タンザニアの366万年前頃の人類の足跡
タンザニアの366万年前頃の足跡に関する研究(McNutt et al., 2021)が報道されました。1976年、タンザニアのラエトリ(Laetoli)遺跡A の7地点で、5点の連続した二足歩行の足跡が発見されました。広さは490m²で、年代は366万年前頃となり、18400個の動物の足跡があります(図1)。この行跡(連続した足跡)は当時、暫定的に人類のものと提案されました。当時この足跡は、現代人(ヒト)の自由な歩き方とは対照的に、歩隔で腰が回転する、回転して恐らくはゆっくりした動きの歩き方と示唆されました。当時、この足跡は人類のものに分類されたものの、歩行はややよろよろしており、片方の足がもう一方の足を横切っていた、と注意が喚起されていました。
1978年にラエトリ遺跡Gで人類の足跡が発見され、ラエトリ遺跡Aの足跡を人類のものとする見解に疑問が呈されました。当時、ラエトリ遺跡Aの足跡は、異常で不思議な形をしており、謎めいていると指摘されましたが、二足歩行の蹠行性(足の裏の全面を地面につける歩き方)哺乳類によるものというのが一致した見解でした。以下は本論文の図1です。
1980年代の研究では、足跡の形態と交差歩行(それぞれの側からの足が着地前に正中線を横切るような歩き方)を説明するのに、3通りの仮説が提示されました。第一は基層の歪みです。第二は、仔のクマが残した足跡です。第三は、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)以外の人類の足跡です。第二の仮説を検証するため、二足歩行するよう訓練されたサーカスのクマからデータが収集され、その短い一歩と比較的広い足はラエトリ遺跡Aの足跡と密接に合致しているものの、二足歩行のクマはより広い一歩になる、と明らかになりました。さらに、第五指は通常クマ科では最大で、交差歩行の問題を解決するものの、ヒトもたまに交差歩行する、と注意が喚起されていました。1980年代の研究では、二足歩行のクマと裸足のヒトに関して、詳細で自然の生物測定と運動学的研究が行なわれるまで、ラエトリ遺跡個体Aに関する人類とクマの仮説の選択を延期する必要がある、と結論づけられました。
さらに問題を複雑にしたのは、ラエトリ遺跡Aの内部形態が、基盤充填物を完全には除去できていないことです。1980年代には、ラエトリ遺跡Aの謎めいた足跡の確実な同定は、基盤充填物が完全に除去されて横方向の追跡が行なわれるまで無理だろう、と指摘されました。したがって、この研究は、ラエトリ遺跡Aを移設して再発掘し、アメリカクロクマ(Ursus americanus)とチンパンジー(Pan troglodytes)とヒト(Homo sapiens)の足跡の詳細な比較分析を行ない、ラエトリ遺跡Aの足跡を残したのが人類なのか、それともクマなのか、検証しました。
●ラエトリ遺跡Aの再発見
以前の研究の詳細な地図を用いて、二足歩行の足跡に隣接する長鼻目の痕跡が特定されました。A3足跡が見つかるまで、周囲の表土が取り除かれました。次にその領域がきれいに清掃され、A1~A5が露出しました。これらは最初の発見以来、認識できるほどの侵食はありませんでした(図1)。足跡凝灰岩は北方に侵食されているので、A1の踵から南方(87cm)と東方(54cm)へと発掘されましたが、追加の足跡は見つかりませんでした。
A3から堆積物が除去された後、木製の舌圧子を用いて、1976~1978年の野外調査期間に無傷のまま残った凝灰岩充填物が取り除かれました。親指(第一指)の跡は明確に定義され、約30mmの幅です。重要なのは、第二指の跡が露出したことです。A2から充填物が取り除かれましたが、損傷の危険性を冒さずに完全に削除することはできませんでした。それにも関わらず、踵と母指の跡は明確です。他の跡の詳細な情報は、長さと幅と歩隔の長さの推定値に限界があります。
A1~A5の内部とそれぞれの間の保存状態はさまざまですが、生物学的に情報をもたらす計測が基盤の歪みに影響を受けた、という証拠はありません。他の動物(ホロホロチョウからゾウまでの大きさ)の隣接・混在する足跡は、周囲もしくは内部の形態の歪みの証拠を示しません。足跡表面は数時間かに数日間の時間間隔を表している可能性が高いことを考えると、痕跡の形成およびその後の時代における類似の基盤条件と化石生成仮定を推測するのが節約的です。
●クマと人類の仮説の評価
野生のアメリカクロクマの行動の50.9時間の映像が録画されました。裏づけられない二足歩行の姿勢と移動は全観察時間の0.09%で、そのうち59%は姿勢、41%は移動でした。1例でのみ、クマは4歩続けての補助なしの二足歩行の歩隔を実行しました。したがって、本論文の調査結果が他のクマ科に一般化可能だと仮定すると、4歩続けての二足歩行の歩隔を観察する確率は0.003%です。この行動の低頻度と、四足歩行から二足歩行への移行段階の歩幅がないので、クマの二足歩行がラエトリ遺跡Aで保存された可能性は低そうですが、あり得ないわけではありません。
さらにラエトリ遺跡では、哺乳類85種に分類される25000点以上の化石が回収されているにも関わらず、クマの化石が欠けています。ラエトリ遺跡一帯では、クマは存在したとしても稀でした。足跡の集合には、骨格化石が稀な分類群の驚くような数の痕跡が含まれる可能性もあり、たとえばケニアのイレレット(Ileret)近くの150万年前頃の遺跡やラエトリ遺跡の鳥の痕跡は比較的高頻度ですが、クマ科の痕跡が存在するものの、その化石が存在しない理由について、明確な化石生成論的説明はありません。
さらに、足の長さ(平均145.7mm)がラエトリ遺跡Aの足跡の長さ(平均161.7mm)の10%以内だったためとくに選択された、四足歩行の野生の仔クマの足跡46点が測定されました。さらに、ウガンダのガンバ島チンパンジー保護区(Ngamba Island Chimpanzee Sanctuary)の四足歩行中のチンパンジーの足跡(46頭の生体から54点)と、アメリカ合衆国のストーニーブルック大学のチンパンジーの二足歩行中の足跡(2頭の亜生体から44点)が測定されました。これらのデータは3条件下で生成されたヒトの裸足の足跡と比較されました。その3条件とは、(1)習慣的に靴を履いている人が足底圧マット上を歩く(654点)、(2)習慣的に靴を履いていないもしくは最小限にしか履いていない人が変形性のぬかるみを歩く(41点)、(3)再堆積し火山灰で形成された、タンザニアのエンガレセロ(Engare Sero)の後期更新世の足跡(関連記事)です。
ラエトリ遺跡Aで観察された歩隔の長さに対する足跡の寸法(たとえば、踵と前足の幅)の比率が、クマの範囲に収まることに関して、他の研究と一致します。しかし、これらの同じ測定に関して、ラエトリ遺跡Aはチンパンジー的でもあり、ラエトリ遺跡GおよびSの明確な人類の足跡と適度に類似しています。ラエトリ遺跡A個体は、ヒトがゆっくりと、もしくは滑りやすい基盤を歩く時に起きるように短い歩隔だったものの、その歩行はクマ的ではありませんでした。
ラエトリ遺跡のA2とA3から追加の充填物を取り除くと、前足幅に対して踵の跡が広くなり、周囲寸法は明らかに人類的です。対照的に、チンパンジーとクマは比較的狭い踵を有しています。さらに、足跡が完全に発掘され、汚れが取り除かれると、鉤爪の跡の証拠は見つかりませんでしたが、クマの足跡では鉤爪が欠けている場合もあります。この研究の検証では、クマの足跡の31%には鉤爪の跡がありません。ラエトリ遺跡A3が人類の左足かクマの右足のどちらによるものなのか検証するため、ヒト(30点)とチンパンジー(50点)の足跡で第二指に対する母趾の幅と、クマの足跡(5点)における第四指に対する第五指が比較されました。A3の爪先の跡は、クマではなくヒトとチンパンジーの特徴的な比率と一致します。
A3が人類の左足だと確認することにより、交差歩行が起きたことを確証できます。本論文の比較標本では交差歩行は観察されませんでしたが、ヒトでは揺れた後に均衡を取るための代償戦略としてたまに起きます。じっさい、交差歩行はラエトリ遺跡Aの足跡が人類により残されたという仮説を裏づける、と本論文は提案します。クマもしくはチンパンジーが二足歩行する時に、交差歩行は起こりそうになく、おそらく不可能です。クマとチンパンジーは、重心位置が大きく中外側に逸れて、腰を大きく外転させて歩くため、歩幅と歩隔の長さの比率が高くなります。逆に、ヒトの交差歩行は重心と身体の動きの中外側減少、腰の内転、内・外側顆を結ぶ線と大腿骨長軸の角度により可能となり、ラエトリ各行跡で表れているように、低い対応比となります。
ラエトリ遺跡GおよびSの足跡の相対的な歩隔幅は、現代人の分布にほぼ収まっています。ラエトリ遺跡Aの足跡は、ヒトとチンパンジーとクマの分布外に位置しますが、最もヒト的です。この結果から、ラエトリ遺跡Aの足跡は外反の膝もしくは内転する腰、あるいはその両方を有していた、と示唆されます。二足歩行の特徴があることから、ラエトリ遺跡Aの足跡を残したのは人類と考えられます。
●足跡を残したのはどの人類か
アウストラロピテクス・アファレンシスが、ラエトリ遺跡GおよびSで足跡を残したことは、一般的に認められています。したがって、ラエトリ遺跡Aの足跡をアウストラロピテクス・アファレンシスに割り当てたくなりますが、この前提には、鮮新世人類間の歩行運動(および恐らくは分類学的)多様性の化石証拠を考慮に入れた、足の個体発生および種内形態変異の調査が必要です。
身長101~104cmと推定されるラエトリ遺跡Aの足跡を残した個体は、他のラエトリ遺跡の足跡を残した個体よりも身長が低く、G1では111~116cm、S1では161~168cmと推定されています(関連記事)。ラエトリ遺跡Aの足跡が学童期(juvenile、6~7歳から12~13歳頃)のアウストラロピテクス・アファレンシスだったとの想定は尤もらしいものの、この仮説は、ラエトリ遺跡GもしくはSとは異なる足跡の形態により否定されます。
足の幅と長さの比率は、ヒトとチンパンジーにおいて異なる個体発生の軌跡に従い、ヒトの足はチンパンジーよりも一貫して狭くなっています(図2)。現代と更新世両方の靴を履いていないヒトの足跡は、産業化された人口集団の靴を履いたヒトの足跡よりもわずかに広くなっています。ラエトリ遺跡GおよびS歪みのない足跡は、ヒトの範囲内に収まります。ラエトリ遺跡A3は、その長さと比較して広い点で、チンパンジーにより似ています(図2a)。チンパンジーでは、このより広い足跡の形態は、部分的には、親指(第一指)のより大きな開度により駆動されます。したがって、親指と第二指による跡の中心と、足跡の長さとの間の距離の比率として、親指の開度が測定されました。この測定では、ヒトとチンパンジーは明確に異なります。
最良に定義されたラエトリ遺跡Gの足跡がヒトの分布と重なる一方で、A3の足跡は重ならず、ヒトおよびラエトリ遺跡Gよりもわずかに開いた親指を有していますが、チンパンジーに近いほど開いているわけではありません。エチオピアのアファール(Afar)地域のディキカ(Dikika)で発見された足の親指が、成体よりもわずかに開いて可動的だったことを考えると(関連記事)、この知見だけでは、この足跡が学童期のアウストラロピテクス・アファレンシスだった可能性を除外しません。以下は本論文の図2です。
他の有益な特徴を調べるため、以前の研究で報告された、比例した爪先の深さの比率が比較されました。曲がった股関節と膝関節を用いると、ラエトリ遺跡Aの平均値はラエトリ遺跡G1およびヒトとは異なっているものの、ラエトリ遺跡Sの変異の低端と重なります。さらに、足跡A1~A3は、踵と前足側部との間の硬化した灰の隆起を表します。この隆起が、基盤の剪断の証拠なのか、それとも、ラエトリ遺跡GおよびSの足跡には欠けており、アウストラロピテクス・アファレンシスの足遺骸と一致しない、中足部の移動性の証拠なのか、不明です。
最後に、ヒトもしくはチンパンジーの足跡から、さまざまなラエトリ遺跡の足跡と類似した内部組織分布を有する足跡を無作為に標本抽出できるのかどうか、検証されました。図2は、ラエトリ遺跡GおよびSの足跡が、再標本抽出された靴を履いていないヒトの足跡の変異範囲にどのように含まれ得るのか示しており、一方で、ラエトリ遺跡A2およびA3の足跡の平均的形態は、習慣的に靴を履いてないヒトとラエトリ遺跡GおよびSの足跡とは異なります。
じっさい、ラエトリ遺跡A2およびA3の足跡は再標本抽出されたチンパンジーの分布内によく収まり、チンパンジーの足跡は、裸足のヒトの足跡の形態とは異なります。こうした異なる足跡の形態について可能な説明の一つは、ラエトリ遺跡Aの足跡は交差歩行するアウストラロピテクス・アファレンシスだった、というものです。ヒトの足跡を好みの歩行、次に交差歩行と比較することにより、この仮説が検証されました。その結果、通常歩行および交差歩行のヒトの足跡の違いは最小限で、ラエトリ遺跡GおよびSとラエトリ遺跡Aの痕跡との間における程度もしくは方向の違いとは一致しない、と明らかになりました。
したがって本論文は、ラエトリ遺跡Aの足跡は、アウストラロピテクス・アファレンシスとは異なり、恐らくはより祖先的な足の二足歩行の人類が残した、と結論づけます。ラエトリ遺跡Aの足の全体的な形態はチンパンジー的で、わずかに親指が開き、おそらく中足部はいくぶん可動的です。しかし、ラエトリ遺跡A個体は、外反の膝もしくは内転する腰、あるいはその両方を示唆する、狭い歩隔で二足歩行していました。保存された足跡から推測される足の形態と歩行運動学の組み合わせは、ラエトリ遺跡A個体をアウストラロピテクス・アファレンシスから排除します。
鮮新世人類の分類学的多様性の証拠が築かれつつあり(関連記事)、ラエトリ遺跡の事例も含まれますが、これらの人類は形態学的に同じ足で歩いていたわけではありません。たとえば、エチオピアのアファール地域のウォランソミル(Woranso-Mille)研究地域の340万年前頃のBRT-VP-2/73標本の足跡は、鮮新世のアファール窪地に少なくとも2つの異なる足の形態が共存した、と示します(関連記事)。本論文は、人類の歩行運動多様性についての足跡の証拠が、同様に1970年代のラエトリ遺跡Aの行跡の発見以来、タンザニアのラエトリ遺跡に存在していた、と提案します。
以上、本論文についてざっと見てきました。上記報道で指摘されているように、本論文で新たにアウストラロピテクス・アファレンシスとは異なる人類のものと提示された足跡の標本数が少ないことは否定できず、鮮新世人類の多様性についての新たな決定的証拠とまでは言えないように思います。ただ、中期鮮新世となる380万~330万年前頃の人類については、アウストラロピテクス・アファレンシスしか存在していなかった、との見解が長く有力でしたが、近年では、中期鮮新世のアフリカ東部(~中部)には複数の人類種が存在したことは確実だ、との見解も提示されており(関連記事)、おそらく今後、そうした見解を裏づける証拠が蓄積されていくのではないか、と予想しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
古生物学:未知のヒト族の個体と結び付けられた古代の連続した足跡
タンザニア北部のラエトリ遺跡で発見された行跡(連続した足跡)の化石を再分析したところ、約360万年前に複数のヒト族種が二足歩行していたことが示唆された。これまでの研究で、1組の行跡化石が現生人類の初期の近縁種のものと特定されているが、今週のNature に掲載される論文では、別の1組の行跡化石が未知のヒト族種に帰属することが示唆されている。今回の知見は、二足歩行の起源についての新たな手掛かりとなる。
1970年代にラエトリ遺跡で発見された5つの連続した行跡化石は、ヒト族の二足歩行を示す最古の決定的な証拠だ。これらの行跡化石は、有名な「ルーシー」の骨格化石の場合と同じく、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)のものだとする学説が提起された。同時期に別の行跡化石も発見されていたが、その後埋められてしまい、議論を呼んだ。クマが後肢で歩いた行跡だったという考え方があり、別のヒト族種の行跡とする考え方もあった。
2019年になって、Ellison McNuttたちは、このような一風変わった形状の行跡を再び発掘した。McNuttたちは、これをクマ、チンパンジー、ヒトの行跡と比較し、クマよりもヒトの行跡に近いことを明らかにした。また、野生のアメリカグマの行動を映像で分析したところ、アメリカグマが後肢で歩くことはほとんどないことが分かった。McNuttたちは、ラエトリで数千点の動物の化石が発見されているが、いずれもクマのものではないことも明らかにした。McNuttたちは、これが、いまだに特定されていないヒト族種の行跡で、このヒト族の個体が、変わった歩き方(一方の足が体の正中線を横切って、もう一方の足の前方に着地するクロスステップという歩行)をしていたと結論付けた。
この時代のヒト族の多様性が過小評価されていることを示唆する証拠が増えており、今回の知見もその1つとなった。
古生物学:初期ヒト族の移動運動の多様性を示すタンザニア・ラエトリの足跡証拠
古生物学:ラエトリの足跡はやはりヒト族のものだった
1970年代、メアリー・リーキーたちは、タンザニアのラエトリと呼ばれる場所で、300万年以上前のヒト族が残した足跡を発見した。これらの足跡はヒト族、具体的にはアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis;「ルーシー」として知られる有名な化石骨格が属する種)による二足歩行を示す、最古の決定的証拠として有名になった。しかし、この顛末には、ある忘れ去られた側面があった。ラエトリには大小さまざまな動物によって残された多数の足跡が存在し、ヒト族のものとして有名になった行跡「G」は最初に発見された足跡ではなかったのだ。先に見つかった別の行跡「A」について、リーキーはそれがヒト族のものかもしれないと考えたが、後肢で立ったクマ類の足跡に少し似て見えたことから、確信が持てずにいた。サーカスのクマによる実験で、この行跡がクマ類のものである可能性が示唆されたものの、その後も疑いはずっと残されたままだった。これ以外に、クマ類のものに少しでも似た足跡は(後脚で歩いたものすら)見つかっておらず、クマ類のものである可能性のある化石も発見されていない。そこでE McNuttたちは、2019年にこの遺跡に戻り、行跡「A」の再発掘を行った。現代の画像化法(およびクマを用いた追加実験)から、これらの足跡はヒト族のものである可能性が高く、有名な行跡「G」を残したヒト族とは違う種類であることが明らかになった。鮮新世の東アフリカにはアウストラロピテクス・アファレンシス以外にも複数の異なるヒト族が住んでおり、それぞれ歩行様式が異なっていたことは、リーキーの時代から知られていた。行跡「A」はそのうちの1種が残したものなのかもしれない。
参考文献:
McNutt EJ. et al.(2021): Footprint evidence of early hominin locomotor diversity at Laetoli, Tanzania. Nature, 600, 7889, 468–471.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04187-7
1978年にラエトリ遺跡Gで人類の足跡が発見され、ラエトリ遺跡Aの足跡を人類のものとする見解に疑問が呈されました。当時、ラエトリ遺跡Aの足跡は、異常で不思議な形をしており、謎めいていると指摘されましたが、二足歩行の蹠行性(足の裏の全面を地面につける歩き方)哺乳類によるものというのが一致した見解でした。以下は本論文の図1です。
1980年代の研究では、足跡の形態と交差歩行(それぞれの側からの足が着地前に正中線を横切るような歩き方)を説明するのに、3通りの仮説が提示されました。第一は基層の歪みです。第二は、仔のクマが残した足跡です。第三は、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)以外の人類の足跡です。第二の仮説を検証するため、二足歩行するよう訓練されたサーカスのクマからデータが収集され、その短い一歩と比較的広い足はラエトリ遺跡Aの足跡と密接に合致しているものの、二足歩行のクマはより広い一歩になる、と明らかになりました。さらに、第五指は通常クマ科では最大で、交差歩行の問題を解決するものの、ヒトもたまに交差歩行する、と注意が喚起されていました。1980年代の研究では、二足歩行のクマと裸足のヒトに関して、詳細で自然の生物測定と運動学的研究が行なわれるまで、ラエトリ遺跡個体Aに関する人類とクマの仮説の選択を延期する必要がある、と結論づけられました。
さらに問題を複雑にしたのは、ラエトリ遺跡Aの内部形態が、基盤充填物を完全には除去できていないことです。1980年代には、ラエトリ遺跡Aの謎めいた足跡の確実な同定は、基盤充填物が完全に除去されて横方向の追跡が行なわれるまで無理だろう、と指摘されました。したがって、この研究は、ラエトリ遺跡Aを移設して再発掘し、アメリカクロクマ(Ursus americanus)とチンパンジー(Pan troglodytes)とヒト(Homo sapiens)の足跡の詳細な比較分析を行ない、ラエトリ遺跡Aの足跡を残したのが人類なのか、それともクマなのか、検証しました。
●ラエトリ遺跡Aの再発見
以前の研究の詳細な地図を用いて、二足歩行の足跡に隣接する長鼻目の痕跡が特定されました。A3足跡が見つかるまで、周囲の表土が取り除かれました。次にその領域がきれいに清掃され、A1~A5が露出しました。これらは最初の発見以来、認識できるほどの侵食はありませんでした(図1)。足跡凝灰岩は北方に侵食されているので、A1の踵から南方(87cm)と東方(54cm)へと発掘されましたが、追加の足跡は見つかりませんでした。
A3から堆積物が除去された後、木製の舌圧子を用いて、1976~1978年の野外調査期間に無傷のまま残った凝灰岩充填物が取り除かれました。親指(第一指)の跡は明確に定義され、約30mmの幅です。重要なのは、第二指の跡が露出したことです。A2から充填物が取り除かれましたが、損傷の危険性を冒さずに完全に削除することはできませんでした。それにも関わらず、踵と母指の跡は明確です。他の跡の詳細な情報は、長さと幅と歩隔の長さの推定値に限界があります。
A1~A5の内部とそれぞれの間の保存状態はさまざまですが、生物学的に情報をもたらす計測が基盤の歪みに影響を受けた、という証拠はありません。他の動物(ホロホロチョウからゾウまでの大きさ)の隣接・混在する足跡は、周囲もしくは内部の形態の歪みの証拠を示しません。足跡表面は数時間かに数日間の時間間隔を表している可能性が高いことを考えると、痕跡の形成およびその後の時代における類似の基盤条件と化石生成仮定を推測するのが節約的です。
●クマと人類の仮説の評価
野生のアメリカクロクマの行動の50.9時間の映像が録画されました。裏づけられない二足歩行の姿勢と移動は全観察時間の0.09%で、そのうち59%は姿勢、41%は移動でした。1例でのみ、クマは4歩続けての補助なしの二足歩行の歩隔を実行しました。したがって、本論文の調査結果が他のクマ科に一般化可能だと仮定すると、4歩続けての二足歩行の歩隔を観察する確率は0.003%です。この行動の低頻度と、四足歩行から二足歩行への移行段階の歩幅がないので、クマの二足歩行がラエトリ遺跡Aで保存された可能性は低そうですが、あり得ないわけではありません。
さらにラエトリ遺跡では、哺乳類85種に分類される25000点以上の化石が回収されているにも関わらず、クマの化石が欠けています。ラエトリ遺跡一帯では、クマは存在したとしても稀でした。足跡の集合には、骨格化石が稀な分類群の驚くような数の痕跡が含まれる可能性もあり、たとえばケニアのイレレット(Ileret)近くの150万年前頃の遺跡やラエトリ遺跡の鳥の痕跡は比較的高頻度ですが、クマ科の痕跡が存在するものの、その化石が存在しない理由について、明確な化石生成論的説明はありません。
さらに、足の長さ(平均145.7mm)がラエトリ遺跡Aの足跡の長さ(平均161.7mm)の10%以内だったためとくに選択された、四足歩行の野生の仔クマの足跡46点が測定されました。さらに、ウガンダのガンバ島チンパンジー保護区(Ngamba Island Chimpanzee Sanctuary)の四足歩行中のチンパンジーの足跡(46頭の生体から54点)と、アメリカ合衆国のストーニーブルック大学のチンパンジーの二足歩行中の足跡(2頭の亜生体から44点)が測定されました。これらのデータは3条件下で生成されたヒトの裸足の足跡と比較されました。その3条件とは、(1)習慣的に靴を履いている人が足底圧マット上を歩く(654点)、(2)習慣的に靴を履いていないもしくは最小限にしか履いていない人が変形性のぬかるみを歩く(41点)、(3)再堆積し火山灰で形成された、タンザニアのエンガレセロ(Engare Sero)の後期更新世の足跡(関連記事)です。
ラエトリ遺跡Aで観察された歩隔の長さに対する足跡の寸法(たとえば、踵と前足の幅)の比率が、クマの範囲に収まることに関して、他の研究と一致します。しかし、これらの同じ測定に関して、ラエトリ遺跡Aはチンパンジー的でもあり、ラエトリ遺跡GおよびSの明確な人類の足跡と適度に類似しています。ラエトリ遺跡A個体は、ヒトがゆっくりと、もしくは滑りやすい基盤を歩く時に起きるように短い歩隔だったものの、その歩行はクマ的ではありませんでした。
ラエトリ遺跡のA2とA3から追加の充填物を取り除くと、前足幅に対して踵の跡が広くなり、周囲寸法は明らかに人類的です。対照的に、チンパンジーとクマは比較的狭い踵を有しています。さらに、足跡が完全に発掘され、汚れが取り除かれると、鉤爪の跡の証拠は見つかりませんでしたが、クマの足跡では鉤爪が欠けている場合もあります。この研究の検証では、クマの足跡の31%には鉤爪の跡がありません。ラエトリ遺跡A3が人類の左足かクマの右足のどちらによるものなのか検証するため、ヒト(30点)とチンパンジー(50点)の足跡で第二指に対する母趾の幅と、クマの足跡(5点)における第四指に対する第五指が比較されました。A3の爪先の跡は、クマではなくヒトとチンパンジーの特徴的な比率と一致します。
A3が人類の左足だと確認することにより、交差歩行が起きたことを確証できます。本論文の比較標本では交差歩行は観察されませんでしたが、ヒトでは揺れた後に均衡を取るための代償戦略としてたまに起きます。じっさい、交差歩行はラエトリ遺跡Aの足跡が人類により残されたという仮説を裏づける、と本論文は提案します。クマもしくはチンパンジーが二足歩行する時に、交差歩行は起こりそうになく、おそらく不可能です。クマとチンパンジーは、重心位置が大きく中外側に逸れて、腰を大きく外転させて歩くため、歩幅と歩隔の長さの比率が高くなります。逆に、ヒトの交差歩行は重心と身体の動きの中外側減少、腰の内転、内・外側顆を結ぶ線と大腿骨長軸の角度により可能となり、ラエトリ各行跡で表れているように、低い対応比となります。
ラエトリ遺跡GおよびSの足跡の相対的な歩隔幅は、現代人の分布にほぼ収まっています。ラエトリ遺跡Aの足跡は、ヒトとチンパンジーとクマの分布外に位置しますが、最もヒト的です。この結果から、ラエトリ遺跡Aの足跡は外反の膝もしくは内転する腰、あるいはその両方を有していた、と示唆されます。二足歩行の特徴があることから、ラエトリ遺跡Aの足跡を残したのは人類と考えられます。
●足跡を残したのはどの人類か
アウストラロピテクス・アファレンシスが、ラエトリ遺跡GおよびSで足跡を残したことは、一般的に認められています。したがって、ラエトリ遺跡Aの足跡をアウストラロピテクス・アファレンシスに割り当てたくなりますが、この前提には、鮮新世人類間の歩行運動(および恐らくは分類学的)多様性の化石証拠を考慮に入れた、足の個体発生および種内形態変異の調査が必要です。
身長101~104cmと推定されるラエトリ遺跡Aの足跡を残した個体は、他のラエトリ遺跡の足跡を残した個体よりも身長が低く、G1では111~116cm、S1では161~168cmと推定されています(関連記事)。ラエトリ遺跡Aの足跡が学童期(juvenile、6~7歳から12~13歳頃)のアウストラロピテクス・アファレンシスだったとの想定は尤もらしいものの、この仮説は、ラエトリ遺跡GもしくはSとは異なる足跡の形態により否定されます。
足の幅と長さの比率は、ヒトとチンパンジーにおいて異なる個体発生の軌跡に従い、ヒトの足はチンパンジーよりも一貫して狭くなっています(図2)。現代と更新世両方の靴を履いていないヒトの足跡は、産業化された人口集団の靴を履いたヒトの足跡よりもわずかに広くなっています。ラエトリ遺跡GおよびS歪みのない足跡は、ヒトの範囲内に収まります。ラエトリ遺跡A3は、その長さと比較して広い点で、チンパンジーにより似ています(図2a)。チンパンジーでは、このより広い足跡の形態は、部分的には、親指(第一指)のより大きな開度により駆動されます。したがって、親指と第二指による跡の中心と、足跡の長さとの間の距離の比率として、親指の開度が測定されました。この測定では、ヒトとチンパンジーは明確に異なります。
最良に定義されたラエトリ遺跡Gの足跡がヒトの分布と重なる一方で、A3の足跡は重ならず、ヒトおよびラエトリ遺跡Gよりもわずかに開いた親指を有していますが、チンパンジーに近いほど開いているわけではありません。エチオピアのアファール(Afar)地域のディキカ(Dikika)で発見された足の親指が、成体よりもわずかに開いて可動的だったことを考えると(関連記事)、この知見だけでは、この足跡が学童期のアウストラロピテクス・アファレンシスだった可能性を除外しません。以下は本論文の図2です。
他の有益な特徴を調べるため、以前の研究で報告された、比例した爪先の深さの比率が比較されました。曲がった股関節と膝関節を用いると、ラエトリ遺跡Aの平均値はラエトリ遺跡G1およびヒトとは異なっているものの、ラエトリ遺跡Sの変異の低端と重なります。さらに、足跡A1~A3は、踵と前足側部との間の硬化した灰の隆起を表します。この隆起が、基盤の剪断の証拠なのか、それとも、ラエトリ遺跡GおよびSの足跡には欠けており、アウストラロピテクス・アファレンシスの足遺骸と一致しない、中足部の移動性の証拠なのか、不明です。
最後に、ヒトもしくはチンパンジーの足跡から、さまざまなラエトリ遺跡の足跡と類似した内部組織分布を有する足跡を無作為に標本抽出できるのかどうか、検証されました。図2は、ラエトリ遺跡GおよびSの足跡が、再標本抽出された靴を履いていないヒトの足跡の変異範囲にどのように含まれ得るのか示しており、一方で、ラエトリ遺跡A2およびA3の足跡の平均的形態は、習慣的に靴を履いてないヒトとラエトリ遺跡GおよびSの足跡とは異なります。
じっさい、ラエトリ遺跡A2およびA3の足跡は再標本抽出されたチンパンジーの分布内によく収まり、チンパンジーの足跡は、裸足のヒトの足跡の形態とは異なります。こうした異なる足跡の形態について可能な説明の一つは、ラエトリ遺跡Aの足跡は交差歩行するアウストラロピテクス・アファレンシスだった、というものです。ヒトの足跡を好みの歩行、次に交差歩行と比較することにより、この仮説が検証されました。その結果、通常歩行および交差歩行のヒトの足跡の違いは最小限で、ラエトリ遺跡GおよびSとラエトリ遺跡Aの痕跡との間における程度もしくは方向の違いとは一致しない、と明らかになりました。
したがって本論文は、ラエトリ遺跡Aの足跡は、アウストラロピテクス・アファレンシスとは異なり、恐らくはより祖先的な足の二足歩行の人類が残した、と結論づけます。ラエトリ遺跡Aの足の全体的な形態はチンパンジー的で、わずかに親指が開き、おそらく中足部はいくぶん可動的です。しかし、ラエトリ遺跡A個体は、外反の膝もしくは内転する腰、あるいはその両方を示唆する、狭い歩隔で二足歩行していました。保存された足跡から推測される足の形態と歩行運動学の組み合わせは、ラエトリ遺跡A個体をアウストラロピテクス・アファレンシスから排除します。
鮮新世人類の分類学的多様性の証拠が築かれつつあり(関連記事)、ラエトリ遺跡の事例も含まれますが、これらの人類は形態学的に同じ足で歩いていたわけではありません。たとえば、エチオピアのアファール地域のウォランソミル(Woranso-Mille)研究地域の340万年前頃のBRT-VP-2/73標本の足跡は、鮮新世のアファール窪地に少なくとも2つの異なる足の形態が共存した、と示します(関連記事)。本論文は、人類の歩行運動多様性についての足跡の証拠が、同様に1970年代のラエトリ遺跡Aの行跡の発見以来、タンザニアのラエトリ遺跡に存在していた、と提案します。
以上、本論文についてざっと見てきました。上記報道で指摘されているように、本論文で新たにアウストラロピテクス・アファレンシスとは異なる人類のものと提示された足跡の標本数が少ないことは否定できず、鮮新世人類の多様性についての新たな決定的証拠とまでは言えないように思います。ただ、中期鮮新世となる380万~330万年前頃の人類については、アウストラロピテクス・アファレンシスしか存在していなかった、との見解が長く有力でしたが、近年では、中期鮮新世のアフリカ東部(~中部)には複数の人類種が存在したことは確実だ、との見解も提示されており(関連記事)、おそらく今後、そうした見解を裏づける証拠が蓄積されていくのではないか、と予想しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
古生物学:未知のヒト族の個体と結び付けられた古代の連続した足跡
タンザニア北部のラエトリ遺跡で発見された行跡(連続した足跡)の化石を再分析したところ、約360万年前に複数のヒト族種が二足歩行していたことが示唆された。これまでの研究で、1組の行跡化石が現生人類の初期の近縁種のものと特定されているが、今週のNature に掲載される論文では、別の1組の行跡化石が未知のヒト族種に帰属することが示唆されている。今回の知見は、二足歩行の起源についての新たな手掛かりとなる。
1970年代にラエトリ遺跡で発見された5つの連続した行跡化石は、ヒト族の二足歩行を示す最古の決定的な証拠だ。これらの行跡化石は、有名な「ルーシー」の骨格化石の場合と同じく、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)のものだとする学説が提起された。同時期に別の行跡化石も発見されていたが、その後埋められてしまい、議論を呼んだ。クマが後肢で歩いた行跡だったという考え方があり、別のヒト族種の行跡とする考え方もあった。
2019年になって、Ellison McNuttたちは、このような一風変わった形状の行跡を再び発掘した。McNuttたちは、これをクマ、チンパンジー、ヒトの行跡と比較し、クマよりもヒトの行跡に近いことを明らかにした。また、野生のアメリカグマの行動を映像で分析したところ、アメリカグマが後肢で歩くことはほとんどないことが分かった。McNuttたちは、ラエトリで数千点の動物の化石が発見されているが、いずれもクマのものではないことも明らかにした。McNuttたちは、これが、いまだに特定されていないヒト族種の行跡で、このヒト族の個体が、変わった歩き方(一方の足が体の正中線を横切って、もう一方の足の前方に着地するクロスステップという歩行)をしていたと結論付けた。
この時代のヒト族の多様性が過小評価されていることを示唆する証拠が増えており、今回の知見もその1つとなった。
古生物学:初期ヒト族の移動運動の多様性を示すタンザニア・ラエトリの足跡証拠
古生物学:ラエトリの足跡はやはりヒト族のものだった
1970年代、メアリー・リーキーたちは、タンザニアのラエトリと呼ばれる場所で、300万年以上前のヒト族が残した足跡を発見した。これらの足跡はヒト族、具体的にはアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis;「ルーシー」として知られる有名な化石骨格が属する種)による二足歩行を示す、最古の決定的証拠として有名になった。しかし、この顛末には、ある忘れ去られた側面があった。ラエトリには大小さまざまな動物によって残された多数の足跡が存在し、ヒト族のものとして有名になった行跡「G」は最初に発見された足跡ではなかったのだ。先に見つかった別の行跡「A」について、リーキーはそれがヒト族のものかもしれないと考えたが、後肢で立ったクマ類の足跡に少し似て見えたことから、確信が持てずにいた。サーカスのクマによる実験で、この行跡がクマ類のものである可能性が示唆されたものの、その後も疑いはずっと残されたままだった。これ以外に、クマ類のものに少しでも似た足跡は(後脚で歩いたものすら)見つかっておらず、クマ類のものである可能性のある化石も発見されていない。そこでE McNuttたちは、2019年にこの遺跡に戻り、行跡「A」の再発掘を行った。現代の画像化法(およびクマを用いた追加実験)から、これらの足跡はヒト族のものである可能性が高く、有名な行跡「G」を残したヒト族とは違う種類であることが明らかになった。鮮新世の東アフリカにはアウストラロピテクス・アファレンシス以外にも複数の異なるヒト族が住んでおり、それぞれ歩行様式が異なっていたことは、リーキーの時代から知られていた。行跡「A」はそのうちの1種が残したものなのかもしれない。
参考文献:
McNutt EJ. et al.(2021): Footprint evidence of early hominin locomotor diversity at Laetoli, Tanzania. Nature, 600, 7889, 468–471.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04187-7
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