戦国時代中期の楚の墓に葬られた貴族の出身地

 戦国時代中期の楚の墓に葬られた貴族の出身地に関する研究(Xu et al., 2022)が公表されました。秦が6ヶ国を征服して統一を達成し、中国史において最初の帝国を樹立する前の2世紀は、戦国時代(紀元前475~紀元前221年)として知られています。学者たちは、戦国時代における頻繁で大規模な戦争が、南北「中国」全域のさまざまな人口集団の移住および再編と関連している、と主張しています。春秋時代(紀元前770~紀元前476年)から戦国時代にかけての力強く開かれた国家として、楚(Chu)は華北からの多くの人材を魅了しました。その中には、呉起(Wu Qi)や百里奚(Baili Xi)や田忌(Tian Ji)、有名な哲学者の孔子(Confucius)や老子(Lao Zi)がおり、この全員が楚に逗留した、と伝わります。さらに、不安定な同時代の政治情勢を考えると、楚と外国との間の他の複雑な相互作用があり、それは文献ではなく考古学の調査を通じて解明されるかもしれない、と予想されます。

 1950年以降、考古学者たちは、戦国時代の楚の都である郢(Ying)のある荊州(Jingzhou)地域の6000ヶ所以上の埋葬を発掘してきました。古代楚の深遠な歴史を再構築する計画(RDHAC)は、それら楚の埋葬からの最近の考古学的証拠を、古代DNAやタンパク質や炭素および窒素の同位体やヒト骨格遺骸の分析と、三次元顔面復元技術を含む学際的手法と組み合わせています。この研究の目的は、楚の人々の形成と人口史を理解し、その身体的・遺伝的・文化的動態を再構築することです。これらには、楚とその周辺諸国との間の貴族の情報交換の詳細な歴史が含まれるでしょう。本論文は、長江中流域の荊州にある楚の2ヶ所の墓で回収された、ヒト遺骸の予備的調査の結果を報告します(図1)。以下は本論文の図1です。
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 旺山橋(Wangshanqiao)1号墓は楚の貴族の巨大な墓で、面積は約1088m²となり、2013~2015年にかけて発掘されました(図2a・b)。青銅器、漆塗りの木製品、骨と枝角の道具、簡牘、さまざまな香辛料や果物の植物の大型化石を含む866点以上の出土品が、土葬された男性とともに墓に埋葬されていました(図2および図3)。この墓の大きさ、副葬品、簡牘の内容は、この墓の所有者が楚において中厩尹(Zhongjiu Yin、王妃の馬の管理者)の地位にあり、その身分は大夫(Dafu)で、この人物が戦国時代中期に生きていたことを示唆します。以下は本論文の図2です。
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 1号墓被葬者の歯の直接的な加速器質量分析法(AMS)放射性炭素年代は、2310±30年前(較正年代で紀元前410~紀元前350年頃)です。この新たな年代は、1号墓の被葬者が楚の宣王(King Xuan、在位は紀元前369~紀元前340年)の時代に生きていたことを示唆します。『史記(Shi Ji)』によると、宣王は秦(Qin)の女性と紀元前357年に結婚し、右尹(YouYin)の地位の貴族に彼女を迎えさせました。この政略結婚は、戦国時代における秦と楚の貴族間の最初の歴史的に証明された結婚交換でした。放射性炭素年代測定、文献資料、埋葬された斉家(Qijia)文化式翡翠(図3b)から、旺山橋1号墓被葬者のおもな職業は、新たな王妃の日常生活と密接に関連していた可能性が高い、と推測されます。この場合、この個体は上述の秦の女性とともに、中国北西部の黄土地帯から湖北省中部の荊州地区へと移動した可能性がある、と思われます。一連の以下は本論文の図3です。
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 ヒトの象牙質の安定同位体(炭素13と窒素15)分析は、初期の食生活慣行を明らかにし、地理的起源の問題に対処できる可能性があります。旺山橋1号墓の所有者が中国北部の秦から来たのかどうか検証するため、この個体の炭素13(−8.1‰)および窒素15(11.3‰)値が分析されました。1号墓の所有者を同時代の楚の貴族と比較するため、湖北省潜江(Qianjiang)市の黄家台(Huangjiatai)18号墓で見つかった男性1個体の象牙質で、追加の放射性炭素年代(2270±30年前、較正年代で紀元前400~紀元前345年頃)と、炭素(−17.8‰)および窒素(13.1‰)の安定同位体値が得られました。荊州市のすぐ東の長湖(Changhu Lake)の畔に位置する黄家台18号墓は、面積が54m²です(図4)。以下は本論文の図4です。
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 黄家台18号墓の大きさとその副葬品の性質は、被葬者が士階級(大夫の下)だったことを示唆します。楚の2人の貴族のこれら新たな同位体データの文脈を説明するため、中国の北部中央および南部の40ヶ所の遺跡のヒトのコラーゲン(955点)について、既存の同位体結果も集められました(図5)。以下は本論文の図5です。
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 最も興味深い発見は、2人の楚の貴族間の食性パターンの明確な違いでした。具体的には、旺山橋1号墓と黄家台18号墓の被葬者の炭素13値は、それぞれC4とC3に基づくタンパク質のおもな影響を示唆します。さらに、旺山橋1号墓被葬者とは対照的に、黄家台18号墓の被葬者の窒素15値は、豊富な水酸資源に由来する窒素15消費のずっと広い範囲を明らかにします。つまり、生計戦略の大半が長江中流域で予測される値です。以前の考古植物学および同位体調査により、2000年前頃以前の、華北(C4作物、つまりキビに基づく農耕)と華南(C3作物、つまりコメに基づく農耕)の農業生産における大きな違いが明らかにされてきました。本論文の最初の結果は、黄家台18号墓の楚の下層貴族(士)が恐らくはコメと魚を食べており、『史記』における「飯稲羹魚」との文献記録を反映しています。一方、旺山橋1号墓の楚の上層貴族は、その初期の生活において顕著な量のキビに基づく食物と陸生動物を食べており(他の中国北部中央人口集団と類似しています)、おそらくは中国北部のキビ農耕地域で育った、と示唆されます(図6)。以下は本論文の図6です。
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 さらなる文献証拠が提示されるまで、秦の女性との結婚後、旺山橋1号墓の被葬者は楚の荊州平原を旅し、かなりの期間をそこで過ごして、楚の上層貴族の作法で埋葬された、と本論文は暫定的に主張します。将来の学際的研究は、この仮説を検証し続け、楚の人々の生活をさらに解明するでしょう。春秋戦国時代における性差の拡大を指摘した研究(関連記事)など、同位体分析は人々の食性や出自の解明に役立つので、今後も活用され続けるでしょう。また、楚の古代人のDNA分析も進められているようなので、研究の進展がひじょうに注目されます。今後は、文献史学と同位体分析や古代DNA分析などを組み合わせた学際的研究がますます盛んになるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Xu Y. et al.(2022): Migration in Bronze Age southern China: multidisciplinary investigations of elite Chu burials in Jingzhou. Antiquity, 96, 386, 471–478.
https://doi.org/10.15184/aqy.2022.13

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