大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』

 角川新書の一冊として、KADOKAWAから2019年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、宇喜多秀家を中心に宇喜多一族(宇喜多一類)の動向を検証します。宇喜多氏が台頭したのは秀家の父の直家の代ですが、直家の素性は明らかではなく、戦国時代の新興勢力だったようです。なお、16世紀初めに、備前には地侍ながら名声の高かった宇喜多能家がおり、一般的には直家の祖父とされていますが、両者の血縁関係を立証する確実な史料はないそうです。

 直家は浦上宗景の配下として、1568年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に西備前の松田氏を滅ぼし、備前・美作地域において、浦上宗景と直家に対抗できる勢力はいなくなります。1569年、まだ織田と毛利が協調関係にあった時に、浦上宗景が織田・毛利方に抵抗したのに対して、直家は毛利方に与し、直家は織田信長に接近します。しかし、織田軍の播磨での行動は順調に進まず、浦上宗景が信長に接近して直家は孤立し、宗景が優位の形で両者は和睦します。しかし、これにより、直家は自勢力を宗景に匹敵するものとして織田と毛利に印象づけることに成功したようです。

 その後、宗景と直家は共に毛利と戦い続けますが、勢力で劣るので講和に奔走し、1572年末に毛利との争いは終息します。この講和交渉中の1572年に直家の息子として秀家が生まれますが、その母(円融院)の出自については確定していないようです。1574年、直家は宗景と断交し、毛利氏の支援を得て、1575年には備前・美作一帯のほとんどを領有する大名に成長します。この宇喜多氏の成長を毛利氏も警戒しており、織田方への寝返りを懸念していましたが、その懸念は的中し、織田方の攻勢に自身も大打撃を受けた直家は、1579年に羽柴秀吉を介して織田方に服属します。直家は毛利氏の攻勢に苦戦するなか、1581年に没し、翌年、息子の秀家が11歳(数え年)で家督を相続しますが、実権はなく、宇喜多家は家臣の合議体制により運営されます。

 1582年は、秀家にとって転機となりました。父の死により家督を継承し、毛利氏との戦いで劣勢にあるなか、本能寺の変が起きて毛利氏とは講和し、宇喜多氏の領国が確定へと向かいます。ただ、境目での紛争は続き、勢力圏がほぼ確定したのは1585年になってからでした。宇喜多氏の所領は50万石弱だったようです。さらに、秀家は1582年に秀吉の養女(実父は前田利家)と婚約します。秀吉の養女(樹正院)を妻に迎え、宇喜多氏が早々に秀吉に服属して毛利氏への抑えとして機能したこともあり、秀家は豊臣(羽柴)政権で重用され、統一過程での秀吉の軍事行動にもたびたび従います。秀吉に寵愛された樹正院は、秀家にとって豊臣政権での地位を保証する重要な存在だったようです。ただ、秀家とは異なり秀吉と血縁関係にある秀次・秀勝・秀保の三兄弟が台頭すると、秀家は豊臣政権で相対的に地位を下げたようです。しかし、この三兄弟は相次いで病死もしくは失脚し、秀家が最終的に豊臣政権の「大老」の一人になったのは、そうした外在的事情が大きかったようです。

 秀家は秀吉の命で1592年に朝鮮へも出兵し(文禄の役)、秀吉は秀家を厚遇しつつも、その経験不足を危ぶんでいたようです。この出兵や城下町整備などで、宇喜多氏の財政状態は厳しかったようですが、それは同時代の他の大名も変わらなかったのでしょう。秀吉は1597年に再度朝鮮への出兵を命じ(慶長の役)、秀家も出陣しますが、翌1598年4月に帰国します。秀吉の死は同年8月で、秀家時代の宇喜多氏の家中統制は、多分に秀吉の威光を背景にしたものだったので、秀吉死後の1599年末から翌年正月の頃、お家騒動(宇喜多騒動)が勃発します。秀吉の威光を失い、続けてすぐに樹正院の実父である前田利家も没し、まだ若く経験不足だった秀家は、この騒動を収拾できず、多くの重臣を失います。この宇喜多騒動の原因は、秀家への集権化に対する家臣団の反発だったようです。

 こうして宇喜多家中が混乱している状況で、関ヶ原の戦いへと至る騒動が勃発します。まず、1600年6月16日に上杉景勝討伐のため徳川家康が大坂から出兵し、秀家は従兄弟の浮田左京亮を名代として従軍させますが、同年7月に石田三成と大谷吉継の家康討伐計画に同心し、挙兵します。しかし、同年9月15日の関ヶ原合戦で秀家たちの西軍は家康が率いる東軍に大敗し、秀家は逃亡生活を続け、妻の樹正院とその生家の前田氏の助けもあったようで、薩摩に落ち延びます。島津氏は徳川方との交渉の末に本領安堵となり、秀家の助命も交渉します。その結果、秀家は助命となり、まず駿河に配流となった後、1604年4月、八丈島へと配流されました。樹正院の生家の加賀藩前田氏から配流先の秀家には継続的な支援があり、秀家は1655年11月20日、数え年84歳で没します。加賀藩による宇喜多一類への支援は明治維新まで続き、その理由は、加賀藩が宇喜多一類を流罪人ではなく藩祖(前田利家)の親族として敬意を払っていたことあるようです。

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