会田大輔『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで 』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、現代日本社会では前後の時代と比較して人気が低そうな南北朝時代を、気候変動などに伴うユーラシア全域の大きな移行期の一部として把握し、柔然やエタフルや突厥といったユーラシア内陸部勢力と北朝および南朝との関係も取り上げます。本書はまず、南北朝時代の前提として西晋の崩壊(永嘉の乱)を取り上げます。これにより、黄河流域を遊牧民、長江流域を漢人(本書は漢人という枠組みを前提として漢代から南北朝時代を把握しますが、これが妥当なのか、私には疑問が残ります)が支配する、南北分断の状況が生じます。この激動の前提として指摘されているのが、後漢の頃にはすでに現在の山西省や河北省のあたりで匈奴と漢人の混在があったことです。西晋を滅ぼしたのは劉淵が建国した漢ですが、この漢とその後の五胡諸政権(五胡十六国という用語は実態に反する、と本書は指摘します)に共通する重要な特徴として、漢人と遊牧民を分治する二元統治体制があります。五胡諸政権のうち本書が重視するのは、後に北魏につながる代です。代を建国した拓跋氏は、鮮卑の一部族です。五胡諸政権では、君主には器量が強く要求されたため、後継者争いで不安定化することが多く、代も例外ではありませんでした。代は376年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に前秦に滅ぼされます。

 383年の淝水の戦いでの大敗により前秦は急速に衰退し、華北は再び分裂状態に陥ります。この混乱の中で、386年に代は復興し、同年には拓跋珪が魏王と改称します(北魏)。北魏は後燕を破って華北の有力国となり、398年に国号を正式に魏と決定し、拓跋珪は皇帝に即位します(道武帝)。道武帝は409年に息子の拓跋紹に殺害され、その紹を兄の拓跋嗣が殺して即位します(明元帝)。422年に陣中で没した明元帝の後継者となった太武帝は積極的に親征して442年に華北を統一し(北朝)、その権威が高まるとともに、北族の重臣の発言力は低下します。太武帝の時代には仏教が弾圧され、それを太武帝に強く勧めたのは、漢人官僚の代表とも言うべき崔浩でした。しかし、崔浩は450年に突如誅殺されます。崔浩誅殺事件については、『国書』編纂において拓跋氏の先祖や遊牧的風習をそのまま書いたためと言われてきましたが、国家の得失や同時代への部分的批判を石碑で公開したことが、太武帝の権威を損なうものとして誅殺されたのではないか、との解釈が提示されています。太武帝も後継者をめぐる暗闘の中で殺害され、その後継者の文成帝も465年に二十代で没し、献文帝が即位します。471年、まだ18歳の献文帝は突如として皇太子に譲位し(孝文帝)、太上皇帝として国政を執ることとなりました。これが日本の律令制の太上天皇の起源となります。北魏は、次第に漢人官僚を登用していき、中国的制度の導入を進め、遊牧文化と中国文化の接触により、独自の政策が生み出されていきました。

 献文帝は476年に没しますが、馮太后による毒殺とも言われています。孝文帝はこの時数え年でまだ10歳だったので、馮太后が実権を掌握して改革を進めます。この改革により北魏の華北支配は、漢人豪族を通じての表層的なものからより直接的なものへと強化されます。この一連の改革で実施された均田制は、後に日本の律令制にも取り入れられます。490年に馮太后が没すると、じょじょに政務に関わっていった孝文帝が全面的に実権を掌握します。孝文帝の新政期には、礼制や言語や官制や遷都など広範にいわゆる中国化政策が進められます。こうした中国化政策の目的は「天下統一」で、「伝統」を継承すると自認している南朝貴族の統治を見据えたものでもあった、と本書は指摘します。しかし、孝文帝の改革の結果、北族の結束は崩れて階層分化が起きます。

 499年に没した孝文帝の後継者となった宣武帝は、孝文帝の諸改革を継承します。これにより、階層分化がさらに進んで北族の間で不満が高まり、523年に六鎮の乱が勃発します。洛陽遷都により重要性の低下した六鎮では、とくに不満が高まっていました。六鎮の乱とともに北魏各地で反乱が起き、華北は戦乱状態に陥ります。この混乱の最中でも北魏朝廷は権力闘争が続き、爾朱栄が実権を掌握し、華北の再統一におおむね成功します。爾朱栄はいわゆる中国化路線に否定的で、北魏前期体制の復活を志向しましたが、もはや全面的な復古は無理な状況でした。爾朱栄はその権勢を孝荘帝に警戒されて殺害され、諸勢力が決起して華北は再び混乱状態に陥ります。この混乱を経て北魏は、高歓が実権を掌握する東魏と、宇文泰が実権を掌握する西魏に分裂します。軍事的にも経済的にも文化的にも、東魏が西魏を圧倒していました。中下層の北族が中核を占める西魏では、復古的政策が進められます。

 一方の南朝は、西晋瓦解後に西晋王族が江南で建てた東晋に由来します。東晋では漢人貴族が高位を占める貴族制が成立し、東晋からの禅譲という形で420年に皇帝に即位し、宋を建国します。宋では皇帝が東晋以来の貴族に対して権力強化を図りつつ、儀礼などで新たな「伝統」が創出されていき、魏晋以来の華北文化の継承という自認もあったのか、南朝には漢代以来の「伝統」が伝えられている、と後世には解釈されるようになります。南朝にとって北朝(5世紀では北魏)との抗争は決定的に重要で、北朝の周辺諸国との外交により、北朝を牽制していました。また、軍事衝突のない期間には、南朝と北朝は交渉において、立ち居振る舞いや学術討論などにより、相互に文化面での優位性を示そうとしました。宋は後継者争いで疲弊し、479年に禅譲の形で斉が建国されます。本書は、儒学では北朝がやや優れ、仏教はほぼ同水準、玄学・文学では南朝が優越していた、と評価します。その斉は、暗君の出現により同族に滅ぼされ、502年に梁が建国されます。宋と斉の粛清は同時期の北魏より激しく、皇帝・恩倖寒人と皇族・貴族の対立構造で理解されてきましたが、近年では、皇帝の下で貴族と恩倖寒人がともに政治を動かしていたものの、皇帝が皇族中の第一人者にすぎなかったため、帝位継承が不安定化し、官僚同士の党争が絡み合って政情不安に陥った、と指摘されています。また、南朝の貴族制については、家格により厳密に固定されていた、との印象よりずっと流動的だったようです。

 5世紀後半には南朝よりも北朝の方が相対的に安定していましたが、6世紀前半には南朝の方が相対的に安定するようになります。梁は、事実上建国者である武帝一代で滅亡しましたが、その治世は半世紀近くに及び、その治世の大半は安定していました。武帝は一流貴族を尊重しつつ、寒門出身の知識人を積極的に登用し、貴族層にも学問・教養を求め、梁では学問に励む風潮が生まれ、武帝自身が一流の知識人でした。こうした風潮の中、『文選』など文化面で大きな成果があがりました。武帝は仏教に傾倒し、外交でも仏教が大きな役割を果たしました。ただ、武帝は仏教に傾倒して寛大な自画像に拘るあまり、梁では次第に規律が弛緩して治安も悪化していきました。さらに、銅銭の不足から鉄銭に切り替えたことでインフレにより経済が混乱しました。このように不安定化していった梁を崩壊に追い込んだのが、548年に起きた侯景の乱でした。侯景は552年に殺害されますが、この一連の大乱で梁は分裂して縮小し、陳覇先が557年に陳を建国しましたが、梁の中核地域を抑えたものの、領土は梁よりもはるかに小さくなりました。侯景の乱に始まる一連の争乱により、南朝の貴族は没落していきます。

 南北朝時代も終盤に入り、南朝では侯景の乱を経て陳が、北朝では北魏が東西に分裂し、禅譲の形で、東魏は550年に北斉に、西魏は557年に北周に交代します。北斉ではいわゆる中国化政策が進められ、東魏と西魏の力関係を継承して、国力では北周に優越していました。しかし、北斉でも後継者争いによる権力闘争は激しく、軍事力の低下と判断の誤りにより577年に事実上北周に滅ぼされました(最終的な滅亡は581年)。北斉は短期間で滅亡しましたが、その制度は後の隋と唐に継承されました。北周では皇帝権の強化が図られ、優勢な北斉を滅ぼしますが、相次ぐ皇帝の夭逝により、581年には隋に取って代わられます。陳は北斉と北周の対立に乗じて領土を拡大しましたが、北周が予想外に早く北斉を滅ぼして華北を統一し、北斉から交代した隋に攻め込まれた陳は589年に滅亡します。こうして、中華は短い西晋期を除いて約400年ぶりに統一されました。

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