天野忠幸『三好一族 戦国最初の「天下人」』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。三好氏の出自は、江戸時代の軍記物や系図によると、信濃の小笠原氏の末裔となります。小笠原氏が鎌倉時代に阿波守護となり、その末裔が吉野川の源流に位置する三好郡に土着し、三好と称した、というわけです。ただ、その真偽は不明です。三好氏の一次史料は15世紀後半頃より見られ、当時の三好氏は阿波(守護は細川氏)の守護代東条氏の下で小守護代(守護代の家人でその職務を助ける役職)や郡代(郡をまとめる役職)を務めていたようです。本書は、三好氏が小笠原氏の末裔ならば東国の地名を名字にしているだろうから、元々は阿波の国人で、阿波北西部の郡代にまで成長すると、相応しい由緒を求めて、一宮氏など多くの阿波国人のように小笠原氏の末裔と称したのではないか、と推測します。また本書は、三好氏関連の最初期の一次史料に見えるのは元々の本家筋である式部少輔家で、当時は庶流の三好家から三好長慶が出た、と推測しています。
三好長慶の父方祖父となる三好之長は、細川氏阿波守護家での内紛において、当主の細川政之に取り立てられた、と推測されています。之長は京都で政之の信任を得て横暴な振る舞いもあったようで、1485年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には徳政一揆を主導したこともありました。こうした之長の増長とそれを支持する政之に対して、阿波の国人が反乱を起こし、之長も阿波に帰国してこれを討伐します。室町幕府では将軍の義稙と細川氏京兆家の政元との対立が深まり、義稙が阿波守護家を頼りとする緊迫した政治情勢のなか、之長は京都に戻ってきます。1493年4月の明応の政変で義稙は将軍の座から追われますが、幕府、さらには細川氏の内紛は続き、政元は阿波守護家の成之と和睦し、之長は1506年に上洛して政元の後継者となった澄元を支えますが、澄元と対立する澄之派は1507年4月に政元を暗殺し、澄元と之長は近江へと落ち延びます。澄之は将軍義澄より京兆家の家督に認められますが、反発する澄元は之長たちを率いて澄之を攻め滅ぼします。ただ、その直後から之長軍が京都で狼藉を繰り返し、細川氏やその被官との間の関係が不穏になっていきます。
政元により将軍の座を追われた義稙は、細川氏の内紛を利用して、細川高国の支持を得て上洛することに成功し、1508年4月には、澄元と之長だけではなく将軍義澄まで近江に落ち延びます。1509年6月、之長は息子の長秀とともに澄元に従って高国と戦おうとしますが、兵数で大きく劣るため逃亡し、長秀は伊勢に落ち延びて募兵を図りますが、北畠氏や国人に攻められて自害します。澄元は実家の阿波守護家に頼らず上洛しようとしますが失敗し、阿波守護家の立て直しを図り、この間に澄元の意向に反することもあった之長は再度澄元に従います。将軍義稙と細川高国が対立し、澄元は義稙と連携して上洛を企図します。1520年、之長は上洛し、高国は逃亡して澄元が京兆家の家督を将軍義稙に認められます。しかし、澄元が病床にあるあいだに高国が反撃してきて、1520年5月、応仁の乱以来と言われる大合戦となり、敗れた之長は降伏したものの処刑されます。之長は京都の公家社会では悪人として忌避されましたが、徳政一揆を主導したり、逆に徳政免除などで軍勢催促を行なったりと、京都や近郊の都市民と百姓の機微に通じ、軍事的才覚に長けており、その後の三好氏発展の基礎を築きました。
義稙は阿波守護家の澄元の子の晴元を頼った後、1523年4月に死去し、阿波で養育されていた義澄の長男である義維が義稙の養嗣子として将軍を目指します。一方京都では、高国が義澄の次男である義晴を将軍に就任させます。之長の跡を継承したのは、孫の元長でした。元長は晴元たちとともに阿波で逼塞していましたが、高国の後継者となった稙国の病死を契機とする内紛に乗じて1527年に阿波から堺へと渡り、義晴と高国を打倒できなかったものの、義維は堺で将軍候補者の官職とされてきた従五位下左馬頭に任じられ、「堺大樹」・「堺公方」と呼ばれるようになります。ただ、義晴が全国で広く将軍として認められていたのに対して、義維を支持するのは義就流畠山氏と大内氏くらいでした。晴元は将軍義晴を認め、高国を完全に排除するつもりだったようですが、元長は義維を将軍に就任させ、高国と和睦したうえで平和裏に晴元へと京兆家の家督を譲らせる方針だったようで、元長と晴元との間の対立が深まります。
元長は晴元との対立の結果、1529年には失脚して阿波へと落ち延びます。ただ、三好一族の中には、晴元の側近となる者もいました。しかし1530年、高国が反撃してきて将軍義晴や六角定頼も呼応すると、慌てた晴元は元長に畿内への渡海を要請し、まず元長の嫡子である長慶が、続いて元長が堺へと渡海します。元長は高国を破り、1531年6月、高国は自害に追い込まれます。しかし、高国という大きな敵が消えたことで、将軍義晴との和睦を求める晴元と、「堺公方」である義維を擁立しようとする元長との対立は激化します。さらに、河内の所領をめぐって元長は木沢長政と対立するようになり、長政に援軍を依頼された晴元は本願寺証如に一向一揆を依頼し、1532年6月、摂津と河内の門徒を中心として10万以上とも言われる大軍が堺を攻め、長慶は阿波に退去しましたが、元長は一族や被官多数とともに切腹に追い込まれました。元長は、細川澄元の意を受けて執行するだけだった祖父の之長とは異なり、自らの意思のみで公家や寺社にさまざまな権益を安堵し始めるとともに、阿波北部の国人を編成し、郡代として公的に支配させる一方で、年寄中といった私的な家政機関を整備するなど、細川氏に頼らない権力基盤を整備していき、独自の権力基盤を築きました。また元長は、四国衆は戦に強いとの評価や、晴元に忠節を尽くしたのに蔑ろにされた、との同情を残し、後の長慶の復権に役立ちました。また長慶にとって、晴元は主君ではなく父の仇と明確に位置づけられました。
元長を攻め滅ぼした一向一揆は本願寺証如にも制御できなくなり、細川晴元や木沢長政や京都の法華一揆や六角定頼たちに攻められ、1532年8月24日には京都の山科本願寺が焼き払われます。同年10月には足利義維が淡路に出奔し、翌11月には晴元と将軍義晴との間で和睦が成立します。しかし、晴元は法華一揆とともに証如が新たな拠点とした大坂を攻めるものの淡路へと追い落とされ、細川高国の弟の晴国と結んだ証如により追い詰められると、義絶した弟の氏之や、自害に追い込んだ元長の嫡子である長慶に助けを求めます。長慶は氏之とともに淡路に出兵し、晴元を摂津の池田城に復帰させます。父をはじめとして一族と被官の多くを失った長慶は、晴元と氏之に仕えて地位を保つものの、勝手に和睦して兵力温存を図るなど、この段階でも一定の自主性が見られます。
1536年、京都の法華一揆が鎮圧され、細川晴国が本願寺に見放されて自害したことで、畿内は将軍義晴によりおおむね平定されます。長慶は晴元の有力部将として復権しますが、1539年には所領問題で晴元と対立し、孤立して所領を得ることはできなかったものの、越水城主の地位を公認され、摂津下郡の守護代に就任します。1540年、長慶は波多野秀忠の娘と結婚し、翌年には嫡子の義興が生まれます。長慶は長弟の実休に阿波を任せ、自身は京兆家の晴元に仕えました。越水城主となった長慶は摂津で新たな人材を家格に拘らず積極的に登用していき、その中に松永久秀もいました。こうした新参家臣の権力基盤は長慶の信頼のみで、長慶は自らに忠実な家臣団を形成しようとしますが、そうした新参家臣に三好を名乗らせたり、譜代被官の名跡を継がせたりしなかったところに、三好家の独自性があります。
一向一揆後の畿内で最も勢力を伸ばした木沢長政は、細川氏の内紛の中で1542年3月に討ち死にし、三好宗三が晴元の唯一の有力側近となります。宗三は長慶のように地域権力化せず、晴元に個人的に重用されることで権力を拡大していきますが、元長の最期に見られるように、主家との対立は謀叛の汚名を着ることになるため危険で、宗三のような処世も現実的な対応の一つだった、と本書は評価します。長慶は晴元を主君として立て続けますが、晴元が細川氏綱・遊佐長教と和睦後の処理を誤ると、謀叛の汚名を逃れるために三好宗三を君側の奸として喧伝し、挙兵しました。三好氏はずっと澄元流細川氏を擁立し続けてきましたが、長慶はこの機に遊佐長教と和睦して高国流の氏綱を擁立し、1549年6月には、三好宗三など晴元の側近を討ち取ります(江口の戦い)。娘婿の晴元を支援してきた六角定頼は、将軍義輝や晴元たちとともに近江へと退去し、晴元たちはこの後も長慶たちと粘り強く戦い続けます。将軍義輝との戦いの中で、長慶は遊佐長教を暗殺されるなど痛手も受けましたが、1552年1月に六角定頼が死んで家督を継いだ義賢の調停により、長慶と義輝は和睦します。これにより、長慶は足利義維を見限って義輝を将軍として選んだことになります。この和睦で氏綱は京兆家の家督として正式に認められ、晴元の長男である昭元が長慶に育成され、氏綱の後継者とされました。また長慶は細川氏の被官ではなく、将軍直臣として氏綱と昭元を後見する立場となりました。しかし、三好一族は長年澄元流を擁立し続けてきただけに、この長慶の決断に反発する一族もいました。
長慶と義輝の和睦は長く続かず、1553年8月に義輝は近江の朽木へ落ち延び、義輝に従う者の領地を没収する、と長慶が強硬な姿勢を示したため、義輝に付き従う者は少なく、幕府は機能不全に陥ります。長慶は摂津の芥川城に入り、足利将軍家の誰も擁立せず、自力だけで京都の支配にマリ出します。室町幕府に依拠しない中央政権の支配者として、本書は長慶を初の「天下人」と評価します。長慶は畿内において突出した軍事力を有しており、将軍や天皇が解決できなかった相論を決着させるなど、将軍に代わる存在感を示し、朝廷にも影響力を浸透させていきます。しかし、将軍の権威低下に危機感を深めた諸大名たちの間で、将軍中心の政治秩序への回帰志向が高まったこともあり、1558年11月に長慶は義輝と和睦し、義輝は帰京します。しかし、両者の対立構造が解消されたわけではありませんでした。
長慶は1560年に嫡子の義興へ家督を譲り、1561年には若狭を平定しますが、これは、守護と関連して支配の由緒を持っているわけではない国々の永続的支配を図ったもので、長慶が支配の正統性として守護職を獲得したわけでもありません。長慶は細川晴元がいた芥川城に嫡子の義興を置き、自身は飯盛城を拠点とします。家督を譲った嫡男に本国を任せ、大御所自らが新占領地に赴くのは、後に織田信長や北条氏政でも見られます。1561年には義興と松永久秀が長慶と同じ従四位下に昇進し、長慶は一色義龍(斎藤高政)や上杉謙信(長尾景虎)とは異なり、高い家格の名跡を継承するのではなく、三好氏の家格を足利将軍家並みに引き上げることに成功しました。三好氏に主導権を掌握されたことに不満な将軍義輝は諸大名との連携を志向し、長慶と義輝との関係は悪化していきます。こうした中で、1563年8月25日に義興が病死し、1564年1月、長慶の弟である十河一存の息子である義継が後継者と公表されます。長慶は1564年7月4日、病死します。最盛期の三好氏の領国は、大阪湾を挟んで近畿側の摂津・山城・河内・和泉・大和・丹波・淡路・播磨東部と、四国側の阿波・讃岐・伊予東部に及びました。このうち近畿の支配を担当したのが三好本宗家で、長慶から嫡男の義興、さらには甥の義継に継承されました。近畿では三好長逸と松永久秀が宿老として政務全般を管掌しました。
長慶が没してから1年もたたない1565年5月1日、義継は三好長逸や松永久秀の息子の久通とともに1万の兵を率いて上洛し、同月19日、将軍御所を包囲して、将軍義輝とその弟や母を討ち取りました(永禄の変)。本書は、義継が当初より義継の殺害と足利将軍家に取って代わることを目的にしていた、と推測します。ただ、諸大名の家格意識をよく知る松永久秀は、義輝の弟の義昭を保護しており、将軍殺害により全てを解決できる、との義継の発想を安易だと考えていたのではないか、と本書は推測します。しかし、その久秀は義昭を取り逃がし、三好氏包囲網に大義名分を与え、三好氏は窮地に追い込まれます。それでも三好氏は、足利義維を擁立するのではなく、義継を足利将軍家の継承者として認めるよう、朝廷工作を進めるなど、その行動は「過激化」していきます。
三好氏ではこの間に内部抗争が激化し、石成友通が松永久秀を追い落とすべく三好長逸および三好宗渭と結び、1565年11月、義継に松永久秀の追放を迫り、石成友通が三好家中における松永氏の地位を継承し、三好長逸と三好宗渭と石成友通のいわゆる三好三人衆が成立します。松永久秀は義昭と結び、三好三人衆と対抗します。阿波三好家宿老の篠原長房の上洛により、情勢は三好三人衆に有利となりますが、長房は足利将軍家の後継者であろうとする義継の構想に同意したわけではなく、足利義維の息子である義栄を擁立する三好三人衆の構想に賛同していました。義栄の将軍就任が目前に迫ったことに不満な義継は、1567年2月も突如として出奔し、松永久秀と提携します。しかし、義継と久秀の陣営は劣勢で、1568年2月、義栄が将軍に就任します。この危機に義昭は頼っていた朝倉義景を見限って織田信長を頼り、同年9月、織田軍が美濃から近江、さらに京都へと進軍し、義栄が同月30日に病死したこともあり、義昭が将軍に就任します。翌1569年3月、義昭は妹を義継に嫁がせており、義昭を将軍とする幕府は、信長だけではなく義継や久秀にも支えられた連合政権でした。
三好三人衆は、1569年1月に京都の義昭を襲撃して退けられ、同年5月に三好宗渭が没し、弟の為三が跡を継ぎます。1570年1月、信長は幕臣に宛の書状で、義昭の命令を承るのは信長のみと告げ、それまで同格だった義継や久秀に命令する立場となりました。幕府は、将軍義昭を織田氏や三好氏など諸大名が支える連合体制から、信長が単独で義昭を支える体制に変わりました。三好三人衆は本願寺と提携し、信長に攻め入られた朝倉と、信長と姻戚関係にあった浅井も反織田側に立ちます。信長は三好三人衆方が寄せ集めであることを見抜いて、三好為三たちを離反させ、三好三人衆を高下しますが、1570年9月、本願寺が突如織田軍を攻撃し、信長と義昭は窮地に陥ります。松永久秀の仲介もあり、信長は同年末には三好三人衆と和睦します。
1571年、前年の苦戦で信長が頼りにならないと考えていた将軍義昭は、味方を増やそうと筒井順慶を取り入れようとしますが、これに順慶の宿敵である久秀には不満で、久秀は息子の久通とともに三好三人衆と結んで義昭から離反します。これにより、長慶の頃のような三好本宗家の再興が目指され、三好氏は義昭および信長と抗争を続けます。苦境に立った義昭は信長と対立して武田信玄や三好義継や朝倉義景などを頼り、幕府再興を図ります。情勢は三好氏の優位のように見え、信長は慌てて義昭に和睦を要請しますが、義昭は拒否します。そこで信長は、1573年4月7日には義昭を攻めて降伏させますが、義継は、この間に三好長逸が死去したらしいことや、一族の内部分裂もあり、義昭には加担しませんでした。武田信玄が同年4月に病死し、義昭は同年7月に再度挙兵したもののすぐに敗れ、朝倉氏と浅井氏も信長に攻め滅ぼされて義継は窮地に陥り、同年11月、織田軍に攻められた義継は若江城で切腹し、三好本宗家は滅亡しました。その直後、松永久秀は信長に降伏しますが、信長からの処遇に不満を抱いて1577年に決起し、攻め滅ぼされます。阿波三好家も、三好長治が1576年末に自害に追い込まれ、滅亡します。もはや三好氏は、長慶はもちろん義継の頃のような勢力を回復できず、織田や毛利や長宗我部といった周辺有力勢力との狭間で揺れ動く勢力となり、本能寺の変から羽柴秀吉の政権を経て江戸幕府が成立する激動のなか、旗本や諸藩に仕えて、明治維新を迎えます。
本書は三好一族氏について、日本の武家でいち早く足利将軍家の軛を断ち切り、戦国末期まで根強く残っていた家格秩序を変容させていった、とその先駆者としての性格を指摘します。16世紀中期においても、室町幕府は多くの大名に支えられており、足利将軍家は全国の人々の意識や家格秩序において絶対的存在でしたが、三好一族が対峙していくなかで、代替可能な存在だと考えられるようになり、倒幕も選択肢のひとつになり始めたのではないか、というわけです。その延長線上に、三好長慶や三好義継や織田信長のような足利将軍家の代行者ではなく、新たな形で正統性を確保して武家の統合秩序を示したのが羽柴秀吉でした。本書は、秀吉が関白に就任した1585年を、室町幕府が完全に滅亡した年と位置づけています。
三好長慶の父方祖父となる三好之長は、細川氏阿波守護家での内紛において、当主の細川政之に取り立てられた、と推測されています。之長は京都で政之の信任を得て横暴な振る舞いもあったようで、1485年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には徳政一揆を主導したこともありました。こうした之長の増長とそれを支持する政之に対して、阿波の国人が反乱を起こし、之長も阿波に帰国してこれを討伐します。室町幕府では将軍の義稙と細川氏京兆家の政元との対立が深まり、義稙が阿波守護家を頼りとする緊迫した政治情勢のなか、之長は京都に戻ってきます。1493年4月の明応の政変で義稙は将軍の座から追われますが、幕府、さらには細川氏の内紛は続き、政元は阿波守護家の成之と和睦し、之長は1506年に上洛して政元の後継者となった澄元を支えますが、澄元と対立する澄之派は1507年4月に政元を暗殺し、澄元と之長は近江へと落ち延びます。澄之は将軍義澄より京兆家の家督に認められますが、反発する澄元は之長たちを率いて澄之を攻め滅ぼします。ただ、その直後から之長軍が京都で狼藉を繰り返し、細川氏やその被官との間の関係が不穏になっていきます。
政元により将軍の座を追われた義稙は、細川氏の内紛を利用して、細川高国の支持を得て上洛することに成功し、1508年4月には、澄元と之長だけではなく将軍義澄まで近江に落ち延びます。1509年6月、之長は息子の長秀とともに澄元に従って高国と戦おうとしますが、兵数で大きく劣るため逃亡し、長秀は伊勢に落ち延びて募兵を図りますが、北畠氏や国人に攻められて自害します。澄元は実家の阿波守護家に頼らず上洛しようとしますが失敗し、阿波守護家の立て直しを図り、この間に澄元の意向に反することもあった之長は再度澄元に従います。将軍義稙と細川高国が対立し、澄元は義稙と連携して上洛を企図します。1520年、之長は上洛し、高国は逃亡して澄元が京兆家の家督を将軍義稙に認められます。しかし、澄元が病床にあるあいだに高国が反撃してきて、1520年5月、応仁の乱以来と言われる大合戦となり、敗れた之長は降伏したものの処刑されます。之長は京都の公家社会では悪人として忌避されましたが、徳政一揆を主導したり、逆に徳政免除などで軍勢催促を行なったりと、京都や近郊の都市民と百姓の機微に通じ、軍事的才覚に長けており、その後の三好氏発展の基礎を築きました。
義稙は阿波守護家の澄元の子の晴元を頼った後、1523年4月に死去し、阿波で養育されていた義澄の長男である義維が義稙の養嗣子として将軍を目指します。一方京都では、高国が義澄の次男である義晴を将軍に就任させます。之長の跡を継承したのは、孫の元長でした。元長は晴元たちとともに阿波で逼塞していましたが、高国の後継者となった稙国の病死を契機とする内紛に乗じて1527年に阿波から堺へと渡り、義晴と高国を打倒できなかったものの、義維は堺で将軍候補者の官職とされてきた従五位下左馬頭に任じられ、「堺大樹」・「堺公方」と呼ばれるようになります。ただ、義晴が全国で広く将軍として認められていたのに対して、義維を支持するのは義就流畠山氏と大内氏くらいでした。晴元は将軍義晴を認め、高国を完全に排除するつもりだったようですが、元長は義維を将軍に就任させ、高国と和睦したうえで平和裏に晴元へと京兆家の家督を譲らせる方針だったようで、元長と晴元との間の対立が深まります。
元長は晴元との対立の結果、1529年には失脚して阿波へと落ち延びます。ただ、三好一族の中には、晴元の側近となる者もいました。しかし1530年、高国が反撃してきて将軍義晴や六角定頼も呼応すると、慌てた晴元は元長に畿内への渡海を要請し、まず元長の嫡子である長慶が、続いて元長が堺へと渡海します。元長は高国を破り、1531年6月、高国は自害に追い込まれます。しかし、高国という大きな敵が消えたことで、将軍義晴との和睦を求める晴元と、「堺公方」である義維を擁立しようとする元長との対立は激化します。さらに、河内の所領をめぐって元長は木沢長政と対立するようになり、長政に援軍を依頼された晴元は本願寺証如に一向一揆を依頼し、1532年6月、摂津と河内の門徒を中心として10万以上とも言われる大軍が堺を攻め、長慶は阿波に退去しましたが、元長は一族や被官多数とともに切腹に追い込まれました。元長は、細川澄元の意を受けて執行するだけだった祖父の之長とは異なり、自らの意思のみで公家や寺社にさまざまな権益を安堵し始めるとともに、阿波北部の国人を編成し、郡代として公的に支配させる一方で、年寄中といった私的な家政機関を整備するなど、細川氏に頼らない権力基盤を整備していき、独自の権力基盤を築きました。また元長は、四国衆は戦に強いとの評価や、晴元に忠節を尽くしたのに蔑ろにされた、との同情を残し、後の長慶の復権に役立ちました。また長慶にとって、晴元は主君ではなく父の仇と明確に位置づけられました。
元長を攻め滅ぼした一向一揆は本願寺証如にも制御できなくなり、細川晴元や木沢長政や京都の法華一揆や六角定頼たちに攻められ、1532年8月24日には京都の山科本願寺が焼き払われます。同年10月には足利義維が淡路に出奔し、翌11月には晴元と将軍義晴との間で和睦が成立します。しかし、晴元は法華一揆とともに証如が新たな拠点とした大坂を攻めるものの淡路へと追い落とされ、細川高国の弟の晴国と結んだ証如により追い詰められると、義絶した弟の氏之や、自害に追い込んだ元長の嫡子である長慶に助けを求めます。長慶は氏之とともに淡路に出兵し、晴元を摂津の池田城に復帰させます。父をはじめとして一族と被官の多くを失った長慶は、晴元と氏之に仕えて地位を保つものの、勝手に和睦して兵力温存を図るなど、この段階でも一定の自主性が見られます。
1536年、京都の法華一揆が鎮圧され、細川晴国が本願寺に見放されて自害したことで、畿内は将軍義晴によりおおむね平定されます。長慶は晴元の有力部将として復権しますが、1539年には所領問題で晴元と対立し、孤立して所領を得ることはできなかったものの、越水城主の地位を公認され、摂津下郡の守護代に就任します。1540年、長慶は波多野秀忠の娘と結婚し、翌年には嫡子の義興が生まれます。長慶は長弟の実休に阿波を任せ、自身は京兆家の晴元に仕えました。越水城主となった長慶は摂津で新たな人材を家格に拘らず積極的に登用していき、その中に松永久秀もいました。こうした新参家臣の権力基盤は長慶の信頼のみで、長慶は自らに忠実な家臣団を形成しようとしますが、そうした新参家臣に三好を名乗らせたり、譜代被官の名跡を継がせたりしなかったところに、三好家の独自性があります。
一向一揆後の畿内で最も勢力を伸ばした木沢長政は、細川氏の内紛の中で1542年3月に討ち死にし、三好宗三が晴元の唯一の有力側近となります。宗三は長慶のように地域権力化せず、晴元に個人的に重用されることで権力を拡大していきますが、元長の最期に見られるように、主家との対立は謀叛の汚名を着ることになるため危険で、宗三のような処世も現実的な対応の一つだった、と本書は評価します。長慶は晴元を主君として立て続けますが、晴元が細川氏綱・遊佐長教と和睦後の処理を誤ると、謀叛の汚名を逃れるために三好宗三を君側の奸として喧伝し、挙兵しました。三好氏はずっと澄元流細川氏を擁立し続けてきましたが、長慶はこの機に遊佐長教と和睦して高国流の氏綱を擁立し、1549年6月には、三好宗三など晴元の側近を討ち取ります(江口の戦い)。娘婿の晴元を支援してきた六角定頼は、将軍義輝や晴元たちとともに近江へと退去し、晴元たちはこの後も長慶たちと粘り強く戦い続けます。将軍義輝との戦いの中で、長慶は遊佐長教を暗殺されるなど痛手も受けましたが、1552年1月に六角定頼が死んで家督を継いだ義賢の調停により、長慶と義輝は和睦します。これにより、長慶は足利義維を見限って義輝を将軍として選んだことになります。この和睦で氏綱は京兆家の家督として正式に認められ、晴元の長男である昭元が長慶に育成され、氏綱の後継者とされました。また長慶は細川氏の被官ではなく、将軍直臣として氏綱と昭元を後見する立場となりました。しかし、三好一族は長年澄元流を擁立し続けてきただけに、この長慶の決断に反発する一族もいました。
長慶と義輝の和睦は長く続かず、1553年8月に義輝は近江の朽木へ落ち延び、義輝に従う者の領地を没収する、と長慶が強硬な姿勢を示したため、義輝に付き従う者は少なく、幕府は機能不全に陥ります。長慶は摂津の芥川城に入り、足利将軍家の誰も擁立せず、自力だけで京都の支配にマリ出します。室町幕府に依拠しない中央政権の支配者として、本書は長慶を初の「天下人」と評価します。長慶は畿内において突出した軍事力を有しており、将軍や天皇が解決できなかった相論を決着させるなど、将軍に代わる存在感を示し、朝廷にも影響力を浸透させていきます。しかし、将軍の権威低下に危機感を深めた諸大名たちの間で、将軍中心の政治秩序への回帰志向が高まったこともあり、1558年11月に長慶は義輝と和睦し、義輝は帰京します。しかし、両者の対立構造が解消されたわけではありませんでした。
長慶は1560年に嫡子の義興へ家督を譲り、1561年には若狭を平定しますが、これは、守護と関連して支配の由緒を持っているわけではない国々の永続的支配を図ったもので、長慶が支配の正統性として守護職を獲得したわけでもありません。長慶は細川晴元がいた芥川城に嫡子の義興を置き、自身は飯盛城を拠点とします。家督を譲った嫡男に本国を任せ、大御所自らが新占領地に赴くのは、後に織田信長や北条氏政でも見られます。1561年には義興と松永久秀が長慶と同じ従四位下に昇進し、長慶は一色義龍(斎藤高政)や上杉謙信(長尾景虎)とは異なり、高い家格の名跡を継承するのではなく、三好氏の家格を足利将軍家並みに引き上げることに成功しました。三好氏に主導権を掌握されたことに不満な将軍義輝は諸大名との連携を志向し、長慶と義輝との関係は悪化していきます。こうした中で、1563年8月25日に義興が病死し、1564年1月、長慶の弟である十河一存の息子である義継が後継者と公表されます。長慶は1564年7月4日、病死します。最盛期の三好氏の領国は、大阪湾を挟んで近畿側の摂津・山城・河内・和泉・大和・丹波・淡路・播磨東部と、四国側の阿波・讃岐・伊予東部に及びました。このうち近畿の支配を担当したのが三好本宗家で、長慶から嫡男の義興、さらには甥の義継に継承されました。近畿では三好長逸と松永久秀が宿老として政務全般を管掌しました。
長慶が没してから1年もたたない1565年5月1日、義継は三好長逸や松永久秀の息子の久通とともに1万の兵を率いて上洛し、同月19日、将軍御所を包囲して、将軍義輝とその弟や母を討ち取りました(永禄の変)。本書は、義継が当初より義継の殺害と足利将軍家に取って代わることを目的にしていた、と推測します。ただ、諸大名の家格意識をよく知る松永久秀は、義輝の弟の義昭を保護しており、将軍殺害により全てを解決できる、との義継の発想を安易だと考えていたのではないか、と本書は推測します。しかし、その久秀は義昭を取り逃がし、三好氏包囲網に大義名分を与え、三好氏は窮地に追い込まれます。それでも三好氏は、足利義維を擁立するのではなく、義継を足利将軍家の継承者として認めるよう、朝廷工作を進めるなど、その行動は「過激化」していきます。
三好氏ではこの間に内部抗争が激化し、石成友通が松永久秀を追い落とすべく三好長逸および三好宗渭と結び、1565年11月、義継に松永久秀の追放を迫り、石成友通が三好家中における松永氏の地位を継承し、三好長逸と三好宗渭と石成友通のいわゆる三好三人衆が成立します。松永久秀は義昭と結び、三好三人衆と対抗します。阿波三好家宿老の篠原長房の上洛により、情勢は三好三人衆に有利となりますが、長房は足利将軍家の後継者であろうとする義継の構想に同意したわけではなく、足利義維の息子である義栄を擁立する三好三人衆の構想に賛同していました。義栄の将軍就任が目前に迫ったことに不満な義継は、1567年2月も突如として出奔し、松永久秀と提携します。しかし、義継と久秀の陣営は劣勢で、1568年2月、義栄が将軍に就任します。この危機に義昭は頼っていた朝倉義景を見限って織田信長を頼り、同年9月、織田軍が美濃から近江、さらに京都へと進軍し、義栄が同月30日に病死したこともあり、義昭が将軍に就任します。翌1569年3月、義昭は妹を義継に嫁がせており、義昭を将軍とする幕府は、信長だけではなく義継や久秀にも支えられた連合政権でした。
三好三人衆は、1569年1月に京都の義昭を襲撃して退けられ、同年5月に三好宗渭が没し、弟の為三が跡を継ぎます。1570年1月、信長は幕臣に宛の書状で、義昭の命令を承るのは信長のみと告げ、それまで同格だった義継や久秀に命令する立場となりました。幕府は、将軍義昭を織田氏や三好氏など諸大名が支える連合体制から、信長が単独で義昭を支える体制に変わりました。三好三人衆は本願寺と提携し、信長に攻め入られた朝倉と、信長と姻戚関係にあった浅井も反織田側に立ちます。信長は三好三人衆方が寄せ集めであることを見抜いて、三好為三たちを離反させ、三好三人衆を高下しますが、1570年9月、本願寺が突如織田軍を攻撃し、信長と義昭は窮地に陥ります。松永久秀の仲介もあり、信長は同年末には三好三人衆と和睦します。
1571年、前年の苦戦で信長が頼りにならないと考えていた将軍義昭は、味方を増やそうと筒井順慶を取り入れようとしますが、これに順慶の宿敵である久秀には不満で、久秀は息子の久通とともに三好三人衆と結んで義昭から離反します。これにより、長慶の頃のような三好本宗家の再興が目指され、三好氏は義昭および信長と抗争を続けます。苦境に立った義昭は信長と対立して武田信玄や三好義継や朝倉義景などを頼り、幕府再興を図ります。情勢は三好氏の優位のように見え、信長は慌てて義昭に和睦を要請しますが、義昭は拒否します。そこで信長は、1573年4月7日には義昭を攻めて降伏させますが、義継は、この間に三好長逸が死去したらしいことや、一族の内部分裂もあり、義昭には加担しませんでした。武田信玄が同年4月に病死し、義昭は同年7月に再度挙兵したもののすぐに敗れ、朝倉氏と浅井氏も信長に攻め滅ぼされて義継は窮地に陥り、同年11月、織田軍に攻められた義継は若江城で切腹し、三好本宗家は滅亡しました。その直後、松永久秀は信長に降伏しますが、信長からの処遇に不満を抱いて1577年に決起し、攻め滅ぼされます。阿波三好家も、三好長治が1576年末に自害に追い込まれ、滅亡します。もはや三好氏は、長慶はもちろん義継の頃のような勢力を回復できず、織田や毛利や長宗我部といった周辺有力勢力との狭間で揺れ動く勢力となり、本能寺の変から羽柴秀吉の政権を経て江戸幕府が成立する激動のなか、旗本や諸藩に仕えて、明治維新を迎えます。
本書は三好一族氏について、日本の武家でいち早く足利将軍家の軛を断ち切り、戦国末期まで根強く残っていた家格秩序を変容させていった、とその先駆者としての性格を指摘します。16世紀中期においても、室町幕府は多くの大名に支えられており、足利将軍家は全国の人々の意識や家格秩序において絶対的存在でしたが、三好一族が対峙していくなかで、代替可能な存在だと考えられるようになり、倒幕も選択肢のひとつになり始めたのではないか、というわけです。その延長線上に、三好長慶や三好義継や織田信長のような足利将軍家の代行者ではなく、新たな形で正統性を確保して武家の統合秩序を示したのが羽柴秀吉でした。本書は、秀吉が関白に就任した1585年を、室町幕府が完全に滅亡した年と位置づけています。
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