設楽博己『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2022年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は縄文時代と弥生時代とを、生業や社会や精神文化の観点から比較し、単に両者の違いだけではなく、縄文時代から弥生時代へと継承されたものについても言及しています。時代区分は、縄文時代については、草創期15000年前頃以降、早期が11300年前頃以降、前期が7000年前頃以降、中期が5400年前頃以降、後期が4500年前頃以降、晩期が3200年前頃以降で、弥生時代については、早期(九州北部地方)が紀元前9世紀以降、前期(九州北部地方)が紀元前8世紀以降、前期(近畿地方)が紀元前7世紀~紀元前6世紀以降、前期(伊勢湾地方)が紀元前6世紀へ紀元前5世紀以降、前期(東日本)が紀元前5世紀~紀元前4世紀以降、中期が紀元前4世紀以降、後期が紀元後1世紀以降となります。
●生業
縄文時代の農耕の可能性は古くから指摘され、一時は有力とも考えられていましたが、その後の再分析により現在では、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が有力になっています。また縄文農耕櫓では、イネに先立って雑穀が栽培されていたと考えられていましたが、両者はほぼ同時に日本列島に出現することも明らかになってきました。弥生時代の農耕については、かつて発展段階論的に考えられており、水田稲作は粗放で生産性の低い湿田での直播から始まり、灌漑により半乾田での耕作という生産性の高い段階に達した、というわけです。しかし、福岡市の板付遺跡での発掘調査により、最初期の水田は台地の縁にあり、すでに灌漑水利体系という高度な技術を備えた完成されたものだった、と明らかになりました。このように、本格的な穀物栽培は弥生時代に始まりましたが、縄文時代にも、ヒョウタンやウリやアサやゴボウやエゴマやダイズなど、植物栽培はありました。ただ本書は、縄文時代を通じた植物栽培の特徴として、嗜好品的な性格を指摘します。また本書は、縄文時代の食料資源利用技術について、弥生時代と比較して劣っていると単純に言えるわけではない、と強調します。
本書は縄文時代の栽培も「農耕」と呼び、縄文時代と弥生時代の農耕の質的差を指摘します。それは、縄文時代には農耕が生業のごく一部にすぎず、さまざまな生活道具が農耕用に特化しているわけではないのに対して、弥生時代の農耕は、地域的多様性があるものの、道具と儀礼は農耕用に特化している、ということです。文化要素の多くが農耕に収斂しているか否かが、縄文時代と弥生時代の違いというわけです。弥生時代の農耕について本書は、少ない種類の資源を集中的に開発・利用する選別型と、多くの資源を開発・利用する網羅型に二分しています。縄文時代の生業は基本的に網羅型なので、弥生時代の網羅型生業は縄文時代に由来しますが、ユーラシア東部大陸部の生業は、華南が選別型で華北は網羅型となり、これが朝鮮半島経由で日本列島にもたらされた可能性を、本書は指摘します。
漁撈については、縄文時から弥生時代にかけての継承の側面とともに、環濠や水田の開発により形成された内水面環境で行なわれていた新要素もあった、と指摘されています。また、貝の腕輪など九州と南西諸島との交易の証拠から、広域的な活動範囲の海人集団の活動も推測されており、本書は、農耕集団の求めに応じての大陸との交通活発化にその要因がある、と指摘しています。狩猟民についても、農耕集団との相互依存関係が指摘されていますが、狩猟民は海人集団のように有力な政治的勢力になっていったわけではなさそうです。
●社会問題
縄文時代には通過儀礼として耳飾りや抜歯や刺青がありました。耳飾りの付け替えの風習は縄文時代のうちに終了しましたが、抜歯と刺青は弥生時代に継承されました。耳飾りには複数の種類があり、集団間の違いとともに、集団内の地位の違いも示していたようです。抜歯は弥生時代まで継承されたものの、たとえば東海系の抜歯は弥生時代中期中葉に水田稲作とそれに付随する文化の到来とともに、急速に失われていったようです。また抜歯には、大陸系と縄文系の違いもあったようです。刺青については、人類遺骸での判断がきわめて困難なので、文献にも依拠しなければなりませんが、複雑だった縄文時代晩期終末の刺青が弥生時代中期以降に衰退し、紀元後3世紀に再度複雑化するというように、単純な経過ではなかったことが示唆されます。
祖先祭祀については、縄文時代に定住が進み、竪穴住居の内側や貝塚から埋葬遺骸がよく出土するように、生者と死者の共住により芽生えていったのではないか、と推測されています。定住生活の進展により、資源領域の固定化と、資源の確保や継承をめぐる取り決めが厳しくなっていっただろうことも、祖先祭祀が必要とされた要因と考えられます。縄文時代中期には集落が大型化していき、何代にもわたって同じ場所に居住し続け、集落内部の埋葬小群は代々の家系を示しているのではないか、と推測されています。弥生時代には、縄文時代の伝統を継承しつつも、祖先祭祀のための大型建物が軸線上にあることなど、大陸由来の要素が見られるようになります。
まとめると、縄文時代は複雑採集狩猟民社会で、定住化が進み、生活技術が高度化したものの、ユーラシア南西部や東部とは異なり、本格的な農耕社会には移行しませんでした。また縄文時代でも、西日本の集落が東日本と比較して小規模傾向であるように、東西の違いは大きかったようです。これについては、落葉広葉樹林帯の多い東日本と照葉樹林帯の多い西日本との違いも影響していますが、東日本は西日本と比較して資源の種類数が少ないため、集約的労働が必要となり、集落規模が大きくなる傾向にあった、とも指摘されています。階層化、つまり不平等は、副葬品の分析などにより、縄文時代にある程度進行していたことが窺えます。弥生時代の階層化の進展は、戦争の発生および大陸との交流増加に起因するところが大きかったようです。本書は縄文時代から弥生時代にかけて、階層構造がヘテラルキー(多頭)社会からヒエラルキー(寡頭)社会へと変わっていき、その最初の画期は弥生時代中期初頭だった、と指摘します。
●文化
縄文時代の基本的な男女の単位は夫婦と考えられますが、生産単位では性別分業が進行していたようです。弥生時代になると、男女一対の偶像の出現かからも、農耕では他地域と同様に男女共業傾向が強かった、と示唆されます。芸術的側面では、縄文時代の動物の造形が立体的だったのに対して、弥生時代には平板になった、と指摘されています。これについては、森という立体的空間からさまざまな資源を得ていた縄文時代の網羅型生業体系から、大陸の影響を受けた弥生時代の農耕社会への移行が背景にあるのではないか、と指摘されています。
土器については、弥生時代になって朝鮮半島の無文土器の影響を強く受けるようになったものの、近畿地方では前期のあっさりした文様が、前期後半から中期にかけて文様帯の拡張へと変わるように、一様ではなかったことと共に、弥生土器の形成に縄文土器が役割を果たしていたことも指摘されています。土器の伝播は、縄文時代から弥生時代への移行期において、九州北部から東方への伝播だけではなく、東日本から西日本への伝播もあった、というわけです。弥生時代以降の日本史を、大陸に近い西日本から東日本への単純な文化伝播として考えてはならないのでしょう。
本書は弥生時代の多様性を強調し、農耕体系にしても、おもにイネを栽培対象として、灌漑による水田栽培を行なう遠賀川文化に代表されるものと、中部地方高地や広東地方の条痕文系文化に代表される、雑穀(アワやキビ)を主要な栽培対象として、畠で農耕を行なうものとでは、農具などの道具も違ってくる、と指摘します。後者は、縄文時代にも見られた複合的な網羅型生業体系で、前者と比較して縄文文化的要素が強くなっています。両者の境界は三河地方あたりで、これは縄文時代晩期の東西の文化の違いを反映しているのではないか、と本書は推測します。縄文時代晩期の東日本が複雑採集狩猟民なのに対して、西日本はそうではありませんでした。縄文時代から弥生時代への移行については、近年飛躍的に進展している古代DNA研究(関連記事1および関連記事2)が大きく貢献できるのではないか、と期待されます。
参考文献:
設楽博己(2022)『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』(筑摩書房)
●生業
縄文時代の農耕の可能性は古くから指摘され、一時は有力とも考えられていましたが、その後の再分析により現在では、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が有力になっています。また縄文農耕櫓では、イネに先立って雑穀が栽培されていたと考えられていましたが、両者はほぼ同時に日本列島に出現することも明らかになってきました。弥生時代の農耕については、かつて発展段階論的に考えられており、水田稲作は粗放で生産性の低い湿田での直播から始まり、灌漑により半乾田での耕作という生産性の高い段階に達した、というわけです。しかし、福岡市の板付遺跡での発掘調査により、最初期の水田は台地の縁にあり、すでに灌漑水利体系という高度な技術を備えた完成されたものだった、と明らかになりました。このように、本格的な穀物栽培は弥生時代に始まりましたが、縄文時代にも、ヒョウタンやウリやアサやゴボウやエゴマやダイズなど、植物栽培はありました。ただ本書は、縄文時代を通じた植物栽培の特徴として、嗜好品的な性格を指摘します。また本書は、縄文時代の食料資源利用技術について、弥生時代と比較して劣っていると単純に言えるわけではない、と強調します。
本書は縄文時代の栽培も「農耕」と呼び、縄文時代と弥生時代の農耕の質的差を指摘します。それは、縄文時代には農耕が生業のごく一部にすぎず、さまざまな生活道具が農耕用に特化しているわけではないのに対して、弥生時代の農耕は、地域的多様性があるものの、道具と儀礼は農耕用に特化している、ということです。文化要素の多くが農耕に収斂しているか否かが、縄文時代と弥生時代の違いというわけです。弥生時代の農耕について本書は、少ない種類の資源を集中的に開発・利用する選別型と、多くの資源を開発・利用する網羅型に二分しています。縄文時代の生業は基本的に網羅型なので、弥生時代の網羅型生業は縄文時代に由来しますが、ユーラシア東部大陸部の生業は、華南が選別型で華北は網羅型となり、これが朝鮮半島経由で日本列島にもたらされた可能性を、本書は指摘します。
漁撈については、縄文時から弥生時代にかけての継承の側面とともに、環濠や水田の開発により形成された内水面環境で行なわれていた新要素もあった、と指摘されています。また、貝の腕輪など九州と南西諸島との交易の証拠から、広域的な活動範囲の海人集団の活動も推測されており、本書は、農耕集団の求めに応じての大陸との交通活発化にその要因がある、と指摘しています。狩猟民についても、農耕集団との相互依存関係が指摘されていますが、狩猟民は海人集団のように有力な政治的勢力になっていったわけではなさそうです。
●社会問題
縄文時代には通過儀礼として耳飾りや抜歯や刺青がありました。耳飾りの付け替えの風習は縄文時代のうちに終了しましたが、抜歯と刺青は弥生時代に継承されました。耳飾りには複数の種類があり、集団間の違いとともに、集団内の地位の違いも示していたようです。抜歯は弥生時代まで継承されたものの、たとえば東海系の抜歯は弥生時代中期中葉に水田稲作とそれに付随する文化の到来とともに、急速に失われていったようです。また抜歯には、大陸系と縄文系の違いもあったようです。刺青については、人類遺骸での判断がきわめて困難なので、文献にも依拠しなければなりませんが、複雑だった縄文時代晩期終末の刺青が弥生時代中期以降に衰退し、紀元後3世紀に再度複雑化するというように、単純な経過ではなかったことが示唆されます。
祖先祭祀については、縄文時代に定住が進み、竪穴住居の内側や貝塚から埋葬遺骸がよく出土するように、生者と死者の共住により芽生えていったのではないか、と推測されています。定住生活の進展により、資源領域の固定化と、資源の確保や継承をめぐる取り決めが厳しくなっていっただろうことも、祖先祭祀が必要とされた要因と考えられます。縄文時代中期には集落が大型化していき、何代にもわたって同じ場所に居住し続け、集落内部の埋葬小群は代々の家系を示しているのではないか、と推測されています。弥生時代には、縄文時代の伝統を継承しつつも、祖先祭祀のための大型建物が軸線上にあることなど、大陸由来の要素が見られるようになります。
まとめると、縄文時代は複雑採集狩猟民社会で、定住化が進み、生活技術が高度化したものの、ユーラシア南西部や東部とは異なり、本格的な農耕社会には移行しませんでした。また縄文時代でも、西日本の集落が東日本と比較して小規模傾向であるように、東西の違いは大きかったようです。これについては、落葉広葉樹林帯の多い東日本と照葉樹林帯の多い西日本との違いも影響していますが、東日本は西日本と比較して資源の種類数が少ないため、集約的労働が必要となり、集落規模が大きくなる傾向にあった、とも指摘されています。階層化、つまり不平等は、副葬品の分析などにより、縄文時代にある程度進行していたことが窺えます。弥生時代の階層化の進展は、戦争の発生および大陸との交流増加に起因するところが大きかったようです。本書は縄文時代から弥生時代にかけて、階層構造がヘテラルキー(多頭)社会からヒエラルキー(寡頭)社会へと変わっていき、その最初の画期は弥生時代中期初頭だった、と指摘します。
●文化
縄文時代の基本的な男女の単位は夫婦と考えられますが、生産単位では性別分業が進行していたようです。弥生時代になると、男女一対の偶像の出現かからも、農耕では他地域と同様に男女共業傾向が強かった、と示唆されます。芸術的側面では、縄文時代の動物の造形が立体的だったのに対して、弥生時代には平板になった、と指摘されています。これについては、森という立体的空間からさまざまな資源を得ていた縄文時代の網羅型生業体系から、大陸の影響を受けた弥生時代の農耕社会への移行が背景にあるのではないか、と指摘されています。
土器については、弥生時代になって朝鮮半島の無文土器の影響を強く受けるようになったものの、近畿地方では前期のあっさりした文様が、前期後半から中期にかけて文様帯の拡張へと変わるように、一様ではなかったことと共に、弥生土器の形成に縄文土器が役割を果たしていたことも指摘されています。土器の伝播は、縄文時代から弥生時代への移行期において、九州北部から東方への伝播だけではなく、東日本から西日本への伝播もあった、というわけです。弥生時代以降の日本史を、大陸に近い西日本から東日本への単純な文化伝播として考えてはならないのでしょう。
本書は弥生時代の多様性を強調し、農耕体系にしても、おもにイネを栽培対象として、灌漑による水田栽培を行なう遠賀川文化に代表されるものと、中部地方高地や広東地方の条痕文系文化に代表される、雑穀(アワやキビ)を主要な栽培対象として、畠で農耕を行なうものとでは、農具などの道具も違ってくる、と指摘します。後者は、縄文時代にも見られた複合的な網羅型生業体系で、前者と比較して縄文文化的要素が強くなっています。両者の境界は三河地方あたりで、これは縄文時代晩期の東西の文化の違いを反映しているのではないか、と本書は推測します。縄文時代晩期の東日本が複雑採集狩猟民なのに対して、西日本はそうではありませんでした。縄文時代から弥生時代への移行については、近年飛躍的に進展している古代DNA研究(関連記事1および関連記事2)が大きく貢献できるのではないか、と期待されます。
参考文献:
設楽博己(2022)『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』(筑摩書房)
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