遺伝学と考古学の統合から推測される初期現生人類のアフリカからの拡散と分岐

 遺伝学と考古学の統合から初期現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散と分岐を推測した研究(Vallini et al., 2022)が公表されました。本論文はすでに昨年(2021年)5月、査読前に公開されており、大きな変更はないようですが、図が多少変更されていますし、何よりもひじょうに注目される研究で、本文にも多少の変更があり、当ブログでは昨年6月に取り上げて以降(関連記事)もたびたび言及してきたので、改めて取り上げます。本論文で重要な概念となる「Hub」は、昨年の記事では悩んだものの「接続地」と訳しました。「拠点」とも訳せるかな、とも考えましたが、この記事でも昨年の記事に従って「接続地」と訳します。

 遺伝学と古人類学と古気候学のいくつかの層は、現生人類(Homo sapiens)によるユーラシアの主要な定着の最も可能性が高い時間枠として、7万~6万年前頃を示しています。しかし、数千年間、出アフリカ現生人類集団は人口統計学的観点からはさほど拡大せず、ユーラシアの東部と西部の人口集団間の分岐は、45000~40000年前頃よりも早くはない、と推定されています(関連記事1および関連記事2)。出アフリカ後、非アフリカ系現代人全員の祖先はユーラシア大陸のどこかに居住し、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と交雑して(関連記事)少なくとも15000年は単一の人口集団として持続して(控えめに言って、出アフリカボトルネック、およびヨーロッパとアジア東部の人口集団間の分岐の時間は、より広範な拡大の始まりを示しています)、後にこの「人口集団接続地」から拡散し、最終的にはユーラシアの全てとさらに遠方に定着した、と推測できます。

 過度に単純化した解釈では、この接続地は単なる立ち寄り先で、その後でユーラシアの東部と西部の現代人の祖先が分岐し、それぞれの現在の主要な分布域に到達した、とみなされるでしょう。しかし、最近の二つの研究は、アフリカからの現生人類拡散の想定がより複雑だったことを示しました。チェコ共和国のコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された女性個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のゲノムを分析した研究(関連記事)は、ズラティクンが後のユーラシア東西の人口集団間の分岐の基底部に位置する系統に属し、ユーラシア東西集団はズラティクンに関していくらかの浮動を共有する、と判断しました。ズラティクンの放射性炭素年代測定は信頼できないと証明されて「遺伝学的に年代測定され」、現時点で最古の配列された現生人類個体と証明されました。

 別の研究(関連記事)では、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で回収されたわずかな個体が配列され、その年代は45000年前頃で、遺伝的にヨーロッパの現代人および古代人とよりもアジア東部の現代人および古代人の方と密接である、と示されました。それに加えて、バチョキロ洞窟個体群はネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が通常よりも高くなっており、そのわずか数世代前に起きた祖先とネアンデルタール人との交雑の結果でした。

 まとめると、これらの研究が示すのは、45000年前頃よりも前に、ヨーロッパには他の全てのユーラシア人の基底部の系統が居住しており(ズラティクン個体により表される個体群)、一方でヨーロッパの古代人および現代人とよりもアジア東部の古代人および現代人の方とより密接な人口集団が45000年前頃のヨーロッパに存在した(バチョキロ洞窟個体群)、ということです。これらの発見は、アジア東部人と比較してヨーロッパ人とより多くの浮動を共有する個体として現時点で最古となる、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された37000年前頃の若い男性個体(関連記事)の祖先が、どこで居住し、どのようにユーラシア東部人の分岐後に遺伝的浮動を蓄積したのか、という問題を提起します。

 さらに、50000~35000年前頃の期間は、技術的特徴に基づいて区分される、いくつかの技術複合のユーラシア全域の出現と交代により特徴づけられます。その技術複合は、(1)非ムステリアン(Mousterian)および非初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)技術で、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期に出現し、ウルツィアン(Ulzzian)やシャテルペロニアン(Châtelperronian)やセレッティアン(Szeletian)やLRJ(Lincombian-Ranisian-Jerzmanowician)で構成されます。(2)IUPとして広範に定義される容積測定とルヴァロワ(Levallois)手法を用いる石刃製作です(関連記事)。(3)石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられる石器インダストリーで、装飾品や骨器をよく伴い、上部旧石器(UP)と包括的に定義されます。物質文化および層序の両方と関連する古代DNAが利用可能なヒト遺骸はわずかしかないので、文化的変化とヒトの移住との間や、種間および種内のヒトの相互作用との関連で、多くの仮定を提示できます。

 したがって、ユーラシアのより広範なヒトの定着の期間における人口動態の理解を深めることは、現在の出アフリカ現生人類の遺伝的多様性の形成を説明し、考古学的記録で報告される文化的変化が人口移動やヒトの相互作用や収束や生物学的交換の中間的な機序に寄与し得るのかどうか、理解するのに重要です。本論文はこの重要点に取り組むため、旧石器時代個体群の利用可能なゲノムの活用に着手し、考古学的証拠の観点でその結果を解釈して、ユーラシアの移住期およびそれに伴う文化的変化における接続地の役割をよりよく解明します。


●分析結果

 qpGraphを用いて、利用可能な旧石器時代個体のゲノム間の関係が再構築されました。qpGraphは観察されたf統計に基づいて、使用者が指定した形態に依拠し、最適な混合割合と分岐長を計算します。まず、以前の研究(関連記事)で提案された単純な人口集団系統樹が実行され、バチョキロ洞窟個体群で始めて新標本群をともに分析することで、段階的に他の標本が続いて追加されました。

 バチョキロ洞窟個体群を、追加の混合事象を呼び出さずに全てのあり得る位置に追加しようと試みられました。ただ、追加の混合事象の例外として、すでにバチョキロ洞窟個体群で記録されている(関連記事)ネアンデルタール人からの「余分な(非アフリカ系現代人全員に共通するネアンデルタール人由来のゲノム領域以外の)」遺伝子移入が含められます。バチョキロ洞窟個体群の祖先と混合した可能性が高いヨーロッパのネアンデルタール人は、出アフリカ直後に全ての非アフリカ系現代人の祖先と混合したネアンデルタール人集団と異なることを考慮して、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人とより密接なさまざまな分岐点としてモデル化されました。両方のネアンデルタール人集団が同じならば、ユーラシア人と混合した両者の分岐点間での全ての枝で推定される浮動の総計は0になるでしょう。

 さらに、本論文の結果がユーラシアとアフリカ西部との間の後の人口集団の相互作用(関連記事)、もしくは古代型ゴースト(亡霊)人類集団とのムブティ人の推定される混合(関連記事)により駆動されるのを避けるため、ムブティ人の代わりに南アフリカ共和国の古代の狩猟採集民4個体(関連記事1および関連記事2)が用いられ、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)の姉妹系統としてバチョキロ洞窟初期現生人類個体群は最もよく位置づけられる、と明らかになりました。この位置づけは最近の研究(関連記事)と異なっており、バチョキロ洞窟個体群における非アフリカ系現代人よりも高いネアンデルタール人祖先系統の割合を説明すると、バチョキロ洞窟個体群を出アフリカ現生人類系統で初期の分枝として位置づける裏づけは見つかりませんでした。これはおそらく、基底部出アフリカ現生人類の遺伝的景観に良好な指針を提供できる可能性がある、ズラティクン個体の利用可能性のためでもあるでしょう。

 コステンキ14個体を重要な古代ヨーロッパ人標本として追加した後、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる男性個体(関連記事)は、田園個体およびバチョキロ洞窟個体群につながる枝に沿った基底部での分岐によりよく適合する、と明らかになりました。しかし、ウスチイシム個体を田園個体およびバチョキロ洞窟個体群とまとめて配置すると、これら3標本間で共有される小さいものの無視できない進化経路を示しているように見えるさいの合計得点にも関わらず、代替的な配置が、コステンキ14個体とウスチイシム個体と田園個体およびバチョキロ洞窟個体群につながる分枝との間の3分岐と適合します。

 こうした知見を踏まえて提案される系統樹(図1A)からのシナリオでは、ズラティクン個体はユーラシア集団内における全ての後の分岐の基底部に位置する人口集団として示されます。ズラティクンの分岐後、ウスチイシム個体およびバチョキロ洞窟個体群や田園個体といった他の遺伝的にアジア東部古代人標本(図1の赤色)と、深い共有された遺伝的浮動を有する遺伝的にユーラシア西部人である(図1の青色)、コステンキ14個体やロシアのスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃となる個体群(関連記事)との分離は、ユーラシア現代人の遺伝的構成要素の最初の主要な分割を定義します。

 注意すべきは、一方で、qpGraph系統樹の構築と付着の特性に起因して、これが他の未調査で裏づけられる可能性のある系統樹の一つを表しているにすぎず、他方で、現時点での考古学的知識によると、その系統樹の形態が大陸間規模での物質文化証拠の時空間的分布と広く合致することです。年代的観点では、図1Aにおいて、右側(赤色)の枝が45000~40000年前頃の標本を提示しているのに対して、左側(青色)枝は代わりに、コステンキ14個体やスンギール遺跡個体群というより新しい年代の標本によって特徴づけられます。遺伝的距離から現れるこの構造は、技術的証拠でも裏づけられ、確証されます。より早期の赤い枝は一貫して、IUP技術を直接的に示すか、その時空間的代理に囲まれています。青色の枝は代わりに、UP技術の文脈でおもに特徴づけられます。最後に、基底部のズラティクン個体は、ムステリアンや非ムステリアンやIUP技術を示すヨーロッパ東部の遺跡と同年代です。以下は本論文の図1です。
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 注目すべきは、これまでユーラシア現代人とは無関係な系統とみなされてきた(関連記事)、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃のワセ1号(Oase1)が、バチョキロ洞窟個体群もしくはその密接に関連した個体群とネアンデルタール人との追加の混合として表せることです。図1Aで示される系統樹はワセ1号をそのように位置づけ、f2やf4の外れ値はなく、段階的設計により裏づけられます。この結果は地理的および年代的観点から一貫しており、ワセ1号はバチョキロ洞窟個体群の5000年後の個体で、「骨の洞窟」はバチョキロ洞窟から数百km離れているだけです。ちなみに、図1Aでのワセ1号の提案された配置は、以前の研究で主張された、非アフリカ系現代人全員に共有されるネアンデルタール人からの遺伝的影響の他に、ワセ1号の4~6世代前の祖先で追加のネアンデルタール人との混合があったことも裏づけました。そうした混合事象が、バチョキロ洞窟個体群もしくはワセ1号の祖先と考えられるその密接に関連した個体群と共有されていたかもしれない、と本論文では提案されます。

 バチョキロ洞窟個体群へのワセ1号の誘引が、両者に共有されるネアンデルタール人祖先系統の過剰により引き起こされている可能性を除外するため、ワセ1号の最も近いネアンデルタール人からの遺伝子移入断片を隠し、分析が再実行されました。その結果、ワセ1号はその位置を保ち、さらなるネアンデルタール人の寄与を必要としないので、バチョキロ洞窟個体群との類似性は本物で、両者に存在する余分なネアンデルタール人構成要素によりもたらされた単純な誘引ではありません。最後に、ワセ1号のこの配置は、同じ「骨の洞窟」遺跡の別の標本(ワセ2号)で報告されたアジア東部人との遺伝的類似性と一致します。

 次に、UPの枝は45000年前頃からかなり後になって、推定される出アフリカ人口集団接続から現れます。これは、オーリナシアン(Aurignacian)などヨーロッパにおけるUP技術複合の以前に仮定された出現の裏づけを明らかにするシナリオです。しかし、ヨーロッパとアジア西部とレヴァントとの間の移住と交換の役割は、依然として議論されています。グラヴェティアン(Gravettian)などその後のUP技術複合の起源と時空間的発展も議論されており、現時点では、出アフリカ接続地からの推定される分岐後の、地域的適応や機能的収束やヨーロッパで起きた人口集団間の交換を含む混合過程の結果として解釈されています。

 アジア北部および報告された祖先的北ユーラシア人祖先系統に関する限り、UP遺産は、34950~33900年前頃となるモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)の個体(関連記事)や、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体(関連記事)や、24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の個体(関連記事)といった、古代ユーラシア北部東方の標本ですでに報告されている、ユーラシア西部構成要素と関わっているかもしれません。

 コステンキ14個体と田園個体の姉妹集団との間でのさまざまな割合の混合事象を特徴とする系統樹が裏づけられ、じっさいにこの観察を説明できます(図1Aの紫色)。これはさらに、38000年前頃以前のある時点における接続地からのUP拡大に続く、シベリアにおけるユーラシア西部構成要素の段階的到来と一致する、ヤナRHSとマリタ遺跡のより新しい年代によりさらに裏づけられます。田園個体およびその後のアジア東部個体群におけるユーラシア西部構成要素の欠如は、侵入してくるUP人口集団の移動に対するアジア東部集団の抵抗、もしくは遺伝的にIUP的な人口集団の「貯蔵所」からのその後の再拡大に関する手がかりを提供するかもしれません。

 一方、ユーラシア西部のIUP人口集団は衰退し、最終的には消滅した可能性が高く、これは、本論文の人口集団系統樹が、既存のIUP集団もしくはネアンデルタール人とのさらなる混合を経ていないUP集団の、ヨーロッパにおける到来と一致する事実によっても示唆されます。この例外は、バチョキロ洞窟個体群のうちより新しいBK1653個体(関連記事)と、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃となる1個体(ゴイエットQ116-1)です(関連記事)。BK1653個体が、より古いIUPバチョキロ洞窟個体群と関連する人口集団と混合したUP拡大の構成員として単純に説明できるのに対して、ゴイエットQ116-1個体のアジア東部構成要素は、追加の田園個体的構成要素を有し、ヨーロッパ西部における既存のバチョキロ洞窟個体群的集団と侵入してきたUP集団との間の相互作用として説明されねばなりません。ユーラシア西部のゴイエットQ116-1標本で見つかった、そうしたさまざまなアジア東部基層は、IUP人口集団の枝内のまだ記載されていない複雑さを説明するかもしれません。興味深いことに、ヨーロッパのIUP人口集団の衰退は、最後のネアンデルタール人の消滅と一致します。

 これまでに利用可能な古代DNA標本を用いての、出アフリカ後のユーラシア人口集団の移動を説明するために必要な比較的単純な人口集団系統樹を考慮し、ズラティクン個体の基底部の位置の恩恵を受けて、オセアニア人口集団(現代パプア人)を系統樹内でモデル化し、長く議論されてきたユーラシア東西の人口集団と比較しての系統樹における位置づけの解決が試みられました。以前の研究(関連記事1および関連記事2)で提案された系統樹形態から始めて、まずパプア人を非アフリカ系現代人の部分系統樹に沿ってその最基底部の枝として位置づけるよう試みられ、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との混合が考慮されました。人類系統でまだ特徴づけられておらず、深い分岐の系統からの誘引を除外するため、標本抽出されたデニソワ人の古代DNAを系統樹内に含めることが避けられ、非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属、古代型ホモ属)に沿った基底部の分岐としてqpGraphにデニソワ人を推定させることが選択されました。

 その結果、単純にパプア人を基底部に位置づけること(ズラティクン個体の分岐の前か後のどちらか)は却下され、パプア人と田園個体との間の顕著な誘引が浮き彫りにされました。次に、パプア人を田園個体の姉妹系統としてモデル化し(図1B)、その結果、全ての一塩基多型(SNP)を考慮しても解決できる限界外れ値が1つだけ生じました。この接続形態は、出アフリカ系統樹に沿って、および超えて、その位置が深くなるほど大きさが減少する基底部系統の寄与を考慮すると、限界外れ値をすべて解消して、さらに改善される可能性があります。出アフリカ経路に沿って、バチョキロ洞窟個体群および田園個体の祖先として94%、もしくは最基底部IUP系統として42%、ユーラシア東西の分岐前では26%、ズラティクン系統の前では2%、より早期か、さもなければ以前の研究(関連記事)で提案された絶滅出アフリカ系統が1%です。

 注目すべきは、デニソワ人の寄与を含むより広範な出アフリカ系統樹内のパプア人の位置づけに関する全ての許容可能な解決が、ズラティクンを既知のゲノムデータが得られている出アフリカ個体間の最基底部として確証することです。サフルランドの最終的な居住の下限に近い年代(37000年前頃)と合わせると、パプア人をアジア東部系統とアジア東西の基底部系統との45000~37000年前頃のほぼ均等な混合、もしくは、わずかな基底部出アフリカ系統か未知の出アフリカ系統の寄与の有無に関わらず、アジア東部系統の姉妹系統として位置づけるのが妥当です。本論文は、パプア人を田園個体の単純な姉妹集団として節約的に記述しますが、6つの同じ可能性の1つにすぎないことに要注意です。

 使用者の仮定に依存する教師有り手法であるqpGraphによりもたらされる可能性がある偏りをいくらか軽減し、本論文の推論の堅牢性を改善するため、Treemix での最尤網志向演算法を実行するOrientAGraphを用いて、本論文の中核モデルを構成する個体群の教師なし分析も実行され、成果が改善されました。外群としてチンパンジーと、バチョキロ洞窟個体群へのネアンデルタール人からの追加の遺伝子流動が指定されただけです。OrientAGraph/Treemixの実行で得られた最適な系統樹は、本論文でqpGraphを用いて最も支持された系統樹と一致しており、ズラティクン個体が最基底部ユーラシア系統として、バチョキロ洞窟個体群と田園個体がその姉妹系統として、ウスチイシム個体はバチョキロ洞窟個体群と田園個体系の系統から初期に分岐し、その時期はコステンキ14個体(ユーラシア西部系統)と田園個体(ユーラシア東部系統)につながる分岐の直後でした。


●考察

 本論文は、出アフリカ後の人口集団の接続地という概念を利用することで、これまでに旧石器時代ユーラシアで観察された主要な遺伝的構成要素を要約する、少なくとも3回の拡大を推測します。この新たなシナリオは、60000~24000年前頃の現時点で利用可能な最も代表的な古代人遺骸について、最も可能性の高い文化的集合体に関する利用可能な情報を上手く取り込む、足場を提供します(図2)。以下は本論文の図2です。
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 ズラティクン個体は初期の拡大を反映している可能性があり、その後のユーラシア人に殆ど若しくは全く遺伝的痕跡を残さず、45000年前頃以前に出現しました(図2A)。ズラティクン個体に表される人口集団の移動は、IUP、もしくは48000~44000年前頃にヨーロッパ中央部および東部に出現した非ムステリアンおよび非IUP石器技術複合(セレッティアンやLRJなど)と関連していたかもしれない、と推測されます。

 ユーラシアにおけるIUPと関連するその後の拡大は、以前の研究(関連記事)で提案されているように45000年前頃以前の可能性があり、本論文は、IUPがそれから5000年未満で、地中海東岸(関連記事)やヨーロッパ東部(関連記事)やシベリアおよびモンゴル(関連記事)やアジア東部(関連記事)まで分布するようになったより広範な現象で、南方へはパプアにまで38000年前頃以前に到達し、ヨーロッパではネアンデルタール人との繰り返しの混合後に最終的には消滅した、と提案します(図2B)。

 ヨーロッパ西部では同じ時間枠で、この相互作用がシャテルペロニアン物質文化の発展の契機として提案されてきましたが、地中海ヨーロッパのウルツィアン技術複合は、出アフリカ接続地からの追加のまだ特徴づけられていない拡大でより適切に説明できるかもしれません(関連記事)。ただ、ウルツィアン層ではまだゲノムデータが欠如しています。ウルツィアン技術複合はじっさい、前例のない多用途性と製作負担の効率的管理、ムステリアン(ムスティエ文化)インダストリーと比較して設計のかなり低い標準化、初期設定および数量管理のための時間短縮とエネルギー消費節約、原材料もしくは環境条件の変化へのずっと短時間での対応により特徴づけられます。さらに、この技術的変化は、補完的な道具(関連記事)、狩猟戦略の革新、象徴的人工物の一括共有の出現と関連しています。これらのほぼ固有で独特な要素は、在来のムステリアン物質文化との連続性、もしくは他のIUP/UPユーラシア技術との優先的な技術的近接性の推論を困難しており、独立した人口集団の拡大との仮説を裏づけます。

 観測されたデータを説明するのに必要な最後の主要な拡大(UP)は、ヨーロッパにおいて45000年前頃以降で37000年前頃以前に置きて再定着したか、ゴイエットQ116-1やBK1653個体により表されるように、既存のヒト集団と相互作用し、その後の5000~10000年間に東方へと移動するさいに、シベリア(ヤナRHSやマリタ遺跡やおそらくはサルキート渓谷も)で以前のIUP拡大の波の構成員と混合しました(図2C)。したがって、現代人のゲノムから推定されるユーラシア東西の出アフリカ現生人類集団間の分岐年代(4万年前頃)と、これら2大人口集団の分化は、出アフリカ接続地からのIUPの拡大の推定年代により説明でき、その後でユーラシア西部人の祖先の接続地内での分化が続き、さらにその後に継続的なユーラシア間の遺伝子流動により低減されました。

 重要なことに、この新たな全体像の基礎を形成するqpGraphの結果は、調べられた遺伝的データの多くのあり得る配置の一つにすぎず、それ自体が唯一の結果として解釈されるべきではありません。それにも関わらず、qpGraphの結果は教師なし手法(OrientAGraph/Treemix)でも確認され、注目すべきことに、本論文で説明された配置は物質文化の証拠から推測されるシナリオと一致し、それを単純化しており、遺伝的および文化的データを一貫した景観に配置するための枠組みを提供します。

 本論文は、現在の粗い分析規模での人口移動と一致する広範な文化分類を用いしました。本論文で観察された一般的な傾向は大まかな観点から得られたもので、分岐や地域適応や文化伝播や収束の実際の過程に関する具体的な仮説を検証するには、さらなる研究が必要です。同様に、推定される人口集団の接続地の正確な場所についても不明なままですが、アフリカ北部かアジア西部が最も妥当な候補のようです。より多くの古代ゲノムデータと、現時点では既知の物質文化が複雑な軌跡を示唆している(関連記事)、アジア南部および南東部の役割をより深く理解することが必要です。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、粗い分析規模であることを認めつつも、遺伝学と考古学を統合した、初期現生人類のアフリカからの拡散と分岐に関する魅力的な仮説を提示しています。今後、遺伝学と考古学における研究の進展により、本論文の仮説は改定されていくのではないか、と期待されます。その過程で、本論文でも示唆されていた、まだ標本抽出されていない新たな遺伝的構成の集団が発見される可能性は、低くないように思います。じっさい、査読前の本論文の公開後に、アジア東部南方(関連記事)やワラセア(関連記事)でそうした個体が確認されています。

 本論文は、現生人類のアフリカからの拡散が単純ではなく、局所的な絶滅が珍しくなかった可能性を示唆します。この問題は査読前の本論文が公開された後に取り上げましたが(関連記事)、前期更新世からのアフリカとユーラシアの各地域における人類集団の連続性を前提とする現生人類多地域進化説は、旧石器時代の現生人類集団間でさえ絶滅と置換が珍しくなかったことを考えると、根本的に間違っていた、と評価すべきなのでしょう。

 確かに、ネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属と現生人類との混合が今では明らかになっており、その意味で多地域進化説を再評価する見解もあるでしょうが、非アフリカ系現代人全員のゲノムに見られるネアンデルタール人由来領域のほとんどは、ネアンデルタール人からの1回の遺伝子移入事象に由来し(関連記事)、その場所はアジア南西部が有力です(関連記事)。つまり、他地域での非現生人類ホモ属から現代人への遺伝的連続性を証明しているわけではありません。本論文では、ヨーロッパにおける初期現生人類と末期ネアンデルタール人との追加の混合とともに、そうした初期現生人類がヨーロッパの現代人とは遺伝的にほぼ無関係であることも指摘されています。この点でも、特定地域における前期もしくは中期更新世から現代にかけての人類集団の連続性を前提とする多地域進化説には、説得力が欠けているように思います。

 本論文からは、パプア人も含まれるオーストラレーシア(オーストラリアとニュージーランドとその近隣の南太平洋諸島で構成される地域)人の形成が複雑だった可能性も窺えます。この問題については、査読前の本論文を踏まえて推測したことがあります(関連記事)。出アフリカ現生人類集団が単純に東西の各集団(ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団)に分岐したのではなく、両者の共通祖先集団と分岐したユーラシア南部系集団(仮称)があり、南部系集団と東部系集団とのほぼ均等な混合によりオーストラレーシア人の祖先集団が形成されたのではないか、というわけです。この推測が多少なりとも妥当だとすると、現生人類の拡散史は、とくにユーラシア東部およびオセアニアでひじょうに複雑になりますが、それでも、じっさいの人口史と比較してまだ単純化しているのでしょう。古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、私の見識と能力では追いかけていくのは困難ですが、できるだけ多く最新の成果を把握していくつもりです。


参考文献:
Vallini L. et al.(2022): Genetics and Material Culture Support Repeated Expansions into Paleolithic Eurasia from a Population Hub Out of Africa. Genome Biology and Evolution, 14, 4, evac045.
https://doi.org/10.1093/gbe/evac045

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