中期~後期青銅器時代におけるブリテン島への人類の大規模移住

 中期~後期青銅器時代におけるブリテン島への人類の大規模移住に関する研究(Patterson et al., 2022)が公表されました。現在のイングランドおよびウェールズの人々は、前期青銅器時代の人々よりも、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)に由来する祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を多く有しています。本論文はこうした状況を理解するため、793個体についてゲノム規模データを構築し、大ブリテン島(以下、ブリテン島)における中期~後期青銅器時代および鉄器時代のデータを12倍、ヨーロッパの西部および中部のデータを3.5倍に拡充しました。その結果、紀元前1000~紀元前875年において、EEF祖先系統の割合は、ブリテン島南部(イングランドおよびウェールズ)では増加したものの、ブリテン島北部(スコットランド)では増加しておらず、これは、この時代およびそれ以前の数世紀に到来した移民の統合によるもので、こうした移民は遺伝的にはフランスの古代人に最も近かった、と明らかになりました。

 これらの移民は、鉄器時代のイングランドおよびウェールズの人々の祖先系統の約半分に寄与しており、これが、初期のケルト語派のブリテン島内での拡散を媒介した可能性があります。こうしたパターンは、EEF祖先系統が中期~後期青銅器時代にヨーロッパの中部および西部全域でより類似するようになったという、さらに広範な傾向の一部であり、この時期は文化的交流の増大を示す考古学的証拠の年代と一致します。鉄器時代のヨーロッパ大陸部からの遺伝子流動は比較的少なく、ブリテン島内での独立した遺伝的軌跡は、ラクターゼ(乳糖分解酵素)持続性を付与するアレル(対立遺伝子)の頻度がこの時代までに約50%に増加したことにも表れています。一方、この時代のヨーロッパ中部での同アレルの頻度は約7%で、それが急上昇したのは1000年後のことでした。これは、この時代のブリテン島とヨーロッパ中部では乳製品が質的に異なる様式で用いられていたことを示唆しています。


 全ゲノム古代DNA研究が示してきたのは、紀元前3950~紀元前2450年頃のブリテン島の最初の新石器時代農耕民の祖先系統は、その2000年以上前のアナトリア半島に起源があるEEFから約80%、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と呼ばれる中石器時代狩猟採集民から約20%由来し、両者はヨーロッパ大陸部で混合した、というもので(関連記事)、ブリテン島の在来のWHGは後の人口集団にほぼ寄与しなかった、と示唆されます。この祖先系統特性は、1500年ほど安定したままでした。

 紀元前2450年頃から、ブリテン島へ別のかなりの移住があり、新たな移民からの祖先系統の割合は少なくとも90%で、ヨーロッパ大陸部からの鐘状ビーカー(Bell Beaker)伝統の拡大と一致します。この新たな移民は、第三の主要な構成要素である「草原地帯祖先系統」をもたらしました。この「草原地帯祖先系統」は、元々紀元前3000年頃にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)に居住していた人々に由来します。

 この元々の研究(関連記事)では、ブリテン島における祖先系統の変化が報告され、紀元前2450~紀元前1550年頃となる銅器時代および前期青銅器時代(C/EBA)から、紀元前1550~紀元前1150年頃となる中期青銅器時代(MBA)と紀元前1150~紀元前750年頃となる後期青銅器時代(LBA)を経て、紀元前750~紀元後43年となる先ローマ期鉄器時代(IA)まで、EEF祖先系統の割合では顕著な平均的変化は検出されませんでした。ただ、その研究では、紀元前1300年頃以後の標本がほとんど含まれていませんでした(図1)。

 しかし現在、EEF祖先系統は平均で、ブリテン島において北部よりも南部で顕著に高く、いつこの増加が起きたのか、という問題を提起します。EEF祖先系統の増加は、中世初期におけるヨーロッパ大陸部北部からの移住では説明できません。なぜならば、中世初期の移民は青銅器時代ブリテン島の人々よりもEEF祖先系統の割合が低かったので、以前に観察されたように、EEF祖先系統の増加ではなく減少をもたらした、と考えられるからです。

 この研究は、以前には分析されていなかったブリテン島の403個体のゲノム規模古代DNAデータを生成し、先ローマ期の個体数を589に増やし、LBAおよびIAの期間のデータ数を約28倍(13個体から359個体)としました(図1)。本論文は、チェコ共和国(161個体)、ハンガリー(54個体)、フランス(52個体)、オランダ(28個体)、スロヴァキア(25個体)、クロアチア(21個体)、スロヴェニア(14個体)、チャネル諸島(13個体)、スペイン(10個体)、セルビア(8個体)、オーストリア(3個体)、マン島(1個体)の、ほぼLBAおよびIAの古代人のデータも報告します。この研究は、以前に報告された33個体のデータの品質を向上させました。以下は本論文の図1です。
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 これらのデータを生成するため、骨と歯から粉末が準備されてDNAが抽出され、古代DNAの特徴的なシトシンからチミンへのエラーを減らすため、ウラシルDNAグルコシラーゼで前処理された1020の配列決定ライブラリが生成されました。120万ヶ所の一塩基多型の標的一式の溶液でライブラリが濃縮されて配列され、その後で以前に報告されたデータとともに分析されました。新たに報告された123点の放射性炭素年代の助けを得て、年代と地理によりこれらのデータがまとめられました。各期間と地域の主要なまとまりの祖先系統で有意に異なる個体群は、個別に分類されました。

 全個体のデータが報告されますが、主要な分析から以下の部分集合は除外されました。それは、汚染の証拠がある場合、末端ヌクレオチドの損傷の割合が確実な古代DNAの典型的範囲よりも低い場合、データセットで他の高網羅率の個体と1親等の親族関係の場合、正確な祖先系統推定にはデータが少なすぎる場合(少なくとも1回は3万ヶ所未満の一塩基多型を網羅する場合)です。図1は、分析された個体群の地図と時代区分を示します。データセットで新たに報告された他の少なくとも1個体と(3親等以内で)関連する48家族で、123個体が特定されました。


●ブリテン島の古代DNAの時代区分

 ブリテン島の時間的に分類された全ての組み合わせ間でf4統計が計算され、2つの主要な供給源人口集団(草原地帯とEEF)と共有されるアレルの割合(遺伝的浮動)の違いが検証されました。イングランドとウェールズにおけるEEF人口集団と共有されるアレルの程度の顕著な増加が、中期~後期青銅器時代(M-LBA)から鉄器時代(IA)にかけて記録されます。EEFと草原地帯とWHGの祖先系統の割合を推定するため、「対象」人口集団が、本論文のデータセットで密接な代理を有するような「供給源」人口集団の混合ならば、選択された外群の集合に対して対象および供給源と関連する全てのあり得るf4統計を計算できる、という事実を利用するqpAdmが用いられました。

 次に、qpAdmを用いて、混合計数のαEEFとα草原地帯と全ての統計に適合するα草原地帯の値を求め、同時に、対象人口集団が実際に供給源の密接な近縁の混合としてモデル化できるのかどうかのP値を提供します。本論文は、大規模な標本と、ヨーロッパ人の祖先系統の主要な3構成要素の解明を提供する高度の影響力により、以前のqpAdmの組み立てよりもずっと正確な推定を提供するため、供給源と「外群」の組み合わせを慎重に選択しました。供給源の代理は、最小限の狩猟採集民との混合を有するバルカン半島の初期新石器時代農耕民(EEF)20個体、ヤムナヤ(Yamnaya)およびポルタフカ(Poltavka)文化の牧畜民(草原地帯)20個体、ヨーロッパ西部全域の中石器時代狩猟採集民(WHG)18個体です。

 本論文の外群は、3供給源の密接な遺伝的近縁個体群と、同じ溶液濃縮技術を用いて処理され、ユーラシア西部人関連との混合の証拠のない、サハラ砂漠以南のアフリカの古代人9個体です。3供給源の密接な遺伝的近縁個体群とは、EEFと関連するアナトリア半島新石器時代の24個体、ヤムナヤ草原地帯牧畜民と関連するアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の19個体、WHGと関連するドナウ川鉄門(Danubian Iron Gates)狩猟採集民41個体です。

 EEF関連祖先系統はイングランドとウェールズで、銅器時代および前期青銅器時代(C/EBA)の31.0±0.5%(69個体)から、中期青銅器時代(MBA)には34.7±0.6%(26個体)、後期青銅器時代(LBA)には36.1±0.6%(23個体)に増加し、鉄器時代(IA)には37.9±0.4%(273個体)で安定しました。一方、スコットランドでは有意な変化はありませんでした(図2)。EEF関連祖先系統の増加は、鉄器時代までにブリテン島南部で広がり、点推定の範囲はイングランドの8地域全体で36.0~38.8%です(ウェールズの標本規模は小さすぎて、正確な推定を提供できません)。以下は本論文の図2です。
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 ブリテン島南部におけるEEF祖先系統の増加が、新石器時代にブリテン島に居住していた人々からのより多くの祖先系統を有する、考古学的に可視化されにくい人口集団の復活に起因する可能性を本論文は考慮しました。それは、標本抽出における地理的偏り、もしくは文化的状況全体の差異に起因して見逃されたかもしれません。後者では、たとえば火葬を通じての死者の扱いなどで、集団間の違いがあったかもしれません。しかし、新石器時代と銅器時代および前期青銅器時代(C/EBA)のブリテン島における集団の混合としての鉄器時代のイングランドとウェールズの人々のモデルは、統計的有意性のデータとひじょうに一致しません。

 これは、ブリテン島では前期新石器時代もしくはC/EBA集団に存在しなかったヨーロッパ大陸部の一部の新石器時代人口集団とアレルを共有する、ブリテン島の新石器時代の人口集団に起因します。これらのパターンの最も妥当な説明は、中期~後期青銅器時代(M-LBA)におけるこの特有の祖先系統を有する人々のブリテン島南部への移住です。各個体の祖先系統がモデル化され、その期間のほとんどの個体と比較して有意な祖先系統の外れ値が分類されました。その結果、以下のような重要な観察結果が浮き彫りになります(図3)。以下は本論文の図3です。
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 第一に、以前の結果(関連記事1および関連記事2)が再現され、高い割合のWHGとの混合を有するスコットランド西部の新石器時代個体群のまとまりが推定され、おそらくはヨーロッパ大陸部からの最近の移民と、ブリテン島における在来の中石器時代集団の子孫との間の結合を反映しています。

 第二に、EEF祖先系統が紀元前2000年頃以後に比較的均質になる前に、C/EBAにおけるEEF祖先系統の高い変動性が推定されます(図3)。これはエイムズベリーダウン(Amesbury Down)遺跡において明らかで、一部の被葬者のEEF祖先系統は平均値29.9±0.4%より有意に低く(たとえば、個体I2417では22.2±1.8%)、おそらくはビーカー期における移民を反映しています。この移民は在来の新石器時代農耕民と混合し、EBA末までには広がっていた中間的なEEF祖先系統が出現しました。エイムズベリーの射手(Amesbury Archer)として知られるEEF祖先系統の割合が45.3±2.2%の個体I14200など、集団の平均を上回る個体もあります。I14200はストーンヘンジ(Stonehenge)埋葬景観で発見された最も副葬品の多い墓に埋葬され、ブリテン島以外、おそらくはアルプスで子供時代の一部を過ごした、と示唆される同位体特性を有しています。I14200は移民ではあるものの、C/EBAブリテン島で観察される水準へと引き上げた人口集団に由来するには有している草原地帯祖先系統が少なすぎる、という事実は、ブリテン島へのビーカー関連移民が遺伝的に均質ではなかった、と示します。I14200の隣で見つかった被葬者「仲間(I2565個体)」は、エイムズベリーダウン遺跡のほとんどの個体と同様に、その同位体特性は地元育ちと一致しており、祖先系統の外れ値ではありません(EEF祖先系統の割合は32.7±3.0%、図3)。I14200とI2565は、稀な足根骨形態と類似の副葬品を共有しており、密接な遺伝的関係を反映していると仮定されましたが、本論文の結果は、一親等もしくは二親等の近縁性を除外しました。

 第三に、MBA後期およびLBAにおける高いEEF祖先系統を有する外れ値4個体が観察されます。この4個体は、第一世代の移民もしくは最近の移民の子孫の候補で、4個体全てがブリテン島南東端のケント(Kent)で埋葬されています。この4個体のうち古い方の2個体はマルゲッツ遺構(Margetts Pit)で発見されました。EEF祖先系統の割合は、紀元前1391~紀元前1129年頃となる個体I13716が47.8±1.8%、紀元前1214~紀元前1052年頃となる個体I13617が43.6±1.8%です。この4個体のうち新しい方の2個体は、断崖農場(Cliffs End Farm)遺跡で発見されました。EEF祖先系統の割合は、紀元前967~紀元前811年頃となる個体I14865が43.2±2.0%、紀元前912~紀元前808年頃となる個体I14861が43.4±1.8%です。マルゲッツ遺構個体を含む、MBAにおける移住の短期間の突発の影響を観察しており、その後でさまざまなEEF祖先系統を有する別々の共同体が少なくとも数百年間共存し、その中には断崖農場遺跡個体も含まれる、という可能性を本論文は考慮しました。しかし、ストロンチウムおよび酸素同位体分析では、外れ値個体のI14861も含めて断崖農場遺跡における外部起源の複数個体が特定され、これが単一の大規模な移住ではなく、数百年にわたる移住の流れだった、と示唆されます。

 第四に、祖先系統が主要集団と有意に異なる個体群の割合は、紀元前2450~紀元前1800年頃となるC/EBAの第1期で17%、紀元前1800~紀元前1300年頃となるEBA末からMBA開始期では4%、紀元前1300~紀元前750年頃となるMBA末からLBAでは17%、鉄器時代(IA)では3%です(図3)。これはブリテン島南部への、銅器時代と、その後で再度となる中期~後期青銅器時代(M-LBA)における、比較的高い移住率の2つの期間と一致します。先行期間と比較してIAにおいて外れ値の高率を観察できなかったのは、この時までにブリテン島とヨーロッパ大陸部地域との間で祖先系統がある程度均質化され、外れ値の検出がより困難になったからではないか、という可能性を本論文は考慮しました。しかし、IAブリテン島におけるEEF祖先系統の平均は37.9±0.4%で、ヨーロッパ大陸部西部および中央部(イベリア半島では52.6±0.6%、オーストリアとハンガリーとスロヴェニアでは49.8±0.4%、チェコ共和国とスロヴァキアとドイツでは45.4±0.5%、フランスとスイスでは45.6±0.5%、オランダでは34.4±1.2%)とはかなり異なっており(図4a)、本論文の祖先系統推定のほとんどで標準誤差が2%未満であることを考えると、これらの地域からの移民の大半は検出可能でしょう。フランス西部とベルギーの標本抽出は乏しく、この地域のEEF祖先系統の割合はブリテン島と類似しているので、IAにおけるフランス西部とベルギーからの移住を除外できない可能性があります。それにも関わらず、本論文の結果は、ヨーロッパ大陸部からの移住の減少と一致しており、IAにおけるヨーロッパ大陸部の大半からのかなりの程度のブリテン島の遺伝的孤立を示唆します。以下は本論文の図4です。
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 ブリテン島における人口統計学的変化は、データの別の側面でも明らかです。ROH(runs of homozygosity)の割合は、1個体の両親が密接に関連している場合に発生するかもしれません。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 個体が配偶者を得る人々の集団が大きいほど、個体の両親が密接に関連している可能性は低くなるので、4~8 cM(センチモルガン)のROH断片の数を平均化して、分析された個体が生きていた時代の前の約600年間の配偶行動における、人々の集団の有効規模を推定できます。配偶集団の規模は、新石器時代から鉄器時代(IA)にかけて約4倍に増加した、と明らかになりましたが、これはこの期間のじっさいの人口規模の変化の推定として解釈すべきではありません。なぜならば、配偶集団規模は変化する社会的慣行にも影響を受けるからです。

 第一に、人々が配偶者を見つける範囲の距離が一部の文化的状況では他よりも高かったならば、たとえ人口密度に違いがなかった場合でも、配偶集団規模は異なるでしょう。たとえば、ブリテン島の共同体の構成員が近隣集団とほんど混合しなかった場合、配偶集団規模が島嶼規模よりも小さかったかもしれません。あるいは、ブリテン島の個人が地元の共同体以外の人々だけではなく、ブリテン島以外の人々とも配偶した場合、配偶集団規模が島嶼規模よりも大きくなったかもしれません。第二に、とくに紀元前3000~紀元前2450年頃となる新石器時代末には、標本抽出に間隙があり、これはそうした期間の人口統計学的過程が不明瞭になる可能性を示唆します。第三に、何世紀にもわたって配偶集団の規模を効果的に平均化する手法により、この分析は数十年間の人口減少を検出できない可能性もあります。


●ヨーロッパの文脈におけるブリテン島の変化

 本論文は、ヨーロッパの時代区分とともに、ブリテン島の古代DNA時代区分も分析しました(図4a)。平均的なEEF祖先系統はヨーロッパ北部および中央部(チェコ共和国とスロヴァキアとドイツ)でブリテン島のように増加し、最初期の個体群は大きく増加したEEF祖先系統を有し、クノヴィズ(Knoviz)文化の一部として伝統的に分類されている人工物と関連しています。クノヴィズ文化は、ヨーロッパ中央部の大半に拡大したより広範な骨壺墓地(Urnfield)文化複合(紀元前1300~紀元前800年頃)の構成要素です。クノヴィズ文化個体群は、マルゲッツ遺構および断崖農場の外れ値個体と遺伝的に類似した人口集団に由来するので、これはとくに注目に値します。ヨーロッパ北部および中央部の後の個体群は類似のEEF祖先系統の割合を有しており、後期青銅器時代(LBA)から鉄器時代(IA)までの実質的な連続性と一致します。

 フランスとスイスでは、ヨーロッパ南部および中央部(オーストリアとハンガリーとスロヴェニア)と同様に、中期~後期青銅器時代(M-LBA)における平均的なEEF祖先系統の変化がほとんどないのに対して、イベリア半島(スペインとポルトガル)では同時期にEEF祖先系統が減少しました。ヨーロッパにおける祖先系統の収束のこの広範なパターンには二つの例外があり、北端のスコットランドと南端のサルデーニャ島では両方、この期間におけるEEF祖先系統の割合は極端で、比較的変化していません。

 本論文は、ヨーロッパ西部および中央部のゲノム規模データのIA個体数をほぼ8倍にし、IAへの遺伝的多様体の頻度変化を正確に追跡できるようにします。SLC45A2遺伝子における明るい肌の色素沈着と関連する多様体は、IAにおいてヨーロッパ全体で実質的により一般的になりました。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するMCM6遺伝子の一塩基多型(rs4988235)については、予期せぬ結果が得られました。以前の分析によると、ヨーロッパ大陸部の標本抽出された地域では、IAにはその頻度が現在の頻度と比較して低いと示されました。本論文のデータセットではこれが高精度で記録されており、イベリア半島では現在の約40%と比較して約9%、ヨーロッパ中央部(オーストリアとハンガリーとスロヴェニアとチェコ共和国とドイツ)では現在の約48%に対して約7%でした。

 しかし、IAブリテン島では、その頻度は現在の73%に対して50%で、このアレル頻度を増加させた激しい選択が、ブリテン島ではヨーロッパ大陸部の複数地域よりもほぼ千年早く作用した、と示されます(図4b)。本論文は、ブリテン島における頻度上昇がM-LBAの移住に起因する、との証拠を見つけられませんでした。マルゲッツ遺構および断崖農場の外れ値個体はこのアレルを有しておらず、ブリテン島における頻度上昇のほとんどはM-LBA後に起きました(図4b)。これは、乳製品が質的に異なる方法で消費されたか、LBA–IAブリテン島においては、ヨーロッパ中央部よりも乳製品が経済的に重要だったことを示唆します。


●中期~後期青銅器時代の移住の大陸側の供給源

 中期~後期青銅器時代(M-LBA)におけるブリテン島の祖先系統の変化は、新石器時代およびビーカー期と関連する祖先系統の変化よりも微妙でした。イングランドとウェールズでは、新石器時代と銅器時代および前期青銅器時代(C/EBA)との間のアレル頻度の差異はFST(遺伝的距離)が約0.02でしたが、C/EBAと鉄器時代(IA)との間では、FSTは一桁小さく約0.002でした。ブリテン島のLBAよりも前の人口集団もIA人口集団にかなり遺伝的に寄与しており、完新世におけるそれ以前の2回の主要な祖先系統変化(中石器時代から新石器時代と、新石器時代からC/EBA)とは対照的です。

 C/EBA人口集団から後の人口集団へのかなりの遺伝的寄与の証拠はY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1a2a1a2c1(P312/L21/M529)でも見られ、C/EBAブリテン島の標本抽出された個体群では89±5%で存在し、利用可能なC/EBAヨーロッパの古代人のDNAデータではほぼ存在しません。YHg-R1b1a1a2a1a2c1はブリテン島では後のどの期間でもヨーロッパ大陸部よりも一般的で、ブリテン諸島特有の特徴であり続けており、現在のブリテン島とアイルランド島での頻度(地域により14~71%)は、ヨーロッパ大陸部のどこよりもずっと高くなっています。

 ブリテン島南部への中期~後期青銅器時代(M-LBA)の移民の考えられる供給源について洞察を得るために、イングランドとウェールズのIA個体群がqpAdmで主要なC/EBAのまとまりの混合、および第二供給源として適合されました。ヨーロッパ大陸部の63供給源とブリテン島の2供給源(マルゲッツ遺構と断崖農場遺跡の外れ値)から構成される65の供給源が検証され、20の供給源がP>0.05と明らかになりました。次に、マルゲッツ遺構と断崖農場遺跡の遺伝的に類似した個体が集められ、より厳密なqpAdm構成でさらに検証され、適度の標準誤差と一貫してよく適合する、8つの第二供給源が残りました。

 マルゲッツ遺構と断崖農場遺跡の個体群の集まりは、ブリテン島南部のIA人の祖先系統の49.4±3.0%に寄与するものとして適合します。ブリテン島自体に居住する推定上の供給源人口集団の代表を省略しても、供給源として適合する7つのヨーロッパ大陸部人口集団が、24~69%の祖先系統に寄与すると推定されるので、大きな遺伝的置換が推測されます。検証対象のヨーロッパ大陸部の候補人口集団の1/5だけがフランスに由来しますが、適合する人口集団の6/7はフランスに由来します。これらのうち、4人口集団(紀元前600~紀元前200年頃)はフランス南部のオクシタニー(Occitanie)に、2人口集団(紀元前800~紀元前200年頃)はフランス北東部のグラン・テスト(Grand Est)に、1人口集団はスペイン(紀元前600年頃)に由来します。

 これら適合する第二供給源は全て、ブリテン島における祖先系統の変化より顕著に年代が後になるので、真の供給源ではあり得ません。しかし、真の第二供給源は、おそらくより早期の各地の在来人口集団の子孫でした。フランスでの起源は、M-LBAブリテン島における高いEEF祖先系統を有する外れ値個体の全てと、IA水準にEEF祖先系統を強化したと証明する紀元前1000~紀元前875年頃の個体群が、ブリテン島南東端のケントに由来する、という事実でも示唆されます。

 移民の波は、LBAの後半までにブリテン島南部でより広範に混合し始め、それは、紀元前950~紀元前750年頃となる、ウィルトシャー(Wiltshire)州ポッターン(Potterne)のブラックベリー・フィールド(Blackberry Field)遺跡の1個体I12624のEEF祖先系統の割合が38.1±2.0%で、IA開始期までにブリテン島南部で遍在するようになった水準と一致するからです。しかし、これはLBA後半の唯一の非ケントのデータ点なので、ケントを越えてのこの祖先系統の拡大の時空間的経過を理解するには、より多くの標本抽出が必要です。


●鉄器時代ブリテン島における地域差

 ブリテン島南部のマルゲッツ遺構および断崖農場遺跡個体的祖先系統の推定の範囲は、イングランド北部では35±5%、イングランド南部~中央部では56±5%です。鉄器時代(IA)は、物質文化の特徴がますます地域的になった期間で、本論文の結果が示すのは、これが微妙な遺伝的構造を伴っているものの、ブリテン島南部内では、これらの混合割合の緯度との明確な相関はない、ということです。本論文は、ほとんどの個体が、四角の溝の手押し車と時折の戦車(チャリオット)の埋葬で構成される「アラス文化(Arras Culture)」の文脈に由来する、ヨークシャーの事例を浮き彫りにします。パリ盆地とアルデンヌ・シャンパーニュ地域におけるIA社会の葬儀伝統の類似性は、東ヨークシャーがIAにヨーロッパ大陸部からの直接的な移住に影響を受けた、との提案につながりました。

 東ヨークシャーの被葬者について、マルゲッツ遺構および断崖農場遺跡個体的祖先系統の供給源の推定は44±4%で、この時点においてブリテン島中緯度では一般的であり、イースト・アングリアも同様です。しかし、東ヨークシャーの被葬者は別の点で特徴的です。IAブリテン島における地域差は、FSTにより測定されるように、東ヨークシャと他の集団との間において、本論文のデータセットにおけるイングランドとウェールズのIA人口集団の他のあらゆる組み合わせよりも高くなります。ヨーロッパ大陸部からの比較データにより、これがブリテン島南部の他地域からのIA東ヨークシャーの孤立なのか、それとも移住の後の波が東ヨークシャーにとくに影響を与えたのか、判断が可能となるかもしれません。


●考古学的および言語学的文脈

 紀元前1500~紀元前1100年頃の期間は、ブリテン島とヨーロッパ大陸部地域との間の文化的つながりが強くなり、英仏海峡の両側の社会が、家庭用土器や金属細工品や儀式の堆積慣行など、文化的特徴を共有した時期として長く認識されてきました。紀元前750年頃からは、ブリテン島とヨーロッパ大陸部との間の接触の考古学的証拠は限定的で、本論文の遺伝学的調査結果は、鉄器時代(IA)開始期までに、ブリテン島への人口統計学的に顕著な移住の証拠がほとんどないことを示す点で一致します。

 本論文の調査結果は、推定された人口移動が中期~後期青銅器時代(M-LBA)の交換網の原因なのか、それとも結果なのかを確証していませんが、ブリテン島の在来人口集団と、ヨーロッパ大陸部から着想をもたらした新たな移民との間の相互作用が、M-LBAのイングランドとウェールズで見られる文化的変化の一部の媒介だったかもしれない、と示唆します。フランス西部および中央部は、ヨーロッパの近隣地域よりも利用可能なゲノム規模古代DNAデータがずっと乏しいので、現時点では、この期間における2地域間の遺伝子流動がおもに一方向だったのかどうか、検証できません。

 人口移動はしばしば、人々が話す言語を含めて、文化的変化の重要な推進力です。本論文で推測されるような激しい移住期間は、常に言語変化をもたらすわけではありませんが、顕著な移住の遺伝学的証拠は重要で、それは、言語拡大の妥当な経路である人口統計学的過程を記録するからです。何人かの研究者は、青銅器時代末もしくは鉄器時代初期におけるフランスからブリテン島への初期ケルト語拡大の証拠を提供するものとして、言語学的データを解釈してきました。本論文が、フランスの人口集団と最適に合致する供給源からブリテン島へのかなりの移住を特定したことで、この見解の独立した一連の証拠が提供され、M-LBAはこの言語拡大期間の主要候補として示されます。

 スコットランドにおけるM-LBAのEEF祖先系統の変化の証拠の欠如が、ケルト語がこの時にブリテン島へと拡大した、という事例を弱めると解釈できるかもしれませんが、スコットランドにおけるケルト語の後の到来は、非ケルト語とケルト語が紀元後千年紀にスコットランドで共存した、という証拠と一致します。前期青銅器時代(EBA)にはEEF祖先系統の割合が比較的高かったイベリア半島におけるEEF祖先系統の減少と、EEF祖先系統の割合がEBAにおいて比較的低いブリテン島におけるほぼ同時となるEEF祖先系統増加の発見(図4a)は、理論上では、両地域へ拡大した中間的なEEF祖先系統を有するケルト語話者集団を反映しているかもしれませんが、そうした単純なモデルは、ヨーロッパにおける南北の祖先系統の収束を全て説明できるわけではありません。

 それにも関わらず、ブリテン島南部のマルゲッツ遺構および断崖農場遺跡の外れ値個体が、遺伝期にヨーロッパ中央部のクノヴィズ文化標本とひじょうに類似している、という事実は、一部の学者が、ヨーロッパ中央部のクノヴィズ文化など骨壺墓地文化集団はケルト語の拡大と関連している、と仮定した事実に照らして注目に値します。本論文がIAにおけるヨーロッパ大陸部からブリテン島への大規模な移住の証拠を見つけられなかったことは、ケルト語の拡大が人々の大規模な移動により駆動されたならば、この時点で起きた可能性が低いことを示唆します。IAブリテン島における文化的慣行の採用は、ヨーロッパ大陸部、とくにラ・テーヌ(La Tène)伝統とつながっている文化的慣行に起源があり、これも明らかに大規模な人口移動とは無関係でしたが、より小規模な移動は確かにあり、テーム(Thame)もしくはウィナル・ダウン(Winnall Down)などEEF祖先系統を高い割合で有する個々のIA外れ値により証明されます(図3)。

 将来の研究の重要な方向性は、ヨーロッパ大陸部の文脈、とくにフランス中央部および西部とアイルランドの新たな古代DNAデータを生成し、本論文の観察結果と一致する人口史の代替的概要を検証して、考古学的枠組み内で遺伝学的調査結果を統合する理論を発展させることです。


●補足:「移住」の考古学的理解と遺伝学的理解の調和

 「移住」は集団遺伝学と考古学の両方で中心的概念ですが、その意味は両分野の発展過程において異なる形で展開してきました。集団遺伝学者はある地域から別の地域への遺伝物質の移動という意味で「移住」を使い、近隣共同体間の配偶者の低水準な対称的交換でも移住を表すとみなしますが、考古学者は「移住」の使用を、ある地域から別の地域への人々の恒久的な移動に起因する顕著な人口統計学的変化が生じる過程に限定します。

 ヨーロッパの考古学では、先史時代の移住の議論は、移住の理論論が20世紀初期から半ばにかけて政治的に利用されたため、困難に満ちたものになりました。つまり、短期間の人々の多数の移動が時として、民族集団の拡大の主要な機序だと主張され、そうした事象の考古学的復元が領土の主張の正当化に用いられました。このため、一部の考古学者は、たとえば「移住」の使用を短期間に人々の組織化された移動の証拠がある場合に限定することにより、移住の理論化への高い障壁設定を好みます。しかし、これは、後のヨーロッパ人の祖先系統の大半に寄与したと遺伝学的データが示してきた(関連記事1および関連記事2)、紀元前三千年紀に始まる草原地帯からの人々の西方への移動など、人々の大規模な移動が先史時代に及ぼした重要な影響の認識を困難にします。

 本論文は「移住」という用語を意図的に用いており、それは、上述のブリテン島への人々の移動が人口統計学的に変化をもたらしたからです。本論文は、この調査結果が短期間での大規模な移動を証明するには不充分である、と強調します。じっさい、放射性炭素年代測定と同位体の証拠は、移住の少なくとも一部が数百年以上にわたって行なわれた、と示します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:青銅器時代のグレートブリテン島への大量移住の第3波

 中・後期青銅器時代にヨーロッパ大陸からグレートブリテン島に古代人が大量移住していたことが初めて明らかになり、これが、初期ケルト語の普及を促進したと考えられることを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、現在の英国民の遺伝的構成を説明する上で役立つ。また、今回の研究は、乳糖耐性に関連する対立遺伝子の頻度の違いを明確に示しており、青銅器時代のグレートブリテン島と中央ヨーロッパの住民では、乳製品の使用に違いがあった可能性を示唆している。

 英国では、過去1万年間に少なくとも2回の集団の入れ替わりが起きていたことが、これまでの古代DNAの研究によって明らかになっている。紀元前3950~2450年ごろにグレートブリテン島に居住していた最初の新石器時代の農民の祖先は、約80%が初期のヨーロッパの農民で、約20%が初期のヨーロッパの狩猟採集民だと考えられている。2度目の移住は、紀元前2450年ごろに起こり、ポントス・カスピ海ステップ(黒海とカスピ海に挟まれたヨーロッパとアジアにまたがる地域)に住む牧畜民の血を引くステップ集団を祖先とするヨーロッパ大陸民の到来と関連していた。この移住の第2波によって英国民の祖先の約90%が入れ替わり、その後は、イングランドとスコットランドにおいてステップ集団を祖先とする人々の割合に差がなくなった。しかし、現在のイングランドでは、ステップ集団を祖先とする人々の割合は著しく小さくなった。この変化の原因となった事象が、上記の2回の移住の後に起こったことは間違いないが、それが何だったのかは今まで謎のままだった。

 今回、David Reichたちは、この時代の古代人793人のゲノム規模のデータを生成して、これまでに報告された中で最大規模の古代DNA研究を行った。そして、Reichたちは、これまで知られていなかったグレートブリテン島への移住の第3波があり、この移住が、紀元前1000~875年にピークに達したことを明らかにした。この時の移住者は、フランスから到来したと考えられており、この移住者を祖先とする人々が、鉄器時代のイングランドとウェールズの集団でほぼ半数を占めた。言語は、一般に人の移動を通じて普及するため、この結果は、ケルト語が後期青銅器時代にフランスから英国に入ってきたという学説を裏付けている。また、この大規模なゲノムデータのプールは、成人の乳糖耐性に関連する対立遺伝子の頻度に違いがあることを明確に示した。この対立遺伝子の研究から、グレートブリテン島の人々が牛乳を消化する能力が高まった時期が、中央ヨーロッパよりも約1000年早かったことが示された。この知見は、この時期の英国で、乳製品が中央ヨーロッパと異なる文化的役割を果たしていた可能性を示している。


古代DNA:中期~後期青銅器時代におけるブリテン島への大規模移動

古代DNA:ブリテン島を巡る青銅器時代の人の流れ

 今回D Reichたちは、中期〜後期青銅器時代および鉄器時代にグレートブリテン島と大陸ヨーロッパに住んでいた793人について、新たにゲノム規模の古代DNAデータを提示している。これによって、イングランドおよびウェールズへの移民の到来や一帯での人々の移動、そしてケルト語派のブリテン島内での拡散の様子が明らかになった。



参考文献:
Patterson N. et al.(2022): Large-scale migration into Britain during the Middle to Late Bronze Age. Nature, 601, 7894, 588–594.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04287-4

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