フランス地中海地域における5万年以上前の現生人類の存在
フランス地中海地域における5万年以上前の現生人類(Homo sapiens)の存在を報告した研究(Slimak et al., 2022)が報道されました。現生人類は30万年以上前にアフリカで出現し(関連記事1および関連記事2)、解剖学的現代人は少なくとも195000年前頃までに出現しました(関連記事)。なお、おそらくは本論文の脱稿後に、解剖学的現代人の年代は遅くとも23万年前頃との研究が刊行されています(関連記事)。
アフリカ外の初期現生人類の最初期の痕跡は、イスラエルでは194000~177000年前頃(関連記事)、ギリシアでは21万年前頃までさかのぼる可能性があります(関連記事)。レヴァントは伝統的に、現生人類拡散に基本的な役割を果たしてきた、と考えられていますが、レヴァントの後期更新世の古人類学的記録は斑状です(関連記事)。現生人類遺骸はアジア東部では早くも8万年前頃に記録されており(関連記事)、考古学的証拠からは、現生人類はオーストラリアに65000年前頃までには到達しました(関連記事)。
しかしヨーロッパでは、現生人類の出現はずっと後に起きたようで、おそらくは生態学的障壁および/もしくはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)による居住のためです。ヨーロッパにおける後期更新世現生人類の居住の最初の証拠は、イタリアの3ヶ所の遺跡(関連記事1および関連記事2)、つまり南プッリャ(Southern Apulia)州のカヴァッロ洞窟(Grotta Cavallo)遺跡と、西リグーリア・アルプス山脈(Ligurian Alps)のリパロ・ボンブリーニRiparo Bombrini)遺跡と、西レッシーニ山脈(Lessini Mountains)フマネ洞窟(Grotta di Fumane)遺跡、およびブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)遺跡(関連記事)の5点遊離した歯の遺骸に基づいて、45000~43000年前頃に制約されています。
ヨーロッパにおける最新のネアンデルタール人遺骸の年代は42000~40000年前頃ですが、そのムステリアン(Mousterian)技術は41000~39000年前頃に終焉しました(関連記事1および関連記事2)。この時期に、ムステリアン(ムスティエ文化)技術は一般的に、いわゆる移行期インダストリーにより層序的に置換されます。具体的には、ウルツィアン(Ulzzian)やシャテルペロニアン(Châtelperronian)やボフニチアン(Bohunician)で、その製作者の分類学的同定は激しく議論されています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。この後には、現生人類の考古学的識別特性ともなされるプロトオーリナシアン(Protoaurignacian)と前期オーリナシアン(Early Aurignacian)が続きます(関連記事1および関連記事2)。
記録が示すのは、最初の現生人類遺骸と全ての移行期インダストリーは層序学的に中部旧石器時代とネアンデルタール人の層の上で整然と見つかる、ということなので、ヨーロッパの特定地域におけるネアンデルタール人と現生人類との間の遭遇の可能性を論証することは不可能です。本論文は、フランス地中海地域のマンドリン洞窟(Grotte Mandrin)遺跡で見つかった人類化石群を報告します。この化石群は、ヨーロッパにおける現生人類の既知では最初となる到来を明らかにし、その較正年代は56800~51700年前頃です。本論文は、マンドリン洞窟遺跡での、ネアンデルタール人の存在の最後の数千年にわたる、ネアンデルタール人→現生人類→ネアンデルタール人→現生人類という居住の連続的な交代段階を論証します。本論文は最後に、異なるヒトの2集団と直接的に関連づけることができる、考古学的層序内の石器インダストリーにおける重要な技術的違いを識別します。
●マンドリン洞窟遺跡
マンドリン洞窟は、フランスのマラタヴェルヌ(Malataverne)町の近くに位置し、標高は225mで、ローヌ渓谷中部の東岸を見下ろしています(図1)。1990年以降、発掘により3mの深さの層序が明らかになり、12の考古学的層序(J層からB1層)が含まれ、年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)5から中部旧石器時代末と上部旧石器時代の出現にまでわたっています。これらの層は、基底部の局所的な粘土を含む層(J層からG層)、中部の風成砂層(F層からD層)、上部の粗い屋根の破砕層(C層とB層)を構成する堆積物内にあります。地質学と空間と微細層序の分析、および層序で大きな外れ値がないと明らかになっている全ての層の直接的年代の豊富な集積により示されるように、全体的な層序はとくによく保存されています。以下は本論文の図1です。
マンドリン洞窟遺跡では、豊富でよく保存された考古学的収集物が発見されており、6万点近くの石器(図2と図3と図4)と、ウマとバイソンとシカが優占的な7万点以上の動物相遺骸も含まれます。以下は本論文の図2です。
とくにE層には、一部では長さが1cmしかないような標準化された小さな尖頭器により特徴づけられる、注目すべきインダストリーが含まれます。これらの尖頭器は、マンドリン洞窟の層序におけるムステリアン(ムスティエ文化)インダストリーの全てとは、かなりの技術的違いを表しています。以下は本論文の図3です。
この異なる石器群と近隣遺跡群のほぼ同時代の層序の他の類似した石器群のため、それらの石器群にはネロニアン(Neronian)という独自の文化的帰属が与えられました。ネロニアンという名称は、ネロン洞窟(Grotte de Néron)遺跡に由来します。これまで、ネロニアン(ネロン文化)インダストリーはマンドリン洞窟遺跡ほど早い時期にはどこにも記録されておらず、その製作者は特定されていませんでした。以下は本論文の図4です。
●人類遺骸
人類化石は9点の歯の標本から構成され、マンドリン洞窟のほとんどの層で発見されており(図5)、少なくとも7個体を表します。古代DNA分析は、まず層序全体で発掘されたウマ化石で行なわれ、DNAの保存水準と、個体がどの人口集団に帰属するのか特定するための人類遺骸からのDNA回収の試みが保証されるのかどうか、評価されました。しかし、ウマ化石資料からの全体的な保存兆候は乏しく、この時点では、人類遺骸の標本抽出に対しては警告されます。以下は本論文の図5です。
したがって、G層からC層の歯の要素の構造的形態が調べられ、E層の単一標本にはとくに注意が払われました。これは乳歯で、上顎第二大臼歯の歯冠です(Man12 E 1300標本のUdm2)。歯科計量および非計量特徴の研究を、歯冠輪郭(最も摩耗した標本の場合)およびEDJ(象牙質とエナメル質の接合部、この標本を用いるのは、咬合摩耗の影響が中程度の場合)の形態分析、エナメル質の厚さの評価、歯根の割合と組み合わせることにより、ネアンデルタール人と現生人類を区別できます。永久歯の下顎第一大臼歯(LM1、図6)のEDJ分析では、一方にネアンデルタール人、他方に上部更新世(後期更新世)と完新世の現生人類が、集団間主成分1軸(bgPC1)に沿って区別されます(全偏差の60.02%を表します)。以下は本論文の図6です。
ネアンデルタール人のEDJは、現生人類よりも高い組織分布と、より中央に位置する象牙質の角の先端を示します。相対成長兆候はこの軸に沿っては検出されません。F層の永久歯の下顎第一大臼歯(Man98 F 811標本)の3点の象牙質の角の先端の再構成は、ネアンデルタール人の変異内に収まります。同様に、D層の乳歯上顎第二大臼歯(Udm2)とC層の下顎第二大臼歯(Ldm2)の輪郭分析は相互に、bgPC1に沿って、部分的におよび完全にネアンデルタール人と上部更新世から完新世の現生人類を分離します。Udm2については、bgPC1は大きさに依存しない形態変異により特徴づけられますが、Ldm2については、わずかな相対成長の影響が第一軸に沿って見られます。
D層のMan04 D 395標本およびMan04 D 679標本のUdm2と、C層のMan11 C 204標本のLdm2は、ネアンデルタール人とまとまります(図6)。本論文の結果は、D・C・F・G層で見つかった全ての標本をネアンデルタール人に属するものとして同定します(図6)。しかし、E層のMan12 E 1300標本のUdm2のEDJ分析は、異なる兆候を示します(図6)。bgPC1(85.53%)はネアンデルタール人と上部更新世から完新世の現生人類を区別し、形態の違いに加えていくつかの大きさに依存した変異を示します。象牙質の角の先端の3点の再構成は共にまとまり、明確に完新世現生人類ではなく上部更新世現生人類の範囲に収まり、bgPC2に沿ってネアンデルタール人の変異外となります(図6および図7)。以下は本論文の図7です。
Udm2のEDJの幾何学形態計測分析を底部比に限定しても、Man12 E 1300標本の二次元(2D)分析(再構成を必要としません)と三次元(3D)分析は両方、後期更新世現生人類の範囲に収まり、ネアンデルタール人とは区別されます(図7)。交差検証されたbgPCAの結果は、正準変量分析(CVA)により裏づけられ、F・D・C層の歯はネアンデルタール人として分類され、E層のMan12 E 1300標本は明確に上部更新世現生人類に分類されます。
●年代測定
マンドリン洞窟遺跡の年代を制約するため、オックスフォード大学放射性炭素加速器装置(ORAU)からの高品質の加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)放射性炭素年代測定と、オックスフォード大学発光(ルミネッセンス)実験室およびアデレード大学実験室で層序全体からの、また気候環境科学研究室で層序の底部からの、ルミネッセンス年代が得られました。地質考古学の層序情報との組み合わせで、年代の全てを統合するベイズモデルが構築されました(図8)。
その結果、現生人類化石を含むE層は56800~51700年前(95.4%の確率)と判断されました。この現生人類個体は、ヨーロッパにおける以前に記録された現生人類遺骸もしくは移行期考古学的遺物群の可能性があるものよりかなり早く、スラエルの西ガリラヤ(Western Galilee)地域のマノット洞窟(Manot Cave)で発見された部分的頭蓋冠であるマノット1号(関連記事)よりも、古くはないとしてもほぼ同時代です。以下は本論文の図8です。
●石器
ネロニアン・インダストリーは、ローヌ渓谷中部では他に4ヶ所の遺跡で特定されており、それはネロンとフィギエ(Figuier)とムーラ(Moula)とマラス(Maras)で、最初は「発展ムステリアン」と呼ばれていました。残念ながら、これらの遺跡はおもに1869~1950年に発掘され、ネロニアン層ではわずかな石器しか見つからず、ムステリアン・インダストリーと混合しているようでした。マンドリン洞窟E層の証拠、および他のほぼ同時代の石器群との比較により、この文化体系のより充分な理解が可能になりました。
ネロニアンでは、石刃と尖頭器が同じ技術体系から製作され、認識できる2つの図式があり、それは石刃/尖頭器と細石刃/細尖頭器です。次に、剥離の第一段階は、充分に標準化された尖頭器の剥離前に、石刃もしくは細石刃の製作に焦点を当てます(図2および図3)。製作順序は、石核稜付石刃/細石刃で始まります。石刃と尖頭器は、この技術の独占的最終製品でした。薄い腹面収束再加工はこれらの道具を、このインダストリーの古典的な類型論的分類であるソワイヨン尖頭器(Soyons Point)へと変えました。
ネロニアン・インダストリーは、その達成において顕著な技術的精度を示します。ネロニアン・インダストリーは、最終製品の1/3で最大長3cmを示す、標準化された細尖頭器の顕著な割合により特徴づけられます。微小尖頭器と呼ばれる小さな尖頭器は、最大長で10mm未満になる場合があります。使用摩耗分析は、これらの細石器がおもに二次的変更なしに用いられたことを示します。
石器の開始から廃棄までの全ての製作段階の存在は、完全な製作過程が岩陰で実行されたことを示します。マンドリン洞窟E層石器群は、層序の他の一式と比較して高品質の、とくに均質な石材の塊から製作されました。この差異的選択は部分的に、ひじょうに均質な岩石の使用を要求する製作体系に起因するかもしれません。石材調達分析から、E層のヒトは大きな領域的影響を及ぼした、と示唆されます。それは、岩石のほぼ半分(46.6%)がひじょうに広範な領域に由来するからで、最も近い岩石はメッス・ロシュモール(Meysse-Rochemaure)など15~35kmの地点、最長では60~90kmの地点に由来するためです。
ルヴァロワ(Levallois)尖頭器技術はヨーロッパの中部旧石器時代では稀ですが、地中海東部地域では一般的で、マンドリン洞窟E層石器群は、正確な技術的特徴をレヴァント地域の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)と共有していた、と最近になって提案されました。レバノンのクサールアキル(Ksâr ‘Akil)遺跡の25層~20層の石器群との直接的比較と、44600年以上前~41600年前頃(関連記事)および43000~39000年前頃の年代は、ネロニアン・インダストリーがIUPとの顕著な技術的類似性を有していた、と示します。クサールアキル遺跡のIUPとネロニアン両方の尖頭器製作に用いられた技術は同じで、両遺跡の尖頭器の先端断面の比較は、統計的に有意な違いを示しません(図9)。以下は本論文の図9です。
レヴァントにおけるIUPの始まりは、ボーカータクチト(Boker Tachtit)遺跡の1層で表され、マンドリン洞窟遺跡のネロニアンよりわずかに新しいことになります。クサールアキル遺跡のIUPインダストリーは、前期上部旧石器(Early Upper Paleolithic、略してEUP、19層~14層)と分類される技術的に密接したインダストリーに続き、EUPは技術的に局所的なIUPの直接的後継と論証されてきました。学童期(juvenile)の現生人類1個体と現生人類1個体の上顎がクサールアキル遺跡のEUPとIUPの層でそれぞれ回収されているので、ほとんどの学者は、クサールアキル遺跡のIUPとEUPの製作者は現生人類だと認めています。マンドリン洞窟遺跡E層とクサールアキル遺跡の石器群間の類似性は、IUP人口集団の構成員が地中海地域を通ってひじょうに早期に拡大し、上部旧石器の最初の出現をヨーロッパ西部では12000年、ヨーロッパ大陸全体では1万年さかのぼらせた、と示唆します。
●考察
古人類学における以前の総意は、ヨーロッパにおける現生人類の定住は45000~40000年前頃で、その後すぐのネアンデルタール人の消滅と一致している、というものです(関連記事)。現生人類とネアンデルタール人との間の交雑の複数回の事象はアジアで起きた可能性が高く(関連記事)、現在の古遺伝学的データは、これらの集団間の古代の遺伝子流動もある程度はヨーロッパで起きたものの(関連記事)、これまで最後のネアンデルタール人集団間で現生人類からの遺伝的影響は検出されていません(関連記事)。
本論文で説明されたマンドリン洞窟遺跡E層の考古学および化石証拠は、以前に特定されていたよりも1万年早い、ヨーロッパへの現生人類の侵入を記録します。この現生人類集団は、同時代のネアンデルタール人集団に対して、大きな技術的利点を有していたようです。マンドリン洞窟遺跡E層の豊富でよく保存されたネロニアン・インダストリーは、本論文では現生人類と直接的に関連づけられますが、以前には技術的例外とみなされてきました。なぜならば、その独特な特徴が見られ、古典的なネアンデルタール人のムステリアン層の間に挿入されているからです(図2・図3・図4)。
マンドリン洞窟遺跡は、地中海地域とヨーロッパ北部の草原地帯をつなぐ最重要の自然回廊であるローヌ渓谷中部における、人類の予期せぬ複雑な連続の過程を明らかにします。マンドリン洞窟遺跡は地中海への2番目に重要な河川流入の突き出た位置にあり、地中海地域規模でのこれら人類の連続を理解するための重要性を表します。現生人類はレヴァント地域では54700±5500年前までに記録されていますが(関連記事)、現在の研究では、同等の記録がブルガリアのバチョキロ洞窟(関連記事)やイタリアの遺跡群やその近隣の河川流域(関連記事1および関連記事2)に出現する前に、1万年近くの間隙があります。まとめると、これらのデータが示唆するのは、レヴァントからローヌ渓谷回廊までの地中海地域は、ユーラシア西部における現生人類の地理的拡大期に重要な役割を果たしたようだ、ということです。
本論文で提示されたマンドリン洞窟遺跡の結果が示すのは、ヨーロッパ他地域でよく主張されるように、人口集団置換の単一事象の記録の代わりに、現生人類の出現とネアンデルタール人の消滅のずっと複雑な過程がヨーロッパ西部で起きたようだ、ということです。本論文は、交互の置換が少なくとも4段階あったことを記録します。ネアンデルタール人はMIS5~54000年前頃までマンドリン洞窟遺跡周辺の地域に居住し、現生人類は54000年前頃(マンドリン洞窟遺跡E層の56800~51700年前頃)に侵入し、その後でネアンデルタール人が再居住し(マンドリン洞窟遺跡D・C2・C1・B3・B2層)、第二の現生人類段階は44100~41500年前頃以降(マンドリン洞窟遺跡B1層)となります。マンドリン洞窟遺跡の他に、クリミアのブランカヤ3(Buran Kaya III)遺跡(関連記事)の考古学的層序のみが、中部旧石器インダストリーにより移行期インダストリーが置換された層序として記録されている、と知られています。しかし、関連する層では人類遺骸が欠けています。
マンドリン洞窟遺跡について高解像度の地質年代学的手法が示してきたのは、F層のネアンデルタール人の最後の居住と、E層の現生人類の最初の居住との間の期間が短く、約1年と推定されることで、これは重複しており統計的に分離できないF層とE層のベイズモデル年代推定値と一致するシナリオです。マンドリン洞窟遺跡の連続は、ヨーロッパで地理的に定義される地域における、ネアンデルタール人と現生人類との可能性の高いほぼ同時期の存在の最初の記録を表します。そうした急速な連続性は、この地域における同年代の人類間に存在する顕著な技術的相違を浮き彫りにします。
この連続性は、ネアンデルタール人の居住の間に位置する現生人類の居住(ネアンデルタール人のF層とD層の間に位置する、現生人類のE層)の混層の、ヨーロッパにおける最初の既知の考古学的証拠も表します。豊富な先行する石器インダストリー(F層)とその次の石器インダストリー(D層からB2層)は、さまざまなネアンデルタール人集団間、もしくは現生人類集団とネアンデルタール人集団間の技術伝統の観点では、文化的交換の定かな過程を明らかにせず、主要な相互作用のない急速な置換過程のシナリオと一致する状況です。これらのデータが示すのは、在来のネアンデルタール人集団の置換が、単純な単一事象ではなく複雑な歴史的過程で、その期間には両人口集団が相互に他方を急速に若しくは突然、少なくとも2回同じ領域で置換した、ということです。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、フランス地中海地域にネアンデルタール人の石器(ムステリアン)とは異なる石器(ネロニアン)を有する現生人類が5万年以上前に存在した可能性を示し、本論文の見解が妥当ならば、ヨーロッパへの現生人類拡散の歴史は大きく書き換えられることになります。その場合、現時点でのヨーロッパでの証拠から、このネロニアンと関連した現生人類集団は、絶滅したか、レヴァントへと撤退したか、ネアンデルタール人に吸収された(ものの遺伝的にはほとんど影響を残さず、ヨーロッパの後期~末期ネアンデルタール人のゲノムでは検出されない)ことになりそうです。
ネロニアンがIUPと技術的に関連していたとすると、ネロニアンはIUPの最初期インダストリーとなり、本論文の想定とは異なりますが、その後のIUPと比較してネアンデルタール人のインダストリーに対してとくに優位ではなかった可能性も考えられます。あるいは、ネアンデルタール人から現生人類への置換では、石器技術の「優劣」よりも社会組織化の方が大きな役割を果たしたのかもしれません。また、5万年以上前に地中海地域だけとしても現生人類がヨーロッパに拡散していた場合、ネアンデルタール人の文化に影響を及ぼした可能性も考えられます。
ヨーロッパの「移行期インダストリー」では、シャテルペロニアン(シャテルペロン文化)の担い手について、ネアンデルタール人なのか現生人類なのか、議論になっていますが(関連記事)、その少なくとも一部の担い手がネアンデルタール人である可能性は高そうです(関連記事)。シャテルペロニアンはほぼ間違いなく現生人類の所産と考えられるオーリナシアン(オーリニャック文化)とも一部期間が重複しているかもしれず(関連記事)、おそらく45000年以上前にチェコにまで現生人類が拡散していたこと(関連記事)も考えると、シャテルペロニアンのような上部旧石器的要素のある「移行期インダストリー」の一部がネアンデルタール人の所産だとしても、現生人類の影響を受けている可能性は高そうです。
参考文献:
Slimak L. et al.(2022): Modern human incursion into Neanderthal territories 54,000 years ago at Mandrin, France. Science Advances, 8, 6, eabj9496.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abj9496
アフリカ外の初期現生人類の最初期の痕跡は、イスラエルでは194000~177000年前頃(関連記事)、ギリシアでは21万年前頃までさかのぼる可能性があります(関連記事)。レヴァントは伝統的に、現生人類拡散に基本的な役割を果たしてきた、と考えられていますが、レヴァントの後期更新世の古人類学的記録は斑状です(関連記事)。現生人類遺骸はアジア東部では早くも8万年前頃に記録されており(関連記事)、考古学的証拠からは、現生人類はオーストラリアに65000年前頃までには到達しました(関連記事)。
しかしヨーロッパでは、現生人類の出現はずっと後に起きたようで、おそらくは生態学的障壁および/もしくはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)による居住のためです。ヨーロッパにおける後期更新世現生人類の居住の最初の証拠は、イタリアの3ヶ所の遺跡(関連記事1および関連記事2)、つまり南プッリャ(Southern Apulia)州のカヴァッロ洞窟(Grotta Cavallo)遺跡と、西リグーリア・アルプス山脈(Ligurian Alps)のリパロ・ボンブリーニRiparo Bombrini)遺跡と、西レッシーニ山脈(Lessini Mountains)フマネ洞窟(Grotta di Fumane)遺跡、およびブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)遺跡(関連記事)の5点遊離した歯の遺骸に基づいて、45000~43000年前頃に制約されています。
ヨーロッパにおける最新のネアンデルタール人遺骸の年代は42000~40000年前頃ですが、そのムステリアン(Mousterian)技術は41000~39000年前頃に終焉しました(関連記事1および関連記事2)。この時期に、ムステリアン(ムスティエ文化)技術は一般的に、いわゆる移行期インダストリーにより層序的に置換されます。具体的には、ウルツィアン(Ulzzian)やシャテルペロニアン(Châtelperronian)やボフニチアン(Bohunician)で、その製作者の分類学的同定は激しく議論されています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。この後には、現生人類の考古学的識別特性ともなされるプロトオーリナシアン(Protoaurignacian)と前期オーリナシアン(Early Aurignacian)が続きます(関連記事1および関連記事2)。
記録が示すのは、最初の現生人類遺骸と全ての移行期インダストリーは層序学的に中部旧石器時代とネアンデルタール人の層の上で整然と見つかる、ということなので、ヨーロッパの特定地域におけるネアンデルタール人と現生人類との間の遭遇の可能性を論証することは不可能です。本論文は、フランス地中海地域のマンドリン洞窟(Grotte Mandrin)遺跡で見つかった人類化石群を報告します。この化石群は、ヨーロッパにおける現生人類の既知では最初となる到来を明らかにし、その較正年代は56800~51700年前頃です。本論文は、マンドリン洞窟遺跡での、ネアンデルタール人の存在の最後の数千年にわたる、ネアンデルタール人→現生人類→ネアンデルタール人→現生人類という居住の連続的な交代段階を論証します。本論文は最後に、異なるヒトの2集団と直接的に関連づけることができる、考古学的層序内の石器インダストリーにおける重要な技術的違いを識別します。
●マンドリン洞窟遺跡
マンドリン洞窟は、フランスのマラタヴェルヌ(Malataverne)町の近くに位置し、標高は225mで、ローヌ渓谷中部の東岸を見下ろしています(図1)。1990年以降、発掘により3mの深さの層序が明らかになり、12の考古学的層序(J層からB1層)が含まれ、年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)5から中部旧石器時代末と上部旧石器時代の出現にまでわたっています。これらの層は、基底部の局所的な粘土を含む層(J層からG層)、中部の風成砂層(F層からD層)、上部の粗い屋根の破砕層(C層とB層)を構成する堆積物内にあります。地質学と空間と微細層序の分析、および層序で大きな外れ値がないと明らかになっている全ての層の直接的年代の豊富な集積により示されるように、全体的な層序はとくによく保存されています。以下は本論文の図1です。
マンドリン洞窟遺跡では、豊富でよく保存された考古学的収集物が発見されており、6万点近くの石器(図2と図3と図4)と、ウマとバイソンとシカが優占的な7万点以上の動物相遺骸も含まれます。以下は本論文の図2です。
とくにE層には、一部では長さが1cmしかないような標準化された小さな尖頭器により特徴づけられる、注目すべきインダストリーが含まれます。これらの尖頭器は、マンドリン洞窟の層序におけるムステリアン(ムスティエ文化)インダストリーの全てとは、かなりの技術的違いを表しています。以下は本論文の図3です。
この異なる石器群と近隣遺跡群のほぼ同時代の層序の他の類似した石器群のため、それらの石器群にはネロニアン(Neronian)という独自の文化的帰属が与えられました。ネロニアンという名称は、ネロン洞窟(Grotte de Néron)遺跡に由来します。これまで、ネロニアン(ネロン文化)インダストリーはマンドリン洞窟遺跡ほど早い時期にはどこにも記録されておらず、その製作者は特定されていませんでした。以下は本論文の図4です。
●人類遺骸
人類化石は9点の歯の標本から構成され、マンドリン洞窟のほとんどの層で発見されており(図5)、少なくとも7個体を表します。古代DNA分析は、まず層序全体で発掘されたウマ化石で行なわれ、DNAの保存水準と、個体がどの人口集団に帰属するのか特定するための人類遺骸からのDNA回収の試みが保証されるのかどうか、評価されました。しかし、ウマ化石資料からの全体的な保存兆候は乏しく、この時点では、人類遺骸の標本抽出に対しては警告されます。以下は本論文の図5です。
したがって、G層からC層の歯の要素の構造的形態が調べられ、E層の単一標本にはとくに注意が払われました。これは乳歯で、上顎第二大臼歯の歯冠です(Man12 E 1300標本のUdm2)。歯科計量および非計量特徴の研究を、歯冠輪郭(最も摩耗した標本の場合)およびEDJ(象牙質とエナメル質の接合部、この標本を用いるのは、咬合摩耗の影響が中程度の場合)の形態分析、エナメル質の厚さの評価、歯根の割合と組み合わせることにより、ネアンデルタール人と現生人類を区別できます。永久歯の下顎第一大臼歯(LM1、図6)のEDJ分析では、一方にネアンデルタール人、他方に上部更新世(後期更新世)と完新世の現生人類が、集団間主成分1軸(bgPC1)に沿って区別されます(全偏差の60.02%を表します)。以下は本論文の図6です。
ネアンデルタール人のEDJは、現生人類よりも高い組織分布と、より中央に位置する象牙質の角の先端を示します。相対成長兆候はこの軸に沿っては検出されません。F層の永久歯の下顎第一大臼歯(Man98 F 811標本)の3点の象牙質の角の先端の再構成は、ネアンデルタール人の変異内に収まります。同様に、D層の乳歯上顎第二大臼歯(Udm2)とC層の下顎第二大臼歯(Ldm2)の輪郭分析は相互に、bgPC1に沿って、部分的におよび完全にネアンデルタール人と上部更新世から完新世の現生人類を分離します。Udm2については、bgPC1は大きさに依存しない形態変異により特徴づけられますが、Ldm2については、わずかな相対成長の影響が第一軸に沿って見られます。
D層のMan04 D 395標本およびMan04 D 679標本のUdm2と、C層のMan11 C 204標本のLdm2は、ネアンデルタール人とまとまります(図6)。本論文の結果は、D・C・F・G層で見つかった全ての標本をネアンデルタール人に属するものとして同定します(図6)。しかし、E層のMan12 E 1300標本のUdm2のEDJ分析は、異なる兆候を示します(図6)。bgPC1(85.53%)はネアンデルタール人と上部更新世から完新世の現生人類を区別し、形態の違いに加えていくつかの大きさに依存した変異を示します。象牙質の角の先端の3点の再構成は共にまとまり、明確に完新世現生人類ではなく上部更新世現生人類の範囲に収まり、bgPC2に沿ってネアンデルタール人の変異外となります(図6および図7)。以下は本論文の図7です。
Udm2のEDJの幾何学形態計測分析を底部比に限定しても、Man12 E 1300標本の二次元(2D)分析(再構成を必要としません)と三次元(3D)分析は両方、後期更新世現生人類の範囲に収まり、ネアンデルタール人とは区別されます(図7)。交差検証されたbgPCAの結果は、正準変量分析(CVA)により裏づけられ、F・D・C層の歯はネアンデルタール人として分類され、E層のMan12 E 1300標本は明確に上部更新世現生人類に分類されます。
●年代測定
マンドリン洞窟遺跡の年代を制約するため、オックスフォード大学放射性炭素加速器装置(ORAU)からの高品質の加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)放射性炭素年代測定と、オックスフォード大学発光(ルミネッセンス)実験室およびアデレード大学実験室で層序全体からの、また気候環境科学研究室で層序の底部からの、ルミネッセンス年代が得られました。地質考古学の層序情報との組み合わせで、年代の全てを統合するベイズモデルが構築されました(図8)。
その結果、現生人類化石を含むE層は56800~51700年前(95.4%の確率)と判断されました。この現生人類個体は、ヨーロッパにおける以前に記録された現生人類遺骸もしくは移行期考古学的遺物群の可能性があるものよりかなり早く、スラエルの西ガリラヤ(Western Galilee)地域のマノット洞窟(Manot Cave)で発見された部分的頭蓋冠であるマノット1号(関連記事)よりも、古くはないとしてもほぼ同時代です。以下は本論文の図8です。
●石器
ネロニアン・インダストリーは、ローヌ渓谷中部では他に4ヶ所の遺跡で特定されており、それはネロンとフィギエ(Figuier)とムーラ(Moula)とマラス(Maras)で、最初は「発展ムステリアン」と呼ばれていました。残念ながら、これらの遺跡はおもに1869~1950年に発掘され、ネロニアン層ではわずかな石器しか見つからず、ムステリアン・インダストリーと混合しているようでした。マンドリン洞窟E層の証拠、および他のほぼ同時代の石器群との比較により、この文化体系のより充分な理解が可能になりました。
ネロニアンでは、石刃と尖頭器が同じ技術体系から製作され、認識できる2つの図式があり、それは石刃/尖頭器と細石刃/細尖頭器です。次に、剥離の第一段階は、充分に標準化された尖頭器の剥離前に、石刃もしくは細石刃の製作に焦点を当てます(図2および図3)。製作順序は、石核稜付石刃/細石刃で始まります。石刃と尖頭器は、この技術の独占的最終製品でした。薄い腹面収束再加工はこれらの道具を、このインダストリーの古典的な類型論的分類であるソワイヨン尖頭器(Soyons Point)へと変えました。
ネロニアン・インダストリーは、その達成において顕著な技術的精度を示します。ネロニアン・インダストリーは、最終製品の1/3で最大長3cmを示す、標準化された細尖頭器の顕著な割合により特徴づけられます。微小尖頭器と呼ばれる小さな尖頭器は、最大長で10mm未満になる場合があります。使用摩耗分析は、これらの細石器がおもに二次的変更なしに用いられたことを示します。
石器の開始から廃棄までの全ての製作段階の存在は、完全な製作過程が岩陰で実行されたことを示します。マンドリン洞窟E層石器群は、層序の他の一式と比較して高品質の、とくに均質な石材の塊から製作されました。この差異的選択は部分的に、ひじょうに均質な岩石の使用を要求する製作体系に起因するかもしれません。石材調達分析から、E層のヒトは大きな領域的影響を及ぼした、と示唆されます。それは、岩石のほぼ半分(46.6%)がひじょうに広範な領域に由来するからで、最も近い岩石はメッス・ロシュモール(Meysse-Rochemaure)など15~35kmの地点、最長では60~90kmの地点に由来するためです。
ルヴァロワ(Levallois)尖頭器技術はヨーロッパの中部旧石器時代では稀ですが、地中海東部地域では一般的で、マンドリン洞窟E層石器群は、正確な技術的特徴をレヴァント地域の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)と共有していた、と最近になって提案されました。レバノンのクサールアキル(Ksâr ‘Akil)遺跡の25層~20層の石器群との直接的比較と、44600年以上前~41600年前頃(関連記事)および43000~39000年前頃の年代は、ネロニアン・インダストリーがIUPとの顕著な技術的類似性を有していた、と示します。クサールアキル遺跡のIUPとネロニアン両方の尖頭器製作に用いられた技術は同じで、両遺跡の尖頭器の先端断面の比較は、統計的に有意な違いを示しません(図9)。以下は本論文の図9です。
レヴァントにおけるIUPの始まりは、ボーカータクチト(Boker Tachtit)遺跡の1層で表され、マンドリン洞窟遺跡のネロニアンよりわずかに新しいことになります。クサールアキル遺跡のIUPインダストリーは、前期上部旧石器(Early Upper Paleolithic、略してEUP、19層~14層)と分類される技術的に密接したインダストリーに続き、EUPは技術的に局所的なIUPの直接的後継と論証されてきました。学童期(juvenile)の現生人類1個体と現生人類1個体の上顎がクサールアキル遺跡のEUPとIUPの層でそれぞれ回収されているので、ほとんどの学者は、クサールアキル遺跡のIUPとEUPの製作者は現生人類だと認めています。マンドリン洞窟遺跡E層とクサールアキル遺跡の石器群間の類似性は、IUP人口集団の構成員が地中海地域を通ってひじょうに早期に拡大し、上部旧石器の最初の出現をヨーロッパ西部では12000年、ヨーロッパ大陸全体では1万年さかのぼらせた、と示唆します。
●考察
古人類学における以前の総意は、ヨーロッパにおける現生人類の定住は45000~40000年前頃で、その後すぐのネアンデルタール人の消滅と一致している、というものです(関連記事)。現生人類とネアンデルタール人との間の交雑の複数回の事象はアジアで起きた可能性が高く(関連記事)、現在の古遺伝学的データは、これらの集団間の古代の遺伝子流動もある程度はヨーロッパで起きたものの(関連記事)、これまで最後のネアンデルタール人集団間で現生人類からの遺伝的影響は検出されていません(関連記事)。
本論文で説明されたマンドリン洞窟遺跡E層の考古学および化石証拠は、以前に特定されていたよりも1万年早い、ヨーロッパへの現生人類の侵入を記録します。この現生人類集団は、同時代のネアンデルタール人集団に対して、大きな技術的利点を有していたようです。マンドリン洞窟遺跡E層の豊富でよく保存されたネロニアン・インダストリーは、本論文では現生人類と直接的に関連づけられますが、以前には技術的例外とみなされてきました。なぜならば、その独特な特徴が見られ、古典的なネアンデルタール人のムステリアン層の間に挿入されているからです(図2・図3・図4)。
マンドリン洞窟遺跡は、地中海地域とヨーロッパ北部の草原地帯をつなぐ最重要の自然回廊であるローヌ渓谷中部における、人類の予期せぬ複雑な連続の過程を明らかにします。マンドリン洞窟遺跡は地中海への2番目に重要な河川流入の突き出た位置にあり、地中海地域規模でのこれら人類の連続を理解するための重要性を表します。現生人類はレヴァント地域では54700±5500年前までに記録されていますが(関連記事)、現在の研究では、同等の記録がブルガリアのバチョキロ洞窟(関連記事)やイタリアの遺跡群やその近隣の河川流域(関連記事1および関連記事2)に出現する前に、1万年近くの間隙があります。まとめると、これらのデータが示唆するのは、レヴァントからローヌ渓谷回廊までの地中海地域は、ユーラシア西部における現生人類の地理的拡大期に重要な役割を果たしたようだ、ということです。
本論文で提示されたマンドリン洞窟遺跡の結果が示すのは、ヨーロッパ他地域でよく主張されるように、人口集団置換の単一事象の記録の代わりに、現生人類の出現とネアンデルタール人の消滅のずっと複雑な過程がヨーロッパ西部で起きたようだ、ということです。本論文は、交互の置換が少なくとも4段階あったことを記録します。ネアンデルタール人はMIS5~54000年前頃までマンドリン洞窟遺跡周辺の地域に居住し、現生人類は54000年前頃(マンドリン洞窟遺跡E層の56800~51700年前頃)に侵入し、その後でネアンデルタール人が再居住し(マンドリン洞窟遺跡D・C2・C1・B3・B2層)、第二の現生人類段階は44100~41500年前頃以降(マンドリン洞窟遺跡B1層)となります。マンドリン洞窟遺跡の他に、クリミアのブランカヤ3(Buran Kaya III)遺跡(関連記事)の考古学的層序のみが、中部旧石器インダストリーにより移行期インダストリーが置換された層序として記録されている、と知られています。しかし、関連する層では人類遺骸が欠けています。
マンドリン洞窟遺跡について高解像度の地質年代学的手法が示してきたのは、F層のネアンデルタール人の最後の居住と、E層の現生人類の最初の居住との間の期間が短く、約1年と推定されることで、これは重複しており統計的に分離できないF層とE層のベイズモデル年代推定値と一致するシナリオです。マンドリン洞窟遺跡の連続は、ヨーロッパで地理的に定義される地域における、ネアンデルタール人と現生人類との可能性の高いほぼ同時期の存在の最初の記録を表します。そうした急速な連続性は、この地域における同年代の人類間に存在する顕著な技術的相違を浮き彫りにします。
この連続性は、ネアンデルタール人の居住の間に位置する現生人類の居住(ネアンデルタール人のF層とD層の間に位置する、現生人類のE層)の混層の、ヨーロッパにおける最初の既知の考古学的証拠も表します。豊富な先行する石器インダストリー(F層)とその次の石器インダストリー(D層からB2層)は、さまざまなネアンデルタール人集団間、もしくは現生人類集団とネアンデルタール人集団間の技術伝統の観点では、文化的交換の定かな過程を明らかにせず、主要な相互作用のない急速な置換過程のシナリオと一致する状況です。これらのデータが示すのは、在来のネアンデルタール人集団の置換が、単純な単一事象ではなく複雑な歴史的過程で、その期間には両人口集団が相互に他方を急速に若しくは突然、少なくとも2回同じ領域で置換した、ということです。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、フランス地中海地域にネアンデルタール人の石器(ムステリアン)とは異なる石器(ネロニアン)を有する現生人類が5万年以上前に存在した可能性を示し、本論文の見解が妥当ならば、ヨーロッパへの現生人類拡散の歴史は大きく書き換えられることになります。その場合、現時点でのヨーロッパでの証拠から、このネロニアンと関連した現生人類集団は、絶滅したか、レヴァントへと撤退したか、ネアンデルタール人に吸収された(ものの遺伝的にはほとんど影響を残さず、ヨーロッパの後期~末期ネアンデルタール人のゲノムでは検出されない)ことになりそうです。
ネロニアンがIUPと技術的に関連していたとすると、ネロニアンはIUPの最初期インダストリーとなり、本論文の想定とは異なりますが、その後のIUPと比較してネアンデルタール人のインダストリーに対してとくに優位ではなかった可能性も考えられます。あるいは、ネアンデルタール人から現生人類への置換では、石器技術の「優劣」よりも社会組織化の方が大きな役割を果たしたのかもしれません。また、5万年以上前に地中海地域だけとしても現生人類がヨーロッパに拡散していた場合、ネアンデルタール人の文化に影響を及ぼした可能性も考えられます。
ヨーロッパの「移行期インダストリー」では、シャテルペロニアン(シャテルペロン文化)の担い手について、ネアンデルタール人なのか現生人類なのか、議論になっていますが(関連記事)、その少なくとも一部の担い手がネアンデルタール人である可能性は高そうです(関連記事)。シャテルペロニアンはほぼ間違いなく現生人類の所産と考えられるオーリナシアン(オーリニャック文化)とも一部期間が重複しているかもしれず(関連記事)、おそらく45000年以上前にチェコにまで現生人類が拡散していたこと(関連記事)も考えると、シャテルペロニアンのような上部旧石器的要素のある「移行期インダストリー」の一部がネアンデルタール人の所産だとしても、現生人類の影響を受けている可能性は高そうです。
参考文献:
Slimak L. et al.(2022): Modern human incursion into Neanderthal territories 54,000 years ago at Mandrin, France. Science Advances, 8, 6, eabj9496.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abj9496
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