『カムカムエヴリバディ』るい編からひなた編半ばまで
安子編の終了時に本作の感想を一度述べましたが(関連記事)、その後もたいへん楽しみに視聴を続けています。安子編とるい編の境界は、るいが生まれても基本的に安子視点だったので、安子の退場回と言って問題ないように思いますが、るい編とひなた編の境界は、ひなたが登場してからというか舞台が京都に移ってからは、ひなたが子供の頃からひなた視点だったように思うので、ひなたが生まれてからと考えるのがよいかな、とも思います。そうすると、安子編は岡山(一部は大阪)編、るい編は大阪編、ひなた編は京都編とも言えそうです。
京都編ではひなたと五十嵐の関係が軸になっていますが、『女性セブン』2022年3月17号に、ひなたと五十嵐は離れ離れになり再会する、とあったので、恐らく五十嵐は一度京都を去り、ひなたと別れるのでしょう。五十嵐がひなたとの結婚に踏み切れなかった理由は納得のいくものでしたし、五十嵐の心情をよく理解できるだろうジョーと伴虚無蔵が、高圧的に説教するのではなく五十嵐の決断を見守る場面は、よかったと思います。五十嵐がどのような経緯でひなたと再会するのかは、終盤の山場の一つになりそうです。
ジョーと五十嵐のやり取りからは、ジョーが音楽の道を断念したことについて、まだ完全には吹っ切れていないことも窺えます。それでも、子供たちの前では暖かく穏やかな父親であり続けているところが、ジョーの個性になっていると思います。ジョーが子供たちの野球を見守りながら作曲している場面も一度描かれたので、実は作曲しており収入を得ているのかな、とも思ったのですが、音楽にまだ執着していることを示唆した描写だったのでしょうか。『女性セブン』2022年3月17号によると、ジョーは音楽の世界に戻り、トミーが寄り添うとのことですが、どのような経緯でそうなるのか、注目されます。
京都編では算太が再登場し、大月家まで行ったものの、ひなたの母親がるいと気づいて逃亡し、物語が収束に向かいそうでそうならず、その分先が楽しみというところもあります。これまで、京都編と岡山編がつながりそうでなかなかそうなりませんが、これは、英語と餡子とジャズと(高校)野球と時代劇という本作の重要な構成要素のうち、岡山編で重要だった英語と餡子とジャズのうち、京都編では餡子はやや扱いが大きいものの最重要ではなく、英語も少女時代のひなたと外国の少年ビリーとの出会いで少し描かれただけで、ジャズの要素はほとんどないことにも表れているように思います。
ただ、ジャズはジョーと五十嵐のやり取り、るいがひなたを励ます場面で言及されており、上述の今後の展開からも、今後京都編で物語を収束に向かわせる重要な役割を果たすのではないか、と考えられます。英語も、公式の予告からは、外国人観光客への対応のため、ひなたが学ぶことになりそうですから、今後は再び重要な役割を担いそうです。(高校)野球は、大阪編ではさほど重要ではありませんでしたが、岡山編ではそれなりに描かれましたし、何よりもひなたの弟の桃太郎が高校でも野球を続けていますから、雉真繊維がまだ傾いておらず、野球部があるようなら、桃太郎が雉真繊維に入社して野球を続けることでも、京都編と岡山編がつながってくるのかもしれません。それは予想にすぎませんが、現時点で京都編と岡山編を明確につないでいるのが赤螺家です。算太と吉右衛門がすれ違った時には互いに気づきませんでしたし、るいと赤螺家の清子や吉右衛門も、互いにかつて岡山にいたことを知りませんが、今後、算太と吉右衛門がどこかで再開し、吉右衛門が算太に気づいて、一気に京都編と岡山編がつながっていくのかもしれません。
赤螺家というか吉右衛門の本作における重要性はそれだけではなく、本作を貫く重要な底流とも言える、親子間の断絶にもあります。最重要なのが安子とるいであることは当然ですが、金太と算太、赤螺家の吉兵衛と吉右衛門の断絶も岡山編で描かれ、大阪編における『妖術七変化』での大部屋俳優である伴虚無蔵の不可解な大抜擢から、京都編で桃山剣之介の初代と二代との確執も明らかになりました。るい以外は、いずれも親子間で確執を抱いたまま離れ離れになったり死に別れたりしたことを、深く後悔していることに共通点があります。るいは母親に捨てられたと思い込んでいるので、他の三組とは事情が異なるところもありますが、親子の断絶は同様です。すでに吉右衛門は、父親に酷いことを言い、そのすぐ後に父親が自分を庇って死んだことを強く後悔していると明かしているので、るいと安子との「和解」が描かれるとしたら、算太からの情報(妹の安子を捨てて逃亡)とともに、吉右衛門が重要な役割を担うのではないか、と予想しています。現時点では、岡山編と京都編だけではなく、岡山編と大阪編、大阪編と京都編のつながりも現時点では強固とは言えないようにも思うので(世良公則氏の演じた柳沢定一が、岡山編と大阪編をつなぐ重要人物だったのは、嬉しく思いましたが)、今後、母の安子に対してのるいの想いなども含めて、これまでの話が収束していくような物語を期待しています。
物語の本筋からは外れますが、京都編になってノストラダムスの大予言がたびたび取り上げられているのは、五島勉氏の愛読者としては興味深くもありました。ひなたしは1992年の時点でも、1999年に人類が滅亡する、という予言に怯えていましたが、五十嵐も榊原も冷ややかでした。詳しい調査結果があるのか知りませんが、1992年時点では、大半の日本人は1999年人類滅亡説に冷ややかだったように思いますし、その発信者とも言うべき五島勉氏も、すでに1992年より前にノストラダムス以外にヒトラーや聖徳太子なども取り上げ、21世紀の予測すらしていました。やはり、冷戦終結による核戦争への危機感低下が、1999年人類滅亡説への関心低下の要因だったように思います。
京都編ではひなたと五十嵐の関係が軸になっていますが、『女性セブン』2022年3月17号に、ひなたと五十嵐は離れ離れになり再会する、とあったので、恐らく五十嵐は一度京都を去り、ひなたと別れるのでしょう。五十嵐がひなたとの結婚に踏み切れなかった理由は納得のいくものでしたし、五十嵐の心情をよく理解できるだろうジョーと伴虚無蔵が、高圧的に説教するのではなく五十嵐の決断を見守る場面は、よかったと思います。五十嵐がどのような経緯でひなたと再会するのかは、終盤の山場の一つになりそうです。
ジョーと五十嵐のやり取りからは、ジョーが音楽の道を断念したことについて、まだ完全には吹っ切れていないことも窺えます。それでも、子供たちの前では暖かく穏やかな父親であり続けているところが、ジョーの個性になっていると思います。ジョーが子供たちの野球を見守りながら作曲している場面も一度描かれたので、実は作曲しており収入を得ているのかな、とも思ったのですが、音楽にまだ執着していることを示唆した描写だったのでしょうか。『女性セブン』2022年3月17号によると、ジョーは音楽の世界に戻り、トミーが寄り添うとのことですが、どのような経緯でそうなるのか、注目されます。
京都編では算太が再登場し、大月家まで行ったものの、ひなたの母親がるいと気づいて逃亡し、物語が収束に向かいそうでそうならず、その分先が楽しみというところもあります。これまで、京都編と岡山編がつながりそうでなかなかそうなりませんが、これは、英語と餡子とジャズと(高校)野球と時代劇という本作の重要な構成要素のうち、岡山編で重要だった英語と餡子とジャズのうち、京都編では餡子はやや扱いが大きいものの最重要ではなく、英語も少女時代のひなたと外国の少年ビリーとの出会いで少し描かれただけで、ジャズの要素はほとんどないことにも表れているように思います。
ただ、ジャズはジョーと五十嵐のやり取り、るいがひなたを励ます場面で言及されており、上述の今後の展開からも、今後京都編で物語を収束に向かわせる重要な役割を果たすのではないか、と考えられます。英語も、公式の予告からは、外国人観光客への対応のため、ひなたが学ぶことになりそうですから、今後は再び重要な役割を担いそうです。(高校)野球は、大阪編ではさほど重要ではありませんでしたが、岡山編ではそれなりに描かれましたし、何よりもひなたの弟の桃太郎が高校でも野球を続けていますから、雉真繊維がまだ傾いておらず、野球部があるようなら、桃太郎が雉真繊維に入社して野球を続けることでも、京都編と岡山編がつながってくるのかもしれません。それは予想にすぎませんが、現時点で京都編と岡山編を明確につないでいるのが赤螺家です。算太と吉右衛門がすれ違った時には互いに気づきませんでしたし、るいと赤螺家の清子や吉右衛門も、互いにかつて岡山にいたことを知りませんが、今後、算太と吉右衛門がどこかで再開し、吉右衛門が算太に気づいて、一気に京都編と岡山編がつながっていくのかもしれません。
赤螺家というか吉右衛門の本作における重要性はそれだけではなく、本作を貫く重要な底流とも言える、親子間の断絶にもあります。最重要なのが安子とるいであることは当然ですが、金太と算太、赤螺家の吉兵衛と吉右衛門の断絶も岡山編で描かれ、大阪編における『妖術七変化』での大部屋俳優である伴虚無蔵の不可解な大抜擢から、京都編で桃山剣之介の初代と二代との確執も明らかになりました。るい以外は、いずれも親子間で確執を抱いたまま離れ離れになったり死に別れたりしたことを、深く後悔していることに共通点があります。るいは母親に捨てられたと思い込んでいるので、他の三組とは事情が異なるところもありますが、親子の断絶は同様です。すでに吉右衛門は、父親に酷いことを言い、そのすぐ後に父親が自分を庇って死んだことを強く後悔していると明かしているので、るいと安子との「和解」が描かれるとしたら、算太からの情報(妹の安子を捨てて逃亡)とともに、吉右衛門が重要な役割を担うのではないか、と予想しています。現時点では、岡山編と京都編だけではなく、岡山編と大阪編、大阪編と京都編のつながりも現時点では強固とは言えないようにも思うので(世良公則氏の演じた柳沢定一が、岡山編と大阪編をつなぐ重要人物だったのは、嬉しく思いましたが)、今後、母の安子に対してのるいの想いなども含めて、これまでの話が収束していくような物語を期待しています。
物語の本筋からは外れますが、京都編になってノストラダムスの大予言がたびたび取り上げられているのは、五島勉氏の愛読者としては興味深くもありました。ひなたしは1992年の時点でも、1999年に人類が滅亡する、という予言に怯えていましたが、五十嵐も榊原も冷ややかでした。詳しい調査結果があるのか知りませんが、1992年時点では、大半の日本人は1999年人類滅亡説に冷ややかだったように思いますし、その発信者とも言うべき五島勉氏も、すでに1992年より前にノストラダムス以外にヒトラーや聖徳太子なども取り上げ、21世紀の予測すらしていました。やはり、冷戦終結による核戦争への危機感低下が、1999年人類滅亡説への関心低下の要因だったように思います。
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