漢代における黄河中流・下流域から河西回廊への男性主体の移住

 漢代における黄河中流・下流域から河西回廊(Hexi Corridor)への男性主体の移住に関する研究(Xiong et al., 2022)が公表されました。人類史は、資源分配や社会的関係などの要因の変化により引き起こされた、新たな課題に対処した歴史とみなせます。それらの克服のため、ヒトは生計・社会・思想の技術など体外の方法を用いて、生存のための新たな生態的地位を創出してきました。適応的変化の研究で、ヒトの先史時代および歴史時代の生計戦略の顕著な変化につながる要因の評価は魅力的な主題です。気候変化、技術革新、急速な人口増加、大陸を越えた文化交流、ヒトの移住、地政学は、明らかに潜在的な候補です。気候変化はよく研究されており、生計戦略の変化の最も重要な原因の一つとみなされています。たとえば適切な気候は、雨天条件がアラビア半島南部~東部において5100年前頃にオアシス農耕の発展を促進したので、農業開発の促進に役立ったでしょう。他方、ひじょうに過酷な気候は、「文明」崩壊をもたらす可能性があります。ヒトはそうした環境変化に対処して適応するために、さまざまな戦略を採用し、生計戦略を調節して、より好適な条件を探すために移住する必要さえあります。

 シルクロード東部の中心に位置する河西回廊(Hexi Corridor)はかつて、ユーラシア東西間の文化交流に重要な役割を果たしました。この地域は、「中国」内の農耕集団と遊牧集団の交差点でもありました。複数の証拠が示したのは、河西回廊沿いの生計戦略の顕著な変化が漢王朝期に起きた、ということです。『史記(Shiji)』から『漢書(Hanshu、Book of Han)』までの歴史的記録では、河西回廊(図1)は漢王朝の前には遊牧民により占拠されていた、と述べられています。この主張は、2900~2100年前頃となる沙井(Shajing)文化および2700~2100年前頃となる騙馬(Shanma)文化の遺跡群で発掘された遺物や動物相遺骸により裏づけられます。家畜化されたブタの重要性は同じ時期に急激に減少しましたが、ヒツジ・ヤギとウシとウマとラクダが、河西回廊沿いに主要な家畜動物として出現しました。沙井文化の遺跡群でも豊富な革製品や羊毛製品が発見されており、住民が家畜化された牧畜動物で二次製品革命をどのように始めたのか、示唆します。これらは全て、河西回廊人口集団がひじょうに遊動的な牧畜生活様式で生きていたことを示唆する兆候でした。

 しかし、漢王朝期(紀元前202~紀元後220年)およびその後には農耕が急速に発展し、この地域の生計戦略となりました。オオムギやコムギやキビやハダカムギやエンドウ豆など多くの栽培化された作物種が遺跡で見つかり、鋤や鎌や踏みすきなど高度な鉄製道具が多くの漢王朝期遺跡で発掘されました。これは、この時期に河西回廊において発達した農業技術が普及したことを強く示唆します。黒水国(Heishuiguo)の漢王朝期の墓で識別されたニワトリやブタやヒツジ・ヤギやウシやウマの遺骸は、この文脈に置かれるべきです。ニワトリはこの時期の最も一般的な家畜動物として現れ、それに続くのがブタです。この黒水国の家畜の個体数は中原農耕民とともに見つかるものと類似していますが、遊牧民のもの(家畜動物はヒツジ・ヤギとウマとウシでした)とは大きく異なります。遊牧民は一般的に長距離移動のためラクダとウマを飼いますが、ブタとニワトリは定住した人々の家で見られる可能性が高くなるかもしれません。最後に、農耕と動物の放牧を描いた多数の壁画が河西回廊で発見されており、この漢王朝~晋王朝にかけての顕著な混合経済が明らかになります。したがって、河西回廊の生計戦略が遊牧様式(先漢王朝期)から混合経済(漢王朝期からその後)へと移行したことは確実です。この主張は、安定同位体データによっても裏づけられます。以下は本論文の図1です。
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 乾燥気候の移行帯に位置する河西回廊は、環境変化にひじょうに敏感です。以前の研究はおもに、環境変化の鏡を通じて生計戦略の変化を説明しようと試みてきました。しかし本論文は、河西回廊の独特な地理的位置を考慮すると、人口移動の影響を見逃してはならない、と考えます。片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)は、ヒトの人口移動研究で広く用いられてきました。Y染色体の非組換え領域(NRY)が父系で厳密に継承される一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)は母系で継承されます。したがって、mtDNAとY染色体はそれぞれ母系と父系の人口史を提供し、過去の性別固有の過程の全体像を明らかにします。注目すべきことに、Y染色体により明らかにされた遺伝的歴史は、mtDNAのそれと同一である必要はありません。mtDNAとY染色体両方の遺伝標識を用いることにより、性比の偏った移住がヒト集団の研究では頻繁に見られるので、それは社会的行動の影響を真に反映しているかもしれません。漢王朝期における河西回廊の生計戦略の変化と人口移動との間の関係を議論するため、本論文は漢王朝期全体を網羅する黒水国遺跡の31標本のY染色体(485ヶ所の一塩基多型遺伝標識を含みます)とミトコンドリアゲノムを分析します。

 黒水国遺跡は中華人民共和国甘粛省張掖(Zhangye)市甘州(Ganzhou)区に位置し(図1)、2018年に発掘されました。黒水国遺跡の墓の分布は、家族の埋葬地と散在する埋葬群から構成される大規模な墓地を明らかにします。放射性炭素年代に基づいて、黒水国遺跡の墓の形態と副葬品と埋葬は4期に区分されました。第1期は西漢(前漢)中期(紀元前118~紀元前49年)、第2期は前漢後期(紀元前48~紀元後6年)、第3期は王莽(Wang Mang)の新王朝から東漢(後漢)初期(紀元後7~67年)、第4期は後漢中期~後期(紀元後67~191年)です。本論文は、黒水国遺跡の31個体を前漢(第1期と第2期)と後漢(第3期と第4期)の2群に分類しました。黒水国遺跡の個体の性別は、骨盤と頭蓋形態により判断されました。


●Y染色体解析結果

 黒水国遺跡の男性30個体で、485ヶ所のY染色体一塩基多型を網羅する解析が行なわれました(図2)。以下は本論文の図2です。
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 Y染色体ハプログループ(YHg)は、ISOGG(遺伝子系譜学国際協会)の2019年版YHg系統樹(図3)にしたがって決定されました(以下、当ブログでは最新の2019~2020年版にしたがいます)。以下は本論文の図3です。
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 全体的に(表1)、黒水国遺跡人口集団のYHgは、O2a1b(IMS-JST002611)が26.7%、O2a2b1a1(M117)が13.3%、C2(M217)が13.3%、N1a(F1206)が13.3%、O1b1a2(Page59)が10%、O1a(M119+, P203-)が6.7%、O2a2b(P164+, M134-)が6.7%、O2a2b1a2a1a(F46)が3.3%、O1b1a1a(M95)が3.3%、Q1a1a(M120)が3.3%です。以下は本論文の表1です。
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 YHgではO2a1b(26.7%)とO2a2b1a1(13.3%)とO2a2b1a2a1a(3.3%)が主要な創始者父系を表しており、現代の中国の漢人の40%以上はこれらの父系となります(O2a2b1a1が16%、O2a2b1a2a1aが11%、O2a1bが14%と推定されています)。これら3系統は黄河流域の新石器時代農耕民に由来する、と考えられています。この3系統は黒水国遺跡人口集団で最も高頻度となり(43.3%)、現代の漢人集団と類似しています。YHg-O2a2b(P164+, M134-)は、この3系統と同様に拡大したかもしれません。

 これらの父系で、YHg-C2(M217)とN1a(F1206)とQ1a1a(M120)は、中国とアルタイ山脈とウラル山脈とユーラシア北部のインド・ヨーロッパ語族人口集団で一般的です。中国におけるYHg-Cの大半はC2(M217)で、中国の漢人の10%ほどを構成し、モンゴル人やマンジュ(満洲)人やカザフ人など、(認められるならば)アルタイ語族話者の大きな割合を占めます。黒水国遺跡人口集団では、YHg-C2(M217)はさらにC2*(M217)とC2b1(F1144)に分類できます。

 YHg-N1a(F1206)はYHg-Nの北方クレード(単系統群)と呼ばれ、ユーラシア北部全域に広範に分布し、N1a1(TAT)とN1a2a1(F710)に区分できます。YHg-N1a1(TAT)の頻度が最も高いのは、アルタイ語族とウラル語族とインド・ヨーロッパ語族の人口集団で、91.525%となるヴィリュイ川(Vilyuy)ヤクート人(Yakut)、50.877%となるエヴェンキ人(Evenk)、41.441%となるブリヤート人(Buryat)、66.667%となるウドムルト人(Udmurt)、53.846%となるフィン人(Finn)、43.023%となるラトヴィア人(Latvian)などです。一方、YHg-N1a2a1(F710)はアジア北東部から南進して黄河流域に2700年前頃までに移動してきた、と考えられています。YHg-Q1a1a(M120)はシベリア南部起源で、中国北西部全域に5000~3000年前頃に拡大しました。

 YHg-Q1a1a(M120)は古代華夏(Huaxia)人(現代漢人の主要な祖先集団の一つ)集団に2000年前頃以前に同化され、最終的には現代漢人集団の6系統の一つとなりました。最後に、YHg-O1b1a2(Page59)とO1a(M119+, P203-)とO1b1a1a(M95)は黒水国遺跡集団では20%を構成し、アジア東部南方の少数派起源です。後漢期の黒水国遺跡集団の父系の多様性は前漢期集団を上回っており、YHg-N1a2a1(F710)とC2b1(F1144)とO2a2b1a2a1a(F46)とQ1a1a(M120)の追加を特徴づけます。


●mtDNA分析結果

 黒水国遺跡の27標本でmtDNAハプログループ(mtHg)が決定されました(図4)。Y染色体とは異なり、ミトコンドリアの遺伝子プールはより不均一です。黒水国遺跡人口集団のmtHgは、D4が25.93%、D5が18.52%、B5が11.11%、R11が11.11%、B4が3.7%、C4が3.7%、F1が3.7%、G1が3.7%、M11が3.7%、M33が3.7%、M9が3.7%、N9が3.7%です。これらのうち、D4・D5・C4・G1・G3・M11・M9がアジア東部北方起源です。以下は本論文の図4です。
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 mtHg-D4は黒水国遺跡人口集団では最高頻度となり(25.93%)、アジア北部(平均16.7%)とアジア中央部(平均15.3%)とアジア東部(平均22.5%)の人口集団でも高頻度です。本論文では、mtHg-D4はさらに下位クレードのD4a3b*・D4a6・D4b2b*・D4j*に区分できました。mtHg-D5はアジア東部北方全域に中程度から低頻度で広がっており、25%のトゥバラー人(Tubalar)、15.38%の北京漢人、15%の山南(Shannan)チベット人、11.4%の河南省漢人、11.4%のオロチョン人(Orochen)、10.4%の中国の朝鮮人、10.4%の山東省漢人で最高頻度になります。本論文では、mtHg-D5には下位クレードとしてD5a2*・D5a2a・D5a2a1+@16172*・D5b1b*・D5c*が含まれます。mtHgの主要2系統(D4およびD5)は、黒水国遺跡集団では合計44.44%になり、アジア北部に起源があり、分布しています。残りのmtHg-C4・G1・G3・M11・M9は、アジア東部南方よりもアジア東部北方でより一般的です。

 mtHg-B5・B4・F1は黒水国遺跡集団では頻度が18.52%となり、アジア東部南方では比較的一般的で、これらの地域からの遺伝子流入を示唆しているかもしれません。mtHg-B5はアジア東部南方、とくにタイ北部における69.23%のシーク人(Seak)と40%のカルエング人(Kalueng)などのタイ・カダイ語族、タイ北東部における45.83%のブル人(Bru)などのオーストロ・アジア語族、湖南省ヤオ人(Hunan Yao)や貴州省漢人などのミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族人口集団では高頻度を維持しています。mtHg-B5はB5a*・B5a2a1a・B5b2a2*で構成されています。同様に、mtHg-F1・B4はアジア東部南方では一般的で、アジア南部起源です。最後に、mtHg-R11・N9・M33はアジア東部人口集団で散発的に見られます。黒水国遺跡では、前漢と後漢で人口集団間のミトコンドリアの遺伝的多様性の程度は類似していました。要約すると、D4・D5など黒水国遺跡人口集団で優勢なmtHgはアジア東部北方人口集団においてより高頻度な一方で、mtHg-B5・B4・F1は中国南部からの遺伝子流動を反映しているかもしれません。


●集団比較

 黒水国遺跡人口集団と参照人口集団との間の遺伝的関係を調べるため、ハプログループ頻度に基づいて主成分分析が実行されました(図5)。以下は本論文の図5です。
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 遺伝的距離(Fst)ヒートマップも視覚化され、人口集団の関係がさらに調べられました(図6および図7)。以下は本論文の図6です。
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 本論文では、黒水国遺跡人口集団は3集団に分類されました。それは、前漢、後漢、両者を統合する全体的な集団です。主成分分析図(図5)は、PC1軸に沿って前漢集団と後漢集団との間の区分を示します。Y染色体の主成分図(図5A)は、全体的な黒水国遺跡人口集団が南部漢人と北部漢人の勾配に投影されることを明らかにします。より具体的には、前漢集団は南部漢人集団、とくに福建省と広東省の漢人の周りに集まっているようです。以前の研究によると、福建省と広東省の漢人集団は、漢王朝期に始まる中国北部の移民の子孫でした。したがって、前漢期黒水国遺跡人口集団も、中原から河西回廊への移住を反映しているかもしれません。以下は本論文の図7です。
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 後漢集団は主成分分析では北部漢人集団と密接にまとまり、ヒートマップではさらに北部漢人および北西部フェイ人とまとまることから(図6)、経時的な先住の人々との遺伝的混合が示唆されます。母系側では、黒水国遺跡の3人口集団が密集しており(図5B)、前漢から後漢にかけての遺伝的連続性を反映しています。一方で、黒水国遺跡人口集団はブリヤート人などモンゴル語族話者および寧夏自治区漢人など北西部漢人集団の近くに位置づけられ、在来の母系起源が示唆されます。

 要約すると、人口集団間の比較により明らかになるのは、黒水国遺跡人口集団が父系構造の観点では中国の漢人と、母系構造の観点ではモンゴル語族および北西部漢人集団と密接な類似性を示す、ということです。これは、性比の偏った人口集団混合の明確な兆候です。


●黒水国遺跡人口集団の起源

 主成分分析図(図5)は、PC1軸に沿った東西の人口集団の勾配を示します。PC1値をさらに利用して遺伝的等高線図(図8)を生成し、黒水国遺跡人口集団の考えられる起源をさらに視覚化できます。父系側では、前期黒水国遺跡集団の等高線図(図8A)は、河西回廊で急激に低下する前に、中国北西部全域で東方から西方にかけてしだいに増加するPC1値を示します。これは、黒水国遺跡人口集団の外来および東方起源の可能性の手がかりとなります。そうしたパターンは後漢期黒水国遺跡集団では繰り返されません(図8B)。他方、母系側は別の全体像を描き(図8C・D)、前漢集団と後漢集団との間で有意な変動は観察されません。この結果は、黒水国遺跡人口集団における女性の在来起源と、漢王朝期全体の遺伝的連続性を示しており、本論文の主成分分析図と一致します。以下は本論文の図8です。
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●考察

 歴史的記録や考古学的発見や安定同位体分析など複数の証拠は、河西回廊沿いの生計戦略が、漢王朝期に遊牧的経済から混合経済(つまり牧畜と農耕)へとどのように変化したのか、示してきました。以前の研究は、漢王朝期の河西回廊における気候変化と生計戦略の変化との間の関係の調査に焦点を当ててきており、漢王朝の前には、寒冷で乾燥した気候がかなりの範囲の河川を干上がらせ、肥沃な土地を不毛とし、結果として遊牧生活が普及しました。漢王朝期以降の温暖湿潤化は、農耕の繁栄を促進しました。今まで、この移行を単純に気候要因に関連づけることは無理なように見えました。

 黒水国遺跡人口集団のY染色体とmtDNAの特性に基づくと、黒水国遺跡の父系人口集団は黄河流域起源のYHg、つまりO2a2b1a1(M117)とO2a2b1a2a1a(F46)とO2a1b(IMS-JST002611)とO2a2b(P164+, M134-)が全体の割合で50%を超えており、アジア東部南方起源のYHg、つまりO1aとO1bが20%ほどで、アジア東部北方起源のYHg、つまりC2(M217)とN1a(F1206)とQ1a1a(M120)が30%ほどです。黒水国遺跡の母系人口集団は、アジア東部北方のmtHg(D4やD5やC4など)が62.95%ほど、アジア東部南方のmtHg(B5やB4やF1など)が18.52%ほどで構成されています。南部漢人や北部漢人やフェイ人やモンゴル人やチベット人など参照母系人口集団との集団比較(主成分分析とFstヒートマップ)により、黒水国遺跡の集団における北部漢人およびフェイ人集団とのより密接な父系での遺伝的類似性を示せました。主成分分析を介して、経時的な南部漢人勾配から北部および北西部漢人・フェイ人勾配への変化が観察され、黄河流域移民間の遺伝的混合が示唆されます。

 歴史的記録と考古学的発見は、本論文の結果にさらなる信頼性を追加します。歴史学的文献によると、漢王朝政府は黄河流域の約20郡から、張掖(Zhangye)郡と酒泉(Jiuquan)郡と武威(Wuwei)郡と敦煌(Dunhuang)郡の河西4郡へと大規模に集団を移住させ、この地域の行政と管理を強化しました。簡牘はより詳細な情報を提供し、これら男性移民の起源地候補として黄河中流および下流の21郡の手がかりさえもたらします。その21郡とは、弘農(Hongnong)郡、河内(He’nei)郡、琅邪(Langya)郡、昌邑(Changyi)国、平干(Pinggan State)国、大河(Dahe)郡、陳留(Chenliu)郡、汝南(Runan)郡、巨鹿(Julu)郡、潁川(Yingchuan)郡、上党(Shangdang)郡、河南(Henan)郡、済陰(Jiyin)郡、南陽(Nanyang)郡、河東(Hedong)郡、趙国(Zhao State)、東(Dong)郡、梁国(Liang State)、張掖(Zhangye)郡、淮陽(Huaiyang)郡、魏(Wei)郡です(図9)。以下は本論文の図9です。
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 しかし、母系となるmtDNAの観点は、黒水国遺跡人口集団が特定のモンゴル人および北西部漢人集団と密接にまとまることと、漢王朝期全体の遺伝的連続性を示しており、黒水国遺跡人口集団の女性の在来起源の可能性が示唆されます。これは歴史的記録とも一致し、主要な移住事象は多くの場合男性主体で、高頻度で駐屯地建設のための移住や政治的移住や少数集団の移住を含みます。若い男性は通常、駐屯地建設のための移民で、小さな局所的駐屯地の外に家族を連れ出せませんでした。政治的移住には、政治犯や通常犯や自然災害の犠牲者が含まれます。少数集団の移住は、黄河上流域の狄人(Di)やチアン人(Qiang)など、境界地域の反逆者が標的とされました。これらのうち、軍の移住が大半でした。

 これは、性比の偏った混合を黒水国遺跡人口集団で明確に観察できる理由である可能性が高そうです。そうした性比の偏った混合パターンは、漢人とチベット・ビルマ語派話者の人口集団拡大でも観察されており、最近では貴州省のフェイ人でも報告されています(関連記事)。本論文は遺伝的等高線図を描き、黒水国遺跡人口集団の考えられる起源を視覚化しました。図8で示されるように、男性祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のおもにアジア東部東方起源と、女性祖先系統の先住起源とが容易に観察できます。

 本論文では片親性遺伝標識の分析により、男性主体の混合事象が漢王朝期に起きた、と観察され、歴史的記録と考古学的発見によりさらに裏づけられます。ヒトの移住に伴う河西回廊住民のそうした変化していく生計戦略は、偶然ではあり得ません。人々の大量移住と生計生活様式の移植は、漢王朝期において河西回廊の以前の生計戦略に影響を及ぼしたでしょう。本論文は、人口集団混合が生計戦略の変化において重要な原因としてどのように機能したのか、ということへの新たな洞察を提供します。


参考文献:
Xiong J. et al.(2022): Sex-Biased Population Admixture Mediated Subsistence Strategy Transition of Heishuiguo People in Han Dynasty Hexi Corridor. Frontiers in Genetics, 13, 827277.
https://doi.org/10.3389/fgene.2022.827277

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