鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。1335年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に起きた中先代の乱は現代日本社会において比較的有名でしょうが、そもそも中先代とは何なのか、私も含めてよく知らない人は多いでしょう。本書は、北条氏を「先代」、足利氏を「当御代」と呼び、その中間にあたる北条時行(本書では1329年生まれと推定されています)を「中先代」と称したのだろう、と推測します。本書がまず指摘するのは、1333年の鎌倉幕府滅亡とともに北条氏も滅び去ったのではなく、その直後から北条氏とその家臣(北条与党)が建武政権に反乱を起こしていることです。本書は、中先代の乱を中心に、その前後の情勢も検討し、中先代の乱を総合的に把握します。
鎌倉幕府が滅亡し、建武政権期になると、各地で反乱が多発し、その中には北条与党が起こしたものも多くありました。本書は、足利尊氏が1335年11月に建武政権に離反するまでの、建武政権期における北条与党の反乱を全体的に検討します。この間の反乱26件のうち15件が北条与党によるもの(北条氏が10件、北条氏被官が2件、北条氏でもその被官でもないものの北条氏に加担していた勢力が3件)と確認され、北条与党の関与が不明なのは11件です。北条与党の反乱は、地域では北は津軽から南は日向まで全国にわたり、その中には連携していた可能性がある事例も指摘されています。ただ、中先代の乱以外で広域的な連携は確認されていないそうです。本書は、北条氏と関連性の薄い地域でも北条氏を擁する反乱が起きていることから、建武政権への広範な不満がその背景にあり、不満層を糾合できる権威として北条氏が期待されていた、と指摘します。
この建武政権期の反乱として中先代の乱について本書は、西園寺公宗の陰謀事件があり、これは冤罪との説もありますが、本書は、西園寺公宗が北条泰家・時行たちと連携しており、その黒幕は光厳上皇だった、と推測します。1335年6月頃、時行は信濃で挙兵しますが、数え年でまだ7歳で、建武政権に不満を抱く層が擁立した、という側面が大きかったように思います。北条軍は信濃から上野と武蔵を経て相模に進軍し、時行が鎌倉に入ったのは7月24日ですから、快進撃と言えそうです。これは、関東で北条氏を支持する勢力が強かったことと、建武政権に不満を抱く武士が多かったためと考えられます。ただ、時行の鎌倉占領は20日間程度でした。それでも、上述のように「先代」たる鎌倉幕府執権北条氏、「当御代」たる室町幕府将軍足利氏と同列に置かれて「中先代」と称されたのは、武家にとってきわめて重要な鎌倉を短期間とはいえ占領したからだろう、と本書は推測します。
足利尊氏が弟の直義の敗報を聞いて都から東進し、足利軍は北条軍に連勝し、鎌倉を奪還します。しかし、この間には激戦も多く、足利方の有力武士も討ち死にしています。こうして中先代の乱は終結しますが、本書はその性格について、北条氏とその被官が中心となった反乱ではあるものの、その他の東国武士の参加も確認でき、建武政権に対する武士たちの不満を具現化した側面もある、と指摘します。鎌倉を追われた時行は南朝に帰順し、北条氏残党は深く恨んでいた足利氏と戦い続けます。時行は北畠顕家と合流し、1337年末には再度鎌倉に入り、1338年に北畠顕家が戦死した後も、南朝方として各地を転戦します。1352年、足利氏の内紛である観応の擾乱に乗じて、時行も加わった南朝軍は閏2月に鎌倉に入ります。しかし、直ちに足利軍に奪還され、時行は翌年5月20日、鎌倉郊外で処刑されました。本書は中先代の乱の最大の歴史的意義として、足利尊氏が建武政権から離反する契機になったことを挙げます。
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