ユーラシア東部起源だったアヴァール人支配層
先アヴァール期とアヴァール期のカルパチア盆地の古代人のゲノムデータを報告した研究(Gnecchi-Ruscone et al., 2022)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパへの長距離移住が歴史的な情報源で報告されることは稀です。ユーラシア中央部草原地帯からカルパチア盆地へと567~568年(以下の年代は基本的に紀元後です)に到来したアヴァール人は、象徴的な例外です。カガン(可汗)により統治されていたアヴァール人の帝国はヨーロッパ中央部東方を、フランク王国により800年頃に打ち負かされるまで200年以上にわたって統治しました。
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の文献は、アヴァール人の移動の契機が、550年代における最初のテュルク系汗国の台頭だった、という点で一致します。この最初のテュルク系汗国の中心地は現在のモンゴルにあり、この時に突厥が「中国」の隣人に柔然(Rouran)と呼ばれる帝国を破壊しました。しかし、その文献は、アヴァール人が誰だったのか、もしくは正確にはどこから来たのかという点について、一致していません。じっさいトルコ人は、アヴァール人は権威あるアヴァール人の名とカガンという崇高な称号を盗んだ偽者のアヴァール人にすぎず、実はユーラシア中央部西方のテュルク語族話者であるオグル人だった、と主張しました。柔然が自身をアヴァール人と呼んだ可能性が最も高い、と結論づけられますが、ヨーロッパのアヴァール人がどの程度柔然の人々の子孫だったのかは、議論されてきました。本論文は、草原地帯の人々の中世初期の長距離移動の再構築のための新たな基礎と、遺伝学と歴史学と考古学の証拠を統合する機会を提供する、ゲノムデータを提示します。
アヴァール人の到来前には、ローマ帝国がカルパチア盆地西部を、サルマティア人がその東部を占拠していました(1~400年頃)。ローマ人は、フン人の短命帝国(400~455年)と、パンノニアのゴート人やロンゴバルド人、ティサ川のゲピド人など多様なゲルマン語話者集団により置換されました(400~568年)。567~568年に、ロンゴバルド人はゲピド王国を破壊してイタリアへと移動し、一方でアヴァール人はカルパチア盆地とその在来人口集団を征服しました。本論文は、この重大な変化とその遺伝的影響に焦点を当てます。
片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)を利用した以前の研究は、示唆的な遺伝的証拠を提供してきましたが、アヴァール期人口集団の起源を再構築するためのゲノム規模データが欠けています。この研究は核DNAを用いて、以下の問題への洞察を得ます。(1)アジア中央部東方からの中核アヴァール集団の起源はそのゲノム特性から確証できますか?(2)新たに到来した草原地帯戦士のエリートは遺伝的に均質だったのか、それとも混合祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有していましたか?(3)エリートは先行の在来人口集団とどのように関係しましたか?
カルパチア盆地におけるアヴァール期(6世紀後半~9世紀前半頃)の豊富な考古学的資料は、約600ヶ所の集落と約10万ヶ所の埋葬で構成され、とくに初期段階で大きな不均一性を示します。先アヴァール期(サルマティアの17個体とフンの文脈での1個体、4~5世紀頃)とアヴァール期(48個体、7~8世紀)の古代人66個体のゲノム規模データが生成されました(図1)。アヴァール期の48個体は異なる3地域に由来します。第一に、ドナウ・ティサ河間地域(Danube-Tisza Interfluve、以下DTI)で収集された25個体です。このうち8個体は高位の男性埋葬で、ボクシャ・クンバドニー(Bócsa-Kunbábony)集団と呼ばれ、その年代は626年のコンスタンティノープル包囲失敗後の7世紀中盤となり、精巧な金と銀の装飾武器やベルト、さまざまな記章、内陸アジアと類似する威信財が含まれます。残りの17個体は、このエリート集団との直接的接触の状況で収集されました。以下は本論文の図1です。
ティサ川の東側(トランスティサ)でおもに見つかった埋葬群も検討されました。この個体群は想定される二次中心地で、ヨーロッパ東部草原地帯の6~7世紀人口集団と多くの文化的類似性を共有しています。これらは、孤立埋葬もしくは小さな埋葬塚と、部分的もしくは完全な動物の堆積と、棚もしくは端の壁龕墓により特徴づけられます。この地域の17標本は「トランスティサ集団」に分類されます。残りのアヴァール期6個体はカルパチア盆地の近隣地域で収集され、アヴァール期における考古学的資料および埋葬慣行不均一性を反映しており、ケルケド(Kölked)と呼ばれるトランスダヌビアの豊富な家具を備えたエリートの埋葬2ヶ所が含まれ、そこでは考古学的記録から、地中海だけではなくヨーロッパ西部のメロヴィング世界との強いつながりを示す、さまざまな在来集団が示唆されます。
●先アヴァール期人口集団のゲノム構造
主成分分析(PCA)は、カルパチア盆地の先アヴァール期(図2A)とアヴァール期の個体群(図2B)との間の、著しく異なる遺伝的特性を明らかにします。フン期の利用可能な2個体(フン期ブダペスト5世紀、フン期北トランスダヌビア5世紀)のゲノムを除いて、カルパチア盆地の新たに生成された1個体と以前に刊行された1個体(関連記事)と全ての先アヴァール期個体は、ユーラシア西部人の遺伝的多様性に収まります。これらの個体はほぼ、ヨーロッパ中央部および東部の現代人と重なりますが、数個体はヨーロッパ南部人、とくに以前に記載されたロンゴバルド期集団、つまりスゾラッド(Szolad)南部6世紀と一致し、ゾラッド南部6世紀集団は、イタリアおよびギリシアの現代人と重なります(図2A)。以下は本論文の図2です。
カルパチア盆地の利用可能な古代の人口集団(以下、「在来」人口集団)内で比較すると、新たに分析された4~5世紀の後期サルマティアおよびフン期の16個体は、紀元前8~紀元前4世紀のこの地域の個体群(カルパチア盆地鉄器時代)とは近いもののそこから外れており、6世紀のロンゴバルド期の個体群(関連記事)とはより近いものの、部分的にしか重なりません。後期サルマティア(LS)期の個体群とでは、トランスティサの個体群(LSトランスティサ4~5世紀)が、スゾラッドの他の6世紀集団と重なり、DTI個体群(LS_DTI_4~5世紀)は依然としてLSトランスティサ4~5世紀個体群と最も近いものの、フン期北トランスダヌビア5世紀および草原地帯の鉄器時代(IA)集団(IAポントス・カスピ海草原紀元前4世紀、IA南ウラル紀元前5世紀)の方へと動いています。主成分分析でのこれらの観察は、LSトランスティサ4~5世紀とLS_DTI_4~5世紀のqpWave・qpAdmモデル化により裏づけられ、確証されます。
●アヴァール期人口集団のゲノム構造
先アヴァール期とは対照的にアヴァール期の個体群は、標本抽出された個体群がユーラシア西部人口集団からアジア北東部人口集団までの全勾配に沿って広がっているように(図2B)、かなりの遺伝的多様性を示します。この全体的な不均一性にも関わらず、カルパチア盆地の地理および社会考古学的分類の両方と対応する、遺伝的下部構造の明確なパターンがあります(図2B)。
DTIのエリート遺跡の個体は全て、アルタイ山脈からモンゴルおよびアムール川流域までの現代の人口集団の遺伝的勾配に沿って位置する、アジア北東部祖先系統特性を有しています(図2B)。DTIのエリート遺跡の個体は、主要な後期鉄器時代から中世初期草原地帯東部の考古学的な文化遺構の一部と関連する、古代の個体群の多様性内にも広く収まります(図2AおよびB)。そのうち、より広範な集団はモンゴル高原の紀元前3世紀~1世紀の匈奴期の個体群(46個体、匈奴1世紀)で構成され、この集団は全体的にはひじょうに不均一で、以前の研究(関連記事)では遺伝的特性に基づいて3つのまとまりに分類されました。
他の個体群には、アムール川(AR)流域の1~3世紀の鮮卑期個体群(3個体、AR鮮卑2世紀)と、ベレル(Berel)4世紀と分類されたアルタイ山脈の6個体、フン期の2個体(フン期ブダペスト5世紀)、5世紀前半のカルパチア盆地の1個体、4世紀のカザフ草原の1個体(フン期カザフ草原4世紀)、現在のモンゴルで発見された6世紀の柔然期の1個体(柔然6世紀)が含まれます。これらの個体は全て、他の供給源とのさまざまな割合の混合にも関わらず、「アジア北東部古代人(ANA)」と呼ばれる遺伝的特性へと、そのユーラシア東部祖先系統構成要素をたどれる、と示されてきました。以下は本論文の図2です。
遺伝学的分析は文化的帰属もしくは年代情報を使用しませんが、それにも関わらず、アヴァールの時系列(前期と中期と後期)にしたがって、アヴァール期DTIエリート個体群がまとまります。前期アヴァール期個体(DTI前期エリート)は全て、トランスティサ集団の典型的特徴を有する乳児と埋葬を除いて、高水準のANA祖先系統がある緊密なまとまりを形成します。前期アヴァール期個体群は、柔然期モンゴルの利用可能な古代人とともに、ブリヤート人(Buryat)やムニガン人(Khamnigan)など現代のモンゴル語族話者人口集団と、ネギダール人(Negidal)やナナイ人(Nanai、漢字表記では赫哲となるHezhenとも呼ばれます)やウリチ人(Ulchi)やニヴフ人(Nivkh)などツングース・ニヴフ語族話者人口集団との間に位置し、主成分分析ではAR鮮卑2世紀の3個体の近くに位置します(図2AおよびB)。中期アヴァール期6個体のうち3個体(DTI中期エリート)はDTI前期エリートのまとまりに収まり、2個体(DTI中期エリート_o)はわずかにそれから離れ、残りの1個体(子供の被葬者)はユーラシア人のPC1軸沿いの中間に位置します。後期アヴァール期個体群(DTI後期エリート)は、それ以前の個体群とは異なり、主成分分析では全てユーラシア西部に向かって動いています(図2B)。
●アヴァール帝国の中核におけるエリートの東部草原地帯祖先系統のモデル化
qpWave・qpAdmモデル化の枠組みで実行された遺伝的祖先系統モデル化により確証されたのは、DTI前期エリート個体群とDTI中期エリート3個体がANA関連遺伝子プールからの祖先系統の88~98%を有している(平均90%)とモデル化できる一方で、DTI後期エリート個体群はそうした祖先系統供給源を70~80%の割合で有している、ということです(図3)。以下は本論文の図3です。
モグシャン(Mogushan)遺跡のAR鮮卑2世紀3個体は、その状況から年代は50~250年頃と推定され、比較的高い網羅率のためANAの代理として選択されました。それは、AR鮮卑2世紀3個体が、東端の祖先系統パターンを有するアヴァール期個体群と時間的に近く遺伝的により密接で、匈奴帝国と柔然帝国との間の歴史的つながりがあるためです。さらに、補完相データで実行された在来祖先系統の分析により明らかになったのは、ユーラシア西部祖先系統のゲノム領域をマスクすると、アヴァール期エリート個体は全て、AR鮮卑2世紀個体群とともに緊密にまとまる、ということです(図S2C)。以下は本論文の図S2です。
それにも関わらず、AR鮮卑2世紀を、ANA祖先系統を高い割合で有する他の古代ユーラシア東部人口集団と置換しても、質的違いのない適合モデルが得られます。他の古代ユーラシア東部人口集団のうち柔然6世紀では、DTI前期および中期エリートの多くにとって祖先系統の単一の供給源として適合モデルが得られますが、これらのモデルは、柔然6世紀個体の低い網羅率のため、統計的検出力は低くなります。次に、柔然6世紀は、DTI前期エリート個体群と類似の割合にて同じ2方向供給源でモデル化できます(図3)。
残りの祖先系統は平均して、DTI前期および中期個体群では10%、DTI後期個体群では20~30%となり、より高いユーラシア西部祖先系統を有する供給源に由来します(図3および図S1)。DTI後期の2個体を除いて、広範な古代の人口集団は等しく、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)集団と4~6世紀カルパチア盆地集団の両方から実用的モデルを提供します。年代に基づいて分類された個体群のqpWave・qpAdmモデル化が複製され、統計的検出力が強化されました(外れ値と相互に関連する個体1組は除外されます)。以下は本論文の図S1です。
DTI前期エリートは、モンゴル西部のチャンドマン(Chandman)文化の鉄器時代となる紀元前3世紀の個体(IAチャンドマン紀元前3世紀)とのみ良好な適合を提供し、IAウラル南部紀元前5世紀とはわずかに適合しません。DTI後期エリートは、時間的により近い(千年紀)ユーラシア西部の代理とのみ実用的モデルを提供しますが、その地理的供給源は完全には解決できません。それは、在来集団と、7世紀のコーカサス北部集団(北コーカサス7世紀)および4世紀のカザフスタン南部のコンレイ(Konyr)遺跡とトベ(Tobe)遺跡の4世紀個体(コンレイ・トベ4世紀)が、適合モデルを提供するからです。D
TI後期エリートのユーラシア西部供給源の、在来起源対草原地帯・コーカサス起源の問題をさらに調べるため、3方向競合モデルが適用され、在来と外来の供給源の対での組み合わせが対比されました。その結果、2個体(DTI後期エリート2)を除くほとんどの個体(DTI後期エリート1)については、在来ではない供給源が在来より優先され、北コーカサス7世紀もしくは北オセチア人が最良の適合を提供した、と明らかになりました。これら2つの下部集団での集団に基づく2方向モデルがこのパターンを確証したので、2方向モデルでユーラシア西部供給源間を区別するより高い解像度が明らかになります。
在来祖先系統分析とユーラシア東部ゲノム領域のマスク(つまり、検証された個体群のユーラシア西部祖先系統のみが分析されました)後に、補完相データでqpWave・qpAdm祖先系統モデル化も繰り返されました(図S2BおよびC)。個体および集団に基づく分析は両方、疑似半数体データで得られた発見と一致します(図S2B)。しかし、在来ではない供給源の特定に関する注意点は、より具体的な代替的地理的供給源を検証するための、ペルシアの北側の4~6世紀のフン領域の中核地域のデータがまだ利用可能ではないことです。
DTIエリートにおける混合の推定年代は、前期と後期のエリート間の区別を裏づけます。前期エリートは、中期エリート3個体とともに、柔然期個体について推定された年代と一致するより古い混合年代を提示しますが、後期エリートと中期エリートの外れ値2個体はかなり最近の混合年代を示します(図4および図S3)。以下は本論文の図4です。
前期および中期エリートの個体ごとの混合年代推定値は、紀元前4世紀から3来期までとなり、集団に基づく混合年代推定値は紀元前1世紀頃です(図4および図S3)。対照的に、後期エリート個体群はより最近の混合年代推定値を示し、それは柔然期もしくはヨーロッパのアヴァール期に収まり、より正確には、集団に基づく分析では柔然期末へと向かいます(図4および図S3)。以下は本論文の図S3です。
最後に、同じ遺跡内および前期と後期両方の期間内のDTIエリートで密接に関連する(3人組を含む、1親等5組と2親等1組)かなりの数の個体が見つかるとしても、1個体を除いて最近の近親交配の兆候は見つかりません(図S4)。それにも関わらず、アジア中央部東方のエリート男性被葬者において典型的と以前に検出された、父系となるY染色体ハプログループ(YHg)N1a1a1a1a3a(F4205)が、中期および後期アヴァール期を通じて連続性を示します。DTIのアヴァール期の男性20個体は全てYHg-N1a1a1a1a(F4218)で、1個体を除いて全て、その下位系統であるN1a1a1a1a3a(F4205)に分類されます。この系統は、現代のモンゴルおよびトランスバイカル地域の人口集団で典型的です。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の多様性は代わりに、顕著に高いと示されます。これは、近親交配もしくは明らかな人口規模減少のゲノム兆候がないことと組み合わされて、近親交配を妨げただろうより高い女性族外婚とともに、父方居住・父系の慣行を示唆するかもしれません。以下は本論文の図S4です。
●アヴァール帝国中核周辺地域の不均一な祖先系統
残りの23個体はDTI周辺の近隣地域に由来します。アヴァール帝国中核地域のエリートと比較して、この23個体は主成分分析空間では、在来の先行遺伝子プール(サルマティア期およびロンゴバルド期の個体群に代表されます)から遺伝的に東端のDTI前期エリートのまとまりまで、東西祖先系統勾配に沿って大きく広がっています(図2BおよびS1)。それにも関わらず、トランスティサ集団の埋葬から回収された個体群のみが、50%超のANA関連祖先系統を有していました(13個体のうち7個体、図3および図S5A)。
1個体を除いて全ての個体は、2ヶ所のエリート遺跡から標本抽出されました(図S5A)。残りのトランスティサ集団の個体は、検出可能なANA関連混合をわずか若しくは全く示しません(図3および図S5A)。しかし、ANA祖先系統を有さないトランスティサ集団の2個体はシチリア島およびマルタ島の現代人とまとまる地中海人口集団へとより高い類似性を示し、スゾラッド南部6世紀の遺伝的まとまりの末端に位置します(図S1)。この理由について、2個体が本論文で用いられたあらゆる供給源と完全にはモデル化できないものの、スゾラッド南部6世紀は、異なる在来の先行集団が競合モデルで対比されると、単一の供給源として最良の適合のあるモデルを提供します。
トランスティサ集団の個体群の遺伝的不均一性は顕著で、なぜならば、この人口集団がほぼポントス草原からの移民に由来するからです。それは、過去のさまざまな時点での混合の程度の違いに起因する可能性があります。最も高いANA祖先系統を有する2個体は、DTI前期エリートと区別できず、同様に古い混合年代を示しますが、より多くユーラシア西部祖先系統を有する残りの個体は、より新しくより多様な混合年代を示し、その年代は1世紀からわずか数世代前までとなります(図4および図S3)。これは、共通の文化的慣行にも関わらず、ひじょうに異なる遺伝的背景を有する個体群が、これら多くの様式の墓地に埋葬されたことを示唆します。
本論文のデータセットにおける最後のエリート関連の2個体は、トランスティサ南部のケルケドの前期アヴァール期で見つかりました。この2個体はひじょうに異なる遺伝的特性を有しており、女性(A1825)が先行する在来人口集団の上部に位置するのに対して、男性(A1824)は、上述の他の個体の全てと関連する独特な遺伝的祖先系統を有しており、ユーラシア東部とイラン・コーカサス関連の両方の遺伝子プールに向かって動いており、現代のタジク人の上部に位置し、北コーカサス7世紀やコンレイ・トベ4世紀や康居(Kangju)3世紀など古代コーカサス草原地帯集団に近接しています(図2Bおよび図S1)。この観察と一致して、A1825はその祖先系統の100%が在来の先行供給源に由来するのに対して、A1824はAR鮮卑2世紀などのANA供給源20%と、北コーカサス7世紀もしくは現在の北オセチア人80%との間の混合としてモデル化できます(図3および図S5A)。この個体について得られた5世紀の混合年代は、非在来の最近の混合祖先系統の解釈を裏づけます(図4および図S3)。以下は本論文の図S5です。
残りの後期アヴァール期9個体は、40%未満と少ない割合からほぼ無視できる5%未満までのANA関連供給源との混合を示しますが、主要な祖先系統構成要素は、個体のほとんどには、先行する在来集団の一つで近似できます(図3および図S5A)。混合年代は、ほぼアヴァール帝国のより初期の段階に起きたより最近の混合の一般的パターンを確認しますが、一部は4世紀とわずかに早い年代で、フン期に起きた東部供給源との混合事象を示しているかもしれません(図4および図S3)。さらに、本論文のデータは、以前に記載された一部の例外(図S1Cで示された子供・乳児の被葬者2個体など)はあるものの、最近の混合個体のほとんどは非エリート遺跡で見つかるので、ほぼ単方向の遺伝子流動を示唆します。
●考察
本論文の結果は、7世紀中盤から8世紀前半のカルパチア盆地(前期~中期アヴァール期)のアヴァール帝国中核地域(DTI)における、アヴァール期エリートのアジア北東部祖先系統について、堅牢な遺伝的裏づけを提供します。本論文は、柔然期個体とともに、匈奴およびとくにアジア東部草原地帯の鮮卑の古代の個体群と、アヴァール期エリートとの顕著な遺伝的一致を示します。後期アヴァール期には、アヴァール中核のエリートにおいて、より最近混合した祖先系統への動きが観察されます。後期アヴァール個体群が依然として顕著なアジア東部北方構成要素を保持しているとしても、その祖先系統の残り20~30%と最良に適合するユーラシア西部供給源はほぼ非在来系です。つまり、それは先行する利用可能なカルパチア盆地人口集団の遺伝子プールと一致しません。代わりに、それはむしろコーカサスの北側の草原地帯集団と一致しますが、千年紀における草原地帯の比較データの不足は、より良好なあり得る代替供給源の将来の調査を必要とします。
後期エリートにおける高水準の東部祖先系統の保持および遺伝的近親交配の欠如と合わせての非在来混合は、カルパチア盆地におけるアヴァール人の到来以後の草原地帯からの継続的移住を示しているかもしれません。あるいは、アヴァールのエリートとともに到来したと証明されている、本論文では含まれていないものの、より低い地位の集団からの混合を反映しているかもしれません。最初の移住後に世紀以上維持されたエリートにおける高水準の東部祖先系統は、かなりの規模の人口集団の到来と、それに限定された結婚網を示唆しているかもしれませんが、その後の移動およびアジア中央部との継続的接触も示している可能性があります。男性15個体と女性12個体は東部特性で検出され、男女両方がアジア東部から到来したことを示唆します。
DTIエリートの全体的に均一なアジア東部北方遺伝的特性とは対照的に、近隣地域の他の前期アヴァール期エリート遺跡から回収された個体群は、ずっと不均一でした。トランスティサ集団の高位個体群は依然として、DTI外で見つかるアジア東部北方祖先系統の最も高い割合を有しています。より複雑な混合パターン(混合供給源と混合年代の観点ではより多い個体間の変動性)は、東部草原地帯との接続のさまざまな時間層の結果かもしれず、おそらくはフン期もしくはその後の草原地帯からカルパチア盆地への移動にさかのぼります。
とくに注目に値するのはトランスティサ南部のケルケドのエリート2個体で、類似のヨーロッパ西部および南部の文化的習慣を示します。しかし両者は、相互およびDTIエリートとの関連で、ひじょうに異なる遺伝的歴史を示します。女性個体(A1825)は在来の混合していない先アヴァール期の遺伝的特性を有しており、古代末期・メロヴィング期・ビザンツ帝国の伝統と関連する副葬品とともに埋葬されました。男性個体(A1824)の祖先系統は、コーカサスの北側の草原地帯もしくは他のイラン地域を示します。
これらの結果は、移住してきたアヴァールのエリート人口集団の支配下における遺伝的に不均一な在来エリート層の出現を示唆します。同様に、非エリートの前期および後期アヴァール期個体群のより西方の遺伝的特性は、本論文で表されている限り、カルパチア盆地の先アヴァール期人口集団とのより強いつながりを示します。多くの最近混合した非エリート個体は、とくに後の期間において、アジア北東部移民から在来人口集団へのほぼ単方向の遺伝子流動の変動する量を明らかにします。アヴァール帝国は5~10世紀のカルパチア盆地における一連の政治的変化と人口変化の最も長く続いた勢力の一つでした。フン(5世紀)やロンゴバルド(6世紀)やマジャール(9~10世紀)の移住における同様の人口変化の証拠は、本論文で提示されたものよりもはるかに堅牢ではありません。
本論文で分析されたフン期のゲノムは2個体だけで(フン期ブダペスト5世紀とフン期北トランスダヌビア5世紀)、この遊動的集団の広範な遺伝的多様性を示唆します(図2A)。以前の研究(関連記事)で分析されたロンゴバルド期から収集されたデータは、ヨーロッパ北方から南方への勾配に沿って組織化された不均一な人口集団を示唆しており、近い時代のヨーロッパ北部のゲノムデータの欠如を考えると、ドナウ川地域とスカンジナビア半島との間の触接的なつながりの明確な証拠を引き出せません。たとえば、ロンゴバルド王国において、ヨーロッパ中央部と北部の祖先系統間の明確な区別が、ゲノムデータでどの程度可能なのかは、まだ不明なようです。マジャール人については、これまで片親性遺伝標識のみが分析されてきており、その有用性は限定的で、母系と父系の約20~30%はアジア中央部および内部起源とされています。
これらの乏しい記載の期間とは対照的に、本論文の結果は、7世紀中盤から8世紀前半(前期~中期アヴァール期)にかけてのアヴァール帝国の中核地域(カルパチア盆地のDTI)における、アヴァール期エリートのアジア北東部祖先系統について堅牢な遺伝的裏づけを提供します。これらの結果は、顕著な遺伝的変異性が中世初期カルパチア盆地に存在し、ユーラシア現代人のほぼ全ての遺伝的多様性を網羅し、長距離のユーラシア移住の明確な証拠を提供する、という確信的結論も可能とします。以下は本論文の要約図です。
●この研究の限界
この研究の結果は、アヴァールの移民エリート人口集団の支配下における遺伝的に不均一な在来エリート層の出現を示唆します。これらの結果は分析された埋葬の無作為ではない選択により偏っており、将来の研究にとって重要な方向性は、過去の人口集団について、できる限り社会の全容を把握するための、可能な限り墓地全体を含むより大規模な調査です。アジア北東部からの追加の標本と解像度も、流入人口集団の供給源地域をよりよく特徴づけることができるでしょう。
参考文献:
Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2022): Ancient genomes reveal origin and rapid trans-Eurasian migration of 7th century Avar elites. Cell, 185, 8, 1402–1413.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2022.03.007
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の文献は、アヴァール人の移動の契機が、550年代における最初のテュルク系汗国の台頭だった、という点で一致します。この最初のテュルク系汗国の中心地は現在のモンゴルにあり、この時に突厥が「中国」の隣人に柔然(Rouran)と呼ばれる帝国を破壊しました。しかし、その文献は、アヴァール人が誰だったのか、もしくは正確にはどこから来たのかという点について、一致していません。じっさいトルコ人は、アヴァール人は権威あるアヴァール人の名とカガンという崇高な称号を盗んだ偽者のアヴァール人にすぎず、実はユーラシア中央部西方のテュルク語族話者であるオグル人だった、と主張しました。柔然が自身をアヴァール人と呼んだ可能性が最も高い、と結論づけられますが、ヨーロッパのアヴァール人がどの程度柔然の人々の子孫だったのかは、議論されてきました。本論文は、草原地帯の人々の中世初期の長距離移動の再構築のための新たな基礎と、遺伝学と歴史学と考古学の証拠を統合する機会を提供する、ゲノムデータを提示します。
アヴァール人の到来前には、ローマ帝国がカルパチア盆地西部を、サルマティア人がその東部を占拠していました(1~400年頃)。ローマ人は、フン人の短命帝国(400~455年)と、パンノニアのゴート人やロンゴバルド人、ティサ川のゲピド人など多様なゲルマン語話者集団により置換されました(400~568年)。567~568年に、ロンゴバルド人はゲピド王国を破壊してイタリアへと移動し、一方でアヴァール人はカルパチア盆地とその在来人口集団を征服しました。本論文は、この重大な変化とその遺伝的影響に焦点を当てます。
片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)を利用した以前の研究は、示唆的な遺伝的証拠を提供してきましたが、アヴァール期人口集団の起源を再構築するためのゲノム規模データが欠けています。この研究は核DNAを用いて、以下の問題への洞察を得ます。(1)アジア中央部東方からの中核アヴァール集団の起源はそのゲノム特性から確証できますか?(2)新たに到来した草原地帯戦士のエリートは遺伝的に均質だったのか、それとも混合祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有していましたか?(3)エリートは先行の在来人口集団とどのように関係しましたか?
カルパチア盆地におけるアヴァール期(6世紀後半~9世紀前半頃)の豊富な考古学的資料は、約600ヶ所の集落と約10万ヶ所の埋葬で構成され、とくに初期段階で大きな不均一性を示します。先アヴァール期(サルマティアの17個体とフンの文脈での1個体、4~5世紀頃)とアヴァール期(48個体、7~8世紀)の古代人66個体のゲノム規模データが生成されました(図1)。アヴァール期の48個体は異なる3地域に由来します。第一に、ドナウ・ティサ河間地域(Danube-Tisza Interfluve、以下DTI)で収集された25個体です。このうち8個体は高位の男性埋葬で、ボクシャ・クンバドニー(Bócsa-Kunbábony)集団と呼ばれ、その年代は626年のコンスタンティノープル包囲失敗後の7世紀中盤となり、精巧な金と銀の装飾武器やベルト、さまざまな記章、内陸アジアと類似する威信財が含まれます。残りの17個体は、このエリート集団との直接的接触の状況で収集されました。以下は本論文の図1です。
ティサ川の東側(トランスティサ)でおもに見つかった埋葬群も検討されました。この個体群は想定される二次中心地で、ヨーロッパ東部草原地帯の6~7世紀人口集団と多くの文化的類似性を共有しています。これらは、孤立埋葬もしくは小さな埋葬塚と、部分的もしくは完全な動物の堆積と、棚もしくは端の壁龕墓により特徴づけられます。この地域の17標本は「トランスティサ集団」に分類されます。残りのアヴァール期6個体はカルパチア盆地の近隣地域で収集され、アヴァール期における考古学的資料および埋葬慣行不均一性を反映しており、ケルケド(Kölked)と呼ばれるトランスダヌビアの豊富な家具を備えたエリートの埋葬2ヶ所が含まれ、そこでは考古学的記録から、地中海だけではなくヨーロッパ西部のメロヴィング世界との強いつながりを示す、さまざまな在来集団が示唆されます。
●先アヴァール期人口集団のゲノム構造
主成分分析(PCA)は、カルパチア盆地の先アヴァール期(図2A)とアヴァール期の個体群(図2B)との間の、著しく異なる遺伝的特性を明らかにします。フン期の利用可能な2個体(フン期ブダペスト5世紀、フン期北トランスダヌビア5世紀)のゲノムを除いて、カルパチア盆地の新たに生成された1個体と以前に刊行された1個体(関連記事)と全ての先アヴァール期個体は、ユーラシア西部人の遺伝的多様性に収まります。これらの個体はほぼ、ヨーロッパ中央部および東部の現代人と重なりますが、数個体はヨーロッパ南部人、とくに以前に記載されたロンゴバルド期集団、つまりスゾラッド(Szolad)南部6世紀と一致し、ゾラッド南部6世紀集団は、イタリアおよびギリシアの現代人と重なります(図2A)。以下は本論文の図2です。
カルパチア盆地の利用可能な古代の人口集団(以下、「在来」人口集団)内で比較すると、新たに分析された4~5世紀の後期サルマティアおよびフン期の16個体は、紀元前8~紀元前4世紀のこの地域の個体群(カルパチア盆地鉄器時代)とは近いもののそこから外れており、6世紀のロンゴバルド期の個体群(関連記事)とはより近いものの、部分的にしか重なりません。後期サルマティア(LS)期の個体群とでは、トランスティサの個体群(LSトランスティサ4~5世紀)が、スゾラッドの他の6世紀集団と重なり、DTI個体群(LS_DTI_4~5世紀)は依然としてLSトランスティサ4~5世紀個体群と最も近いものの、フン期北トランスダヌビア5世紀および草原地帯の鉄器時代(IA)集団(IAポントス・カスピ海草原紀元前4世紀、IA南ウラル紀元前5世紀)の方へと動いています。主成分分析でのこれらの観察は、LSトランスティサ4~5世紀とLS_DTI_4~5世紀のqpWave・qpAdmモデル化により裏づけられ、確証されます。
●アヴァール期人口集団のゲノム構造
先アヴァール期とは対照的にアヴァール期の個体群は、標本抽出された個体群がユーラシア西部人口集団からアジア北東部人口集団までの全勾配に沿って広がっているように(図2B)、かなりの遺伝的多様性を示します。この全体的な不均一性にも関わらず、カルパチア盆地の地理および社会考古学的分類の両方と対応する、遺伝的下部構造の明確なパターンがあります(図2B)。
DTIのエリート遺跡の個体は全て、アルタイ山脈からモンゴルおよびアムール川流域までの現代の人口集団の遺伝的勾配に沿って位置する、アジア北東部祖先系統特性を有しています(図2B)。DTIのエリート遺跡の個体は、主要な後期鉄器時代から中世初期草原地帯東部の考古学的な文化遺構の一部と関連する、古代の個体群の多様性内にも広く収まります(図2AおよびB)。そのうち、より広範な集団はモンゴル高原の紀元前3世紀~1世紀の匈奴期の個体群(46個体、匈奴1世紀)で構成され、この集団は全体的にはひじょうに不均一で、以前の研究(関連記事)では遺伝的特性に基づいて3つのまとまりに分類されました。
他の個体群には、アムール川(AR)流域の1~3世紀の鮮卑期個体群(3個体、AR鮮卑2世紀)と、ベレル(Berel)4世紀と分類されたアルタイ山脈の6個体、フン期の2個体(フン期ブダペスト5世紀)、5世紀前半のカルパチア盆地の1個体、4世紀のカザフ草原の1個体(フン期カザフ草原4世紀)、現在のモンゴルで発見された6世紀の柔然期の1個体(柔然6世紀)が含まれます。これらの個体は全て、他の供給源とのさまざまな割合の混合にも関わらず、「アジア北東部古代人(ANA)」と呼ばれる遺伝的特性へと、そのユーラシア東部祖先系統構成要素をたどれる、と示されてきました。以下は本論文の図2です。
遺伝学的分析は文化的帰属もしくは年代情報を使用しませんが、それにも関わらず、アヴァールの時系列(前期と中期と後期)にしたがって、アヴァール期DTIエリート個体群がまとまります。前期アヴァール期個体(DTI前期エリート)は全て、トランスティサ集団の典型的特徴を有する乳児と埋葬を除いて、高水準のANA祖先系統がある緊密なまとまりを形成します。前期アヴァール期個体群は、柔然期モンゴルの利用可能な古代人とともに、ブリヤート人(Buryat)やムニガン人(Khamnigan)など現代のモンゴル語族話者人口集団と、ネギダール人(Negidal)やナナイ人(Nanai、漢字表記では赫哲となるHezhenとも呼ばれます)やウリチ人(Ulchi)やニヴフ人(Nivkh)などツングース・ニヴフ語族話者人口集団との間に位置し、主成分分析ではAR鮮卑2世紀の3個体の近くに位置します(図2AおよびB)。中期アヴァール期6個体のうち3個体(DTI中期エリート)はDTI前期エリートのまとまりに収まり、2個体(DTI中期エリート_o)はわずかにそれから離れ、残りの1個体(子供の被葬者)はユーラシア人のPC1軸沿いの中間に位置します。後期アヴァール期個体群(DTI後期エリート)は、それ以前の個体群とは異なり、主成分分析では全てユーラシア西部に向かって動いています(図2B)。
●アヴァール帝国の中核におけるエリートの東部草原地帯祖先系統のモデル化
qpWave・qpAdmモデル化の枠組みで実行された遺伝的祖先系統モデル化により確証されたのは、DTI前期エリート個体群とDTI中期エリート3個体がANA関連遺伝子プールからの祖先系統の88~98%を有している(平均90%)とモデル化できる一方で、DTI後期エリート個体群はそうした祖先系統供給源を70~80%の割合で有している、ということです(図3)。以下は本論文の図3です。
モグシャン(Mogushan)遺跡のAR鮮卑2世紀3個体は、その状況から年代は50~250年頃と推定され、比較的高い網羅率のためANAの代理として選択されました。それは、AR鮮卑2世紀3個体が、東端の祖先系統パターンを有するアヴァール期個体群と時間的に近く遺伝的により密接で、匈奴帝国と柔然帝国との間の歴史的つながりがあるためです。さらに、補完相データで実行された在来祖先系統の分析により明らかになったのは、ユーラシア西部祖先系統のゲノム領域をマスクすると、アヴァール期エリート個体は全て、AR鮮卑2世紀個体群とともに緊密にまとまる、ということです(図S2C)。以下は本論文の図S2です。
それにも関わらず、AR鮮卑2世紀を、ANA祖先系統を高い割合で有する他の古代ユーラシア東部人口集団と置換しても、質的違いのない適合モデルが得られます。他の古代ユーラシア東部人口集団のうち柔然6世紀では、DTI前期および中期エリートの多くにとって祖先系統の単一の供給源として適合モデルが得られますが、これらのモデルは、柔然6世紀個体の低い網羅率のため、統計的検出力は低くなります。次に、柔然6世紀は、DTI前期エリート個体群と類似の割合にて同じ2方向供給源でモデル化できます(図3)。
残りの祖先系統は平均して、DTI前期および中期個体群では10%、DTI後期個体群では20~30%となり、より高いユーラシア西部祖先系統を有する供給源に由来します(図3および図S1)。DTI後期の2個体を除いて、広範な古代の人口集団は等しく、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)集団と4~6世紀カルパチア盆地集団の両方から実用的モデルを提供します。年代に基づいて分類された個体群のqpWave・qpAdmモデル化が複製され、統計的検出力が強化されました(外れ値と相互に関連する個体1組は除外されます)。以下は本論文の図S1です。
DTI前期エリートは、モンゴル西部のチャンドマン(Chandman)文化の鉄器時代となる紀元前3世紀の個体(IAチャンドマン紀元前3世紀)とのみ良好な適合を提供し、IAウラル南部紀元前5世紀とはわずかに適合しません。DTI後期エリートは、時間的により近い(千年紀)ユーラシア西部の代理とのみ実用的モデルを提供しますが、その地理的供給源は完全には解決できません。それは、在来集団と、7世紀のコーカサス北部集団(北コーカサス7世紀)および4世紀のカザフスタン南部のコンレイ(Konyr)遺跡とトベ(Tobe)遺跡の4世紀個体(コンレイ・トベ4世紀)が、適合モデルを提供するからです。D
TI後期エリートのユーラシア西部供給源の、在来起源対草原地帯・コーカサス起源の問題をさらに調べるため、3方向競合モデルが適用され、在来と外来の供給源の対での組み合わせが対比されました。その結果、2個体(DTI後期エリート2)を除くほとんどの個体(DTI後期エリート1)については、在来ではない供給源が在来より優先され、北コーカサス7世紀もしくは北オセチア人が最良の適合を提供した、と明らかになりました。これら2つの下部集団での集団に基づく2方向モデルがこのパターンを確証したので、2方向モデルでユーラシア西部供給源間を区別するより高い解像度が明らかになります。
在来祖先系統分析とユーラシア東部ゲノム領域のマスク(つまり、検証された個体群のユーラシア西部祖先系統のみが分析されました)後に、補完相データでqpWave・qpAdm祖先系統モデル化も繰り返されました(図S2BおよびC)。個体および集団に基づく分析は両方、疑似半数体データで得られた発見と一致します(図S2B)。しかし、在来ではない供給源の特定に関する注意点は、より具体的な代替的地理的供給源を検証するための、ペルシアの北側の4~6世紀のフン領域の中核地域のデータがまだ利用可能ではないことです。
DTIエリートにおける混合の推定年代は、前期と後期のエリート間の区別を裏づけます。前期エリートは、中期エリート3個体とともに、柔然期個体について推定された年代と一致するより古い混合年代を提示しますが、後期エリートと中期エリートの外れ値2個体はかなり最近の混合年代を示します(図4および図S3)。以下は本論文の図4です。
前期および中期エリートの個体ごとの混合年代推定値は、紀元前4世紀から3来期までとなり、集団に基づく混合年代推定値は紀元前1世紀頃です(図4および図S3)。対照的に、後期エリート個体群はより最近の混合年代推定値を示し、それは柔然期もしくはヨーロッパのアヴァール期に収まり、より正確には、集団に基づく分析では柔然期末へと向かいます(図4および図S3)。以下は本論文の図S3です。
最後に、同じ遺跡内および前期と後期両方の期間内のDTIエリートで密接に関連する(3人組を含む、1親等5組と2親等1組)かなりの数の個体が見つかるとしても、1個体を除いて最近の近親交配の兆候は見つかりません(図S4)。それにも関わらず、アジア中央部東方のエリート男性被葬者において典型的と以前に検出された、父系となるY染色体ハプログループ(YHg)N1a1a1a1a3a(F4205)が、中期および後期アヴァール期を通じて連続性を示します。DTIのアヴァール期の男性20個体は全てYHg-N1a1a1a1a(F4218)で、1個体を除いて全て、その下位系統であるN1a1a1a1a3a(F4205)に分類されます。この系統は、現代のモンゴルおよびトランスバイカル地域の人口集団で典型的です。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の多様性は代わりに、顕著に高いと示されます。これは、近親交配もしくは明らかな人口規模減少のゲノム兆候がないことと組み合わされて、近親交配を妨げただろうより高い女性族外婚とともに、父方居住・父系の慣行を示唆するかもしれません。以下は本論文の図S4です。
●アヴァール帝国中核周辺地域の不均一な祖先系統
残りの23個体はDTI周辺の近隣地域に由来します。アヴァール帝国中核地域のエリートと比較して、この23個体は主成分分析空間では、在来の先行遺伝子プール(サルマティア期およびロンゴバルド期の個体群に代表されます)から遺伝的に東端のDTI前期エリートのまとまりまで、東西祖先系統勾配に沿って大きく広がっています(図2BおよびS1)。それにも関わらず、トランスティサ集団の埋葬から回収された個体群のみが、50%超のANA関連祖先系統を有していました(13個体のうち7個体、図3および図S5A)。
1個体を除いて全ての個体は、2ヶ所のエリート遺跡から標本抽出されました(図S5A)。残りのトランスティサ集団の個体は、検出可能なANA関連混合をわずか若しくは全く示しません(図3および図S5A)。しかし、ANA祖先系統を有さないトランスティサ集団の2個体はシチリア島およびマルタ島の現代人とまとまる地中海人口集団へとより高い類似性を示し、スゾラッド南部6世紀の遺伝的まとまりの末端に位置します(図S1)。この理由について、2個体が本論文で用いられたあらゆる供給源と完全にはモデル化できないものの、スゾラッド南部6世紀は、異なる在来の先行集団が競合モデルで対比されると、単一の供給源として最良の適合のあるモデルを提供します。
トランスティサ集団の個体群の遺伝的不均一性は顕著で、なぜならば、この人口集団がほぼポントス草原からの移民に由来するからです。それは、過去のさまざまな時点での混合の程度の違いに起因する可能性があります。最も高いANA祖先系統を有する2個体は、DTI前期エリートと区別できず、同様に古い混合年代を示しますが、より多くユーラシア西部祖先系統を有する残りの個体は、より新しくより多様な混合年代を示し、その年代は1世紀からわずか数世代前までとなります(図4および図S3)。これは、共通の文化的慣行にも関わらず、ひじょうに異なる遺伝的背景を有する個体群が、これら多くの様式の墓地に埋葬されたことを示唆します。
本論文のデータセットにおける最後のエリート関連の2個体は、トランスティサ南部のケルケドの前期アヴァール期で見つかりました。この2個体はひじょうに異なる遺伝的特性を有しており、女性(A1825)が先行する在来人口集団の上部に位置するのに対して、男性(A1824)は、上述の他の個体の全てと関連する独特な遺伝的祖先系統を有しており、ユーラシア東部とイラン・コーカサス関連の両方の遺伝子プールに向かって動いており、現代のタジク人の上部に位置し、北コーカサス7世紀やコンレイ・トベ4世紀や康居(Kangju)3世紀など古代コーカサス草原地帯集団に近接しています(図2Bおよび図S1)。この観察と一致して、A1825はその祖先系統の100%が在来の先行供給源に由来するのに対して、A1824はAR鮮卑2世紀などのANA供給源20%と、北コーカサス7世紀もしくは現在の北オセチア人80%との間の混合としてモデル化できます(図3および図S5A)。この個体について得られた5世紀の混合年代は、非在来の最近の混合祖先系統の解釈を裏づけます(図4および図S3)。以下は本論文の図S5です。
残りの後期アヴァール期9個体は、40%未満と少ない割合からほぼ無視できる5%未満までのANA関連供給源との混合を示しますが、主要な祖先系統構成要素は、個体のほとんどには、先行する在来集団の一つで近似できます(図3および図S5A)。混合年代は、ほぼアヴァール帝国のより初期の段階に起きたより最近の混合の一般的パターンを確認しますが、一部は4世紀とわずかに早い年代で、フン期に起きた東部供給源との混合事象を示しているかもしれません(図4および図S3)。さらに、本論文のデータは、以前に記載された一部の例外(図S1Cで示された子供・乳児の被葬者2個体など)はあるものの、最近の混合個体のほとんどは非エリート遺跡で見つかるので、ほぼ単方向の遺伝子流動を示唆します。
●考察
本論文の結果は、7世紀中盤から8世紀前半のカルパチア盆地(前期~中期アヴァール期)のアヴァール帝国中核地域(DTI)における、アヴァール期エリートのアジア北東部祖先系統について、堅牢な遺伝的裏づけを提供します。本論文は、柔然期個体とともに、匈奴およびとくにアジア東部草原地帯の鮮卑の古代の個体群と、アヴァール期エリートとの顕著な遺伝的一致を示します。後期アヴァール期には、アヴァール中核のエリートにおいて、より最近混合した祖先系統への動きが観察されます。後期アヴァール個体群が依然として顕著なアジア東部北方構成要素を保持しているとしても、その祖先系統の残り20~30%と最良に適合するユーラシア西部供給源はほぼ非在来系です。つまり、それは先行する利用可能なカルパチア盆地人口集団の遺伝子プールと一致しません。代わりに、それはむしろコーカサスの北側の草原地帯集団と一致しますが、千年紀における草原地帯の比較データの不足は、より良好なあり得る代替供給源の将来の調査を必要とします。
後期エリートにおける高水準の東部祖先系統の保持および遺伝的近親交配の欠如と合わせての非在来混合は、カルパチア盆地におけるアヴァール人の到来以後の草原地帯からの継続的移住を示しているかもしれません。あるいは、アヴァールのエリートとともに到来したと証明されている、本論文では含まれていないものの、より低い地位の集団からの混合を反映しているかもしれません。最初の移住後に世紀以上維持されたエリートにおける高水準の東部祖先系統は、かなりの規模の人口集団の到来と、それに限定された結婚網を示唆しているかもしれませんが、その後の移動およびアジア中央部との継続的接触も示している可能性があります。男性15個体と女性12個体は東部特性で検出され、男女両方がアジア東部から到来したことを示唆します。
DTIエリートの全体的に均一なアジア東部北方遺伝的特性とは対照的に、近隣地域の他の前期アヴァール期エリート遺跡から回収された個体群は、ずっと不均一でした。トランスティサ集団の高位個体群は依然として、DTI外で見つかるアジア東部北方祖先系統の最も高い割合を有しています。より複雑な混合パターン(混合供給源と混合年代の観点ではより多い個体間の変動性)は、東部草原地帯との接続のさまざまな時間層の結果かもしれず、おそらくはフン期もしくはその後の草原地帯からカルパチア盆地への移動にさかのぼります。
とくに注目に値するのはトランスティサ南部のケルケドのエリート2個体で、類似のヨーロッパ西部および南部の文化的習慣を示します。しかし両者は、相互およびDTIエリートとの関連で、ひじょうに異なる遺伝的歴史を示します。女性個体(A1825)は在来の混合していない先アヴァール期の遺伝的特性を有しており、古代末期・メロヴィング期・ビザンツ帝国の伝統と関連する副葬品とともに埋葬されました。男性個体(A1824)の祖先系統は、コーカサスの北側の草原地帯もしくは他のイラン地域を示します。
これらの結果は、移住してきたアヴァールのエリート人口集団の支配下における遺伝的に不均一な在来エリート層の出現を示唆します。同様に、非エリートの前期および後期アヴァール期個体群のより西方の遺伝的特性は、本論文で表されている限り、カルパチア盆地の先アヴァール期人口集団とのより強いつながりを示します。多くの最近混合した非エリート個体は、とくに後の期間において、アジア北東部移民から在来人口集団へのほぼ単方向の遺伝子流動の変動する量を明らかにします。アヴァール帝国は5~10世紀のカルパチア盆地における一連の政治的変化と人口変化の最も長く続いた勢力の一つでした。フン(5世紀)やロンゴバルド(6世紀)やマジャール(9~10世紀)の移住における同様の人口変化の証拠は、本論文で提示されたものよりもはるかに堅牢ではありません。
本論文で分析されたフン期のゲノムは2個体だけで(フン期ブダペスト5世紀とフン期北トランスダヌビア5世紀)、この遊動的集団の広範な遺伝的多様性を示唆します(図2A)。以前の研究(関連記事)で分析されたロンゴバルド期から収集されたデータは、ヨーロッパ北方から南方への勾配に沿って組織化された不均一な人口集団を示唆しており、近い時代のヨーロッパ北部のゲノムデータの欠如を考えると、ドナウ川地域とスカンジナビア半島との間の触接的なつながりの明確な証拠を引き出せません。たとえば、ロンゴバルド王国において、ヨーロッパ中央部と北部の祖先系統間の明確な区別が、ゲノムデータでどの程度可能なのかは、まだ不明なようです。マジャール人については、これまで片親性遺伝標識のみが分析されてきており、その有用性は限定的で、母系と父系の約20~30%はアジア中央部および内部起源とされています。
これらの乏しい記載の期間とは対照的に、本論文の結果は、7世紀中盤から8世紀前半(前期~中期アヴァール期)にかけてのアヴァール帝国の中核地域(カルパチア盆地のDTI)における、アヴァール期エリートのアジア北東部祖先系統について堅牢な遺伝的裏づけを提供します。これらの結果は、顕著な遺伝的変異性が中世初期カルパチア盆地に存在し、ユーラシア現代人のほぼ全ての遺伝的多様性を網羅し、長距離のユーラシア移住の明確な証拠を提供する、という確信的結論も可能とします。以下は本論文の要約図です。
●この研究の限界
この研究の結果は、アヴァールの移民エリート人口集団の支配下における遺伝的に不均一な在来エリート層の出現を示唆します。これらの結果は分析された埋葬の無作為ではない選択により偏っており、将来の研究にとって重要な方向性は、過去の人口集団について、できる限り社会の全容を把握するための、可能な限り墓地全体を含むより大規模な調査です。アジア北東部からの追加の標本と解像度も、流入人口集団の供給源地域をよりよく特徴づけることができるでしょう。
参考文献:
Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2022): Ancient genomes reveal origin and rapid trans-Eurasian migration of 7th century Avar elites. Cell, 185, 8, 1402–1413.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2022.03.007
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