本村凌二『剣闘士 血と汗のローマ社会史』

 中公文庫の一冊として、中央公論新社より2016年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はおもに帝政期の剣闘士競技に焦点を当てたローマ社会史です。本書の構成でまず驚かされるのが、冒頭で剣闘士ミヌキウスの手記を長く紹介していることです。架空の剣闘士(だと思います)ミヌキウスの手記を「訳す」という体裁は、根拠となる史料が後に明かされているとはいえ、歴史書というよりは小説・物語と言うべきでしょうが、当時の剣闘士の在り様を浮き彫りにできているという点で、成功しているように思います。著者のような大家でなければできないというか、編集者に許されることではないかもしれませんが。

 剣闘士の起源については大別すると2説あり、一方はエトルリア人起源説、もう一方はカンパニア地方起源説です。本書は後者のイタリア半島南部起源説の方が妥当だと推測しますが、いずれにしても、ローマ帝国のずっと前より剣闘士競技は行なわれていました。剣闘士競技は元々、葬儀との関連が強かったようです。これは、葬儀に伴う人身犠牲との関連が指摘されています。ローマにおける最古の剣闘士競技は、紀元前4世紀にまでさかのぼるようです。葬儀慣行の一環として励行されていた剣闘士競技は、ローマにおいて次第に世俗化していき、それは大規模化していったことからも窺えます。本書はその契機として、戦没者に限らず故人となった父祖に奉るようになったことと、故人を何度も供養するようになったことがある、と指摘します。すでにこの世俗化傾向は初期から見られ、紀元前2世紀には専業化した剣闘士が存在しました。

 剣闘士競技は紀元前1世紀には共和政期ローマにおいてすっかり定着し、公職選挙のために有力者が積極的に開催するようになります。世俗的な催しとしての剣闘士競技の完成は、野獣狩りが剣闘士競技の添物として登場した時だろう、と本書は推測します。一方で、見世物として剣闘士競技が派手になることを国家秩序の脅威と考える人々は少なくありませんでした。帝政期の剣闘士競技には、公職選挙のための意味合いは実質的に失われていましたが、政治的基盤の弱い皇帝にとって、民衆の支持を得られる剣闘士競技は重要でした。そうした中で、紀元後80年にはローマでコロッセウム(円形闘技場)が建設され、これ以降、ローマ帝国の各地でコロッセウムを模範とした円形闘技場が建設されていきますが、その範囲はローマ帝国のおもに地中海沿岸部と南部の諸都市で、これは、内陸部のケルト系住民が都市集落化しなかったからだろう、と推測されています。

 見世物としての剣闘士競技が現れた紀元前2世紀には、武装型はサムニウム闘士とガリア闘士の2種類だけで、これは剣闘士の起源が戦争捕虜であることを反映しています。剣闘士興行の初期の剣闘士の起源は戦争捕虜でしたが、その供給源として罪人や奴隷もいました。一方で、借財のためや剣闘士競技自体に惹かれて剣闘士になる自由人もいました。剣闘士の中でも上位と評価される者のなかには、少なくとも軍人並の自由を得ていた者もいたようですが、本書はそうした剣闘士が例外的存在だった可能性を指摘します。剣闘士の武装型には、上述の初期の2種類以外に、網や弓矢や騎馬や戦車もありました。

 剣闘士競技がひじょうに危険であることは間違いありませんが、正確な死亡率の推定は史料の残存状況から困難です。本書では、具体的に取り上げられた紀元後1世紀の32例のうち6例で死者が出ています。ただ、それから200年後には、死亡率がかなり高くなっていたようです。剣闘士競技は、死亡率が高いものの、興行維持のためには新人を勧誘しなければいけないわけで、最初の数回を生き延びて経験を積んでいったものは、死なずにすむ確率が高まります。本書はそうした点を考慮して、紀元後1世紀の剣闘士は、10人のうち1人は生きて剣闘士を辞めることができたのではないか、と推測しています。じっさいに剣闘士が戦う頻度は、1年に数回程度で、回数はほとんどが20戦以下、死亡年齢はほとんどが30歳以下と推測されています。

 このような危険を冒してまで剣闘士競技が行なわれたのは、それが広く人々に支持されていたからですが、本書は、剣闘士競技が衰退した理由に、その歴史的・社会的意味を見出しています。上述のように、元々ローマでは、剣闘士競技には当初から批判もありましたが、それは剣闘士競技を中止させる大きな力にはなりませんでした。キケロなど剣闘士競技への批判者の中には、剣闘士競技の精神修練としての効用を認める者もいました。つまり、剣闘士競技は非情で残忍ではあるものの、苦痛や死から目を逸らさないという、戦場で必要な心構えの鍛錬になる、というわけです。剣闘士競技の衰退は、キリスト教の公認が原因との見解は有力かもしれませんが、本書は、キリスト教は剣闘士競技だけではなく見世物全般を批判し、とくに強い批判対象とされたのは演劇で、剣闘士競技の批判においてキリスト教はさほど際立っていたわけでなかった、と指摘します。本書は、紀元後3世紀には剣闘士競技の死亡率は高くなり、もはや自由身分の志願者はほとんどおらず、戦争捕虜の占める割合が高くなり、殺すか殺されるかの殺し合いとなって、高度な技術で張り合う競技ではなくなっていた、と推測します。

 本書は、末期の剣闘士競技は殺人場面と死骸だけが興味をかき立てる異様なものになっており、それはローマを支えた「軍国精神(共和政ファシズム)」のなれの果てだった、と指摘します。共和政期ローマでは、指導者も民衆も好戦的熱気を維持することで、ローマを守り、拡大させました。これが「共和政ファシズム」ですが、独裁に向かいやすいファシズムは、独裁を憎むローマにおいては短期間で独裁が成立しなかった、というわけです。この独裁政の成立により、皇帝にとって剣闘士競技のような民衆の好戦的気運を煽るような見世物は必要なくなり、皇帝にとって民衆は慈しむ存在となります。紀元後404年にはホノリウス帝が剣闘士競技の廃止を命じ、紀元後5世紀半ばには剣闘士競技はすっかり廃れてしまいました。本書は、カエサルとアウグストゥスにより提唱された「国父の慈愛」が肯定支配の理念となり、剣闘士競技衰退の一因になった、と指摘します。

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