学際的研究に基づくチベット高原の人口史
チベット高原の人口史に関する研究(Zhang et al., 2022)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、農耕開始前までのチベット高原の人口史に関する先行研究を整理しており、たいへん有益だと思います。チベット人は高地環境に住む最大の在来人口集団で、青海・チベット高原の過酷な環境に対処する一連の特徴を発展されてきました。平均標高が海抜4000m(masl)のチベット高原は、寒冷で乾燥した環境と顕著な季節変動を伴う自然の障壁に囲まれています。
後期更新世(126000~11700年前頃)には、最終氷期のひじょうに頻繁な千年規模の変動が、高地生態系へのヒトの拡大にとって追加の障害となりました。さらに、高度が上昇すると、酸素濃度が急速に低下し、低酸素症として知られる生理的ストレスにつながります。海抜2500mで通常は経験する低酸素症により、深刻で時として生命を脅かすような症状が起きます。それは、妊娠中の子宮内発育不全や出生時低体重などで、行動調整だけでは緩和できず、生理学的適応を必要とします。
それでも、チベット人は何世代にもわたってチベット高原にうまく定住してきましたが、いつどのように誰によりチベット高原が恒久的に居住されるようになったのかは、依然として議論となっています。これらの問題に対処した既存のモデルは、考古学的証拠にほぼ基づいています(関連記事)。チベット高原についての考古学的研究は1960年代に始まりましたが、よく記録された発掘調査と年代測定された遺跡はこれまで限定的です。利用可能なデータから、チベット高原ではヒト居住の主要な4期間があった、と示唆されます。考古学的研究は、生計慣行や行動やヒトの分布について情報をもたらしますが、低酸素症への生物学的適応には直接的な洞察を提供しません。
対照的に、ゲノム研究はチベット人における適応的遺伝子のいくつかの候補を特定し、チベット人と低地中国人との間の人口集団の分岐を推定し、チベット人の遺伝的適応を促進した、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝子移入を検出しました(関連記事)。したがって、考古学と遺伝学的研究は、チベット高原への移住過程の状況を再構築するにあたって補完的です。しかし、考古学と遺伝学を同等に重視した研究はまだありません。尼阿底(Nwya Devu)遺跡(関連記事)や白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)遺跡(関連記事)など最近の発見を踏まえて、本論文は関連する考古学とゲノムと化石と古環境の証拠を一つの枠組みで評価し、チベット高原の人口史に関する二つの節約的モデルと予測を提案します。
●海洋酸素同位体ステージ6~4(第1期)
中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)の下顎骨から、古代型人類が海洋酸素同位体ステージ(MIS)6となる16万年前頃にチベット高原の端に到達した、と示唆されます(関連記事)。この化石標本(夏河下顎)は、ネアンデルタール人とは異なる古代型ホモ属の下顎と歯の特徴を有しており、古プロテオーム(タンパク質の総体)解析では、デニソワ人(関連記事)との密接な類似性が示唆されています。さらに、デニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が、白石崖溶洞の10万年前頃と6万年前頃の堆積物、および恐らくは再堆積した45000年前頃の堆積物から抽出されました(関連記事)。
海抜2763mに位置する甘粛省永登(Yongdeng)県の将軍府01(JiangjunfuJiangjunfu 01、JJF01)開地遺跡の年代は12万~9万年前頃で、露出した地質区画から収集された少数の石器により特定されました(関連記事)。最近、アシューリアン(Acheulean)的な握斧(ハンドアックス)が13万年以上前と報告されていますが、まだ報道発表でしか知られていません。もっと驚くのは、チベット高原中央のチュサン(Chusang)遺跡(関連記事)で、226000~169000年前頃とされる初期の岩絵が発見された、との主張です。それは、足跡と手形の年代測定、および芸術の証拠としてのその解釈についての関心を惹起します。
現生人類(Homo sapiens)が低酸素環境に適応した最初で唯一の人類(ヒト亜科)だった、との見解に異議を唱える発見が増加しています。全体として、証拠はチベット高原での人類の活動のより長い歴史を示しています。しかし、夏河下顎標本には考古学的文脈が欠けており、堆積物から回収されたmtDNAは、高地適応と関連するゲノム多様体を特定できません。したがって、チベット高原での古代型人類の形態と生物学と行動を理解するには、古代の核DNAと化石と本格的な発掘調査のさらなる証拠が必要です。
●MIS3の巨大湖時代(第2期)
チベット高原のMIS3(4万~3万年前頃)は「巨大湖時代」と呼ばれることもあり、夏季の季節風強化による、気温と降水量と湖の水位の上昇が特徴です。尼阿底開地遺跡の体系的発掘から、狩猟採集民が4万~3万年前頃となるこの温暖事象期に、海抜4600mの高地に以前知られていたよりもずっと早く到達していた、と示唆されます(関連記事)。尼阿底遺跡では、高地で発見された最初の石刃製作も報告されており、石刃技術は中国では稀であるものの、ユーラシア草原地帯の初期上部旧石器時代では典型的な技術です。色林錯(Siling Co)や小ツァイダム(Xiao Qaidam)や冷湖地域(Lenghu Locality)など他の遺跡は、たとえば近隣の地質区画の標本などから、間接的に3万年前頃と測定されています。しかし、色林錯の事例については、最近になってずっと新しいと主張されていることに要注意です。発掘された遺跡が1ヶ所しかないため、巨大湖時代の狩猟採集民の定住パターンと行動適応は不明なままです。
●最終退氷(第3期)
25000年前頃から始まる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)は、現在よりも気温が4~7度低い、顕著な寒冷化が特徴です。LGMだと確実に年代測定された遺跡はなく、ヒトの居住に適した最終退氷のより穏やかな気候の前の、そうした居住しにくい環境のチベット高原における把握しづらいヒトの存在を示唆します。以前の研究では、この期間の遺跡群が「後期上部旧石器時代の短期の兵站野営地」と呼ばれており、おもに調査と試掘坑から研究されました。青海省の「151」遺跡における最近の動物考古学的研究は、高い移動性と短い居住の事例を提供しました。石器は、LGM後に低地中国北部で広がった細石刃として記載されました。LGMには、チベット高原北東端に遺跡が集まっているものの(図1)、このパターンが行動か保存か可視的な偏りを表しているのかどうか、不明なことに要注意です。以下は本論文の図1です。
●完新世の気候最適(第4期)
ヤンガードライアス(YD)における急速な寒冷化は、ヒトの活動における顕著な減少と対応しているようです。次に、第4期は完新世の気候最適の開始と一致します。8000~6000年前頃の遺跡はおもに、細石刃など以前の伝統からの技術的継続性を示しますが、6000年前頃後には、磨製石器や彩文土器や農耕など新石器時代の文化的革新がじょじょに出現し、時には細石刃技術と共存しました。さまざまな人工物形態の分布は、さまざまな低地集団との接触と交換を示します。さらに、この期間の3600年前頃に農耕集団により通年の居住が確立された、と一部の研究者は主張し、30000~8000年前頃に狩猟採集民により通年居住が行なわれていた、との主張(関連記事)に反対しました。
要約すると、ヒトの居住の4期間が観察され、それは考古学的および化石記録における明らかな間隙により分離されています。デニソワ人は後期MIS3のずっと前に、チベット高原に最初に到来したでしょう。文化的人工物により示唆される現生人類の証拠は、早くも4万年前頃となり、その居住はほぼ、寒冷/乾燥気候下の間隙を伴う温暖事象および技術的変化と相関しているようです。しかし、これらヒトの居住間の間隙は、低解像度のデータセットか、行動的パターンか、両者の組み合わせを反映している可能性があります。考古学的居住と環境記録との間のつながりは、まだ完全には確立していません。
●デニソワ人からの遺伝子移入
低地からの地理的孤立と低酸素症の選択圧は、チベットの人口集団の適合性の形成にとって本質的な要因です。したがって、遺伝学的研究は、高地適応に有利な遺伝子を特定し、チベット人の人口史を推測することに焦点を当ててきました。チベット人の高地適応における別の重要な構成要素は、デニソワ人からの適応的遺伝子移入の役割ですが(関連記事)、その遺伝子移入の時期と地理的範囲は議論の余地があります。
低酸素環境への長期の暴露は、チベット人の生理機能における一連の変化をもたらしました。結果として、酸素供給と循環器系機能に関する複数の遺伝子が、高地適応に寄与した候補として特定されてきました(関連記事)。全ての遺伝子のうち、内皮PAS1(EPAS1)遺伝子は、低酸素環境におけるヘモグロビン値の低下と関連する強い正の兆候であることから、最も研究されてきており、この遺伝子はチベット人集団に有利に作用して独特だと考えられています。
EPAS1遺伝子は、デニソワ人的な人類からの適応的遺伝子移入の兆候を示し(関連記事)、それはシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された化石から配列されたデニソワ人のゲノム(関連記事)とひじょうに高い類似性を示す、EPAS1遺伝子の適応的ハプロタイプにより特徴づけられます。このハプロタイプは、近隣人口集団では存在しないか極端に低頻度で、アルタイ山脈のデニソワ人からの適応的遺伝子移入が示唆されます。
さらに、最近の研究では、アジアとオセアニアにおける少なくとも4回のデニソワ人的な混合の波が識別されています。そのうち一つはアジア人とオセアニア人に共有され(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはパプア人に(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはアジア東部人に(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはフィリピンのマリヴェレニョ語アエタ人(Ayta Magbukon)に特有です(関連記事)。これらの遺伝子移入の遺伝的推定は、早ければ55000年前頃から遅ければ12000年前頃まで広範囲です(表1)。この年代の不一致は、推定手法か、分析データの種類と標本か、2018年以前の研究におけるデニソワ人からの遺伝子移入の単一の波の推定での違いを反映しているかもしれません。
その結果、いつ、どこで、どのデニソワ人集団から有利なEPAS1遺伝子のハプロタイプがチベット人に伝わったのか、という問題が提起されます。最近の研究では、アジア東部人特有の遺伝子移入が48000年前頃に起き、有利なEPAS1遺伝子のハプロタイプがもたらされた、と特定されました(関連記事)。他の二つの研究でも、アジア東部人を含む46000年前頃の遺伝子移入が明らかになりました(関連記事1および関連記事2)。一般的に、48000~46000年前頃のアジア東部現代人の祖先とデニソワ人との間の遭遇は、チベットの現代人集団の高地適応に役立ったかもしれません。
●正の選択の開始およびチベット人と漢人との集団分岐
隣接する低地人口集団と比較してのチベット人における独占的に高頻度の遺伝子は、高地適応の正の選択の標的と考えられます。したがって、これらの遺伝子の選択の時期は、適応と恒久的な定住の開始の代理としてよく用いられます。EPAS1遺伝子の選択の推定年代は、18300~2800年前頃と比較的広範囲を示します(表1)。この長い間隔にも関わらず、大半の研究は、選択がデニソワ人からの遺伝子移入よりもずっと後のLGM後に起きた、と示唆します。チベット高原からの古代の(核)DNAを有するヒト遺骸の発見により、高地適応の時系列の追加の状況とより高い解像度を提供できます。しかし、古代の核DNAはチベット高原では稀で、これまでにヒマラヤ山脈のネパール側の限定的な標本を報告した研究一つだけとなり、その標本の年代は1750~1250年前頃で、適応的なEPAS1アレル(対立遺伝子)を有していました(関連記事)。
チベット高原の地理的孤立を考慮すると、チベット人と低地漢人との間の集団分岐の時期は、適応へのもう一つの参考ですが、60000~2700年前頃までと、年代的解像度では類似の問題を抱えています(表1)。標本と手法の違いに加えて、集団分岐年代の不一致は、チベット人と漢人との間の継続的な遺伝子流動により部分的に説明でき(関連記事)、この遺伝子流動は歴史時代にかなり増加し、チベット人と低地人との間の合着(合祖)を合成するかもしれません。
要約すると、遺伝学的研究はアジア東部人へのデニソワ人からの遺伝子移入の年代を解明し、デニソワ人とアジア東部人の祖先との間の接触は、シベリアのアルタイ山脈とチベット高原との間のどこかで、48000~46000年前頃からすぐに起きた、と示唆されます。チベット人と漢人との間の分離は、デニソワ人からの遺伝子移入の後で起きた可能性が高そうです。60000年前頃から3000年前頃にわたる複数の上述の要因により、年代推定は混乱している可能性があります。
遺伝子移入されたEPAS1遺伝子における正の選択についてのほとんどの結果は、更新世と完新世の境界の頃にまとまっています(13000~7000年前頃)。そのため、正の選択はチベット高原における農耕導入前に起き、狩猟採集民による恒久的な定住との想定が支持されるでしょう。古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入と選択と集団分岐の遺伝学的推定年代は、現時点では長い間隔になっているという同じ問題を共有していますが、これは長期の進化における偶然性、観察されたゲノムパターンに寄与した複雑な仕組み、遺伝学的モデルの仮定など、複数の要因により起きます。もっと多くの古代DNAが利用可能になり、人口統計学的モデルを改良するまで、遺伝学的年代は、注意して用い、考古学的および古人類学的データで補足されるべきです。
●チベット高原におけるヒト居住の連続性の問題
チベット高原に居住した最初のヒトは、白石崖溶洞のデータで示唆されるように恐らくデニソワ人で、デニソワ人は16万~6万年前頃に何回かチベット高原北東端に到来し、その前後にも居住した可能性があります(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、EPAS1遺伝子座を含むデニソワ人の核DNAが高地では知られていないので、デニソワ人が生物学的に高地に適応していたのかどうか、分かりません。デニソワ人がチベット高原で現生人類と直接的に接触していたのかどうか調べるには、将来の発見が重要です。
現生人類の居住については、三つの主要な問題が際立っています。第一に、考古学的記録における複数の居住事象にも関わらず、恒久的な定住の開始は不明です。第二に、居住の間隙と気候変化との間に直接的つながりがあったのかどうかは、高解像度の研究データからの確証が必要です。第三に、適応的遺伝子移入と関連する重要な事象についての広範囲の推定年代は、チベット人における適応の出現の大まかな概要を提供します。その結果、二つの仮説的な移住モデルが、不連続な居住と連続的な居住を想定し、ともに既存の証拠と一致します(図2)。現時点では、低解像度のデータではどちらの仮説の完全な確認も却下もできません。しかし、このモデルは、将来の研究のため、明確に考古学的および遺伝学的予測がある解釈の枠組みを確立できるでしょう。
●モデルA:不連続な居住
モデルAは、デニソワ人と更新世現生人類の居住における複数の到来/試みを伴う、不連続のヒトの居住を想定し、チベット高原は完新世まで恒久的に定住されませんでした。更新世における定住の試みの失敗は、低酸素症や極端な気候など外部要因による、局所的な絶滅もしくは低地への撤退により説明できるでしょう。
モデルAでは、LGMおよびYDにおいて観察された間隙は居住期間の間の不毛層で、それは、「証拠の欠如」の事実につながる、よく確立された地質考古学的記録により確証されるべきとされます。別の予測は、よく記録された考古学的および環境系列は、人口集団の不連続性と気候悪化との間の関連を示すだろう、というものです。その上、チベット高原の物質文化におけるかなりの変化は、経狩猟採集民の行動が経時的に変化するのと同様の経路をたどり、近くの低地における文化的変化と同時です。より重要なのは、不連続モデルでは、高地における恒久的な居住もしくは通年の定住が完新世にのみ出現するだろう、と意味していることです。つまり、チベット高原の更新世遺跡群は、低地の居住拠点野営地とは対照的に、単なる侵入もしくは季節的な居住にすぎなかっただろう、というわけです。したがって、その分布は高地と低地の間で異なる定住パターンを示します。
上述のように遺伝学的に、デニソワ人からの遺伝子移入は低地におけるチベット人と漢人との間の集団分岐に先行し、アジア東部人の祖先で早ければ48000~46000年前頃に起きた可能性があります。過去の核DNAがチベット高原のデニソワ人遺骸から得られたならば、チベット高原のデニソワ人が適応的なEPAS1遺伝子ハプロタイプを有していながら、現代チベット人の遺伝子プールにほとんど遺伝的寄与を示さない可能性は低そうです。同様に、チベット高原の更新世現生人類が適応遺伝子を有している可能性は低そうで、現代チベット人の直接的祖先ではないでしょう。結果として、EPAS1遺伝子を含む全ての高地適応遺伝子の正の選択の開始は、低地漢人からのチベット人の隔離と類似した年代で、完新世の頃であるはずです。
●モデルB:連続的な居住
モデルBは、巨大湖時代から完新世までの現生人類による恒久的居住のより大きな時間的深さを仮定しており、高地人口集団における遺伝的ボトルネック(瓶首効果)もしくは低地からの移住により起きた人口変動は限定的です。この状況では、後期MIS3の狩猟採集民は高地環境での定住に成功し、現代チベット人の直接的祖先の一員でした。
考古学の観点では、間隙が小さな標本規模および/もしくは保存の偏りに起因する、とモデルBは予測します。したがって、LGMとYDの厳密な年代を伴う新たな発見がこの間隙を埋める、と予測されます。行動的には、低地と高地との間の文化的変化の異なる速度が予想されます。高地の文化は、低地の侵入ではなく、環境圧への適応である、経時的に伝わる地域の革新とともに見つかるでしょう。完新世の前の初期通年居住は、季節性と移動性に関連する遺跡の機能と動物相の分析についての研究により確立されるべきです。生態系モデルは、気候悪化時の退避地もしくは移動パターンの予測の補足となるかもしれません(関連記事)。この場合、狩猟採集民はLGMとYDにおける極端な気候にも関わらず継続的に高地に居住し、農耕は通年定住に必須ではありません。
遺伝学では、モデルAのように、デニソワ人からの遺伝子移入は低地で48000~46000年前頃に起きた可能性があります。より多くのデニソワ人化石がチベット高原で発見されれば、とくにそのデニソワ人が適応的EPAS1遺伝子ハプロタイプを有していれば、高地における現生人類への追加の(複数回かもしれない)適応的遺伝子移入の可能性が開かれます。高地適応については、EPAS1を含む主要な適応遺伝子の選択は、LGMに先行する、と予測されます。
しかし、他のメカニズム(たとえば、最近の混合や有害な変異の存在など)が正の選択の推定と適応的遺伝子移入の識別に影響を与えるかもしれません。たとえば、デードゥ(Deedu)モンゴル人はごく最近高地に適応し、それは500年前頃のチベット高原への最初の移住後で、そうした適応が独立した過程を表しているのか、最近の移住もしくはチベット人と共有される祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)により促進されたのか、不明なままです。最後に、LGM前となるチベット人と漢人との間の深い分岐は、低地からの高地の早期の分離に起因する、と予測されます。以下はモデルAとBを示した以下は本論文の図2です。
●まとめ
新たな発見が急速に蓄積され、チベット高原の人口史の理解を深め続けていますが、いくつかの既知の統合は考古学的発見に大きく依存していました。本論文は学際的手法を用いて、チベット高原高地の人口史の、節約的ではあるものの異なる二つのモデルを提案します。両モデルは考古学と遺伝学との間で一貫性に達するように構築されていますが、各分野に固有の課題が残っています。たとえば、考古学的データは複数の別々の居住事象を示しているようですが、これは記録の断片的な性質を反映しているかもしれません。ゲノム研究は、チベット人と低地漢人との間の分岐と、適応遺伝子の選択について年代推定を提示しますが、それにも関わらず、結果は連続性と不連続性の両方と一致しています(表1)。したがって、上述のモデル予測を検証するには、そうした課題を克服するために高解像度のデータセットが必要です。
データ解像度が向上するにつれて、より節約的ではない想定(たとえば、さまざまな集団における複数回の適応)の別の可能性が開かれるかもしれませんが、現時点では、二つの単純なモデルでさえ、完全に確認もしくは却下することができません。現在の証拠から、デニソワ人はMIS6~4もしくはその前後にチベット高原を繰り返し訪れた可能性がある、と示唆されます。それにも関わらず、古代の核DNAと直接的に関連する化石および文化的遺物と明示的な地理的分布なしには、デニソワ人が高地に適応したのかどうか、不明です。
特定されたデニソワ人からの遺伝子移入のうち、アルタイ山脈のデニソワ人と関連する人口集団からアジア東部現代人の祖先への特定の波は、低地において48000~46000年前頃にEPAS1ハプロタイプをもたらした可能性が高そうです(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。多くの結果は、このハプロタイプが末期更新世と早期完新世の間に正の選択を受けた、と示唆しており(表1)、それは最初の遺伝子移入の4万~3万年後です。しかし、現生人類やデニソワ人や他の未知の古代型ホモ属(関連記事)など、どのホモ属種が最初に高地環境で生理学的に適応を達成したのか、結論づけるのは時期尚早のようです。単一個体のデニソワ人参照ゲノムにおける高地適応的なEPAS1遺伝子のハプロタイプの存在は、デニソワ人集団における頻度について情報をもたらさず、種の水準で生物学的機能を説明するわけでもありません。
デニソワ人の時代の後、現在のデータの限界を認めて、考古学的および遺伝学的証拠がヒトの拡散の一つの想定に収束することは注目に値します。4万~3万年前頃の尼阿底遺跡における石刃技術の突然の出現は、ユーラシア草原地帯東部(アジア中央部やシベリアのアルタイ山脈やモンゴル北部など)における48000~40000年前頃となる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とのつながりの可能性を示し、これはシベリアにおける現生人類化石(関連記事)や、アジア東部人へのデニソワ人からのEPAS1の遺伝子移入と同年代です。
最初の体系的石刃製作としてのIUP石器群は、広くシベリアのアルタイ山脈とモンゴル北部で見つかり、通常は初期現生人類拡散の証拠として認識されています(関連記事)。この問題については後述の補足で取り上げます。さらに、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)のヒト遺骸から、現生人類はIUP石器を製作し、アジア東部現代人と遺伝的つながりがある、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。アジア東部低地では、石刃石器群は稀ですが、IUP石器群の明確な事例は中国北部の寧夏回族自治区の水洞溝(Shuiddongou)遺跡(関連記事)で確認されており、年代は41000~34000年前頃です。
まとめると、石刃石器群と現生人類化石は、デニソワ人からの適応的遺伝子移入とともに、仮定的ではあるものの説得力のある想定を提案します。それは、現生人類がシベリアのアルタイ山脈に48000年前頃に到来し、モンゴル北部には45000年前頃に到達して、最終的には中国北部とチベット高原に早ければ4万年前頃には拡大した、というものです。狩猟採集民はデニソワ人から遺伝子移入されたEPAS1ハプロタイプとともに、アジア東部へとある種の石刃技術をもたらしました。新石器時代のチベット人は、南方の新石器時代集団よりも、北方の新石器時代アジア東部人およびシベリア人と遺伝的に密接なので(関連記事)、草原地帯とアジア東部との間のつながりは後の期間には頻繁だった可能性があります。
最後に、本論文の二つのモデルは、チベット高原の人口史の洗練と、チベット高原と草原地帯との間の初期のつながり、もしくは現生人類とデニソワ人との間の地理的および時間的重複といった、特定の問題(後述の未解決の問題)の対処に役立つはずです。本論文は、チベット高原における高地適応の人口史と進化的過程への考古学と遺伝学の統合の価値を強調します。本論文は、この研究により、チベット高原およびそれを越えて学際的にさらなる協力が促進されるよう、願っています。
●補足1:現生人類の拡散とIUP
「出アフリカII」モデルによると、現生人類のアジア東部への二つの拡大経路が提案されています。それは、南方経路と北方経路です。南方経路はアフリカ東部からの拡散を支持し、その後はアジア南部の海岸線を進み、早ければ6万~5に万年前頃にオーストラリアに到達した、とされます。北方経路では、現生人類はレヴァントを通って拡散し、アジア中央部と北部を横断し、アジア東部に5万年前頃に到達した、と想定されます。
二つの拡散経路は、異なる適応経路を示唆しているかもしれません。北方経路は、おもに中緯度と比較的高緯度の大陸性気候となります。それは、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Isinhim)遺跡の45000年前頃の個体(関連記事)や、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)とともに、IUPとして知られる考古学的技術複合の拡大により裏づけられます。
IUPは、中部旧石器時代と古典的な上部旧石器時代との間の移行期に出現した、特定の石器技術の一種です(関連記事)。IUPは、アジア西部(レヴァント)やヨーロッパ東部やアジア中央部および北部で広く見つかります。ユーラシア東部草原地帯(アジア中央部やシベリアのアルタイ山脈やモンゴル北部など)のIUP遺跡群の年代はほぼ48000~40000年前頃で、上述の現生人類化石と同年代です。IUP石器群はおもに、非対称的石核や彫器状石核(burin-core)など、特定の手法による体系的な石刃製作が優占します。IUPは、骨や角や牙の道具、および個人的装飾品の使用でも明らかになることがあります。
IUPの拡散は、生計慣行と社会的組織の変化、および/もしくは動産および洞窟芸術の目覚ましい発展とともに、初期現生人類狩猟採集民人口集団を特徴づける行動の一般化に向けた初期段階としてみなされます。ヨーロッパ東部のブルガリアのバチョキロ洞窟における新たな発見から、45000年前頃の石器群と直接的に関連して発見されたヒト遺骸に基づいて、現生人類はIUPの製作者であり、バチョキロ洞窟個体群はヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方と密接な遺伝的類似性を有している、と示唆されました(関連記事)。
●補足2:未解決の問題
チベット高原におけるデニソワ人遺骸の特定は、デニソワ人集団がどのようにしていつチベット高原の高地へ拡大したのかについて、基本的な問題を提起します。絶滅ホモ属(古代型ホモ属)は高地環境に適応しましたか?絶滅ホモ属は高地で特定の行動を取りましたか?アジアにおけるデニソワ人の人口動態および地理的分布はどうでしたか?
早ければ48000年前頃にデニソワ人から現生人類に伝えられたEPAS1遺伝子のハプロタイプは、チベット人集団の高地適応に役立ちますが、そのハプロタイプの正の選択はデニソワ人から現生人類への遺伝子移入よりもずっと新しかったようです。デニソワ人と現生人類との間の複数回の混合事象が示されてきましたが、現生人類はどの地域でEPAS1の遺伝子移入を受けましたか?デニソワ人の地域的人口集団内のEPAS1遺伝子のハプロタイプはどのくらいの頻度でしたか?
石刃製作など特定の行動は、チベット高原で早ければ4万年前頃に突然出現し、恐らくはユーラシア草原地帯に由来します。狩猟採集民はその技術を、どのように極限環境に適応させたのでしょうか?技術拡散につながったメカニズムは何でしたか?文化的拡散なのか、それとも人口移動だったのでしょうか?
現生狩猟採集民はよく、季節や自然の資源に応じて、移動頻度を景観に適応させます。更新世の狩猟採集民は、その移動性と定住パターンを、過酷な高地環境にどのように順応させましたか?
参考文献:
Zhang P. et al.(2022): Denisovans and Homo sapiens on the Tibetan Plateau: dispersals and adaptations. Trends in Ecology & Evolution, 37, 3, 257–267.
https://doi.org/10.1016/j.tree.2021.11.004
後期更新世(126000~11700年前頃)には、最終氷期のひじょうに頻繁な千年規模の変動が、高地生態系へのヒトの拡大にとって追加の障害となりました。さらに、高度が上昇すると、酸素濃度が急速に低下し、低酸素症として知られる生理的ストレスにつながります。海抜2500mで通常は経験する低酸素症により、深刻で時として生命を脅かすような症状が起きます。それは、妊娠中の子宮内発育不全や出生時低体重などで、行動調整だけでは緩和できず、生理学的適応を必要とします。
それでも、チベット人は何世代にもわたってチベット高原にうまく定住してきましたが、いつどのように誰によりチベット高原が恒久的に居住されるようになったのかは、依然として議論となっています。これらの問題に対処した既存のモデルは、考古学的証拠にほぼ基づいています(関連記事)。チベット高原についての考古学的研究は1960年代に始まりましたが、よく記録された発掘調査と年代測定された遺跡はこれまで限定的です。利用可能なデータから、チベット高原ではヒト居住の主要な4期間があった、と示唆されます。考古学的研究は、生計慣行や行動やヒトの分布について情報をもたらしますが、低酸素症への生物学的適応には直接的な洞察を提供しません。
対照的に、ゲノム研究はチベット人における適応的遺伝子のいくつかの候補を特定し、チベット人と低地中国人との間の人口集団の分岐を推定し、チベット人の遺伝的適応を促進した、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝子移入を検出しました(関連記事)。したがって、考古学と遺伝学的研究は、チベット高原への移住過程の状況を再構築するにあたって補完的です。しかし、考古学と遺伝学を同等に重視した研究はまだありません。尼阿底(Nwya Devu)遺跡(関連記事)や白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)遺跡(関連記事)など最近の発見を踏まえて、本論文は関連する考古学とゲノムと化石と古環境の証拠を一つの枠組みで評価し、チベット高原の人口史に関する二つの節約的モデルと予測を提案します。
●海洋酸素同位体ステージ6~4(第1期)
中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)の下顎骨から、古代型人類が海洋酸素同位体ステージ(MIS)6となる16万年前頃にチベット高原の端に到達した、と示唆されます(関連記事)。この化石標本(夏河下顎)は、ネアンデルタール人とは異なる古代型ホモ属の下顎と歯の特徴を有しており、古プロテオーム(タンパク質の総体)解析では、デニソワ人(関連記事)との密接な類似性が示唆されています。さらに、デニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が、白石崖溶洞の10万年前頃と6万年前頃の堆積物、および恐らくは再堆積した45000年前頃の堆積物から抽出されました(関連記事)。
海抜2763mに位置する甘粛省永登(Yongdeng)県の将軍府01(JiangjunfuJiangjunfu 01、JJF01)開地遺跡の年代は12万~9万年前頃で、露出した地質区画から収集された少数の石器により特定されました(関連記事)。最近、アシューリアン(Acheulean)的な握斧(ハンドアックス)が13万年以上前と報告されていますが、まだ報道発表でしか知られていません。もっと驚くのは、チベット高原中央のチュサン(Chusang)遺跡(関連記事)で、226000~169000年前頃とされる初期の岩絵が発見された、との主張です。それは、足跡と手形の年代測定、および芸術の証拠としてのその解釈についての関心を惹起します。
現生人類(Homo sapiens)が低酸素環境に適応した最初で唯一の人類(ヒト亜科)だった、との見解に異議を唱える発見が増加しています。全体として、証拠はチベット高原での人類の活動のより長い歴史を示しています。しかし、夏河下顎標本には考古学的文脈が欠けており、堆積物から回収されたmtDNAは、高地適応と関連するゲノム多様体を特定できません。したがって、チベット高原での古代型人類の形態と生物学と行動を理解するには、古代の核DNAと化石と本格的な発掘調査のさらなる証拠が必要です。
●MIS3の巨大湖時代(第2期)
チベット高原のMIS3(4万~3万年前頃)は「巨大湖時代」と呼ばれることもあり、夏季の季節風強化による、気温と降水量と湖の水位の上昇が特徴です。尼阿底開地遺跡の体系的発掘から、狩猟採集民が4万~3万年前頃となるこの温暖事象期に、海抜4600mの高地に以前知られていたよりもずっと早く到達していた、と示唆されます(関連記事)。尼阿底遺跡では、高地で発見された最初の石刃製作も報告されており、石刃技術は中国では稀であるものの、ユーラシア草原地帯の初期上部旧石器時代では典型的な技術です。色林錯(Siling Co)や小ツァイダム(Xiao Qaidam)や冷湖地域(Lenghu Locality)など他の遺跡は、たとえば近隣の地質区画の標本などから、間接的に3万年前頃と測定されています。しかし、色林錯の事例については、最近になってずっと新しいと主張されていることに要注意です。発掘された遺跡が1ヶ所しかないため、巨大湖時代の狩猟採集民の定住パターンと行動適応は不明なままです。
●最終退氷(第3期)
25000年前頃から始まる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)は、現在よりも気温が4~7度低い、顕著な寒冷化が特徴です。LGMだと確実に年代測定された遺跡はなく、ヒトの居住に適した最終退氷のより穏やかな気候の前の、そうした居住しにくい環境のチベット高原における把握しづらいヒトの存在を示唆します。以前の研究では、この期間の遺跡群が「後期上部旧石器時代の短期の兵站野営地」と呼ばれており、おもに調査と試掘坑から研究されました。青海省の「151」遺跡における最近の動物考古学的研究は、高い移動性と短い居住の事例を提供しました。石器は、LGM後に低地中国北部で広がった細石刃として記載されました。LGMには、チベット高原北東端に遺跡が集まっているものの(図1)、このパターンが行動か保存か可視的な偏りを表しているのかどうか、不明なことに要注意です。以下は本論文の図1です。
●完新世の気候最適(第4期)
ヤンガードライアス(YD)における急速な寒冷化は、ヒトの活動における顕著な減少と対応しているようです。次に、第4期は完新世の気候最適の開始と一致します。8000~6000年前頃の遺跡はおもに、細石刃など以前の伝統からの技術的継続性を示しますが、6000年前頃後には、磨製石器や彩文土器や農耕など新石器時代の文化的革新がじょじょに出現し、時には細石刃技術と共存しました。さまざまな人工物形態の分布は、さまざまな低地集団との接触と交換を示します。さらに、この期間の3600年前頃に農耕集団により通年の居住が確立された、と一部の研究者は主張し、30000~8000年前頃に狩猟採集民により通年居住が行なわれていた、との主張(関連記事)に反対しました。
要約すると、ヒトの居住の4期間が観察され、それは考古学的および化石記録における明らかな間隙により分離されています。デニソワ人は後期MIS3のずっと前に、チベット高原に最初に到来したでしょう。文化的人工物により示唆される現生人類の証拠は、早くも4万年前頃となり、その居住はほぼ、寒冷/乾燥気候下の間隙を伴う温暖事象および技術的変化と相関しているようです。しかし、これらヒトの居住間の間隙は、低解像度のデータセットか、行動的パターンか、両者の組み合わせを反映している可能性があります。考古学的居住と環境記録との間のつながりは、まだ完全には確立していません。
●デニソワ人からの遺伝子移入
低地からの地理的孤立と低酸素症の選択圧は、チベットの人口集団の適合性の形成にとって本質的な要因です。したがって、遺伝学的研究は、高地適応に有利な遺伝子を特定し、チベット人の人口史を推測することに焦点を当ててきました。チベット人の高地適応における別の重要な構成要素は、デニソワ人からの適応的遺伝子移入の役割ですが(関連記事)、その遺伝子移入の時期と地理的範囲は議論の余地があります。
低酸素環境への長期の暴露は、チベット人の生理機能における一連の変化をもたらしました。結果として、酸素供給と循環器系機能に関する複数の遺伝子が、高地適応に寄与した候補として特定されてきました(関連記事)。全ての遺伝子のうち、内皮PAS1(EPAS1)遺伝子は、低酸素環境におけるヘモグロビン値の低下と関連する強い正の兆候であることから、最も研究されてきており、この遺伝子はチベット人集団に有利に作用して独特だと考えられています。
EPAS1遺伝子は、デニソワ人的な人類からの適応的遺伝子移入の兆候を示し(関連記事)、それはシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された化石から配列されたデニソワ人のゲノム(関連記事)とひじょうに高い類似性を示す、EPAS1遺伝子の適応的ハプロタイプにより特徴づけられます。このハプロタイプは、近隣人口集団では存在しないか極端に低頻度で、アルタイ山脈のデニソワ人からの適応的遺伝子移入が示唆されます。
さらに、最近の研究では、アジアとオセアニアにおける少なくとも4回のデニソワ人的な混合の波が識別されています。そのうち一つはアジア人とオセアニア人に共有され(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはパプア人に(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはアジア東部人に(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはフィリピンのマリヴェレニョ語アエタ人(Ayta Magbukon)に特有です(関連記事)。これらの遺伝子移入の遺伝的推定は、早ければ55000年前頃から遅ければ12000年前頃まで広範囲です(表1)。この年代の不一致は、推定手法か、分析データの種類と標本か、2018年以前の研究におけるデニソワ人からの遺伝子移入の単一の波の推定での違いを反映しているかもしれません。
その結果、いつ、どこで、どのデニソワ人集団から有利なEPAS1遺伝子のハプロタイプがチベット人に伝わったのか、という問題が提起されます。最近の研究では、アジア東部人特有の遺伝子移入が48000年前頃に起き、有利なEPAS1遺伝子のハプロタイプがもたらされた、と特定されました(関連記事)。他の二つの研究でも、アジア東部人を含む46000年前頃の遺伝子移入が明らかになりました(関連記事1および関連記事2)。一般的に、48000~46000年前頃のアジア東部現代人の祖先とデニソワ人との間の遭遇は、チベットの現代人集団の高地適応に役立ったかもしれません。
●正の選択の開始およびチベット人と漢人との集団分岐
隣接する低地人口集団と比較してのチベット人における独占的に高頻度の遺伝子は、高地適応の正の選択の標的と考えられます。したがって、これらの遺伝子の選択の時期は、適応と恒久的な定住の開始の代理としてよく用いられます。EPAS1遺伝子の選択の推定年代は、18300~2800年前頃と比較的広範囲を示します(表1)。この長い間隔にも関わらず、大半の研究は、選択がデニソワ人からの遺伝子移入よりもずっと後のLGM後に起きた、と示唆します。チベット高原からの古代の(核)DNAを有するヒト遺骸の発見により、高地適応の時系列の追加の状況とより高い解像度を提供できます。しかし、古代の核DNAはチベット高原では稀で、これまでにヒマラヤ山脈のネパール側の限定的な標本を報告した研究一つだけとなり、その標本の年代は1750~1250年前頃で、適応的なEPAS1アレル(対立遺伝子)を有していました(関連記事)。
チベット高原の地理的孤立を考慮すると、チベット人と低地漢人との間の集団分岐の時期は、適応へのもう一つの参考ですが、60000~2700年前頃までと、年代的解像度では類似の問題を抱えています(表1)。標本と手法の違いに加えて、集団分岐年代の不一致は、チベット人と漢人との間の継続的な遺伝子流動により部分的に説明でき(関連記事)、この遺伝子流動は歴史時代にかなり増加し、チベット人と低地人との間の合着(合祖)を合成するかもしれません。
要約すると、遺伝学的研究はアジア東部人へのデニソワ人からの遺伝子移入の年代を解明し、デニソワ人とアジア東部人の祖先との間の接触は、シベリアのアルタイ山脈とチベット高原との間のどこかで、48000~46000年前頃からすぐに起きた、と示唆されます。チベット人と漢人との間の分離は、デニソワ人からの遺伝子移入の後で起きた可能性が高そうです。60000年前頃から3000年前頃にわたる複数の上述の要因により、年代推定は混乱している可能性があります。
遺伝子移入されたEPAS1遺伝子における正の選択についてのほとんどの結果は、更新世と完新世の境界の頃にまとまっています(13000~7000年前頃)。そのため、正の選択はチベット高原における農耕導入前に起き、狩猟採集民による恒久的な定住との想定が支持されるでしょう。古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入と選択と集団分岐の遺伝学的推定年代は、現時点では長い間隔になっているという同じ問題を共有していますが、これは長期の進化における偶然性、観察されたゲノムパターンに寄与した複雑な仕組み、遺伝学的モデルの仮定など、複数の要因により起きます。もっと多くの古代DNAが利用可能になり、人口統計学的モデルを改良するまで、遺伝学的年代は、注意して用い、考古学的および古人類学的データで補足されるべきです。
●チベット高原におけるヒト居住の連続性の問題
チベット高原に居住した最初のヒトは、白石崖溶洞のデータで示唆されるように恐らくデニソワ人で、デニソワ人は16万~6万年前頃に何回かチベット高原北東端に到来し、その前後にも居住した可能性があります(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、EPAS1遺伝子座を含むデニソワ人の核DNAが高地では知られていないので、デニソワ人が生物学的に高地に適応していたのかどうか、分かりません。デニソワ人がチベット高原で現生人類と直接的に接触していたのかどうか調べるには、将来の発見が重要です。
現生人類の居住については、三つの主要な問題が際立っています。第一に、考古学的記録における複数の居住事象にも関わらず、恒久的な定住の開始は不明です。第二に、居住の間隙と気候変化との間に直接的つながりがあったのかどうかは、高解像度の研究データからの確証が必要です。第三に、適応的遺伝子移入と関連する重要な事象についての広範囲の推定年代は、チベット人における適応の出現の大まかな概要を提供します。その結果、二つの仮説的な移住モデルが、不連続な居住と連続的な居住を想定し、ともに既存の証拠と一致します(図2)。現時点では、低解像度のデータではどちらの仮説の完全な確認も却下もできません。しかし、このモデルは、将来の研究のため、明確に考古学的および遺伝学的予測がある解釈の枠組みを確立できるでしょう。
●モデルA:不連続な居住
モデルAは、デニソワ人と更新世現生人類の居住における複数の到来/試みを伴う、不連続のヒトの居住を想定し、チベット高原は完新世まで恒久的に定住されませんでした。更新世における定住の試みの失敗は、低酸素症や極端な気候など外部要因による、局所的な絶滅もしくは低地への撤退により説明できるでしょう。
モデルAでは、LGMおよびYDにおいて観察された間隙は居住期間の間の不毛層で、それは、「証拠の欠如」の事実につながる、よく確立された地質考古学的記録により確証されるべきとされます。別の予測は、よく記録された考古学的および環境系列は、人口集団の不連続性と気候悪化との間の関連を示すだろう、というものです。その上、チベット高原の物質文化におけるかなりの変化は、経狩猟採集民の行動が経時的に変化するのと同様の経路をたどり、近くの低地における文化的変化と同時です。より重要なのは、不連続モデルでは、高地における恒久的な居住もしくは通年の定住が完新世にのみ出現するだろう、と意味していることです。つまり、チベット高原の更新世遺跡群は、低地の居住拠点野営地とは対照的に、単なる侵入もしくは季節的な居住にすぎなかっただろう、というわけです。したがって、その分布は高地と低地の間で異なる定住パターンを示します。
上述のように遺伝学的に、デニソワ人からの遺伝子移入は低地におけるチベット人と漢人との間の集団分岐に先行し、アジア東部人の祖先で早ければ48000~46000年前頃に起きた可能性があります。過去の核DNAがチベット高原のデニソワ人遺骸から得られたならば、チベット高原のデニソワ人が適応的なEPAS1遺伝子ハプロタイプを有していながら、現代チベット人の遺伝子プールにほとんど遺伝的寄与を示さない可能性は低そうです。同様に、チベット高原の更新世現生人類が適応遺伝子を有している可能性は低そうで、現代チベット人の直接的祖先ではないでしょう。結果として、EPAS1遺伝子を含む全ての高地適応遺伝子の正の選択の開始は、低地漢人からのチベット人の隔離と類似した年代で、完新世の頃であるはずです。
●モデルB:連続的な居住
モデルBは、巨大湖時代から完新世までの現生人類による恒久的居住のより大きな時間的深さを仮定しており、高地人口集団における遺伝的ボトルネック(瓶首効果)もしくは低地からの移住により起きた人口変動は限定的です。この状況では、後期MIS3の狩猟採集民は高地環境での定住に成功し、現代チベット人の直接的祖先の一員でした。
考古学の観点では、間隙が小さな標本規模および/もしくは保存の偏りに起因する、とモデルBは予測します。したがって、LGMとYDの厳密な年代を伴う新たな発見がこの間隙を埋める、と予測されます。行動的には、低地と高地との間の文化的変化の異なる速度が予想されます。高地の文化は、低地の侵入ではなく、環境圧への適応である、経時的に伝わる地域の革新とともに見つかるでしょう。完新世の前の初期通年居住は、季節性と移動性に関連する遺跡の機能と動物相の分析についての研究により確立されるべきです。生態系モデルは、気候悪化時の退避地もしくは移動パターンの予測の補足となるかもしれません(関連記事)。この場合、狩猟採集民はLGMとYDにおける極端な気候にも関わらず継続的に高地に居住し、農耕は通年定住に必須ではありません。
遺伝学では、モデルAのように、デニソワ人からの遺伝子移入は低地で48000~46000年前頃に起きた可能性があります。より多くのデニソワ人化石がチベット高原で発見されれば、とくにそのデニソワ人が適応的EPAS1遺伝子ハプロタイプを有していれば、高地における現生人類への追加の(複数回かもしれない)適応的遺伝子移入の可能性が開かれます。高地適応については、EPAS1を含む主要な適応遺伝子の選択は、LGMに先行する、と予測されます。
しかし、他のメカニズム(たとえば、最近の混合や有害な変異の存在など)が正の選択の推定と適応的遺伝子移入の識別に影響を与えるかもしれません。たとえば、デードゥ(Deedu)モンゴル人はごく最近高地に適応し、それは500年前頃のチベット高原への最初の移住後で、そうした適応が独立した過程を表しているのか、最近の移住もしくはチベット人と共有される祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)により促進されたのか、不明なままです。最後に、LGM前となるチベット人と漢人との間の深い分岐は、低地からの高地の早期の分離に起因する、と予測されます。以下はモデルAとBを示した以下は本論文の図2です。
●まとめ
新たな発見が急速に蓄積され、チベット高原の人口史の理解を深め続けていますが、いくつかの既知の統合は考古学的発見に大きく依存していました。本論文は学際的手法を用いて、チベット高原高地の人口史の、節約的ではあるものの異なる二つのモデルを提案します。両モデルは考古学と遺伝学との間で一貫性に達するように構築されていますが、各分野に固有の課題が残っています。たとえば、考古学的データは複数の別々の居住事象を示しているようですが、これは記録の断片的な性質を反映しているかもしれません。ゲノム研究は、チベット人と低地漢人との間の分岐と、適応遺伝子の選択について年代推定を提示しますが、それにも関わらず、結果は連続性と不連続性の両方と一致しています(表1)。したがって、上述のモデル予測を検証するには、そうした課題を克服するために高解像度のデータセットが必要です。
データ解像度が向上するにつれて、より節約的ではない想定(たとえば、さまざまな集団における複数回の適応)の別の可能性が開かれるかもしれませんが、現時点では、二つの単純なモデルでさえ、完全に確認もしくは却下することができません。現在の証拠から、デニソワ人はMIS6~4もしくはその前後にチベット高原を繰り返し訪れた可能性がある、と示唆されます。それにも関わらず、古代の核DNAと直接的に関連する化石および文化的遺物と明示的な地理的分布なしには、デニソワ人が高地に適応したのかどうか、不明です。
特定されたデニソワ人からの遺伝子移入のうち、アルタイ山脈のデニソワ人と関連する人口集団からアジア東部現代人の祖先への特定の波は、低地において48000~46000年前頃にEPAS1ハプロタイプをもたらした可能性が高そうです(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。多くの結果は、このハプロタイプが末期更新世と早期完新世の間に正の選択を受けた、と示唆しており(表1)、それは最初の遺伝子移入の4万~3万年後です。しかし、現生人類やデニソワ人や他の未知の古代型ホモ属(関連記事)など、どのホモ属種が最初に高地環境で生理学的に適応を達成したのか、結論づけるのは時期尚早のようです。単一個体のデニソワ人参照ゲノムにおける高地適応的なEPAS1遺伝子のハプロタイプの存在は、デニソワ人集団における頻度について情報をもたらさず、種の水準で生物学的機能を説明するわけでもありません。
デニソワ人の時代の後、現在のデータの限界を認めて、考古学的および遺伝学的証拠がヒトの拡散の一つの想定に収束することは注目に値します。4万~3万年前頃の尼阿底遺跡における石刃技術の突然の出現は、ユーラシア草原地帯東部(アジア中央部やシベリアのアルタイ山脈やモンゴル北部など)における48000~40000年前頃となる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とのつながりの可能性を示し、これはシベリアにおける現生人類化石(関連記事)や、アジア東部人へのデニソワ人からのEPAS1の遺伝子移入と同年代です。
最初の体系的石刃製作としてのIUP石器群は、広くシベリアのアルタイ山脈とモンゴル北部で見つかり、通常は初期現生人類拡散の証拠として認識されています(関連記事)。この問題については後述の補足で取り上げます。さらに、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)のヒト遺骸から、現生人類はIUP石器を製作し、アジア東部現代人と遺伝的つながりがある、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。アジア東部低地では、石刃石器群は稀ですが、IUP石器群の明確な事例は中国北部の寧夏回族自治区の水洞溝(Shuiddongou)遺跡(関連記事)で確認されており、年代は41000~34000年前頃です。
まとめると、石刃石器群と現生人類化石は、デニソワ人からの適応的遺伝子移入とともに、仮定的ではあるものの説得力のある想定を提案します。それは、現生人類がシベリアのアルタイ山脈に48000年前頃に到来し、モンゴル北部には45000年前頃に到達して、最終的には中国北部とチベット高原に早ければ4万年前頃には拡大した、というものです。狩猟採集民はデニソワ人から遺伝子移入されたEPAS1ハプロタイプとともに、アジア東部へとある種の石刃技術をもたらしました。新石器時代のチベット人は、南方の新石器時代集団よりも、北方の新石器時代アジア東部人およびシベリア人と遺伝的に密接なので(関連記事)、草原地帯とアジア東部との間のつながりは後の期間には頻繁だった可能性があります。
最後に、本論文の二つのモデルは、チベット高原の人口史の洗練と、チベット高原と草原地帯との間の初期のつながり、もしくは現生人類とデニソワ人との間の地理的および時間的重複といった、特定の問題(後述の未解決の問題)の対処に役立つはずです。本論文は、チベット高原における高地適応の人口史と進化的過程への考古学と遺伝学の統合の価値を強調します。本論文は、この研究により、チベット高原およびそれを越えて学際的にさらなる協力が促進されるよう、願っています。
●補足1:現生人類の拡散とIUP
「出アフリカII」モデルによると、現生人類のアジア東部への二つの拡大経路が提案されています。それは、南方経路と北方経路です。南方経路はアフリカ東部からの拡散を支持し、その後はアジア南部の海岸線を進み、早ければ6万~5に万年前頃にオーストラリアに到達した、とされます。北方経路では、現生人類はレヴァントを通って拡散し、アジア中央部と北部を横断し、アジア東部に5万年前頃に到達した、と想定されます。
二つの拡散経路は、異なる適応経路を示唆しているかもしれません。北方経路は、おもに中緯度と比較的高緯度の大陸性気候となります。それは、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Isinhim)遺跡の45000年前頃の個体(関連記事)や、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)とともに、IUPとして知られる考古学的技術複合の拡大により裏づけられます。
IUPは、中部旧石器時代と古典的な上部旧石器時代との間の移行期に出現した、特定の石器技術の一種です(関連記事)。IUPは、アジア西部(レヴァント)やヨーロッパ東部やアジア中央部および北部で広く見つかります。ユーラシア東部草原地帯(アジア中央部やシベリアのアルタイ山脈やモンゴル北部など)のIUP遺跡群の年代はほぼ48000~40000年前頃で、上述の現生人類化石と同年代です。IUP石器群はおもに、非対称的石核や彫器状石核(burin-core)など、特定の手法による体系的な石刃製作が優占します。IUPは、骨や角や牙の道具、および個人的装飾品の使用でも明らかになることがあります。
IUPの拡散は、生計慣行と社会的組織の変化、および/もしくは動産および洞窟芸術の目覚ましい発展とともに、初期現生人類狩猟採集民人口集団を特徴づける行動の一般化に向けた初期段階としてみなされます。ヨーロッパ東部のブルガリアのバチョキロ洞窟における新たな発見から、45000年前頃の石器群と直接的に関連して発見されたヒト遺骸に基づいて、現生人類はIUPの製作者であり、バチョキロ洞窟個体群はヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方と密接な遺伝的類似性を有している、と示唆されました(関連記事)。
●補足2:未解決の問題
チベット高原におけるデニソワ人遺骸の特定は、デニソワ人集団がどのようにしていつチベット高原の高地へ拡大したのかについて、基本的な問題を提起します。絶滅ホモ属(古代型ホモ属)は高地環境に適応しましたか?絶滅ホモ属は高地で特定の行動を取りましたか?アジアにおけるデニソワ人の人口動態および地理的分布はどうでしたか?
早ければ48000年前頃にデニソワ人から現生人類に伝えられたEPAS1遺伝子のハプロタイプは、チベット人集団の高地適応に役立ちますが、そのハプロタイプの正の選択はデニソワ人から現生人類への遺伝子移入よりもずっと新しかったようです。デニソワ人と現生人類との間の複数回の混合事象が示されてきましたが、現生人類はどの地域でEPAS1の遺伝子移入を受けましたか?デニソワ人の地域的人口集団内のEPAS1遺伝子のハプロタイプはどのくらいの頻度でしたか?
石刃製作など特定の行動は、チベット高原で早ければ4万年前頃に突然出現し、恐らくはユーラシア草原地帯に由来します。狩猟採集民はその技術を、どのように極限環境に適応させたのでしょうか?技術拡散につながったメカニズムは何でしたか?文化的拡散なのか、それとも人口移動だったのでしょうか?
現生狩猟採集民はよく、季節や自然の資源に応じて、移動頻度を景観に適応させます。更新世の狩猟採集民は、その移動性と定住パターンを、過酷な高地環境にどのように順応させましたか?
参考文献:
Zhang P. et al.(2022): Denisovans and Homo sapiens on the Tibetan Plateau: dispersals and adaptations. Trends in Ecology & Evolution, 37, 3, 257–267.
https://doi.org/10.1016/j.tree.2021.11.004
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