阿部拓児『アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はアケメネス(アカイメネス、ハカーマニシュ)朝ペルシアの概説です。ペルシアとは、狭義にはイラン高原南部、現在のイラン共和国ファールス州一帯を指す歴史的地名(ペルシスもしくはパールサ)で、ペルシア人とは、紀元前二千年紀中頃に北方からこの地域に流入・定住したと推測される集団です。広義のペルシアは、ペルシスの地を超えて、ペルシア人たちが支配した領土全てを指します。本書は、アジアを越えてアフリカとヨーロッパまで確実に支配したアケメネス朝ペルシアこそ「史上初の世界帝国」に相応しい、と指摘します。なお本書では、基本的にギリシア語風表記が用いられています。以下、ギリシア風表記と()に対応するペルシア語風表記を記しておきます。アカイメネス/アケメネス(ハカーマニシュ)、キュロス(クル)、カンビュセス(カンブジヤ)、ダレイオス(ダーラヤワウ)、クセルクス(クシャヤールシャン)、アルタクセルクス(アルタクシャサ)。

 アケメネス朝ペルシアの領土的な基盤の大半を築いた初代のキュロス2世(キュロス大王)の出自については、あまり解明されていません。ギリシア語史料により、ペルシアはメディア王国に取って代わった、と一般的には考えられていますが、メディア王国と言えるような実態があったのか、部族連合だったのではないか、といった議論になっているそうです。キュロスがアナトリア半島のギリシア人勢力を支配し、良質な海軍力を得たことで、ペルシアは領土拡大が可能となりました。キュロスは新バビロニアを滅ぼすなど領土を拡大していきますが、この過程で、征服先の文化的・社会的文脈において「救済者」として振る舞い、これは後のペルシアの君主にも継承されます。キュロスはその最期もよく分かっておらず、北方遠征中に戦死したとされますが、確かとは言えないようです。またそもそも、キュロスがペルシア人なのかどうかも議論があるそうです。キュロスの後継者であるカンビュセス2世は、父が死んだと考えられる紀元前530年に即位後、紀元前525年にエジプト征服を試み、成功します。カンビュセスは、ヘロドトス『歴史』では狂気の王とされていますが、同時代史料からはそれが誇張されている可能性も窺えるようです。カンビュセスはエジプトを離れた直後の紀元前522年に没しますが、死因は事故死とも自殺とも言われ、真相は不明です。

 紀元前522年にカンビュセスが没し、同年9月にダレイオス1世が即位するまでの経緯には、史料はあるものの不明な点が多く、ダレイオスは簒奪者とも言われています。ダレイオスは即位後、カンビュセス死後の混乱のなか独立状態にあった有力者たちの「反乱」を鎮圧していき、ペルシア帝国領の平定に成功します。「ベヒストゥーン碑文」によると、ダレイオスとカンビュセスは父系高祖父(テイスペス)を同じくする一族とされますが(テイスペスの父がアケメネス)、キュロスが作成させた碑文には、テイスペスの名はあってもアケメネスの名はなく、アケメネスはダレイオスが自身をキュロスの親族と位置づけるため創造した架空の人物だった、との見解もあります。ダレイオスは血筋の点からは王位の正統性がなかったか、若しくはかなり薄弱だったようですが、即位後にキュロスの2人の娘などキュロスと血縁関係にある女性を娶り、血統的な正当化を図ったようです。またダレイオスはペルシア人貴族とも婚姻関係を構築していき、王権の基盤を固めました。「ベヒストゥーン碑文」からは「真」と「偽」の二元論的世界観が窺え、ゾロアスター教を信仰していたと考えられるものの、そうだとしても、現在知られるようなゾロアスター教とは異なっていた可能性があります。ダレイオスはキュロスとカンビュセスが創始した制度を改良・再整備し、ペルシアの体制を構築していったようです。またダレイオスは新たにペルセポリスに王宮を築きましたが、キュロスの築いたパサルガダイの王宮が廃されたわけではなく、複数の「首都」が併存しました。ダレイオスはキュロスとカンビュセスの築いた帝国をさらに拡大し、インダス川流域まで征服するとともに、北方のスキタイにも遠征しました。

 ダレイオスが紀元前486年に没した後、即位したのは息子のクセルクスでした。上述のようにダレイオスには複数の妻がおり、クセルクスにも後継者の座を争うような強大がいましたが、母がキュロスの娘アトッサだったことにより、後継者争いは激化しなかったようです。クセルクスの治世ではギリシア遠征がよく知られていますが、それはギリシア語史料によるもので、ペルシア由来の史料では言及されていないため、これをアケメネス朝ペルシア史、さらには世界史で位置づけることには困難があります。本書は、ギリシア遠征がペルシア人にとっては成功と考えられていた可能性とともに、ギリシア遠征後にギリシアでは、ペルシアへの憎悪の高まりとともに、以前よりも「ペルシア趣味」が加速したことを指摘します。

 真相は不明ですが、クセルクスは紀元前465年に殺害され、息子のアルタクセルクセス1世が即位します。アルタクセルクセス1世とその息子のダレイオス2世の時代は、エジプトなどでの反乱はあったものの、派手な征服戦争は控えめで、大規模な領土喪失もなかったと考えられることから、本書では円熟期と評価されています。ペルシアとギリシアとの戦いは、クセルクスの死後も続いていましたが、紀元前450年頃にペルシアとアテナイとの間で何らかの和睦が締結されたようです。円熟期に入ったペルシアについては、建国当初からのその宗教的寛容性がよく知られていますが、本書はさまざまな史料と考古学的成果に基づき、ペルシア大王が単純に宗教的に寛容だったわけではないことを指摘します。アルタクセルクセス1世は紀元前424/423年に没し、継承者争いで短命の王が続いた後、息子のダレイオス2世が即位して混乱を収拾します。ダレイオス2世の治世はペロポネソス戦争とほぼ重なり、ペルシアは、支援したスパルタがアテナイに勝ったことにより、ギリシアにおいてパトロン的地位を確立します。

 ダレイオス2世の後継者はその息子のアルタクセルクセス2世で、即位後の弟の反乱を鎮圧しますが、エジプトがその間に独立します。ペルシアはエジプトを失ったものの、ギリシアではパトロン的地位を維持し続けます。しかし、この頃のギリシアでは、ペルシアは衰退した、との言説が見られるようになります。本書は、ペルシアの軍事力はまだ衰えておらず、ペルシアを語っているように装いながらペルシア以外の何かを語る、「オリエンタリズム」の一種として理解すべきと指摘します。また、本書はこうしたギリシアにおけるペルシア観の背景に、ペルシア王位の不安定な世襲とそれへの地方長官の流動的な対応がある、と指摘します。

 アルタクセルクセス2世の後継者として即位したのはアルタクセルクセス3世で、即位にさいして兄弟を多数殺害したと伝わりますが、その詳細は不明です。アルタクセルクセス3世は紀元前343年、ペルシアから独立した後に混乱していたエジプトの再征服に成功します。アルタクセルクセス3世は紀元前338年に没し、末子のアルセス(アルタクセルクセス4世)が即位しますが、すぐに殺害され、ダレイオス3世が紀元前336年に即位します。ダレイオス3世の出自については、王族とも、そうではなかったとも伝えられています。本書は、ダレイオス3世がアルセス殺害の黒幕と推測します。ダレイオス3世の即位後すぐの紀元前334年、マケドニアのアレクサンドロス3世がペルシアに侵攻してきて、ペルシア軍は相次いでマケドニア軍に敗れ、逃走したダレイオス3世は紀元前330年に側近により殺害され、アケメネス朝ペルシアは滅亡します。アケメネス朝時代からヘレニズム時代への連続性を強調する見解では、アレクサンドロス3世が「アケメネス朝最後の王」とも言われます。ただ本書は、アケメネス朝の王権イデオロギーの根幹となる、地上世界におけるアフラマズダ神の代行者という強烈な観念など、アレクサンドロス3世がアケメネス朝から継承しなかったものも多い、と指摘します。

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