キリスト教期ヌビアの住民の遺伝的構造
キリスト教期ヌビアの住民の遺伝的構造に関する研究(Sirak et al., 2021)が公表されました。現在のエジプトのアスワンの第一瀑布と、現在のスーダンの首都ハルツームの近くの青ナイル川と白ナイル川の合流点との間のナイル川に位置するヌビアは、継続的なヒト居住の長く動的な歴史があり、アフリカの複数地域とユーラシア西部の人々が相互作用した場所です(図1a)。20世紀を通じて、考古学的遠征隊は、ヌビア人集団とサハラ砂漠の北方およびサハラ砂漠以南のアフリカ両方の人々との間の関係を調べ、この地域の歴史についての議論に情報を提供しました。考古学および歴史学の証拠は、経時的に増加した、6000年以上前に確立されたヌビアとエジプトとの間のとくに動的な関係を証明します。紀元後542年に始まるキリスト教の導入と、紀元後7世紀にエジプトで始まり、その後の700年間にナイル川沿いに南方へと拡大したアラブ人の征服は、ヌビアにおけるユーラシア西部の影響を反映しており、多くの場合エジプトが中継機能を果たしました。
とくに考古学と統合された場合、古代DNAは古代の人口集団のゲノムを形成した過程への洞察を提供できます。本論文は、スーダンのワジ・ハルファ(Wadi Halfa)市の南方約120kmのナイル川第二瀑布と第三瀑布との間に位置するクルブナルティ(Kulubnarti)で、キリスト教期(紀元後650~1000年頃)の初期に暮らしていた66個体のゲノム規模データを提示します。クルブナルティは、紀元後千年紀半ば~後半のヌビア人の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の調査にとって理想的状況を表しており、キリスト教期住民の研究は、考古学および生物考古学的研究により提起された詳細な問題に光を当てる、独特な機会を提供します。
クルブナルティは、ヌビア下部(第一瀑布と第二瀑布との間のヌビアの北部)とヌビア上部(ヌビアの南部)を区切る地域である、荒涼としたバットン・エル・ハジャール(Batn el Hajar)に位置します。頭蓋と歯の特徴の研究では、クルブナルティ遺跡のヌビア人は、ナイル川第二瀑布近くの北方に位置するワジ・ハルファの古代人と類似している、と示唆されています。しかし、形態学的データはゲノム規模データと比較して、生物学的関係の判断の解像度は限定的です。現代ヌビア人の遺伝学的研究は、サハラ砂漠以南のアフリカとユーラシア西部関連の祖先系統の混合を明らかにしていますが、その混合はおもに、紀元後千年紀後半と紀元後二千年紀初期のアラブの征服の結果で、この時期にユーラシア西部関連祖先系統を有する人々がエジプトを経由してヌビアへとナイル川沿いに南方へ拡大しました。より最近の混合は、これらの事象に先行する人々の祖先系統の理解を見えにくくするので、クルブナルティ遺跡の古ゲノムデータは、イスラム教伝来前にこの地域に暮らしていたヌビア人集団の祖先系統と生物学的関係を直接的に調べる機会を提供します。
クルブナルティ遺跡ヌビア人の古代DNA分析も、そこに暮らしていた個体間の関係についての詳細な問題を解決する機会を提供します。考古学者は、クルブナルティの、約1km離れたともにキリスト教式埋葬の2ヶ所の墓地を発掘しました。遺跡21-S-46(S墓地)はクルブナルティ島(ナイル川氾濫の最盛期にのみ現れる真の島)の西側近くに位置し、遺跡21-R-2(R墓地)は、クルブナルティ島の南端の反対側の本土に位置します(図1b)。墓の種類と副葬品は墓地間で区別できませんでしたが、骨学的分析により、一般的なストレス標識と成長および発達のパターンと平均余命を用いて、病的状態と死亡率の顕著な違いが識別されました。平均的には、S墓地の被葬者はR墓地の被葬者より、多くのストレスと疾患を経験し、若くして死亡しました。以下は本論文の図1です。
病的状態と死亡率の違いおよび考古学的証拠を考慮すると、墓の様式の類似性は、R墓地の個体群がより高い経済的地位にあった、と示唆しており、クルブナルティは別々に暮らして区別された埋葬地を利用した、社会的に階層化された2集団に分かれた文化的に均質な人口集団にとって故郷だった、との仮説を提起します。この想定は、クルブナルティの人類学的および考古学的証拠を利用するだけではなく、最近のヌビア人の民族誌的研究でも示唆されます。ヌビアでは、半巡回型の土地を持たない民族的ヌビア人が、土地を持つヌビア人と離れて暮らし、時には土地を持つヌビア人に労働力を提供することもあります。提案された仮説では、類似の社会経済的構造がキリスト教期に存在したかもしれず、それにより、S墓地に埋葬された個体群は、R墓地に埋葬された土地を持つ個体群に季節労働を提供しました。本論文の前には、これらの墓地が遺伝的に異なる集団の埋葬地であったのかどうか、という問題には答えられませんでした。古ゲノムデータは、体系的な遺伝的差異が、2ヶ所の墓地に埋葬された人々の間の経済および社会的違いを伴うのかどうか、解明できます。
本論文が示すのは、キリスト教期クルブナルティ遺跡のヌビア人が、ナイル川関連祖先系統とユーラシア西部関連祖先系統との混合で、ユーラシア西部関連祖先系統はエジプトを経由してヌビアにもたらされた可能性が高いものの、究極的には、青銅器時代と鉄器時代のレヴァントで見られる祖先系統に由来する、ということです。クルブナルティ遺跡被葬者の遺伝子プールは、少なくとも千年の過程で形成され、より広範な人口集団とのつながりを示唆する限定的な人口集団水準の関連性の証拠を示します。これらのつながりは、不釣合いに女性と関連するユーラシア西部関連祖先系統の発見により示唆されるように、女性が媒介したかもしれません。これは、クルブナルティが父方居住社会だったかもしれない、との新たな一連の証拠を提供します。墓地間の親族の特定は、集団間の流動性の想定と一致します。古代DNAは、クルブナルティの2ヶ所の墓地の埋葬は遺伝的違いに強く根差したものではなかった、という仮説を裏づける、新たな一連の証拠を提供します。クルブナルティの墓地の発掘調査のさいには、キリスト教期の墓地の被葬者を祖先とは認めない近隣住民からも研究への同意を得るなど、倫理的に配慮された研究が行なわれました。
●データの概要
確実な古代DNAについてクルブナルティの111個体が検査され、124万ヶ所のゲノム規模一塩基多型(SNP)と重複する配列の有望なライブラリが濃縮されました。これらのデータは、既知の古代アフリカおよびユーラシア西部個体群とアフリカおよびユーラシア西部の現代人の配列とともに分析されました。
29個体で直接的な放射性炭素年代が生成されてベイズ年代モデルが構築され、各墓地のキリスト教式埋葬の開始および終焉年代と期間が推定されました。墓の向きと遺体の位置と関連副葬品の欠如により特定されたキリスト教様式の埋葬を含むS墓地とR墓地両方の考古学的証拠は、同時代の使用を示唆します。本論文の直接的年代は、両墓地の同時性を示唆します(図1c)。R墓地のキリスト教式埋葬は紀元後680~830年頃に始まり、紀元後810~960年頃まで、最大で270年間継続しました。この全てのモデル化された年代は、68.3%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)を表します。同様に、S墓地のキリスト教式埋葬は紀元後660~750年頃に始まり、紀元後900~960年頃まで、最大280年間継続しました。したがって、本論文で分析された埋葬は、いわゆる前期キリスト教期(紀元後550~800年頃)と古典的キリスト教期(紀元後850~1100年頃)の早期に及んでいます。
クルブナルティの33個体(本論文で調べられた個体の半分)は、本論文のデータセットで1個体~5個体の親族を有しており、8つの拡大家族を形成する28組の遺伝的関係を共有しています(図2c)。4組は1親等の親族で(S墓地では3組、R墓地では1組)、集団水準の分析では各組み合わせのうち網羅率がより低い個体は除外されました。本論文は、1個体がR墓地に、他はS墓地に埋葬された7組の親族(最も近縁な組み合わせは2親等)を記録します。墓地間の親族埋葬と関連する年齢もしくは性別パターンはありません。この観察は、墓地が同時代だった第二の一連の証拠を提供し、密接な親族が常に同じ場所に埋葬されたわけではない、と明らかにします。
本論文のデータセットで親族関係の程度が分かる32個体が、墓地内もしくは墓地間の親族の組み合わせの一部だったのかどうか比較すると、1親等および2親等と、全ての1親等と2親等と3親等の親族の組み合わせを集めると、埋葬墓地が家族構造と相関を示さない場合、墓地間の親族の予測率で有意な減少が見つかりますが、この影響は各親等の相対的組み合わせが個別に分析されると、有意ではありません。1親等の組み合わせについては、予測(1.7%)に対する墓地間の親族の組み合わせ率は0%で、2親等の組み合わせ(2%)については予測(4.37%)に対して組み合わせ率は46%、3親等の組み合わせ(4%)については予測(4.21%)にたいして95%となります。
これらの結果が示すのは、人々がひじょうに親密な家族構成員と埋葬される傾向にあるならば予測されるように、同じ墓地に埋葬された親族の組み合わせと、異なる墓地に埋葬された親族の組み合わせがいくぶん濃縮されており、それは1親等および2親等の親族の組み合わせで最も明らかです。しかし、この兆候は、3親族の親族水準では無作為と区別できない水準に減少します。これは、クルブナルティの社会的区分の体系が、おそらくは階層化された集団間の遺伝子流動を妨げなかった、という想定と一致します。以下は本論文の図2です。
限られた食料生産性と経済資源の地域におけるその位置を考えると、考古学的証拠ではクルブナルティの低い人口密度が示唆されるにも関わらず、少なくとも40万ヶ所の一塩基多型が網羅された9個体のうち8個体は、4 cM(センチモルガン)超のROH(runs of homozygosity)におけるゲノムの断片はないか比較的少ない、と本論文は明らかにします。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(同型接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。
4~8cMの短いROHが少ないこと(ROHを有する6個体のうち3個体は、この規模の最大3ヶ所のROHを有します)は、クルブナルティ遺跡ヌビア人の配偶集団が充分には制約されておらず、短いROHの割合が常に高くなったことを示唆します。中間のROH(8~20cM)がより一般的だったという発見は、クルブナルティが、ほぼ共同体で交配していたものの、より大きなメタ集団(ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群)とも交配していた小さな共同体として機能し、配偶集団の全体的な規模が増加していたことを示します。20 cM超の区画においてゲノムの80cMを有するのは1個体(I6336/S27)だけで特定され、これは密接な親族間の子供と予測されます(イトコ同士程度の関係の両親の子供の可能性があります)。
●クルブナルティ墓地被葬者はナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統をさまざまな割合で有します
主成分分析(PCA)を用いて、クルブナルティの2ヶ所の墓地の個体群がどのように古代人および現代人と相互に関連しているのか、示されます。遺伝子型決定されたアフリカとユーラシア西部の現代人集団から推測された最初の2つの主成分(PC)に、古代の個体群が投影されました(図2a)。現代の個体群は2つの勾配に沿って配置され、スーダンと南スーダンとエチオピアのナイル・サハラ語族話者の近くで図の右下の末端を共有しています。第一の勾配は、アフリカ西部関連祖先系統の割合増加と相関しており、ナイル・サハラ語族話者とアフリカ西部人との間に広がっています。第二の勾配は、ユーラシア西部関連祖先系統の割合の増加と関連しており、ナイル・サハラ語族話者からユーラシア西部人にかけて転がっています。
本論文では、「関連する(related)」という修飾語を用いるのは、議論している祖先系統が特定の地理的領域に由来するものの、必ずしもそれ自身の領域には由来しない場合に用いられます。スーダンの北東部および中央部地域のスーダンのアラブ人(本論文では、データを報告した元の文献に従って、民族および言語分類に基づいて、集団の修飾語として用いられます)とベジャ人(Beja)とヌビアの人々は、エチオピアとソマリアのアフロ・アジア語族話者に沿って、この勾配の中間に位置します。
主成分分析における現代人集団の位置は、ユーラシア西部関連祖先系統の割合に基づいて遺伝的変異の主軸を示すスーダンおよびエチオピアの人々と一致し、一般的には言語集団よりも地理と強く相関しています。ユーラシア西部関連祖先系統は、アフリカ北東部では少なくとも5000年間存在しており、それ以上の可能性もありますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、本論文はこの祖先系統を「ユーラシア西部関連」と呼びます。それは、最も近い供給源の可能性が高い、アフリカの適切な系統発生的に隣接する参照集団からの古代の遺伝的データがまだないからです。現代ヌビア人の遺伝的構造は、紀元後千年紀後半と紀元後二千年紀のアラブ人の征服期における、ナイル川と青ナイル川沿いに南進したユーラシア西部関連祖先系統の比較的最近の拡大に影響を受けてきました。したがって、重要な問題は、ユーラシア西部関連祖先系統のかなりの割合が、アラブ人の拡大前にナイル渓谷に存在したのかどうか、そうした祖先系統が究極的にはどこに由来するのか、ということです。
クルブナルティの個体群は、一方の端にナイル・サハラ語族話者、もう一方の端にユーラシア西部人がいる勾配に沿って位置します。クルブナルティ個体群は、現在のスーダンアラブ人とベジャ人とヌビア人、およびセム語族とクシ語派のエチオピア人とほぼ重なります。これが示唆するのは、古代のクルブナルティ個体群がユーラシア西部関連祖先系統およびナイル・サハラ語族話者と関連する祖先系統の両方を有している、ということです。以下、「ナイル川流域(Nilotic)」という用語は、スーダン南部を含むアフリカ北東部に長期にわたって居住してきて、ナイル・サハラ語族言語を話す人々と関連する祖先系統を指すさいに用いられます。ナイル・サハラ語族言語はより広範な地域で話されており、本論文では、「ナイル川流域(Nilotic)」という用語がこの中核地域外のナイル・サハラ語族話者に言及するのに使われない、と強調されます。クルブナルティ遺跡のヌビア人は平均して、ユーラシア西部関連祖先系統を約40%有すると推定されている現代ヌビア人と比較して、わずかにユーラシア西部現代人の方に動いています。この勾配に沿ってのクルブナルティ個体群の広がりは、ユーラシア西部関連祖先系統とナイル川流域関連祖先系統の割合における個体差を示唆しており、R墓地集団もしくはS墓地集団間の祖先系統における体系的違いありません。
クルブナルティ遺跡のヌビア人が混合しているのかどうか検証するため、全ての個体が主成分分析での定性的類似性に基づいて集められ、混合f3統計(クルブナルティ個体群;検証ナイル川流域個体群、検証ユーラシア西部個体群)が計算されました。この検定で負の統計値は、クルブナルティ人口集団のアレル頻度が平均してナイル川流域検証集団とユーラシア西部検証集団の中間になる、と示唆するでしょう。これは、この2人口集団と関連する人々の間の混合の歴史を裏づけます。本論文は具体的には、白ナイル川周辺地域に居住するディンカ人のような集団が、長期の遺伝的連続性、遺伝的孤立、祖先的アフリカ東部人とのつながりを示し、「混合されていない」ヌビア人の遺伝子プールは遺伝的にナイル川流域の人々と最も類似している、という証拠に基づいて、ディンカ人をナイル川流域関連祖先系統の代理として用います。
32の現代および時空間的に多様な古代の人口集団が検証され、ユーラシア西部関連祖先系統が大半を占める古代エジプト人3個体も含められました。この「刊行エジプト人」は、先プトレマイオス期新王国および末期王朝の2個体と、プトレマイオス王朝期の1個体の刊行データから構成され、検証ユーラシア西部人として用いられます(関連記事)。負のf3統計値は、クルブナルティ遺跡ヌビア人がこれらの祖先系統型の間の混合だったことを示唆し、かなりのユーラシア西部関連祖先系統構成要素が、現代の遺伝的景観に寄与した移住の前にヌビアのこの地域に存在した、と確証します。これは、キリスト教の教会、およびギリシア語とコプト語と古ヌビア語の碑文を含む、クルブナルティにおけるユーラシア西部人とエジプト人の影響の証拠と一致します。
主成分分析で投影されたさいに、ナイル川流域とユーラシア西部の勾配に沿うクルブナルティ遺跡ヌビア人の適度な広がりを考えて、個体がナイル川流域もしくはユーラシア西部関連祖先系統の有意な過剰のある外れ値なのかどうか、調べられました。本論文では、「外れ値」は、異なる遺伝的まとまりの一部である個体ではなく、集団の平均と有意に離れている祖先系統の割合のある個体を意味します。これを検証するため、統計値f4(ナイル川流域検証集団、ユーラシア西部検証集団;個体、個体なしのクルブナルティ集団)が用いられ、再度ナイル川流域検証集団としてディンカ人が、ユーラシア西部検証集団としてレヴァント青銅器時代~鉄器時代(BAIA)集団が使用されました。レヴァントBAIAは、青銅器時代と鉄器時代のレヴァントの遺跡群の個体の集まりです。これが選択されたのは、f3統計値検定で最も負のZ値を与え、qpAdmの使用でクルブナルティにおけるユーラシア西部関連祖先系統の最良の代理だと示される標本を構成するからです。
この統計値は各個体で計算され、個体なしクルブナルティ集団は、検証された個体を引いたクルブナルティの全ての個体の集まりです。Z値が5.0超で有意な統計値とみなされます。これは、かなりの個体間の差異の中の最も顕著な外れ値を識別するための厳密な閾値設定です。この閾値で、外れ値6個体が特定されました(図3)。個体I18518/S201は有意により多くのユーラシア西部関連祖先系統を有しています。5個体(S墓地のI18508/S115とI18536/S42b、およびR墓地のI6328/R201とI19135/R91とI6252/R181)は、ナイル川流域関連祖先系統を有意により多く有しており、その後の集団水準の分析では、これらの外れ値個体は除外されました。I19145/R173はqpAdmで推定されるユーラシア西部関連祖先系統の最大の割合を有していますが、この個体は有意な外れ値の閾値を超えていません(Z=−3.9)。これは、この個体の網羅率が比較的低い結果かもしれません(73000ヶ所の一塩基多型)。遺伝的外れ値として除外されたのは6個体だけですが、注目されるのは、比較的最近もしくは継続中の混合の想定と一致する、クルブナルティ遺跡ヌビア人におけるナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統の割合の観点での、過度に分散した不均一性のパターンです。以下は本論文の図3です。
●青銅器時代もしくは鉄器時代レヴァントと類似した祖先系統はエジプト経由でクルブナルティにもたらされた可能性が高そうです
クルブナルティ個体群における、ナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統の相対的割合と、ユーラシア西部関連祖先系統の起源への洞察を得るため、外れ値6個体を除外して再度個体群が集められ、qpAdmが適用されました。クルブナルティ遺跡ヌビア人を、ナイル川流域およびユーラシア西部関連人口集団間の2方向混合の子孫としてモデル化でき、同時にユーラシア西部関連祖先系統のあり得る供給源間で区別できる、参照人口集団一式が選択されました。この検証は、ユーラシア西部古代人の祖先系統の分岐系統を解明するために以前用いられた、関連祖先系統「O9」参照一式で始められました。
ユーラシア西部関連供給源として混合f3統計値で以前に用いられた古代の21人口集団の適合が調べられ、ディンカ人と青銅器時代もしくは鉄器時代のレヴァントの人々(レヴァントBAIA)かアナトリア半島の人々(アナトリア半島前期青銅器時代)との間の2方向混合モデルで、複数の妥当な解決が見つかりました。青銅器時代前のユーラシア西部人口集団は妥当な供給源として合致せず、クルブナルティ遺跡ヌビア人のユーラシア西部関連祖先系統は複雑で、それ自体混合している、と示唆されます。おそらくは、レヴァントおよび/もしくはアナトリア半島関連祖先系統と、銅器時代および前期青銅器時代(EBA)にアナトリア半島とレヴァントへ広がった(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、イラン/コーカサス関連祖先系統の些細ではない量が必要とされます。
クルブナルティ個体群における複雑で混合されたユーラシア西部関連祖先系統は、レヴァント新石器時代関連人口集団で見られるような祖先系統が、数千年前にアフリカの一部の遺伝的景観に重要な寄与をし、イラン新石器時代と関連する祖先系統がレヴァント新石器時代人口集団と関連するより早期の遺伝子流動の後にアフリカの一部で出現して、青銅器時代にレヴァントで(関連記事)、鉄器時代までにエジプトで特定される(関連記事)イラン新石器時代祖先系統を有する、と示す以前の研究と一致します。じっさい本論文では、刊行古代エジプト人も、ユーラシア西部関連供給源として適合する、と明らかになり、ユーラシア西部関連祖先系統の類似型は、クルブナルティとエジプトに存在した、と示唆されます。これは、エジプト人が古代ヌビアに南進してユーラシア西部関連祖先系統をもたらしたより近い供給源だったかもしれない、という地理的および考古学的に妥当な想定と一致します。
複数の2方向混合モデルで、O9参照一式と有効な適合が得られました。したがって、モデル競合手法を採用し、適合モデルの組み合わせを得て、他の適合モデルについて、適合モデルの一つで参照人口集団一式に供給源人口集団を追加し、そのモデルの適合が継続するかどうか、評価されました。モデルが適合しない場合、これは参照人口集団一式へと動いた供給源人口集団が、他の供給源人口集団に存在しないクルブナルティ個体群と遺伝的浮動を共有するので、参照一式へと動いた供給源は、ある意味で遺伝的により近い、という証拠を提供します。
O9参照一式で決定された妥当な3供給源(レヴァントBAIA、アナトリア半島EBA、刊行古代エジプト人)のうち、レヴァントBAIAとアナトリア半島EBAは、刊行古代エジプト人が参照一式に含められると合致せず、刊行古代エジプト人がユーラシア西部関連代理として用いられた場合のみ、適合が得られました。このモデルでは、クルブナルティ遺跡ヌビア人の祖先系統の60.4±0.5%は古代エジプト人関連でした。しかし、古代エジプト人は些細な量ではないディンカ人関連祖先系統を有している、と示され、本論文の再推定では、qpAdmを用いて5.0±0.7%となります。したがって、クルブナルティ遺跡ヌビア人のユーラシア西部関連祖先系統の割合推定では、刊行古代エジプト人を代理供給源として直接的に使用できません。
さらに、ヌビアにもたらされたユーラシア西部関連祖先系統の最も正確な遠位供給源の特定への関心から、刊行古代エジプト人がqpAdmモデルから除外され、再度ユーラシア西部起源の妥当な2人口集団(レヴァントBAIAとアナトリア半島EBA)のみを含めて、モデル競合手法が実行されました。その結果、唯一の適合モデルは、供給源としてレヴァントBAIAを用いたものだけで、クルブナルティ遺跡ヌビア人はユーラシア西部関連祖先系統を57.5±0.3%有しており、それは究極的にはレヴァントの青銅器時代もしくは鉄器時代の人々で見つかる祖先系統と類似しているものの、この祖先系統は古代エジプト人もしくはその関連集団を通じてヌビアにもたらされた可能性が高そうだ、と明らかになりました。これは、ナイル渓谷に居住する人口集団間の深い生物学的つながりを反映しており、後のアラブ人の移住に先行するナイル渓谷におけるユーラシア西部関連祖先系統の存在をさらに確証します。
●クルブナルティ墓地の個体群における祖先系統に体系的違いはありません
人口集団水準のqpAdm分析に続き、qpAdmを用いて、各個体のナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統の割合が定量化されました。クルブナルティ遺跡ヌビア人の非外れ値個体は、ナイル川流域関連祖先系統を35.6~49.0±1.2~3.3%有していますが、外れ値個体I18518/S201は、そうした祖先系統を37.2±1.3%有する、とモデル化されました。I19145/R173は、35.6%のナイル川流域祖先系統とより低い点推定を有しますが、Z値では外れ値として選定されません。外れ値個体のI19135/R91とI6328/R201とI6252/R181とI18508/S115とI18536/S42bは、50.3~53.5±1.4~2.6%のナイル川流域祖先系統としてモデル化され、クルブナルティ人口集団の残りよりも有意に多い割合です。
社会経済的違いを大まかに反映する疾患率と死亡率の有意な違いを経た2ヶ所の墓地に埋葬された個体も、遺伝的祖先系統で違いがあるのかどうか、という未解決の問題に触発されて、R墓地とS墓地に埋葬された個体間の祖先系統の体系的違いが探されました。外れ値個体を除外して墓地によって個体を集めると、両墓地被葬者間でナイル川流域関連祖先系統とユーラシア西部関連祖先系統の平均的な割合には最小限の違いが見つかり、R墓地とS墓地でqpAdmを用いて推定されたナイル川流域関連祖先系統の推定値(42.3±0.4%)と重複します。祖先系統の割合におけるこの違いの重要性を検証するため、qpWaveが適用され、R墓地とS墓地の被葬者間のクレード(単系統群)検定でp=0.25の値が得られました。これが示唆するのは、両集団が同じ人口集団の無作為の標本とじっさいに一致する、ということです。
統計値f4(ディンカ人、ユーラシア西部検証集団;R墓地被葬者、S墓地被葬者)を用いて、R墓地とS墓地の被葬者がクレードを形成する、とさらに確証されます。各ユーラシア西部検証人口集団で検証された複数の仮説を相関させた後では、これは有意ではありません。この結果をさらに裏づけるのは、R墓地とS墓地の被葬者間のFST値0.0013です。しかし要注意なのは、FSTは関連性に敏感で、本論文のデータセットでは複数の2親等もしくは3親等の親族が存在します。複数の墓地間の親族と合わせると、これらの結果が示唆するのは、R墓地とS墓地の被葬者は同じ遺伝的人口集団の一部で、両墓地間で観察された人類学的および考古学的違いの観点での重要な発見は、社会経済的階層構造を示唆している、ということです。
●クルブナルティ個体群の遺伝子プールに寄与した混合の継続的な波
形態学的証拠は、クルブナルティへの地域外からの遺伝子流動がほとんどなかった証拠として解釈されてきており、クルブナルティは比較的孤立していた、と示唆されています。しかし、遺伝的データは、遺伝子流動の検出において形態学的データよりも高解像度です。ナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統の割合における個体間の差異は、混合が比較的最近起きたか、実際に継続中だったことを示唆します。この仮説を検証するため、ソフトウェアDATESが用いられ、単一個体で測定できる祖先系統の共分散パターンを用いて、混合以来の時間が推定されました。再度外れ値を除いてクルブナルティ個体が集められ、参照の組み合わせとしてディンカ人とレヴァントBAIAが用いられ、検証対象の個体よりも平均して22.2±1.4世代前もしくは1世代28年と仮定して620±40年前(95%信頼区間で700~545年前)に混合が起きた、と推定されました。
クルブナルティ個体群の較正されてモデル化された年代範囲の中間点として紀元後810年を用いると、混合は平均して紀元後2世紀初期から紀元後3世紀後期に起きたことになりますが、この手法で得られた年代は、混合の単一波モデルに基づいているので、真の歴史が複数の混合の波もしくは継続的な混合を含んでいる場合、中間値を反映しています。祖先系統の割合における個々の分散を考えると、クルブナルティでの混合は単一の波ではなかった可能性が高そうです。R墓地とS墓地の被葬者についてDATESを別々に実行すると、平均的な混合年代は重なり、それぞれ分析対象の個体群の21.7±1.9世代前と22.3±1.7世代前、もしくは610±50年前と625±50年前(95%信頼区間で715~500年前)と明らかになりました。これは、2ヶ所の墓地の被葬者の類似した人口史の追加の裏づけを提供します。
最近もしくは継続中の混合がクルブナルティ個体群の混合遺伝子プールの形成に寄与したのかどうか、詳細に調べるため、DATESがクルブナルティの各個体に適用されました。有効な推定値とみなされるには0からの違いがZ値で少なくとも2.8必要となり、32個体の推定値が得られました。混合年代の個々の推定値は10.4±3.5世代前(個体I6327/R196)から46.2±11.8世代前(I19143/R150)で、最近では100~500年前(95%信頼区間)の混合と、古くは650~1900年前(95%信頼区間)の混合に相当します。しかし、これらの値は、複数の混合の波もしくは継続的な混合があった場合、平均を反映しています。
個体のほとんどの組み合わせは、重複する推定混合年代(95%信頼区間)となりますが、これは全ての組み合わせに当てはまるわけではなく、混合が全て一度に起きたわけではなかった、という証拠を提供します。較正放射性炭素年代を用いると、紀元前200年(95%信頼区間で紀元前490~紀元後100年)から紀元後660年(95%信頼区間で紀元後470~850年)に及ぶ点推定が観察されます(図4)。全てのあり得る組み合わせ間の違いについてZ値が計算され、検証された仮説の数に基づく重要性についてのボンフェローニ補正後に推定された混合年代において有意な差異が見つかり、平均混合年代推定値に有意な差異があると確証され、千年単位で広がる混合の波がクルブナルティ個体群の遺伝子プールの形成に寄与した、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
●クルブナルティ個体群におけるユーラシア西部関連祖先系統は不釣合いに女性の祖先に由来します
以前の形態学的分析では、クルブナルティ個体群における移動の性特異的パターンの証拠は見つかりませんでしたが、Y染色体とミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析は、性的に偏った祖先系統の明確な全体像を示す可能性は低そうです。なぜならば、ユーラシア西部で一般的な多くのハプログループは、アフリカ北東部でも高頻度で見つかるからです。しかし、ゲノム規模データは、性的に偏った祖先系統の調査に、潜在的により強力な方法を提供します。ユーラシア西部関連祖先系統がクルブナルティへ性的に偏ってもたらされたかもしれない、という証拠について検証するため、男性と女性の人口史が別々に分析されました。
女性は人口集団においてX染色体の2/3を有しているものの、常染色体の半分しか有していないので、X染色体は男女間の非対称的混合の兆候を検出するのに使用できます。したがって、qpAdmを用いて、クルブナルティ遺跡ヌビア人(遺伝的外れ値は除外されます)の常染色体とX染色体について、祖先系統の割合が計算されました。その結果、クルブナルティ遺跡ヌビア人では、代理としてレヴァントBAIAを用いてモデル化されたユーラシア西部関連祖先系統は常染色体の57.5±0.3%を占めますが、X染色体では64.4±1.8%を占め、クルブナルティ遺跡ヌビア人におけるユーラシア西部関連祖先系統は、女性の祖先に不釣合いに由来する、と明らかになりました。女性に由来するユーラシア西部関連祖先系統の割合の点推定は68%で、95%信頼区間(CI)では59~77%です。
ゲノムの片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)で継承された部分を検証すると、母系を共有する1親等ではない親族となる両墓地の63個体のうち35個体は、現在おもにユーラシア西部に分布する11のmtDNAハプログループ(mtHg)に分類されますが、アフリカ北東部でも何千年にもわたってそうした系統の存在が以前の研究で確証されてきました(関連記事)。ユーラシア西部で最も一般的なmtHgを有する35個体の観察は、クルブナルティにおける母方祖先系統が43%~68%の範囲でアフリカ北東部を経由してユーラシア西部の祖先に由来することから予測され(この範囲の各割合が35のユーラシア西部のmtHgを95%CI内で含むのかどうか、という評価に基づきます)、常染色体とX染色体の祖先系統の割合比較による女性に由来するユーラシア西部関連祖先系統の59~77%の推定値と重なります。
両墓地の13個体はmtHg-H2aで、これはアフリカの古代の文脈では以前には見つかっていません。さらに詳しく調べると、このmtHgの個体で通常は見られない3ヶ所の追加の変異が存在することから、この13個体はmtHg-H2aの以前には報告されてない分枝の一部だと示唆されます。両墓地の10個体はmtHg-U5b2b5ですが、この10個体もmtHg-U5b2b5で通常は見られない3ヶ所の追加の変異を示します。その変異のうち1ヶ所は、エジプトのデール・イル・バルシャ(Deir el-Bersha)の4000年前頃の個体で検出されており、クルブナルティ個体群におけるmtHg-U5b2b5の存在は、エジプトとの深いつながりを反映しています。その他のmtHgには、J2a2eやR0a1やT1a7やU1a1やU3bがあり、クルブナルティ個体群と古代エジプト人の両方で見つかっています。mtHg-U1a1とU3bとN1b1a2も、イスラエルとヨルダンの青銅器時代個体群で特定されているので、クルブナルティ個体群でもこれらが存在することは、ゲノム規模データと一致します。
以前の研究では、古代エジプト人でアフリカ起源のmtHg-Lは1個体だけで、女性特有のアフリカ祖先系統は、ローマ期でも北方のエジプトへの影響は限定的だった、と示唆されました。対照的に、クルブナルティ遺跡の28個体はさまざまなmtHg-Lの7系統に分類され、最も一般的なものはアフリカ東部の下位クレードのmtHg-L2a1d1だったので、この地域との深い母系のつながりを裏づけます。クルブナルティ遺跡の4個体はmtHg-L5a1bで、これはアフリカ東部を中心とした稀なmtHg-L5の系統です。mtHg-L5は、アフリカ東部および中央部とエジプトでも低頻度でのみ観察されてきました。mtHg-L5a1b系統は以前に、2300年前頃となるケニアのハイラックス丘(Hyrax Hill)の牧畜新石器時代個体で特定されました。
クルブナルティ個体群の男性30個体のY染色体ハプログループ(YHg)も調べられ、そのうち28個体は父系を共有する1親等の親族ではありませんでした。男性7個体(父系を共有する親族の2組を含みます)はYHg-E1b1b(M215)の分枝(E1b1b1)で、その起源はアフリカ北東部で25000年前頃の可能性が高く、アフロ・アジア語族話者現代人集団で一般的に見られます。男性の部分集合では、YHg-E1b1b1a1a1c(Y125054)が最も一般的で、R墓地の無関係な2個体とともに、S墓地の父と息子の1組が該当します。YHg-E1b1b1の無関係な男性15個体のうち10個体は、R墓地に埋葬されました。S墓地の5個体はYHg-E1b1b1で、もう1個体はYHg-E2a(M41)ですが、9個体は、アフリカ北東部にも分布しているもののユーラシア西部起源の可能性が高いYHgとなり、一方R墓地ではユーラシア西部起源のYHgは3個体のみです。R墓地の男性はアフリカで最も代表的なYHg-Eの可能性がより高い一方で、違いは有意ではないので、これは統計変動である可能性が高いとみなされ、各墓地の男性間の不均一性の証拠とはみなされません。
●現代ヌビア人への洞察
クルブナルティ個体群の古代DNAデータが、遺伝子型決定された現代のマハス(Mahas)とダナグラ(Danagla)とハーファウィエーン(Halfawieen)のヌビア人集団のゲノムを形成した過程への洞察を提供できるのかどうか、との関心からも調べられました。まずqpWaveを用いて、これら現代ヌビアの3人口集団がクルブナルティ遺跡ヌビア人とクレードを形成しないので、追加の混合なしの直接的子孫ではない、と示されます。DATESと上述の同じ参照組み合わせを用いて、混合は平均して、マハス集団では33.9±2.5世代前(95% CIで紀元後889~1210年)、ダナグラ集団では36.6±2.2世代前(95% CIで紀元後855~1095年)、ハーファウィエーン集団では24.2±3.2世代前(95% CIで紀元後1148~1498年)と再度推定されました。これらの年代は、以前の研究の推定値と一致し、紀元後7世紀に始まるアラブ人の征服とともに起きた移住が、現代ヌビア人のゲノムに検出可能な痕跡を残した、という結論を裏づけます。
クルブナルティ遺跡ヌビア人の祖先系統を説明する同じqpAdmモデルも、これら現代ヌビア人に適用できるのかどうか検証されましたが、モデルは検証されたどの現代ヌビア人にも適合しない、と明らかになりました。クルブナルティ個体群を、あらゆる現代ヌビア人集団にとっての2方向混合モデルにおける供給源として適合させることもできませんでした。したがって、これら現代ヌビア人のゲノムを形成した混合事象も、その遺伝子プールにさまざまな型の祖先系統をもたらした、と推測できます。したがって、本論文の主成分分析での表面的類似にも関わらず、本論文で遺伝子型決定データのある現代のヌビア人集団は、キリスト教期の後の追加の混合なしでは、それ以前のクルブナルティ遺跡ヌビア人と関連する1人口集団の子孫ではありません。したがって、現代ヌビア人の遺伝的パターンの研究は、ゲノム規模データと片親性遺伝標識両方の観点で、現代の人口集団の形成について情報をもたらす点で重要ではあるものの、本論文は、これらの結果が古代ヌビア人に単純に外挿法により推定できないことを示します。その代わり、本論文で報告されたような古代DNAデータが必要です。
●考察
考古学と人類学により提起された問題に促され、本論文の分析は、クルブナルティのキリスト教期の人々の祖先系統と、社会的階層構造を示唆する、疾患率と死亡率に有意な違いがある2ヶ所の墓地に埋葬された個体間の遺伝的関係への新たな洞察を提供します。
第一に、クルブナルティ遺跡の全個体は、ナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統のさまざまな量での混合だった、と明らかになりました。ユーラシア西部関連祖先系統の高い割合は、究極的には青銅器時代および鉄器時代のレヴァントの個体群で見られるような祖先系統に由来し、クルブナルティにおける究極的なユーラシア西部起源の文化的影響を示す考古学的証拠と一致します。具体的には、キリスト教の教会、東西方向のキリスト教式埋葬と副葬品の欠如、ギリシア語とコプト語と古ヌビア語の碑文は、ヌビアへのキリスト教到来後の新たな慣行への移行を論証します。古代エジプト人3個体の以前に刊行されたゲノム規模データを活用して示されるのは、クルブナルティ個体群で検出されるユーラシア西部関連祖先系統は、祖先系統の大半がユーラシア西部関連由来で、わずかな割合がナイル川流域祖先系統に由来する、エジプト経由の人々により恐らくもたらされたのだろう、ということです。エジプトを通ってのユーラシア西部関連祖先系統の到来は、紀元前四千年紀前半までに確立したエジプトとレヴァントとの間、および少なくとも紀元前三千年紀後半以来継続していたエジプトとヌビアとの間のつながりの考古学的証拠と一致します。考古学的研究およびストロンチウム同位体研究は、遠くヌビア上部南方までのエジプト人の居住を特定しており、スーダンに根差す在来の文化的伝統とともに、ヌビアとプトレマイオス朝とローマ期エジプトとヘレニズム世界との間の、よく確立された文化的および物質的つながりを明らかにしました。骨格形態の研究と現代の人口集団の遺伝学的研究は、エジプトとヌビアとの間の遺伝子流動など長期の相互作用を示唆します。クルブナルティ遺跡ヌビア人は、北方からバットン・エル・ハジャールへ移住したかもしれない、とさえ提案されてきました。今では、古代DNAを用いて、クルブナルティとナイル渓谷のより北方との間の生物学的つながりについて、さらなる裏づけが提供されます。
第二に、本論文は、クルブナルティのR墓地とS墓地の被葬者間の遺伝的関係についての長年の問題に取り組みます。クルブナルティの全個体間の密接な生物学的および文化的関係を示唆する歴史学と考古学と生物考古学と同位体の証拠と一致して、S墓地に埋葬された人々がR墓地に埋葬された人々と遺伝的に異なっていた、という遺伝的証拠はない、と明らかになりました。したがって、S墓地の被葬者が外国人奴隷か移民か難民で、R墓地被葬者と異なる地理的起源もしくは人口史を有している、という仮説への裏づけは提供されません。2親等程度の墓地間の親族7組が特定され、ひじょうに密接な家族の構成員(1親等および2親等)は同じ墓地に埋葬された可能性が高い一方で、その兆候は3親等水準の親族では無作為の場合と区別できない、と明らかになりました。古代DNAは、クルブナルティの2ヶ所の墓地での人々の埋葬が遺伝的違いに強く根差してはいなかった、という仮説を裏づける、新たな一連の証拠を提供します。代わりに、埋葬パターンは、社会的もしくは社会経済的違いを反映しているかもしれません。その違いはまだ完全には知られていないか、キリスト教の洗礼儀式を受けていない個体もしくは特定の疾患の患者を人口集団の他の人々とは別に埋葬するなどといった、文化的慣行かもしれません。
第三に、クルブナルティ個体群の遺伝子プールに寄与した混合事象はほぼ千年にわたり、祖先系統の割合のかなりの個体間の分散に寄与した、継続中で比較的最近の混合だった、と本論文は示します。ヌビアのメロエ王国の台頭(紀元前300年頃以前)と崩壊(紀元後350年頃以前)は、ユーラシア西部関連祖先系統を有するエジプトの人々と、在来のヌビア人との間の混合について、あり得る歴史的文脈を提供します。ただ、この場合の在来ヌビア人も、この時までにユーラシア西部関連祖先系統をすでにある程度の量有しており、それは、ヌビアのより古い個体群の追加の古代DNA分析によりさらに明らかにされるだろう過程です。アッシリアの侵略により終焉した、第四瀑布近くのナパタ(Napata)の支配期からエジプトのヌビア支配期に続いて、メロエ(Meroë)のヌビア王国が確立しました。メロエ王国の出現はまだよく理解されていませんが、エジプトおよびギリシア・ローマ世界との強い文化的つながりを依然として示すにも関わらず、特徴的なヌビア文化が発達しました。この期間に、バットン・エル・ハジャールを含む第三瀑布の北方地域は居住者が疎らで、エジプトとの交易および交通の維持の役割を担い、北方のエジプト勢力および南方のメロエ王国の両方との直接的接触地域になりました。そのため、妥当な祖先系統供給源は、クルブナルティへと南方に移動しつつ、一方で周辺地域の人口集団と遺伝子を交換し続けた、上エジプトもしくはヌビア下部の人々の混合集団でしょう。この可能性は、キリスト教期に先行するエジプト人とヌビア人のさらなる古代DNA分析を通じて、調査されるべきです。
第四に、本論文のデータは、より多くの女性の移動性(および恐らくは族外婚)と一致します。クルブナルティ個体群におけるユーラシア西部関連祖先系統は女性の祖先と不釣合いに関連している、と本論文は示し、この地域における女性の移動性の重要性を浮き彫りにします。これと一致して、クルブナルティにおける人口規模はバットン・エル・ハジャール遺跡の位置に基づいて小さいと推定されていますが、ROH分析はクルブナルティにおける限定的な人口集団水準の関連性と比較的大きな配偶集団を示しており、より広範な人口集団とのつながりが示唆されます。これらのつながりはおもに女性に媒介されており、クルブナルティは長男子相続権の体系を採用する父系的で父方居住社会だった可能性があります。これは不確かですが、ヌビアの他地域の考古学的枠組み内で解釈された追加の古代DNAデータが、将来この議論に有益なものとなるでしょう。
最後に、現代のヌビア人はキリスト教期の後の混合の追加の波により遺伝的に影響を受けた、という以前の調査結果を裏づけて、現代のヌビア人がクルブナルティ遺跡ヌビア人の直接的子孫だった、という証拠は見つかりません。代わりに、遺伝子流動を伴う相互作用がキリスト教期の後に続き、混合年代から、エジプトとスーダンのアラブ人の征服は、この地域の文化的景観だけではなく、遺伝的景観にも影響を及ぼした、と示唆されます。まとめると、本論文の結果は、数千年前に始まって現在に継続している、ヌビアにおける動的な人口史を明らかにします。
参考文献:
Sirak KA. et al.(2021): Social stratification without genetic differentiation at the site of Kulubnarti in Christian Period Nubia. Nature Communications, 12, 7283.
https://doi.org/10.1038//s41467-021-27356-8
とくに考古学と統合された場合、古代DNAは古代の人口集団のゲノムを形成した過程への洞察を提供できます。本論文は、スーダンのワジ・ハルファ(Wadi Halfa)市の南方約120kmのナイル川第二瀑布と第三瀑布との間に位置するクルブナルティ(Kulubnarti)で、キリスト教期(紀元後650~1000年頃)の初期に暮らしていた66個体のゲノム規模データを提示します。クルブナルティは、紀元後千年紀半ば~後半のヌビア人の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の調査にとって理想的状況を表しており、キリスト教期住民の研究は、考古学および生物考古学的研究により提起された詳細な問題に光を当てる、独特な機会を提供します。
クルブナルティは、ヌビア下部(第一瀑布と第二瀑布との間のヌビアの北部)とヌビア上部(ヌビアの南部)を区切る地域である、荒涼としたバットン・エル・ハジャール(Batn el Hajar)に位置します。頭蓋と歯の特徴の研究では、クルブナルティ遺跡のヌビア人は、ナイル川第二瀑布近くの北方に位置するワジ・ハルファの古代人と類似している、と示唆されています。しかし、形態学的データはゲノム規模データと比較して、生物学的関係の判断の解像度は限定的です。現代ヌビア人の遺伝学的研究は、サハラ砂漠以南のアフリカとユーラシア西部関連の祖先系統の混合を明らかにしていますが、その混合はおもに、紀元後千年紀後半と紀元後二千年紀初期のアラブの征服の結果で、この時期にユーラシア西部関連祖先系統を有する人々がエジプトを経由してヌビアへとナイル川沿いに南方へ拡大しました。より最近の混合は、これらの事象に先行する人々の祖先系統の理解を見えにくくするので、クルブナルティ遺跡の古ゲノムデータは、イスラム教伝来前にこの地域に暮らしていたヌビア人集団の祖先系統と生物学的関係を直接的に調べる機会を提供します。
クルブナルティ遺跡ヌビア人の古代DNA分析も、そこに暮らしていた個体間の関係についての詳細な問題を解決する機会を提供します。考古学者は、クルブナルティの、約1km離れたともにキリスト教式埋葬の2ヶ所の墓地を発掘しました。遺跡21-S-46(S墓地)はクルブナルティ島(ナイル川氾濫の最盛期にのみ現れる真の島)の西側近くに位置し、遺跡21-R-2(R墓地)は、クルブナルティ島の南端の反対側の本土に位置します(図1b)。墓の種類と副葬品は墓地間で区別できませんでしたが、骨学的分析により、一般的なストレス標識と成長および発達のパターンと平均余命を用いて、病的状態と死亡率の顕著な違いが識別されました。平均的には、S墓地の被葬者はR墓地の被葬者より、多くのストレスと疾患を経験し、若くして死亡しました。以下は本論文の図1です。
病的状態と死亡率の違いおよび考古学的証拠を考慮すると、墓の様式の類似性は、R墓地の個体群がより高い経済的地位にあった、と示唆しており、クルブナルティは別々に暮らして区別された埋葬地を利用した、社会的に階層化された2集団に分かれた文化的に均質な人口集団にとって故郷だった、との仮説を提起します。この想定は、クルブナルティの人類学的および考古学的証拠を利用するだけではなく、最近のヌビア人の民族誌的研究でも示唆されます。ヌビアでは、半巡回型の土地を持たない民族的ヌビア人が、土地を持つヌビア人と離れて暮らし、時には土地を持つヌビア人に労働力を提供することもあります。提案された仮説では、類似の社会経済的構造がキリスト教期に存在したかもしれず、それにより、S墓地に埋葬された個体群は、R墓地に埋葬された土地を持つ個体群に季節労働を提供しました。本論文の前には、これらの墓地が遺伝的に異なる集団の埋葬地であったのかどうか、という問題には答えられませんでした。古ゲノムデータは、体系的な遺伝的差異が、2ヶ所の墓地に埋葬された人々の間の経済および社会的違いを伴うのかどうか、解明できます。
本論文が示すのは、キリスト教期クルブナルティ遺跡のヌビア人が、ナイル川関連祖先系統とユーラシア西部関連祖先系統との混合で、ユーラシア西部関連祖先系統はエジプトを経由してヌビアにもたらされた可能性が高いものの、究極的には、青銅器時代と鉄器時代のレヴァントで見られる祖先系統に由来する、ということです。クルブナルティ遺跡被葬者の遺伝子プールは、少なくとも千年の過程で形成され、より広範な人口集団とのつながりを示唆する限定的な人口集団水準の関連性の証拠を示します。これらのつながりは、不釣合いに女性と関連するユーラシア西部関連祖先系統の発見により示唆されるように、女性が媒介したかもしれません。これは、クルブナルティが父方居住社会だったかもしれない、との新たな一連の証拠を提供します。墓地間の親族の特定は、集団間の流動性の想定と一致します。古代DNAは、クルブナルティの2ヶ所の墓地の埋葬は遺伝的違いに強く根差したものではなかった、という仮説を裏づける、新たな一連の証拠を提供します。クルブナルティの墓地の発掘調査のさいには、キリスト教期の墓地の被葬者を祖先とは認めない近隣住民からも研究への同意を得るなど、倫理的に配慮された研究が行なわれました。
●データの概要
確実な古代DNAについてクルブナルティの111個体が検査され、124万ヶ所のゲノム規模一塩基多型(SNP)と重複する配列の有望なライブラリが濃縮されました。これらのデータは、既知の古代アフリカおよびユーラシア西部個体群とアフリカおよびユーラシア西部の現代人の配列とともに分析されました。
29個体で直接的な放射性炭素年代が生成されてベイズ年代モデルが構築され、各墓地のキリスト教式埋葬の開始および終焉年代と期間が推定されました。墓の向きと遺体の位置と関連副葬品の欠如により特定されたキリスト教様式の埋葬を含むS墓地とR墓地両方の考古学的証拠は、同時代の使用を示唆します。本論文の直接的年代は、両墓地の同時性を示唆します(図1c)。R墓地のキリスト教式埋葬は紀元後680~830年頃に始まり、紀元後810~960年頃まで、最大で270年間継続しました。この全てのモデル化された年代は、68.3%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)を表します。同様に、S墓地のキリスト教式埋葬は紀元後660~750年頃に始まり、紀元後900~960年頃まで、最大280年間継続しました。したがって、本論文で分析された埋葬は、いわゆる前期キリスト教期(紀元後550~800年頃)と古典的キリスト教期(紀元後850~1100年頃)の早期に及んでいます。
クルブナルティの33個体(本論文で調べられた個体の半分)は、本論文のデータセットで1個体~5個体の親族を有しており、8つの拡大家族を形成する28組の遺伝的関係を共有しています(図2c)。4組は1親等の親族で(S墓地では3組、R墓地では1組)、集団水準の分析では各組み合わせのうち網羅率がより低い個体は除外されました。本論文は、1個体がR墓地に、他はS墓地に埋葬された7組の親族(最も近縁な組み合わせは2親等)を記録します。墓地間の親族埋葬と関連する年齢もしくは性別パターンはありません。この観察は、墓地が同時代だった第二の一連の証拠を提供し、密接な親族が常に同じ場所に埋葬されたわけではない、と明らかにします。
本論文のデータセットで親族関係の程度が分かる32個体が、墓地内もしくは墓地間の親族の組み合わせの一部だったのかどうか比較すると、1親等および2親等と、全ての1親等と2親等と3親等の親族の組み合わせを集めると、埋葬墓地が家族構造と相関を示さない場合、墓地間の親族の予測率で有意な減少が見つかりますが、この影響は各親等の相対的組み合わせが個別に分析されると、有意ではありません。1親等の組み合わせについては、予測(1.7%)に対する墓地間の親族の組み合わせ率は0%で、2親等の組み合わせ(2%)については予測(4.37%)に対して組み合わせ率は46%、3親等の組み合わせ(4%)については予測(4.21%)にたいして95%となります。
これらの結果が示すのは、人々がひじょうに親密な家族構成員と埋葬される傾向にあるならば予測されるように、同じ墓地に埋葬された親族の組み合わせと、異なる墓地に埋葬された親族の組み合わせがいくぶん濃縮されており、それは1親等および2親等の親族の組み合わせで最も明らかです。しかし、この兆候は、3親族の親族水準では無作為と区別できない水準に減少します。これは、クルブナルティの社会的区分の体系が、おそらくは階層化された集団間の遺伝子流動を妨げなかった、という想定と一致します。以下は本論文の図2です。
限られた食料生産性と経済資源の地域におけるその位置を考えると、考古学的証拠ではクルブナルティの低い人口密度が示唆されるにも関わらず、少なくとも40万ヶ所の一塩基多型が網羅された9個体のうち8個体は、4 cM(センチモルガン)超のROH(runs of homozygosity)におけるゲノムの断片はないか比較的少ない、と本論文は明らかにします。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(同型接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。
4~8cMの短いROHが少ないこと(ROHを有する6個体のうち3個体は、この規模の最大3ヶ所のROHを有します)は、クルブナルティ遺跡ヌビア人の配偶集団が充分には制約されておらず、短いROHの割合が常に高くなったことを示唆します。中間のROH(8~20cM)がより一般的だったという発見は、クルブナルティが、ほぼ共同体で交配していたものの、より大きなメタ集団(ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群)とも交配していた小さな共同体として機能し、配偶集団の全体的な規模が増加していたことを示します。20 cM超の区画においてゲノムの80cMを有するのは1個体(I6336/S27)だけで特定され、これは密接な親族間の子供と予測されます(イトコ同士程度の関係の両親の子供の可能性があります)。
●クルブナルティ墓地被葬者はナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統をさまざまな割合で有します
主成分分析(PCA)を用いて、クルブナルティの2ヶ所の墓地の個体群がどのように古代人および現代人と相互に関連しているのか、示されます。遺伝子型決定されたアフリカとユーラシア西部の現代人集団から推測された最初の2つの主成分(PC)に、古代の個体群が投影されました(図2a)。現代の個体群は2つの勾配に沿って配置され、スーダンと南スーダンとエチオピアのナイル・サハラ語族話者の近くで図の右下の末端を共有しています。第一の勾配は、アフリカ西部関連祖先系統の割合増加と相関しており、ナイル・サハラ語族話者とアフリカ西部人との間に広がっています。第二の勾配は、ユーラシア西部関連祖先系統の割合の増加と関連しており、ナイル・サハラ語族話者からユーラシア西部人にかけて転がっています。
本論文では、「関連する(related)」という修飾語を用いるのは、議論している祖先系統が特定の地理的領域に由来するものの、必ずしもそれ自身の領域には由来しない場合に用いられます。スーダンの北東部および中央部地域のスーダンのアラブ人(本論文では、データを報告した元の文献に従って、民族および言語分類に基づいて、集団の修飾語として用いられます)とベジャ人(Beja)とヌビアの人々は、エチオピアとソマリアのアフロ・アジア語族話者に沿って、この勾配の中間に位置します。
主成分分析における現代人集団の位置は、ユーラシア西部関連祖先系統の割合に基づいて遺伝的変異の主軸を示すスーダンおよびエチオピアの人々と一致し、一般的には言語集団よりも地理と強く相関しています。ユーラシア西部関連祖先系統は、アフリカ北東部では少なくとも5000年間存在しており、それ以上の可能性もありますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、本論文はこの祖先系統を「ユーラシア西部関連」と呼びます。それは、最も近い供給源の可能性が高い、アフリカの適切な系統発生的に隣接する参照集団からの古代の遺伝的データがまだないからです。現代ヌビア人の遺伝的構造は、紀元後千年紀後半と紀元後二千年紀のアラブ人の征服期における、ナイル川と青ナイル川沿いに南進したユーラシア西部関連祖先系統の比較的最近の拡大に影響を受けてきました。したがって、重要な問題は、ユーラシア西部関連祖先系統のかなりの割合が、アラブ人の拡大前にナイル渓谷に存在したのかどうか、そうした祖先系統が究極的にはどこに由来するのか、ということです。
クルブナルティの個体群は、一方の端にナイル・サハラ語族話者、もう一方の端にユーラシア西部人がいる勾配に沿って位置します。クルブナルティ個体群は、現在のスーダンアラブ人とベジャ人とヌビア人、およびセム語族とクシ語派のエチオピア人とほぼ重なります。これが示唆するのは、古代のクルブナルティ個体群がユーラシア西部関連祖先系統およびナイル・サハラ語族話者と関連する祖先系統の両方を有している、ということです。以下、「ナイル川流域(Nilotic)」という用語は、スーダン南部を含むアフリカ北東部に長期にわたって居住してきて、ナイル・サハラ語族言語を話す人々と関連する祖先系統を指すさいに用いられます。ナイル・サハラ語族言語はより広範な地域で話されており、本論文では、「ナイル川流域(Nilotic)」という用語がこの中核地域外のナイル・サハラ語族話者に言及するのに使われない、と強調されます。クルブナルティ遺跡のヌビア人は平均して、ユーラシア西部関連祖先系統を約40%有すると推定されている現代ヌビア人と比較して、わずかにユーラシア西部現代人の方に動いています。この勾配に沿ってのクルブナルティ個体群の広がりは、ユーラシア西部関連祖先系統とナイル川流域関連祖先系統の割合における個体差を示唆しており、R墓地集団もしくはS墓地集団間の祖先系統における体系的違いありません。
クルブナルティ遺跡のヌビア人が混合しているのかどうか検証するため、全ての個体が主成分分析での定性的類似性に基づいて集められ、混合f3統計(クルブナルティ個体群;検証ナイル川流域個体群、検証ユーラシア西部個体群)が計算されました。この検定で負の統計値は、クルブナルティ人口集団のアレル頻度が平均してナイル川流域検証集団とユーラシア西部検証集団の中間になる、と示唆するでしょう。これは、この2人口集団と関連する人々の間の混合の歴史を裏づけます。本論文は具体的には、白ナイル川周辺地域に居住するディンカ人のような集団が、長期の遺伝的連続性、遺伝的孤立、祖先的アフリカ東部人とのつながりを示し、「混合されていない」ヌビア人の遺伝子プールは遺伝的にナイル川流域の人々と最も類似している、という証拠に基づいて、ディンカ人をナイル川流域関連祖先系統の代理として用います。
32の現代および時空間的に多様な古代の人口集団が検証され、ユーラシア西部関連祖先系統が大半を占める古代エジプト人3個体も含められました。この「刊行エジプト人」は、先プトレマイオス期新王国および末期王朝の2個体と、プトレマイオス王朝期の1個体の刊行データから構成され、検証ユーラシア西部人として用いられます(関連記事)。負のf3統計値は、クルブナルティ遺跡ヌビア人がこれらの祖先系統型の間の混合だったことを示唆し、かなりのユーラシア西部関連祖先系統構成要素が、現代の遺伝的景観に寄与した移住の前にヌビアのこの地域に存在した、と確証します。これは、キリスト教の教会、およびギリシア語とコプト語と古ヌビア語の碑文を含む、クルブナルティにおけるユーラシア西部人とエジプト人の影響の証拠と一致します。
主成分分析で投影されたさいに、ナイル川流域とユーラシア西部の勾配に沿うクルブナルティ遺跡ヌビア人の適度な広がりを考えて、個体がナイル川流域もしくはユーラシア西部関連祖先系統の有意な過剰のある外れ値なのかどうか、調べられました。本論文では、「外れ値」は、異なる遺伝的まとまりの一部である個体ではなく、集団の平均と有意に離れている祖先系統の割合のある個体を意味します。これを検証するため、統計値f4(ナイル川流域検証集団、ユーラシア西部検証集団;個体、個体なしのクルブナルティ集団)が用いられ、再度ナイル川流域検証集団としてディンカ人が、ユーラシア西部検証集団としてレヴァント青銅器時代~鉄器時代(BAIA)集団が使用されました。レヴァントBAIAは、青銅器時代と鉄器時代のレヴァントの遺跡群の個体の集まりです。これが選択されたのは、f3統計値検定で最も負のZ値を与え、qpAdmの使用でクルブナルティにおけるユーラシア西部関連祖先系統の最良の代理だと示される標本を構成するからです。
この統計値は各個体で計算され、個体なしクルブナルティ集団は、検証された個体を引いたクルブナルティの全ての個体の集まりです。Z値が5.0超で有意な統計値とみなされます。これは、かなりの個体間の差異の中の最も顕著な外れ値を識別するための厳密な閾値設定です。この閾値で、外れ値6個体が特定されました(図3)。個体I18518/S201は有意により多くのユーラシア西部関連祖先系統を有しています。5個体(S墓地のI18508/S115とI18536/S42b、およびR墓地のI6328/R201とI19135/R91とI6252/R181)は、ナイル川流域関連祖先系統を有意により多く有しており、その後の集団水準の分析では、これらの外れ値個体は除外されました。I19145/R173はqpAdmで推定されるユーラシア西部関連祖先系統の最大の割合を有していますが、この個体は有意な外れ値の閾値を超えていません(Z=−3.9)。これは、この個体の網羅率が比較的低い結果かもしれません(73000ヶ所の一塩基多型)。遺伝的外れ値として除外されたのは6個体だけですが、注目されるのは、比較的最近もしくは継続中の混合の想定と一致する、クルブナルティ遺跡ヌビア人におけるナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統の割合の観点での、過度に分散した不均一性のパターンです。以下は本論文の図3です。
●青銅器時代もしくは鉄器時代レヴァントと類似した祖先系統はエジプト経由でクルブナルティにもたらされた可能性が高そうです
クルブナルティ個体群における、ナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統の相対的割合と、ユーラシア西部関連祖先系統の起源への洞察を得るため、外れ値6個体を除外して再度個体群が集められ、qpAdmが適用されました。クルブナルティ遺跡ヌビア人を、ナイル川流域およびユーラシア西部関連人口集団間の2方向混合の子孫としてモデル化でき、同時にユーラシア西部関連祖先系統のあり得る供給源間で区別できる、参照人口集団一式が選択されました。この検証は、ユーラシア西部古代人の祖先系統の分岐系統を解明するために以前用いられた、関連祖先系統「O9」参照一式で始められました。
ユーラシア西部関連供給源として混合f3統計値で以前に用いられた古代の21人口集団の適合が調べられ、ディンカ人と青銅器時代もしくは鉄器時代のレヴァントの人々(レヴァントBAIA)かアナトリア半島の人々(アナトリア半島前期青銅器時代)との間の2方向混合モデルで、複数の妥当な解決が見つかりました。青銅器時代前のユーラシア西部人口集団は妥当な供給源として合致せず、クルブナルティ遺跡ヌビア人のユーラシア西部関連祖先系統は複雑で、それ自体混合している、と示唆されます。おそらくは、レヴァントおよび/もしくはアナトリア半島関連祖先系統と、銅器時代および前期青銅器時代(EBA)にアナトリア半島とレヴァントへ広がった(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、イラン/コーカサス関連祖先系統の些細ではない量が必要とされます。
クルブナルティ個体群における複雑で混合されたユーラシア西部関連祖先系統は、レヴァント新石器時代関連人口集団で見られるような祖先系統が、数千年前にアフリカの一部の遺伝的景観に重要な寄与をし、イラン新石器時代と関連する祖先系統がレヴァント新石器時代人口集団と関連するより早期の遺伝子流動の後にアフリカの一部で出現して、青銅器時代にレヴァントで(関連記事)、鉄器時代までにエジプトで特定される(関連記事)イラン新石器時代祖先系統を有する、と示す以前の研究と一致します。じっさい本論文では、刊行古代エジプト人も、ユーラシア西部関連供給源として適合する、と明らかになり、ユーラシア西部関連祖先系統の類似型は、クルブナルティとエジプトに存在した、と示唆されます。これは、エジプト人が古代ヌビアに南進してユーラシア西部関連祖先系統をもたらしたより近い供給源だったかもしれない、という地理的および考古学的に妥当な想定と一致します。
複数の2方向混合モデルで、O9参照一式と有効な適合が得られました。したがって、モデル競合手法を採用し、適合モデルの組み合わせを得て、他の適合モデルについて、適合モデルの一つで参照人口集団一式に供給源人口集団を追加し、そのモデルの適合が継続するかどうか、評価されました。モデルが適合しない場合、これは参照人口集団一式へと動いた供給源人口集団が、他の供給源人口集団に存在しないクルブナルティ個体群と遺伝的浮動を共有するので、参照一式へと動いた供給源は、ある意味で遺伝的により近い、という証拠を提供します。
O9参照一式で決定された妥当な3供給源(レヴァントBAIA、アナトリア半島EBA、刊行古代エジプト人)のうち、レヴァントBAIAとアナトリア半島EBAは、刊行古代エジプト人が参照一式に含められると合致せず、刊行古代エジプト人がユーラシア西部関連代理として用いられた場合のみ、適合が得られました。このモデルでは、クルブナルティ遺跡ヌビア人の祖先系統の60.4±0.5%は古代エジプト人関連でした。しかし、古代エジプト人は些細な量ではないディンカ人関連祖先系統を有している、と示され、本論文の再推定では、qpAdmを用いて5.0±0.7%となります。したがって、クルブナルティ遺跡ヌビア人のユーラシア西部関連祖先系統の割合推定では、刊行古代エジプト人を代理供給源として直接的に使用できません。
さらに、ヌビアにもたらされたユーラシア西部関連祖先系統の最も正確な遠位供給源の特定への関心から、刊行古代エジプト人がqpAdmモデルから除外され、再度ユーラシア西部起源の妥当な2人口集団(レヴァントBAIAとアナトリア半島EBA)のみを含めて、モデル競合手法が実行されました。その結果、唯一の適合モデルは、供給源としてレヴァントBAIAを用いたものだけで、クルブナルティ遺跡ヌビア人はユーラシア西部関連祖先系統を57.5±0.3%有しており、それは究極的にはレヴァントの青銅器時代もしくは鉄器時代の人々で見つかる祖先系統と類似しているものの、この祖先系統は古代エジプト人もしくはその関連集団を通じてヌビアにもたらされた可能性が高そうだ、と明らかになりました。これは、ナイル渓谷に居住する人口集団間の深い生物学的つながりを反映しており、後のアラブ人の移住に先行するナイル渓谷におけるユーラシア西部関連祖先系統の存在をさらに確証します。
●クルブナルティ墓地の個体群における祖先系統に体系的違いはありません
人口集団水準のqpAdm分析に続き、qpAdmを用いて、各個体のナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統の割合が定量化されました。クルブナルティ遺跡ヌビア人の非外れ値個体は、ナイル川流域関連祖先系統を35.6~49.0±1.2~3.3%有していますが、外れ値個体I18518/S201は、そうした祖先系統を37.2±1.3%有する、とモデル化されました。I19145/R173は、35.6%のナイル川流域祖先系統とより低い点推定を有しますが、Z値では外れ値として選定されません。外れ値個体のI19135/R91とI6328/R201とI6252/R181とI18508/S115とI18536/S42bは、50.3~53.5±1.4~2.6%のナイル川流域祖先系統としてモデル化され、クルブナルティ人口集団の残りよりも有意に多い割合です。
社会経済的違いを大まかに反映する疾患率と死亡率の有意な違いを経た2ヶ所の墓地に埋葬された個体も、遺伝的祖先系統で違いがあるのかどうか、という未解決の問題に触発されて、R墓地とS墓地に埋葬された個体間の祖先系統の体系的違いが探されました。外れ値個体を除外して墓地によって個体を集めると、両墓地被葬者間でナイル川流域関連祖先系統とユーラシア西部関連祖先系統の平均的な割合には最小限の違いが見つかり、R墓地とS墓地でqpAdmを用いて推定されたナイル川流域関連祖先系統の推定値(42.3±0.4%)と重複します。祖先系統の割合におけるこの違いの重要性を検証するため、qpWaveが適用され、R墓地とS墓地の被葬者間のクレード(単系統群)検定でp=0.25の値が得られました。これが示唆するのは、両集団が同じ人口集団の無作為の標本とじっさいに一致する、ということです。
統計値f4(ディンカ人、ユーラシア西部検証集団;R墓地被葬者、S墓地被葬者)を用いて、R墓地とS墓地の被葬者がクレードを形成する、とさらに確証されます。各ユーラシア西部検証人口集団で検証された複数の仮説を相関させた後では、これは有意ではありません。この結果をさらに裏づけるのは、R墓地とS墓地の被葬者間のFST値0.0013です。しかし要注意なのは、FSTは関連性に敏感で、本論文のデータセットでは複数の2親等もしくは3親等の親族が存在します。複数の墓地間の親族と合わせると、これらの結果が示唆するのは、R墓地とS墓地の被葬者は同じ遺伝的人口集団の一部で、両墓地間で観察された人類学的および考古学的違いの観点での重要な発見は、社会経済的階層構造を示唆している、ということです。
●クルブナルティ個体群の遺伝子プールに寄与した混合の継続的な波
形態学的証拠は、クルブナルティへの地域外からの遺伝子流動がほとんどなかった証拠として解釈されてきており、クルブナルティは比較的孤立していた、と示唆されています。しかし、遺伝的データは、遺伝子流動の検出において形態学的データよりも高解像度です。ナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統の割合における個体間の差異は、混合が比較的最近起きたか、実際に継続中だったことを示唆します。この仮説を検証するため、ソフトウェアDATESが用いられ、単一個体で測定できる祖先系統の共分散パターンを用いて、混合以来の時間が推定されました。再度外れ値を除いてクルブナルティ個体が集められ、参照の組み合わせとしてディンカ人とレヴァントBAIAが用いられ、検証対象の個体よりも平均して22.2±1.4世代前もしくは1世代28年と仮定して620±40年前(95%信頼区間で700~545年前)に混合が起きた、と推定されました。
クルブナルティ個体群の較正されてモデル化された年代範囲の中間点として紀元後810年を用いると、混合は平均して紀元後2世紀初期から紀元後3世紀後期に起きたことになりますが、この手法で得られた年代は、混合の単一波モデルに基づいているので、真の歴史が複数の混合の波もしくは継続的な混合を含んでいる場合、中間値を反映しています。祖先系統の割合における個々の分散を考えると、クルブナルティでの混合は単一の波ではなかった可能性が高そうです。R墓地とS墓地の被葬者についてDATESを別々に実行すると、平均的な混合年代は重なり、それぞれ分析対象の個体群の21.7±1.9世代前と22.3±1.7世代前、もしくは610±50年前と625±50年前(95%信頼区間で715~500年前)と明らかになりました。これは、2ヶ所の墓地の被葬者の類似した人口史の追加の裏づけを提供します。
最近もしくは継続中の混合がクルブナルティ個体群の混合遺伝子プールの形成に寄与したのかどうか、詳細に調べるため、DATESがクルブナルティの各個体に適用されました。有効な推定値とみなされるには0からの違いがZ値で少なくとも2.8必要となり、32個体の推定値が得られました。混合年代の個々の推定値は10.4±3.5世代前(個体I6327/R196)から46.2±11.8世代前(I19143/R150)で、最近では100~500年前(95%信頼区間)の混合と、古くは650~1900年前(95%信頼区間)の混合に相当します。しかし、これらの値は、複数の混合の波もしくは継続的な混合があった場合、平均を反映しています。
個体のほとんどの組み合わせは、重複する推定混合年代(95%信頼区間)となりますが、これは全ての組み合わせに当てはまるわけではなく、混合が全て一度に起きたわけではなかった、という証拠を提供します。較正放射性炭素年代を用いると、紀元前200年(95%信頼区間で紀元前490~紀元後100年)から紀元後660年(95%信頼区間で紀元後470~850年)に及ぶ点推定が観察されます(図4)。全てのあり得る組み合わせ間の違いについてZ値が計算され、検証された仮説の数に基づく重要性についてのボンフェローニ補正後に推定された混合年代において有意な差異が見つかり、平均混合年代推定値に有意な差異があると確証され、千年単位で広がる混合の波がクルブナルティ個体群の遺伝子プールの形成に寄与した、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
●クルブナルティ個体群におけるユーラシア西部関連祖先系統は不釣合いに女性の祖先に由来します
以前の形態学的分析では、クルブナルティ個体群における移動の性特異的パターンの証拠は見つかりませんでしたが、Y染色体とミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析は、性的に偏った祖先系統の明確な全体像を示す可能性は低そうです。なぜならば、ユーラシア西部で一般的な多くのハプログループは、アフリカ北東部でも高頻度で見つかるからです。しかし、ゲノム規模データは、性的に偏った祖先系統の調査に、潜在的により強力な方法を提供します。ユーラシア西部関連祖先系統がクルブナルティへ性的に偏ってもたらされたかもしれない、という証拠について検証するため、男性と女性の人口史が別々に分析されました。
女性は人口集団においてX染色体の2/3を有しているものの、常染色体の半分しか有していないので、X染色体は男女間の非対称的混合の兆候を検出するのに使用できます。したがって、qpAdmを用いて、クルブナルティ遺跡ヌビア人(遺伝的外れ値は除外されます)の常染色体とX染色体について、祖先系統の割合が計算されました。その結果、クルブナルティ遺跡ヌビア人では、代理としてレヴァントBAIAを用いてモデル化されたユーラシア西部関連祖先系統は常染色体の57.5±0.3%を占めますが、X染色体では64.4±1.8%を占め、クルブナルティ遺跡ヌビア人におけるユーラシア西部関連祖先系統は、女性の祖先に不釣合いに由来する、と明らかになりました。女性に由来するユーラシア西部関連祖先系統の割合の点推定は68%で、95%信頼区間(CI)では59~77%です。
ゲノムの片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)で継承された部分を検証すると、母系を共有する1親等ではない親族となる両墓地の63個体のうち35個体は、現在おもにユーラシア西部に分布する11のmtDNAハプログループ(mtHg)に分類されますが、アフリカ北東部でも何千年にもわたってそうした系統の存在が以前の研究で確証されてきました(関連記事)。ユーラシア西部で最も一般的なmtHgを有する35個体の観察は、クルブナルティにおける母方祖先系統が43%~68%の範囲でアフリカ北東部を経由してユーラシア西部の祖先に由来することから予測され(この範囲の各割合が35のユーラシア西部のmtHgを95%CI内で含むのかどうか、という評価に基づきます)、常染色体とX染色体の祖先系統の割合比較による女性に由来するユーラシア西部関連祖先系統の59~77%の推定値と重なります。
両墓地の13個体はmtHg-H2aで、これはアフリカの古代の文脈では以前には見つかっていません。さらに詳しく調べると、このmtHgの個体で通常は見られない3ヶ所の追加の変異が存在することから、この13個体はmtHg-H2aの以前には報告されてない分枝の一部だと示唆されます。両墓地の10個体はmtHg-U5b2b5ですが、この10個体もmtHg-U5b2b5で通常は見られない3ヶ所の追加の変異を示します。その変異のうち1ヶ所は、エジプトのデール・イル・バルシャ(Deir el-Bersha)の4000年前頃の個体で検出されており、クルブナルティ個体群におけるmtHg-U5b2b5の存在は、エジプトとの深いつながりを反映しています。その他のmtHgには、J2a2eやR0a1やT1a7やU1a1やU3bがあり、クルブナルティ個体群と古代エジプト人の両方で見つかっています。mtHg-U1a1とU3bとN1b1a2も、イスラエルとヨルダンの青銅器時代個体群で特定されているので、クルブナルティ個体群でもこれらが存在することは、ゲノム規模データと一致します。
以前の研究では、古代エジプト人でアフリカ起源のmtHg-Lは1個体だけで、女性特有のアフリカ祖先系統は、ローマ期でも北方のエジプトへの影響は限定的だった、と示唆されました。対照的に、クルブナルティ遺跡の28個体はさまざまなmtHg-Lの7系統に分類され、最も一般的なものはアフリカ東部の下位クレードのmtHg-L2a1d1だったので、この地域との深い母系のつながりを裏づけます。クルブナルティ遺跡の4個体はmtHg-L5a1bで、これはアフリカ東部を中心とした稀なmtHg-L5の系統です。mtHg-L5は、アフリカ東部および中央部とエジプトでも低頻度でのみ観察されてきました。mtHg-L5a1b系統は以前に、2300年前頃となるケニアのハイラックス丘(Hyrax Hill)の牧畜新石器時代個体で特定されました。
クルブナルティ個体群の男性30個体のY染色体ハプログループ(YHg)も調べられ、そのうち28個体は父系を共有する1親等の親族ではありませんでした。男性7個体(父系を共有する親族の2組を含みます)はYHg-E1b1b(M215)の分枝(E1b1b1)で、その起源はアフリカ北東部で25000年前頃の可能性が高く、アフロ・アジア語族話者現代人集団で一般的に見られます。男性の部分集合では、YHg-E1b1b1a1a1c(Y125054)が最も一般的で、R墓地の無関係な2個体とともに、S墓地の父と息子の1組が該当します。YHg-E1b1b1の無関係な男性15個体のうち10個体は、R墓地に埋葬されました。S墓地の5個体はYHg-E1b1b1で、もう1個体はYHg-E2a(M41)ですが、9個体は、アフリカ北東部にも分布しているもののユーラシア西部起源の可能性が高いYHgとなり、一方R墓地ではユーラシア西部起源のYHgは3個体のみです。R墓地の男性はアフリカで最も代表的なYHg-Eの可能性がより高い一方で、違いは有意ではないので、これは統計変動である可能性が高いとみなされ、各墓地の男性間の不均一性の証拠とはみなされません。
●現代ヌビア人への洞察
クルブナルティ個体群の古代DNAデータが、遺伝子型決定された現代のマハス(Mahas)とダナグラ(Danagla)とハーファウィエーン(Halfawieen)のヌビア人集団のゲノムを形成した過程への洞察を提供できるのかどうか、との関心からも調べられました。まずqpWaveを用いて、これら現代ヌビアの3人口集団がクルブナルティ遺跡ヌビア人とクレードを形成しないので、追加の混合なしの直接的子孫ではない、と示されます。DATESと上述の同じ参照組み合わせを用いて、混合は平均して、マハス集団では33.9±2.5世代前(95% CIで紀元後889~1210年)、ダナグラ集団では36.6±2.2世代前(95% CIで紀元後855~1095年)、ハーファウィエーン集団では24.2±3.2世代前(95% CIで紀元後1148~1498年)と再度推定されました。これらの年代は、以前の研究の推定値と一致し、紀元後7世紀に始まるアラブ人の征服とともに起きた移住が、現代ヌビア人のゲノムに検出可能な痕跡を残した、という結論を裏づけます。
クルブナルティ遺跡ヌビア人の祖先系統を説明する同じqpAdmモデルも、これら現代ヌビア人に適用できるのかどうか検証されましたが、モデルは検証されたどの現代ヌビア人にも適合しない、と明らかになりました。クルブナルティ個体群を、あらゆる現代ヌビア人集団にとっての2方向混合モデルにおける供給源として適合させることもできませんでした。したがって、これら現代ヌビア人のゲノムを形成した混合事象も、その遺伝子プールにさまざまな型の祖先系統をもたらした、と推測できます。したがって、本論文の主成分分析での表面的類似にも関わらず、本論文で遺伝子型決定データのある現代のヌビア人集団は、キリスト教期の後の追加の混合なしでは、それ以前のクルブナルティ遺跡ヌビア人と関連する1人口集団の子孫ではありません。したがって、現代ヌビア人の遺伝的パターンの研究は、ゲノム規模データと片親性遺伝標識両方の観点で、現代の人口集団の形成について情報をもたらす点で重要ではあるものの、本論文は、これらの結果が古代ヌビア人に単純に外挿法により推定できないことを示します。その代わり、本論文で報告されたような古代DNAデータが必要です。
●考察
考古学と人類学により提起された問題に促され、本論文の分析は、クルブナルティのキリスト教期の人々の祖先系統と、社会的階層構造を示唆する、疾患率と死亡率に有意な違いがある2ヶ所の墓地に埋葬された個体間の遺伝的関係への新たな洞察を提供します。
第一に、クルブナルティ遺跡の全個体は、ナイル川流域およびユーラシア西部関連祖先系統のさまざまな量での混合だった、と明らかになりました。ユーラシア西部関連祖先系統の高い割合は、究極的には青銅器時代および鉄器時代のレヴァントの個体群で見られるような祖先系統に由来し、クルブナルティにおける究極的なユーラシア西部起源の文化的影響を示す考古学的証拠と一致します。具体的には、キリスト教の教会、東西方向のキリスト教式埋葬と副葬品の欠如、ギリシア語とコプト語と古ヌビア語の碑文は、ヌビアへのキリスト教到来後の新たな慣行への移行を論証します。古代エジプト人3個体の以前に刊行されたゲノム規模データを活用して示されるのは、クルブナルティ個体群で検出されるユーラシア西部関連祖先系統は、祖先系統の大半がユーラシア西部関連由来で、わずかな割合がナイル川流域祖先系統に由来する、エジプト経由の人々により恐らくもたらされたのだろう、ということです。エジプトを通ってのユーラシア西部関連祖先系統の到来は、紀元前四千年紀前半までに確立したエジプトとレヴァントとの間、および少なくとも紀元前三千年紀後半以来継続していたエジプトとヌビアとの間のつながりの考古学的証拠と一致します。考古学的研究およびストロンチウム同位体研究は、遠くヌビア上部南方までのエジプト人の居住を特定しており、スーダンに根差す在来の文化的伝統とともに、ヌビアとプトレマイオス朝とローマ期エジプトとヘレニズム世界との間の、よく確立された文化的および物質的つながりを明らかにしました。骨格形態の研究と現代の人口集団の遺伝学的研究は、エジプトとヌビアとの間の遺伝子流動など長期の相互作用を示唆します。クルブナルティ遺跡ヌビア人は、北方からバットン・エル・ハジャールへ移住したかもしれない、とさえ提案されてきました。今では、古代DNAを用いて、クルブナルティとナイル渓谷のより北方との間の生物学的つながりについて、さらなる裏づけが提供されます。
第二に、本論文は、クルブナルティのR墓地とS墓地の被葬者間の遺伝的関係についての長年の問題に取り組みます。クルブナルティの全個体間の密接な生物学的および文化的関係を示唆する歴史学と考古学と生物考古学と同位体の証拠と一致して、S墓地に埋葬された人々がR墓地に埋葬された人々と遺伝的に異なっていた、という遺伝的証拠はない、と明らかになりました。したがって、S墓地の被葬者が外国人奴隷か移民か難民で、R墓地被葬者と異なる地理的起源もしくは人口史を有している、という仮説への裏づけは提供されません。2親等程度の墓地間の親族7組が特定され、ひじょうに密接な家族の構成員(1親等および2親等)は同じ墓地に埋葬された可能性が高い一方で、その兆候は3親等水準の親族では無作為の場合と区別できない、と明らかになりました。古代DNAは、クルブナルティの2ヶ所の墓地での人々の埋葬が遺伝的違いに強く根差してはいなかった、という仮説を裏づける、新たな一連の証拠を提供します。代わりに、埋葬パターンは、社会的もしくは社会経済的違いを反映しているかもしれません。その違いはまだ完全には知られていないか、キリスト教の洗礼儀式を受けていない個体もしくは特定の疾患の患者を人口集団の他の人々とは別に埋葬するなどといった、文化的慣行かもしれません。
第三に、クルブナルティ個体群の遺伝子プールに寄与した混合事象はほぼ千年にわたり、祖先系統の割合のかなりの個体間の分散に寄与した、継続中で比較的最近の混合だった、と本論文は示します。ヌビアのメロエ王国の台頭(紀元前300年頃以前)と崩壊(紀元後350年頃以前)は、ユーラシア西部関連祖先系統を有するエジプトの人々と、在来のヌビア人との間の混合について、あり得る歴史的文脈を提供します。ただ、この場合の在来ヌビア人も、この時までにユーラシア西部関連祖先系統をすでにある程度の量有しており、それは、ヌビアのより古い個体群の追加の古代DNA分析によりさらに明らかにされるだろう過程です。アッシリアの侵略により終焉した、第四瀑布近くのナパタ(Napata)の支配期からエジプトのヌビア支配期に続いて、メロエ(Meroë)のヌビア王国が確立しました。メロエ王国の出現はまだよく理解されていませんが、エジプトおよびギリシア・ローマ世界との強い文化的つながりを依然として示すにも関わらず、特徴的なヌビア文化が発達しました。この期間に、バットン・エル・ハジャールを含む第三瀑布の北方地域は居住者が疎らで、エジプトとの交易および交通の維持の役割を担い、北方のエジプト勢力および南方のメロエ王国の両方との直接的接触地域になりました。そのため、妥当な祖先系統供給源は、クルブナルティへと南方に移動しつつ、一方で周辺地域の人口集団と遺伝子を交換し続けた、上エジプトもしくはヌビア下部の人々の混合集団でしょう。この可能性は、キリスト教期に先行するエジプト人とヌビア人のさらなる古代DNA分析を通じて、調査されるべきです。
第四に、本論文のデータは、より多くの女性の移動性(および恐らくは族外婚)と一致します。クルブナルティ個体群におけるユーラシア西部関連祖先系統は女性の祖先と不釣合いに関連している、と本論文は示し、この地域における女性の移動性の重要性を浮き彫りにします。これと一致して、クルブナルティにおける人口規模はバットン・エル・ハジャール遺跡の位置に基づいて小さいと推定されていますが、ROH分析はクルブナルティにおける限定的な人口集団水準の関連性と比較的大きな配偶集団を示しており、より広範な人口集団とのつながりが示唆されます。これらのつながりはおもに女性に媒介されており、クルブナルティは長男子相続権の体系を採用する父系的で父方居住社会だった可能性があります。これは不確かですが、ヌビアの他地域の考古学的枠組み内で解釈された追加の古代DNAデータが、将来この議論に有益なものとなるでしょう。
最後に、現代のヌビア人はキリスト教期の後の混合の追加の波により遺伝的に影響を受けた、という以前の調査結果を裏づけて、現代のヌビア人がクルブナルティ遺跡ヌビア人の直接的子孫だった、という証拠は見つかりません。代わりに、遺伝子流動を伴う相互作用がキリスト教期の後に続き、混合年代から、エジプトとスーダンのアラブ人の征服は、この地域の文化的景観だけではなく、遺伝的景観にも影響を及ぼした、と示唆されます。まとめると、本論文の結果は、数千年前に始まって現在に継続している、ヌビアにおける動的な人口史を明らかにします。
参考文献:
Sirak KA. et al.(2021): Social stratification without genetic differentiation at the site of Kulubnarti in Christian Period Nubia. Nature Communications, 12, 7283.
https://doi.org/10.1038//s41467-021-27356-8
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