芝健介『ヒトラー 虚像の独裁者』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2021年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はヒトラーの伝記ですが、ヒトラーがどのように人々に受け止められていたのか、という問題も重視しており、ヒトラーの死後におけるヒトラー像の変遷や多様性にも1章が割かれています。少年時代のヒトラーは、多民族国家オーストリアにおける多民族共生・多文化共存の方針に対するドイツ人の反発の影響を強く受けたようです。本書は、怠惰な生活様式、誇大妄想狂、規律に欠けて計画的に物事が進められない性向など、後のヒトラーに見られる特徴は10代後半の頃に定着した、と指摘します。ヒトラーは両親を失った後、18歳からウィーンで暮らし始めますが、この頃には親ユダヤ的傾向を示していたようです。しかしヒトラーは、後の著書『わが闘争』では、ウィーン時代から反ユダヤ主義だった、と主張しており、ヒトラーの自己宣伝にはこうした欺瞞が多く見られます。

 将来の確たる展望がずっと見えなかったヒトラーにとって大きな転機となったのが第一次世界大戦で、オーストリア籍ながらバイエルン王国に従軍志願し、認められました。これまで根無し草的生活を続けていたヒトラーにとって、軍隊は自身の存在意義を確認できる望ましい場所だったようですが、それだけにドイツの革命と敗戦に大きな衝撃を受けたのでしょう。ヒトラーはドイツの敗戦後も軍に残ることができ、その期間に受けた教育により、ユダヤ人を金融資本家=拝金亡者とする主張に強い影響を受けたようです。この後、ヒトラーはドイツ労働者党に入るわけですが、本書は、これが上官の命令によるものだったことを指摘します。ヒトラーはその弁舌により党勢拡大に貢献し、党の指導者たる地位を確立します。1923年11月のミュンヒェン一揆は失敗に終わりますが、本書はこの裁判がヒトラーにとってひじょうに寛大なものだったことを指摘します。

 ミュンヒェン一揆後、ヒトラーの全国的な知名度は高まりますが、ヴァイマル共和国の安定期においてナチスは泡沫政党のままでした。この状況が劇的に変わったのは1930年の国会選挙で、前回(1928年)の12議席(得票率2.6%)から107議席(得票率18.3%)へと躍進します。ただ本書は、これが世界恐慌に起因する突発的な現象ではなく、1929年の州議会選挙など諸地方選挙の結果を見ていくと、それ以前からナチスの躍進は起きていた、と指摘します。そもそも、ナチスは1928年の国会選挙でも、その前回(1925年)と比較すると、議席数を3から12と4倍に増やせていました。1932年7月31日の国会選挙で、ナチスはついに230議席(得票率37.4%)で第一党となります。ところが、同年11月6日の国会選挙で、ナチスは第一党の地位を保ったものの、議席数は196(得票率33.1%)と減少します。本書は、ナチスが支持層をすでに掘り起こし尽くしていた、と指摘します。一方で共産党は議席数を88から100(得票率16.9%)へと増やしており、共産党への保守的な支配層の警戒感も、ヒトラーの首相就任の重要な背景だったようです。

 首相就任後のヒトラーは、共産党や社民党といった左派政党だけではなく、保守政治家やナチス内の突撃隊幹部なども弾圧・粛清することにより、ナチスによる一党制独裁国家を確立します。ただ、国家の中心にヒトラーがいるとはいえ、ユダヤ人政策などでも、ヒトラーの周囲には政策担当組織が多数あり、それぞれが組織利害により競合し牽制し合う関係にあり、ヒトラーを頂点とした一枚岩というわけではありませんでした。ナチス政権期のドイツ(第三帝国)の権力構造には、多頭支配的側面がありました。また本書は、ヒトラー政権成立後のユダヤ人政策の変遷を丁寧に解説しますが、ヒトラーが軍備拡張や領土拡大を優先してユダヤ人政策を後回しにしていたことも指摘しており、ヒトラーの関心をいかに惹きつけるかも(ヒトラーへの「忖度」)、各部署の組織利害にとって重要だったことが窺えます。本書は、第二次世界大戦初期にヘスが単独でイギリスへと飛行したことも、ヒトラーへの極度の「忖度」の帰結だった、と評価しています。

 1939年9月、第二次世界大戦が始まり、ポーランド戦と翌年のフランスの降伏までドイツは快進撃を続けましたが、対イギリス戦では制空権を奪えず第二次世界大戦で初の頓挫となり、1941年6月に始まった独ソ戦でも、当初は順調に進撃したものの、やがて戦線は降着し、次第に悪化していきます。この過程でドイツは、食糧問題などから戦争捕虜やゲットーに押し込めていたユダヤ人への待遇を悪化させ、ついにはユダヤ人、とくに「労働不能」な者を積極的に殺害していくようになります。また、戦局の悪化とともにヒトラーが公に姿を現すことは少なくなっていきました。ヒトラーは戦局の悪化とともに、より怠惰な生活を送るようになっていき、健康状態も悪化していきます。とくに、スターリングラードでの敗北はヒトラーにとって大打撃となり、本書はスターリングラード戦にかなりの分量を割いています。なお本書は、ドイツ軍による1942年のソ連南方での大規模な軍事作戦が行き詰まった、とヒトラーは1942年9月初頭の時点で気づき、それだけではなく、独ソ戦での勝利も覚束ないと悟ったのではないか、と推測しています。

 1945年4月30日、ヒトラーは前日に結婚したエーファ・ブラウンとともに自殺し、翌月、ドイツは連合軍に全面降伏します。本書は、第二次世界大戦後のヒトラー像について、一般的な印象とともに学界の論争を取り上げ、ヒトラー像を政治・経済・思想も含めての文化の流れに位置づけます。本書の整理により、ヒトラーの理解が論争を通じて深化していった、と了解されます。本書の整理からは、指導者としてのヒトラーを第二帝制以来のドイツ社会の中に位置づけ、国民・社会とヒトラーとの相互作用の中にヒトラーの卓越した地位と影響力の形成を把握する必要性が窺えます。


 本書を読んで改めて思ったのが、被害者意識に強く囚われることの危険性です。ヒトラーというかナチスの躍進とその後の侵略戦争および大虐殺の背景に、第一次世界大戦後のヴァイマル共和国において少なからぬ人々に浸透していただろう被害者意識があったように思います。ドイツが第一次世界大戦での敗北により過酷な条件を要求されたことは、少なからぬドイツ人を憤激させたでしょうし、それが、ドイツは軍事的には優勢だったのに、国内の卑劣な裏切り者による「背後からの一突き」のために敗北したのだ、という言説と結びつき、ユダヤ人が「卑劣な裏切り者」の代表的存在に仕立て上げられていくことで、後の大虐殺につながった側面もあるように思います。

 2022年2月24日にロシアがウクライナへの侵攻を開始した背景に、ロシアのプーチン大統領のみならずロシア社会において広くロシアを被害者とする強い認識がある、と多くの報道で指摘されており、それはおおむね妥当なのだと思います。中華人民共和国の露骨な覇権主義路線の背景にも、単に国力が飛躍的に増大したので勢力を拡大しているわけではなく、その背景には、近代以降に中国が受けてきた「屈辱」を晴らし、中国を「本来の光輝ある姿」に回復する、という中国社会における強い観念がある、と多くの報道で指摘されており、これもおおむね妥当だと思います。

 ロシアにしても中華人民共和国にしても、自身をソ連崩壊以降や近現代における「被害者」として強固に規定し、「西側」から侵略・覇権主義・帝国主義と批判されるような行為は、「(栄光に輝く)正当なあるべき姿」への「復旧行為」なのだから正義である、との意識が強くあり、これを単に、軍事力や経済力の圧倒的優位を背景とした、物欲に駆られた侵略行為に対して苦し紛れに言い出した無理筋な正当化とは言えないように思います。ロシアにも中国にも独自の世界観があり、そこにおいては自身が外国勢力に不当な扱いを受けたり侵略されてきたりした紛れもない被害者で、その「復旧行為」を邪魔したり批判したりするのは加害行為であり、侵略者に加担している、というわけです。

 こうしたロシアや中国の世界観には妥当なところも少なくないとは思いますが、一方で、それが周辺諸国など他勢力の世界観や「正義」と衝突するところは多々あるでしょうし、ロシアや中国にとっての「(栄光に輝く)正当なあるべき姿」が、周辺諸国やさまざまな民族および地域などを抑圧する加害行為であることも珍しくないでしょう。ロシアや中国のように、軍事力や経済力で世界に大きな影響力を有しており、世界に壊滅的な打撃を与え得る大国は、被害者意識の発露の抑制に努めるべきだと思います(日本では、たとえば安倍晋三元首相は被害者意識が強かったように思われ、それに妥当性が全くないとまでは言いませんが、一国の政治責任者として好ましくなかった、と私は考えています)。これは国家に限らず、何らかの組織や集団から個人に至るまで同様で、被害者意識を募らせた個人が迷惑行為や凶行に及ぶことは珍しくありません。

 もちろん、被害者意識の発露の抑制に努めるよう求めることは被害者の抑圧につながりかねず、そこは難しい問題ではありますが。重要なのは、被害者の認定を一部の組織や思想の人々に独占させないことだろう、と思います。また、被害者の認定において、被害者に「無謬性」を求める傾向が一般的に強いように思いますが、被害者の人格や言動などに問題があるとしても、それにより被害者性が直ちに喪失するわけではない、という常識論に立ち返ることが重要でしょう。現在進行形のロシアによるウクライナへの侵略についても、ウクライナ側でいかに「ネオナチ」的動向など批判されるべき現象が見られるとしても、大局的に見てロシアによるウクライナへの侵略は否定しようもなく、まずロシアを侵略者として強く指弾することの正当性が大きく損なわれるとは思えません。

 このように自己を被害者だと規定してその言動の正当性を主張する行為は、政治的立場に関わらず普遍的に見られます(田母神俊雄氏のような日本の「右派」にも、「左派」や連合国に対する強烈な被害者意識があります)。『暴力の人類史』では、人間には5つの内なる悪魔があり、その中に、仕返し・懲罰・正義のための道徳的衝動を増幅させるリベンジ(復讐)と、ある人々の間で共有される信念体系で、通常何らかのユートピア構想をともない、無制限の善を追及するために無制限の暴力行使を正当化するイデオロギーが含まれる、と指摘されており(関連記事)、これが自己を被害者だと規定してその言動の正当性を主張する行為と深く関わっているように思います。おそらく、これには深い進化的な認知的基盤があるのでしょう。その意味で、今後も自己を被害者だと規定してその言動の正当性を主張する行為は後を絶たないでしょうから、人間はこの厄介な問題に今後も地道に取り組み続けるしかありません。

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