藤尾慎一郎『日本の先史時代 旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、移行期という視点からの日本列島の先史時代(旧石器時代から縄文時代と弥生時代を経て古墳時代まで)の通史です。本書はまず、時代の意味について検証します。日本語の時代に相当する用語として、英語ではAgeやEraやPeriodなどがあります。Ageはある大きな特色、もしくは権力者(統治機構)に代表される歴史時代を、Eraは根本的な変化や重要な事件などで特徴づけられる時代、Periodは長短に関係なく期間を表します。江戸時代はAge、旧石器時代はEraもしくはPeriodで表さねばなりません。
歴史時代については、設定の経緯や開始が文献記録に残っており分かりやすいものの、統治機構が存在しない先史時代については、時代の及ぶ範囲=その時代の特徴(文化)がおよび範囲と読み替えられます。たとえば、縄文時代は日本列島に限定されます。一方、旧石器時代や青銅器時代のように、斧や工具など利器の材質を指標とする時代は、全世界に適用できます。縄文時代は、現在の日本領と完全に一致するとは限らず、南限については種子島・屋久島地方との見解と、沖縄諸島とする見解があります。弥生時代や古墳時代も、現在の日本領と完全に一致するわけではありません。ただ、弥生時代については、九州北部で水田稲作が開始された時点で、九州の他地域も本州も四国も弥生時代とされます。九州北部以外は縄文時代的な生活が続き、遺伝的にも新たに日本列島に到来した人々と異なるとしても、弥生時代の縄文文化と位置づけられます。
日本列島の先史時代の区分については、各時代の開始の指標は、縄文時代が土器、弥生時代が水田稲作、古墳時代が前方後円墳と一般的に考えられています。しかし、時代の始まりについて、その指標が初めて出現した時点なのか、それともある程度広がった時点なのかについては、議論が続いています。時代区分の指標の定義については、その時代の最も特徴的で、重要で、普遍化していく考古資料との定義があります。本書はこうした議論と定義を踏まえて、時代を特徴づける最重要指標がある程度広まり定着するまでの一定期間、つまり移行期に注目します。移行期には多くの場合、やがて終わることになる前代の要素と、出現し始めた次代の要素の両方が見られ、どちらの要素も圧倒的ではありません。本書は、本州と四国と九州を中心とする(よく日本列島「本土」と呼ばれます)地域を中心に、移行期に着目して日本列島の先史時代を検証します。
●旧石器時代から縄文時代
20世紀半ばから20世紀末にかけては、日本列島では更新世が旧石器時代、完新世が縄文時代以降と考えられていましたが、更新世における土器の出現が明らかになり、旧石器時代から縄文時代への移行時期について議論になっています。旧石器時代は前期(下部)・中期(中部)・後期(上部)に三区分されていますが(これはおもにヨーロッパとアジア南西部を基準とした時代区分で、サハラ砂漠以南のアフリカは異なります)、日本列島では後期旧石器時代から始まる、と一般的には考えられています。旧石器時代は現在より寒冷な期間が長く(現在より温暖な時期もあります)、年平均気温が現在より6~7度ほど低かったような時期には、日本列島の地形は現在とは大きく異なっており、北海道はユーラシア大陸と陸続きになっていました。当時の日本列島は地理的には、古北海道半島、古本州島、古琉球諸島に区分されます。当時、北海道は現在のシベリア北部のようにツンドラ草原と疎林に覆われていた、と考えられています。津軽海峡は冬季には氷橋になったかもしれませんが、ユーラシア大陸部から古北海道半島に到来したマンモスなど大型動物は、古本州島には渡れなかったようです。古本州島は、西部が現在の道東と同じ温帯針広混合林に、南岸が現在の本州から九州と同じく暖温帯落葉広葉樹・常緑広葉樹林に覆われていました。奄美以南の古琉球諸島は、古本州島南岸同様に暖温帯落葉広葉樹・常緑広葉樹林に覆われていました。人口遺物は沖縄のサキタリ遺跡で見つかっている貝製釣針くらいで、石器は基本的に見つかっていませんが、人類化石も含めて多くの化石が発見されています。
他地域ではあまり見られない日本列島の旧石器時代の人工遺物の一つが磨製石器で、古本州島やオーストラリア北部やアムール川流域では、打製石器の刃部だけを磨いた斧(局部磨製石斧)が発見されています。局部磨製石斧は、古本州島では森林地帯に特化しており、樹木の伐採や加工に使われた、と考えられていますが、26500~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)には消滅したようです。旧石器時代の日本列島の人工遺物のもう一つの大きな特徴は、移動生活に適さない重量の大きな石器です。種子島の立切遺跡では、3万年前頃の石皿や局部磨製石斧や集落遺構が見つかっています。集落遺構では同じぱじょでの複数回の調理の痕跡が確認されており、一定期間の定着の証拠と考えられています。重い石器は、石皿として使ったと考えられ、具体的な用途としては堅果類などのすり潰しが想定されています。
旧石器時代における大きな考古学的変化は、16000年前頃の土器の出現です。11700年前頃移行を縄文時代とすることはほぼ合意されているので、本書では16000~11700年前頃が旧石器時代から縄文時代への移行期と把握されます。旧石器時代にはなく縄文時代に出現した、つまり縄文時代の重要指標としてまず挙げられるのが、土器です。ただ、土器の発見と年代も含めてその位置づけをめぐる議論で、日本列島最古級の隆線文土器が旧石器時代の土器なのか、縄文土器なのか、議論が決着しないまま、最古の縄文土器とする見解が主流になった、との問題があります。
縄文文化の始まりについては、寒冷期が終わり温暖化した環境への適応(土器や弓矢や竪穴住居など)を重視する見解もあります(後氷期技術革新論)。この場合、地質的な画期と考古学的指標の出現が一致する12000年前頃に縄文時代が始まった、とされます。縄文文化の起源については、ユーラシア大陸部由来とする見解(伝播論)や、旧石器時代からの変化の連続性で把握する見解(主体者論)や、寒冷化に伴い南下したサケ・マス類を追った北方系集団が関東地方へ進出し、地域の生業や社会体系が変わり、旧石器時代人が主体的に定住化という縄文的な居住に転換した、との見解(生態適応論)があります。
こうした議論には、縄文時代の開始が後氷期の開始と一致する、との前提がありました。しかし、加速器質量分析法(AMS)の導入による放射性炭素年代測定法の改良により、たとえば青森県の大平山元I遺跡土器の年代が後氷期開始の15500年前頃までさかのぼりました。大平山元I遺跡の石器は、局部磨製石斧や打製石斧や石刃や彫器や掻器など、旧石器時代に一般的だった剥片石器や、石鏃などに似た石刃製の石器で、縄文時代に一般的な矢尻や、植物質食料の加工・調理のための石皿や磨石などの石器はなく、旧石器時代的な器種構成の石器群でした。日本列島を含むアジア北東部は、世界で最も早く土器が出現した地域で、22000~16000年前頃の寒冷期(中国東部および南部)、16000~14800年前頃の温暖期に向かう直前(東北地方北部や九州北部)、14800~13000年前頃の温暖期(バイカル湖沿岸やアムール川流域や北海道)、13000~11700年前頃の寒冷期(中国北部および北東部)の4段階に区分されます。アジア北東部における土器は、温暖化する環境変動に対応し、水産資源を効率よく利用するために出現し、その起源は一元的ではなく多元的だった、と考えられています。
日本列島において土器が出現した時期には、古北海道半島や古本州島の植生は堅果類を期待できない針葉樹のため、森林性の植物質食料の調理・加工のために土器が使われたとは考えにくく、住居状遺構からのサケの出土と、土器内面に付着していた炭化物質の同位体比分析から、サケなど水産資源の利用のためだった、と考えられています。旧石器時代から縄文時代への移行期(もしくは縄文時代草創期)の最初期の土器は、1ヶ所の遺跡から1~数個程度しか出土せず、日常的に大量の土器を使っていたとは考えられず、より限定的な目的や季節的にも散られていた、と推測されています。次の隆線文土器の段階では、1ヶ所の遺跡から出土する土器の数は急増し、九州南部では、その植生から、本格的に堅果類を食料対象とするようになったので、土器の使用量が急増した、と考えられています。隆線文土器の寒冷期となるヤンガードライアスには、土器の使用量は低水準に戻るものの、後氷期となり縄文時代早期移行には、土器の使用量が再度増加します。
こうして日本列島における土器の出現が早ければ16000年前頃までさかのぼると明らかになり、旧石器時代から縄文時代への移行がいつなのか、問題となりますが、本書は、16000年前頃となる土器の最初の出現ではなく、九州南部における隆線文土器の出現時期である15000~14000年前頃の方が相応しい、と指摘します。ただ、ヤンガードライアス期には再度土器の出土量がきょくたんに低下します。その意味では、縄文時代の開始を12000年前頃とする方が合意を得やすいだろう、と本書は指摘します。
縄文時代の重要な指標とされる竪穴住居には、遊動的な旧石器時代と対比されています。ただ、旧石器時代でも、神奈川県の田名向原遺跡では、柱穴と思われるピット(穴)が円形に回り、石器がそれに囲まれた内部から集中して見つかったことから、旧石器時代の住居跡と理解されています。ただ、これらはテント状の住居と考えられています。九州南部で隆線文土器が出現する15000年前頃には、地面を数十cm掘り下げた竪穴住居状のものが見られるようになります。年代が確実な最古の竪穴住居は鹿児島県の三角山遺跡や栃木県の野沢遺跡などで発見されており、年代は14000~13400年前頃です。竪穴住居の定型化の背景には家族形態の確立があった、との見解もあります。
縄文時代の重要な指標として、石鏃と土偶もあります。石鏃は、晩氷期から後氷期への温暖化に伴う動物相変化への対応で、中型や小型の動物に対して弓矢が使用されるようになったここと対応している、と考えられます。土偶の出現は、後氷期直前の13000~12000年前頃と推測されています。最初期の土偶は三重県などで見つかっており、関東南部では後氷期以降に土偶の数が増え、同じ頃に竪穴住居も増加します。本書は、土偶が祭りに用いられ、それは定住化に伴う軋轢解消のためではないか、と推測します。
こうした縄文時代の指標とされる土器と竪穴住居と石鏃と土偶の出現は、日本列島において時空間的にかなりの違いがあります。たとえば、北海道の土器は東北に3000年遅れて13000年前頃に出現しますが、土器を使っていた人々の遺跡は小さく、土器を使う人と使わない人々が住み分けていたのではないか、と考えられています。北海道で土器が安定的かつ大量に使われるようになったのは8000年前頃で、北海道の「縄文化」は縄文時代早期になってから始まった、と考えられます。九州の最古の土器の年代は、現時点では14500年前頃です。九州南部では、一般的に考えられている縄文時代的な生活は13000年前頃には確立していたようで、九州南部の縄文化は15000~14500年前頃に始まったと考えられます。沖縄では旧石器時代の人工遺物がほとんど見つかっておらず、堅果類などの加工用石器は6000年前頃、黒曜石製の石鏃が5000年前頃に出現します。沖縄の先史時代で採集・狩猟段階は貝塚時代と呼ばれます。沖縄の先史時代については、森林性の縄文文化に対して、サンゴ礁環境の変化に伴って生業の重臣が森から海へ移行していく、と指摘されています。貝塚時代は、サンゴ礁環境に大きく依存する後期とそれ以前の前期に区分され、前期は5期、後期は2期な細分されます。沖縄の貝塚時代前期は縄文的要素の出現過程が他地域とは異なっており、縄文文化の「亜熱帯型」とも言えます。
本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代の開始時期を検討します。まず、土器の出現を縄文時代開始の指標とする見解は、最初期の土器が魚油の採取目的で、縄文時代の主流である植物質食料の加工ではないことなどから、現在では賛同者が少ないようです。15000年前頃の隆線文土器の出現を縄文時代の開始とする見解は、縄文的要素の出現時期を画期とします。11000年前頃以降を縄文時代とする見解は、縄文的要素の普及・定着を画期とします。本書は、九州南部で「縄文化」が始まり、隆線文土器が出現した15000~14500年前頃を、旧石器時代から縄文時代への画期とします。本書は、九州南部で始まった「縄文化」の波が2000年かけて東進・北上したと推測し、この期間を移行期と把握します。「縄文化」は、11000年前頃の撚糸文土器段階になり、本州・四国・九州の各地にほぼ定着し、それ以前には、「縄文化」の始まった地域と、始まっていない旧石器文化の地域が併存していたわけです。ただ、北海道における「縄文化」は8000年前頃で、沖縄では独自の貝塚時代前期が約1万年続きます。本書は縄文文化を、「森林性新石器文化東アジア類型」の一環として把握しています。本書の見解は、縄文時代の人々の起源を考察するうえで大いに参考になりそうですが、現時点ではまだ私の知見が不足してまとまった見解を述べられそうにないので、今後の課題となります。
●縄文時代から弥生時代
弥生時代の指標は灌漑式水田稲作です。ただ、弥生時代の開始については、灌漑式水田稲作が九州北部で見られる時点もしくは西日本全体に広かった時点か、水田稲作普及の結果として成立する農耕社会が出現した時点など、諸説あります。縄文時代から弥生時代への移行期は、研究の進展に伴い1960年代には、弥生文化を構成する要素の一部が出現する縄文時代晩期末から、最古の弥生式土器が成立するまでで、弥生時代の開始は、板付I式土器が出現する弥生時代前期初頭になる、と理解されるようになりました。1978年、最古の弥生式土器である板付I式土器以前の突帯文土器しか出土しない縄文時代晩期最終末の水田が発見され、投資よより農耕具や土木技術など水田稲作に必要な一式がありました。同じく突帯文土器と水田との共伴は、菜畑や曲り田など九州北部沿岸の遺跡でも確認されました。これが縄文時代の水田稲作なのか、それとも弥生時代の水田稲作なのか、議論となりました。まず、縄文時代から弥生時代への移行の指標となるのが、土器なのかそれとも水田稲作なのか(単一指標)、あるいは両者も含めて複数なのか、という問題があります。次に、時代区分はそうした指標の出現と定着・普及のどちらに基づくべきか、という問題があります。
さらに、21世紀初頭には水田稲作が紀元前10世紀までさかのぼるかもしれない、と報告され、縄文文化から弥生文化への移行期間が、以前の想定よりも長かった可能性が指摘されました。また、これと関連して地域差の大きさも指摘されています。九州北部の玄界灘沿岸地域である福岡平野と早良平野は、アワ・キビ栽培を行なわずに水田稲作を日本列島で最初に始めたとされる地域です。本州で最も水田稲作の開始が遅いとされるのは中部と関東南部で、水田稲作の前に500年ほどアワ・キビ栽培が行なわれており、これが弥生文化なのか縄文文化なのか、議論になっています。また、東北地方北部では、水田稲作は開始から300年ほどで終わり、その後は古代まで農耕自体が行なわれませんでした。
九州北部では、有力者と見られる墓が水田稲作の開始から100年ほどで出現したことから、社会の階層化も早くから進んでいたようです。ただ、当初の九州北部の有力者の副葬品は朝鮮半島南部と類似していたものの、遼寧式銅剣や玉類といったさらに上位のものはまだありませんでした。さらに、墓の分析から、この格差が子供に継承されていた、と示唆されています。戦い(集団間抗争)も、人骨の分析に基づいて、水田稲作の開始から100年ほどで始まった、と推測されています。九州北部の水田稲作は当初から完成した形で始まり、縄文時代晩期には集落のない平野下流域でも行なわれていたことなどから、日本列島最初の水田稲作は縄文時代後期~晩期のアワ・キビ栽培から畑稲作を経て始まった、との見解は成立せず、弥生時代早期後半には水田稲作が普及・定着していました。なお、本書でも言及されていますが、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡の女性個体は、核DNA解析の結果、既知の古代人および現代人と比較して、東日本の縄文時代の人々とまとまりを形成する、と明らかになりました(関連記事)。
ただ本書は、九州北部とは異なり中国・四国・近畿・東海・中部・関東では、水田稲作の前段階としてアワ・キビ栽培が行なわれており、縄文時代特有の網羅的生業構造(特定の生業に偏っていない社会、特定の生業に頼る社会は選択的生業構造)に位置づけられるので、縄文時代から弥生時代への移行期として縄文時代晩期の枠内で考えるべき、と指摘します。西日本では紀元前10世紀頃に網羅的生業構造の一環としてのアワ・キビ栽培の可能性が指摘されており、これが200年後に中部や広東に伝わったかもしれません。中部地方南部や関東南部で水田稲作が始まるのは、九州北部では弥生時代中期中頃となる紀元前3世紀半ばです。関東南部で最古級の水田稲作の村と考えられている小田原市の中里遺跡は、直前まで狩猟採集民が主要な活動の舞台としなかった所に突如として建設され、九州北部における水田稲作の出現と似ており、西方からの移住の可能性も想定されます。私が思うに、これは在来集団との軋轢を避けた結果でもあるかもしれません。中部と関東南部では、アワ・キビ栽培の開始から400年後に、土偶形容器での再葬など弥生文化の影響が見られますが、これが水田稲作とつながっている可能性は低そうだ、と本書は指摘します。一方、中国・四国・近畿・東海では、文化の伝播・拡散により農耕社会が成立した、と考えられています。
東北地方北部では、弘前市の砂沢遺跡で紀元前4世紀の水田跡が発見されています。紀元前4世紀は、比較的降水量が少なく温暖な時期と推定されています。ただ、金沢市付近で紀元前5世紀頃の水田稲作の痕跡が確認されていますが、日本海側ではそこから地理的に連続して水田稲作が伝わったのではなく、遠賀川系土器は山形県や秋田県や青森県に点在しており、そのうちの一つが砂沢遺跡です。これら日本海側の水田稲作の特徴は、九州北部や中部や関東南部のように狩猟採集の在来集団が本拠地としていなかった所で始まったのではなく、縄文時代後期以来、狩猟採集民が主要な活動の場としていた集落域に接する低地で始まったことです。砂沢遺跡では、工具は縄文時代以来の打製剥片石器類が用いられ、大陸系磨製石器は見られません。また、石材も9割は縄文時代晩期と同じく頁岩です。祭り用の道具は、縄文文化からの伝統的なものです。砂沢遺跡での水田稲作の期間は12~13年程度と推測されており、土器などに弥生文化的要素があるものの、他は縄文文化仕様で、稲作で得られたコメは食料源の一つとして、縄文時代以来の伝統的な社会や生業構造に位置づけられていたようです。紀元前1世紀、降水量が増加し、低温化が進むと、東北地方北部では水田稲作が終了し、古代まで農耕の形跡が見られなくなり、北海道から南下した続縄文文化が広がります。本書は、東北地方北部の紀元前4~紀元前1世紀の水田稲作について、弥生文化の枠内、続縄文文化での枠内、縄文文化での枠内と、三通りの把握があり得ることを指摘し、水田稲作だけを弥生時代の指標とすることには、疑問を呈します。
●弥生時代から古墳時代へ
古墳時代の始まりを最古の前方後円墳の出現とする見解には、あまり異論はないようです。ただ、最古の前方後円墳が、ともに奈良県にある、箸墓古墳か、それ以前の纏向型前方後円墳(明確に定型化された前方後円墳と比較して、前方部が未発達な墳丘の総称)かで、議論は分かれます。弥生時代から古墳時代への移行は、土器様式の区別をつけづらいことや、漢文史料があることなど、それまでの移行期とは異なる特徴があります。弥生時代から古墳時代への移行の重要な背景として、紀元前1世紀前半以来、平均降水量が増加しており、紀元後2世紀にはさらに増加するなど、気候の悪化があります。これが社会の不安定化にながり、地域により集落の高地化や低地化や大規模化が見られます。さらに、弥生時代から古墳時代への移行には、後漢の衰退による地域の政治情勢の変化も背景として考えられます。
集落の大規模化が進み、「都市」と言えるかもしれないような計画的で大規模な遺跡が確認されるようになり、奈良県の纏向遺跡や福岡県の比恵・那珂遺跡などでは広範囲の土器が大量に出土します。ただ、紀元前2世紀以来の発展の延長線上にあった比恵・那珂遺跡に対して、纏向遺跡は突如として出現した、と考えられています。纏向遺跡では、九州から関東南部まで広範囲の土器が出土しており、政治的性格が指摘されています。これと関連して、九州北部勢力が掌握していたユーラシア大陸部との交易を瀬戸内海や畿内の勢力が奪取した、と考えられていましたが、現在では、少なくとも鉄素材に関しては、古墳時代前期以前に掌握権の移動はなかった、との見解が有力です。交易については、前方後円墳が完成する布留0式土器の直前の庄内3式段階で、博多湾を窓口とする「博多湾貿易」が興り、そこから海外の物資が日本列島にもたらされた、と考えられています。
古墳時代の開始について本書は、諸説を踏まえて、紀元後2世紀中頃を起点、紀元後3世紀中頃を終点として、この間を弥生時代から古墳時代への移行期と把握します。前方後円墳は、弥生時代の各地に存在した墓の要素(大型墳丘および墳丘上の祀りが吉備や出雲、葺石が出雲、竪穴式石室が瀬戸内東部、豪華な副葬品が九州北部)を統合しながら、新たに創造された構築物と考えられています。本書は弥生時代から古墳時代への移行の画期として、(1)紀元後2世紀中頃(弥生時代後期半ば)となる長大化した墳丘墓上での祭祀の開始、(2)紀元後200年前後(庄内式古段階)の纏向遺跡の出現と庄内式土器の成立、(3)紀元後3世紀前葉(庄内式新段階)となる東方地域における中国鏡副葬の開始、(4)布留式0段階となる定型化した前方後円墳の出現を挙げます。初期前方後円墳のもしくは前方後方墳は、おおむね弥生時代に環濠集落が造られた地域とほぼ一致し、農耕社会が成立した博多湾交易の中継地となった地域に成立したようです。本書は、(3)と(4)の年代は最短で10年くらいの違いがなく、両者を考古学的には同時と考え、古墳時代前期の開始とする見解を提示しています。
●北方と南方
本書は本州と四国と九州を主要な対象としていますが、東北地方北部から北海道と沖縄にも言及しています。まず、北方の続縄文時代については、単なる縄文時代の延長ではなく、漁撈活動の活発化、それに依存した生活形態の確立、新規漁場の開拓などが、縄文時代には見られない規模と方式にあることを重視して、別の文化だと強調する見解があることを指摘します。また、続縄文時代には縄文時代よりも多量の副葬品があることも、大きな違いとなります。続縄文時代の交易では、近隣との自由な交流ではなく、強大な支配権力との結びつきを志向した可能性も指摘されています。
南方の薩摩半島・大隅半島と奄美・沖縄地域では、農耕への移行などで九州北部・四国・本州との違いが見られます。薩摩半島では紀元前7世紀に本格的に弥生時代へと入りますが、農耕社会成立の指標となる明らかな環濠集落はなかなか出現せず、薩摩半島よりも水田稲作の開始が遅れた大隅半島では、農耕社会の成立から前方後円墳の出現で薩摩半島に先行します。この背景として、縄文時代後期後半以降、薩摩半島が担ってきた奄美・沖縄地域との交流の仲介的役割を、大隅半島も弥生時代中期になって別の経路で担うようになったことが関係しているようです。奄美・沖縄地域の紀元前千年紀以降の考古学的証拠は少ないものの、出土人骨の分析から、食性は海産資源への依存度が高かった、と推測されています。
参考文献:
藤尾慎一郎(2021)『日本の先史時代 旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中央公論新社)
歴史時代については、設定の経緯や開始が文献記録に残っており分かりやすいものの、統治機構が存在しない先史時代については、時代の及ぶ範囲=その時代の特徴(文化)がおよび範囲と読み替えられます。たとえば、縄文時代は日本列島に限定されます。一方、旧石器時代や青銅器時代のように、斧や工具など利器の材質を指標とする時代は、全世界に適用できます。縄文時代は、現在の日本領と完全に一致するとは限らず、南限については種子島・屋久島地方との見解と、沖縄諸島とする見解があります。弥生時代や古墳時代も、現在の日本領と完全に一致するわけではありません。ただ、弥生時代については、九州北部で水田稲作が開始された時点で、九州の他地域も本州も四国も弥生時代とされます。九州北部以外は縄文時代的な生活が続き、遺伝的にも新たに日本列島に到来した人々と異なるとしても、弥生時代の縄文文化と位置づけられます。
日本列島の先史時代の区分については、各時代の開始の指標は、縄文時代が土器、弥生時代が水田稲作、古墳時代が前方後円墳と一般的に考えられています。しかし、時代の始まりについて、その指標が初めて出現した時点なのか、それともある程度広がった時点なのかについては、議論が続いています。時代区分の指標の定義については、その時代の最も特徴的で、重要で、普遍化していく考古資料との定義があります。本書はこうした議論と定義を踏まえて、時代を特徴づける最重要指標がある程度広まり定着するまでの一定期間、つまり移行期に注目します。移行期には多くの場合、やがて終わることになる前代の要素と、出現し始めた次代の要素の両方が見られ、どちらの要素も圧倒的ではありません。本書は、本州と四国と九州を中心とする(よく日本列島「本土」と呼ばれます)地域を中心に、移行期に着目して日本列島の先史時代を検証します。
●旧石器時代から縄文時代
20世紀半ばから20世紀末にかけては、日本列島では更新世が旧石器時代、完新世が縄文時代以降と考えられていましたが、更新世における土器の出現が明らかになり、旧石器時代から縄文時代への移行時期について議論になっています。旧石器時代は前期(下部)・中期(中部)・後期(上部)に三区分されていますが(これはおもにヨーロッパとアジア南西部を基準とした時代区分で、サハラ砂漠以南のアフリカは異なります)、日本列島では後期旧石器時代から始まる、と一般的には考えられています。旧石器時代は現在より寒冷な期間が長く(現在より温暖な時期もあります)、年平均気温が現在より6~7度ほど低かったような時期には、日本列島の地形は現在とは大きく異なっており、北海道はユーラシア大陸と陸続きになっていました。当時の日本列島は地理的には、古北海道半島、古本州島、古琉球諸島に区分されます。当時、北海道は現在のシベリア北部のようにツンドラ草原と疎林に覆われていた、と考えられています。津軽海峡は冬季には氷橋になったかもしれませんが、ユーラシア大陸部から古北海道半島に到来したマンモスなど大型動物は、古本州島には渡れなかったようです。古本州島は、西部が現在の道東と同じ温帯針広混合林に、南岸が現在の本州から九州と同じく暖温帯落葉広葉樹・常緑広葉樹林に覆われていました。奄美以南の古琉球諸島は、古本州島南岸同様に暖温帯落葉広葉樹・常緑広葉樹林に覆われていました。人口遺物は沖縄のサキタリ遺跡で見つかっている貝製釣針くらいで、石器は基本的に見つかっていませんが、人類化石も含めて多くの化石が発見されています。
他地域ではあまり見られない日本列島の旧石器時代の人工遺物の一つが磨製石器で、古本州島やオーストラリア北部やアムール川流域では、打製石器の刃部だけを磨いた斧(局部磨製石斧)が発見されています。局部磨製石斧は、古本州島では森林地帯に特化しており、樹木の伐採や加工に使われた、と考えられていますが、26500~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)には消滅したようです。旧石器時代の日本列島の人工遺物のもう一つの大きな特徴は、移動生活に適さない重量の大きな石器です。種子島の立切遺跡では、3万年前頃の石皿や局部磨製石斧や集落遺構が見つかっています。集落遺構では同じぱじょでの複数回の調理の痕跡が確認されており、一定期間の定着の証拠と考えられています。重い石器は、石皿として使ったと考えられ、具体的な用途としては堅果類などのすり潰しが想定されています。
旧石器時代における大きな考古学的変化は、16000年前頃の土器の出現です。11700年前頃移行を縄文時代とすることはほぼ合意されているので、本書では16000~11700年前頃が旧石器時代から縄文時代への移行期と把握されます。旧石器時代にはなく縄文時代に出現した、つまり縄文時代の重要指標としてまず挙げられるのが、土器です。ただ、土器の発見と年代も含めてその位置づけをめぐる議論で、日本列島最古級の隆線文土器が旧石器時代の土器なのか、縄文土器なのか、議論が決着しないまま、最古の縄文土器とする見解が主流になった、との問題があります。
縄文文化の始まりについては、寒冷期が終わり温暖化した環境への適応(土器や弓矢や竪穴住居など)を重視する見解もあります(後氷期技術革新論)。この場合、地質的な画期と考古学的指標の出現が一致する12000年前頃に縄文時代が始まった、とされます。縄文文化の起源については、ユーラシア大陸部由来とする見解(伝播論)や、旧石器時代からの変化の連続性で把握する見解(主体者論)や、寒冷化に伴い南下したサケ・マス類を追った北方系集団が関東地方へ進出し、地域の生業や社会体系が変わり、旧石器時代人が主体的に定住化という縄文的な居住に転換した、との見解(生態適応論)があります。
こうした議論には、縄文時代の開始が後氷期の開始と一致する、との前提がありました。しかし、加速器質量分析法(AMS)の導入による放射性炭素年代測定法の改良により、たとえば青森県の大平山元I遺跡土器の年代が後氷期開始の15500年前頃までさかのぼりました。大平山元I遺跡の石器は、局部磨製石斧や打製石斧や石刃や彫器や掻器など、旧石器時代に一般的だった剥片石器や、石鏃などに似た石刃製の石器で、縄文時代に一般的な矢尻や、植物質食料の加工・調理のための石皿や磨石などの石器はなく、旧石器時代的な器種構成の石器群でした。日本列島を含むアジア北東部は、世界で最も早く土器が出現した地域で、22000~16000年前頃の寒冷期(中国東部および南部)、16000~14800年前頃の温暖期に向かう直前(東北地方北部や九州北部)、14800~13000年前頃の温暖期(バイカル湖沿岸やアムール川流域や北海道)、13000~11700年前頃の寒冷期(中国北部および北東部)の4段階に区分されます。アジア北東部における土器は、温暖化する環境変動に対応し、水産資源を効率よく利用するために出現し、その起源は一元的ではなく多元的だった、と考えられています。
日本列島において土器が出現した時期には、古北海道半島や古本州島の植生は堅果類を期待できない針葉樹のため、森林性の植物質食料の調理・加工のために土器が使われたとは考えにくく、住居状遺構からのサケの出土と、土器内面に付着していた炭化物質の同位体比分析から、サケなど水産資源の利用のためだった、と考えられています。旧石器時代から縄文時代への移行期(もしくは縄文時代草創期)の最初期の土器は、1ヶ所の遺跡から1~数個程度しか出土せず、日常的に大量の土器を使っていたとは考えられず、より限定的な目的や季節的にも散られていた、と推測されています。次の隆線文土器の段階では、1ヶ所の遺跡から出土する土器の数は急増し、九州南部では、その植生から、本格的に堅果類を食料対象とするようになったので、土器の使用量が急増した、と考えられています。隆線文土器の寒冷期となるヤンガードライアスには、土器の使用量は低水準に戻るものの、後氷期となり縄文時代早期移行には、土器の使用量が再度増加します。
こうして日本列島における土器の出現が早ければ16000年前頃までさかのぼると明らかになり、旧石器時代から縄文時代への移行がいつなのか、問題となりますが、本書は、16000年前頃となる土器の最初の出現ではなく、九州南部における隆線文土器の出現時期である15000~14000年前頃の方が相応しい、と指摘します。ただ、ヤンガードライアス期には再度土器の出土量がきょくたんに低下します。その意味では、縄文時代の開始を12000年前頃とする方が合意を得やすいだろう、と本書は指摘します。
縄文時代の重要な指標とされる竪穴住居には、遊動的な旧石器時代と対比されています。ただ、旧石器時代でも、神奈川県の田名向原遺跡では、柱穴と思われるピット(穴)が円形に回り、石器がそれに囲まれた内部から集中して見つかったことから、旧石器時代の住居跡と理解されています。ただ、これらはテント状の住居と考えられています。九州南部で隆線文土器が出現する15000年前頃には、地面を数十cm掘り下げた竪穴住居状のものが見られるようになります。年代が確実な最古の竪穴住居は鹿児島県の三角山遺跡や栃木県の野沢遺跡などで発見されており、年代は14000~13400年前頃です。竪穴住居の定型化の背景には家族形態の確立があった、との見解もあります。
縄文時代の重要な指標として、石鏃と土偶もあります。石鏃は、晩氷期から後氷期への温暖化に伴う動物相変化への対応で、中型や小型の動物に対して弓矢が使用されるようになったここと対応している、と考えられます。土偶の出現は、後氷期直前の13000~12000年前頃と推測されています。最初期の土偶は三重県などで見つかっており、関東南部では後氷期以降に土偶の数が増え、同じ頃に竪穴住居も増加します。本書は、土偶が祭りに用いられ、それは定住化に伴う軋轢解消のためではないか、と推測します。
こうした縄文時代の指標とされる土器と竪穴住居と石鏃と土偶の出現は、日本列島において時空間的にかなりの違いがあります。たとえば、北海道の土器は東北に3000年遅れて13000年前頃に出現しますが、土器を使っていた人々の遺跡は小さく、土器を使う人と使わない人々が住み分けていたのではないか、と考えられています。北海道で土器が安定的かつ大量に使われるようになったのは8000年前頃で、北海道の「縄文化」は縄文時代早期になってから始まった、と考えられます。九州の最古の土器の年代は、現時点では14500年前頃です。九州南部では、一般的に考えられている縄文時代的な生活は13000年前頃には確立していたようで、九州南部の縄文化は15000~14500年前頃に始まったと考えられます。沖縄では旧石器時代の人工遺物がほとんど見つかっておらず、堅果類などの加工用石器は6000年前頃、黒曜石製の石鏃が5000年前頃に出現します。沖縄の先史時代で採集・狩猟段階は貝塚時代と呼ばれます。沖縄の先史時代については、森林性の縄文文化に対して、サンゴ礁環境の変化に伴って生業の重臣が森から海へ移行していく、と指摘されています。貝塚時代は、サンゴ礁環境に大きく依存する後期とそれ以前の前期に区分され、前期は5期、後期は2期な細分されます。沖縄の貝塚時代前期は縄文的要素の出現過程が他地域とは異なっており、縄文文化の「亜熱帯型」とも言えます。
本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代の開始時期を検討します。まず、土器の出現を縄文時代開始の指標とする見解は、最初期の土器が魚油の採取目的で、縄文時代の主流である植物質食料の加工ではないことなどから、現在では賛同者が少ないようです。15000年前頃の隆線文土器の出現を縄文時代の開始とする見解は、縄文的要素の出現時期を画期とします。11000年前頃以降を縄文時代とする見解は、縄文的要素の普及・定着を画期とします。本書は、九州南部で「縄文化」が始まり、隆線文土器が出現した15000~14500年前頃を、旧石器時代から縄文時代への画期とします。本書は、九州南部で始まった「縄文化」の波が2000年かけて東進・北上したと推測し、この期間を移行期と把握します。「縄文化」は、11000年前頃の撚糸文土器段階になり、本州・四国・九州の各地にほぼ定着し、それ以前には、「縄文化」の始まった地域と、始まっていない旧石器文化の地域が併存していたわけです。ただ、北海道における「縄文化」は8000年前頃で、沖縄では独自の貝塚時代前期が約1万年続きます。本書は縄文文化を、「森林性新石器文化東アジア類型」の一環として把握しています。本書の見解は、縄文時代の人々の起源を考察するうえで大いに参考になりそうですが、現時点ではまだ私の知見が不足してまとまった見解を述べられそうにないので、今後の課題となります。
●縄文時代から弥生時代
弥生時代の指標は灌漑式水田稲作です。ただ、弥生時代の開始については、灌漑式水田稲作が九州北部で見られる時点もしくは西日本全体に広かった時点か、水田稲作普及の結果として成立する農耕社会が出現した時点など、諸説あります。縄文時代から弥生時代への移行期は、研究の進展に伴い1960年代には、弥生文化を構成する要素の一部が出現する縄文時代晩期末から、最古の弥生式土器が成立するまでで、弥生時代の開始は、板付I式土器が出現する弥生時代前期初頭になる、と理解されるようになりました。1978年、最古の弥生式土器である板付I式土器以前の突帯文土器しか出土しない縄文時代晩期最終末の水田が発見され、投資よより農耕具や土木技術など水田稲作に必要な一式がありました。同じく突帯文土器と水田との共伴は、菜畑や曲り田など九州北部沿岸の遺跡でも確認されました。これが縄文時代の水田稲作なのか、それとも弥生時代の水田稲作なのか、議論となりました。まず、縄文時代から弥生時代への移行の指標となるのが、土器なのかそれとも水田稲作なのか(単一指標)、あるいは両者も含めて複数なのか、という問題があります。次に、時代区分はそうした指標の出現と定着・普及のどちらに基づくべきか、という問題があります。
さらに、21世紀初頭には水田稲作が紀元前10世紀までさかのぼるかもしれない、と報告され、縄文文化から弥生文化への移行期間が、以前の想定よりも長かった可能性が指摘されました。また、これと関連して地域差の大きさも指摘されています。九州北部の玄界灘沿岸地域である福岡平野と早良平野は、アワ・キビ栽培を行なわずに水田稲作を日本列島で最初に始めたとされる地域です。本州で最も水田稲作の開始が遅いとされるのは中部と関東南部で、水田稲作の前に500年ほどアワ・キビ栽培が行なわれており、これが弥生文化なのか縄文文化なのか、議論になっています。また、東北地方北部では、水田稲作は開始から300年ほどで終わり、その後は古代まで農耕自体が行なわれませんでした。
九州北部では、有力者と見られる墓が水田稲作の開始から100年ほどで出現したことから、社会の階層化も早くから進んでいたようです。ただ、当初の九州北部の有力者の副葬品は朝鮮半島南部と類似していたものの、遼寧式銅剣や玉類といったさらに上位のものはまだありませんでした。さらに、墓の分析から、この格差が子供に継承されていた、と示唆されています。戦い(集団間抗争)も、人骨の分析に基づいて、水田稲作の開始から100年ほどで始まった、と推測されています。九州北部の水田稲作は当初から完成した形で始まり、縄文時代晩期には集落のない平野下流域でも行なわれていたことなどから、日本列島最初の水田稲作は縄文時代後期~晩期のアワ・キビ栽培から畑稲作を経て始まった、との見解は成立せず、弥生時代早期後半には水田稲作が普及・定着していました。なお、本書でも言及されていますが、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡の女性個体は、核DNA解析の結果、既知の古代人および現代人と比較して、東日本の縄文時代の人々とまとまりを形成する、と明らかになりました(関連記事)。
ただ本書は、九州北部とは異なり中国・四国・近畿・東海・中部・関東では、水田稲作の前段階としてアワ・キビ栽培が行なわれており、縄文時代特有の網羅的生業構造(特定の生業に偏っていない社会、特定の生業に頼る社会は選択的生業構造)に位置づけられるので、縄文時代から弥生時代への移行期として縄文時代晩期の枠内で考えるべき、と指摘します。西日本では紀元前10世紀頃に網羅的生業構造の一環としてのアワ・キビ栽培の可能性が指摘されており、これが200年後に中部や広東に伝わったかもしれません。中部地方南部や関東南部で水田稲作が始まるのは、九州北部では弥生時代中期中頃となる紀元前3世紀半ばです。関東南部で最古級の水田稲作の村と考えられている小田原市の中里遺跡は、直前まで狩猟採集民が主要な活動の舞台としなかった所に突如として建設され、九州北部における水田稲作の出現と似ており、西方からの移住の可能性も想定されます。私が思うに、これは在来集団との軋轢を避けた結果でもあるかもしれません。中部と関東南部では、アワ・キビ栽培の開始から400年後に、土偶形容器での再葬など弥生文化の影響が見られますが、これが水田稲作とつながっている可能性は低そうだ、と本書は指摘します。一方、中国・四国・近畿・東海では、文化の伝播・拡散により農耕社会が成立した、と考えられています。
東北地方北部では、弘前市の砂沢遺跡で紀元前4世紀の水田跡が発見されています。紀元前4世紀は、比較的降水量が少なく温暖な時期と推定されています。ただ、金沢市付近で紀元前5世紀頃の水田稲作の痕跡が確認されていますが、日本海側ではそこから地理的に連続して水田稲作が伝わったのではなく、遠賀川系土器は山形県や秋田県や青森県に点在しており、そのうちの一つが砂沢遺跡です。これら日本海側の水田稲作の特徴は、九州北部や中部や関東南部のように狩猟採集の在来集団が本拠地としていなかった所で始まったのではなく、縄文時代後期以来、狩猟採集民が主要な活動の場としていた集落域に接する低地で始まったことです。砂沢遺跡では、工具は縄文時代以来の打製剥片石器類が用いられ、大陸系磨製石器は見られません。また、石材も9割は縄文時代晩期と同じく頁岩です。祭り用の道具は、縄文文化からの伝統的なものです。砂沢遺跡での水田稲作の期間は12~13年程度と推測されており、土器などに弥生文化的要素があるものの、他は縄文文化仕様で、稲作で得られたコメは食料源の一つとして、縄文時代以来の伝統的な社会や生業構造に位置づけられていたようです。紀元前1世紀、降水量が増加し、低温化が進むと、東北地方北部では水田稲作が終了し、古代まで農耕の形跡が見られなくなり、北海道から南下した続縄文文化が広がります。本書は、東北地方北部の紀元前4~紀元前1世紀の水田稲作について、弥生文化の枠内、続縄文文化での枠内、縄文文化での枠内と、三通りの把握があり得ることを指摘し、水田稲作だけを弥生時代の指標とすることには、疑問を呈します。
●弥生時代から古墳時代へ
古墳時代の始まりを最古の前方後円墳の出現とする見解には、あまり異論はないようです。ただ、最古の前方後円墳が、ともに奈良県にある、箸墓古墳か、それ以前の纏向型前方後円墳(明確に定型化された前方後円墳と比較して、前方部が未発達な墳丘の総称)かで、議論は分かれます。弥生時代から古墳時代への移行は、土器様式の区別をつけづらいことや、漢文史料があることなど、それまでの移行期とは異なる特徴があります。弥生時代から古墳時代への移行の重要な背景として、紀元前1世紀前半以来、平均降水量が増加しており、紀元後2世紀にはさらに増加するなど、気候の悪化があります。これが社会の不安定化にながり、地域により集落の高地化や低地化や大規模化が見られます。さらに、弥生時代から古墳時代への移行には、後漢の衰退による地域の政治情勢の変化も背景として考えられます。
集落の大規模化が進み、「都市」と言えるかもしれないような計画的で大規模な遺跡が確認されるようになり、奈良県の纏向遺跡や福岡県の比恵・那珂遺跡などでは広範囲の土器が大量に出土します。ただ、紀元前2世紀以来の発展の延長線上にあった比恵・那珂遺跡に対して、纏向遺跡は突如として出現した、と考えられています。纏向遺跡では、九州から関東南部まで広範囲の土器が出土しており、政治的性格が指摘されています。これと関連して、九州北部勢力が掌握していたユーラシア大陸部との交易を瀬戸内海や畿内の勢力が奪取した、と考えられていましたが、現在では、少なくとも鉄素材に関しては、古墳時代前期以前に掌握権の移動はなかった、との見解が有力です。交易については、前方後円墳が完成する布留0式土器の直前の庄内3式段階で、博多湾を窓口とする「博多湾貿易」が興り、そこから海外の物資が日本列島にもたらされた、と考えられています。
古墳時代の開始について本書は、諸説を踏まえて、紀元後2世紀中頃を起点、紀元後3世紀中頃を終点として、この間を弥生時代から古墳時代への移行期と把握します。前方後円墳は、弥生時代の各地に存在した墓の要素(大型墳丘および墳丘上の祀りが吉備や出雲、葺石が出雲、竪穴式石室が瀬戸内東部、豪華な副葬品が九州北部)を統合しながら、新たに創造された構築物と考えられています。本書は弥生時代から古墳時代への移行の画期として、(1)紀元後2世紀中頃(弥生時代後期半ば)となる長大化した墳丘墓上での祭祀の開始、(2)紀元後200年前後(庄内式古段階)の纏向遺跡の出現と庄内式土器の成立、(3)紀元後3世紀前葉(庄内式新段階)となる東方地域における中国鏡副葬の開始、(4)布留式0段階となる定型化した前方後円墳の出現を挙げます。初期前方後円墳のもしくは前方後方墳は、おおむね弥生時代に環濠集落が造られた地域とほぼ一致し、農耕社会が成立した博多湾交易の中継地となった地域に成立したようです。本書は、(3)と(4)の年代は最短で10年くらいの違いがなく、両者を考古学的には同時と考え、古墳時代前期の開始とする見解を提示しています。
●北方と南方
本書は本州と四国と九州を主要な対象としていますが、東北地方北部から北海道と沖縄にも言及しています。まず、北方の続縄文時代については、単なる縄文時代の延長ではなく、漁撈活動の活発化、それに依存した生活形態の確立、新規漁場の開拓などが、縄文時代には見られない規模と方式にあることを重視して、別の文化だと強調する見解があることを指摘します。また、続縄文時代には縄文時代よりも多量の副葬品があることも、大きな違いとなります。続縄文時代の交易では、近隣との自由な交流ではなく、強大な支配権力との結びつきを志向した可能性も指摘されています。
南方の薩摩半島・大隅半島と奄美・沖縄地域では、農耕への移行などで九州北部・四国・本州との違いが見られます。薩摩半島では紀元前7世紀に本格的に弥生時代へと入りますが、農耕社会成立の指標となる明らかな環濠集落はなかなか出現せず、薩摩半島よりも水田稲作の開始が遅れた大隅半島では、農耕社会の成立から前方後円墳の出現で薩摩半島に先行します。この背景として、縄文時代後期後半以降、薩摩半島が担ってきた奄美・沖縄地域との交流の仲介的役割を、大隅半島も弥生時代中期になって別の経路で担うようになったことが関係しているようです。奄美・沖縄地域の紀元前千年紀以降の考古学的証拠は少ないものの、出土人骨の分析から、食性は海産資源への依存度が高かった、と推測されています。
参考文献:
藤尾慎一郎(2021)『日本の先史時代 旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中央公論新社)
この記事へのコメント