関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。1019年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に起きた刀伊の入寇(刀伊の来襲)はそれなりに有名な事件ではあるものの、現代日本社会において関心はあまり高くなく、詳しく知らない人が多いように思います。また高校までの日本史教育では、刀伊の入寇は孤立した突発的な事件として教えられてきたように思います。
もちろん私も、武士の形成と関わりで興味を抱いてきたものの、刀伊の入寇についてよく知らず、当ブログでも、週刊誌の記事を一度取り上げたことがあるくらいです(関連記事)。その記事では刀伊の入寇について、キタイ(遼、契丹)やジュシェン(女真)や高麗や宋といった広範囲を視野に入れた考察が提示されており、キタイ帝国がジュシェンと宋との交易路を遮断し、ジュシェンを攻撃して、キタイ帝国が宋と1004年に和平条約を締結し(澶淵の盟)、1018年に高麗に遠征するなか、高麗の混乱に乗じてジュシェンの一部が海賊化して朝鮮半島東岸を荒すようになった延長線上に刀伊の入寇があった、と指摘されていました。本書でも、こうしたアジア東部における大きな動向から刀伊の入寇が把握されています。
本書は、10世紀以降の王朝国家への移行を通じての政治権力の構造的変化という「内」の視点と、アジア東部情勢という「外」の視点から刀伊の入寇を検証します。ただ、この王朝国家への移行は、10世紀初めの唐の滅亡、およびその前後のアジア東部諸地域の国家交代(朝鮮半島における新羅の滅亡と高麗の建国など)という大きな枠組みで解されています。また本書は、孤立した突発的な事件として教えられてきたように思われる刀伊の入寇について、9世紀の新羅問題や13世紀のモンゴル襲来など、前後の視点からも検証します。もちろん本書は、刀伊の入寇の詳細な経過とその意義も検証しており、刀伊の入寇についての入門書として長く読まれ続けるのではないか、と思います。
本書の「外」の視点で注目されるのは、日本列島における国家形成に、古代は「中国」、近世は「南蛮」、近代は「欧米」という普遍的価値を有する文化が寄与したのに対して、古代からの移行期も含めて広く範囲をとった中世は、外的要素の受容に消極的だった、との見通しです。もちろん、外的要素の受容意志の強弱はあくまで相対的で、中世にさまざまな物資や文献が外部から日本列島に到来しました。本書の「内」の視点で注目されるのは、来襲者の撃退に当たった武力の質で、9世紀の新羅海賊問題では律令軍団制下の徴兵制を前提とした武力だったのに対して、11世紀前半の刀伊の入寇と13世紀後半のモンゴル襲来では、「選ばれた武力」が主体になった、と指摘されています。
刀伊の入寇の主体となったのは、当時キタイ(遼、契丹)の支配下にあったジュシェン(女真)勢力のうち、朝鮮半島東北部沿岸の東女真と推測されています。キタイに圧迫されたジュシェンのうち、東女真はまず高麗の南東沿岸を襲撃し、対馬と壱岐へ侵攻し、九州北部へ来襲しました。「刀伊」は朝鮮語に由来し、「東夷」の音を「刀伊」に当てた、と推測されています。刀伊の入寇の時点で中央政権(朝廷)の主導者は藤原道長で、道長に政争で敗れた甥の藤原隆家が大宰権帥として赴任しており、刀伊迎撃を指揮しました。隆家は武勇の人として知られ、多くの武勇伝があります。
侵攻してきた刀伊の撃退に動員された主要な武力は、天慶の乱以降に形成されつつあった武士で、こうした「兵」・「武者」には、都で有力貴族に仕えた者が多くおり、都鄙を往還する存在でした。一方で、地方名士(地域領主)と呼ばれる人々も、刀伊の撃退に功績がありました。天慶の乱や刀伊の入寇、さらには平忠常の乱などの争乱の平定を経て功臣意識が醸成され、「兵ノ家」の正当性が保証されていくことで、武士が形成されていきます。また本書は、刀伊の撃退の勲功認定で、以前の新羅海賊の撃退時とは異なり、個人の首級数が重視されるところに、中世の本格的武家社会の戦闘様式に通底する性格が見られることにも注目します。
こうした現地での奮闘に対し、朝廷は危機感が薄くて対応は遅く、刀伊の撃退後には関心が薄れ、恩賞の是非さえ議論されました。本書は、恩賞授与を主張する藤原実資たちには原理・原則を超えた運用主義とも言うべき現実的思考があり、困難な事態を現場に委任する柔軟な方向につながるという意味で、王朝国家が是認する請負と通底する、と評価しています。一方、恩賞授与に反対した藤原公任や藤原行成たちは、秩序維持を是とする理念的立場にあった、と指摘されています。また本書は、刀伊の撃退の恩賞が官位であり所領ではなかったことに注目し、所領のような永続性に欠けていたことを指摘します。
もちろん私も、武士の形成と関わりで興味を抱いてきたものの、刀伊の入寇についてよく知らず、当ブログでも、週刊誌の記事を一度取り上げたことがあるくらいです(関連記事)。その記事では刀伊の入寇について、キタイ(遼、契丹)やジュシェン(女真)や高麗や宋といった広範囲を視野に入れた考察が提示されており、キタイ帝国がジュシェンと宋との交易路を遮断し、ジュシェンを攻撃して、キタイ帝国が宋と1004年に和平条約を締結し(澶淵の盟)、1018年に高麗に遠征するなか、高麗の混乱に乗じてジュシェンの一部が海賊化して朝鮮半島東岸を荒すようになった延長線上に刀伊の入寇があった、と指摘されていました。本書でも、こうしたアジア東部における大きな動向から刀伊の入寇が把握されています。
本書は、10世紀以降の王朝国家への移行を通じての政治権力の構造的変化という「内」の視点と、アジア東部情勢という「外」の視点から刀伊の入寇を検証します。ただ、この王朝国家への移行は、10世紀初めの唐の滅亡、およびその前後のアジア東部諸地域の国家交代(朝鮮半島における新羅の滅亡と高麗の建国など)という大きな枠組みで解されています。また本書は、孤立した突発的な事件として教えられてきたように思われる刀伊の入寇について、9世紀の新羅問題や13世紀のモンゴル襲来など、前後の視点からも検証します。もちろん本書は、刀伊の入寇の詳細な経過とその意義も検証しており、刀伊の入寇についての入門書として長く読まれ続けるのではないか、と思います。
本書の「外」の視点で注目されるのは、日本列島における国家形成に、古代は「中国」、近世は「南蛮」、近代は「欧米」という普遍的価値を有する文化が寄与したのに対して、古代からの移行期も含めて広く範囲をとった中世は、外的要素の受容に消極的だった、との見通しです。もちろん、外的要素の受容意志の強弱はあくまで相対的で、中世にさまざまな物資や文献が外部から日本列島に到来しました。本書の「内」の視点で注目されるのは、来襲者の撃退に当たった武力の質で、9世紀の新羅海賊問題では律令軍団制下の徴兵制を前提とした武力だったのに対して、11世紀前半の刀伊の入寇と13世紀後半のモンゴル襲来では、「選ばれた武力」が主体になった、と指摘されています。
刀伊の入寇の主体となったのは、当時キタイ(遼、契丹)の支配下にあったジュシェン(女真)勢力のうち、朝鮮半島東北部沿岸の東女真と推測されています。キタイに圧迫されたジュシェンのうち、東女真はまず高麗の南東沿岸を襲撃し、対馬と壱岐へ侵攻し、九州北部へ来襲しました。「刀伊」は朝鮮語に由来し、「東夷」の音を「刀伊」に当てた、と推測されています。刀伊の入寇の時点で中央政権(朝廷)の主導者は藤原道長で、道長に政争で敗れた甥の藤原隆家が大宰権帥として赴任しており、刀伊迎撃を指揮しました。隆家は武勇の人として知られ、多くの武勇伝があります。
侵攻してきた刀伊の撃退に動員された主要な武力は、天慶の乱以降に形成されつつあった武士で、こうした「兵」・「武者」には、都で有力貴族に仕えた者が多くおり、都鄙を往還する存在でした。一方で、地方名士(地域領主)と呼ばれる人々も、刀伊の撃退に功績がありました。天慶の乱や刀伊の入寇、さらには平忠常の乱などの争乱の平定を経て功臣意識が醸成され、「兵ノ家」の正当性が保証されていくことで、武士が形成されていきます。また本書は、刀伊の撃退の勲功認定で、以前の新羅海賊の撃退時とは異なり、個人の首級数が重視されるところに、中世の本格的武家社会の戦闘様式に通底する性格が見られることにも注目します。
こうした現地での奮闘に対し、朝廷は危機感が薄くて対応は遅く、刀伊の撃退後には関心が薄れ、恩賞の是非さえ議論されました。本書は、恩賞授与を主張する藤原実資たちには原理・原則を超えた運用主義とも言うべき現実的思考があり、困難な事態を現場に委任する柔軟な方向につながるという意味で、王朝国家が是認する請負と通底する、と評価しています。一方、恩賞授与に反対した藤原公任や藤原行成たちは、秩序維持を是とする理念的立場にあった、と指摘されています。また本書は、刀伊の撃退の恩賞が官位であり所領ではなかったことに注目し、所領のような永続性に欠けていたことを指摘します。
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