村井章介『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』
角川選書の一冊として、角川学芸出版より2019年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。「古琉球」とは伊波普猷の造語で、1609年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に薩摩藩に征服される以前の琉球を指します。古琉球の時代には、琉球は日本の国家領域外にありました。本書は琉球語を採用して、前近代の「日本」を「ヤマト」と呼びます。琉球はアジアの南東部と東部をつなぐ海の道の結節点に位置しており、アジア東方海域の歴史において重要な役割を果たしましたが、継続的に推移が追えるようになるのは、紀元後14世紀(以下、紀元後の場合は省略します)半ばすぎに、沖縄本島にあった三つの小王国(中山と山南と山北)が明との間に朝貢・回賜の関係を結んでからです。明が倭寇対策として施行した「海禁」により海外、とくにアジア南東部産品を入手する経路が閉ざされたため、琉球はその窓口に位置づけられ、交易活動により繁栄しました。一方、その頃の琉球は言語など文化面で距離が近いヤマトとの関係は深くなく、「中央政府」である室町幕府より、島津など西日本の大名や、倭寇勢力の構成員である商人や武士、琉球とヤマトを往復した僧侶などと交渉が盛んでした。15世紀後半になると、ヤマトや明やヨーロッパの海上勢力が競争者として現れ、繁栄の基盤が掘り崩されるようになった琉球は、相対的にヤマトとの関係の比重が高まります。とくに重要だったのが薩摩の島津との関係で、その帰結が1609年の薩摩藩による琉球征服でした。古琉球は、多種多様な人や物や文化が混合・雑居する世界でした。
琉球の歴史は、旧石器時代→貝塚時代→グスク時代→琉球王国時代(第一尚氏王朝→第二尚氏王朝→薩摩藩支配)→琉球藩→沖縄県→アメリカ合衆国統治期→沖縄県と続きます。貝塚時代がヤマトの縄文時代~平安時代中期に、グスク時代がヤマトの平安時代中期~室町時代に相当します。琉球人の起源はよく分かっていませんが、形質人類学では、ヤマトからのヒトの流入とともに、アジア南東部の人類集団の要素も見られる、と指摘されています。文化的には、琉球語とヤマト語は、語彙や音韻の面ではほとんど通じないほど異なっていますが、文法構造や品詞体系では同一系統の言語と考えられています。衣食住や行事・習慣などの観点では、琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されています。また、琉球の文化は一様ではなく、奄美・沖縄文化圏と宮古・八重山文化圏に二分する見解も提示されています。グスク時代には、ヤマトから奄美を経由して琉球へとヒトの移動があり、形態学的変化をもたらした、と指摘されています。これは熊野信仰・仏教・仮名の伝播からも裏付けられ、琉球王権は仏教を信仰し、仮名を公式文字として採用します。文化的には本書は、琉球語とヤマト語(日本語)の親縁性から、琉球人の優位集団を構成したのはヤマト方面から渡来した、と推定しつつ、その前の時代にはアジア南東部方からのヒトの流入もあっただろう、と指摘しています。なお、『隋書』の「流求国」がどこを指すのかについては長い議論があり、現在も決着していませんが、台湾説が多数派とされています。しかし本書は、「流求国」を琉球に比定しています。
琉球における10世紀前後の貝塚時代からグスク時代への移行は、狩猟採集経済から農耕および窯業生産の開始と交易の展開により特徴づけられます。グスクについては、聖地や集落とする説と城塞説との間で議論が続いています。グスク時代には、沖縄本島で首長たちが南部の山南と中部の中山と北部の山北(琉球三山)にまとまっていきます(三山時代)。琉球三山で最初に明と外交関係を結んだのは中山で(1372年)、1380年には山南が明に入貢し、その後は三山で対明通交の主導権をめぐる抗争に突入します。明の初代洪武帝の説諭にも関わらず三山の紛争は収まらず、朝鮮を巻き込んで激化します。この三山の紛争を制したのは中山でしたが、その正確な年代については異論もあり、1420年代に実質的な統一がなされたようです。琉球と明との間の交易の中心品目は、初期の20年間ほどでは、輸出が硫黄と馬、輸入が陶磁器と鉄釜でした。その後、1390年頃からは、輸出品に胡椒と蘇木と乳香が新たに登場し、これらはアジア南東部海域からもたらされた、と考えられます。琉球の繁栄を支えたのは、このアジア南東部と明とをつなぐ中継貿易でした。琉球は明にとって海外産品入手の貴重な窓口だったので、朝貢回数に制限がないことや海船の賜与など、交易活動で明から手厚い助成策を受けました。ヤマトとの関係では、琉球は室町幕府将軍の臣下に準じて扱われ、琉球側もそれを受け入れていましたが、対明の場合と同様に、国家意思の形成や領土・人民支配において琉球が独立国家だったことは明白です。琉球国の機構整備や外交や交易では、華人の果たした役割が大きかったようです。
琉球の繁栄と高い「国際的地位」を支えていた中継交易は、15世紀半ば以降に相次ぐ競争者の出現で変わっていきます。まず、博多や対馬の倭人勢力が、ヤマトや朝鮮との往来から琉球船をほぼ締め出します。明も琉球を優遇する利益が薄れてきたことから、琉球への厚遇を見直します。さらに、1511年にポルトガルがマラッカを占領したことにより、琉球は南海貿易の重要な拠点を失いました。ポルトガルはジャワ島やシャムや華南にも到来し、琉球船の活動の場はますます狭くなり、1570年のシャムとの通交を最後に、琉球船はアジア南東部に現れなくなります。こうした海外交易の退潮により、琉球では航海術も劣化していきます。1609年、琉球は薩摩藩に征服されますが、これは対明交渉経路の確保と版図拡大が目的で、どちらかと言えば、幕府は前者、薩摩藩は後者に重点を置いていました。この薩摩藩による征服の結果、琉球は幕藩体制の知行体系において薩摩藩の一部とされたものの、「異国」としての体裁は保たれ、国家機構や風俗は前代のまま存続し、明、および明滅亡後にはダイチン・グルン(大清帝国)という中華地域を支配した勢力との冊封関係も維持されました。琉球が薩摩藩に征服された一因として、中継交易の衰退により、相対的にヤマトとの交易への依存度が高まっていたこともあるようです。本書は、支配層と庶民との間の格差拡大など、古琉球の自立性を支えていた基盤自体がもはや空洞化していたことも、琉球が征服された背景として指摘します。
本書を読んだ機会に、琉球の人類集団の起源について、本書では言及されていない最近の古代DNA研究を短くまとめておきます。琉球諸島でDNAが解析された最古の人類遺骸は港川人(港川1号)となり、年代は2万年前頃です(関連記事)。港川1号はミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析されているものの、核DNAはまだ解析されておらず、現代人とのつながりがあるのか、あるとしてどの程度なのかは不明です。ただ、港川1号のmtDNAハプログループ(mtHg)では既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換が見つからなかったので、現代人とは遺伝的につながらない絶滅集団を表している可能性は低くないように思います。
琉球諸島で核DNAが解析された最古の個体は沖縄県宮古島市の長墓遺跡で発見されており、年代は2800年前頃です(関連記事)。この個体は遺伝的には、既知の古代人および現代人集団と比較して、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の縄文時代の個体群(縄文人)と密接にまとまります。本書でも、古琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されていますが、遺伝的には、貝塚時代の遅くとも紀元前千年紀には、琉球諸島の人類集団は遺伝的には、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団ではなく、日本列島の近い年代の「縄文人」の方とずっと密接に類似していた可能性が高そうです。もちろん、当時の琉球諸島に、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団と類似した集団が存在した可能性はありますが、「縄文人」と遺伝的に類似した集団が優勢で、ほぼ排他的に存在していた可能性は低くないように思います。
その後、17世紀までには、長墓遺跡の人類集団は遺伝的に、ほぼ琉球諸島現代人集団そのものへと変わります。琉球諸島現代人集団は日本列島「本土」現代人集団と遺伝的には密接であるものの、「縄文人」構成要素の割合が「本土」集団より高い、と示されています。本書の指摘も踏まえると、貝塚時代には「縄文人」と遺伝的にきわめて密接な集団が存在し、グスク時代に「本土」から到来した集団との(遺伝的には後者の優位下での)融合により、琉球諸島現代人集団が形成された、と考えられます。琉球諸島現代人集団において「本土」現代人集団よりも「縄文人」構成要素の割合が高いのは、グスク時代に「本土」から到来した集団が、「本土」現代人集団と同程度かそれ以上の割合の「縄文人」構成要素を有しており、遺伝的には「縄文人」そのものの琉球諸島在来集団と混合したからでしょう。
しかし文化面では、本書が指摘するように、古琉球には台湾やアジア南東部やポリネシアとの近縁性も見られます。縄文文化の影響がないと言われていた先史時代の先島諸島において、遺伝的には「縄文人」そのものの集団が存在したと可能性はきわめて高く、朝鮮半島の後期新石器時代でも、遺伝的にほぼ「縄文人」と言える個体が見つかっています。現時点では、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島でしか見つかっていませんが、先島諸島や朝鮮半島南岸の事例からその文化は一様ではないと考えるべきで、文化と遺伝的構成を安易に結び付けてはならない、と改めて思います。琉球語が日本語と同系統と言えるほど似ていながら、大きな違いが見られるのは、おそらく琉球語が貝塚時代の集団の言語とグスク時代に「本土」から到来した集団の言語との混合言語で、後者の影響力の方が強かったからなのでしょう。しかし、貝塚時代の集団は遺伝的には、アイヌ集団の主要な祖先集団だっただろう続縄文文化集団にきわめて近かったでしょうが、両者の分岐は1万年以上前までさかのぼる可能性もあり、貝塚時代の集団の言語は、アイヌ語系統だっただろう続縄文文化集団の言語とは同系統と判定できないほど違っていた可能性が高いのではないか、と思います。
琉球の歴史は、旧石器時代→貝塚時代→グスク時代→琉球王国時代(第一尚氏王朝→第二尚氏王朝→薩摩藩支配)→琉球藩→沖縄県→アメリカ合衆国統治期→沖縄県と続きます。貝塚時代がヤマトの縄文時代~平安時代中期に、グスク時代がヤマトの平安時代中期~室町時代に相当します。琉球人の起源はよく分かっていませんが、形質人類学では、ヤマトからのヒトの流入とともに、アジア南東部の人類集団の要素も見られる、と指摘されています。文化的には、琉球語とヤマト語は、語彙や音韻の面ではほとんど通じないほど異なっていますが、文法構造や品詞体系では同一系統の言語と考えられています。衣食住や行事・習慣などの観点では、琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されています。また、琉球の文化は一様ではなく、奄美・沖縄文化圏と宮古・八重山文化圏に二分する見解も提示されています。グスク時代には、ヤマトから奄美を経由して琉球へとヒトの移動があり、形態学的変化をもたらした、と指摘されています。これは熊野信仰・仏教・仮名の伝播からも裏付けられ、琉球王権は仏教を信仰し、仮名を公式文字として採用します。文化的には本書は、琉球語とヤマト語(日本語)の親縁性から、琉球人の優位集団を構成したのはヤマト方面から渡来した、と推定しつつ、その前の時代にはアジア南東部方からのヒトの流入もあっただろう、と指摘しています。なお、『隋書』の「流求国」がどこを指すのかについては長い議論があり、現在も決着していませんが、台湾説が多数派とされています。しかし本書は、「流求国」を琉球に比定しています。
琉球における10世紀前後の貝塚時代からグスク時代への移行は、狩猟採集経済から農耕および窯業生産の開始と交易の展開により特徴づけられます。グスクについては、聖地や集落とする説と城塞説との間で議論が続いています。グスク時代には、沖縄本島で首長たちが南部の山南と中部の中山と北部の山北(琉球三山)にまとまっていきます(三山時代)。琉球三山で最初に明と外交関係を結んだのは中山で(1372年)、1380年には山南が明に入貢し、その後は三山で対明通交の主導権をめぐる抗争に突入します。明の初代洪武帝の説諭にも関わらず三山の紛争は収まらず、朝鮮を巻き込んで激化します。この三山の紛争を制したのは中山でしたが、その正確な年代については異論もあり、1420年代に実質的な統一がなされたようです。琉球と明との間の交易の中心品目は、初期の20年間ほどでは、輸出が硫黄と馬、輸入が陶磁器と鉄釜でした。その後、1390年頃からは、輸出品に胡椒と蘇木と乳香が新たに登場し、これらはアジア南東部海域からもたらされた、と考えられます。琉球の繁栄を支えたのは、このアジア南東部と明とをつなぐ中継貿易でした。琉球は明にとって海外産品入手の貴重な窓口だったので、朝貢回数に制限がないことや海船の賜与など、交易活動で明から手厚い助成策を受けました。ヤマトとの関係では、琉球は室町幕府将軍の臣下に準じて扱われ、琉球側もそれを受け入れていましたが、対明の場合と同様に、国家意思の形成や領土・人民支配において琉球が独立国家だったことは明白です。琉球国の機構整備や外交や交易では、華人の果たした役割が大きかったようです。
琉球の繁栄と高い「国際的地位」を支えていた中継交易は、15世紀半ば以降に相次ぐ競争者の出現で変わっていきます。まず、博多や対馬の倭人勢力が、ヤマトや朝鮮との往来から琉球船をほぼ締め出します。明も琉球を優遇する利益が薄れてきたことから、琉球への厚遇を見直します。さらに、1511年にポルトガルがマラッカを占領したことにより、琉球は南海貿易の重要な拠点を失いました。ポルトガルはジャワ島やシャムや華南にも到来し、琉球船の活動の場はますます狭くなり、1570年のシャムとの通交を最後に、琉球船はアジア南東部に現れなくなります。こうした海外交易の退潮により、琉球では航海術も劣化していきます。1609年、琉球は薩摩藩に征服されますが、これは対明交渉経路の確保と版図拡大が目的で、どちらかと言えば、幕府は前者、薩摩藩は後者に重点を置いていました。この薩摩藩による征服の結果、琉球は幕藩体制の知行体系において薩摩藩の一部とされたものの、「異国」としての体裁は保たれ、国家機構や風俗は前代のまま存続し、明、および明滅亡後にはダイチン・グルン(大清帝国)という中華地域を支配した勢力との冊封関係も維持されました。琉球が薩摩藩に征服された一因として、中継交易の衰退により、相対的にヤマトとの交易への依存度が高まっていたこともあるようです。本書は、支配層と庶民との間の格差拡大など、古琉球の自立性を支えていた基盤自体がもはや空洞化していたことも、琉球が征服された背景として指摘します。
本書を読んだ機会に、琉球の人類集団の起源について、本書では言及されていない最近の古代DNA研究を短くまとめておきます。琉球諸島でDNAが解析された最古の人類遺骸は港川人(港川1号)となり、年代は2万年前頃です(関連記事)。港川1号はミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析されているものの、核DNAはまだ解析されておらず、現代人とのつながりがあるのか、あるとしてどの程度なのかは不明です。ただ、港川1号のmtDNAハプログループ(mtHg)では既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換が見つからなかったので、現代人とは遺伝的につながらない絶滅集団を表している可能性は低くないように思います。
琉球諸島で核DNAが解析された最古の個体は沖縄県宮古島市の長墓遺跡で発見されており、年代は2800年前頃です(関連記事)。この個体は遺伝的には、既知の古代人および現代人集団と比較して、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の縄文時代の個体群(縄文人)と密接にまとまります。本書でも、古琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されていますが、遺伝的には、貝塚時代の遅くとも紀元前千年紀には、琉球諸島の人類集団は遺伝的には、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団ではなく、日本列島の近い年代の「縄文人」の方とずっと密接に類似していた可能性が高そうです。もちろん、当時の琉球諸島に、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団と類似した集団が存在した可能性はありますが、「縄文人」と遺伝的に類似した集団が優勢で、ほぼ排他的に存在していた可能性は低くないように思います。
その後、17世紀までには、長墓遺跡の人類集団は遺伝的に、ほぼ琉球諸島現代人集団そのものへと変わります。琉球諸島現代人集団は日本列島「本土」現代人集団と遺伝的には密接であるものの、「縄文人」構成要素の割合が「本土」集団より高い、と示されています。本書の指摘も踏まえると、貝塚時代には「縄文人」と遺伝的にきわめて密接な集団が存在し、グスク時代に「本土」から到来した集団との(遺伝的には後者の優位下での)融合により、琉球諸島現代人集団が形成された、と考えられます。琉球諸島現代人集団において「本土」現代人集団よりも「縄文人」構成要素の割合が高いのは、グスク時代に「本土」から到来した集団が、「本土」現代人集団と同程度かそれ以上の割合の「縄文人」構成要素を有しており、遺伝的には「縄文人」そのものの琉球諸島在来集団と混合したからでしょう。
しかし文化面では、本書が指摘するように、古琉球には台湾やアジア南東部やポリネシアとの近縁性も見られます。縄文文化の影響がないと言われていた先史時代の先島諸島において、遺伝的には「縄文人」そのものの集団が存在したと可能性はきわめて高く、朝鮮半島の後期新石器時代でも、遺伝的にほぼ「縄文人」と言える個体が見つかっています。現時点では、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島でしか見つかっていませんが、先島諸島や朝鮮半島南岸の事例からその文化は一様ではないと考えるべきで、文化と遺伝的構成を安易に結び付けてはならない、と改めて思います。琉球語が日本語と同系統と言えるほど似ていながら、大きな違いが見られるのは、おそらく琉球語が貝塚時代の集団の言語とグスク時代に「本土」から到来した集団の言語との混合言語で、後者の影響力の方が強かったからなのでしょう。しかし、貝塚時代の集団は遺伝的には、アイヌ集団の主要な祖先集団だっただろう続縄文文化集団にきわめて近かったでしょうが、両者の分岐は1万年以上前までさかのぼる可能性もあり、貝塚時代の集団の言語は、アイヌ語系統だっただろう続縄文文化集団の言語とは同系統と判定できないほど違っていた可能性が高いのではないか、と思います。
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