『カムカムエヴリバディ』完結

 放送開始前から本作の脚本への個人的期待値が高く、安子編の終了時(関連記事)とひなた編半ばまでの時(関連記事)に感想を述べましたが、完結したので、改めて全体的な感想を述べます。以前の記事でも述べたように、私は本作を岡山編(安子編)と大阪編(るい編)と京都編(ひなた編)に区分していましたが、完結した今となっては、京都編を1980年代(京都編)と1990年代以降の収束編に四区分した方がよいかな、と考えているので、以下はこの区分を採用します。

 朝ドラで主人公の演者が年齢により異なることは珍しくありませんが、本作はおそらく朝ドラで初となる、祖母と母と孫の三代を主人公とする物語となります。これが成功したのかというと、最後に三代の物語が一応は収束したとは言えるとしても、断絶感の方が強く印象に残ってしまい、少なくとも放送開始前の期待値には届かなかった、というのが率直な感想です。この個人的印象を整理するために、本作の重要な構成要素である英語と餡子とジャズと野球と時代劇について、四区分それぞれでの重要性を5段階で評価してみました。数字は左から英語・餡子・ジャズ・野球・時代劇です。

岡山編─5・5・5・3・2
大阪編─1・1・5・2・3
京都編─3・4・1・3・5
収束編─5・4・5・4・5

 こうして整理してみると、岡山編と大阪編と京都編を通じて継続して重視された(評価5)構成要素がありません。ここが、物語の連続性として弱いところになっているように思います。人間関係のつながりも、岡山編と大阪編は柳沢定一が重要な役割を担ったものの、登場は回想場面だけで弱く、大阪編と京都編も直接的には野田一子が登場しただけでした。何よりも物語としての連続性で弱いのは、最初の主人公である安子が岡山編で退場し、その後の動向が収束編の後半になってやっと描かれたことです。しかも、安子がアニー平川として登場してから長く、安子だと強く示唆されてはいたものの、安子だと決定的に明かされたのは最終週の火曜日でした。この構成は謎解き要素の点で楽しめたとはいえ、最後に主人公三代がそろったこと考えると、大阪編と京都編から多少は安子の動向が描かれていてもよかったのではないか、とも思います。

 完結した今となっては、大阪編と京都編で安子の動向が描かれなかったことと共に、「るい」の人物造形と言動も物語としての連続性の弱さにつながっているように思います。上述の安子編終了時の記事では、安子と娘の「るい」との別れについて、基本的には説得力がある話だったと評価し、それは完結した今でも変わりません。問題となるのは、その後の「るい」の行動です。「るい」が岡山から出たことは、母親のこともあって色々と噂され、また雉真家には年下の跡取りがいることもあり、居づらさを感じていたでしょうから、納得できます。ただ、祖父の千吉と叔父の勇には可愛がられていたようですし、勇の妻の雪衣から冷たく扱われていたのかな、と思っていたらそうでもなさそうですから、雉真家から離れて自力で生きていきたいとの気持ちは分かるものの、30年以上の音信不通には納得のいかないところがあります。また勇は「るい」と再開した時に、「るい」が連絡してこないことを覚悟していた、と発言していましたが、勇の性格からすると、「るい」の身を案じて連絡を取ろうとするのではないか、とも思います。

 こうした話のつながりの弱さとともに、本作で批判が多そうなのは幻想的要素で、それは「るい」と一度も会ったことのない父の稔の霊との会話や、「ひなた」と平川唯一の霊とのやり取りです。ただ、「るい」と稔との会話については、「るい」が稔の顔やその言動や人となりを安子から多少なりとも聞いて知っており、ジョーとの出会いや岡山への帰郷などで「るい」の安子への想いがかなり変わっていったことも描かれていましたから、「るい」の心象風景としては説得的だったと思います。問題は「ひなた」と平川の霊とのやり取りで、こちらも「るい」の心象風景であり、「るい」がそれを娘「ひなた」に伝える、という構成ならば説得的だったかな、とは思います。

 アニーと名乗った80歳近い安子が、追いかけてくる30代後半の「ひなた」を長く走った末に振り切った終盤の描写も、主人公三代の再会がなかなか叶わないことを象徴的に描いた「ひなた」と「るい」、さらには視聴者の心象風景と考えるとよいのかもしれませんが、単に、戦前の小さな和菓子屋に生まれた安子と、高度経済成長期に生まれた「ひなた」では、子供の頃の過ごし方から基礎体力が大きく違っていた、とも解釈できるようにも思います。また、勇が青年期と老年期で人物造形に明確な一貫性があり、老年期を演じた目黒祐樹氏も強く意識していたように思われるのに対して、老年期で演者が交代した安子は、外見も含めて人物造形の一貫性で弱かったように見えました。これも本作のつながりの弱さとなります。配役の問題として、親子や祖母と孫などを同一人物が親族を演じたのは、視聴者を混乱させたという点で、問題だったように思います。せめて、赤螺家の吉兵衛と吉右衛門だけにしておくべきだった、と考えています。また、かなり最終回が詰め込み気味だったことは、おそらく当初の予定より短い放送期間になったことを考えても、やや問題だったように思います。

 色々と不満を述べてきましたが、これは、脚本と、主演として上白石萌音氏と深津絵里氏が起用されたことにより、放送開始前の期待値がひじょうに高かったからで、全体的にはひじょうに楽しめました。脚本と演出については、上述のように放送開始前の期待値からは不満もありますが、上白石萌音氏は期待値以上でしたし、深津絵里氏はとくに終盤の演技が圧巻でした。本作を貫く重要な底流とも言える親子間の断絶と和解は、主人公3人だけではなく、金太と算太、赤螺家の吉兵衛と吉右衛門、桃山剣之介の初代と二代といったその周囲の人物も描かれ、ここは本作の見どころになっていたと思います。とくに、安子と「るい」、および「るい」と「ひなた」関係性の対比には考えさせられるところがありました。夫が戦死し、兄に裏切られ、勇の求婚を断って雉真家にいられなくなった安子が、娘の「るい」にも拒絶されて娘との親子関係を諦めてしまったのに対して、「るい」には精神的な支えとしての夫のジョーがおり、すぐに「ひなた」と和解できました。安子は人柄が良く愛情深い人物でしたが、そうした人物でも窮地に追い込まれると、無責任な立場の第三者から見て倫理的に問題のある行動を取ってしまうこともあるものだと思います。また終盤になって明かされた、本作が、「ひなた」とその子供の頃に偶然出会ったビリーとの英会話講座での語りだった、という構成はよかったと思います。不満は小さくないものの、ひじょうに楽しめたことも確かなので、時間に余裕ができれば再視聴したいものです。

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