ヒマラヤ山脈の古代人のゲノム

 ヒマラヤ山脈の古代人のゲノムデータを報告した研究(Liu et al., 2022)が公表されました。チベット高原は、低圧条件、起伏の多い地形、低温、比較的低い生物学的生産性により特徴づけられます。これらの制約にも関わらず、チベット民族はこの環境に上手く適応してきており、何千年もの間、チベット高原で暮らしてきました。この困難な低酸素環境への遺伝的および文化的適応の理解は、考古学と人類学と遺伝学と生理学ではひじょうに興味深いものです(関連記事)。これを完全に理解するには、現代チベットの人口集団の起源に関する多くの基本的質問に答える必要があります。その基本的質問には、供給源人口集団とチベット高原への人々の最初の移動、恒久的なチベット高原人口集団の確立の年代、現代チベット人の祖先の遺伝子プールの確立が含まれます。

 チベット高原への初期の人口集団の移動に関する考古学的データは疎らですが、チベット高原最北東端の海抜3280mに位置する中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)は、16万~6万年前頃の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)関連の人々の存在を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。チベット高原中央部の尼阿底(Nywa Devu、Nwya Devu)遺跡(海抜4600m)の年代は、4万~3万年前頃の現生人類(Homo sapiens)の存在を示唆します(関連記事)。

 これらの遺跡のどれかが、チベット高原におけるヒトの恒久的定住化を反映しているのかどうか、不明です。以前の研究では、チュサン(Chusang)村(海抜4270m)近くの12700~7400年前頃となる狩猟採集民の痕跡から、チベット高原中央部での最初のヒトの恒久的居住が提案されました(関連記事)。対照的に他の研究では、チベット高原中央部の恒久的な人口集団の存在は3600年前頃となるオオムギに依存した農耕の開始まで不可能だった、と主張されました(関連記事)。後者のモデルは一般的に、農耕がより低い高度の遺跡群(海抜2500m未満)からの移民により、チベット高原北東端沿いにもたらされた、と仮定されています。これらの移民は現代チベット人の遺伝子プールにかなり寄与した、と提案されています。

 しかし、現代チベット人のより複雑で複数起源の証拠も、遺伝的データにより裏づけられています。密に標本抽出された片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)は、初期完新世以来のアジア東部北方に存在した系統にその大半をたどれますが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)M16やY染色体ハプログループ(YHg)D1(M174)など、深いユーラシア系統に起源があるより古い年代に分岐したハプログループも、現代チベット人では独自に存在しています。

 チベット人の遺伝子プールへの古代の旧石器時代の寄与との見解も、全ゲノム配列データに基づいて提案されてきました。古代シベリア人および古代型ホモ属(絶滅ホモ属)と現代チベット人のゲノムとを比較した研究は、チベット高原における仮定的な初期の人々の間での、古代の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の混合からの寄与(古代型ホモ属と非古代型ホモ属)を推測しました。この提案は、高地適応に関係する遺伝子「EPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)」遺伝子座におけるハプロタイプの発見と一致しています。このハプロタイプはデニソワ人的な人口集団から現代チベット人の遺伝子プールに遺伝子移入され、高地環境で選択的利点をもたらします(関連記事1および関連記事2)。

 まとめると、現在の遺伝的データはチベット高原の複数段階の定住を示唆します。古代型ホモ属の混合を一定水準チベット高原にもたらした更新世人口集団の移動に続いて、完新世にはチベット高原北東端からの移住がありました。更新世人口集団の正体と起源は不明なままですが、最近の分析は現在の地理的に分散したチベットの人口集団内における遺伝的変異の明確な東西の勾配を特定してきました。この勾配は、オオムギ農耕の拡大と関連していた可能性がある、新石器時代人口集団の移動を反映しているかもしれません。チベット高原への拡大に先行して、オオムギ農耕が紀元前2300~紀元前1800年頃となる斉家(Qijia)文化と関連している集団など、甘粛省・青海省地域の後期新石器時代と前期青銅器時代の人口集団により行なわれていました。この勾配は、紀元後7世紀以降のチベット帝国の拡大など後の歴史的事象、もしくは長距離移住を含まない距離による孤立という形での近隣人口集団間の遺伝子流動の長期にわたる過程によっても、確立したか強化されたかもしれません。

 古代DNAデータはこれらの問題を解決する可能性があり、それは部分的には、古代の人口集団からの遺伝学的推論が、最近の歴史的事象により混同されていないためです。ヒマラヤ山脈に位置するネパール北部中央のムスタン(Mustang)郡の3ヶ所の高地遺跡の個体群(紀元前800~紀元後650年頃)に関する以前の古代DNA研究は、この3ヶ所の遺跡には、チベット高原から移住してきた可能性が高い、明確なアジア東部祖先系統の人口集団が居住していた、と示しました(関連記事)。

 本論文は、ヒマラヤ山脈に位置するネパールのムスタン郡とマナン(Manang)郡(MMD地域)における、これら3ヶ所の遺跡とその他の遺跡群の追加の個体群の古代DNAデータを提示します。これにより、古代DNAデータの時間的範囲は600年以上さかのぼって紀元前1420~紀元後650年頃となり、チベット高原人口集団の最古の遺伝学的証拠が提供されます。これら古代ヒマラヤ山脈の人口集団は遺伝的に現代チベット人とまとまり、チベット人系統の初期の分枝を表している、と示されます。これは、チベット人の遺伝子プールの歴史、その起源、現代チベット人とその近隣集団の分布の歴史の推定について、とくに情報をもたらします。


●標本

 ネパールのMMD地域に位置する7ヶ所の遺跡の古代人38個体のゲノム規模データが分析されました(図1)。内訳は、スイラ(Suila)遺跡が1個体(紀元前1494~紀元前1317年頃)、ルブラク(Lubrak)遺跡が2個体(紀元前1269~紀元前1123年頃)、チョクホパニ(Chokhopani)遺跡が3個体(紀元前801~紀元前770年頃)、ルヒルヒ(Rhirhi)遺跡が4個体(紀元前805~紀元前767年頃)、キャング(Kyang)遺跡が7個体(紀元前695~紀元前206年頃)、メブラク(Mebrak)遺跡が9個体(紀元前500~紀元後1年)、サムヅォング(Samdzong)遺跡が12個体(紀元後450~650年頃)です。以下は本論文の図1です。
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 これら38個体のうち31個体は本論文で新たに報告され、7個体は以前の研究で報告されています(関連記事)。以前に刊行された7個体のうち2個体で新たなデータが作成され、合計で33個体の新たなゲノム規模データが得られました。全てのゲノム規模データはヒトの歯から生成されました。埋葬状況の乱れから、当初は一部の歯が異なる個体に由来すると想定されましたが、後に遺伝的データに基づいて複製標本として特定され、複数の歯のデータを有する9個体が確認されました。7ヶ所の遺跡のうち、スイラとルブラクとルヒルヒとキャングは、これまで記載されていませんでした。

 最初の遺伝的検査後、33個体のうち13個体が低網羅率(0.5~6.6倍)で全ゲノム配列されました。さらに、捕獲濃縮手法を適用して、一塩基多型(SNP)の2組が標的とされました。それは、(1)アフィメトリクス・ヒト起源社(HO)とイルミナ社の遺伝子型決定配列の遺伝標識、および本論文の33個体全てと交差するよう設計された124万ヶ所の多様体一式、(2)現代チベットの人口集団において選択的走査と表現型関連標識から選択されて精選され、21個体で捕獲された5万ヶ所の多様体追加の一式です。

 組み合わされた個体ごとのデータは、古代ゲノムデータの標準的な品質管理基準を満たしました。下流解析のため、HOの5万ヶ所の一塩基多型とイルミナ社の22万ヶ所の一塩基多型の遺伝子型決定配列で作成された、刊行されたゲノム規模遺伝子型データにおもに由来する、2つの参照データセットが構築されました。これらのデータセットは、刊行された古代ゲノムおよび現代のシェルパ人とチベット人の個体のゲノムで増強されました。一塩基多型密度がより高いHO一式でほとんどの分析が行なわれましたが、ネパールとブータンとインドとチベット自治区にわたる多様なヒマラヤ山脈の人口集団の詳細な分析には、イルミナ一式も使用されました。


●高地アジア東部人とその隣人の遺伝的構造

 世界的なヒトの多様性の文脈でネパール(古代MMD地域)の古代の個体群の遺伝的特性を説明するため、まず主成分分析(PCA)が実行されました。MMD地域の古代の個体群が他のアジア東部個体群とまとまることを確証した後、古代MMD地域個体群が、現代のユーラシア東部個体群で計算された最初の2主成分に投影されました(図2)。現代の人口集団は三つの尾根のある構造を形成します。それぞれ、中国南部およびアジア南東部(SC-SEA)、アジア北東部、チベット・ビルマ語派に対応する祖先系統の勾配です。台湾先住のアミ人(Ami)、ロシア極東のアムール川下流域のウリチ人(Ulchi)、ネパールのシェルパ人が、それぞれ三つの尾根の遠位端を形成します。以下は本論文の図2です。
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 チベット・ビルマ語派の尾根は、以前の研究で報告された東西の遺伝的勾配と一致します。以前の研究(関連記事)と一致して、全ての古代MMD地域の個体群は、新たに調査された遺跡であるスイラとルブラクとルヒルヒとキャングを含めて、現代チベットの人口集団とまとまります。教師なしモデルに基づくクラスタ化手法のADMIXTUREから得られた遺伝的特性は主成分分析と一致し、古代MMD地域個体群は中程度から高度の高地の現代の人口集団と独特な祖先的構成要素を共有します。同様に、外群f3統計が示唆するのは、古代MMD地域個体群は相互と最高水準の遺伝的浮動を共有しており、それに続くのが、現代のシェルパ人とチベット人で、その次がナシ人(Naxi)やイー人(Yi)やインドのナガランド(Nagaland)人口集団など低地チベット・ビルマ語派話者です。

 古代MMD個体群の片親性ハプログループも、現代のシェルパ人およびチベット人との密接な遺伝的関係を裏づけます。古代MMD地域の14個体でYHgが分類され、多様性はほとんど観察されませんでした。14個体のうち13個体はYHg-O2a2b1a1(M117)の派生的遺伝標識を有しており、12個体はその下位系統のO2a2b1a1a1a4a1(Oα1c1b-CTS5308)でした。現代の人口集団では、この下位系統はおもにチベット高原のチベット人とシェルパ人で見られ、対照的に、中国南部およびインド北東部でおもに見つかるのは、その姉妹系統のO2a2b1a1a1a4a2(Oα1c1b-Z25929)です。

 全ての現存YHg-O2a2b1a1(M117)系統の急速な拡大は7000~5000年前頃に起きたと推定されており、中国北部起源の可能性が高いシナ・チベット語族言語の拡大の反映として解釈されてきました。とくに、YHg-O2a2b1a1(M117)は黄河上流新石器時代の仰韶(Yangshao)文化および後期新石器時代の斉家(Qijia)文化の古代の個体群でも見つかっており(関連記事)、古代MMD系統の大半が黄河上流地域にさかのぼる証拠を提供します。古代MMDの1個体はYHg-D1aで、これは現在チベット高原におけるもう一方の一般的なYHgです。古代MMD個体群のmtHgはより多様ですが、現代チベット人でもその多くが存在します。


●高地アジア東部人の古代と現代との間の遺伝的関係

 相互に最も密接に関連しているものの、古代MMD個体群はその遺伝的類似性において微妙な違いを示しており、微細規模での遺伝的不均質を示唆しているかもしれません。最も顕著なのは、全ての古代MMD集団がルブラク遺跡2個体と最高の外群f3統計量を有する一方で、チョクホパニ遺跡個体とは最低値を有することです。じっさい、他の全ての古代MMD集団は、最古となるスイラ遺跡個体を含めて、チョクホパニ遺跡個体群よりもルブラク遺跡2個体の方と有意に密接で、それはf4統計(ムブティ人、古代MMD個体群;チョクホパニ遺跡個体群、ルブラク遺跡個体群)で測定されます。同じパターンは、現代ネパールのシェルパ人とチベット人でも観察されますが、低地アジア東部人口集団はチョクホパニ遺跡およびルブラク遺跡個体群と対称的に関連しています。

 qpWaveを用いて、2つの形態が比較されました。それは、ルブラクおよび古代MMDとチョクホパニ、チョクホパニおよび古代MMDとルブラクです。スイラとルヒルヒとメブラクとサムヅォングは本論文の解像度の限界内でルブラクとクレード(単系統群)を形成し、キャングのみがルブラクとわずかに異なる、と示されます。対照的に、チョクホパニの姉妹集団として古代MMD集団をモデル化すると一様に失敗したので、2つの形態のうち後者は却下できます。プリヤール人(Pulliyar)などアジア南部集団からのわずかな寄与とルブラクとの組み合わせは、4集団全てと適切に合致し、アジア南部祖先系統の寄与はわずか1.9~5.1%です。チョクホパニの場合、ルブラク+アジア南部も、ルブラクとナシ人とイー人とナガ人(Naga)も適合しませんが、スイラ+ナシ人とイー人とナガ人はかなりの低地からの寄与(31~40%)と適合します。DATESを用いて、チョクホパニ個体群における混合の有意な兆候も検出され、チョクホパニ個体群の46±11世代前(紀元前2800~紀元前1500年頃)の混合が推定されます。これは、遺伝子流動がチョクホパニ個体群とこれら低地および中程度の高地の人口集団の祖先との間で、紀元前800年頃より前、おそらくは紀元前1500年頃以前に起きたに違いない、と示唆します。

 古代MMD集団と同様に、ネパールのMMD地域とその近隣のゴルカ(Gorkha)郡およびソルクンブ(Solukhumbu)郡の現代のシェルパ人およびチベット人集団は、より遠い場所のチベット人と同様に、ルブラク遺跡2個体と遺伝的に最も近くで、その次に古代および現代のアジア東部人の間では相互と近くなっています。スイラ遺跡の最初の古代MMD集団も、後の古代MMD集団と同様に、現代のシェルパ人とチベット人の外群f3統計兆候の上位に入っています。チョクホパニ遺跡個体群は、低地人との混合兆候から予測されるように、外群f3統計値はより小さくなっています。したがって、ルブラク遺跡とスイラと遺跡の個体群は、チベット高原とヒマラヤ山脈で最も豊富な遺伝子プールの現時点で最初の既知の代表である、と結論づけられます。この遺伝子プールは本論文では「チベット」系統と呼ばれます。


●高地アジア東部人の二重の遺伝的起源

 考古学的データは、黄河上流および中流の新石器時代人口集団が、チベット高原への農耕拡大に大きな文化的影響を及ぼした、と示唆します(関連記事)。この地域は、シナ・チベット語族の起源地として可能性が高い、とも提案されてきました(関連記事11および関連記事2)。興味深いことに、古代の低地アジア東部人(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)では、黄河上流地域とその周辺の中期~後期新石器時代集団が、古代MMD集団と最も密接な遺伝的類似性を示します。

 これらには、黄河上流地域の斉家文化に属する金蝉口(Jinchankou)遺跡と喇家(Lajia)遺跡の後期新石器時代個体群(紀元前2300~紀元前1800年頃、黄河上流LN)、陝西省の神圪墶梁(Shengedaliang)の石峁(Shimao)遺跡の後期新石器時代個体群(紀元前2250~紀元前1950年頃、石峁LN)、モンゴル南部(中華人民共和国内モンゴル自治区)の廟子溝(Miaozigou)遺跡中期新石器時代個体群(紀元前3550~紀元前3050年頃、廟子溝MN)が含まれます。これら3集団は類似の遺伝的特性を有しており、その祖先系統の80%は中原の汪溝(Wanggou)と小呉(Xiaowu)の仰韶文化遺跡の中期新石器時代個体群(黄河MN)と関連する遺伝子プールに、残りの20%はロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)遺跡(関連記事1および関連記事2)の新石器時代狩猟採集民(悪魔の門EN)と関連するアジア北東部古代人(ANA)遺伝子プールに由来します。

 黄河上流LNと黄河MNを低地遺伝子プールの代表として採用し、qpGraphを用いての図に基づく手法で、古代MMDと黄河上流LNおよび黄河MNとの間の関係がモデル化されました。黄河MNは、古代MMD集団と現代のシェルパ人およびチベット人の主要な供給源を模倣できず、それはおもに古代MMDのANA遺伝子プールとの余分な類似性に起因します。対照的に、黄河上流LNはANAとのより強い遺伝的類似性を有しており、最高得点図では一貫して主要な遺伝的供給源として選択されます(図3)。

 チベット高原の初期農耕民との時空間的近接性とともに、本論文の結果は、チベット高原人口集団とチベット高原北東端の初期オオムギ農耕民の先行者との間の大きな遺伝的つながりを裏づけます。しかし要注意なのは、この遺伝的つながりはすでに、チベット高原最南端の紀元前1494~紀元前1317年頃となる最初の古代MMD集団で確立していた、ということです。この年代は、提案されたチベット高原北東端からの紀元前1650年頃となるオオムギ農耕民拡大開始(関連記事)から、わずか200年後です。これらの調査結果を説明するには、起伏の多い土地を1800km以上横断する、チベット高原全域での黄河からの急速な人口集団拡大が必要でしょう。したがって、オオムギ農耕の拡大に先行して、低地人とのかなりの遺伝的交換が起きた可能性は高そうです。以下は本論文の図3です。
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 古代MMD集団は、その祖先系統の80~92%が黄河上流LNと関連する系統に由来しますが、現代のシェルパ人およびチベット人とともに、黄河上流LNの姉妹クレードとして適切にはモデル化されません。これは、デニソワ人と関連する混合からのEPAS1アレル(対立遺伝子)を含めて、低地人と共有していないチベット人の特有の遺伝的構成要素を考えると、予測されたことです。むしろ、古代MMD集団の祖先系統の残りの8~20%は、ユーラシア東西の分枝間の分岐近くの人口図の深い部分に由来します(図3)。しかし、この供給源は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や古代MMD集団のゲノムに0.5%未満の寄与をしたデニソワ人など、古代型ホモ属に由来するわけではありません。

 本論文の結果は、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(関連記事)の個体(関連記事)、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された39560年前頃の個体(関連記事)、アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)関連個体およびアンダマン諸島のオンゲ人と関連する系統(関連記事)など、チベット人系統への遺伝子流動の以前に提案された供給源を却下します。代わりに、古代MMD集団の祖先系統に8~20%ほど寄与したのは、初期ユーラシアの遺伝的多様性内でまだ標本抽出されていない別の系統である、と示唆されます。


●ヒマラヤ山脈へのチベット・ビルマ語派話者拡散の二つの経路

 ヒマラヤ山脈の南側斜面には、さまざまな標高にわたって階層化の顕著なパターンを示す多くの民族言語集団が存在します。インド・イラン語派話者のアジア南東部人口集団は低地に、タマン人(Tamang)やグルン人(Gurung)などさまざまな非チベット人チベット・ビルマ語派話者集団は中程度の高地に居住しています。ネパールのチベット人とシェルパ人はチベット高原からヒマラヤ山脈に(北方経路で)到来した可能性が高い一方で、以前の遺伝学的研究は、中程度の標高のチベット・ビルマ語派集団の移住について、別の南方経路を示唆しました。しかし、非チベット人チベット・ビルマ語派話者集団が相互に、およびチベット人系統とどのように関連しているのかは、不明確なままでした。

 本論文は、チベット人系統内で最も代表的な古代人集団であるルブラク遺跡2個体を用いて、チベット・ビルマ語派集団の遺伝的歴史を調べます。具体的には、高解像度の低地人祖先系統からチベット人系統を区別するために重要な外群としてルブラク遺跡2個体を用いる一方で、一方の供給源としてツム(Tsum)のネパールのチベット人、他の供給源として黄河上流LNおよび黄河MNを用いて、シェルパ人およびチベット人と他のチベット・ビルマ語派集団をモデル化します。

 以前の報告と一致して、チベット高原とヒマラヤ山脈のチベット人集団は遺伝的勾配を形成する、と観察されます。まず、相互にクレードを形成する、ムスタン郡とゴルカ郡、具体的にはムスタン郡上部とヌブリ(Nubri)とツムのネパールのチベット人と、ソルクンブ郡のシェルパ人は、その祖先系統の87~92%がツムのチベット人により表されるチベット人系統に由来します(図4)。次に、ラサやシガツェ(Shigatse)や山南(Shannan)など、ヒマラヤ山脈の人々と比較的近いチベット人は、その祖先系統の大半がチベット人系統に由来します(76~86%)。

 最後に、さらに東方もしくは北東方向のチベット人集団は、低地人系統からのずっと高い寄与を有します(21~58%)。古代MMDと黄河上流LNにより表される、この勾配の両極はすでに紀元前1420年頃までに存在していた、と分かっていますが、現代の勾配を形成した両極間の混合過程は後に起きたかもしれません。チベット高原における追加の考古遺伝学的研究が、いつ勾配が形成され始めて、チベット高原全域でそれがどのように経時的に発達していったのか、と理解するのに必要です。以下は本論文の図4です。
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 非チベット人チベット・ビルマ語派話者人口集団に関しては、チベット高原周辺経路沿いの遺伝的つながりが推測されます(図5)。本論文は、チベット高原南東端でナシ人とイー人から始まり、南西へと時計回りに進む結果を説明します(図5)。まず、中国南西部のナシ人とイー人は、黄河MNと密接に類似しているものの、黄河上流LNとは異なる遺伝的特性を有しています。qpAdmを用いて、ナシ人とイー人は黄河MNの姉妹クレードとしてモデル化され、チベット人系統からの寄与は必要ありません。代理として黄河上流LNを用いてのモデルは、黄河上流LNからの1以上の大きな祖先系統係数を戻すことにより失敗します。インド北東部のナガ人は、黄河MNとナシ人とイー人の68~78%とチベット人系統22~32%の混合としてモデル化されます(図5)。以下は本論文の図5です。
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 最後に、ヒマラヤ山脈南部の中程度の標高地域のタマンとグルンの人々は、チベット人系統の祖先系統の割合がより高く(60~63%)、黄河MN的祖先系統に加えてアジア南部祖先系統からの流入(9~19%)もあります。黄河MNの代わりに供給源としてナシ人とイー人とナガ人を用いてのモデル化も適合します。この同じ3方向混合モデル、つまりチベット人系統+黄河MNおよびナガ人系統+アジア南部人系統も、以前に刊行されたブータンのヒマラヤ山脈の16集団と適切に一致し、黄河MNおよびナガ人系統(21~47%の黄河MNもしくは32~75%のナガ人)とチベット人系統(20~82%)からの寄与は不均質な水準です。

 全体的に、アジア南部人の寄与は小さいものの、多くのブータン人集団では無視できず、その範囲は0~7%です。興味深いことに、バラム人(Baram)やシャンティアル人(Chantyal)やチェパン人(Chepang)やグルン人など、かなりのアジア南部人祖先系統を有するネパールの人口集団については、プリヤール人などインド南部の部族集団の方が、インド北部集団よりもよくアジア南部人祖先系統を表しています。これらの結果は、ヒマラヤ山脈におけるチベット・ビルマ語派話者人口集団の複雑さと多層混合の歴史を浮き彫りにします。


●チベット人におけるEPAS1およびEGLN1領域の長期にわたる正の選択

 以前の研究(関連記事)では、EPAS1遺伝子で正の選択を受けた一塩基多型の派生的アレルは、後のサムヅォング遺跡個体群だけで観察されるものの、より古いチョクホパニ遺跡個体群とメブラク遺跡個体群では観察されない、と報告されました。新たな古代MMD個体のゲノムを含めると、チョクホパニ遺跡個体群とスイラ遺跡個体群では、EPAS1遺伝子のハプロタイプで派生的アレルが依然として観察されませんが、他の5ヶ所の遺跡では中間の頻度(25~58%)で観察されます。興味深いことに、古代人標本の派生的アレルの頻度は現代チベット人(75%)より低く、選択はこれらのアレルで最近の過去でも依然として作用している、と示唆されます。

 EGLN1遺伝子の2つの適応的非同義アレルの頻度変化の調査も試みられました。それは、アジア東部人で一般的なrs12097901と、事実上チベット人に固有のrs186996510です。残念ながら、不利な捕獲条件のため、これら2ヶ所の一塩基多型の網羅率は制約されます。それにも関わらず、ショットガン配列からの読み取りが示唆するのは、古代MMD個体群標本におけるEGLN1遺伝子にまたがるゲノム領域の派生的アレルの頻度は、現代のチベットの人口集団と類似している、ということです。この発見が、EGLN1アレルの選択は古代MMD標本により網羅される期間には拡大しなかったのか、それとも単に配列データの希薄に起因するのか、どちらを示唆するのかは不明です。

 次に、この研究と以前の研究でショットガン配列された18個体を利用して、ウィンドウベースのf3統計でゲノム規模選択走査が実行されました(図6)。この方法は、外群として中国の漢人を用いて古代と現代のチベット人の間のアレル頻度の違いを定量化するので、古代MMD標本の時代以降の現代チベット人における正の選択の検出を目的とします。古代人17個体(関連性のために1個体が除外されます)を組み合わせると、EPAS1遺伝子と重複するゲノム領域は最も強い兆候を示唆し、この遺伝子座における継続的な正の選択を裏づけます。以下は本論文の図6です。
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 EGLN1遺伝子と重複するゲノム領域は、二番目に強い兆候を示します。興味深いことに、これらの領域におけるf3統計の上昇は、古代MMD個体群においてすでに高頻度に達していた非同義一塩基多型のrs12097901とrs186996510ではなく、代わりに古代MMD個体群と漢人では一般的であるものの、現代チベット人では稀な一塩基多型により駆動されます。次に、この選択的走査で見られる兆候と、現代の人口集団のデータのみの使用により特定される兆候の、以前の一式との間の重複が見られました。重複する兆候の3つを除く全てが、EPAS1および EGLN1遺伝子座における最も強い兆候により寄与されているようです。残りの3領域のうち2つはPET112およびMCL1遺伝子にまたがっており、これらは低酸素への反応のよく確立された候補ではありません。残りの1領域はAKT3遺伝子を含んでおり、これは血管形成に関わっていて、候補となる遺伝子研究では赤血球の特性の制御に関わっています。


●考察

 本論文は、ヒマラヤ山脈の古代人38個体の遺伝的特性を分析し、チベット人やシェルパ人など高地アジア東部人で現在見られる祖先系統が、紀元前1494~紀元前1317年頃までに低地人とすでに明確に分岐していた、と示します。これは、チベット人の遺伝子プールについての最初の証拠を、チョクホパニ遺跡個体群についての以前の研究(関連記事)より少なくとも500年さかのぼらせます。本論文はこれらの初期ゲノムを活用して、チベット人の遺伝的歴史とチベット高原およびその周辺の近縁集団の重要な特徴を明らかにします。チベット人系統は2つの遺伝的祖先系統の供給源の混合としてよくモデル化される、と明らかになりました。一方は、古代および以前には特徴づけられていなかった旧石器時代の基層で、現代チベット人の祖先系統の最大20%を占めます。もう一方は、後期新石器時代にチベット高原の北東端に居住していた低地人と関連します。旧石器時代の基層は、これまでに研究された現代の人口集団では、チベット人の遺伝子プールに排他的に寄与したようです。

 本論文における現代のチベット人および非チベット人チベット・ビルマ語派話者の広範なモデル化は、その遺伝的歴史の説明のため2つの遺伝的勾配を識別します。この2つの勾配は、ヒマラヤ山脈の多様なチベット・ビルマ語派言語の分布に反映されている、人口集団の2つの異なる拡散を反映しています(図5)。一方は、チベット高原をその北東端からヒマラヤ山脈へと横断し(北方経路)、もう一方はチベット高原周辺部とヒマラヤ山脈の南端に沿ったものです(南方経路)。本論文は、北方の勾配に沿ったチベットの人口集団の混合モデル化を提供し、この勾配についての以前の報告を裏づけます。ヒマラヤ山脈の南斜面に沿った現代のチベット・ビルマ語派話者の遺伝・文化・言語の多様性は、後期新石器時代以降の分離に続いての、これら2経路を経由して到来した古代の人口集団の合流を反映しています。

 チベット人の遺伝的特性の固有の特徴は長い間研究者を困惑させ、中国の漢人と3000年前頃以降に分岐した姉妹クレードを表している、との見解から、チベット人は中国の漢人と関連する系統から9000年以上前に分岐し、ウスチイシム個体に代表される旧石器時代シベリア人もしくは未知の古代型ホモ属からの遺伝子流動があった、とする見解まで、著しく異なっていてしばしば矛盾する人口史モデルにつながりました。さらに、互いに矛盾しているこれら以前のモデルは、現代のチベット人と中国の漢人のデータに基づいて開発され、両人口集団がシナ・チベット語族の2つの主要な分枝(チベット・ビルマ語派とシナ語派)の祖先となる古代人集団の代表である、という過度に単純な過程を受け入れました。本論文は、モデル化では現代の人口集団よりも系統のより良好な代表である、重要な期間と地理的位置からの古代ゲノムデータを利用し、提案された人口統計学的モデルの直接的検証を実行しました。

 本論文では、現代チベット人の祖先は遅くとも紀元前1420年頃以降にはヒマラヤ山脈に存在した、と示されます。その頃には、スイラ遺跡やルブラク遺跡など古代MMD遺跡群において持続的なヒトの存在の直接的証拠が出現します。さらに本論文は、初期ヒマラヤ山脈人口集団と、紀元前2300~紀元前1800年頃にチベット高原北東端に沿って暮らしていた後期新石器時代集団(黄河上流LN)との間の、密接な関係を確証します。甘粛省・青海省地域の新石器時代集団は、後にチベット高原へと拡大した集団の祖先的人口集団を含んでいる可能性が高いものの、この拡大の正確な時期は明確ではありません。

 キビよりもチベット高原のより寒冷で乾燥した気候に適したオオムギの耕作は、チベット高原への新石器時代の拡大を可能にした、と長く主張されてきました。本論文の結果は、オオムギに駆動された紀元前1650年頃となるチベット高原への拡大という、長く維持されてきた仮説に表面上は適合するかもしれませんが、そうしたわずか200年での青海省からヒマラヤ山脈への大規模な人口拡散が、チベット高原と甘粛省・青海省地域との間の古代の遺伝的つながりの唯一の説明である可能性は低そうです。

 本論文は、チベット高原と低地の人口集団間の遺伝的つながりがずっと早く形成されたかもしれず、したがってユーラシア西部起源のオオムギもしくは他の栽培化された植物や家畜化された動物の導入と関連していないかもしれない、との代替的な想定を提案します。チベット東部のカロウ(Karou)遺跡(5000~3000年前頃)とラサ近郊のクゴン(Qugong)遺跡(3800~3000年前頃)は、在来の考古学的伝統と、斉家文化とは異なる集合構成要素と土器様式を有しています。さらに、ゾングリ(Zongri)遺跡(紀元前2600~紀元前2000年頃)の証拠が示唆するのは、チベット高原の狩猟採集民は推定されるオオムギの導入のずっと前に低地人とキビを交換していた、ということです。

 8000年前頃と推定されたEGLN1遺伝の選択的一掃と組み合わされた黄河上流LNにおけるEGLN1遺伝子の選択兆候の欠如は、甘粛省・青海省地域におけるオオムギの到来のずっと前に2つの人口集団がすでに分岐していた可能性を示唆します。オオムギは甘粛省・青海省地域では早くも紀元前2000年頃には比較的重要ではない作物として耕作されており、紀元前1650年頃以前のより早期のオオムギ主導の拡大の可能性があるものの、そうした想定を裏づける考古学的証拠はありません。本論文は、提示したデータがオオムギにより駆動された拡大との仮説を完全に却下するわけではないことを認めます。したがって、この仮説を直接的に検証するには、紀元前1650年頃よりも古いチベット高原の古代人のゲノムの調査が必要です。

 最後に本論文は、高地アジア東部人の遺伝子プールの形成における自然選択の影響が長期にわたることを示します。注目すべきは、EPAS1のアレル頻度における古代MMD標本と現代チベット人にまたがる期間の経時的増加が、このデニソワ人に由来する遺伝子多様体の、ゆっくりではあるものの安定した作用を浮き彫りにしていることです。チベット高原全域の追加の古代人ゲノムに関する将来の研究は、チベット人の2つの識別特性遺伝子(EGLN1とEPAS1)の進化史の包括的理解とともに、現代人のゲノムの研究により示唆された適応の多遺伝子性痕跡のさらなる調査を可能とするでしょう。


参考文献:
Liu CC. et al.(2022): Ancient genomes from the Himalayas illuminate the genetic history of Tibetans and their Tibeto-Burman speaking neighbors. Nature Communications, 13, 1203.
https://doi.org/10.1038/s41467-022-28827-2

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