外来だったイベリア半島北部のシャテルペロニアン
イベリア半島北部のシャテルペロニアン(Châtelperronian)遺跡を報告した研究(Rios-Garaizar et al., 2022)が公表されました。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)集団の消滅(関連記事)は、複雑で進行中の議論のままであり、内在的原因や気候変化やヨーロッパ東部における現生人類(Homo sapiens)の到来など、5万~4万年前頃の生存に影響を及ぼした、と主張されている複数の要因があります(関連記事1および関連記事2)。
この絶滅過程の最中に、いくつかの新たな技術・文化複合がヨーロッパに出現し、そのうちのいくつかは現生人類によりもたらされましたが、他のものはネアンデルタール人集団により開発されました。これらの複合のうちの一つがシャテルペロニアン(シャテルペロン文化)で、パリ盆地からイベリア半島北部までの範囲で見られます。シャテルペロニアンの起源は依然として広く議論されています。一部の論者は、シャテルペロニアンが中部旧石器技術の発展としてヨーロッパ西部で始まり、おそらくはヨーロッパ東部および中央部における現生人類の人口増加の影響を受けた(関連記事)、と主張していますが、シャテルペロニアンとネアンデルタール人との間のつながりを疑い続け、したがってシャテルペロニアンは現生人類集団の所産だったかもしれない、と提案する論者もいます(関連記事)。
しかし、最近の技術的発展は、アルシ=スュル=キュール(Arcy-sur-Cure)のトナカイ洞窟(Grotte du Renne)におけるシャテルペロニアンがネアンデルタール人の所産であることを示した古プロテオーム証拠により、これらの議論を大きく前進させました(関連記事)。ヨーロッパ西部のシャテルペロニアンの年代範囲内において直接的に年代測定された唯一のヒト遺骸がネアンデルタール人との類似性を有している、という事実は、ネアンデルタール人とシャテルペロニアンとのつながりをさらに強化します。本論文は、新しく重要なシャテルペロニアン遺跡であるアランバルッツァ2(Aranbaltza II)を提示します。アランバルッツァ2遺跡は、シャテルペロニアンの分布の南端地域に位置します(図1)。以下は本論文の図1です。
アランバルッツァ2遺跡の石器群の詳細な技術的分析が示すのは、イベリア半島北部におけるそれ以前の中部旧石器技術との技術的つながりはない、ということです。これは、局所的な最新の中部旧石器(MP)とシャテルペロニアン(CP)との間の年代的間隙の証拠と組み合わされて、MP技術を有するネアンデルタール人集団が、アキテーヌ地域からピレネー山脈を越えてカンタブリア地域へと拡大した可能性が高いCP技術を有するネアンデルタール人の前にこの地域を放棄した、と示唆します。これは、局所的な絶滅と人口集団置換の事象が、ネアンデルタール人の消滅過程においてどのように役割を果たした可能性があるのか、示しています。
●アランバルッツァ2遺跡
アランバルッツァ2遺跡は、現在の海岸線に近い短い渓谷(800m北西)の、バスク沿岸地域に位置します(図1および図2)。海洋酸素同位体ステージ(MIS)3において、海面は現在より60~70m低く、最近得られた海洋の深さの調査によると、当時の海岸線は現在よりも約4km沖合にありました。アランバルッツァ2遺跡は古い砂と採石場の複合(llagorta-Aranbaltza)に位置し、そこでは白亜紀後期の岩盤(火山灰が挿入した海成泥灰土と石灰岩相互の重なり)の上に位置する更新世の河川砂堆積物が利用されていました。以下は本論文の図2です。
アランバルッツァ2遺跡は1957年に発見され、1959年にはいくつかの試掘坑が開かれ、シャテルペロニアンの資料を含む砂の層(C層)が見つかりました。2012年に、アランバルッツァ2遺跡の攪乱した堆積物から大規模なシャテルペロニアン収集物が研究されました。最新の発掘は2013年に始まり、中部旧石器時代から最近の先史時代までの複合遺跡(アランバルッツァ1・2・3)を明らかにしてきました(図2)。2013~2016年に、アランバルッツァ2遺跡は3ヶ所の区域(約18m²)で発掘されました(図3)。以下は本論文の図3です。
アランバルッツァ2遺跡で発掘された2mの堆積物層序は、一連の河床堆積的で侵食性で古土壌の形成事象を含みます。シャテルペロニアンの占有は、3ヶ所の異なる砂堆積間隔(US4a・b・c)の堆積物ユニット(US4)に含まれ、これは近くの河道の洪水活動の強化と関連しています(図4)。US4bの砂には、ポドゾル(針葉樹林帯の酸性土壌)における鉄とアルミニウムの集積に典型的な、強い橙の色調と鉱化作用のある生物攪乱があります。以下は本論文の図4です。
ユニット4cで行なわれた単一粒光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定から示唆されるのは、一連の河床堆積事象および古土壌発達段階が、アランバルッツァ2遺跡のシャテルペロニアンの占有に先行する後期MIS5と前期MIS3(78100±5800~58200±4600年前)に起きた、ということです。US4bおよびUS4cで得られたいくつかのOSL年代は、US4b層の間接的年代制約を提供し、標本AAM13-10は、シャテルペロニアンの占有時期である43500±2900年前に最も近くて確実な推定値を提供します。
●石器群
考古学的遺物は、最小限に攪乱された蓄積で見つかった石器だけで構成されています。よく保存された石器5686点が分析され、その中には、1mm以上の大きさの石器全てが含まれ(図5)、おもに地元の燧石(フリッシュ燧石)から作られていますが、少数の石器は地元産ではない燧石から作られており、150km離れたサリー・ド・ベアム(Salies-de-Béarn)の燧石も用いられています。30点のオーカーの小さな塊を含む他の資料は、ひじょうに低い割合で見られます。
石器群の大半(60.4%)は、天然の塊、角礫状の石器素材(chunk)、被熱剥片、10mm以下の破砕片で構成されており、集中的な塊の検査と石核剥離と道具製作を反映しています。石核形状の最初の段階で生成された自然面剥片と石刃はひじょうに豊富です。石核の数は比較的少なく、他の開地シャテルペロニアン遺跡と類似しています。石核のほとんどは小石刃(10点)と石刃(7点む)の製作に利用されましたが、標準化されていない「便宜的な」剥片石核(4点)、石核の粗い加工(6点)、検査された塊(3点)と消耗した石核(1点)もあります。
石刃石核のうち4点は典型的な双方向のもので、厳密には平行ではない2つの対向する剥離表面があり、尖った非対称石刃の製作に用いられました。単方向石核は典型的な四角形断面が見られ、非対称石刃の製作に用いられました。全ての小石刃は単方向です。そのうち5点は核状の彫器で(図5)、他の5点は塊で作られています。これらの石核は狭い(約4mm)小石刃の製作に用いられ、フランスのカンシー(Quinçay)遺跡で記載された小石刃製作と類似しています。
石器原形は、狭い(幅が6.4~13.5mm)石刃および広い石刃(幅が13.6mm超)と小石刃(幅が6.4mm未満)が優占します。小石刃は最大の形態変動性を示し、小石刃石核の生産性と形態の観点に反映されています。石核は豊富で、ほぼ、単方向の細長い剥片石核からか、標準化されていない「便宜的な」剥片石核からか、石刃石核の調整および維持の一部として得られました。典型的なルヴァロワ(Levallois)式か円盤状かキーナ(Quina)式の剥片は全て、石器群には存在しません。以下は本論文の図5です。
再加工された石器は、1点を除いて全てフリッシュ燧石で作られました。そのうち、典型的なわずかに背付きの石刃(26点)が見つかり、その中には、全体的、部分的、尖った、逆に再加工された石刃が含まれます(図6)。それは、典型的な10点のシャテルペロニアン尖頭器(図5の1~10、図6の1~7・10~12)、そのうち製作過程で壊れた一部、シャテルペロニアン尖頭器の断片(図5の11~13、図6の8・9)である可能性がひじょうに高い湾曲した背付きのある石刃断片(8点)、典型的な幅の広い掻器(2点)です(図5の32)。
再加工された小石刃のうち、カンシー(Quinçay)のような他のシャテルペロニアン遺跡で識別されたように、単一の、典型的なデュフォー(Dufour)型(図6の24)、5点の背付き、5点のわずかな背付き、2点の部分的に再加工され、1点の先端を切ったような小石刃があります。再加工された石刃や彫器や石錘や截断加工や抉入石器や鋸歯縁石器や削器や破砕断片や部分的に背付きの剥片や再加工された剥片など他の石器は、アランバルッツァ2遺跡の再加工された石器のほぼ半分を表していますが、これらは強く標準化されておらず、おそらくは機会主義的で特定的ではない石器製作と使用を表しています。以下は本論文の図6です。
●考察
アランバルッツァ2遺跡US4b層の考古学的遺物の技術的および類型論的特徴は、他のシャテルペロニアンの開地および洞窟・岩陰遺跡との直接的な類似を示します。アランバルッツァ2遺跡では打撃による製作がおもな活動でしたが、他のシャテルペロニアン開地遺跡で見られるように、これと並行して他の作業もおそらくは行なわれていました。US4b層の下のユニットには考古学的痕跡がなく、シャテルペロニアンの石器群と、アランバルッツァ1および3遺跡ではひじょうに豊富な中部旧石器の資料との混合の可能性を除外します。さらに、アランバルッツァ2遺跡US4b層の石器群は、局所的もしくは地域的な中部旧石器の技術的特徴を保持していません。とくに、剥片の鋸歯縁石器もしく掻器といった典型的な中部旧石器の道具は稀で、アランバルッツァ2遺跡の剥片は石刃石核形状の副産物および維持としてか、非体系的でむしろ機会主義的な剥片製作の結果として得られました。
アランバルッツァ2遺跡US4b層では、典型的なルヴァロワ式か円盤状かキーナ式の石器は特定されてきませんでした。さらに、アランバルッツァ2遺跡の石器原形製作は、基本的に石刃および小石刃製作を志向しており、ロクデコンフ(Roc de Combe)やラコート(La Côte)やカンシーやモラン(Morin)10層など古典的遺跡で見られる製作枠組みにしたがっており、ラベコ・コバ(Labeko Koba)やエカイン(Ekain)やコヴァ・フォラダダ(Cova Foradada)などの石器群でも証明されています。地域的な中部旧石器における石刃および小石刃製作はひじょうに稀で、ムステリアン(Mousterian)ネアンデルタール人にとって構造的製作の一部を形成することはありませんでした。さらに、カンタブリア地域ではMTA(伝統ムステリアン)-B石器群がなく、アブリ・オーディ(Abri Audi)式ナイフのようなムステリアン石器群と関連する背付き石器は、イベリア半島北部ではひじょうに稀です。
イベリア半島北部の他の場所では、以前の中部旧石器後期との技術的つながりのない小規模な石器群を伴う、いくつかのシャテルペロニアン洞窟遺跡があり、シャテルペロニアンはフランス南西部について以前に提案されてきたように、それ以前のイベリア半島の中部旧石器伝統に由来したわけではない、と示唆されます。しかし、この傾向には一つの例外があり、それがモラン洞窟(Cueva Morín)10層です。これは、燧石や粗粒珪岩や砂岩などさまざまな石材の使用と、典型的な中部旧石器(円盤状)とシャテルペロニアンの製作枠組みにより特徴づけられます。モラン洞窟10層は、11層の後期中部旧石器と10層のプロトオーリナシアン(Protoaurignacian)との間に直接的に位置します。この石器群は、中部旧石器とシャテルペロニアンとプロトオーリナシアン(最初期オーリニャック文化)の資料の混合として解釈されてきましたが、石材利用可能性と技術機能的要求への適応など、他の説明も主張されています。
いずれにしても、この収集物の一部は基本的に燧石で構成されており、アランバルッツァ2遺跡での観察とひじょうに類似しているいくつかの特徴を有する、明確なシャテルペロニアン石器群を表します。さらに、いくつかの遺跡では、エルミトン(Ermiton)やレクラウ・ヴィヴァー(Reclau Viver)やラギャエルガ(La Güelga)やエルペンド(El Pendo)やオスクラ(Oscura)洞窟やサンティマミニェ(Santimamiñe)やムガルデュイア(Mugardui)やアバウンツ(Abauntz)など、中部旧石器文脈のシャテルペロニアン尖頭器が報告されてきました。しかし、シャテルペロニアンの占有動態の観点では、これらの遺跡は慎重に検討されるべきです。
ビスケー湾周辺のシャテルペロニアン期における居住体系は、以下の事象に特徴づけられます。(1)基本的にシャテルペロニアン尖頭器製作を志向する燧石の露頭近くに位置する開地野営地など、さまざまな遺跡の種類の組み合わせです。具体的な遺跡には、アランバルッツァ2やレバステ(Le Basté)やビダール(Bidart)などがあります。(2)小さな石器群と比較的豊富なシャテルペロニアン尖頭器を有する狩猟野営地です。具体的な遺跡には、ラベコ・コバ(Labeko Koba)やエカイン(Ekain)やブラッセンパウイ(Brassempouy)などがあります。(3)モラン洞窟など洞窟においては、野営地はさほど多くありません。
基本的には燧石の作業場として機能したアランバルッツァ2遺跡におけるシャテルペロニアンの占有の特定は、イベリア半島北部におけるシャテルペロニアンの存在が周辺的だった、という認識を変えます。カンタブリア地域における開地旧石器時代考古学の発展の乏しさと、そうした遺跡の保存の地形学的制約と、シャテルペロニアンがおそらくはカンタブリア地域においてわずか数百年しか続かなかった事実は、限定的な記録と、したがってカンタブリア地域におけるシャテルペロニアンの低い可視性を説明できます。この居住パターンは、地域的な中部旧石器時代後期には確認されていません。イベリア半島北部における中部旧石器時代後期の遺跡は狩猟野営地として解釈されておらず、燧石の露頭近くの開地居住の大半は、アランバルッツァ2遺跡やレバステ遺跡やビダール遺跡との比較において、特定の石器の製作にあまり焦点を当てていないようです。
イベリア半島北部とピレネー山脈西部におけるシャテルペロニアンの年表は、おもにラベコ・コバ遺跡9層の放射性炭素年代に基づいており、較正年代で43850~40950年前頃となります。残念ながら、モラン洞窟10層の年代測定の全ての試みは結実せず、較正年代で40700~37700年前頃となるエカイン遺跡10a層の年代は、ラベコ・コバ遺跡やこの地域の初期オーリナシアン(Aurignacian)と比較して相対的に新しくなっています。コヴァ・フォラダダ遺跡4層の隅の標本から得られた3点の放射性炭素年代は統計的に相互に区別できず、同様に較正年代で41450~36900年前頃と新しい年代範囲を示唆します。
イベリア半島の地中海中側の縁に位置するコヴァ・フォラダダ遺跡4層については、顕著に新しい第四の年代(較正年代で36750~35750年前頃)が得られていますが、これはおそらく、炭の前処理手順の乱れです。アランバルッツァ2遺跡US4b層のOSL年代(43500±2900年前)は、人類の占拠自体よりは恐らくわずかに古く、較正年代で48000~45000年前頃となるこの地域における最新の中部旧石器よりも体系的に新しくなっています。アランバルッツァ2遺跡US4b層のOSL年代と、全て信頼でき、層序的によく制約された、フランスとスペインのシャテルペロニアンの加速器質量分析法(AMS)放射性炭素年代と熱ルミネッセンス(TL)法とOSLの年代は、ヨーロッパ南西部については、シャテルペロニアンの時間範囲との完全な一致を示し、本論文のベイズモデルでは43760~39220年前頃となります(図7)。以下は本論文の図7です。
アランバルッツァ2遺跡とラベコ・コバ遺跡のシャテルペロニアン石器群の本来の性質は、この地域における最新の中部旧石器とシャテルペロニアンとの間の年代の間隙、およびシャテルペロニアンと地域的な中部旧石器時代後期との間の石器管理および居住戦略のつながりの欠如とともに、中部旧石器とシャテルペロニアンとの間に不連続性があり、シャテルペロニアンはイベリア半島北部に侵入した、と明らかにします。つまり、イベリア半島北部のシャテルペロニアンの起源は他地域にあり、その後この地域にもたらされました。
この不連続性を説明できる一つのシナリオは、カンタブリア地域におけるネアンデルタール人の局所的絶滅、もしくは45000年前頃のネアンデルタール人集団によるこの地域の放棄かもしれません。カンタブリア地域はむしろ孤立した沿岸地域で、その峻険な地形のため、西部および中部は隣接地域(大西洋前面とメセタと呼ばれるイベリア半島北部高原)とあまりよく接続していません。それと比較して、カンタブリア地域東部はエブロ川流域やイベリア半島北部高原やヨーロッパの他地域への接近がより容易ですが、これでさえ、5万~4万年前頃の気候悪化により条件づけられたでしょう。
ビスケー湾で得られた堆積物コアMD04-2845の花粉データ、カンタブリア山脈から得られた氷河および湖沼学的代理は、50000~39000年前頃の温暖事象と強い寒冷事象の連続を示しており、これは最寒冷期には樹木被覆に大きな影響を及ぼし、(非ヒト)動物とヒトの集団に影響を与えた可能性が高そうです。石器技術管理や生計戦略や景観利用などさまざまな代理が示すのは、MIS4~3の過酷な気象事象においてネアンデルタール人集団が居住地の移動性を高めて利用領域を拡大した、ということです。この過酷な気候事象は、生態系生産性の低下と関連しており、同じ領域がより小さい人口集団を維持できるだけになったことにつながったでしょう。
より少ない人口集団とより大きな領域は、集団間の接触の少なさを意味する可能性が高そうです。エルシドロン(El Sidrón)洞窟遺跡の中部旧石器時代後期人口集団における近親婚の存在を示唆する研究(関連記事)は、このパターンと一致するでしょう。つまり、限定的な遺伝子流動、他のネアンデルタール人共同体との散発的接触、遺伝的に関連する疾患の流行です。これらの状況下で、48000年前頃以後のこの地域におけるネアンデルタール人集団の存在は、利用可能な年代の数により裏づけられてきたように(関連記事)おそらく疎らで、イベリア半島北部の中部および東部は、フランス南部シャテルペロニアン複合を開発した集団にとって、利用可能な拡大地域となりました。
可能性がひじょうに高そうなのは、シャテルペロニアンがネアンデルタール人の所産という蓄積された証拠(関連記事)により示唆されているように、これらの集団はネアンデルタール人だった、ということです。最初期のプロトオーリナシアンは伝統的に現生人類(Homo sapiens)と関連づけられており、アランバルッツァ2遺跡で認識される最初の地域的なシャテルペロニアンの後ですぐにイベリア半島北部に出現しました。プロトオーリナシアンはエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟遺跡やラベコ・コバ遺跡において較正年代で43000~42000年前頃までに特定されてきており、ラベコ・コバ遺跡9層のシャテルペロニアンの年代(較正年代で43000~41400年前頃)とほぼ重なり(関連記事)、オーリナシアンはその後すぐに、イベリア半島西部に存在しました。これは恐らく、イベリア半島北部におけるシャテルペロニアンの比較的短い期間と、ヨーロッパ西部に到来した最初の現生人類による最後のネアンデルタール人の急速な置換を反映しています。このシナリオは、絶滅直前の後期ネアンデルタール人集団の複雑な進化的(歴史的)軌跡と一致します(関連記事1および関連記事2)。
参考文献:
Rios-Garaizar J, Iriarte E, Arnold LJ, Sánchez-Romero L, Marín-Arroyo AB, San Emeterio A, et al. (2022) The intrusive nature of the Châtelperronian in the Iberian Peninsula. PLoS ONE 17(3): e0265219.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0265219
この絶滅過程の最中に、いくつかの新たな技術・文化複合がヨーロッパに出現し、そのうちのいくつかは現生人類によりもたらされましたが、他のものはネアンデルタール人集団により開発されました。これらの複合のうちの一つがシャテルペロニアン(シャテルペロン文化)で、パリ盆地からイベリア半島北部までの範囲で見られます。シャテルペロニアンの起源は依然として広く議論されています。一部の論者は、シャテルペロニアンが中部旧石器技術の発展としてヨーロッパ西部で始まり、おそらくはヨーロッパ東部および中央部における現生人類の人口増加の影響を受けた(関連記事)、と主張していますが、シャテルペロニアンとネアンデルタール人との間のつながりを疑い続け、したがってシャテルペロニアンは現生人類集団の所産だったかもしれない、と提案する論者もいます(関連記事)。
しかし、最近の技術的発展は、アルシ=スュル=キュール(Arcy-sur-Cure)のトナカイ洞窟(Grotte du Renne)におけるシャテルペロニアンがネアンデルタール人の所産であることを示した古プロテオーム証拠により、これらの議論を大きく前進させました(関連記事)。ヨーロッパ西部のシャテルペロニアンの年代範囲内において直接的に年代測定された唯一のヒト遺骸がネアンデルタール人との類似性を有している、という事実は、ネアンデルタール人とシャテルペロニアンとのつながりをさらに強化します。本論文は、新しく重要なシャテルペロニアン遺跡であるアランバルッツァ2(Aranbaltza II)を提示します。アランバルッツァ2遺跡は、シャテルペロニアンの分布の南端地域に位置します(図1)。以下は本論文の図1です。
アランバルッツァ2遺跡の石器群の詳細な技術的分析が示すのは、イベリア半島北部におけるそれ以前の中部旧石器技術との技術的つながりはない、ということです。これは、局所的な最新の中部旧石器(MP)とシャテルペロニアン(CP)との間の年代的間隙の証拠と組み合わされて、MP技術を有するネアンデルタール人集団が、アキテーヌ地域からピレネー山脈を越えてカンタブリア地域へと拡大した可能性が高いCP技術を有するネアンデルタール人の前にこの地域を放棄した、と示唆します。これは、局所的な絶滅と人口集団置換の事象が、ネアンデルタール人の消滅過程においてどのように役割を果たした可能性があるのか、示しています。
●アランバルッツァ2遺跡
アランバルッツァ2遺跡は、現在の海岸線に近い短い渓谷(800m北西)の、バスク沿岸地域に位置します(図1および図2)。海洋酸素同位体ステージ(MIS)3において、海面は現在より60~70m低く、最近得られた海洋の深さの調査によると、当時の海岸線は現在よりも約4km沖合にありました。アランバルッツァ2遺跡は古い砂と採石場の複合(llagorta-Aranbaltza)に位置し、そこでは白亜紀後期の岩盤(火山灰が挿入した海成泥灰土と石灰岩相互の重なり)の上に位置する更新世の河川砂堆積物が利用されていました。以下は本論文の図2です。
アランバルッツァ2遺跡は1957年に発見され、1959年にはいくつかの試掘坑が開かれ、シャテルペロニアンの資料を含む砂の層(C層)が見つかりました。2012年に、アランバルッツァ2遺跡の攪乱した堆積物から大規模なシャテルペロニアン収集物が研究されました。最新の発掘は2013年に始まり、中部旧石器時代から最近の先史時代までの複合遺跡(アランバルッツァ1・2・3)を明らかにしてきました(図2)。2013~2016年に、アランバルッツァ2遺跡は3ヶ所の区域(約18m²)で発掘されました(図3)。以下は本論文の図3です。
アランバルッツァ2遺跡で発掘された2mの堆積物層序は、一連の河床堆積的で侵食性で古土壌の形成事象を含みます。シャテルペロニアンの占有は、3ヶ所の異なる砂堆積間隔(US4a・b・c)の堆積物ユニット(US4)に含まれ、これは近くの河道の洪水活動の強化と関連しています(図4)。US4bの砂には、ポドゾル(針葉樹林帯の酸性土壌)における鉄とアルミニウムの集積に典型的な、強い橙の色調と鉱化作用のある生物攪乱があります。以下は本論文の図4です。
ユニット4cで行なわれた単一粒光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定から示唆されるのは、一連の河床堆積事象および古土壌発達段階が、アランバルッツァ2遺跡のシャテルペロニアンの占有に先行する後期MIS5と前期MIS3(78100±5800~58200±4600年前)に起きた、ということです。US4bおよびUS4cで得られたいくつかのOSL年代は、US4b層の間接的年代制約を提供し、標本AAM13-10は、シャテルペロニアンの占有時期である43500±2900年前に最も近くて確実な推定値を提供します。
●石器群
考古学的遺物は、最小限に攪乱された蓄積で見つかった石器だけで構成されています。よく保存された石器5686点が分析され、その中には、1mm以上の大きさの石器全てが含まれ(図5)、おもに地元の燧石(フリッシュ燧石)から作られていますが、少数の石器は地元産ではない燧石から作られており、150km離れたサリー・ド・ベアム(Salies-de-Béarn)の燧石も用いられています。30点のオーカーの小さな塊を含む他の資料は、ひじょうに低い割合で見られます。
石器群の大半(60.4%)は、天然の塊、角礫状の石器素材(chunk)、被熱剥片、10mm以下の破砕片で構成されており、集中的な塊の検査と石核剥離と道具製作を反映しています。石核形状の最初の段階で生成された自然面剥片と石刃はひじょうに豊富です。石核の数は比較的少なく、他の開地シャテルペロニアン遺跡と類似しています。石核のほとんどは小石刃(10点)と石刃(7点む)の製作に利用されましたが、標準化されていない「便宜的な」剥片石核(4点)、石核の粗い加工(6点)、検査された塊(3点)と消耗した石核(1点)もあります。
石刃石核のうち4点は典型的な双方向のもので、厳密には平行ではない2つの対向する剥離表面があり、尖った非対称石刃の製作に用いられました。単方向石核は典型的な四角形断面が見られ、非対称石刃の製作に用いられました。全ての小石刃は単方向です。そのうち5点は核状の彫器で(図5)、他の5点は塊で作られています。これらの石核は狭い(約4mm)小石刃の製作に用いられ、フランスのカンシー(Quinçay)遺跡で記載された小石刃製作と類似しています。
石器原形は、狭い(幅が6.4~13.5mm)石刃および広い石刃(幅が13.6mm超)と小石刃(幅が6.4mm未満)が優占します。小石刃は最大の形態変動性を示し、小石刃石核の生産性と形態の観点に反映されています。石核は豊富で、ほぼ、単方向の細長い剥片石核からか、標準化されていない「便宜的な」剥片石核からか、石刃石核の調整および維持の一部として得られました。典型的なルヴァロワ(Levallois)式か円盤状かキーナ(Quina)式の剥片は全て、石器群には存在しません。以下は本論文の図5です。
再加工された石器は、1点を除いて全てフリッシュ燧石で作られました。そのうち、典型的なわずかに背付きの石刃(26点)が見つかり、その中には、全体的、部分的、尖った、逆に再加工された石刃が含まれます(図6)。それは、典型的な10点のシャテルペロニアン尖頭器(図5の1~10、図6の1~7・10~12)、そのうち製作過程で壊れた一部、シャテルペロニアン尖頭器の断片(図5の11~13、図6の8・9)である可能性がひじょうに高い湾曲した背付きのある石刃断片(8点)、典型的な幅の広い掻器(2点)です(図5の32)。
再加工された小石刃のうち、カンシー(Quinçay)のような他のシャテルペロニアン遺跡で識別されたように、単一の、典型的なデュフォー(Dufour)型(図6の24)、5点の背付き、5点のわずかな背付き、2点の部分的に再加工され、1点の先端を切ったような小石刃があります。再加工された石刃や彫器や石錘や截断加工や抉入石器や鋸歯縁石器や削器や破砕断片や部分的に背付きの剥片や再加工された剥片など他の石器は、アランバルッツァ2遺跡の再加工された石器のほぼ半分を表していますが、これらは強く標準化されておらず、おそらくは機会主義的で特定的ではない石器製作と使用を表しています。以下は本論文の図6です。
●考察
アランバルッツァ2遺跡US4b層の考古学的遺物の技術的および類型論的特徴は、他のシャテルペロニアンの開地および洞窟・岩陰遺跡との直接的な類似を示します。アランバルッツァ2遺跡では打撃による製作がおもな活動でしたが、他のシャテルペロニアン開地遺跡で見られるように、これと並行して他の作業もおそらくは行なわれていました。US4b層の下のユニットには考古学的痕跡がなく、シャテルペロニアンの石器群と、アランバルッツァ1および3遺跡ではひじょうに豊富な中部旧石器の資料との混合の可能性を除外します。さらに、アランバルッツァ2遺跡US4b層の石器群は、局所的もしくは地域的な中部旧石器の技術的特徴を保持していません。とくに、剥片の鋸歯縁石器もしく掻器といった典型的な中部旧石器の道具は稀で、アランバルッツァ2遺跡の剥片は石刃石核形状の副産物および維持としてか、非体系的でむしろ機会主義的な剥片製作の結果として得られました。
アランバルッツァ2遺跡US4b層では、典型的なルヴァロワ式か円盤状かキーナ式の石器は特定されてきませんでした。さらに、アランバルッツァ2遺跡の石器原形製作は、基本的に石刃および小石刃製作を志向しており、ロクデコンフ(Roc de Combe)やラコート(La Côte)やカンシーやモラン(Morin)10層など古典的遺跡で見られる製作枠組みにしたがっており、ラベコ・コバ(Labeko Koba)やエカイン(Ekain)やコヴァ・フォラダダ(Cova Foradada)などの石器群でも証明されています。地域的な中部旧石器における石刃および小石刃製作はひじょうに稀で、ムステリアン(Mousterian)ネアンデルタール人にとって構造的製作の一部を形成することはありませんでした。さらに、カンタブリア地域ではMTA(伝統ムステリアン)-B石器群がなく、アブリ・オーディ(Abri Audi)式ナイフのようなムステリアン石器群と関連する背付き石器は、イベリア半島北部ではひじょうに稀です。
イベリア半島北部の他の場所では、以前の中部旧石器後期との技術的つながりのない小規模な石器群を伴う、いくつかのシャテルペロニアン洞窟遺跡があり、シャテルペロニアンはフランス南西部について以前に提案されてきたように、それ以前のイベリア半島の中部旧石器伝統に由来したわけではない、と示唆されます。しかし、この傾向には一つの例外があり、それがモラン洞窟(Cueva Morín)10層です。これは、燧石や粗粒珪岩や砂岩などさまざまな石材の使用と、典型的な中部旧石器(円盤状)とシャテルペロニアンの製作枠組みにより特徴づけられます。モラン洞窟10層は、11層の後期中部旧石器と10層のプロトオーリナシアン(Protoaurignacian)との間に直接的に位置します。この石器群は、中部旧石器とシャテルペロニアンとプロトオーリナシアン(最初期オーリニャック文化)の資料の混合として解釈されてきましたが、石材利用可能性と技術機能的要求への適応など、他の説明も主張されています。
いずれにしても、この収集物の一部は基本的に燧石で構成されており、アランバルッツァ2遺跡での観察とひじょうに類似しているいくつかの特徴を有する、明確なシャテルペロニアン石器群を表します。さらに、いくつかの遺跡では、エルミトン(Ermiton)やレクラウ・ヴィヴァー(Reclau Viver)やラギャエルガ(La Güelga)やエルペンド(El Pendo)やオスクラ(Oscura)洞窟やサンティマミニェ(Santimamiñe)やムガルデュイア(Mugardui)やアバウンツ(Abauntz)など、中部旧石器文脈のシャテルペロニアン尖頭器が報告されてきました。しかし、シャテルペロニアンの占有動態の観点では、これらの遺跡は慎重に検討されるべきです。
ビスケー湾周辺のシャテルペロニアン期における居住体系は、以下の事象に特徴づけられます。(1)基本的にシャテルペロニアン尖頭器製作を志向する燧石の露頭近くに位置する開地野営地など、さまざまな遺跡の種類の組み合わせです。具体的な遺跡には、アランバルッツァ2やレバステ(Le Basté)やビダール(Bidart)などがあります。(2)小さな石器群と比較的豊富なシャテルペロニアン尖頭器を有する狩猟野営地です。具体的な遺跡には、ラベコ・コバ(Labeko Koba)やエカイン(Ekain)やブラッセンパウイ(Brassempouy)などがあります。(3)モラン洞窟など洞窟においては、野営地はさほど多くありません。
基本的には燧石の作業場として機能したアランバルッツァ2遺跡におけるシャテルペロニアンの占有の特定は、イベリア半島北部におけるシャテルペロニアンの存在が周辺的だった、という認識を変えます。カンタブリア地域における開地旧石器時代考古学の発展の乏しさと、そうした遺跡の保存の地形学的制約と、シャテルペロニアンがおそらくはカンタブリア地域においてわずか数百年しか続かなかった事実は、限定的な記録と、したがってカンタブリア地域におけるシャテルペロニアンの低い可視性を説明できます。この居住パターンは、地域的な中部旧石器時代後期には確認されていません。イベリア半島北部における中部旧石器時代後期の遺跡は狩猟野営地として解釈されておらず、燧石の露頭近くの開地居住の大半は、アランバルッツァ2遺跡やレバステ遺跡やビダール遺跡との比較において、特定の石器の製作にあまり焦点を当てていないようです。
イベリア半島北部とピレネー山脈西部におけるシャテルペロニアンの年表は、おもにラベコ・コバ遺跡9層の放射性炭素年代に基づいており、較正年代で43850~40950年前頃となります。残念ながら、モラン洞窟10層の年代測定の全ての試みは結実せず、較正年代で40700~37700年前頃となるエカイン遺跡10a層の年代は、ラベコ・コバ遺跡やこの地域の初期オーリナシアン(Aurignacian)と比較して相対的に新しくなっています。コヴァ・フォラダダ遺跡4層の隅の標本から得られた3点の放射性炭素年代は統計的に相互に区別できず、同様に較正年代で41450~36900年前頃と新しい年代範囲を示唆します。
イベリア半島の地中海中側の縁に位置するコヴァ・フォラダダ遺跡4層については、顕著に新しい第四の年代(較正年代で36750~35750年前頃)が得られていますが、これはおそらく、炭の前処理手順の乱れです。アランバルッツァ2遺跡US4b層のOSL年代(43500±2900年前)は、人類の占拠自体よりは恐らくわずかに古く、較正年代で48000~45000年前頃となるこの地域における最新の中部旧石器よりも体系的に新しくなっています。アランバルッツァ2遺跡US4b層のOSL年代と、全て信頼でき、層序的によく制約された、フランスとスペインのシャテルペロニアンの加速器質量分析法(AMS)放射性炭素年代と熱ルミネッセンス(TL)法とOSLの年代は、ヨーロッパ南西部については、シャテルペロニアンの時間範囲との完全な一致を示し、本論文のベイズモデルでは43760~39220年前頃となります(図7)。以下は本論文の図7です。
アランバルッツァ2遺跡とラベコ・コバ遺跡のシャテルペロニアン石器群の本来の性質は、この地域における最新の中部旧石器とシャテルペロニアンとの間の年代の間隙、およびシャテルペロニアンと地域的な中部旧石器時代後期との間の石器管理および居住戦略のつながりの欠如とともに、中部旧石器とシャテルペロニアンとの間に不連続性があり、シャテルペロニアンはイベリア半島北部に侵入した、と明らかにします。つまり、イベリア半島北部のシャテルペロニアンの起源は他地域にあり、その後この地域にもたらされました。
この不連続性を説明できる一つのシナリオは、カンタブリア地域におけるネアンデルタール人の局所的絶滅、もしくは45000年前頃のネアンデルタール人集団によるこの地域の放棄かもしれません。カンタブリア地域はむしろ孤立した沿岸地域で、その峻険な地形のため、西部および中部は隣接地域(大西洋前面とメセタと呼ばれるイベリア半島北部高原)とあまりよく接続していません。それと比較して、カンタブリア地域東部はエブロ川流域やイベリア半島北部高原やヨーロッパの他地域への接近がより容易ですが、これでさえ、5万~4万年前頃の気候悪化により条件づけられたでしょう。
ビスケー湾で得られた堆積物コアMD04-2845の花粉データ、カンタブリア山脈から得られた氷河および湖沼学的代理は、50000~39000年前頃の温暖事象と強い寒冷事象の連続を示しており、これは最寒冷期には樹木被覆に大きな影響を及ぼし、(非ヒト)動物とヒトの集団に影響を与えた可能性が高そうです。石器技術管理や生計戦略や景観利用などさまざまな代理が示すのは、MIS4~3の過酷な気象事象においてネアンデルタール人集団が居住地の移動性を高めて利用領域を拡大した、ということです。この過酷な気候事象は、生態系生産性の低下と関連しており、同じ領域がより小さい人口集団を維持できるだけになったことにつながったでしょう。
より少ない人口集団とより大きな領域は、集団間の接触の少なさを意味する可能性が高そうです。エルシドロン(El Sidrón)洞窟遺跡の中部旧石器時代後期人口集団における近親婚の存在を示唆する研究(関連記事)は、このパターンと一致するでしょう。つまり、限定的な遺伝子流動、他のネアンデルタール人共同体との散発的接触、遺伝的に関連する疾患の流行です。これらの状況下で、48000年前頃以後のこの地域におけるネアンデルタール人集団の存在は、利用可能な年代の数により裏づけられてきたように(関連記事)おそらく疎らで、イベリア半島北部の中部および東部は、フランス南部シャテルペロニアン複合を開発した集団にとって、利用可能な拡大地域となりました。
可能性がひじょうに高そうなのは、シャテルペロニアンがネアンデルタール人の所産という蓄積された証拠(関連記事)により示唆されているように、これらの集団はネアンデルタール人だった、ということです。最初期のプロトオーリナシアンは伝統的に現生人類(Homo sapiens)と関連づけられており、アランバルッツァ2遺跡で認識される最初の地域的なシャテルペロニアンの後ですぐにイベリア半島北部に出現しました。プロトオーリナシアンはエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟遺跡やラベコ・コバ遺跡において較正年代で43000~42000年前頃までに特定されてきており、ラベコ・コバ遺跡9層のシャテルペロニアンの年代(較正年代で43000~41400年前頃)とほぼ重なり(関連記事)、オーリナシアンはその後すぐに、イベリア半島西部に存在しました。これは恐らく、イベリア半島北部におけるシャテルペロニアンの比較的短い期間と、ヨーロッパ西部に到来した最初の現生人類による最後のネアンデルタール人の急速な置換を反映しています。このシナリオは、絶滅直前の後期ネアンデルタール人集団の複雑な進化的(歴史的)軌跡と一致します(関連記事1および関連記事2)。
参考文献:
Rios-Garaizar J, Iriarte E, Arnold LJ, Sánchez-Romero L, Marín-Arroyo AB, San Emeterio A, et al. (2022) The intrusive nature of the Châtelperronian in the Iberian Peninsula. PLoS ONE 17(3): e0265219.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0265219
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