辺農耕民との混合に起因します。


●LGMにより引き起こされたHGの構造化と分岐

 本論文のモデルから現れる人口統計学的事象の時間と系列は、LGMから初期完新世までの明確な時空間的解像度がある人口集団分化のシナリオを示唆します(図5)。東西HGメタ個体群間の分岐は26000年前頃のLGMまでに始まったと分かり(図5A・B)、おそらくは生息環境の悪化とより温暖な地域に位置する可能性があるLGM退避地への縮小に起因します。LGMには氷床が最大規模となり、ヒトと非ヒト動物の両集団はヨーロッパのより南方の地域に位置する氷期退避地で生き残りました。以下は本論文の図5です。
画像

 本論文の最初のモデルでは、LGMの分岐はヨーロッパHGの祖先人口集団におけるひじょうに強いボトルネックの直後となります。このボトルネックのモデル化された強度Iは、ボトルネックの期間(t)とその規模(Nbot)に依存し、I=t/(2Nbot)です。ボトルネックが4000年続いた場合(1世代29年として138世代)、推定されるI値(0.18)は383個体の有効ボトルネック人口規模に相当します。この低い数値は、29000~25000年前頃(放射性炭素年代測定による較正年代)となるグラヴェティアン(Gravettian)の後半における人口規模で60%の減少を示唆する考古学的記録と一致し、ヨーロッパの総人口は700~1550個体と推定されます。

 ボトルネックが東西のメタ個体群間の分岐から切り離された、代替の人口統計学的シナリオが調べられました。その場合、北方の夏の日射量の減少段階に、わずかに古いメタ個体群間の分岐(27000年前頃)が見つかります。つまり、32000~26000年前頃と、LGM中期のより新しい23000年前頃のボトルネックが、この極端に寒冷な段階と関連している、と確証されます。さらに本論文の分析から、ヨーロッパHGはLGM末の21700年前頃までに2ヶ所の退避地で分化し、おそらくは考古学者が伝統的にソリュートレアン(Solutrean)技術複合と続グラヴェティアン(Epigravettian)技術複合の分布領域として識別するものに対応しています。


●LGM後の範囲拡大と混合

 LGM後の範囲拡大期間に続いて(図5D)、続グラヴェティアン退避地人口集団の子孫である可能性が高い中央HGメタ個体群の代表は、14200年前頃にコーカサスHGおよび西方EFの両方の祖先人口集団(東方1)と混合しました(図5E)。先行する氷期退避地の仮定された地理的分布を考えると、このボーリング(Bøllin)間氷期の混合は、アナトリア半島南東部とレヴァント北部にまたがる地域か、アナトリア半島中央部および東部もしくはトルコ南部沿岸など近隣地域で起きた可能性が高そうです。


●アナトリア半島集団とエーゲ海EF集団の分化

 アナトリア半島中央部とエーゲ海のEF人口集団間の分化の背後にある人口統計学的過程については、正確に特定して位置を突き止めることは困難です。古ドリアス期における中央メタ個体群からの分岐後の、西方EFの祖先の推定される低い人口規模は、西方への範囲拡大に起因し、アレロード(Allerød)間氷期の繰り返しの創始者効果と関連しているかもしれません。この期間は、比較的好適な環境条件により特徴づけられ、西方EFの祖先がさらにアナトリア半島において続旧石器時代HGと混合できるようになったかもしれません。

 アナトリア半島中央部EFがエーゲ海EFと同じ混合事象および浮動を共有している事実から、それらの集団は同じ拡大の一部で、EFはエーゲ海に到達する前にアナトリア半島中央部に到達し、異なる経路だった可能性がある、と示唆されます。しかし、以前の研究では、アナトリア半島中央部EFと続旧石器時代HGは遺伝的に類似していると示され、新石器時代への移行の前に混合集団がアナトリア半島中央部に存在した、と示唆されます(関連記事)。あるいは、混合HG人口集団は肥沃な三日月地帯からアナトリア半島中央部へと移動し、後の段階で完全に発展した農耕慣行を採用したのかもしれません。これは、アナトリア半島高原のボンクルやアシュクルなど初期の先土器遺跡が9700年前頃に作物耕作とヤギの管理を示す、という観察と一致します。

 対照的に、アナトリア半島北西部への移住(図5H)は、広範な混合農耕の確立により特徴づけられる完全に発展した土器新石器時代に起きた可能性が高そうです。直接的な(沿岸)経路、およびより低頻度のアナトリア半島中央部のコンヤ(Konya)平原地域経由のアナトリア半島北西部への人口拡散シナリオのさらなる裏づけは、レヴァント南部人口集団がアナトリア半島中央部個体群とよりもエーゲ海新石器時代個体群の方と多くの浮動を共有する、と示すf統計に由来します。この兆候の要因は以下のように複数考えられます。

 (1)エーゲ海とレヴァントの共同体間の長距離遺伝子流動で、物質文化の類似性に基づいて考古学者が提案しています。(2)ボンクル遺跡で観察され、本論文のモデルで推測されているように、アナトリア半島中央部における西方メタ個体群の混合水準がより高いことです。(3)肥沃な三日月地帯の人口集団とエーゲ海EFの祖先との間の一部の後の遺伝子流動と組み合わされた、肥沃な三日月地帯からアナトリア半島中央部へのボンクル遺跡個体群の祖先の初期の移住です。しかし、f統計分析では、エーゲ海とアナトリア半島北西部のEFは、レヴァントHGやイランEFを含むいくつかの人口集団と共有される浮動水準ではむしろ異質で、エーゲ海の新石器化がより複雑な過程だったことを示唆します。


●新石器時代の拡大は文化と人口の拡散の混合を通じて起きました

 新石器時代の最初の拡大は、遺伝的によく分化した集団間で肥沃な三日月地帯において文化拡散を通じて起きたに違いありませんが、本論文の結果から、アナトリア半島北西部とエーゲ海盆地とドナウ川回廊への拡大は、おもに人口拡散を通じて起きた、と示唆されます(図5H)。肥沃な三日月地帯を越えての人口集団の最初の拡大は、確かに直接的とは程遠く、レヴァントからの複数の遺伝的影響と関連しており、そのうち一部は完全に発展した新石器時代経済の出現と関連していませんでした。新石器時代の生活様式がヨーロッパに到達するとすぐに、ヨーロッパ中央部への人口集団の拡散様式はより直線的になり、踏み石的な移住として本質的にモデル化できます。以下は本論文の要約図です。
画像


●この研究の限界

 人口ゲノムモデル(図3)は観察された人口集団の類似性を明らかにできますが、時空間的間隙を明らかにしており、それは同様に高品質の追加のゲノムデータの生成によってのみ埋めることができます。とくに、アナトリア半島中央部の参照ゲノムおよびヨーロッパ東部のHGとともに、肥沃な三日月地帯西部の新石器時代の前と新石器時代の人口集団の高品質のゲノムは、本論文の結論を確証し、より完全にするために必要です。

 本論文で調べられた人口統計学的シナリオは、以前の調査よりもずっと複雑ですが、それはまだひじょうに概略的で、現実はもっと複雑だったに違いありません。とくに、本論文はじっさいには経時的に変わるかもしれないのに、一定の変異率や1世代当たりの年数など単純化された仮定を用いました。あるいは、本論文は直接的で独特な遺伝子流動の波として人口集団間の遺伝的相互作用をモデル化していますが、遺伝子流動は長期にわたって起きたか、標本抽出されていない人口集団を通じて間接的に起きたかもしれません。

 しかし、本論文のモデルは依然としてほとんどの観察された遺伝的パターンを捕捉し、再現しているので(図4)、過去の人口統計学的過程への重要な洞察を提供するのに充分なほど堅牢なようです。最後に、ドナウ川回廊沿いのヨーロッパEFと関連する遺伝的証拠が分析されましたが、地中海沿岸のEF拡大経路は、ヨーロッパにおける新石器時代の定住のより完全な全体像を得るために調査する必要があります。


●まとめ

 本論文で概説された枠組みを用いての人口集団モデル化により、要約統計と多変量解析だけでは結論づけられない人口集団の類似性について、重要で予測できないものの、補完的ではるかに詳細な情報を抽出できました。さらにこのモデルは、LGMから農耕導入までのアジア南西部とヨーロッパに定住した主要集団間の分化について時間枠を提供し、人口集団の断片化と混合事象の駆動としての気候変化の重要な役割を浮き彫りにします。

 世界最初の農耕民はヨーロッパHGとは遺伝的に大きく異なるように見えますが、高品質のゲノムに基づく本論文の模擬試験では、一部のヨーロッパとアジア南西部の人口集団はじっさい、後期氷期末以来の繰り返しの相互作用により特徴づけられる、最近の共通の歴史を有していた、と示されます。アナトリア半島を通っての拡大期間における強い浮動は、西方EFが実際よりも類似しておらず、なぜかその交雑性を隠したことに寄与しました。要約すると、肥沃な三日月地帯における全農耕民の単一の文化的および遺伝的起源との見解は、ヨーロッパ的HGの顕著な最初の寄与なしには、もはや現在の形では弁護できません。


参考文献:
Marchi N. et al.(2022): The genomic origins of the world’s first farmers. Cell, 185, 11, 1842–1859.E18.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2022.04.008


追記(2022年6月17日)
 本論文の解説記事を取り上げました(関連記事)。

この記事へのコメント