アジア東部における最古のオーカーの加工例

 アジア東部における最古のオーカーの加工例に関する研究(Wang et al., 2022)が公表されました。ヒトの進化における最も重大な事象の一つは、現生人類(Homo sapiens)の世界規模の拡大でした(関連記事1および関連記事2)。化石と遺伝学と考古学の証拠が示唆するのは、現生人類は過去約20万年にわたってアフリカから複数回拡散し(関連記事1および関連記事2)、ユーラシア全域に移住したさいに、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など古代型ホモ属(絶滅ホモ属)と交雑した(関連記事1および関連記事2)、ということです。

 現在の古人類学と考古学の証拠は、現生人類がアジア北部に遅くとも4万年前頃までに存在していた、と論証します(関連記事)。現生人類の地上拡大は、さまざまな生態系の居住を可能とする、高度な経済的・社会的・象徴的適応の使用により促進された、とよく主張されます。とくに顔料の使用は、象徴的に媒介される行動の重要な指標とみなされており、小型化技術の使用など技術革新は、適応的かつ経済的利点があった、と考えられています。しかし、考古学的データは、中国における現生人類集団の到来との関連では曖昧なままです。アルタイ地域とシベリア、および中国北部の数ヶ所の遺跡の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とムステリアン(Mousterian)の道具一式を除いて(関連記事1および関連記事2)、細石刃技術が29000年前頃以後に優占するまで、アジア東部における石器インダストリーについてはほとんど知られていません。

 中国北部における初期の象徴性の可能性のある証拠に関しては、2点の刻まれた骨だけが知られていて、そのうち1点にはオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)の残留物があり(125000~105000年前頃)、絶滅ホモ属の製作と解釈されています(関連記事)。象徴的慣行を示すほとんどの人工物はずっと新しく、おそらくは現生人類と関連しています。たとえば、35100~33500年前頃となる周口店上洞(Zhoukoudian Upper Cave)のペンダントやオーカー、31000年前頃となる水洞溝2(Shuidonggou 2)のビーズです。ビーズやペンダントや小像は、29000年前頃以後に一般的になり、この頃に細石刃技術が中国北部全域に広がり始めました。

 本論文は、中国北部の泥河湾盆地(The Nihewan Basin)で新たに発掘され、よく保存されている下馬碑(Xiamabei)遺跡での考古学的発見の結果を報告します(図1)。下馬碑遺跡は、オーカー加工、小石刃様形態と柄のある新たな小型化石器技術、骨器の最初の証拠を含んでおり、年代は41000~39000年前頃です。下馬碑は早期に文化的特徴の新規の一式を示すので、中国の他の既知の遺跡群とは一線を画します。モンゴル高原と華北平原との間の移行帯に位置する下馬碑遺跡は、北方経路沿いの現生人類の拡大(関連記事)に重要な新しい洞察を提供します。以下は本論文の図1です。
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 下馬碑は壺流河(Huliu River)の南岸に位置し、2013年に12m²の領域の試掘坑の形で発掘が始まりました。その層序は深さ290cmに及び、氾濫原環境の主要な7層を網羅しています(図2)。第6層は主要な文化的遺構で、厚さは10~20cmとなり、暗褐色の沈泥堆積物で構成され、時折、粘土と砂の集合岩があります。第6層は、オーカーの使用と処理、木炭の豊富な炉床、382点の小型石器、単一の骨器、437点の哺乳類の骨の証拠を明らかにしました(図1b・c・d)。特性解析法が、堆積物標本とオーカー品目と骨器と小型石器標本に適用されました。加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)放射性炭素年代測定と、光刺激ルミネッセンス法(optically stimulated luminescence、略してOSL)が適用され、年代測定により、この層序では43000~28000年前頃の範囲の年代値が得られ、第6層の文化的遺構の年代は41000~39000年前頃です(図2)。以下は本論文の図2です。
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 第6層の花粉は、マツが優勢な斑状の針葉樹森林を伴う、草原地帯景観を示唆します。第6層の花粉群と高いヨモギ属/アカザ科の比率は、人類の居住期間にあける比較的寒冷で半乾燥の気候を示唆します。動物相遺骸はひじょうに断片的で、7.19%のみが分類学的に識別できました。ウマとシカとモグラネズミの存在は花粉の証拠と一致しており、斑状の森林のある草原地帯景観を反映しています。哺乳類化石の大半は長さ20mm未満で、ほとんどは焼けており、一部はひじょうに炭化しており、燃料としての使用の可能性を示唆します。解体痕は2点の動物相断片で特定され、死骸の処理に石器が用いられていたことを示唆します。一方の端に微小剥片の傷跡の形態で使用による摩耗の痕跡があり、もう一方の端には、おそらくは把握もしくは着柄を容易にする引っ掻き傷による規則化のある単一の骨が、第6層で回収されました。この道具は、この原材料に適した技術での骨の加工のための、中国北部における最初期の事例の一つを表します。


●オーカー加工の証拠

 下馬碑遺跡におけるオーカー加工の証拠は、赤く染まった堆積物の地点に密接に空間的に関連して位置する3点の人工物で構成され、堆積物の色は人工物から離れるにつれて強度が低下します(図3)。3点の人工物(図3a・b)には、明るい暗赤色のオーカー粉を生成するために繰り返し研磨された明確な痕跡のある、異地性の硬い鉄分の豊富な小塊から構成されるオーカー片1(OP1)と、おそらくはオーカー粉を生成するため元々のより大きな破片を砕いて生じた、さまざまな組成のより小さく脆いオーカー片2(OP2)と(図3d)、オーカーで染色された滑らかな領域(図3e)と赤鉄鉱の豊富な残留物(図3f)を保存している細長い石灰岩石板(LS)が含まれます。すりこ木として使用された証拠のある、関連する石英岩丸石では、オーカーの残留物は特定されませんでした(図3g)。以下は本論文の図3です。
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 X線回折、微小ラマン分光法、微小蛍光X線分析(X-ray fluorescence、略してXRF)、鉱物磁気法、エネルギー分散型分光法と組み合わせた走査型電子顕微鏡(SEM–EDS)を含むさまざまな技術が、オーカー片と12点の堆積物標本に適用されました。複数代理研究が、オーカー片およびオーカー片と関連する人工物の赤く染色された領域で実行されました。赤く染色された領域からのさまざまな距離の標本とは対照的に、その領域の内側の標本2点は酸化鉄含有量が多く、赤鉄鉱の豊富な岩石の微細破片を大量に含んでいました。これが示唆するのは、石器とオーカー片のある堆積物の赤みがかった色は、拡散したオーカー粒子の存在に起因する、ということです。

 まとめると、複数代理の遺跡の証拠が示唆するのは、さまざまな種類のオーカーが下馬碑遺跡に持ち込まれ、さまざまな色と粒度のオーカー粉を生成するために研磨や打撃を用いて加工された、ということです。そうした作業の目的は定かではありませんが(たとえば、物体の着色や身体装飾のための塗料生産、獣皮のなめし、接着剤の充填剤としてのオーカーの使用などです)、生産されたオーカー粉の量は、作業が行なわれた領域の堆積物を永久に染み込ませるのに充分でした。この作業領域は、アジア東部におけるオーカー加工の最初の既知の事例を表しており、この物質の使用が4万年前頃までに地域的人口集団の行動的一覧の一部になっており、中国における細石刃技術の起源に1万年先行する、と示唆します。


●着柄を示す新たな小型石器

 382点の人工物で構成される下馬碑石器群は、とくにその年代を考えると、中国北部では新たな技術です。石器のほとんど(94%)は40mm未満で、58.37%(209点)は20mm未満です。石材は地元で入手可能な小さな燵岩塊が優占的ですが、斑岩塊も時に用いられました。補助なしの硬い槌による打撃(FHHP)と両極打撃(BP)手法が主要な縮小技術で、打撃の対向打面および拡散打瘤で破砕した証拠のある、顕著な比較的始動および両極破片剥片と石核の併存により示されます。BPは主要な縮小技術で、識別可能な標本の70.11%に寄与します。BP石核の最大の長さおよび幅は、FHHP石核よりも大幅に小さいわけではなく、小さな石核の手で持っての剥離は可能でしたが、両極縮小が優先されたことを示唆します。両極砕片は平均幅が13.59mm(29.5%は10mm未満です)で、中国北部のより新しい遺跡群の定型細石刃の範囲に収まります。したがって、BP縮小戦略は、道具として使用でき、長さは20mmかそれ未満になることが多い、小石刃様原形の効率的な製作をもたらしました(図4)。以下は本論文の図4です。
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 泥河湾盆地のより早期および同時代両方の石器群とは対照的に、下馬碑遺跡では再加工石器はひじょうに稀です。下馬碑石器群では3点のみが、定型的な端部修正を示します。それは、2点の鋸歯縁石器と1点のわずかに再加工された掻器です。13点の両極石器および4点のFHHP石器を含む、石器群の選択された標本で実行された機能分析により、そのほとんどで使用痕が特定されました。7点の破片は、微細傷跡の配置、植物繊維の痕跡の頻繁な存在に基づいて着柄の明確な証拠を示します。これは、結びつける要素の使用と、着柄物質に覆われた領域での使用痕の欠如を示します。

 骨の柄は2点の事例で特定され、その場に残っている柄の部分とともに回収された小石刃様破片により例外的に示されます(図4a)。摩耗パターンが示唆するのは、着柄された破片は、獣皮の擦り落とし、硬い物質(おそらく木)に対する穿孔と擦り落とし、柔らかい植物性物質の削り、おそらくは柔らかい動物性物質の切断など、さまざまな目的で使われていた、ということです。掻器的輪郭を有する2点の破片は、古典的な上部旧石器時代の獣皮作業道具と一致する方法で用いられましたが、道具のうち1点だけが、定型的な遠位再加工を示しました(図4b)。

 着柄されていない破片の使用摩耗は、さまざまな物質の切断作業、硬い物質の穿孔、2例では楔としての石英破片の使用によりおもに表される、特定された作業範囲を確定させます。全体的に、顕微鏡分析から示唆されるのは、BP技術により作られた小石刃様道具を含めて下馬碑遺跡の人工物はさまざまな作業に用いられた、ということです。おもに分散した粒子の形態でオーカー残留物のある、10点の人工物が特定されました。オーカー残留物は、4点の破片では着柄された領域で見つかり、2点の破片では獣皮作業に用いられた作業領域の端で特定されたことから、オーカーが接着剤の着柄において充填剤として、および獣皮加工のため添加剤として用いられた、と示唆されます。


●文化的適応への示唆

 下馬碑遺跡の発掘と分析により、アジア東部では未知かひじょうに稀だった、新たな文化的表現と特徴の4万年前頃の出現が特定されました。小さな石器原形製作の2つの打砕技術の組み合わせは、さまざまな作業と場合によっては着柄に用いられ、さまざまな原材料の使用と変質を含む、複雑な技術体系の存在を示唆します。そうした技術体系は、より古い遺跡群とほぼ同時期の遺跡群では特定されておらず、下馬碑石器群に独自の特徴を与えます。

 下馬碑遺跡における鉱物顔料の生産と使用のための作業場は、それ以前および同時代の遺跡群との比較で、第二の新たな文化要素を構成します。しかし、オーカーの使用は、より新しい遺跡群で見つかるダチョウ卵殻のビーズや穴の開いた歯および貝殻とも、より新しい遺跡群で証明された細石刃技術の到来とも関連していません。下馬碑遺跡に4万年前頃に居住していたヒト集団の分類学的帰属は不明で、デニソワ人もしくはネアンデルタール人の可能性さえ除外できませんが、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)の同時代の現生人類化石、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)と北京の周口店上洞で発見されたやや新しい現生人類化石の存在を考慮すると、下馬碑遺跡を訪れたのは現生人類だった、というのが最節約的な仮説です。

 重要な文化的革新が世界のさまざまな地域でどのように出現したのかは、不明なままです。アフリカなど一部地域では、不連続で地域的に変動するモデルが提案されてきており、アフリカ大陸における現生人類の出現につながった、長く複雑な過程と間接的に関連しています(関連記事)。元々アフリカもしくは他の場所で発展した革新の一括は、ユーラシアへの現生人類の拡大によりもたらされた可能性がある、と主張されてきました。これは、アジアに関して最もよく支持されるモデルです。アジアでは、ヨーロッパの傾向に続いて、石刃や細石刃の技術、個人的装飾品、オーカーの使用、複雑な骨器技術が、現生人類集団到来の痕跡と見られています。

 中国北部の出現記録は、4万年前頃の重要な時間枠にさまざまな文化的適応が存在した、と示すことにより、支配的な枠組みに異議を唱えます。以前には記録されていなかった着柄技術およびいくつかの革新(オーカーの使用と便宜的骨器)の存在と関連する、小石刃製作と比較した場合にさまざまではあるもののより単純な石器技術が示唆するのは、下馬碑遺跡における文化的適応は現生人類による最初の入植を反映しているかもしれず、在来のデニソワ人との文化的および遺伝的混合を含んでいる可能性があり、おそらくは後の第二の現生人類の到来により置換された、ということです。

 これは、現在の進化の概要が単純で、広範な地理的領域での、遺伝的および文化的交換の、繰り返しではあるものの、異なる事象を予測すべきである、という見解を支持します。一部の事例では革新の一括の拡大、他の事例では在来伝統の持続、もしくは技術的および象徴的慣行における複雑さの割合が異なる在来の革新の採用など、斑状のパターンの特定も予測すべきです。このより複雑な進化の概要は、ユーラシア全域における現生人類集団の単一の急速な拡大と関連する革新の広がりを予想する概要と比較して、現在の生物学的および文化的証拠とより良好に適合します。


 以上、本論文についてざっと見てきましたが、本論文の見解は、最近の古代DNA研究とも整合的であるように思われます。最近の古代DNA研究では、アジア東部北方において広範に存在したと考えられ、IUP(関連記事)との関連も想定される(関連記事)最初期現生人類集団が絶滅した、と示唆されています(関連記事)。このアジア東部北方の最初期現生人類集団が絶滅した後、アジア東部(および南東部とポリネシアなど)現代人の主要な祖先集団がアジア東部に広範に拡散した可能性も考えられます。その場合、アジア東部現代人の主要な祖先集団がいつどのようにアジア東部に拡散してきたのかが問題となり、古代DNA研究の進展により詳しく解明されていくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


ヒトの進化:東アジアでオーカーの加工が行われていたことを示す最も古い証拠

 東アジアでオーカーの加工が行われていたことを示す最も古い証拠について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。この顔料を使用することは、現代人の文化の一部になっている象徴行動と関連している。今回の知見には、中国北部の遺跡から出土した小型石器が含まれている。これは、東アジアに特有のものであり、ホモ・サピエンスの拡大に関する新たな手掛かりとなっている。

 ホモ・サピエンスは、少なくとも4万年前には北アジアに存在していたことが、現在の考古学的証拠から示唆されている。しかし、当時存在していた文化的適応は明らかになっていない。

 今回、Shi-Xia Yangたちは、中国北部の泥河湾盆地で新たに発掘された保存状態が良好なXiamabei遺跡で、約4万年前のものとされるオーカーを加工するための材料と革新的な石器群が発見されたことを報告している。この遺跡で発見されたオーカー塊は、いろいろなタイプのオーカーが剥離と連打によって加工され、さまざまな色と粒子サイズの粉末が製造されていたことを示している。この石器群は、382点の人工遺物からなり、小型化(オーカー塊のほとんど全てが40ミリメートル未満で、大部分が20ミリメートル未満だった)やハフティング(石器に取っ手やストラップを取り付ける工程)など、ホモ・サピエンスの斬新で複雑な技術的能力を示している。

 Yangたちは、Xiamabeiにおける文化的形質の組み合わせが独特で、古代人(例えば、ネアンデルタール人やデニソワ人)の居住地とされる他の考古遺跡で見つかった文化的形質や、ホモ・サピエンスの拡大と一般的に関連付けられている文化的形質とは一致しないと指摘している。Yangたちは、これは、現生人類が初めて定住した地域の1つがXiamabeiだったことを示しており、地元のデニソワ人との文化的混合と遺伝的混合が起こり、その後、デニソワ人たちは第2の移民に取って代わられたのかもしれないという考えを示している。Yangたちはまた、ホモ・サピエンスの拡大に関して、異なる遺伝的交流と文化的交流が広範な地域で繰り返し起こったという複雑な進化シナリオが、今回の知見によって裏付けられたと主張している。


人類学:4万年前の中国における革新的な黄土加工と道具使用

人類学:4万年前の中国における技術的革新と文化的多様化

 今回、中国の泥河湾盆地にある約4万年前のXiamabei遺跡が報告されている。この年代の遺跡は中国では他にも知られているが、この遺跡は、東アジアにおいて既知で最古の黄土加工の特徴に加え、柄付きの痕跡を残す小石刃様石器を伴う特徴的な小型石器群が出土している点で特別である。この文化的遺物群は、古代人集団が居住していた他の遺跡で見られるものや、一般にホモ・サピエンス(Homo sapiens)の拡大と関連付けられているものとは一致せず、アジア北部でのヒト族の混合を示す独特な特徴と見られる。



参考文献:
Wang FG. et al.(2022): Innovative ochre processing and tool use in China 40,000 years ago. Nature, 603, 7900, 284–289.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-04445-2

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