チベット高原の中期更新世人類の手と足の痕跡
取り上げるのが遅れてしまいましたが、チベット高原の中期更新世人類の手と足の痕跡を報告した研究(Zhang et al., 2021)が公表されました。芸術の形態での行動表現はホモ属の特徴であり、手は壁面芸術(固定した岩の表面の絵画と描画と彫刻)内で特定される最初の画題の一つです。洞窟壁画におけるステンシル(物体を表面に置き、その上から塗装することで、表面に図を残すこと)としての手の使用は、インドネシアのスラウェシ島(関連記事)とスペインのエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟(関連記事)で4万年前頃にさかのぼります。本論文は、チベット高原の却桑(Quesang)の化石温泉(海抜4269m、北緯30度00分、東経90度46分07秒)の、一連の以前には報告されていなかった手と足の痕跡を報告します(図1および図2)。以下は本論文の図1です。
本論文の主張は、これらの痕跡が軟質石灰華(石化前)に刻み込まれ、石灰華が石化した後には刻まれなかった、というものです。ウラン系列年代測定に基づくと、痕跡が残された石灰華構成単位の年代は、226000~169000年前頃です。痕跡の大きさに基づくと、痕跡を残したのは2人の子供の可能性が高く、イタリアのロコモンフィナ(Rocomonfina)痕跡遺跡の研究で報告されているように、通常の移動中もしくは動作を安定させるための手の使用により残されたわけではありません。したがって、意図的な痕跡の作成は壁面芸術(parietal art)の初期の活動だった可能性が高い、と本論文は主張します。しかし、芸術を構成するものはかなりの議論の対象になっており、これを芸術として受け入れずとも、却桑遺跡はチベット高原における人類の存在の最初の証拠を提供します。以下は本論文の図2です。
活発な却桑温泉は、チベットのラサ市の北西約80kmの、熊渠川(Xiong Qu River)支流沿いの却桑村の近くに位置します(図1a)。1988年に、本論文の筆頭著者である張大鵬(David D.Zhang)氏は、温泉浴場の近くで手形と足跡を発見しました(関連記事)。2018~2020年の最近の調査で、壁面芸術の可能性のある痕跡が発見されました。チベット高原では熱水泉と石灰華の堆積は一般的で、南北に走る活断層系に沿って優先的に発生します。却桑では、化石温泉および活温泉の両方と関連する石灰華が、化石温泉のある坂に沿って扇状の単板を形成し、一般的な扇形から生じる局所的な円形の塚を形成します。本論文で報告される痕跡は、小さな岩の突角の上の局所的斜面の基部に向かって見つかりました(図1b)
●生痕化石
却桑では新たな場所で手形と足跡が5点ずつ回収されました(図1cおよび図2)。最終的な解釈を害することなく、以下で参照を容易にするため、これらの痕跡は「壁面芸術」と総称されます。芸術区画は、4点の右の足跡(に加えて1点は左が重ねられたもの)と5点の手形で構成されています(図2および図3a~d)。足跡は平均的大きさが192.26±5.35mm(踵から第2指まで)で、痕跡を残した推定人数は最小で1個体です。足跡は現生人類の生痕化石と類似しており、他の遺跡の現代および化石足跡と一致する寸法比および形態です。
現代人(356点)とナミビア(78点)およびアメリカ合衆国のホワイトサンズ国立公園(33点)の化石足跡一式との幾何学形態測定比較は、広い類似性を示します。芸術区画の足跡は、ホワイトサンズ国立公園の足跡と類似の空間に位置します。成長曲線は、この足跡を残したのが、その大きさから平均7.75±0.12歳の現生人類(Homo sapiens)の子供と同年代だった、と示唆します。2点の右の足跡(ZWF21とZWF22)は、形態的にわずかに広がった母趾、顕著な爪先変形足跡、よく定義された踵と類似しています。縦方向の内側土踏まずは発達が不充分で、足底表面は平らです。
これら2点の足跡は、中心傾向の共記載と測定計算により、平均形態を計算するために用いられました。他の2点の足跡は、わずかに異なる形態を提示します。ZWF23は重なった左右の足で構成されていますが、ZWF24は、遠位の爪先の長さが顕著に類似し、足跡の前端が異常に真っ直ぐになっており、解読がより困難です(図2)。爪先足跡は、隣接する足跡よりもずっと小さくて円形で、一団となったか丸まった爪先および第一指と第二指の爪先周辺の回転と一致する、垂直方向の痕跡を示唆しているかもしれません。足跡が柔らかい泥の中の指の動きにより増加した可能性もあります。以下は本論文の図3です。
手の痕跡は形態的により多様ですが、現代人の手の参照データと一致します。手の長さと幅の比率は現代人の範囲内に収まりますが、指がより長くなっています。手の平均的長さは161.07±2.72mmで、現代人の成長曲線を用いると、平均年齢12.17±0.18歳の子供と同等です。他の手の大きさは、成人と同等(平均年齢17.15±0.43歳)の中指の長さを除いて、類似の年齢推定値を示します。ZWH12とZWH14は完全な掌紋がないので、指が伸びたことつながる滑りがあったかもしれません。
これは、ZWH11では信頼性の低い説明で、ZWH13とZWH15の指の大きさは、あまり明確に定義されていません。この跡を残した個体は長い指を持っていたかもしれず、足跡を残した個体よりも年長だった可能性があります。ZWH13の場合、前腕の痕跡が掌紋から伸びており、定置のさいの親指の移動(外転と内転)の証拠を示し、より広い痕跡を生み出します。ZWH1とZWH14は、1組の手形(左右に一つずつ)かもしれませんが、ZWH14はZWH21およびZWH24の定置により変形しています(図2および図3および図4)。以下は本論文の図4です。
構図には注意が払われているようで、一部の足跡は交差していますが、利用可能な空間に明確に配置されています。以下の順序が明らかです(図4)。手形と前腕(ZWH13)が最初に刻み込まれました。ZWF23の変形爪先は、ZWF24の内側爪先と同様に、前腕の輪郭を変形させました。ZWF14はZWF23の後に刻み込まれましたが、ZWF24の前となります。要注意なのは、この足跡の人差し指の先端が、ZWF24により横方向にどのように動かされたのか、ということです。ZWF12の親指は、ZWF24の内側爪先を侵害したので、次に来てZWH11の指を広げ、ZWH24への損傷を避けました。ZWH14は、掌の圧縮と、ZWF21の配置により、さらに変形しました。ZWF21の内側爪先は圧縮されており、ZWF22の刻み込みと関連する浅い浮き彫りの曲線変形隆起を示します。ZWF15が最後の痕跡だったように見えますが、元々はもっと左に伸びていたかもしれません。
●層序学と地質年代学
年代測定には、炭酸塩堆積物の年代測定に広く適用されるウラン系列法が用いられました。却桑の密な石灰華層の厚さは200~2000mmで、生物攪乱の証拠はありません。芸術区画は、岩だらけの角を構成する4点の石灰華ユニット(1~4)の一つにあります(図1b)。ユニット4は距状突起の堆積を形成し、その後のユニットの堆積前に風化して侵食されました。局所的には、ユニット3の石灰華はユニット4由来の石灰華角礫岩と崩積物および河川の砂利を固めているように見えます。断層とそれに関連する岩の少数の移動が、4ユニット全ての堆積後に起き、芸術区画の上の地層を除去したかもしれません。
芸術区画の年代測定は、全ての足跡が軟質石灰華に刻み込まれることと、現代の温泉での野外観察が、続成作用は一方向で、岩の硬化は通常、水の供給が断たれて2年以内に起きることを示唆する事実に依拠しています(図5)。したがって、芸術区画の年代は、それが刻み込まれた石灰華ユニットの年代と同等とみなされます。芸術区画はその上に重なる地層なしで発見されましたが、ユニット2は、それ以降の年代を提供するユニット1が横で上側に、それ以前の年代を提供するユニット3が下に位置する、と示されます。以下は本論文の図5です。
石灰華標本のほとんどは再結晶が殆ど若しくは全くない不純物をほとんど含んでいないので、ウラン-トリウム年代測定に使えます。50点以上の標本が採取され、そのうち43点で年代測定に成功しましたが、20×10⁻⁶を超えるウラン230/トリウム232比の標本はそのうち33点でした。この閾値は、信頼できるウラン-トリウム年代の下限比率として本論文では用いられ、この閾値を超える比率の年代のみが、年代モデル化に用いられます(図6)。ユニット2の年代範囲は219200±10500~185700±15740年前です。
注意すべきは、芸術区画(ZWH15)の手形の縁の年代が、それぞれ187700±9600年前(ZWH15-1)と207300±9400年前(ZWH15-2)であることです。離散データ点の基礎的分布を決定し、確固たる年代範囲を提供するため、OxCal 4.4.2のカーネル密度推定(KDE)モデル関数が適用されました。さらに、ユニット2の開始年代と終了年代を決定するため、期間関数と境界関数が用いられました。モデル化の結果、ユニット2の年代は95.4%、の信頼度で215000~153000年前と示されました。OxCal境界関数を用いると、ユニット2の境界後のあり得る下限年代は169000年前頃で、境界前のあり得る上限年代は226000年前でした(図6)。以下は本論文の図6です。
2019年と2020年の調査団の現地訪問の間に、岩の一部が人為的もしくは不明な過程で破損しました。しかし、破損した断片は回収され、芸術区画の破損部分で埋め尽くされていると分かり、その出所が確認されました。断片にはZWH15の指の痕跡2点が含まれます。この断片の表面が研磨され、年代測定標本がドリルを用いて抽出されました。第一指と第二指により押し上げられた隆線の標本の年代は、187700±9600年前と207300±9400年前でした。これをまとめると全ては、ユニット2が226000~169000年前頃の間に堆積し、この間の芸術区画の年代が関連づけられます。
これらの観察から、3点の基本的な問題が生じます。第一に、足跡は著者たちにより解釈された自然な痕跡を表していますか?第二に、これらの痕跡は芸術を構成しますか?第三に、足跡は完新世やチベット高原の恒久的居住について現在受け入れられている年代に先行しますが、これには異論が呈されてきました(関連記事)。以下、これらの問題が順に取り上げられます。
●自然な痕跡なのか
重要な問題の一つは、足跡が軟質石灰華に残されたのか、それとも石化後だったのか、ということです。本論文の著者たちは経験豊富な生痕化石学者として、前者を公然と支持しますが、発見の潜在的影響を考えると、代替的な仮説を慎重に検討する必要があります。図5aは一連の3点の手の痕跡を示しており、これは2019年に現在の温泉の近くの石灰華に本論文の最終著者が作成したものです。
以下の6点に要注意です。(1)痕跡の解剖学的形態と大きさ。(2)掌の後方への縁もしくは押し上げ構造(痕跡1、図5a)と、痕跡1の横方向の端に沿った全ての痕跡の指の間の堆積物排出(図5a)。(3)横方向の堆積物移動に起因する、最新の足跡が隣接する足跡に影響を及ぼすさいに見える痕跡への明確な順序・系列。(4)さまざまな指圧、足底力、指の横方向の移動と関連する、差異を示す指の幅と深さ。(5)滑らかな指・掌とその周辺領域との間の表面質感の対照と、痕跡の上に水が通ることによる、痕跡間の悪化。欠如しているのは、(6)打撃もしくは他の道具の跡です。これら6点の基準は、芸術区画に重要な検証を提供します。
解剖学的に、形態と大きさの両方の点で、芸術区画の足跡は内部で一貫しており、それを残した者の合理的な年齢推定値が得られます(つまり、異常な大きさのヒトが残したわけではありません)。足跡の形態は他の参照資料と一致していますが、ZWF24の形態は自然な痕跡としては異常で、そうした痕跡が残るには、複雑な一連の足の移動が必要でしょう。ZWF23の痕跡も、その形態を説明するには二重の歩みが必要です。つまり、一方の足で最初の痕跡を残し、次にもう一方の足をその足跡に置き、足跡の踵と長軸をそろえました。
しかし、その形態は、多くのペトログリフ(岩石線刻)遺跡で見られる手足の画題よりも正確ですが、ステンシルが用いられた岩石芸術遺跡にはありません。これはかなりの弱点です。なぜならば、この議論のどちらかの主張を支持する遺跡もしくは事例を常に見つけられるからです。さらに、イスラム教徒と仏教徒の預言者の崇拝では正確に彫られた足の画題が一般的なので、注意が必要です。これらの寺院の足跡は通常、良好な解剖学的形態を有しており、典型的な深さの変動がありますが、重大なことに、成人の足で構成されており、通常は両足の組み合わせで見られます。解剖学だけに基づく痕跡の証拠は決定的ではないので、自然な偏見の影響を受けます。しかし、(2)と(3)の基準は、痕跡のより明確な証拠を提供します。図4で示されるように、押し上げ構造、交差切断パターン、別の痕跡による横方向の変形が存在します。痕跡が刻まれたならば、なぜこれらが含まれるのでしょうか?
さらに、芸術区画の足跡は空間的に深さが異なり、明確な踵の接地領域、および内側の指と関連するより大きな深さがあり、そのすべては足底圧の定型的パターンと一致します。指の幅と深さは、現代の類似の手形と同じように異なります(図5a・b)。痕跡の表面の質感は、周囲の領域と比較して、滑らかで圧縮されています(図3a~d)。これにより、最終的な基準として、道具の跡の有無が残ります。芸術区画では3点の直線的な線一式が見え(図2の黒色矢印)、鑿もしくは他の道具の跡を表している可能性があります。それらは、通常は接合制御された剥離により作られた可能性もあります。幅が数mmの孤立した線状の引っ掻き傷が何ヶ所かに存在しますが、広範ではなく、石の作業と一致するパターンを形成しません。石灰華のペトログリフ遺跡で観察されたものと同様に、もしくは以前の研究での実験的跡と類似して、打撃痕はありません。爪先と指の肉質部は丸みを帯びており、輪郭は滑らかです(図3c)。
この6点の基準を適用した結果、芸術区画は彫られたのではなく刻み込まれた、というのが最節約的な説明と考えられます。さらに、現在の浴場周辺で過去に発見された手形と足跡は、自然の痕跡である、という総意が存在します。これら一連の足跡のうち1点(図3e)も、壁面芸術の事例で、指による溝の報告されていない事例を含む、と示唆されます。図3aおよびeの単純な比較が示すように、一方が自然で他方がそうではない、と示唆する形態もしくは表面質感の違いはありません。しかし、完新世の足跡の周辺領域はより磨かれており、巡礼者が繰り返し触ったことを反映しています
●芸術なのか
芸術の定義は、適用される定義に依存します。ギリシア語の概念模倣を通じて、アリストテレスは潜在的な定義を提供します。本論文では、芸術とは何か他のもののコピーです。芸術として定義されるもののほとんどは、模倣芸術の概念で注目すべき変化が起きた19世紀後半から20世紀初期まで、この定義に合致します。模倣の定義では、芸術家は何かを見てそれを模倣しますが、それがさらに発展する可能性もあります。チベット高原の芸術区画はこの基本的な基準を満たしていますが、それ自体が独自に発展しています。痕跡の配置は自然に発生するようなものではなく、移動により感覚が空くか、手を安定させるために配置しています。むしろ、この痕跡を残した「芸術家」は、人生経験を通じてすでに知っていた形態を採用し、その足跡を残し、通常では現れないだろう状況とパターンで再現しました。これは、人生経験では通常は見られない、手形の追加によりさらに明確になります。
芸術区画の文脈で以前の研究は、芸術は必ずしも尊敬される客体もしくは表現ではないものの、美的構成を形成する項目であり、その様式は作成者の視点に由来し、それゆえに独特な種類の美的統一を生み出す、と述べています。それは以前の研究の定義にも通ずるもので、その研究では、カントに由来するに違いない卓越した技術が、様式の伝統や芸術として受け入れられるべきという作者の意図とともに強調されます。一方、別の研究が示唆するのは、芸術は楽しみや遊びや装飾といった単純な目的の余暇から生まれ、暇なもしくは遊んでいる動きの瞬間の行動が、そうした定義に当てはまるだろう、ということです。泥遊びをして、遊んでいる間に一連のモザイク状の痕跡を意図的に作った2人の子供は、おそらく却桑遺跡にあるもので、上述の芸術の定義のほとんどに当てはまります。
結局、ほとんどの親は自分の子供のあやふやな芸術的試みを芸術として表現し、誇らしげにそれを見せます。さらに、芸術区画は、壁面芸術の一般的事例として受け入れられている、手のステンシルにより、芸術的伝統に該当します(関連記事)。旧石器時代洞窟芸術家としての子供の伝統も確立されています。したがって、さまざまな定義が可能であることを考えると、異論もあるかもしれませんが、本論文で述べられた手足の痕跡の構成は、さまざまな定義の下で「芸術」を構成する、と結論づけられます。
●完新世よりも前なのか
足跡の年代測定は、発掘された上層ユニットのない、足跡のあるユニット2の石灰華の年代測定に依存することを前提としています。足跡のあるユニットの上に発掘されたユニットがないことは理想的ではありませんが、この却桑遺跡は、足跡の残る層の年代に基づいて年代測定された最初の遺跡ではありません。水の供給源が断たれた場合は石化が一方向の過程であることを考えると(図5b)、これは不合理な仮定ではなく、却桑遺跡の芸術の年代は226000~169000年前頃と示唆されます。ユニット2の上に横方向にあるものも論証でき、その上層はユニット2よりも新しい年代です。
●含意
結局、芸術区画は自然に残された人類の足跡から構成され、壁面芸術の合理的な定義に合致し、中期更新世の石灰華層へと刻み込まれた、と結論づけられます。したがって、却桑遺跡全体の充分な調査が行なわれるまでは、この芸術区画は中期更新世と年代測定された壁面芸術の事例である可能性が高い、と提案されます。もしこの提案が科学界に受け入れられるならば、この種の芸術活動の年代は大きく拡大されることになるでしょう。現時点で、洞窟壁画における手の画題を含むこの種の(ほぼ確実な)最古級の芸術の年代は、東方ではスラウェシ島の45000年以上前(関連記事)、西方ではスペインのエルカスティーヨ洞窟の4万年前頃(関連記事)となります。本論文はさまざまな芸術的試みを比較していますが、要点は、身体の一部を芸術装置として使うことはホモ属内の長い伝統で、本論文はその年代を拡張する、ということです。
ユニット2の年代を考えると、却桑遺跡の芸術家は現生人類だったかもしれませんが、より可能性が高いのは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)です。なぜならば、16万年以上前となるデニソワ人的な人類が、最近になってチベット高原の端の中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見されたからです(関連記事)。最近の研究では、中国における現生人類の後期到来説がDNAに基づいて主張されており(関連記事)、これも早期にはデニソワ人が足跡を残した人類だったことを示唆しているかもしれません。現代チベット人にデニソワ人的なDNAが確認されていること(関連記事)も、注目に値します。もし却桑遺跡の足跡を残したのがデニソワ人であれば、現生人類の成長モデルを用いて年齢を推定することの妥当性には疑問が残りますが、デニソワ人について現時点で利用可能な身体化石では、デニソワ人が現生人類とは根本的に異なる身体形態を有していた、と示唆するものはほとんどありません(関連記事)。
参考文献:
Zhang D. et al.(2021): Earliest parietal art: hominin hand and foot traces from the middle Pleistocene of Tibet. Science Bulletin, 66, 24, 2506-2515.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.09.001
本論文の主張は、これらの痕跡が軟質石灰華(石化前)に刻み込まれ、石灰華が石化した後には刻まれなかった、というものです。ウラン系列年代測定に基づくと、痕跡が残された石灰華構成単位の年代は、226000~169000年前頃です。痕跡の大きさに基づくと、痕跡を残したのは2人の子供の可能性が高く、イタリアのロコモンフィナ(Rocomonfina)痕跡遺跡の研究で報告されているように、通常の移動中もしくは動作を安定させるための手の使用により残されたわけではありません。したがって、意図的な痕跡の作成は壁面芸術(parietal art)の初期の活動だった可能性が高い、と本論文は主張します。しかし、芸術を構成するものはかなりの議論の対象になっており、これを芸術として受け入れずとも、却桑遺跡はチベット高原における人類の存在の最初の証拠を提供します。以下は本論文の図2です。
活発な却桑温泉は、チベットのラサ市の北西約80kmの、熊渠川(Xiong Qu River)支流沿いの却桑村の近くに位置します(図1a)。1988年に、本論文の筆頭著者である張大鵬(David D.Zhang)氏は、温泉浴場の近くで手形と足跡を発見しました(関連記事)。2018~2020年の最近の調査で、壁面芸術の可能性のある痕跡が発見されました。チベット高原では熱水泉と石灰華の堆積は一般的で、南北に走る活断層系に沿って優先的に発生します。却桑では、化石温泉および活温泉の両方と関連する石灰華が、化石温泉のある坂に沿って扇状の単板を形成し、一般的な扇形から生じる局所的な円形の塚を形成します。本論文で報告される痕跡は、小さな岩の突角の上の局所的斜面の基部に向かって見つかりました(図1b)
●生痕化石
却桑では新たな場所で手形と足跡が5点ずつ回収されました(図1cおよび図2)。最終的な解釈を害することなく、以下で参照を容易にするため、これらの痕跡は「壁面芸術」と総称されます。芸術区画は、4点の右の足跡(に加えて1点は左が重ねられたもの)と5点の手形で構成されています(図2および図3a~d)。足跡は平均的大きさが192.26±5.35mm(踵から第2指まで)で、痕跡を残した推定人数は最小で1個体です。足跡は現生人類の生痕化石と類似しており、他の遺跡の現代および化石足跡と一致する寸法比および形態です。
現代人(356点)とナミビア(78点)およびアメリカ合衆国のホワイトサンズ国立公園(33点)の化石足跡一式との幾何学形態測定比較は、広い類似性を示します。芸術区画の足跡は、ホワイトサンズ国立公園の足跡と類似の空間に位置します。成長曲線は、この足跡を残したのが、その大きさから平均7.75±0.12歳の現生人類(Homo sapiens)の子供と同年代だった、と示唆します。2点の右の足跡(ZWF21とZWF22)は、形態的にわずかに広がった母趾、顕著な爪先変形足跡、よく定義された踵と類似しています。縦方向の内側土踏まずは発達が不充分で、足底表面は平らです。
これら2点の足跡は、中心傾向の共記載と測定計算により、平均形態を計算するために用いられました。他の2点の足跡は、わずかに異なる形態を提示します。ZWF23は重なった左右の足で構成されていますが、ZWF24は、遠位の爪先の長さが顕著に類似し、足跡の前端が異常に真っ直ぐになっており、解読がより困難です(図2)。爪先足跡は、隣接する足跡よりもずっと小さくて円形で、一団となったか丸まった爪先および第一指と第二指の爪先周辺の回転と一致する、垂直方向の痕跡を示唆しているかもしれません。足跡が柔らかい泥の中の指の動きにより増加した可能性もあります。以下は本論文の図3です。
手の痕跡は形態的により多様ですが、現代人の手の参照データと一致します。手の長さと幅の比率は現代人の範囲内に収まりますが、指がより長くなっています。手の平均的長さは161.07±2.72mmで、現代人の成長曲線を用いると、平均年齢12.17±0.18歳の子供と同等です。他の手の大きさは、成人と同等(平均年齢17.15±0.43歳)の中指の長さを除いて、類似の年齢推定値を示します。ZWH12とZWH14は完全な掌紋がないので、指が伸びたことつながる滑りがあったかもしれません。
これは、ZWH11では信頼性の低い説明で、ZWH13とZWH15の指の大きさは、あまり明確に定義されていません。この跡を残した個体は長い指を持っていたかもしれず、足跡を残した個体よりも年長だった可能性があります。ZWH13の場合、前腕の痕跡が掌紋から伸びており、定置のさいの親指の移動(外転と内転)の証拠を示し、より広い痕跡を生み出します。ZWH1とZWH14は、1組の手形(左右に一つずつ)かもしれませんが、ZWH14はZWH21およびZWH24の定置により変形しています(図2および図3および図4)。以下は本論文の図4です。
構図には注意が払われているようで、一部の足跡は交差していますが、利用可能な空間に明確に配置されています。以下の順序が明らかです(図4)。手形と前腕(ZWH13)が最初に刻み込まれました。ZWF23の変形爪先は、ZWF24の内側爪先と同様に、前腕の輪郭を変形させました。ZWF14はZWF23の後に刻み込まれましたが、ZWF24の前となります。要注意なのは、この足跡の人差し指の先端が、ZWF24により横方向にどのように動かされたのか、ということです。ZWF12の親指は、ZWF24の内側爪先を侵害したので、次に来てZWH11の指を広げ、ZWH24への損傷を避けました。ZWH14は、掌の圧縮と、ZWF21の配置により、さらに変形しました。ZWF21の内側爪先は圧縮されており、ZWF22の刻み込みと関連する浅い浮き彫りの曲線変形隆起を示します。ZWF15が最後の痕跡だったように見えますが、元々はもっと左に伸びていたかもしれません。
●層序学と地質年代学
年代測定には、炭酸塩堆積物の年代測定に広く適用されるウラン系列法が用いられました。却桑の密な石灰華層の厚さは200~2000mmで、生物攪乱の証拠はありません。芸術区画は、岩だらけの角を構成する4点の石灰華ユニット(1~4)の一つにあります(図1b)。ユニット4は距状突起の堆積を形成し、その後のユニットの堆積前に風化して侵食されました。局所的には、ユニット3の石灰華はユニット4由来の石灰華角礫岩と崩積物および河川の砂利を固めているように見えます。断層とそれに関連する岩の少数の移動が、4ユニット全ての堆積後に起き、芸術区画の上の地層を除去したかもしれません。
芸術区画の年代測定は、全ての足跡が軟質石灰華に刻み込まれることと、現代の温泉での野外観察が、続成作用は一方向で、岩の硬化は通常、水の供給が断たれて2年以内に起きることを示唆する事実に依拠しています(図5)。したがって、芸術区画の年代は、それが刻み込まれた石灰華ユニットの年代と同等とみなされます。芸術区画はその上に重なる地層なしで発見されましたが、ユニット2は、それ以降の年代を提供するユニット1が横で上側に、それ以前の年代を提供するユニット3が下に位置する、と示されます。以下は本論文の図5です。
石灰華標本のほとんどは再結晶が殆ど若しくは全くない不純物をほとんど含んでいないので、ウラン-トリウム年代測定に使えます。50点以上の標本が採取され、そのうち43点で年代測定に成功しましたが、20×10⁻⁶を超えるウラン230/トリウム232比の標本はそのうち33点でした。この閾値は、信頼できるウラン-トリウム年代の下限比率として本論文では用いられ、この閾値を超える比率の年代のみが、年代モデル化に用いられます(図6)。ユニット2の年代範囲は219200±10500~185700±15740年前です。
注意すべきは、芸術区画(ZWH15)の手形の縁の年代が、それぞれ187700±9600年前(ZWH15-1)と207300±9400年前(ZWH15-2)であることです。離散データ点の基礎的分布を決定し、確固たる年代範囲を提供するため、OxCal 4.4.2のカーネル密度推定(KDE)モデル関数が適用されました。さらに、ユニット2の開始年代と終了年代を決定するため、期間関数と境界関数が用いられました。モデル化の結果、ユニット2の年代は95.4%、の信頼度で215000~153000年前と示されました。OxCal境界関数を用いると、ユニット2の境界後のあり得る下限年代は169000年前頃で、境界前のあり得る上限年代は226000年前でした(図6)。以下は本論文の図6です。
2019年と2020年の調査団の現地訪問の間に、岩の一部が人為的もしくは不明な過程で破損しました。しかし、破損した断片は回収され、芸術区画の破損部分で埋め尽くされていると分かり、その出所が確認されました。断片にはZWH15の指の痕跡2点が含まれます。この断片の表面が研磨され、年代測定標本がドリルを用いて抽出されました。第一指と第二指により押し上げられた隆線の標本の年代は、187700±9600年前と207300±9400年前でした。これをまとめると全ては、ユニット2が226000~169000年前頃の間に堆積し、この間の芸術区画の年代が関連づけられます。
これらの観察から、3点の基本的な問題が生じます。第一に、足跡は著者たちにより解釈された自然な痕跡を表していますか?第二に、これらの痕跡は芸術を構成しますか?第三に、足跡は完新世やチベット高原の恒久的居住について現在受け入れられている年代に先行しますが、これには異論が呈されてきました(関連記事)。以下、これらの問題が順に取り上げられます。
●自然な痕跡なのか
重要な問題の一つは、足跡が軟質石灰華に残されたのか、それとも石化後だったのか、ということです。本論文の著者たちは経験豊富な生痕化石学者として、前者を公然と支持しますが、発見の潜在的影響を考えると、代替的な仮説を慎重に検討する必要があります。図5aは一連の3点の手の痕跡を示しており、これは2019年に現在の温泉の近くの石灰華に本論文の最終著者が作成したものです。
以下の6点に要注意です。(1)痕跡の解剖学的形態と大きさ。(2)掌の後方への縁もしくは押し上げ構造(痕跡1、図5a)と、痕跡1の横方向の端に沿った全ての痕跡の指の間の堆積物排出(図5a)。(3)横方向の堆積物移動に起因する、最新の足跡が隣接する足跡に影響を及ぼすさいに見える痕跡への明確な順序・系列。(4)さまざまな指圧、足底力、指の横方向の移動と関連する、差異を示す指の幅と深さ。(5)滑らかな指・掌とその周辺領域との間の表面質感の対照と、痕跡の上に水が通ることによる、痕跡間の悪化。欠如しているのは、(6)打撃もしくは他の道具の跡です。これら6点の基準は、芸術区画に重要な検証を提供します。
解剖学的に、形態と大きさの両方の点で、芸術区画の足跡は内部で一貫しており、それを残した者の合理的な年齢推定値が得られます(つまり、異常な大きさのヒトが残したわけではありません)。足跡の形態は他の参照資料と一致していますが、ZWF24の形態は自然な痕跡としては異常で、そうした痕跡が残るには、複雑な一連の足の移動が必要でしょう。ZWF23の痕跡も、その形態を説明するには二重の歩みが必要です。つまり、一方の足で最初の痕跡を残し、次にもう一方の足をその足跡に置き、足跡の踵と長軸をそろえました。
しかし、その形態は、多くのペトログリフ(岩石線刻)遺跡で見られる手足の画題よりも正確ですが、ステンシルが用いられた岩石芸術遺跡にはありません。これはかなりの弱点です。なぜならば、この議論のどちらかの主張を支持する遺跡もしくは事例を常に見つけられるからです。さらに、イスラム教徒と仏教徒の預言者の崇拝では正確に彫られた足の画題が一般的なので、注意が必要です。これらの寺院の足跡は通常、良好な解剖学的形態を有しており、典型的な深さの変動がありますが、重大なことに、成人の足で構成されており、通常は両足の組み合わせで見られます。解剖学だけに基づく痕跡の証拠は決定的ではないので、自然な偏見の影響を受けます。しかし、(2)と(3)の基準は、痕跡のより明確な証拠を提供します。図4で示されるように、押し上げ構造、交差切断パターン、別の痕跡による横方向の変形が存在します。痕跡が刻まれたならば、なぜこれらが含まれるのでしょうか?
さらに、芸術区画の足跡は空間的に深さが異なり、明確な踵の接地領域、および内側の指と関連するより大きな深さがあり、そのすべては足底圧の定型的パターンと一致します。指の幅と深さは、現代の類似の手形と同じように異なります(図5a・b)。痕跡の表面の質感は、周囲の領域と比較して、滑らかで圧縮されています(図3a~d)。これにより、最終的な基準として、道具の跡の有無が残ります。芸術区画では3点の直線的な線一式が見え(図2の黒色矢印)、鑿もしくは他の道具の跡を表している可能性があります。それらは、通常は接合制御された剥離により作られた可能性もあります。幅が数mmの孤立した線状の引っ掻き傷が何ヶ所かに存在しますが、広範ではなく、石の作業と一致するパターンを形成しません。石灰華のペトログリフ遺跡で観察されたものと同様に、もしくは以前の研究での実験的跡と類似して、打撃痕はありません。爪先と指の肉質部は丸みを帯びており、輪郭は滑らかです(図3c)。
この6点の基準を適用した結果、芸術区画は彫られたのではなく刻み込まれた、というのが最節約的な説明と考えられます。さらに、現在の浴場周辺で過去に発見された手形と足跡は、自然の痕跡である、という総意が存在します。これら一連の足跡のうち1点(図3e)も、壁面芸術の事例で、指による溝の報告されていない事例を含む、と示唆されます。図3aおよびeの単純な比較が示すように、一方が自然で他方がそうではない、と示唆する形態もしくは表面質感の違いはありません。しかし、完新世の足跡の周辺領域はより磨かれており、巡礼者が繰り返し触ったことを反映しています
●芸術なのか
芸術の定義は、適用される定義に依存します。ギリシア語の概念模倣を通じて、アリストテレスは潜在的な定義を提供します。本論文では、芸術とは何か他のもののコピーです。芸術として定義されるもののほとんどは、模倣芸術の概念で注目すべき変化が起きた19世紀後半から20世紀初期まで、この定義に合致します。模倣の定義では、芸術家は何かを見てそれを模倣しますが、それがさらに発展する可能性もあります。チベット高原の芸術区画はこの基本的な基準を満たしていますが、それ自体が独自に発展しています。痕跡の配置は自然に発生するようなものではなく、移動により感覚が空くか、手を安定させるために配置しています。むしろ、この痕跡を残した「芸術家」は、人生経験を通じてすでに知っていた形態を採用し、その足跡を残し、通常では現れないだろう状況とパターンで再現しました。これは、人生経験では通常は見られない、手形の追加によりさらに明確になります。
芸術区画の文脈で以前の研究は、芸術は必ずしも尊敬される客体もしくは表現ではないものの、美的構成を形成する項目であり、その様式は作成者の視点に由来し、それゆえに独特な種類の美的統一を生み出す、と述べています。それは以前の研究の定義にも通ずるもので、その研究では、カントに由来するに違いない卓越した技術が、様式の伝統や芸術として受け入れられるべきという作者の意図とともに強調されます。一方、別の研究が示唆するのは、芸術は楽しみや遊びや装飾といった単純な目的の余暇から生まれ、暇なもしくは遊んでいる動きの瞬間の行動が、そうした定義に当てはまるだろう、ということです。泥遊びをして、遊んでいる間に一連のモザイク状の痕跡を意図的に作った2人の子供は、おそらく却桑遺跡にあるもので、上述の芸術の定義のほとんどに当てはまります。
結局、ほとんどの親は自分の子供のあやふやな芸術的試みを芸術として表現し、誇らしげにそれを見せます。さらに、芸術区画は、壁面芸術の一般的事例として受け入れられている、手のステンシルにより、芸術的伝統に該当します(関連記事)。旧石器時代洞窟芸術家としての子供の伝統も確立されています。したがって、さまざまな定義が可能であることを考えると、異論もあるかもしれませんが、本論文で述べられた手足の痕跡の構成は、さまざまな定義の下で「芸術」を構成する、と結論づけられます。
●完新世よりも前なのか
足跡の年代測定は、発掘された上層ユニットのない、足跡のあるユニット2の石灰華の年代測定に依存することを前提としています。足跡のあるユニットの上に発掘されたユニットがないことは理想的ではありませんが、この却桑遺跡は、足跡の残る層の年代に基づいて年代測定された最初の遺跡ではありません。水の供給源が断たれた場合は石化が一方向の過程であることを考えると(図5b)、これは不合理な仮定ではなく、却桑遺跡の芸術の年代は226000~169000年前頃と示唆されます。ユニット2の上に横方向にあるものも論証でき、その上層はユニット2よりも新しい年代です。
●含意
結局、芸術区画は自然に残された人類の足跡から構成され、壁面芸術の合理的な定義に合致し、中期更新世の石灰華層へと刻み込まれた、と結論づけられます。したがって、却桑遺跡全体の充分な調査が行なわれるまでは、この芸術区画は中期更新世と年代測定された壁面芸術の事例である可能性が高い、と提案されます。もしこの提案が科学界に受け入れられるならば、この種の芸術活動の年代は大きく拡大されることになるでしょう。現時点で、洞窟壁画における手の画題を含むこの種の(ほぼ確実な)最古級の芸術の年代は、東方ではスラウェシ島の45000年以上前(関連記事)、西方ではスペインのエルカスティーヨ洞窟の4万年前頃(関連記事)となります。本論文はさまざまな芸術的試みを比較していますが、要点は、身体の一部を芸術装置として使うことはホモ属内の長い伝統で、本論文はその年代を拡張する、ということです。
ユニット2の年代を考えると、却桑遺跡の芸術家は現生人類だったかもしれませんが、より可能性が高いのは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)です。なぜならば、16万年以上前となるデニソワ人的な人類が、最近になってチベット高原の端の中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見されたからです(関連記事)。最近の研究では、中国における現生人類の後期到来説がDNAに基づいて主張されており(関連記事)、これも早期にはデニソワ人が足跡を残した人類だったことを示唆しているかもしれません。現代チベット人にデニソワ人的なDNAが確認されていること(関連記事)も、注目に値します。もし却桑遺跡の足跡を残したのがデニソワ人であれば、現生人類の成長モデルを用いて年齢を推定することの妥当性には疑問が残りますが、デニソワ人について現時点で利用可能な身体化石では、デニソワ人が現生人類とは根本的に異なる身体形態を有していた、と示唆するものはほとんどありません(関連記事)。
参考文献:
Zhang D. et al.(2021): Earliest parietal art: hominin hand and foot traces from the middle Pleistocene of Tibet. Science Bulletin, 66, 24, 2506-2515.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.09.001
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