萩原淳『平沼騏一郎 検事総長、首相からA級戦犯へ』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。平沼騏一郎は歴代の首相では知名度が低い方でしょうが、首相在任中の1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されたことを受け、首相を退任したさいの「複雑怪奇」声明により現在でも(悪い意味で)一定以上の知名度があるように思います。この「複雑怪奇」声明がなく単に退任していれば、平沼は歴代の首相でも一二を争う知名度の低さだったかもしれません。ただ、そうだとしても、本書で明らかにされているように、司法官時代を中心に平沼の影響力の大きさは無視できず、近代史における重要人物であることに変わりはないでしょう。
本書は、おそらく一般的には「情けない首相」として認識されているだろう平沼の伝記で、平沼の司法官として功績、とくに検察権の強化や、国家主義者としての側面や、枢密院議長を務めたことや、首相退任後に重臣として政界の要人であり続けたことなど、多面的に長期にわたる権力者平沼を叙述します。本書は、平沼が建前や名分を重視する性格で、把握しづらい人物だった、と指摘します。そうした平沼の個性と、司法と政界で長期にわたって権力を維持するという広範な活動から、平沼を本格的に描いた著作はないそうで、本書の意義は大きいと言えそうです。
平沼は慶応3年9月28日(1867年10月25日)、津山藩の家禄50石の藩士の二男として生まれました。津山藩は佐幕派で、幼少時の平沼は徳川家に愛着を感じており、天皇制への関心を深めたのは大学予備門に入った13歳以降だったようです。平沼は幼少時に漢学と国学を学び、これが平沼精神形成に重要な影響を与えたようです。幼少時の平沼は意志強固で、慎重かつ冷静な性格だったようです。そのため、安易に人を信用しないものの、認めた相手への信愛・友情は厚かったそうです。平沼は6歳の時に、単身上京していた父に呼ばれて東京で暮らし始めます。平沼は大学予備門から東京大学法学部に進学し、とくに穂積重信に感銘を受けたようです。また平沼は穂積の授業から、当時最先端の法学をだけではなく、司法権の尊厳保持も学びました。平沼は大学で西洋化された教育を受けつつも、古風な家庭教育を受けていたこともあり、革命や急進主義に対する嫌悪感と、天皇制護持の観念を抱くようになっていきます。1888年7月、平沼は帝国大学法科大学英法科(東京大学法学部)を首席で卒業します。
1888年12月、平沼は司法省参事官試補となります。当時の司法省は、初代司法卿が江藤新平だったこともあり、政府で薩長が優越するなか、佐賀や土佐の出身者が比較的多くいました。司法省も当初は旧藩士が担いましたが、1890年頃からは東大法学部卒の学歴エリートが台頭していきます。平沼が司法省に入ったのは司法省の給費生だったからで、当時の司法省は官庁としては比較的弱かったため、平沼にとって司法省入りは不本意で、内務省の方がよかった、と考えていたようです。1890年12月、平沼は東京地裁判事に昇任します。1891年の大津事件における「司法権の独立」は、現在では大審院長―の児島惟謙が自身の監督権の範囲を超えて担当判事を説得したことや、裁判中に緊急勅令を法相に進言したことなど、神話化が修正されているようですが、結果として行政の干渉を排し、「司法権の独立」を守った先例として大きな意義があった、と本書は指摘します。この頃から司法省では山県有朋系官僚が主導権を把握するようになり、1890年代後半から1900年代初頭には保守的な藩閥官僚が形成されます。
平沼は横浜地裁部長などを経て1898年7月には東京控訴院部長に昇進し、1899年に東京控訴院検事に転じた後は、検事畑を歩んでいきます。この間、平沼は専門学校や法律学校で刑法と民放の講義を担当し、ドイツ法の影響が強くなるなか、ドイツ語を学んでドイツ語の原書を読むようになります。また、この間に平沼は結婚しますがすぐに離婚し、その直後に肺結核を患って医者から妻帯を禁じるよう勧告されたため再婚せず、平沼の兄にわると、肺結核が完治した時には老境に差し掛かっていたため、再婚しなかったそうです。本書は、平沼が再婚しなかったのは、病気や婚期の問題よりも、結婚生活の失敗から自らの意思で選択したのだろう、と推測します。1900年、司法官の待遇改善運動が起き、その沈静化に中心的な役割を果たした平沼は、有力な若手司法官の失脚により出世の糸口をつかむとともに、結果的に山県系藩閥官僚から第四次伊藤内閣を守ったことにより、後に政友会から重用される契機となりました。
平沼が検事に転じた1899年頃の前後に、検事は自ら任意捜査を行なうようになりますが、重大事件での走査を主導するまでの権力はありませんでした。1900年代に検事として順調に出世していった平沼は1907年にヨーロッパ諸国を訪問し、「先進国」の司法を視察します。このヨーロッパ訪問で、平沼は指紋法を学び、日本への導入に努めます。また平沼は、予審制度の大幅改正を訴え、イギリスでの視察から裁判官の質、とくに品性の高潔が重要と主張します。平沼がヨーロッパ視察で強く関心を抱いたことに、無政府主義やストライキがあり、平沼は無政府主義が皇室否定や体制転覆につながることを強く警戒しました。このヨーロッパ視察により司法省内での平沼の権威は高まり、権力基盤強化につながりました。また平沼にとってこのヨーロッパ視察での重要な成果の一つとして、鈴木喜三郎との親交を深めたことも挙げられます。本書は、平沼が司法制度の西洋化を必要と考えたのは不平等条約改正の手段であり、無政府主義への警戒など保守的な側面も窺え、1915年には日本の伝統的価値観への傾倒を深めた、と指摘します。
ヨーロッパから帰国した後の平沼は、司法省民刑局長兼大審院検事として、日糖事件と大逆事件の捜査を指揮し、検察権を強化することに成功します。まず、1905年の日比谷焼討事件での強引な捜査により警察への批判が広がるなか、捜査の中心ではなかった検察が優位に立つような土壌が形成されます。この頃には起訴猶予の慣行も定着していき、検事の重要性が高まります。また、1908年の新刑法施行により、検事の裁量権が拡大しました。こうした起訴猶予の拡大には、経費節減や犯罪増加抑制の目的がありました。1909年の日糖事件は、検察権の強化をもたらしました。これは大日本製糖株式会社(日糖)と政治家との間の贈収賄事件で、日糖幹部だけではなく、衆議院議員およびその関係者も公判に付され、最初の検事局主導の捜査となりました。当時の新聞は検事を支持し、検察権強化の背景となります。
1910年5月に発覚した大逆事件では、平沼が病気の松室検事総長の代理として指揮をとり、大審院での公判は開始直後に非公開とされ、起訴された26名のうち24名が死刑(そのうち2名は判決翌日に明治天皇の特赦により無期懲役に減刑)、2名が懲役刑の判決を受けました。強引な捜査ながら厳しい判決となったのは、ドイツの刑法理論に由来する危険犯の概念導入により、刑法を拡大解釈したからでした。検察は日糖事件と大逆事件で警察と予審判事を抑えて捜査の主導権を把握し、権威をさらに高めました。平沼は大逆事件について、幸徳秋水はフランス語と英語を習得したことで無政府主義に触れたのであり、漢学のみならば事件は起きなかった、と指摘しており、西洋化への不信感を強めたようです。ただ、この時点での無政府主義や社会主義運動の影響力は小さく、平沼が伝統的価値観の振興を強く主張するようになったのは、第一次世界大戦後の外来思想流入の増加を契機としていました。
平沼は1911年9月、司法省官僚の頂点である司法次官に昇格しますが、検察権の強化とともに、検察は人権問題で批判の矢面に立つようになります。平沼はこうした批判に対して運用の改善により対処し、検察は不起訴処分を積極的に活用するようになり、1920年頃には第一審の有罪率が99%を超え、第二次世界大戦後の「精密司法」の源流がすでに表れている、と本書は評価します。1910年代には行財政整理の一環で司法部改革も進められ、この過程で平沼は政友会との距離を縮めるとともに、「平沼閥」が形成された、と批判的に報道されるようにもなります。
1912年12月、平沼は司法次官から念願の検事総長に昇格します。当時、官僚の党派化が進むなか、平沼は検事総長に就任することにより、党派から一定の距離を置き、検察権を運用できました。平沼は1921年10月に大審院長に就任するまで、9年近く検事総長を務めました。検事総長時代の平沼は、シーメンス事件や大浦事件など政治勢力の贈収賄事件と選挙違反事件について、国家や社会に重大な影響を及ぼしそうな場合は内閣とも協議し、捜査や起訴の範囲については妥協を模索し、起訴猶予を柔軟に適用するとともに、検察内に強固な基盤を築き、検事総長の権限を最大限活用しました。シーメンス事件以後、平沼は世間でも注目される存在となり、おおむね好意的な評価を受けていたようです。ただ、大浦事件で大浦兼武を起訴猶予処分としたことは政府の指示に従ったからだとして、批判を受けたようです。この間、1918年9月の原敬内閣成立のさいに、平沼は原から法相就任を打診されますが、断っており、本書は、平沼が政党内閣に入ることを躊躇ったからだろう、と推測しています。原内閣では、司法官定年制や陪審制の導入など、司法部改革が進められます。
上述のように1915年頃に平沼は日本の伝統的価値観への傾倒を深めますが、それは平沼が司法官として個人主義の弊害を感じ、大逆事件では漢学など伝統的価値観の教育の重要性を強く認識したからだろう、と推測します。新刑法では、応報刑ではなく犯罪者の再犯防止・教育が重視されました。日本では儒教に由来する「徳治主義」を取り入れる必要がある、というわけです。また平沼は、第一次世界大戦後にマルクス主義や民主主義の影響を受けた社会運動が高揚したことにも危機感を抱き、憲法や外交でも伝統的価値観に傾倒していきます。平沼が大本教に強硬な姿勢を取ったことも(第一次大本教事件)、同様に既存の社会秩序を脅かす(と平沼が考えた)勢力への警戒に起因していました。平沼は上杉慎吉と美濃部達吉との天皇機関説論争では、天皇主権説の方を支持していました。また平沼は、「人種」の観点から西洋への不信感を強めていきます。
平沼は検事総長の後に大審院長を務めますが、将来は宮中入りを望んでいたようです。当時、宮内大臣(宮相)や内大臣といった宮中高官は、政治的に中立で府中(内閣や議会など)に関与しないことが求められていました。これは、当時の報道機関からは政治的に中立とみなされていた平沼の印象に沿うものでした。平沼は宮相か内大臣に就任し、宮中政治家として皇太子(後の昭和天皇)の輔導だけではなく、元老に代わって政治的調整を行なうような立場に就こうとしたのだろう、と本書は推測します。しかし、政治的に中立との平沼への一般的な印象とは異なり、原内閣期に平沼は検事総長の立場でありながら政官民の国家主義者との交流を深めていきます。
1923年9月、平沼は第二次山本権兵衛内閣の成立に伴って、大審院長を辞任して法相に就任します。本書は、宮中入りには閣僚経験が有利になるので、平沼は以前から法相就任を望んでいただろう、と推測します。第二次山本内閣の重要な課題として男子普通選挙の実施があり、平沼は普選実現に消極的ではあったものの、納税額による選挙権制限には限界があると考え、普選運動が過熱する前に政府主導で実現しようと考えました。これには、普選実現による国家的統合の推進との意図もあったようです。第二次山本内閣は1923年12月27日に起きた虎ノ門事件により総辞職し、平沼も法相を辞任することとなり、1924年1月には貴族院議員に勅選されますが、翌月には辞職して枢密顧問官に就任します。
平沼は枢密顧問官のまま国家主義運動に深く関わり、国本社を改組して自ら会長に就任します。国本社は司法官および陸軍との深い関係により、急速に拡大します。国本社会長としての平沼の理念は、明治維新後の急激な西洋化を批判・反省し、儒教的道徳に依拠した秩序の構築にありましたが、具体性に乏しく、観念的かつ理想主義的でした。本書は、平沼が天皇の政治関与に批判的だったことから、日本の伝統的価値観や天皇制の重要性の強調は、外来思想への対抗や国民統合と秩序維持の手段としての側面があった、と推測します。平沼は司法官時代の経験から国民の政治的判断能力を信用しておらず、いかに国民を官僚の望む政策に誘導するか、という牧民官的意識が強かった、と指摘します。
1926年4月、平沼は枢密院副議長に就任しますが、この前後に唯一の元老となっていた西園寺公望に接近します。こうした努力により、平沼は政官界で首相の有力候補として認識されるようになりますが、西園寺公望は平沼の国家主義的言動や政治運動を警戒していました。平沼副議長時代の枢密院と政党内閣との対立は激化していきます。1927年には、台湾銀行問題で第一次若槻礼次郎内閣と枢密院とが対立し、若槻内閣は総辞職しました。若槻内閣の後継の田中義一内閣は、田中首相が平沼と近い政治観を持っていることもあり、平沼と親しい原嘉道と鈴木喜三郎を閣僚に起用するなど、平沼と密接な関係にありました。平沼は、田中義一と親しかったことや、政党内閣が根づいたように見えることから、1931年初頭までは政権獲得に動かなかったようです。しかし、治安維持法改正をめぐって田中内閣が緊急勅令で法案成立を図ると、この間の経緯が報道され、枢密院は審査機関としての中立性を大きく損ないます。政治的に中立と見られていた平沼も、政友会内閣と密かに通じた陰謀家との印象を抱かれるようになります。また、田中内閣での不戦条約調印問題をめぐって、平沼は支配層においてその政治的野心を警戒されるようになっていきます。
張作霖爆殺事件をめぐる対応で田中内閣が総辞職した後に成立した浜口雄幸内閣での重要な政治的課題は、ロンドン海軍軍縮条約でした。平沼はこの問題で、陸軍では荒木貞夫、海軍では加藤寛治から情報を得ていたようですが、官界でも軍部でも、平沼が親しくしていたのは自身と政治観が近く、必ずしも主流派ではない人物だったので、平沼が政治家としての新たな見識を得る機会にはならなかった、と本書は評価します。浜口が狙撃されて負傷し、状態が悪化して内閣総辞職となった後に成立した第二次若槻内閣下で満洲事変が起きます。平沼は満洲事変での朝鮮軍の独断越境をとくに問題とせず、時として法的解釈よりも自分が望む政策を優先しました。ただ、平沼は軍の統制の崩壊を憂慮していました。
政党内閣が満洲事変を収拾できない中、すでに以前より政党内閣に見切りをつけていた平沼は、本格的に政権獲得運動に乗り出します。平沼は政権獲得運動において、英米協調外交に批判的で親軍的な勢力からの期待を集めていたこともあり、陸軍皇道派や海軍艦隊派との提携を重視していました。平沼は五・一五事件の後、自らが首相となることを期待していましたが、昭和天皇から「ファッショ(ファシズム)」に近い者は不可と伝えられていた西園寺公望は、以前からの警戒もあり、平沼を推薦することはありませんでした。すでに、平沼が軍部や国家主義者の一部と提携し「ファッショ」内閣を成立させよう、との印象が浸透していました。満洲事変の頃から1934年5月まで、しかし、国本社の機関紙『国本』では、ファシズムを高く評価する論調とともに、ファシズムを否定する論調も見られ、平沼自身もファシズムには否定的でした。ただ、『国本』では1392年4月の平沼の声明までファシズムに比較的好意的だったので、それが平沼への西園寺たちの懸念を強めたかもしれません。活発化した平沼の政権獲得運動は、1934年5月に枢密院議長への昇格を西園寺公望に阻まれたことや、その前後に平沼と親しい軍人が次々と政治的影響力を失ったことにより、失速します。
政権獲得に失敗した平沼は、しばらく積極的に動くことを控えます。この間、二・二六事件により西園寺公望の影響力が低下し、内大臣など宮中集団が後継首相推薦や枢密院議長など国家の重要人事に大きな影響力を有するようになります。二・二六事件後、西園寺は反対したものの、平沼は国本社などとの関係断絶を条件に枢密院議長に就任します。国本社は平沼の後任の会長を決定せず、解散します。広田弘毅内閣の総辞職後、宇垣一成に大命が降下されますが、陸軍の反対により宇垣内閣は成立せず、平沼が後継第一候補に挙げられますが、平沼は固辞して林銑十郎内閣が発足します。総選挙で敗北した林内閣の後継について湯浅倉平内大臣から意見を問われた平沼は、近衛文麿を推薦するとともに、イギリスとの協調を主張します。これは、華北問題と対ソ戦を重視していたからで、反共主義が根底にありました。
第一次近衛内閣で日中戦争が始まると、平沼は対ソ戦と中ソ接近を警戒してか、和平交渉を試みます。しかし、日中戦争は泥沼化します。息詰まった近衛は辞職して、ついに平沼に大命が降下し、1939年1月5日、平沼内閣が成立します。平沼内閣の閣僚の大半は近衛内閣からの留任で、近衛が平沼の後任として枢密院議長に就任するなど、平沼は近衛に配慮しました。また平沼は政務官を全員衆議院議員から採用し、各政党からの推薦により決定するなど、政党にも配慮しました。平沼は冷徹な印象を払拭しようとして、報道機関に対して愛想よく対応しました。平沼内閣の特徴として、国家社会主義や共産主義にも影響を受けた「革新政策」に消極的だったことも挙げられます。
平沼内閣で大きな問題となったのは外交で、防共や欧米中心の国際秩序への反感は首相就任前から変わりませんでしたが、具体的政策としてとくに問題になったのは、すでに防共協定を締結していたドイツおよびイタリアとの同盟(三国同盟)でした。平沼は防共(対ソ戦)の観点からドイツおよびイタリアとの軍事同盟推進を考えましたが、ドイツはイギリスとフランスへの対抗との観点から日本との同盟を画策していました。こうした思惑の違いもあり、日独伊三国軍事同盟不成立の見込みが高くなり、平沼は米国に接近します。しかし、平沼の構想は外務省および軍部とも合意がなされておらず、米国も日中和平の仲介者になることに否定的で、挫折します。ドイツおよびイタリアとの三国同盟は、依然として陸軍に締結論が盛んでしたが、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が発表され、日本に大きな衝撃を与えます。外務省も軍部も、独ソ接近の情報を得ていましたが、ソ連と反共のドイツとの提携はないとの先入観があり、それは平沼も同様でした。平沼は独ソ不可侵条約発表を受けて、内閣総辞職を決意します。同月28日、平沼内閣総辞職にさいして太田内閣書記官長が発表した声明に、「複雑怪奇」との文言がありました。平沼の辞職は、日独伊三国軍事同盟締結方針を中止し、陸軍の反省を促す目的でしたが、平沼はおそらく国内の対立激化を恐れて、陸軍の責任を追及しませんでした。
1940年、ヨーロッパ西部戦線でのドイツの快進撃により新体制運動が盛り上がり、同年7月に第二次近衛内閣が成立します。しかし、新体制運動の性格は曖昧で、平沼のように一党独裁につながって憲法に反する、との批判もありました。新体制運動を持て余した近衛は、新体制運動を終結させるため、1940年12月に平沼を副首相格として入閣させます(無任所相)。同月に平沼は内相に転任し、新体制運動の幕引きに尽力します。第二次近衛内閣での日独伊三国同盟や北部仏印進駐により日米関係は悪化し、平沼は関係改善を図りますが、松岡洋右外相は自分抜きで対米交渉が進められることに不満を抱きます。1941年6月22日の独ソ戦勃発により、松岡と近衛との意見の懸隔はさらに大きくなり、松岡外相を閣外に追放するために近衛はいったん総辞職し、1941年7月、第三次近衛内閣が発足します。翌月、無任所相に転任した平沼は国家主義団体の会員に狙撃されて重傷を負い、無任所相を辞任して治療に専念します。
1941年10月、日米交渉に行き詰まった第三次近衛内閣は総辞職し、東条英機内閣が発足したものの、結局は同年12月に太平洋戦争が始まります。この時の平沼の態度は史料により差異がありますが、明確に意思を表明しなかったようです。太平洋戦争の戦況が悪化いると、東条内閣更迭が政界で構想されますが、平沼がこれに同意するようになったのは、重臣の岡田啓介が1943年8月に他の重臣に働きかけてからでした。しかし、東条内閣打倒は容易ではなく、1944年7月にサイパンが陥落してようやく、東条内閣は総辞職となります。東条の後継首相を決める重臣会議には平沼も出席し、共産主義思想の影響を重視して梅津美治郎に反対します。けっきょく、第二候補の小磯国昭が首相となり、米内光政が副首相格の海相として入閣します。この頃、平沼は戦況悪化から無条件降伏を主張していましたが、1945年初頭に米国が国体を否認する、との報道を知ってからは、早期講和に否定的になり、昭和天皇の戦争責任が追及される場合には徹底抗戦するよう、主張するようになりました。小磯内閣も戦況のさらなる悪化で行き詰まり、重臣会議で平沼は、以前から推していた鈴木貫太郎を再度挙げ、1945年4月7日、鈴木内閣が発足し、平沼は再度枢密院議長に就任します。同年6月8日の御前会議で、平沼は戦争継続の難しさを指摘しつつ、戦争継続を主張しました。同年8月10日の御前会議では、平沼はポツダム宣言受諾に賛成し、鈴木首相が「聖断」を仰いで天皇も賛成します。
日本の降伏後、1945年12月2日、平沼はGHQから戦争犯罪人に指定され、翌日枢密院議長を辞任します。平沼は老齢のため自宅拘禁となり、1946年4月29日の起訴に伴い、巣鴨拘置所に入ります。平沼は、枢密顧問官・大臣・首相として軍閥の侵略的計画を支持したこと、1941年11月29日の重臣会議で開戦に同意したこと、1945年4月5日の重臣会議で講和申し入れに反対し抗戦を主張したことなどから、終身刑を言い渡されました。本書はこの判決について、枢密院の政治的影響力が強かったのは1930年までであること、平沼の首相就任時には日中戦争が泥沼化しており、内閣による軍部統制が困難だったこと、といったこの判決の問題点を指摘しています。一方で本書は、平沼が最も政治的影響力を有した1930年代前半について判決ではほとんど触れられていないことも問題視しています。この頃の平沼は、軍部など対英米協調外交・政党政治に不満な勢力と連携し、軍部の政治的影響力の増大を助長し、政治の不安定化を招来した、というわけです。平沼は戦争責任について、西園寺公望の失政や指導者の払底を挙げ、自身の戦争責任を明言しませんでした。平沼は1952年6月14日、病気療養のため仮出所を許可されましたが、同年8月22日に死去しました。
本書は、おそらく一般的には「情けない首相」として認識されているだろう平沼の伝記で、平沼の司法官として功績、とくに検察権の強化や、国家主義者としての側面や、枢密院議長を務めたことや、首相退任後に重臣として政界の要人であり続けたことなど、多面的に長期にわたる権力者平沼を叙述します。本書は、平沼が建前や名分を重視する性格で、把握しづらい人物だった、と指摘します。そうした平沼の個性と、司法と政界で長期にわたって権力を維持するという広範な活動から、平沼を本格的に描いた著作はないそうで、本書の意義は大きいと言えそうです。
平沼は慶応3年9月28日(1867年10月25日)、津山藩の家禄50石の藩士の二男として生まれました。津山藩は佐幕派で、幼少時の平沼は徳川家に愛着を感じており、天皇制への関心を深めたのは大学予備門に入った13歳以降だったようです。平沼は幼少時に漢学と国学を学び、これが平沼精神形成に重要な影響を与えたようです。幼少時の平沼は意志強固で、慎重かつ冷静な性格だったようです。そのため、安易に人を信用しないものの、認めた相手への信愛・友情は厚かったそうです。平沼は6歳の時に、単身上京していた父に呼ばれて東京で暮らし始めます。平沼は大学予備門から東京大学法学部に進学し、とくに穂積重信に感銘を受けたようです。また平沼は穂積の授業から、当時最先端の法学をだけではなく、司法権の尊厳保持も学びました。平沼は大学で西洋化された教育を受けつつも、古風な家庭教育を受けていたこともあり、革命や急進主義に対する嫌悪感と、天皇制護持の観念を抱くようになっていきます。1888年7月、平沼は帝国大学法科大学英法科(東京大学法学部)を首席で卒業します。
1888年12月、平沼は司法省参事官試補となります。当時の司法省は、初代司法卿が江藤新平だったこともあり、政府で薩長が優越するなか、佐賀や土佐の出身者が比較的多くいました。司法省も当初は旧藩士が担いましたが、1890年頃からは東大法学部卒の学歴エリートが台頭していきます。平沼が司法省に入ったのは司法省の給費生だったからで、当時の司法省は官庁としては比較的弱かったため、平沼にとって司法省入りは不本意で、内務省の方がよかった、と考えていたようです。1890年12月、平沼は東京地裁判事に昇任します。1891年の大津事件における「司法権の独立」は、現在では大審院長―の児島惟謙が自身の監督権の範囲を超えて担当判事を説得したことや、裁判中に緊急勅令を法相に進言したことなど、神話化が修正されているようですが、結果として行政の干渉を排し、「司法権の独立」を守った先例として大きな意義があった、と本書は指摘します。この頃から司法省では山県有朋系官僚が主導権を把握するようになり、1890年代後半から1900年代初頭には保守的な藩閥官僚が形成されます。
平沼は横浜地裁部長などを経て1898年7月には東京控訴院部長に昇進し、1899年に東京控訴院検事に転じた後は、検事畑を歩んでいきます。この間、平沼は専門学校や法律学校で刑法と民放の講義を担当し、ドイツ法の影響が強くなるなか、ドイツ語を学んでドイツ語の原書を読むようになります。また、この間に平沼は結婚しますがすぐに離婚し、その直後に肺結核を患って医者から妻帯を禁じるよう勧告されたため再婚せず、平沼の兄にわると、肺結核が完治した時には老境に差し掛かっていたため、再婚しなかったそうです。本書は、平沼が再婚しなかったのは、病気や婚期の問題よりも、結婚生活の失敗から自らの意思で選択したのだろう、と推測します。1900年、司法官の待遇改善運動が起き、その沈静化に中心的な役割を果たした平沼は、有力な若手司法官の失脚により出世の糸口をつかむとともに、結果的に山県系藩閥官僚から第四次伊藤内閣を守ったことにより、後に政友会から重用される契機となりました。
平沼が検事に転じた1899年頃の前後に、検事は自ら任意捜査を行なうようになりますが、重大事件での走査を主導するまでの権力はありませんでした。1900年代に検事として順調に出世していった平沼は1907年にヨーロッパ諸国を訪問し、「先進国」の司法を視察します。このヨーロッパ訪問で、平沼は指紋法を学び、日本への導入に努めます。また平沼は、予審制度の大幅改正を訴え、イギリスでの視察から裁判官の質、とくに品性の高潔が重要と主張します。平沼がヨーロッパ視察で強く関心を抱いたことに、無政府主義やストライキがあり、平沼は無政府主義が皇室否定や体制転覆につながることを強く警戒しました。このヨーロッパ視察により司法省内での平沼の権威は高まり、権力基盤強化につながりました。また平沼にとってこのヨーロッパ視察での重要な成果の一つとして、鈴木喜三郎との親交を深めたことも挙げられます。本書は、平沼が司法制度の西洋化を必要と考えたのは不平等条約改正の手段であり、無政府主義への警戒など保守的な側面も窺え、1915年には日本の伝統的価値観への傾倒を深めた、と指摘します。
ヨーロッパから帰国した後の平沼は、司法省民刑局長兼大審院検事として、日糖事件と大逆事件の捜査を指揮し、検察権を強化することに成功します。まず、1905年の日比谷焼討事件での強引な捜査により警察への批判が広がるなか、捜査の中心ではなかった検察が優位に立つような土壌が形成されます。この頃には起訴猶予の慣行も定着していき、検事の重要性が高まります。また、1908年の新刑法施行により、検事の裁量権が拡大しました。こうした起訴猶予の拡大には、経費節減や犯罪増加抑制の目的がありました。1909年の日糖事件は、検察権の強化をもたらしました。これは大日本製糖株式会社(日糖)と政治家との間の贈収賄事件で、日糖幹部だけではなく、衆議院議員およびその関係者も公判に付され、最初の検事局主導の捜査となりました。当時の新聞は検事を支持し、検察権強化の背景となります。
1910年5月に発覚した大逆事件では、平沼が病気の松室検事総長の代理として指揮をとり、大審院での公判は開始直後に非公開とされ、起訴された26名のうち24名が死刑(そのうち2名は判決翌日に明治天皇の特赦により無期懲役に減刑)、2名が懲役刑の判決を受けました。強引な捜査ながら厳しい判決となったのは、ドイツの刑法理論に由来する危険犯の概念導入により、刑法を拡大解釈したからでした。検察は日糖事件と大逆事件で警察と予審判事を抑えて捜査の主導権を把握し、権威をさらに高めました。平沼は大逆事件について、幸徳秋水はフランス語と英語を習得したことで無政府主義に触れたのであり、漢学のみならば事件は起きなかった、と指摘しており、西洋化への不信感を強めたようです。ただ、この時点での無政府主義や社会主義運動の影響力は小さく、平沼が伝統的価値観の振興を強く主張するようになったのは、第一次世界大戦後の外来思想流入の増加を契機としていました。
平沼は1911年9月、司法省官僚の頂点である司法次官に昇格しますが、検察権の強化とともに、検察は人権問題で批判の矢面に立つようになります。平沼はこうした批判に対して運用の改善により対処し、検察は不起訴処分を積極的に活用するようになり、1920年頃には第一審の有罪率が99%を超え、第二次世界大戦後の「精密司法」の源流がすでに表れている、と本書は評価します。1910年代には行財政整理の一環で司法部改革も進められ、この過程で平沼は政友会との距離を縮めるとともに、「平沼閥」が形成された、と批判的に報道されるようにもなります。
1912年12月、平沼は司法次官から念願の検事総長に昇格します。当時、官僚の党派化が進むなか、平沼は検事総長に就任することにより、党派から一定の距離を置き、検察権を運用できました。平沼は1921年10月に大審院長に就任するまで、9年近く検事総長を務めました。検事総長時代の平沼は、シーメンス事件や大浦事件など政治勢力の贈収賄事件と選挙違反事件について、国家や社会に重大な影響を及ぼしそうな場合は内閣とも協議し、捜査や起訴の範囲については妥協を模索し、起訴猶予を柔軟に適用するとともに、検察内に強固な基盤を築き、検事総長の権限を最大限活用しました。シーメンス事件以後、平沼は世間でも注目される存在となり、おおむね好意的な評価を受けていたようです。ただ、大浦事件で大浦兼武を起訴猶予処分としたことは政府の指示に従ったからだとして、批判を受けたようです。この間、1918年9月の原敬内閣成立のさいに、平沼は原から法相就任を打診されますが、断っており、本書は、平沼が政党内閣に入ることを躊躇ったからだろう、と推測しています。原内閣では、司法官定年制や陪審制の導入など、司法部改革が進められます。
上述のように1915年頃に平沼は日本の伝統的価値観への傾倒を深めますが、それは平沼が司法官として個人主義の弊害を感じ、大逆事件では漢学など伝統的価値観の教育の重要性を強く認識したからだろう、と推測します。新刑法では、応報刑ではなく犯罪者の再犯防止・教育が重視されました。日本では儒教に由来する「徳治主義」を取り入れる必要がある、というわけです。また平沼は、第一次世界大戦後にマルクス主義や民主主義の影響を受けた社会運動が高揚したことにも危機感を抱き、憲法や外交でも伝統的価値観に傾倒していきます。平沼が大本教に強硬な姿勢を取ったことも(第一次大本教事件)、同様に既存の社会秩序を脅かす(と平沼が考えた)勢力への警戒に起因していました。平沼は上杉慎吉と美濃部達吉との天皇機関説論争では、天皇主権説の方を支持していました。また平沼は、「人種」の観点から西洋への不信感を強めていきます。
平沼は検事総長の後に大審院長を務めますが、将来は宮中入りを望んでいたようです。当時、宮内大臣(宮相)や内大臣といった宮中高官は、政治的に中立で府中(内閣や議会など)に関与しないことが求められていました。これは、当時の報道機関からは政治的に中立とみなされていた平沼の印象に沿うものでした。平沼は宮相か内大臣に就任し、宮中政治家として皇太子(後の昭和天皇)の輔導だけではなく、元老に代わって政治的調整を行なうような立場に就こうとしたのだろう、と本書は推測します。しかし、政治的に中立との平沼への一般的な印象とは異なり、原内閣期に平沼は検事総長の立場でありながら政官民の国家主義者との交流を深めていきます。
1923年9月、平沼は第二次山本権兵衛内閣の成立に伴って、大審院長を辞任して法相に就任します。本書は、宮中入りには閣僚経験が有利になるので、平沼は以前から法相就任を望んでいただろう、と推測します。第二次山本内閣の重要な課題として男子普通選挙の実施があり、平沼は普選実現に消極的ではあったものの、納税額による選挙権制限には限界があると考え、普選運動が過熱する前に政府主導で実現しようと考えました。これには、普選実現による国家的統合の推進との意図もあったようです。第二次山本内閣は1923年12月27日に起きた虎ノ門事件により総辞職し、平沼も法相を辞任することとなり、1924年1月には貴族院議員に勅選されますが、翌月には辞職して枢密顧問官に就任します。
平沼は枢密顧問官のまま国家主義運動に深く関わり、国本社を改組して自ら会長に就任します。国本社は司法官および陸軍との深い関係により、急速に拡大します。国本社会長としての平沼の理念は、明治維新後の急激な西洋化を批判・反省し、儒教的道徳に依拠した秩序の構築にありましたが、具体性に乏しく、観念的かつ理想主義的でした。本書は、平沼が天皇の政治関与に批判的だったことから、日本の伝統的価値観や天皇制の重要性の強調は、外来思想への対抗や国民統合と秩序維持の手段としての側面があった、と推測します。平沼は司法官時代の経験から国民の政治的判断能力を信用しておらず、いかに国民を官僚の望む政策に誘導するか、という牧民官的意識が強かった、と指摘します。
1926年4月、平沼は枢密院副議長に就任しますが、この前後に唯一の元老となっていた西園寺公望に接近します。こうした努力により、平沼は政官界で首相の有力候補として認識されるようになりますが、西園寺公望は平沼の国家主義的言動や政治運動を警戒していました。平沼副議長時代の枢密院と政党内閣との対立は激化していきます。1927年には、台湾銀行問題で第一次若槻礼次郎内閣と枢密院とが対立し、若槻内閣は総辞職しました。若槻内閣の後継の田中義一内閣は、田中首相が平沼と近い政治観を持っていることもあり、平沼と親しい原嘉道と鈴木喜三郎を閣僚に起用するなど、平沼と密接な関係にありました。平沼は、田中義一と親しかったことや、政党内閣が根づいたように見えることから、1931年初頭までは政権獲得に動かなかったようです。しかし、治安維持法改正をめぐって田中内閣が緊急勅令で法案成立を図ると、この間の経緯が報道され、枢密院は審査機関としての中立性を大きく損ないます。政治的に中立と見られていた平沼も、政友会内閣と密かに通じた陰謀家との印象を抱かれるようになります。また、田中内閣での不戦条約調印問題をめぐって、平沼は支配層においてその政治的野心を警戒されるようになっていきます。
張作霖爆殺事件をめぐる対応で田中内閣が総辞職した後に成立した浜口雄幸内閣での重要な政治的課題は、ロンドン海軍軍縮条約でした。平沼はこの問題で、陸軍では荒木貞夫、海軍では加藤寛治から情報を得ていたようですが、官界でも軍部でも、平沼が親しくしていたのは自身と政治観が近く、必ずしも主流派ではない人物だったので、平沼が政治家としての新たな見識を得る機会にはならなかった、と本書は評価します。浜口が狙撃されて負傷し、状態が悪化して内閣総辞職となった後に成立した第二次若槻内閣下で満洲事変が起きます。平沼は満洲事変での朝鮮軍の独断越境をとくに問題とせず、時として法的解釈よりも自分が望む政策を優先しました。ただ、平沼は軍の統制の崩壊を憂慮していました。
政党内閣が満洲事変を収拾できない中、すでに以前より政党内閣に見切りをつけていた平沼は、本格的に政権獲得運動に乗り出します。平沼は政権獲得運動において、英米協調外交に批判的で親軍的な勢力からの期待を集めていたこともあり、陸軍皇道派や海軍艦隊派との提携を重視していました。平沼は五・一五事件の後、自らが首相となることを期待していましたが、昭和天皇から「ファッショ(ファシズム)」に近い者は不可と伝えられていた西園寺公望は、以前からの警戒もあり、平沼を推薦することはありませんでした。すでに、平沼が軍部や国家主義者の一部と提携し「ファッショ」内閣を成立させよう、との印象が浸透していました。満洲事変の頃から1934年5月まで、しかし、国本社の機関紙『国本』では、ファシズムを高く評価する論調とともに、ファシズムを否定する論調も見られ、平沼自身もファシズムには否定的でした。ただ、『国本』では1392年4月の平沼の声明までファシズムに比較的好意的だったので、それが平沼への西園寺たちの懸念を強めたかもしれません。活発化した平沼の政権獲得運動は、1934年5月に枢密院議長への昇格を西園寺公望に阻まれたことや、その前後に平沼と親しい軍人が次々と政治的影響力を失ったことにより、失速します。
政権獲得に失敗した平沼は、しばらく積極的に動くことを控えます。この間、二・二六事件により西園寺公望の影響力が低下し、内大臣など宮中集団が後継首相推薦や枢密院議長など国家の重要人事に大きな影響力を有するようになります。二・二六事件後、西園寺は反対したものの、平沼は国本社などとの関係断絶を条件に枢密院議長に就任します。国本社は平沼の後任の会長を決定せず、解散します。広田弘毅内閣の総辞職後、宇垣一成に大命が降下されますが、陸軍の反対により宇垣内閣は成立せず、平沼が後継第一候補に挙げられますが、平沼は固辞して林銑十郎内閣が発足します。総選挙で敗北した林内閣の後継について湯浅倉平内大臣から意見を問われた平沼は、近衛文麿を推薦するとともに、イギリスとの協調を主張します。これは、華北問題と対ソ戦を重視していたからで、反共主義が根底にありました。
第一次近衛内閣で日中戦争が始まると、平沼は対ソ戦と中ソ接近を警戒してか、和平交渉を試みます。しかし、日中戦争は泥沼化します。息詰まった近衛は辞職して、ついに平沼に大命が降下し、1939年1月5日、平沼内閣が成立します。平沼内閣の閣僚の大半は近衛内閣からの留任で、近衛が平沼の後任として枢密院議長に就任するなど、平沼は近衛に配慮しました。また平沼は政務官を全員衆議院議員から採用し、各政党からの推薦により決定するなど、政党にも配慮しました。平沼は冷徹な印象を払拭しようとして、報道機関に対して愛想よく対応しました。平沼内閣の特徴として、国家社会主義や共産主義にも影響を受けた「革新政策」に消極的だったことも挙げられます。
平沼内閣で大きな問題となったのは外交で、防共や欧米中心の国際秩序への反感は首相就任前から変わりませんでしたが、具体的政策としてとくに問題になったのは、すでに防共協定を締結していたドイツおよびイタリアとの同盟(三国同盟)でした。平沼は防共(対ソ戦)の観点からドイツおよびイタリアとの軍事同盟推進を考えましたが、ドイツはイギリスとフランスへの対抗との観点から日本との同盟を画策していました。こうした思惑の違いもあり、日独伊三国軍事同盟不成立の見込みが高くなり、平沼は米国に接近します。しかし、平沼の構想は外務省および軍部とも合意がなされておらず、米国も日中和平の仲介者になることに否定的で、挫折します。ドイツおよびイタリアとの三国同盟は、依然として陸軍に締結論が盛んでしたが、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が発表され、日本に大きな衝撃を与えます。外務省も軍部も、独ソ接近の情報を得ていましたが、ソ連と反共のドイツとの提携はないとの先入観があり、それは平沼も同様でした。平沼は独ソ不可侵条約発表を受けて、内閣総辞職を決意します。同月28日、平沼内閣総辞職にさいして太田内閣書記官長が発表した声明に、「複雑怪奇」との文言がありました。平沼の辞職は、日独伊三国軍事同盟締結方針を中止し、陸軍の反省を促す目的でしたが、平沼はおそらく国内の対立激化を恐れて、陸軍の責任を追及しませんでした。
1940年、ヨーロッパ西部戦線でのドイツの快進撃により新体制運動が盛り上がり、同年7月に第二次近衛内閣が成立します。しかし、新体制運動の性格は曖昧で、平沼のように一党独裁につながって憲法に反する、との批判もありました。新体制運動を持て余した近衛は、新体制運動を終結させるため、1940年12月に平沼を副首相格として入閣させます(無任所相)。同月に平沼は内相に転任し、新体制運動の幕引きに尽力します。第二次近衛内閣での日独伊三国同盟や北部仏印進駐により日米関係は悪化し、平沼は関係改善を図りますが、松岡洋右外相は自分抜きで対米交渉が進められることに不満を抱きます。1941年6月22日の独ソ戦勃発により、松岡と近衛との意見の懸隔はさらに大きくなり、松岡外相を閣外に追放するために近衛はいったん総辞職し、1941年7月、第三次近衛内閣が発足します。翌月、無任所相に転任した平沼は国家主義団体の会員に狙撃されて重傷を負い、無任所相を辞任して治療に専念します。
1941年10月、日米交渉に行き詰まった第三次近衛内閣は総辞職し、東条英機内閣が発足したものの、結局は同年12月に太平洋戦争が始まります。この時の平沼の態度は史料により差異がありますが、明確に意思を表明しなかったようです。太平洋戦争の戦況が悪化いると、東条内閣更迭が政界で構想されますが、平沼がこれに同意するようになったのは、重臣の岡田啓介が1943年8月に他の重臣に働きかけてからでした。しかし、東条内閣打倒は容易ではなく、1944年7月にサイパンが陥落してようやく、東条内閣は総辞職となります。東条の後継首相を決める重臣会議には平沼も出席し、共産主義思想の影響を重視して梅津美治郎に反対します。けっきょく、第二候補の小磯国昭が首相となり、米内光政が副首相格の海相として入閣します。この頃、平沼は戦況悪化から無条件降伏を主張していましたが、1945年初頭に米国が国体を否認する、との報道を知ってからは、早期講和に否定的になり、昭和天皇の戦争責任が追及される場合には徹底抗戦するよう、主張するようになりました。小磯内閣も戦況のさらなる悪化で行き詰まり、重臣会議で平沼は、以前から推していた鈴木貫太郎を再度挙げ、1945年4月7日、鈴木内閣が発足し、平沼は再度枢密院議長に就任します。同年6月8日の御前会議で、平沼は戦争継続の難しさを指摘しつつ、戦争継続を主張しました。同年8月10日の御前会議では、平沼はポツダム宣言受諾に賛成し、鈴木首相が「聖断」を仰いで天皇も賛成します。
日本の降伏後、1945年12月2日、平沼はGHQから戦争犯罪人に指定され、翌日枢密院議長を辞任します。平沼は老齢のため自宅拘禁となり、1946年4月29日の起訴に伴い、巣鴨拘置所に入ります。平沼は、枢密顧問官・大臣・首相として軍閥の侵略的計画を支持したこと、1941年11月29日の重臣会議で開戦に同意したこと、1945年4月5日の重臣会議で講和申し入れに反対し抗戦を主張したことなどから、終身刑を言い渡されました。本書はこの判決について、枢密院の政治的影響力が強かったのは1930年までであること、平沼の首相就任時には日中戦争が泥沼化しており、内閣による軍部統制が困難だったこと、といったこの判決の問題点を指摘しています。一方で本書は、平沼が最も政治的影響力を有した1930年代前半について判決ではほとんど触れられていないことも問題視しています。この頃の平沼は、軍部など対英米協調外交・政党政治に不満な勢力と連携し、軍部の政治的影響力の増大を助長し、政治の不安定化を招来した、というわけです。平沼は戦争責任について、西園寺公望の失政や指導者の払底を挙げ、自身の戦争責任を明言しませんでした。平沼は1952年6月14日、病気療養のため仮出所を許可されましたが、同年8月22日に死去しました。
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