鷺森浩幸『藤原仲麻呂と道鏡 ゆらぐ奈良朝の政治体制』
歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。藤原仲麻呂と道鏡は、ともに太政大臣(仲麻呂は大師、道鏡は太政大臣禅師)となりましたが、律令制当初には、死後の贈官としての太政大臣の事例と比較して、現役の太政大臣は回避される傾向にあったようです。それは、太政大臣の地位が、天皇から統治権を委譲された存在、つまり統治権の代行者だったと想定されていたからではないか、と本書は推測します。
本書は、仲麻呂と道鏡の地位をそのまま天皇に代わる統治権執行者とは評価できないものの、両者の地位の高さを示している、と指摘します。本書は、そうした仲麻呂と道鏡の高い地位の前提として、まず当時の政治状況を解説します。当時、天皇が統治権を保有しており、その根拠としては皇孫思想よりも天智・天武・持統の3代の天皇が重要だった、と本書は指摘します。天智天皇は天命を受けた君主と位置づけられ(天命思想)、天智の定めた「不改常典(本書では律令のこととされます)」に従い、律令体制の構築に貢献した天武と持統(天智の娘)の子孫であることが、天皇の正統性の基盤になった、というわけです。
官僚機構の中枢と位置づけられた太政官では、上層の議政官を中心に政治が運営されました。この議政官を連続的に輩出する4氏族(藤原と大伴と阿倍と多治比)も、律令体制の確立に大きな貢献をしたことで、特権的地位を得ており、その根拠は神話世界にさかのぼらなかった、と本書は指摘します。また本書は、天皇家の家政が統治とは異なる領域で、天皇家には莫大な家産があり、その家内的秩序は制度的な天皇をめぐる秩序とは異なっていて、太上天皇が天皇より上位にある場合も多かっただろうことに、注目します。天皇家の家政に関わる機構も太政官を頂点とする官司機構内に存在し、君臣関係とは別の天皇と帰属との関係が形成されました。議政官は比較的緩やかな合議体で、それを統合し、政治を安定化させたのは、天皇家と門閥貴族との特別な結合(婚姻や家政への参加)だった、と本書は指摘します。
本書が政治的安定についてさらに重視するのは、7世紀後半の律令体制創業の事実もしくは歴史と、その成果である律令そのものです。こうした政治体制では、突出した権力者や特器別に高い地位の人物は出現しにくく、そうした体制の崩壊後に、仲麻呂と道鏡のような突出した地位の人物が出現した、というのが本書の見通しです。この律令体制当初の政治体制崩壊の契機として本書が重視するのは、737年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の天然痘大流行による藤原四兄弟の相次ぐ病死です。この後、749年の聖武天皇の譲位の詔から桓武天皇の即位まで30年以上「不改常典」に触れられることはなく、新たな政治体制の模索の中で、仲麻呂が台頭します。
仲麻呂は706年に、藤原不比等の長男である武智麻呂の次男として生まれ、兄に豊成がいます。737年の天然痘流行時に、仲麻呂は従五位下でした。737年に藤原四兄弟が相次いで病死した後、橘諸兄を中心として議政官の立て直しが図られましたが、きわめて脆弱で、太政官の機能が大きく低下します。そうした中で聖武天皇が政治の前面に現れるようになり、その寵臣である玄昉や吉備真備など、門閥貴族以外の人物が天皇の側近として政界で台頭します。これは動揺した体制の立て直しのためだったようで、この時期以降、聖武天皇は仏教に傾倒します。仲麻呂は740年の聖武天皇の東国行幸に随行し、これ以降急速に昇進して、743年5月には従四位上参議となり、議政官の一員となります。
この時期、王宮の移り変わりが多く、橘諸兄と、まだ地位はさほど高くなかった仲麻呂との対立を反映している、と解釈されてきましたが、本書は、そうした政治的対立ではなく、新たな王宮造営方針の迷走だった、と指摘します。この時点で聖武天皇の唯一の息子だった安積親王が744年に急死し、仲麻呂による暗殺との見解があります。ただ本書は、当時の政治的対立関係は暗殺に発展するまで緊迫していたわけではなかっただろう、と指摘しており、暗殺説には否定的です。本書は、この頃までに橘諸兄と仲麻呂との間で強い政治的対立があったわけではなく、仲麻呂にはまだそのような力はなかっただろう、と指摘します。ただ本書は、仲麻呂は兄の豊成とともに、橘諸兄や藤原房前の三男である藤原八束(真楯)など安積親王を中心とする集団との結びつきはあまりなかった、と指摘します。
安積親王の死後、聖武天皇は体調を崩し、749年にその娘で皇太子に立てられていた阿倍内親王が即位します(孝謙天皇)。孝謙天皇の代に政治的に主導的役割を果たしたのは恐らく光明皇太后でしたが、光明皇太后に統治権が委譲されたのではなく、聖武太上天皇からの権限移譲により太上天皇の代行者として孝謙天皇を補佐したのだろう、と本書は推測します。紫微中台が光明皇太后の活動を支え、天皇家の家政を執行する機関ともなりました。仲麻呂は、紫微令と大納言を兼任し、光明皇太后の意志をそのまま施行する体制を作り上げます。当時、仲麻呂の上には左右の大臣がいましたが、紫微令は特別な地位で、光明皇太后とともに政治を動かす中心人物になっていきます。
孝謙天皇の治世は、光明皇太后が紫微令と大納言を兼任した仲麻呂と連携し、おおむね安定していたようですが、未婚の孝謙天皇の後継者が大きな問題として残り続けました。一度は756年5月に没した聖武太上天皇の遺詔により新田部親王(天武天皇の息子)の息子の道祖王が皇太子となりましたが、聖武は、道祖王が皇位に相応しくなければ(天意に適わなければ)、孝謙天皇が自身の判断により廃嫡してもよい、と認めていました。この場合の天とは、仏教の諸神と天の神々と天皇御霊で、その中でも仏教が優先したようです。じっさい、道祖王は757年4月に孝謙天皇により廃太子処分を受け、舎人親王(天武天皇の息子)の息子である大炊王が皇太子とされました。大炊王は、仲麻呂の亡き息子の真従の妻だった粟田諸姉を妻としていました。
757年5月、養老律令施行とともに仲麻呂は紫微内相となり、しばらくしてその待遇は大臣に準ずるものとされました。その直後の757年7月、橘奈良麻呂たちの反乱計画が発覚します(橘奈良麻呂の変)。これは、仲麻呂とその兄の豊成の権勢拡大と自らの没落を防ぐため、孝謙天皇を廃し、道祖王も含めて4人の王から新たな天皇を即位させよう、というものでした。しかし、豊成の息子の乙縄は橘奈良麻呂と親しかったことを理由に左遷となり、豊成も左遷されます。本書は、橘奈良麻呂の変の背景として、聖武天皇の後の皇位継承が不明瞭で、天皇と有力貴族との個別的・特殊的関係が政界で大きな意味を持ち始めていたことを挙げます。大伴氏と多治比氏は、門閥貴族の地位を保てるのかどうかの岐路に立っている、との認識で反乱計画に積極的に関わったのではないか、というわけです。
橘奈良麻呂の変により、兄の豊成も失脚し、仲麻呂は官界の頂点に立ちます。758年8月、孝謙天皇は譲位しても大炊王が即位します(淳仁天皇)。仲麻呂は官司・官職の名称を改め、右大臣に相当する大保に任じられるとともに、氏の名に「恵美」が加えられ、「押勝」の名と「尚舅」の字が与えられました。本書は、仲麻呂の武力が強く認識されていたことを指摘します。仲麻呂は749年からその死まで一貫して、中衛大将の任にありました。759年6月には、淳仁天皇の親族に関わる詔が出されただけではなく、仲麻呂(藤原恵美押勝)は淳仁天皇にとっての「父」とされ、天皇の実際の近親と等しい一族である藤原恵美氏が誕生します。この仲麻呂の優遇を支持したのは、光明皇太后でした。ただ本書は、こうした優遇が仲麻呂の一族のみに適用されたことで、他の藤原氏との間に政治的対立が生じたことも指摘します。淳仁天皇の即位とともに光明皇太后は政治から離れ、孝謙天皇太上天皇が天皇を補佐したようです。ただ、家産の管理体制は光明皇太后がその死まで掌握していました。この体制で、政治的安定をもたらす中心的人物が仲麻呂だった、と本書は推測します。こうして仲麻呂は政界の中心として権勢を振るい、760年1月には従二位から従一位に昇進し、大師(太政大臣)に就任します。本書は、これにより仲麻呂は太上天皇と同等の地位に立ち、鎌足と不比等以来の藤原氏発展の帰結であるとともに、後の摂関政治につながる天皇家と藤原氏の結合の原型だった、と評価しています。
しかし、760年6月に光明皇太后が没し、762年には孝謙太上天皇と淳仁天皇との間の対立が明らかになり、これが仲麻呂の没落へとつながることになりました。孝謙太上天皇と淳仁天皇の対立の直接的要因は、孝謙が道鏡を優遇するようになり、それに対しての淳仁の発言が孝謙を激怒させたことにあるようです。762年6月、孝謙太上天皇は詔により、淳仁天皇の権限を祭祀と小事に限定し、大事・賞罰を自ら掌握する、と宣言しました。孝謙太上天皇は淳仁天皇から権力を回収しようとし、それはほぼ受け入れられたようです。孝謙太上天皇のこうした行動が承認された理由として、孝謙が淳仁を擁立したという経緯と、孝謙が出家を宣言したことにあった、と本書は指摘します。出家が実権を掌握する根拠になっており、それは聖武天皇の作り上げた、仏教の諸神により天皇は承認され、その地位の正統性が付与される、とする皇位継承原則の新たな論理に沿っていた、というわけです。本書はじっさいの政治権力について、大きな変化はなかったかもしれないものの、天皇家の家産を管理し、天皇家の実質的な家長は孝謙太上天皇だった、と指摘します。763年4月には、仲麻呂暗殺計画が発覚し、首謀者の藤原宿奈麻呂(良継)は処罰され、その同調者とみなされた3人が左降されました。本書は、光明皇太后の没後、情勢が変化し、仲麻呂の地位が不安定化していった、と推測しています。
こうした状況で、764年9月11日、恵美押勝の乱が起きます。発端は、その直前に畿内とその周辺国の軍事監督官に就任し、国ごとに20人の兵を5日間集める権限を得た仲麻呂が、独断でその数を増やそうとした、などといった密告でした。この密告を受けて、孝謙太上天皇は淳仁天皇の居所である中宮院の鈴印を回収しようとして、仲麻呂の軍と激しい戦闘になり、さらに仲麻呂とその子孫を解官し、位階も剥奪しました。孝謙太上天皇は、まだ帰趨が明らかではない段階で叙位により有力貴族を自陣営に引き込もうとします。仲麻呂は自らの子供以外に有力貴族をほとんど組織できず、敗走して越前へ逃れようとしたものの、先手を打たれて引き返し、敗れて捕らえられ、妻子とともに斬首されました。本書は、畿内諸国の国司を孝謙太上天皇側が抑えていたことも勝敗を左右した、と指摘します。恵美押勝の乱後の政界では、仲麻呂の兄で左遷されていた豊成は右大臣に復し、道鏡は大臣禅師に就任します。恵美押勝の乱の後、淳仁天皇は764年10月9日に廃位となり、まずは豊成を中心とする政治体制が整えられました。
淳仁天皇の廃位後、孝謙太上天皇が再度即位し(称徳天皇)、761年に自身の病気を治療した道鏡を重用します。道鏡が史料に初めて見えるのは747年で、この時、東大寺僧良弁の近くにおり、沙弥(出家したものの、まだ具足戒を受けておらず、正式な僧侶ではない者)でした。それ以前の道鏡の経歴は不明で、河内の弓削連の出身と伝わっています。弓削連はさほど有力な氏族ではなく、当時の僧侶の主要な供給源はこうした畿内の中小豪族でした。道鏡はサンスクリット語に通じ、修行に優れた僧だったようです。称徳天皇は道鏡を「師」として信任し、それは仏教興隆による統治の安定のためでした。765年閏10月、称徳天皇は道鏡を太政大臣禅師に任命します。ただ、道鏡は実際の政務には関わらなかったようで、その中心の担い手となったのは、左大臣の藤原永手と右大臣の吉備真備でした。
766年6月に、称徳天皇は道鏡に法王の位を授けます。法王は世俗の地位で、天皇に等しい地位とされ、767年3月には法王宮職が設置されました。本書は、法王が聖徳太子崇拝に結びついていたことを指摘し、政治的には皇太子の地位に相当しており、道鏡即位計画が視野に入れられていたのではないか、と推測します。称徳天皇の即位後、後継者選択が再び重要な政治的課題となります。後継者が不明なため、政界では疑心暗鬼に陥った者が少なくなかったのか、765年8月の和気王の謀叛や、769年5月の呪詛事件などが起き、淡路島に配流となった後の淳仁天皇を再度擁立する動きもありました。称徳天皇は貴族を完全には掌握できず、表面的には恵美押勝の乱のような深刻な武力衝突は起きなかったものの、政界には後継者問題をめぐって不穏な空気が漂っていたようです。
こうした状況で起きたのが、道鏡事件でした。道鏡事件は一般的に、僧侶の身の道鏡が皇位を狙った、と語られていますが、そうした認識は道鏡事件から半世紀以内の平安時代初期には定着していました。道鏡事件については古くからさまざまな意見があり、その主体者についても、道鏡なのか称徳天皇なのか、あるいは藤原百川なのか、といった議論があります。本書は、道鏡事件の主体者は称徳天皇で、仏教の権威と接合させた天皇制への移行という、父の聖武天皇の方針を継承しようとしたのだろう、と推測します。しかし、道鏡事件により、称徳天皇は道鏡の皇位継承を断念した、というわけです。本書は、道鏡を即位させようと考えていた称徳天皇にとって、信頼していた和気清麻呂に裏切られた打撃が大きかった、と指摘します。道鏡は770年8月に称徳天皇が崩御すると左遷され、772年5月に左遷先で没します。
本書は、737年の天然痘流行により律令体制初期の政治的枠組みが大打撃を受け、そこからの政治体制再建の模索の中で、仲麻呂や道鏡のような突出した地位の人物が登場した、と指摘します。また本書は仲麻呂と道鏡の台頭に関して、聖武天皇以降、天皇家の後継者が不明瞭となり、天皇家の人的弱体化が顕著になったことも重視しています。仲麻呂と道鏡はどちらも高位にありながら失脚し、それは安定した政治的枠組みが確立されなかったことを意味します。道鏡の後も、天皇の地位や天皇と貴族との関わり方は多様で、737年から摂関政治に収束するまでの時期は権力可塑性が高かった、と本書は評価します。
本書は、仲麻呂と道鏡の地位をそのまま天皇に代わる統治権執行者とは評価できないものの、両者の地位の高さを示している、と指摘します。本書は、そうした仲麻呂と道鏡の高い地位の前提として、まず当時の政治状況を解説します。当時、天皇が統治権を保有しており、その根拠としては皇孫思想よりも天智・天武・持統の3代の天皇が重要だった、と本書は指摘します。天智天皇は天命を受けた君主と位置づけられ(天命思想)、天智の定めた「不改常典(本書では律令のこととされます)」に従い、律令体制の構築に貢献した天武と持統(天智の娘)の子孫であることが、天皇の正統性の基盤になった、というわけです。
官僚機構の中枢と位置づけられた太政官では、上層の議政官を中心に政治が運営されました。この議政官を連続的に輩出する4氏族(藤原と大伴と阿倍と多治比)も、律令体制の確立に大きな貢献をしたことで、特権的地位を得ており、その根拠は神話世界にさかのぼらなかった、と本書は指摘します。また本書は、天皇家の家政が統治とは異なる領域で、天皇家には莫大な家産があり、その家内的秩序は制度的な天皇をめぐる秩序とは異なっていて、太上天皇が天皇より上位にある場合も多かっただろうことに、注目します。天皇家の家政に関わる機構も太政官を頂点とする官司機構内に存在し、君臣関係とは別の天皇と帰属との関係が形成されました。議政官は比較的緩やかな合議体で、それを統合し、政治を安定化させたのは、天皇家と門閥貴族との特別な結合(婚姻や家政への参加)だった、と本書は指摘します。
本書が政治的安定についてさらに重視するのは、7世紀後半の律令体制創業の事実もしくは歴史と、その成果である律令そのものです。こうした政治体制では、突出した権力者や特器別に高い地位の人物は出現しにくく、そうした体制の崩壊後に、仲麻呂と道鏡のような突出した地位の人物が出現した、というのが本書の見通しです。この律令体制当初の政治体制崩壊の契機として本書が重視するのは、737年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の天然痘大流行による藤原四兄弟の相次ぐ病死です。この後、749年の聖武天皇の譲位の詔から桓武天皇の即位まで30年以上「不改常典」に触れられることはなく、新たな政治体制の模索の中で、仲麻呂が台頭します。
仲麻呂は706年に、藤原不比等の長男である武智麻呂の次男として生まれ、兄に豊成がいます。737年の天然痘流行時に、仲麻呂は従五位下でした。737年に藤原四兄弟が相次いで病死した後、橘諸兄を中心として議政官の立て直しが図られましたが、きわめて脆弱で、太政官の機能が大きく低下します。そうした中で聖武天皇が政治の前面に現れるようになり、その寵臣である玄昉や吉備真備など、門閥貴族以外の人物が天皇の側近として政界で台頭します。これは動揺した体制の立て直しのためだったようで、この時期以降、聖武天皇は仏教に傾倒します。仲麻呂は740年の聖武天皇の東国行幸に随行し、これ以降急速に昇進して、743年5月には従四位上参議となり、議政官の一員となります。
この時期、王宮の移り変わりが多く、橘諸兄と、まだ地位はさほど高くなかった仲麻呂との対立を反映している、と解釈されてきましたが、本書は、そうした政治的対立ではなく、新たな王宮造営方針の迷走だった、と指摘します。この時点で聖武天皇の唯一の息子だった安積親王が744年に急死し、仲麻呂による暗殺との見解があります。ただ本書は、当時の政治的対立関係は暗殺に発展するまで緊迫していたわけではなかっただろう、と指摘しており、暗殺説には否定的です。本書は、この頃までに橘諸兄と仲麻呂との間で強い政治的対立があったわけではなく、仲麻呂にはまだそのような力はなかっただろう、と指摘します。ただ本書は、仲麻呂は兄の豊成とともに、橘諸兄や藤原房前の三男である藤原八束(真楯)など安積親王を中心とする集団との結びつきはあまりなかった、と指摘します。
安積親王の死後、聖武天皇は体調を崩し、749年にその娘で皇太子に立てられていた阿倍内親王が即位します(孝謙天皇)。孝謙天皇の代に政治的に主導的役割を果たしたのは恐らく光明皇太后でしたが、光明皇太后に統治権が委譲されたのではなく、聖武太上天皇からの権限移譲により太上天皇の代行者として孝謙天皇を補佐したのだろう、と本書は推測します。紫微中台が光明皇太后の活動を支え、天皇家の家政を執行する機関ともなりました。仲麻呂は、紫微令と大納言を兼任し、光明皇太后の意志をそのまま施行する体制を作り上げます。当時、仲麻呂の上には左右の大臣がいましたが、紫微令は特別な地位で、光明皇太后とともに政治を動かす中心人物になっていきます。
孝謙天皇の治世は、光明皇太后が紫微令と大納言を兼任した仲麻呂と連携し、おおむね安定していたようですが、未婚の孝謙天皇の後継者が大きな問題として残り続けました。一度は756年5月に没した聖武太上天皇の遺詔により新田部親王(天武天皇の息子)の息子の道祖王が皇太子となりましたが、聖武は、道祖王が皇位に相応しくなければ(天意に適わなければ)、孝謙天皇が自身の判断により廃嫡してもよい、と認めていました。この場合の天とは、仏教の諸神と天の神々と天皇御霊で、その中でも仏教が優先したようです。じっさい、道祖王は757年4月に孝謙天皇により廃太子処分を受け、舎人親王(天武天皇の息子)の息子である大炊王が皇太子とされました。大炊王は、仲麻呂の亡き息子の真従の妻だった粟田諸姉を妻としていました。
757年5月、養老律令施行とともに仲麻呂は紫微内相となり、しばらくしてその待遇は大臣に準ずるものとされました。その直後の757年7月、橘奈良麻呂たちの反乱計画が発覚します(橘奈良麻呂の変)。これは、仲麻呂とその兄の豊成の権勢拡大と自らの没落を防ぐため、孝謙天皇を廃し、道祖王も含めて4人の王から新たな天皇を即位させよう、というものでした。しかし、豊成の息子の乙縄は橘奈良麻呂と親しかったことを理由に左遷となり、豊成も左遷されます。本書は、橘奈良麻呂の変の背景として、聖武天皇の後の皇位継承が不明瞭で、天皇と有力貴族との個別的・特殊的関係が政界で大きな意味を持ち始めていたことを挙げます。大伴氏と多治比氏は、門閥貴族の地位を保てるのかどうかの岐路に立っている、との認識で反乱計画に積極的に関わったのではないか、というわけです。
橘奈良麻呂の変により、兄の豊成も失脚し、仲麻呂は官界の頂点に立ちます。758年8月、孝謙天皇は譲位しても大炊王が即位します(淳仁天皇)。仲麻呂は官司・官職の名称を改め、右大臣に相当する大保に任じられるとともに、氏の名に「恵美」が加えられ、「押勝」の名と「尚舅」の字が与えられました。本書は、仲麻呂の武力が強く認識されていたことを指摘します。仲麻呂は749年からその死まで一貫して、中衛大将の任にありました。759年6月には、淳仁天皇の親族に関わる詔が出されただけではなく、仲麻呂(藤原恵美押勝)は淳仁天皇にとっての「父」とされ、天皇の実際の近親と等しい一族である藤原恵美氏が誕生します。この仲麻呂の優遇を支持したのは、光明皇太后でした。ただ本書は、こうした優遇が仲麻呂の一族のみに適用されたことで、他の藤原氏との間に政治的対立が生じたことも指摘します。淳仁天皇の即位とともに光明皇太后は政治から離れ、孝謙天皇太上天皇が天皇を補佐したようです。ただ、家産の管理体制は光明皇太后がその死まで掌握していました。この体制で、政治的安定をもたらす中心的人物が仲麻呂だった、と本書は推測します。こうして仲麻呂は政界の中心として権勢を振るい、760年1月には従二位から従一位に昇進し、大師(太政大臣)に就任します。本書は、これにより仲麻呂は太上天皇と同等の地位に立ち、鎌足と不比等以来の藤原氏発展の帰結であるとともに、後の摂関政治につながる天皇家と藤原氏の結合の原型だった、と評価しています。
しかし、760年6月に光明皇太后が没し、762年には孝謙太上天皇と淳仁天皇との間の対立が明らかになり、これが仲麻呂の没落へとつながることになりました。孝謙太上天皇と淳仁天皇の対立の直接的要因は、孝謙が道鏡を優遇するようになり、それに対しての淳仁の発言が孝謙を激怒させたことにあるようです。762年6月、孝謙太上天皇は詔により、淳仁天皇の権限を祭祀と小事に限定し、大事・賞罰を自ら掌握する、と宣言しました。孝謙太上天皇は淳仁天皇から権力を回収しようとし、それはほぼ受け入れられたようです。孝謙太上天皇のこうした行動が承認された理由として、孝謙が淳仁を擁立したという経緯と、孝謙が出家を宣言したことにあった、と本書は指摘します。出家が実権を掌握する根拠になっており、それは聖武天皇の作り上げた、仏教の諸神により天皇は承認され、その地位の正統性が付与される、とする皇位継承原則の新たな論理に沿っていた、というわけです。本書はじっさいの政治権力について、大きな変化はなかったかもしれないものの、天皇家の家産を管理し、天皇家の実質的な家長は孝謙太上天皇だった、と指摘します。763年4月には、仲麻呂暗殺計画が発覚し、首謀者の藤原宿奈麻呂(良継)は処罰され、その同調者とみなされた3人が左降されました。本書は、光明皇太后の没後、情勢が変化し、仲麻呂の地位が不安定化していった、と推測しています。
こうした状況で、764年9月11日、恵美押勝の乱が起きます。発端は、その直前に畿内とその周辺国の軍事監督官に就任し、国ごとに20人の兵を5日間集める権限を得た仲麻呂が、独断でその数を増やそうとした、などといった密告でした。この密告を受けて、孝謙太上天皇は淳仁天皇の居所である中宮院の鈴印を回収しようとして、仲麻呂の軍と激しい戦闘になり、さらに仲麻呂とその子孫を解官し、位階も剥奪しました。孝謙太上天皇は、まだ帰趨が明らかではない段階で叙位により有力貴族を自陣営に引き込もうとします。仲麻呂は自らの子供以外に有力貴族をほとんど組織できず、敗走して越前へ逃れようとしたものの、先手を打たれて引き返し、敗れて捕らえられ、妻子とともに斬首されました。本書は、畿内諸国の国司を孝謙太上天皇側が抑えていたことも勝敗を左右した、と指摘します。恵美押勝の乱後の政界では、仲麻呂の兄で左遷されていた豊成は右大臣に復し、道鏡は大臣禅師に就任します。恵美押勝の乱の後、淳仁天皇は764年10月9日に廃位となり、まずは豊成を中心とする政治体制が整えられました。
淳仁天皇の廃位後、孝謙太上天皇が再度即位し(称徳天皇)、761年に自身の病気を治療した道鏡を重用します。道鏡が史料に初めて見えるのは747年で、この時、東大寺僧良弁の近くにおり、沙弥(出家したものの、まだ具足戒を受けておらず、正式な僧侶ではない者)でした。それ以前の道鏡の経歴は不明で、河内の弓削連の出身と伝わっています。弓削連はさほど有力な氏族ではなく、当時の僧侶の主要な供給源はこうした畿内の中小豪族でした。道鏡はサンスクリット語に通じ、修行に優れた僧だったようです。称徳天皇は道鏡を「師」として信任し、それは仏教興隆による統治の安定のためでした。765年閏10月、称徳天皇は道鏡を太政大臣禅師に任命します。ただ、道鏡は実際の政務には関わらなかったようで、その中心の担い手となったのは、左大臣の藤原永手と右大臣の吉備真備でした。
766年6月に、称徳天皇は道鏡に法王の位を授けます。法王は世俗の地位で、天皇に等しい地位とされ、767年3月には法王宮職が設置されました。本書は、法王が聖徳太子崇拝に結びついていたことを指摘し、政治的には皇太子の地位に相当しており、道鏡即位計画が視野に入れられていたのではないか、と推測します。称徳天皇の即位後、後継者選択が再び重要な政治的課題となります。後継者が不明なため、政界では疑心暗鬼に陥った者が少なくなかったのか、765年8月の和気王の謀叛や、769年5月の呪詛事件などが起き、淡路島に配流となった後の淳仁天皇を再度擁立する動きもありました。称徳天皇は貴族を完全には掌握できず、表面的には恵美押勝の乱のような深刻な武力衝突は起きなかったものの、政界には後継者問題をめぐって不穏な空気が漂っていたようです。
こうした状況で起きたのが、道鏡事件でした。道鏡事件は一般的に、僧侶の身の道鏡が皇位を狙った、と語られていますが、そうした認識は道鏡事件から半世紀以内の平安時代初期には定着していました。道鏡事件については古くからさまざまな意見があり、その主体者についても、道鏡なのか称徳天皇なのか、あるいは藤原百川なのか、といった議論があります。本書は、道鏡事件の主体者は称徳天皇で、仏教の権威と接合させた天皇制への移行という、父の聖武天皇の方針を継承しようとしたのだろう、と推測します。しかし、道鏡事件により、称徳天皇は道鏡の皇位継承を断念した、というわけです。本書は、道鏡を即位させようと考えていた称徳天皇にとって、信頼していた和気清麻呂に裏切られた打撃が大きかった、と指摘します。道鏡は770年8月に称徳天皇が崩御すると左遷され、772年5月に左遷先で没します。
本書は、737年の天然痘流行により律令体制初期の政治的枠組みが大打撃を受け、そこからの政治体制再建の模索の中で、仲麻呂や道鏡のような突出した地位の人物が登場した、と指摘します。また本書は仲麻呂と道鏡の台頭に関して、聖武天皇以降、天皇家の後継者が不明瞭となり、天皇家の人的弱体化が顕著になったことも重視しています。仲麻呂と道鏡はどちらも高位にありながら失脚し、それは安定した政治的枠組みが確立されなかったことを意味します。道鏡の後も、天皇の地位や天皇と貴族との関わり方は多様で、737年から摂関政治に収束するまでの時期は権力可塑性が高かった、と本書は評価します。
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