伊藤俊一『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、理解が難しいと言われる荘園の通史で、私も荘園についてよく理解していなかったので、たいへん勉強になりました。本書は、荘園に焦点を当てることで日本史の大きな流れを分かりやすく解説できているように思います。本書は長く荘園史の入門書として読まれ続けるでしょうし、荘園が日本史理解の中核的問題の一つであることも、改めて示しているように思います。また本書は、政府の規模もしくは管轄範囲の大小を問う、現代の政治的課題への示唆にもなっているように思います。荘園の歴史から、「民間」の自由な競争が経済的活力を生むことは否定できないものの、一方でそれが激しい競争や自然利用につながり、社会を荒廃させることにもなる、と窺えます。ただ、過度に現代の政治的課題を投影して読むと、かつての唯物史観のように実態を誤認することもあるでしょうから、そこは要注意だとは思いますが。

 荘園とは、建物(荘)と土地(園)を指し、私有農園のことです。日本の荘園研究は1950年代から1970年代まで盛んでしたが、マルクス主義の影響を強く受けており、在地領主である武家を革命勢力と位置づけ、武家勢力が貴族や寺社の領有する荘園を侵略して封建制社会を形成した、という歴史像が提示されました。マルクス主義歴史学の発展段階説によると、中世は農奴制社会のはずなので、中世日本に土地に縛られた西欧的な農奴が探されました。さらに、鎌倉幕府で成立した土地を媒介とした主従関係が西欧封建制と類似していることから、日本の荘園史が西欧史の枠組みで理解されようとしました。しかし、マルクス主義歴史学のこの把握は実態とは異なり、在地領主は12世紀の領域型荘園成立当初から荘官として荘園を支え、15世紀にも荘園は存在していました。また日本の荘園の百姓には移動の自由があり、その自由がない下人の割合は低かった、という違いもあります。本書はこうしたかつての研究状況を踏まえつつ、荘園史を解説していきます。

 日本の荘園は律令国家において出現し、743年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の墾田永年私財法が最初の画期となります。律令国家では公地公民が建前でしたが、730年代の天然痘の流行により大打撃を受けた社会の復興策として、新たに開発した田地の永代所有が認められました(初期荘園)。初期荘園は基本的には荘園に専属する農民を持たず、周辺農民が出作して収穫の2~3割を収める賃租により収益を得ました。当時の農民にとって、荘園は自分の口分田に加えて新たに増えた耕作先でした。

 平安時代となり、気候変動などによる災害のため社会は不安定化します。9世紀前半には乾燥気味で安定していたものの、9世紀後半には湿潤になり、洪水と旱魃が交互に起きました。10世紀には一転して乾燥化が進み、この時期にはヨーロッパでも中世温暖期を迎えて農業生産力が向上した、と言われていますが、日本列島では気温が上昇すると降水量は減る傾向にあり、ヨーロッパの麦作と日本の水稲耕作では、同じ温暖化でも農業生産力への影響は異なります。考古学でも、9世紀後半には古代村落が危機に陥り、廃棄された村落が少なくなかった、と示されています。文献でも、914年に三善清行が提出した意見十二箇条から、当時の農村の荒廃が窺えます。これは古墳時代以来の伝統的な在地支配層だった郡司の没落とも関連しており、古代村落の崩壊によって、調・庸・雑徭の徴収は困難になっていきました。郡司により動員される農民に労働力を頼っていた初期荘園は、大半が荒廃してしまいました。

 こうした混乱のなかで、納税できずに村落から逃亡し、戸籍から離れて浪人となる農民が増えており、その中に「富豪の輩」や「力田の輩」や「富豪浪人」などと呼ばれる、才覚を活かして富裕になり、貧しい浪人を集めて田地を開発したり、農民の口分田を強引に借り受けて高利(利稲)を取ったりした農民が現れ、貧富の差は拡大していきます。富豪層は国司や郡司が派遣した徴税使には武力で抵抗し、中央貴族や中央官庁と結んでその従者となり、開発した田地を寄進したり、貴族や官庁が設けた荘園の経営に携わったりました。その結果、9世紀には富豪層と結んだ荘園の設立が急増し、口分田を耕作する一般の農民が圧迫されました。洪水や旱魃により農業経営が困難になり税収が減っていたところに荘園の設立が進み、国家財政は危機に陥りました。

 こうした危機に対処するため、富豪層による一般農民の搾取の禁止と、富豪層と中央貴族の結託による荘園設立の拡大の歯止めを目的とした荘園整理令が902年に発布されましたが、班田はこの時が最後となりました。その後の10世紀半ばの改革は、税制では人頭税から地税への転換、地方行政では国司の権限拡大(国司の徴税請負人化)、耕作方式では有力農民である田堵による請負制の採用、土地制度では免田と国免荘の認定が要点となりました。これらの改革は中央政府主導ではなく、現場で危機に対処した国司が律令制の運用を現実に合わせて改変し、それを中央政府が追認することで進められました。こうして当初の律令制から大きく変容した体制が形成されていきました。

 摂関期に地税への比重が高まると、受領国司は任国内の耕地を名と呼ばれる単位に分割し、各名の耕作と納税を負名と呼ばれた農民に請け負わせました(負名制)。負名になった有力農民は、農業経営者としては田堵と呼ばれました。名は田堵の所有物ではなく、年単位の契約で耕作を任されるだけでした。班田収授で農民に与えられた口分田も次第に名に組み込まれ、田堵になれなければ、田堵の従者になるか、田堵に雇われて耕す立場になりました。自由ではあるものの、農民間の競争は激しいものでした。

 摂関期の国司は土地所有の認定と課税額の決定について権限を中央政府から移譲され、さまざまな意図で私領に対する税の減免が行なわれました。摂関期の荘園は税の減免を受けた私領(免田)が集まったもので、荘園領主が招き寄せた田堵たちにより耕作され、荘園領主と国司の両方に納税しました(免田型荘園もしくは免田型寄人荘園)。摂関期には、私有が認められた田畠は私領と呼ばれ、墾田永年私財法で認められた墾田も含まれますが、荒廃田の再開発地や、公田の耕作者から納税を請け負うことで成立した地主権も私領と呼ばれました。国司の裁量で認可された荘園(国免荘)は、国司が4年任期であることから不安定で、田堵も短期契約だったので、地方は不安定な競争社会となり、住民が集団で上京して、過大な課税や接待など朝廷に国司の悪政を訴えることも珍しくありませんでした(国司苛政上訴)。

 荘園に大きく関わってくるのが武士です。律令制下では農民から徴募した兵士が要所に配置されましたが、国際的緊張が緩和すると兵役は停止され、国の軍団も事実上廃止されました。しかし、東国では9世紀末から盗賊団(僦馬の党)が跋扈し、治安が崩壊しました。僦馬とは馬を借りるという意味で、馬や船を用いて調庸物の運搬を請け負っていました。これに携わっていたのは富豪層や没落した旧郡司層で、国衙からの厳しい徴税に反抗し、馬や船を巧みに操って調庸物の輸送隊を襲撃するようになり、この状況は群盗蜂起と呼ばれました。群盗案圧のため、東国の国司は蝦夷から乗馬術を学んで軍団を再建・強化するとともに、群盗化した富豪層の一部を懐柔して軍団に取り込みました。

 そのうち国司の任期を終えても帰京せず、大勢の従者を抱えて関東の未開の荒野を田畠に開発し、土着する貴族が現れます。その代表が桓武平氏の平高望で、東国の有力者の妻を娶り、その息子たちが各地に拠点を築きました。こうした有力者は私営田領主として広大な荒野を開発して富を築くとともに、他の有力者や国衙による侵略から守るために、武装して武士団となりました。こうした状況で10世紀半ばには平将門の乱と藤原純友の乱が相次いで勃発し、朝廷はその対策として軍事を家職とする貴族を設け、清和源氏と桓武平氏と秀郷流藤原氏という有力な郡司貴族が成立します。当時、特定の家柄による特定の職務の世襲(家職化)が進んでおり、これは官僚制の理念に反するものの、世襲により職務の知識と人材が蓄積される李典もありました。ただ、10~11世紀の軍事貴族は四位~五位の中流貴族にとどまり、まだ摂関家の番犬のような存在でした。

 上述のように10世紀の乾燥化により多くの古代集落が消滅したと考えられ、10世紀末に降水量は回復したものの洪水が起き、11世紀初頭には再び高温・乾燥に転じ、旱魃と洪水が交互に襲いました。しかし、1050年代になると降水量は適度な水準で落ち着き、年ごとの変動幅も小さくなり、洪水と旱魃の記録も顕著に減りました。11世紀半ばからの比較的安定した気候下で、それまでと異なり開発した農地を安定的に維持できるようになり、農業経営も好転したようです。考古学的研究によると、地域差はあるものの、11世紀半ば頃から新たな集落が出現した、と明らかになっています。

 上述の国司苛政上訴は各国で盛んとなり、記録に残っているだけでも2~4年おきに発生していますが、1040年に2件起きた後は1052年に1件あっただけで収束しています。この安定化は、集中しすぎた国司の権力を制限し、苛政上訴の首謀者だった地方有力者に新たな利権を与えて、農地の開発と国衙の運営に参加させる、という改革により達成されました。具体的には、公田官物率法の制定や、国免荘を整理した荘園整理令や、新たな開発促進策である別名制の導入や、その結果としての郡郷制の改編などです。また、10世紀後半から進んできた在庁官人の成長や、役職と土地の権利の世襲権である「職(所職)」の形成もあり、11世紀半ばには次代を担う新たな地方豪族である在地領主(開発領主)が出現します。「職」には、果たすべき役割と収入(得分)がありましたが、職の所有者が果たすべき役割を怠ると、没収されて別人に与えられることもありました。

 11世紀半ばに朝廷は、国司苛政上訴の原因となった国司の課税についての裁量権を弱め、官物の税率を勝手に変更できないようにしました(公田官物率法)。この税率は国ごとに決められ、税目と品目も単純化されて、律令制の残滓が消え、中世的な年貢・公事が出現しました。11世紀半ばの荘園整理令は、内裏再建費用など一国単位の負担(国宛)が命じられたさい、官物や臨時雑役を減免された荘園が多いほど公領の負担が重くなることへの対策でした。そこで、新規の国免荘を停止するとともに、荘園が増加しても国宛の費用が調達できるような仕組み(一国平均役)も導入されました。

 10世紀後半以降、在庁官人と呼ばれる国衙の実務の担い手が台頭します。摂関期に受領国司に権限が集中とるなか、それを補佐する専門部署(所)が形成されました。たとえば、税の徴収・出納・管理をになう税所や調所などです。国司によりこうした「所」を運営する役人として採用された現地の有力者が在庁官人です。受領は当初、引き連れてきた従者に徴税などの業務を担当させましたが、地元との摩擦が多く、地元に根付いた有力に国務を任せるようになります。在庁官人による国衙の運営が定着すると、国司は任国に赴く必要がなくなり、内裏の目代を派遣して自身は都で暮らすようになります(遥任)。国司が不在の国衙は留守所と呼ばれ、国司は庁宣と呼ばれる命令書を目代に送って留守所を指揮しましたが、国衙行政は実質的に在庁官人により運営されるようになります。

 11世紀半ばには、公領を再開発した有力者に対して、国衙がその土地の管理権・徴税権を与え、郡郷を経由せずに国衙に直接納税させるようになります(別名制)。別名とは、国衙の特別の命令である別符を与えられた名という意味です。別名の領主には国衙が文書を発行して特権を認め、以前よりも私領の権利が強くなるととみに、別名では雑公事が免除され、官物は3年間の免除の後に減免されました。その代償として、別名の領主には、古代には郡司や古代村落の役割で、摂関期には国司や田堵に継承された観農の責任があり、以前よりも権利が安定した別名の領主は、より長期的展望で勧農を行なえるようになりました。別名などの設立により、国内の支配形態は律令制下の国→郡→里(郷)から、公領において郡や郷や別名や保や院などさまざまな徴税単位が国衙に直属する体制へと変わり、郡は徴税単位の一つとなります。摂関期は、荒廃地の開発を優遇した結果、田堵や私領主が耕地をわざと荒廃させるなど、不安定な競争社会でしたが、別名制の導入により、過度な競争の弊害が是正されていきます。

 こうした在庁官人の形成や別名制の導入や「職」の形成といった制度と社会の変化から、11世紀半ばの地方社会に新たな有力者(在地領主)が出現しました。在地領主は、在庁官人を中核に、別名の領主や荘官などで構成されていました。在庁官人の多くは受領に伴って都から来た中下級貴族の末裔で、在地領主として地方豪族の地位を確立してからも、中央での拠点を捨てたわけではなく、中央官人に復帰したり、中央貴族と主従関係を結んだりしており、これが西欧などとは違った日本中世社会の特徴となります。ただ、摂関期には、在庁官人が国衙行政を実質的に担ったとはいっても、決定権は国司にありました。

 1068年に即位した後三条天皇は、翌年に荘園整理令を出します。それまでの荘園整理令は、実施が人事権を貴族に掌握されている国司に委ねられており、貴族の荘園に不利益な判断をしにくいため、あまり効果的ではない、という問題を後三条天皇は克服するため、国司ではなく中央政府が直接的に荘園整理の実務を担うこととして、太政官に記録荘園券契所を設置し、荘園領主から証拠文書を提出させ、国司からも事情を聴取し、天皇の名のもとで荘園の存廃を判断しました(延久の荘園整理令)。延久の荘園整理令の内容は以前のものと大きく変わりませんが、徹底的な実施が特色で、摂関期には常に揺れ動いていた荘園と公領の境界が明確になり、荘園の存廃は4年任期の国司との面倒な折衝ではなく、記録荘園券契所が事務的に判断するものとなりました。しかし、延久の荘園整理令は、天皇・上皇や摂関といった太政官よりも上位の権力の明確な意思で回避できました。これにより、当初の政策意図とは逆に、太政官を超越した上皇や摂関からに特権を与えられた領域型荘園が成立していくことになります。

 院政は、白河天皇が父である後三条天皇の遺言(白河天皇の弟の輔仁を後継者とすること)に反して息子に皇位を継承させたいという個人的事情から始まりましたが、近年では院政の開始以降を中世とする見解が有力です。院政期に、山野も含めた領域内の開発・経営を一括して在地領主に任せて自由に手腕を発揮させる、領域型荘園が出現します。院政期には、上皇や天皇やその后が願主となって設立された寺院(御願寺)など、建設が相次ぎ、その所領として新たに荘園が設立されていきました。摂関期の免田型荘園は、免田の集まりと東西南北の境界を示す四至で区切った開発予定地から構成されることが多く、開発予定地に新田を開けば、私有権は認められても公領並みに課税され、それを防ぐには太政官から簡単には下りない不入の権の認可を受ける必要があったのに対して、白河上皇が設立した荘園は、上皇の世話をする役所である院庁の命令で設立され、最初から四至内の不輸・不入が認められました。四至の意味が、開発予定地から支配領域へと変わったわけです。摂関家も、院政の開始により政治力を削がれつつも、天皇家と並んで領域型荘園を設立していきました。

 領域型荘園は、在地領主の成長を促しました。在地領主を上皇や摂関に仲介し、荘園設立の実務を担ったのは、院近臣や后妃の女房や摂関家の家司といった中央貴族で、領域型荘園では、上皇や摂関家→中央の中級~下級貴族→在地領主という三階層の領主権が成立しました(職の体系)。白河上皇の次の「治天の君」となった鳥羽上皇の治世下で巨大な天皇家領荘園群が形成され、競うように摂関家も荘園を拡大し、日本の国土の半分強が荘園となりました。国衙の管理下にある公領は依然として国土の半分弱を占めていたものの、国衙の支配権を皇族・貴族が所有する知行国制と相まって、荘園は社会制度の基幹を占めるようになります。

 荘園史の解説でよく使われてきた「寄進地系荘園」という用語は、免田型荘園と領域型荘園のどちらを指すのか曖昧で、院政期における領域型荘園の設立という荘園史上の重大な画期が埋没します。免田型荘園での寄進は、貴族の権威を借りて、荘園を国司の干渉・収公から守ることを目的としていましたが、領域型荘園での免田の寄進は、上皇や摂関家の権力により広大な領域を囲い込む種としての寄進です。また、免田型荘園が免田と開発予定地から構成されるのに対して、領域型荘園は山野も含めた領域全体が荘園となり、国司の使節の立ち入り拒否できる不入権が刑事権と裁判権にまで拡大し、一種の治外法権的な領域となりました。さらに、免田型荘園は寄進者と被寄進者の二階層で成立しているのに対して、領域型荘園は本家と領家と荘官の三階層から構成されるピラミッド型の支配体制を成立させました。免田型荘園と領域型荘園との間にははっきりとした変革があります。

 源頼朝の挙兵から鎌倉幕府成立までの政治過程は、荘園史に重要な影響を及ぼしました。敵方の職(所職)が軍功の恩賞となり、それが朝廷から追認されたことで、荘園・公領に形成された所職は実質的に土地支配権であるため、土地を媒介した主従性という西欧封建制と似た体制が日本でも成立しました。次に、領域型荘園に成立した本家と領家と荘官の三層の領主権のうち、在地領主が務める荘官の地位が向上し、荘園制の上位優位の構造が変化したことです。鎌倉幕府の成立により地頭職の任免権を幕府が握り、荘園領主・知行から解任されることはなくなり、地頭職を持たない御家人でも、荘園領主・知行国主から不当な扱いを受ければ、幕府に訴え出られました。その結果、本家と領家の荘官に対する支配権は弱まり、中世荘園制の「職の体系」に、荘官層を対象とした主従性の楔が撃ち込まれたわけです。さらに、関東と東北が鎌倉幕府の直轄地域となり、朝廷の支配からある程度独立した地域となって、その独立性は中世を通じて維持されました。

 しかし、鎌倉幕府の発足により荘園制が破壊されたわけではなく、むしろ安定化した側面もありました。寿永2年10月宣旨で頼朝が東国の支配権を認められたのは、東国からの年貢進上を回復するためで、鎌倉幕府の権力の正統性は、荘園・公領の所職に伴う義務を遂行するところにあり、領家に対する年貢の未進を繰り返したとして、鎌倉幕府から解任された地頭は珍しくなく、鎌倉幕府は在地領主の離反による荘園制の崩壊を押しとどめる役割も果たしました。また鎌倉幕府は、武力と裁判により荘園の紛争を抑止する役割も果たしました。頼朝は中世貴族社会の秩序に組み込まれ、その権力構造の一翼を担い、頼朝直系の将軍が絶えた後も、鎌倉幕府は天皇家や摂関家と並ぶ権門として中世国家の一翼を担いました。

 院政期から平家政権期における領域型荘園の多数の設立にも関わらず、日本全土が荘園になったわけではなく、鎌倉幕府の成立により院政の権力は衰え、上皇や摂関家による新たな領域型荘園の設立は稀になりました。在地領主の側も、鎌倉幕府の御家人になることで権益を守ることが可能となり、中央貴族に所領を寄進する必要もなくなりました。荘園と公領の比率は全国ではおおむね6対4でしたが、立地条件の違いを考慮すると、生産力では同等だったかもしれません。ただ、国衙は知行国制に組み込まれ、院近臣や摂関家の家司に公領の郡郷や保が給分として与えられ、在地領主の郡郷司や保司が現地を管理するという点で、公領は本家→領家→荘官という荘園と似た構造をしていました。中世の荘園制を、荘園や郡郷保などの独立的領域を単位として、天皇家や摂関家を頂点として権門が緩やかな主従制により支配した体制と考えると、公領の支配構造も荘園制の一環として把握できます。

 こうして成立した中世の領域型荘園は独立した小世界で、不入権は警察権全般にまでおよび、守護の管轄となる殺人と謀叛を除いて、荘園の領域内の犯人を逮捕し、財産を没収して処罰する処断権を有していたのは荘官でした。荘園での大きな身分区別として、特定の主人がいて移動を制限された下人(実際には、逃亡が頻繁に起きていました)と、主人を持たず移動は自由だった百姓がいました。この身分差は経済的な上下と一致しているわけではありません。中世の荘園を特徴づける土地制度の単位が名で、摂関期の負名が1年~数年単位の請負だったのに対して、中世では名の保有権が名主職と呼ばれて、子孫への相続も可能な家産となりました。ただ、名主職の任免権は荘園領主にあり、領主の交代などで荘園の体制が大きく変わると、それまでの名主職が無効になることもありました。名主は名に属する田畠を自由に耕作できましたが、一部を名主の家族と下人による直営で耕作し、残りを小百姓に請作に出すことが多く、その場合は小百姓から年貢の1~2倍となる地代(加地子)を徴収しました。名が耕作と徴税の単位だったのに対して、荘園の中の地域的まとまりは村や郷と呼ばれ、近世には村が行政単位となりましたが、荘園制では村に制度上の位置づけは与えられませんでした。しかし村では、各名や下地中分の領域を越えて、村に居住する人々の助け合いが行なわれ、村の鎮守社が祀られていました。

 中世の荘園では名や在家を単位にさまざまな税が課され、主には年貢です。年貢は基本的に米で計算されましたが、地域によっては絹布や麻布のような現物貨幣としても用いられる産品や塩や鉄や紙などが納められました。年貢以外の雑税は公事と呼ばれ、荘園領主や荘官が必要とする細々とした物品や労務です。荘園に課された年貢や公事は、領主が年間に消費する物品を計画的に割り当てたもので、各地の特産物もありました。すでに摂関期には受領が徴発した官物や臨時雑役を都に送る官製の流通機構が発達しており、中世には商業的な請負業者が成長しました。問や問丸は、瀬戸内海や北陸地方などの海運路の重要港津や都市や宿場町などに居住し、荘園の年貢・公事の保管・運送・中継・売買などに従事した倉庫・運搬業者で、荘園領主から問職に任命され、一種の荘官として年貢の運送に関わりました。荘園には、交通の要衝に市場が開かれ、荘園内と周辺の住民や都方面から訪れた商人との間で取引が行なわれました。市場は常設ではなく、鎌倉時代前半には月に3回(三斎市)の場合が多かったものの、鎌倉時代後半には月に6回開かれるようになりました(六斎市)。

 13世紀後半以降、荘園制には大きな変化がありました。鎌倉幕府は公領の郡郷司職や荘園の下司職を、上位領主の任免権を無視して、地頭職として御家人に与えましたが、知行国主・国司や本家・領家の領主権は否定せず、地頭は年貢・公事納入の義務を引き継ぎました。しかし、荘官の任免権を失った本家・領家の立場は弱くなり、荘園支配をめぐって地頭と領家の紛争が頻発するようになりました。この問題の解決方法は大別すると二つあり、一方は領家が地頭に荘郷支配の全権を委任し、地頭に一定額の年貢・公事の納入を義務づける地頭請で、もう一方は、領家と地頭で支配領域を分割し、相互に干渉せずそれぞれの領域を支配する下地中分です。本家と領家との間でも領主権をめぐる争いが起き、領家と地頭との間と同じく、多くは下位の領家優位で決着しました。鎌倉時代の本家には、院政期のような強大な権力はなく、鎌倉幕府に倣って整備された公家の裁判制度も、領家の権利を保護する方向に作用し、地頭職の設置により領家が人事権を失ったように、本家も領家の人事権を失っていきました。本家は他者に補任されたり義務を負ったりする立場ではないので、職ではありませんでしたが、本家から領家や荘官が自立していくと、本家が領主権を維持するには荘務を直接掌握することを迫られ、領家とやることは変わらなくなり、本家職と呼ぶようになります。荘務権をめぐる争いに勝ち、荘園を実質的に支配した荘園領主は本所と呼ばれます。こうして鎌倉時代後期には、荘官が領家から、領家が本家から自立していき、また本家が領家を排除し、荘園における三層の領主権状態が崩れ、一つの荘園領域を一つの領主が支配するようになりました(職の一円化)。これにより、天皇家・摂関家の本家を頂点とする、「職の体系」は崩れていきました。こうして成立した一円領を誰が支配しているのかは、荘園と公領の区別よりも重要となり、鎌倉時代後期からの荘園制は「寺社本所一円領・武家領体制」とも呼ばれます。

 13世紀後半には宋銭の流通が拡大し、まず現物貨幣として用いられてきた麻布や絹布で代銭納化が進みました。13世紀後半に江南も支配した大元ウルスが銅銭の使用を禁じると、大量の銅銭が日本にもたらされ、米をはじめとして年貢品目全般の銭納化が進みました。年貢の代銭納化は、荘園領主にとっては都市生活での貨幣需要、問・問丸にとっては年貢物運送の効率化と商品化の利益、荘官にとっては年貢物送進の利便性と監禁利益、百姓にとっては雑多な公事物の調達や人夫役からの解放という利益があったので、進展したと考えられます。しかし、年貢の代銭納化は荘園領主と住民との間に、情緒的な人的つながりの減少という、少なからぬ心理的変化をもたらしました。また年貢の代銭納化により、港湾都市などを拠点都市、年貢の収納や年貢物の売買により莫大な富を蓄える人々(有徳人)が現れました。

 鎌倉時代後期に進んだ職の一円化や貨幣流通の進展に伴い、悪党と呼ばれる人々が出現します。悪党が関わる紛争は、大きく4通りに区別できます。それは、(1)職の一円化の動きに乗じて中小の在地領主が勢力を拡大しようとした紛争、(2)年貢代銭納の普及により実入りがよい職になった荘園代官の地位をめぐる紛争、(3)貨幣流通の進展に伴って成長した港湾都市の利権をめぐる紛争、(4)紛争当事者に雇われて武力を提供した「ならず者」集団の乱行です。鎌倉時代後期には、荘園の支配や年貢収納を代行する代官が増えました。代官は、貴族や寺社に限られる領家職や御家人に限られる地頭職など所職の領有物から職権の代行を委託され、身分上の制約はありませんでした。代官に世襲権はなく、年貢・公事の納入が滞ると契約を切られましたが、その場合も代官は簡単には引き下がらず、武力も行使して荘園に居座り、略奪などを行ない、これは(2)の事例となります。鎌倉時代後期には、執権北条氏による幕府政治の独裁化が進むなど、政治的にも不安定要素が現れました。北条氏は多くの御家人を滅ぼし、所領を奪ってきただけに、御家人の間で北条氏への不満が高まっていきました。

 鎌倉時代から室町時代への移行期では、短期間に終わった建武政権期において、御家人制が廃止されたため、御家人が務める地頭という制度もなくなり、地頭職は単なる職の名称にすぎなくなりました。本家が天皇家・摂関家という制約もなくなり、寺社や貴族が地頭職や本家職を所有することも普通になって、これら所職は互いに上下関係を持たない土地の支配権として同質化し、鎌倉時代後期から進んだ「職の一円化」が完成しました。建武政権は短期間で崩壊し、朝廷が二分される南北朝時代が到来して源平の争乱よりもずっと長期にわたり、室町幕府は前線の守護の権限を拡大し、より多くの軍勢を集めて、兵粮など補給物資を確保するよう、便宜を図りました。御家人制は廃止されており、守護の管国内に所領を有する全ての武家は、守護が課した軍役に従わねばなりませんでした。こうした武家は国人と呼ばれ、要求された軍勢を提供できないと、守護に対する敵対行為とみなされ、所領が没収されることもありました。

 兵粮確保のため、守護とその配下の武士は貴族や寺社の所領を不法に占拠して兵粮を調達し、室町幕府は南朝相手に苦戦した1352年に、半済令により守護が寺社本所領の年貢の半分を兵粮として徴収することを認めました。守護はこの権限を配下の武士に分け与え(半済給人)、兵粮米の徴収という権限を越えて、その土地の支配権まで奪うこともありました。守護は兵粮米の他にも、馬の飼料や材木や人夫などを寺社本所領から徴発しました(守護役)。町幕府は土地紛争の実力行使による解決を禁じ、守護に取り締まるよう命じました。守護は室町幕府の決定の強制執行も担当し、時には武力も用いました(使節遵行)。守護は国衙機構も吸収しました。鎌倉時代には在庁官人の大半が御家人となりましたが、国衙の機能自体は依然として知行国主の指揮下にありました。しかし、南北朝時代になると、国衙の機能も守護権力に吸収されました。荘園・公領の所職や半済地や闕所地や守護請所などから構成される守護領は守護の経済基盤となり、配下に与える給所にもなりました。国人の一部は守護から給所を与えられ、主従関係を結んで被官となり、守護の軍事力の中核となりました。

 守護が管国の支配権を強めた結果、領主のいる場所から遠くにある荘園の支配は困難になりました。鎌倉時代までは、所職を所有していれば、遠隔地からも荘園領主に年貢が送られてきました。東国武士も承久の乱後に西国に地頭職を獲得し、一族を移住させたり代官を派遣したりして、支配していました。しかし、内乱が激化すると、領主が現地に不在の荘郷は、当地の守護やその配下の国人により占拠され、武力を有さない寺社本所領や、兵力を充分に提供できない武家領の押領が多発しました。このように南北朝時代に権限を拡大し、管国の支配力を強めた守護は守護大名と呼ばれますが、地方を独立国家のように治める権力はなく、守護の任免権は将軍にあり、将軍の意向による交代も多くありました。守護が国人を動員できるのは守護職にあるからで、一部の被官を除く国人は守護家の家臣になったわけではなく、守護が交代すれば、大半の国人は新任守護に従いました。

 寺社本所領の押領や半済が行なわれたので、荘園制は南北朝時代に滅びた、との理解が以前はありました。戦後歴史学では、王朝貴族と宗教勢力が地方を支配する荘園制は、在地領主層を束ねた封建領主制により克服される、と想定されました。南北朝時代には、荘園を押領した国人が守護と主従関係を結ぶことで、守護が一国を排他的に支配する地域的封建制を確立し、室町幕府はそうした守護大名の連合政権と把握されたわけです。しかし、1360年代に長期にわたる戦乱が終息へと向かい始めると、室町幕府は寺社本所領を回復し、貴族や寺社が担っていた儀式や学問や修法などの機能の再興を図りました。1368年、室町幕府は応安の半済令を発布し、寺社領と禁裏御領(天皇家領)と殿下渡領(摂関家当主の所領)を特別に保護し、半済を禁じて全体を変化することと、今後は新たな半済を行なわない、と定め、各国の守護代を京都に招集して遵行の徹底を命じました。守護大名は一国を排他的に支配する権力ではなく、守護在京制により守護大名が京都の領主社会に組み入れられ、「職の体系」とは別の形ではあるものの、京都に集住する諸領主層が地方の所領を支配する体制が再建され、室町時代にも荘園制は存続しました。

 しかし、荘園制の内実はしだいに変わっていきました。13~14世紀の農村では集村化が進み、それは、農地の量的拡大が限界に達したので、集落内の土地を高度に利用するためだった、と考えられています。水田や畑地にできる場所はできる限り水田や畠として、残った場所で居住に適した地に家屋を集中させた、というわけです。当時の住居の場所の多くには現在でも家屋が建っており、めったに発掘調査が行なわれないので、西日本では14世紀以降の集落遺跡が発掘でほとんど検出されなくなります。一方関東では、14世紀に栄えた集落が廃絶した後、違う場所に集落ができることも多かったようです。また、地形条件などにより、全ての場所で集村化が進んだわけではありませんでした。しかし、耕地や山野の高度利用は、15世紀前半から表面化した荘園荒廃の一因になった可能性が高く、各荘園が野放図に自然を利用するのではなく、過剰利用に至らないよう管理する仕組みが次の時代には求められました。

 集村化前には名ごとに屋敷地があり、多くの場合その周囲に名の田畠が付属していましたが、集村化すると名の田畠は複雑に入り組むようになります。その結果、農作業は名単位ではなく村落として取り組むようになり、農民同士の結びつきは強くなった、と考えられます。名の制度は依然として続きましたが、経営の実態から離れ、所有と徴税の単位としての役割に限定されていきました。村落の成長は百姓の農業経営の安定にも役立ち、百姓の経営は領主から自立していき、領主や荘官の仕事は、村落を越えた問題の処理や、外部からの侵入に対する防衛や、役を課してくる守護権力との折衝や、徴税に限られるようになります。横の連対により力を強めた百姓は、名主職の所有権への侵害、水害・旱害による年貢の減免、代官の非法、新たな課役賦課などに対して、集団で領主と交渉するようになりました。

 南北朝時代には年貢の代銭納が普及し、大量の商品が地方から京都へと送られました。その構造を利用して銭を運ばず送金する仕組みが割符で、京都の他に堺や兵庫や坂本などの港湾都市の商人が発行しました。割符は、商人が銭を持参しなくても地方での仕入れが可能で、地方から年貢を納めるのに銭を送らなくてすみました。仕入れた荷を京都で売ると利益が出るので、送金手数料も不要でした。割符は高額なので、扱えるのは信用のある商人に限られていました。割符は京都と地方の間を頻繁に往還している商人の存在を前提とした、商人の信用に基づく仕組みでした。

 南北朝・室町時代の荘園支配には代官請負がよく用いられ、代官は所職の権限を領主に代わって代行し、荘郷の経営を請け負い、契約した額の年貢銭を納めました。荘園代官に登用される人員は大きく三区分され、領主の組織内の人員(寺社本所領では寺院の下級僧侶、貴族の家司、武家領では惣領の庶子や被官など)、僧侶や商人、武家代官(荘園近隣の国人、守護や守護代、守護被官、幕府奉行人など)で、代官が別の代官(又代官)に再委託することも珍しくありませんでした。領主の組織内の人員を採用すると、未進や押領の危険性は小さいものの、代官兼任により組織内での本業が疎かになり、荘園経営の専門家ではないので業務に必要な財力や人脈に欠けるところがありました。僧侶や商人は財力と人脈があるものの、未進の危険性がありました。武家代官は、武力と人脈を頼りにできたものの、未進と押領の危険性がありました。代官の権限には、領主の監査を受ける場合と、遠隔地の所領に多い、定額の年貢納入の義務の代わりに荘務を全面的に委任する場合がありました。

 室町時代の荘園では、現地で守護や国人が支配を拡大しようとしていたものの、禅僧や土倉・酒屋による代官請負も広く行なわれ、複雑な代官契約の連鎖により荘園支配が行なわれていました。荘園領主にとって、組織外の人員を代官に起用することは荘園経営の「外注」で、外注化は担い手の集約でもあり、五山派禅寺の東班衆のような荘園経営専門のコンサルタント集団が生まれ、金融業と荘園経営の相乗効果で、土倉・酒屋は巨額の利益を上げました。しかし、禅僧や土倉・酒屋が代官として活躍できたのは、室町幕府により取引の秩序が維持され、守護権力により地域の治安が維持されていたからでした。また、代官や荘官が指示や援助をしなくても、村落での助け合いで農業生産を維持していたことも一因でした。室町時代にはこうした社会基盤において、年貢徴収権を与える所職が、あたかも利得を生む証券のようにやり取りされていました。代官請負制は中世荘園制の最終段階に現れた支配形態で、それ自体は合理的な面があり、室町時代の経済は反映しましたが、荘園経営の外注化による領主権の空洞化と弱体化を招き、社会を不安定にしていきました。

 室町時代には百姓の農業経営の安定と村落の発達により、百姓の力は強まりましたが、一方で守護権力の拡大により守護からの役が課され、代官が強引に年貢・公事物を取り立てました。こうした課税の強化に対して百姓は、代官や荘官を訴えて一揆逃散し(集団で荘園から逃れ、近隣に潜んで田畠の耕作を拒否)、代官や荘官を解任に追い込み、意に沿わぬ代官の就任を阻止しました(荘家の一揆)。気候では、南北朝・室町時代は気温と降水量ともに変動が激しく、その激しい時期と南北朝内乱の最も劇化した時期が重なります。15世紀初頭は少雨傾向になり、飢饉や用水をめぐる争いが起きました。1423年頃からは一転して多雨傾向になり、各地で洪水が頻発しました。また気温がこの頃より急上昇し、高温化により降水量が減少する傾向にある日本列島では珍しく、高温と多雨が重なり、洪水が起きました。こうした水旱害の被害を大きくした一因として、室町時代における建築の隆盛による山林の破壊があったかもしれません。こうした不安定な気候により農業生産も打撃を受けて物価が上がり、土一揆の原因となりました。

 相次ぐ災害により荘園も荒廃し、荘園領主は新たな用水路を引くなど対策を立てますが、近隣の荘園の利害に抵触することもあり復興は順調にいかず、地域社会を領域型荘園という独立した小世界で区切る荘園制の限界が露呈し始めます。室町時代の秩序を維持していた幕府の政治も嘉吉の乱以降は迷走し、将軍による統制の弱体化により、管国を排他的に支配しようとする守護による荘園の押領が再度本格化します。諸大名の後継者をめぐる争いの激化に端を発した応仁の乱が1467年に始まり、荘園制の核だった京都が主戦場となったので、京都に結集していた諸領主と商人の活動は深刻な打撃を受けました。応仁の乱により室町時代の荘園制を支えていた守護在京制は瓦解し、守護は五山領荘園や幕府御料所や幕府直臣領も押領していきました。1493年の明応の政変により室町幕府の権威は決定的な打撃を受け、政変の首謀者である細川政元が1507年に殺害されると、諸勢力が京都の争奪戦を繰り返し、相次ぐ戦乱により京都の人口は元和章氏、政治・経済的重要性も低下しました。これにより、荘園制の求心的な経済構造、地方から京都へと向かう物流、京都と地方を往還する商人のネットワークも致命的な打撃を受けました。

 応仁の乱の後、守護の下国により荘園制はほとんど崩壊しましたが、何百年も続いた制度なので、すぐにはなくならず、武家代官や守護請により少額の年貢が納入され続けた荘園は少なくありませんでした。地方の荘園支配が成り立たず、困窮した荘園領主の中には、摂家の当主である九条政基のように荘園の現地に下る者も現れました。中世荘園制では田畠・屋敷地などが名に分割され、有力百姓は名主に任じられ、その経営と納税を請け負っていました。荘民は名主と小百姓から構成され、名主は名田畠を自ら耕作するとともに、小百姓にも耕作させて加地子を徴収しました。しかし室町時代には、名の枠組みが有名無実化し、名田畠の耕作を請け負う名主の役割も形骸化して、個々の田畠を耕作する農民が、荘園領主に年貢・公事を、名主には加地子を納入するようになり、加地子も年貢の一種との観念が生まれました。南北・室町朝時代には名田畠に対する名主の所有権が確立し、名田畠の売買も盛んに行なわれるようになり、15世紀には、広く田畠を買い集め、耕作する小百姓から加地子を収取する小領主が出現しました(土豪、地侍)。江戸時代以降の地主とは異なり、土豪は経済的実力に加えて地域社会での侍身分と認められ、名字を持ったり、権守といった官途(官職)を名乗ったりしました。荘園領主から任命される名主とは違い、土豪は室町時代の地域社会が生み出した独自の支配身分でした。

 集村化とともに村が農業経営や相互扶助に果たす役割は大きくなっていき、土豪の成長と並行して村落結合もいっそう強まり、畿内近国を中心に「惣」と名乗る村落が出現します(惣村)。惣村では土豪・平百姓を問わず村の全住人が構成員とされ、住人の自治による強い集団規制が布かれました。惣村出現の背景として、飢饉など災害による田畠の荒廃に直面し、村民自らが耕地・用水などの農業基盤を整備し、周辺の山野も含めた環境の管理と、政治的混乱による治安悪化に対する集団自営の必要に迫られたからと考えられます。この危機的状況に対応できない荘園領主は百姓から見放されました。惣村の結成にあたって結集の核となったのは村落の鎮守社寺で、その祭祀を執行する村人の組織(宮座)での寄合にて祭祀の段取りとともに、農事や村人同士の争いも話し合われました。成人して宮座に入った村人は加齢とともに昇進していき、宮座は村が自衛する時には軍隊組織ともなりました。15世紀の荘園にはこうした新たな村落が成長し、かつての荘官の業務の大半は村落が担うようになり、荘園によっては村落が年貢の徴収を請け負いました(百姓請、地下請)。荘園は経営や支配の枠組みとしての実態を失い、荘園の名称も地域から消え、村や村の連合である郷が地域の枠組みとなって近世に継承され、村が年貢の納入を請け負うことになります(村請制)。

 国人領主は15世紀半ばには、荘園を越えた広範な領域の支配者である国衆へと変わりました。国人領主は本拠地に荘園所職を集積し、個々の所職を越えた支配領域を形成したものの、荘園の代官職や守護からの給地を含む不安定なものでした。しかし、15世紀半ばに室町幕府の統制力が衰えると、国人は代官職や給地として与えられた土地も実力で支配し、周辺の国人と抗争しつつ勢力を拡大し、郡の水準の領域を支配するようになりました。こうした領主は国衆と呼ばれます。この過程で荘園の名称は消滅して支配の枠組みとしての実態を失い、地域社会から消えました。国衆は戦国大名に束ねられ、その重臣層を形成します(関連記事)。こうして院政期に始まった中世荘園制の400年の歴史は終わりました。

 日本の荘園、とくに院政期以降の中世荘園(領域型荘園)の歴史は、小さな地域の自治権を最大に、国家や地方政府の役割を最小にした場合、何が起きるのか、という400年にわたる社会実験と言えるかもしれません。中世後期には耕地が安定し、後代に引き継がれたため、近世以降に新田が開発された地域を除くと、半世紀ほど前までは中世荘園の痕跡が各地に残っていました。しかし、1963年から農業機械化のために圃場整備事業が始まり、日本の農村の耕地は大きく変わり、中世から引き継いだと思われる田地の形やその地名や用水系統が改変され、中世荘園研究の手がかりを消してしまうことになりました。しかし、この問題は当時から認識されており、圃場整備前に耕地の形状や地名や用排水の状況を記録して保存する事業が行なわれ、また従来の景観がおおむね維持された場所もあります。

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