新疆ウイグル自治区の青銅器時代の人類の遺伝的起源
中華人民共和国新疆ウイグル自治区の青銅器時代人類集団の遺伝的起源に関する研究(Zhang et al., 2021)が公表されました。アジア内陸部の中心に位置する中華人民共和国新疆ウイグル自治区の最初の居住者の正体、およびその集団が話していた言語については長年議論が続いており、今なお異論があります。本論文は、ジュンガル盆地の紀元前3000~紀元前2800年頃の5個体と、タリム盆地の紀元前2100~紀元前1700年頃の13個体のゲノムデータを提示します。これらはそれぞれ、新疆ウイグル自治区の北部と南部で出土したこれまでで最初期のヒト遺骸です。
得られたゲノムデータから、前期青銅器時代のジュンガル盆地の個体群はおもにアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)を有しており、さらに同地域の祖先系統の追加の寄与も受けていた一方、前期~中期青銅器時代のタリム盆地の個体群は在来祖先系統のみを含む、と明らかになりました。タリム盆地の小河(Xiaohe)墓地遺跡で発見された個体からはさらに、歯石中に乳タンパク質の存在を示す強力な証拠が得られ、この地での居住の開始当初から人々が酪農牧畜に依存していた、と示されました。
この結果は、タリム盆地のミイラが、アファナシェヴォ文化集団を祖先とするトカラ祖語話者の牧畜民か、バクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex、略してBMAC)または内陸アジア山地回廊(Inner Asian Mountain Corridor)文化に由来する、とした以前のいずれの仮説も支持しません。対照的に、トカラ語は前期青銅器時代にアファナシェヴォ文化からの移住者によりジュンガル盆地にもたらされた可能性が高いものの、タリム盆地の最初期の文化は、近隣の牧畜民および農耕民の習慣を取り入れた遺伝的に隔離された集団において出現したと見られる、と分かりました。タリム盆地の人々はこうした文化により、タクラマカン砂漠の移動性の河川オアシスに沿って定住・繁栄できた、と考えられます。
シルクロードの一部としてユーラシア東西の文化の地理的合流点に位置する新疆ウイグル自治区(以下、新疆)は、人々と文化と農耕と言語のユーラシアを貫く主要な交差点として長く機能してきました。天山山脈に二分された新疆は、ジュンガル盆地を含む北部と、タリム盆地を含む南部の、二つの地域に区分できます(図1)。新疆北部のジュンガル盆地は、遊牧民が伝統的に居住していた広大な草原に囲まれた、グルバンテュンギュト(Gurbantünggüt)砂漠で構成されています。新疆南部は、タクラマカン砂漠を形成する乾燥した内海であるタリム盆地で構成されます。タリム盆地は、ほぼ居住できませんが、小さなオアシスと河川回廊があり、氷河の融解による流出と周辺の高山からの雪により水が供給されます。
ジュンガル盆地内およびその周辺では、牧畜民の前期青銅器時代(EBA)アファナシェヴォ文化(紀元前3000~紀元前2600年頃)とチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化(紀元前2500~紀元前1700年頃)の遺跡群が、シベリア南部のアルタイ・サヤン地域のアファナシェヴォ文化牧畜民(紀元前3150~紀元前2750年頃)とおそらくつながっており、この牧畜民は3000km西方のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化と密接な遺伝的つながりがあります(関連記事)。
言語学者の仮定では、アファナシェヴォ文化の拡散は、インド・ヨーロッパ語族において紀元前四千年紀に他の言語系統と分離した、今では消滅した分枝であるトカラ語を東方にもたらしました。しかし、アファナシェヴォ文化関連祖先系統は、鉄器時代ジュンガリア盆地人口集団(紀元前400~紀元前200年頃)で確認されており、トカラ語は紀元後500~1000年頃のタリム盆地の仏教経典で記録されていますが、それ以前の新疆の人口集団、およびそのアファナシェヴォ文化集団もしくは他の集団とのあり得る遺伝的関係については、ほとんど知られていません。
1990年代後半以降、タリム盆地では紀元前2000~紀元後200年頃となる何百もの自然にミイラ化したヒト遺骸が発見され、そのいわゆる西洋的な身体的外見、フェルトや織物で作られた毛糸の服、ウシやヒツジ/ヤギやコムギやオオムギや雑穀やケフィアチーズを含む農耕牧畜経済のため、国際的な注目を集めてきました。そうしたミイラは今やタリム盆地全域で発見されており、そのうち最初のものは古墓溝(Gumugou)遺跡(紀元前2135~紀元前1939年頃)や小河(Xiaohe)遺跡(紀元前1884~紀元前1736年頃)や北方(Beifang)遺跡(紀元前1785~紀元前1664年頃)の墓地の最下層で見つかっています(図1)。これらおよび関連する青銅器時代遺跡群は、その共有されている物質文化に基づいて小河考古学層位内にまとめられています。以下は本論文の図1です。
小河考古学層位の起源と西洋要素の説明に複数の対照的な仮説が提案されてきており、たとえば、ヤムナヤ/アファナシェヴォ文化草原地帯仮説や、バクトリアオアシス仮説や、内陸アジア山地回廊(IAMC)島嶼生物地理学仮説などです。ヤムナヤ/アファナシェヴォ文化草原地帯仮説では、アルタイ・サヤン山脈のアファナシェヴォ文化関連EBA人口集団がジュンガル盆地を経てタリム盆地へと拡大し、その後の紀元前2000年頃に小河考古学層位を構成する農耕牧畜民共同体を形成した、と指摘されています。対照的に、バクトリアオアシス仮説では、タリム盆地に最初に移住してきた人類は、アフガニスタンとトルクメニスタンとウズベキスタンの砂漠のオアシスからアジア中央部経由で到来したBMAC(紀元前2300~紀元前1800年頃)だった、と指摘されています。この仮説の裏づけはおもに、砂漠環境への適応を反映している両地域間の農耕および灌漑体系の類似性と、両地域における麻苧属の儀式的使用に基づいています。IAMC島嶼生物地理学仮説では同様に、小河創始者集団のアジア中央部山脈起源が指摘されていますが、タリム盆地の西方および北方へのIAMCにおける農耕牧畜民の移牧と関連しています。これら3移住モデルとは対照的に、ヒンドゥークシュ山脈からアルタイ山脈にまたがるより広いIAMCは、人口集団ではなく文化的着想がおもに移動した、文化的地理的領域として機能したかもしれません。
最近の考古ゲノム研究では、シベリア南部の青銅器時代アファナシェヴォ文化とアジア中央部のIAMC/BMAC人口集団が識別可能な遺伝的特性を有しており(関連記事)、これらの特性は同様に、アジア内陸部の農耕牧畜民以前の狩猟採集民人口集団とも異なる、と示されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。このように、青銅器時代新疆人口集団の考古ゲノム調査は、ジュンガル盆地の人口史と青銅器時代小河考古学層位の起源の再構築に強力な手法を提示します。
本論文では、青銅器時代の33個体が調べられました。内訳は、ジュンガル盆地が尼勒克(Nileke)遺跡と阿依托汗(Ayituohan)遺跡と松樹溝(Songshugou)遺跡、タリム盆地が小河遺跡と古墓溝遺跡と北方遺跡です。ジュンガル盆地のアファナシェヴォ文化に分類されるEBA(紀元前3000~紀元前2800年頃)5個体の古代ゲノム配列と、紀元前2100~紀元前1700年頃となる前期~中期青銅器時代(EMBA)の小河考古学層位に分類されるタリム盆地の13個体のゲノム規模データの回収に成功しました。さらに、タリム盆地の小河遺跡の基底層の7個体の歯石プロテオーム(タンパク質の総体)が報告されます。これらの個体は、この地域における最初期のヒト遺骸を表しています。
●青銅器時代の新疆の遺伝的多様性
全ゲノム配列もしくは約120万ヶ所の一塩基多型のパネルのDNA濃縮により、33個体のうち18個体のゲノム規模データが得られました。全体として、内在性DNAは最小限の汚染水準でよく保存されていました。新疆の古代人口集団の遺伝的特性を調べるため、現代のユーラシア集団およびアメリカ大陸先住民集団の主成分がまず計算され、それに古代人が投影されました。古代の新疆の個体群は、PC1軸に沿って分布するいくつかの異なるまとまりを形成し(図2)、その主要な主成分はユーラシア東西の人口集団を分離します。以下は本論文の図2です。
アルタイ山脈近くの阿依托汗および松樹溝遺跡のEBAジュンガル盆地個体群(ジュンガル盆地EBA1)は、その北方のアルタイ・サヤン山脈のEBAアファナシェヴォ文化草原地帯牧畜民の近くに位置します。ADMIXTUREでの遺伝的クラスタ化は、この観察をさらに裏づけます(補足図3)。以下は本論文の補足図3です。
天山山脈近くの尼勒克遺跡の同時代の個体群(ジュンガル盆地EBA2)は、PC1軸に沿ってわずかに後のタリム盆地個体群へと移動します。EBAジュンガル盆地個体群とは対照的に、タリム盆地東部の小河遺跡および古墓溝遺跡のEMBA個体群(タリム盆地EMBA1)は、古代北ユーラシア人(ANE)祖先系統を高水準で共有する青銅器時代前のユーラシア草原地帯中央部およびシベリアの個体群、たとえばボタイ(Botai)文化銅器時代個体群と近い密集したまとまりを形成します。タリム盆地南部の北方遺跡の同時代の個体群(タリム盆地EMBA2)は、タリム盆地EMBA1からバイカル湖地域のEBA個体群に向かってわずかにずれます。
●ジュンガル盆地におけるアファナシェヴォ文化集団の遺伝的影響
外群f3統計は、ジュンガル盆地集団とタリム盆地集団との間の緊密な遺伝的つながりを裏づけます。それにも関わらず、ジュンガル盆地集団は両方、タリム盆地集団とは有意に異なり、ユーラシア西部人口集団との過剰な類似性を示し、ANE関連集団とのアレル(対立遺伝子)共有は少なくなっています。この混合された遺伝的特性を理解するためqpAdmを用いて、供給源として、タリム盆地EMBA1もしくはシベリア南部中央のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の末期更新世個体(AG3)との混合モデルが調べられました。AG3はANE祖先系統の遠位代表で、タリム盆地EMBA1との高い類似性を示します。タリム盆地EMBA1個体群はジュンガル盆地集団よりも年代がずっと後となりますが、ジュンガル盆地集団よりも、アファナシェヴォ文化集団の遺伝的にはより遠く局所的な在来祖先系統のより高い割合を有している、と示唆されます。本論文は、より新しく到来した集団と関連しているのではなく、何千年も地域に存在してきた遺伝的特性を示すために、「在来」と定義します。
ジュンガル盆地EBA1およびEBA2は両方、3方向混合モデルでの説明が最適と明らかになりました(図3c)。このモデルでは、両者はアファナシェヴォ文化からの主要な祖先系統(ジュンガル盆地EBA1では約70%、ジュンガル盆地EBA2では約50%)と、残りがAG3/タリム盆地EMBA1(19~36%)とバイカル湖EBA(9~21%)の混合としてモデル化されます。したがって、IAMCの寄与なしのアファナシェヴォ文化関連祖先系統は、ジュンガル盆地個体群のユーラシア西部構成要素の説明には不充分です。
また、EBA牧畜民文化であるチェムルチェクは、ジュンガル盆地とアルタイ山脈の両方でアファナシェヴォ文化を継承し、その個体群のゲノムは、祖先系統の約2/3がジュンガル盆地EBA1で、残りはタリム盆地EBA1およびIAMC/BMAC 関連供給源に由来する、と明らかになりました(図3)。これは、以前にチェムルチェク文化個体群で指摘されたIAMC/BMAC両方の 関連祖先系統と、報告されたアファナシェヴォ文化集団との文化的および遺伝的類似性の両方を説明するのに役立ちます(関連記事)。まとめると、これらの結果から、ジュンガル盆地へのアファナシェヴォ文化牧畜民の初期拡散は、局所的な在来人口集団とのかなりの水準の遺伝的混合を伴っており、シベリア南部におけるアファナシェヴォ文化の最初の形成とは異なるパターンです。
●タリム盆地集団の遺伝的孤立
タリム盆地EMBA1およびEMBA2集団は、地理的には600km以上の砂漠で隔てられていますが、かなりの人口ボトルネック(瓶首効果)を経てきた均質な人口集団を形成します。これは、密接な親族関係なしの高い遺伝的類似性と、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のハプログループの限定的な多様性により示唆されます(図1および図2)。qpAdmを用いて、タリム盆地個体群は2つの在来アジア遺伝的集団の混合としてモデル化されます。一方はシベリアのエニセイ川上流地域のアフォントヴァゴラ遺跡の上部旧石器時代個体(AG3)に代表されるANE(約72%)で、もう一方はバイカル湖EBAに代表される古代アジア北東部人(約28%)です(図3a)。北方遺跡のタリム盆地EMBA2も、タリム盆地EMBA1(約89%)とバイカル湖EBA(約11%)の混合としてモデル化できます。タリム盆地の両集団について、アファナシェヴォ文化集団もしくはIAMC/BMAC集団をユーラシア西部供給源として用いると、混合モデルは全て失敗するので、牧畜および/もしくは農耕経済を有する近隣集団からのユーラシア西部の遺伝的寄与は却下されます。
タリム盆地EMBA1の遺伝的特性の深い形成年代が推定され、ユーラシア西部EBAとの混合の欠如と一致し、この遺伝子プールの起源は、標本抽出されたタリム盆地個体群の183世代前、もしくは1世代29年と仮定すると9157±986年前です(図3b)。これらの知見をまとめて考慮すると、タリム盆地個体群の遺伝的特性は、小河考古学層位の最初の個体群が古代の孤立した在来アジア人遺伝子プールに属する、と示唆します。在来のANE関連遺伝子プールは、アジア中央部およびシベリア南部の牧畜民よりも前のANE関連人口集団の遺伝的基盤を形成した可能性が高そうです(図3c)。以下は本論文の図3です。
●タリム盆地の牧畜
タリム盆地の過酷な環境は、この地域への遺伝子流動の強い障壁として機能した可能性がありますが、着想もしくは技術の流動の障壁ではありませんでした。それは、酪農牧畜やコムギおよび雑穀農耕など外来の革新が青銅器時代タリム盆地経済の基礎を形成したからです。小河遺跡や古墓溝遺跡の墓地の上層から、毛織物、ウシやヒツジやヤギの角や骨、家畜の糞尿、乳やケフィアのような乳製品が回収され、コムギや雑穀の種子、麻苧属の小枝の束も発見されています。紀元前1650~紀元前1450年頃のミイラの多くは、チーズの塊とともに埋葬されてさえいました。しかしこれまで、この牧畜民生活様式が小河遺跡における最初期層も特徴づけているのかどうか、明確ではありませんでした。
最初の考古学的期間の食生活をよりよく理解するため、紀元前2000~紀元前1700年頃となる小河遺跡の7.個体の歯石のプロテオームが分析されました。7個体は全て、β-ラクトグロブリンやα-S1カゼインやα-ラクトアルブミンなど反芻動物の乳に固有のタンパク質について強く陽性で、ペプチドの回収は、ウシやヒツジやヤギの乳との分類学的診断の合致を提供するのに充分でした。これらの結果から、乳製品は小河遺跡墓地の最下層に埋葬されていた在来祖先系統の個体群(タリム盆地EMBA1)により消費されていた、と確認されます。しかし重要なことに、以前の仮説とは対照的に、タリム盆地個体群は遺伝的にはラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続ではありませんでした。むしろ、タリム盆地のミイラは、アジア内陸部および東部の先史時代酪農牧畜がラクターゼ活性持続遺伝子型とは無関係に拡大した、との証拠の増加に寄与します(関連記事1および関連記事2)。
●考察
新疆におけるヒトの活動は4万年前頃までさかのぼれますが、タリム盆地における持続的なヒトの居住の最初の証拠は紀元前三千年紀後期から紀元前二千年紀初期にしかさかのぼりません。その頃には、小河遺跡と古墓溝遺跡と北方遺跡において、木製の棺内に埋葬され、豊富な有機物の副葬品群と関連づけられた、よく保存されたミイラ化したヒト遺骸が、タリム盆地の最初の既知の文化を表します。紀元後20世紀初期における最初の発見と、その後1990年代に大規模な発掘が開始されて以降、タリム盆地のミイラは、その起源、他の青銅器時代の草原地帯集団(アファナシェヴォ文化)やオアシス集団(BMAC)や山岳集団(IAMCおよびチェムルチェク)との関係、インド・ヨーロッパ語族のタリム盆地への拡大とのつながりの可能性に関する議論の中心となってきました。
本論文で提示された古代ゲノムおよびプロテオームデータは、以前の想定とはひじょうに異なる、より複雑な人口史を提示します。IAMCは文化的および経済的要素をタリム盆地に伝播させる媒介となったかもしれませんが、IAMCの既知の遺跡群は、小河遺跡人口集団に祖先系統の直接的供給源を提供しません。代わりに、タリム盆地のミイラは、アジア起源が前期完新世にたどれる孤立した遺伝子プールに属しています。この遺伝子プールは、かつて地理的にずっと広範に分布していた可能性が高く、ジュンガル盆地とIAMC とシベリア南部のEMBA人口集団にかなりの遺伝的痕跡を残しました。タリム盆地のミイラのいわゆる西洋的な身体的外見は、おそらくANE遺伝子プールとのつながりに起因し、そのきょくたんな遺伝的孤立は、文化的つながりを反映している近隣の人口集団とのかなりの遺伝的相互作用を経た、EBAジュンガル盆地やIAMCやチェムルチェク人口集団とは異なり、ヒトの移動の障壁としての極限環境の役割を示します。
しかし、それらの顕著な遺伝的孤立とは対照的に、小河考古学層位の人口集団は文化的に「国際的」で、はるか遠くの起源を有する多様な経済的要素と技術を取り入れていました。小河考古学層位の人口集団はケフィア的な発酵を用いて反芻動物の乳からチーズを作り、おそらくはアファナシェヴォ文化集団の子孫から製法を学びました。また小河考古学層位の人口集団はコムギやオオムギや雑穀を栽培し、その起源は近東と中国北部にあり、新疆には紀元前3500年前頃以降に、おそらくはIAMCの近隣集団経由で導入されました。小河考古学層位の人口集団はアジア中央部のBMACオアシス文化を想起させる様式の麻苧属の小枝とともに使者を埋葬し、新疆もしくは他地域の他の文化では見られない文化要素を発達させました。それは、ウシの皮で覆われ、木材の棒もしくは櫓で示される船形の木製の棺や、土器よりも織り籠を明らかに好むような要素です。これらの知見をまとめて考えると、小河考古学層位を築いた緊密な人口集団は、タリム盆地外のさまざまな技術と文化をよく知っており、タクラマカン砂漠と緑豊かで肥沃な川辺のオアシスという極端な環境に対応して、独自の文化を発展させたようです。
この研究は、新疆のジュンガル盆地とタリム盆地の青銅器時代人口集団の起源を詳細に解明しています。とくに、本論文の結果は、青銅器時代タリム盆地のミイラの起源について、ユーラシア草原地帯もしくは山岳地帯の農耕経済からのかなりの移動を想定する仮説を支持せず、むしろ、タリム盆地のミイラは文化的には「国際的」であるものの、遺伝的には在来人口集団を表している、と明らかにしました。この知見は、IAMCが、紀元前四千年紀から紀元前二千年紀にかけて異なる人口集団をつないでいた地域的な文化的相互作用の地理的回廊および媒介として機能した、とする以前の議論と一致します。
新疆北部のジュンガル盆地における紀元前3000年頃となるアファナシェヴォ文化人口集団の到来と混合は、この地域にインド・ヨーロッパ語族をもたらした可能性があり、紀元前2100年頃以降のタリム盆地のミイラの物質文化と遺伝的特性は、遺伝子と文化と言語との間の関連についての単純な仮定に疑問を呈し、青銅器時代タリム盆地人口集団がトカラ語祖語を話していたのかどうか、という未解決の問題を残します。その後のタリム盆地人口集団に関する将来の考古学的および古代ゲノム研究、および最重要なこととして、紀元後千年紀のトカラ語文献が回収された遺跡と期間の研究が、タリム盆地の後の人口史の理解に必要です。
最後に、タリム盆地の古代ゲノムの特性は、かつて広範に存在した更新世ANE祖先系統特性の、いくつかの既知の完新世における遺伝的子孫集団の一つだったことを、意外にも明らかにしました。したがって、タリム盆地のミイラのゲノムは、完新世人口集団の遺伝的モデル化とアジアの人口史に重要な基準点を提供します。最近公表された、宮古島の先史時代人のゲノム解析でも示されたように(関連記事)、遺伝子と文化を安易に相関させてはならない、と改めて思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
遺伝学:青銅器時代のタリムミイラの起源に関する意外な知見
中国の新疆ウイグル自治区のタリム盆地で発見された、自然に保存されてきた青銅器時代のミイラが、遺伝的に孤立した地域集団に属していたことが、DNAのゲノム規模の解析によって明らかになった。このことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、タリムミイラが現在のシベリア南部、アフガニスタン北部、中央アジアの山岳地帯から移住してきた集団の子孫だとする従来の仮説と一致しない。
タリムミイラとこれらが属していた小河(Xiaohe)文化の起源については、ミイラが20世紀初頭に発見されて以来、議論が続いており、特にその理由となっているのが、ミイラの独特の外観とそれに関連した服飾技術と農耕技術だった。この点に関しては、3つの主要な仮説を巡って議論が続いている。つまり、現在のシベリア南部のステップ遊牧民の子孫とする仮説、中央アジアの山岳地帯出身の農民とする仮説、アフガニスタン北部の砂漠地帯のオアシスから移住してきた農民とする仮説だ。
今回、Chuongwon Jeongたちは、新疆ウイグル自治区南部のタリム盆地で出土した紀元前2100~1700年ごろのミイラ13体と、ジュンガル盆地北部で出土した紀元前3000~2800年ごろのミイラ5体のゲノムDNAを解析した。これらのミイラは、これまで新疆ウイグル自治区で発見された最古の人骨だと考えられている。ジュンガルのミイラは、ほとんどの場合、祖先がアファナシェボ(現在のシベリア南部にあるアルタイ–サヤン山脈のステップ遊牧民)にあり、地元の遺伝的影響も一部見られた。一方、タリムのミイラは、地元の祖先しか見つからなかった。7体のタリムミイラの歯の堆積物の中から乳タンパク質が発見され、このタリムの集団が酪農に依存していた可能性が非常に高いことが示された。これらの知見をまとめると、従来の移住説とは一致せず、地元のジュンガル系集団とアファナシェボからの移民の遺伝的系統が混合した可能性があるものの、タリム盆地の文化は遺伝的に孤立した地域集団から生じた可能性が非常に高いことが示唆された。ただし、Jeongたちは、この地域集団の文化は国際的であり、近隣の牧畜民や農民と密接な関係を維持していたと示唆している。
同時掲載のNews & Viewsでは、Paula Dupuyが、Jeongたちの論文に記述された重要な知見と、それが先史時代の内陸アジアに関する我々の知識に対して持つ意味をさらに掘り下げている。Dupuyは、結論として、Jeongたちが「小河文化の遺伝的起源という疑問に答えた。内陸アジアの青銅器時代を決めたダイナミックで多様な文化交流のパターンをさらに説明できるかどうかは、今後の学者たちの共同研究にかかっている」と述べている。
ゲノミクス:タリム盆地で出土した青銅器時代のミイラのゲノム起源
ゲノミクス:タリム盆地のミイラの意外な起源
シルクロードの一部である中国の新疆ウイグル自治区は、ユーラシアをまたぐ交易の重要な拠点であった。新疆南部のタリム盆地からは、西洋風の衣服を身にまとい、青い眼や金髪などの表現型の特徴を持つミイラ化したヒト遺骸が発見されており、その起源については議論が交わされ、さまざまな仮説が立てられている。今回C Jeongたちは、タリム盆地の紀元前2100~1700年頃の個体および新疆北部のジュンガル盆地の紀元前3000~2800年頃の個体に由来する古代DNAを解析している。その結果、ジュンガル盆地の個体のDNAは大部分がアファナシェヴォ人系統に由来していた一方、タリム盆地の個体のDNAには同地域の系統しか見られないことが分かった。こうしたデータに基づいて、タリム盆地の人々が、アルタイ/サヤン山脈のアファナシェヴォ集団を祖先とするという「ステップ仮説」と、バクトリア・マルギアナ考古学複合の移動性農耕民を祖先とするという「オアシス仮説」の両方が否定された。著者たちはこれとは対照的に、タリム盆地のミイラがこの地域において遺伝的に隔離された集団から生じた集団に属していたと結論付けている。
参考文献:
Zhang F. et al.(2021): The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies. Nature, 599, 7884, 256–261.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04052-7
得られたゲノムデータから、前期青銅器時代のジュンガル盆地の個体群はおもにアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)を有しており、さらに同地域の祖先系統の追加の寄与も受けていた一方、前期~中期青銅器時代のタリム盆地の個体群は在来祖先系統のみを含む、と明らかになりました。タリム盆地の小河(Xiaohe)墓地遺跡で発見された個体からはさらに、歯石中に乳タンパク質の存在を示す強力な証拠が得られ、この地での居住の開始当初から人々が酪農牧畜に依存していた、と示されました。
この結果は、タリム盆地のミイラが、アファナシェヴォ文化集団を祖先とするトカラ祖語話者の牧畜民か、バクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex、略してBMAC)または内陸アジア山地回廊(Inner Asian Mountain Corridor)文化に由来する、とした以前のいずれの仮説も支持しません。対照的に、トカラ語は前期青銅器時代にアファナシェヴォ文化からの移住者によりジュンガル盆地にもたらされた可能性が高いものの、タリム盆地の最初期の文化は、近隣の牧畜民および農耕民の習慣を取り入れた遺伝的に隔離された集団において出現したと見られる、と分かりました。タリム盆地の人々はこうした文化により、タクラマカン砂漠の移動性の河川オアシスに沿って定住・繁栄できた、と考えられます。
シルクロードの一部としてユーラシア東西の文化の地理的合流点に位置する新疆ウイグル自治区(以下、新疆)は、人々と文化と農耕と言語のユーラシアを貫く主要な交差点として長く機能してきました。天山山脈に二分された新疆は、ジュンガル盆地を含む北部と、タリム盆地を含む南部の、二つの地域に区分できます(図1)。新疆北部のジュンガル盆地は、遊牧民が伝統的に居住していた広大な草原に囲まれた、グルバンテュンギュト(Gurbantünggüt)砂漠で構成されています。新疆南部は、タクラマカン砂漠を形成する乾燥した内海であるタリム盆地で構成されます。タリム盆地は、ほぼ居住できませんが、小さなオアシスと河川回廊があり、氷河の融解による流出と周辺の高山からの雪により水が供給されます。
ジュンガル盆地内およびその周辺では、牧畜民の前期青銅器時代(EBA)アファナシェヴォ文化(紀元前3000~紀元前2600年頃)とチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化(紀元前2500~紀元前1700年頃)の遺跡群が、シベリア南部のアルタイ・サヤン地域のアファナシェヴォ文化牧畜民(紀元前3150~紀元前2750年頃)とおそらくつながっており、この牧畜民は3000km西方のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化と密接な遺伝的つながりがあります(関連記事)。
言語学者の仮定では、アファナシェヴォ文化の拡散は、インド・ヨーロッパ語族において紀元前四千年紀に他の言語系統と分離した、今では消滅した分枝であるトカラ語を東方にもたらしました。しかし、アファナシェヴォ文化関連祖先系統は、鉄器時代ジュンガリア盆地人口集団(紀元前400~紀元前200年頃)で確認されており、トカラ語は紀元後500~1000年頃のタリム盆地の仏教経典で記録されていますが、それ以前の新疆の人口集団、およびそのアファナシェヴォ文化集団もしくは他の集団とのあり得る遺伝的関係については、ほとんど知られていません。
1990年代後半以降、タリム盆地では紀元前2000~紀元後200年頃となる何百もの自然にミイラ化したヒト遺骸が発見され、そのいわゆる西洋的な身体的外見、フェルトや織物で作られた毛糸の服、ウシやヒツジ/ヤギやコムギやオオムギや雑穀やケフィアチーズを含む農耕牧畜経済のため、国際的な注目を集めてきました。そうしたミイラは今やタリム盆地全域で発見されており、そのうち最初のものは古墓溝(Gumugou)遺跡(紀元前2135~紀元前1939年頃)や小河(Xiaohe)遺跡(紀元前1884~紀元前1736年頃)や北方(Beifang)遺跡(紀元前1785~紀元前1664年頃)の墓地の最下層で見つかっています(図1)。これらおよび関連する青銅器時代遺跡群は、その共有されている物質文化に基づいて小河考古学層位内にまとめられています。以下は本論文の図1です。
小河考古学層位の起源と西洋要素の説明に複数の対照的な仮説が提案されてきており、たとえば、ヤムナヤ/アファナシェヴォ文化草原地帯仮説や、バクトリアオアシス仮説や、内陸アジア山地回廊(IAMC)島嶼生物地理学仮説などです。ヤムナヤ/アファナシェヴォ文化草原地帯仮説では、アルタイ・サヤン山脈のアファナシェヴォ文化関連EBA人口集団がジュンガル盆地を経てタリム盆地へと拡大し、その後の紀元前2000年頃に小河考古学層位を構成する農耕牧畜民共同体を形成した、と指摘されています。対照的に、バクトリアオアシス仮説では、タリム盆地に最初に移住してきた人類は、アフガニスタンとトルクメニスタンとウズベキスタンの砂漠のオアシスからアジア中央部経由で到来したBMAC(紀元前2300~紀元前1800年頃)だった、と指摘されています。この仮説の裏づけはおもに、砂漠環境への適応を反映している両地域間の農耕および灌漑体系の類似性と、両地域における麻苧属の儀式的使用に基づいています。IAMC島嶼生物地理学仮説では同様に、小河創始者集団のアジア中央部山脈起源が指摘されていますが、タリム盆地の西方および北方へのIAMCにおける農耕牧畜民の移牧と関連しています。これら3移住モデルとは対照的に、ヒンドゥークシュ山脈からアルタイ山脈にまたがるより広いIAMCは、人口集団ではなく文化的着想がおもに移動した、文化的地理的領域として機能したかもしれません。
最近の考古ゲノム研究では、シベリア南部の青銅器時代アファナシェヴォ文化とアジア中央部のIAMC/BMAC人口集団が識別可能な遺伝的特性を有しており(関連記事)、これらの特性は同様に、アジア内陸部の農耕牧畜民以前の狩猟採集民人口集団とも異なる、と示されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。このように、青銅器時代新疆人口集団の考古ゲノム調査は、ジュンガル盆地の人口史と青銅器時代小河考古学層位の起源の再構築に強力な手法を提示します。
本論文では、青銅器時代の33個体が調べられました。内訳は、ジュンガル盆地が尼勒克(Nileke)遺跡と阿依托汗(Ayituohan)遺跡と松樹溝(Songshugou)遺跡、タリム盆地が小河遺跡と古墓溝遺跡と北方遺跡です。ジュンガル盆地のアファナシェヴォ文化に分類されるEBA(紀元前3000~紀元前2800年頃)5個体の古代ゲノム配列と、紀元前2100~紀元前1700年頃となる前期~中期青銅器時代(EMBA)の小河考古学層位に分類されるタリム盆地の13個体のゲノム規模データの回収に成功しました。さらに、タリム盆地の小河遺跡の基底層の7個体の歯石プロテオーム(タンパク質の総体)が報告されます。これらの個体は、この地域における最初期のヒト遺骸を表しています。
●青銅器時代の新疆の遺伝的多様性
全ゲノム配列もしくは約120万ヶ所の一塩基多型のパネルのDNA濃縮により、33個体のうち18個体のゲノム規模データが得られました。全体として、内在性DNAは最小限の汚染水準でよく保存されていました。新疆の古代人口集団の遺伝的特性を調べるため、現代のユーラシア集団およびアメリカ大陸先住民集団の主成分がまず計算され、それに古代人が投影されました。古代の新疆の個体群は、PC1軸に沿って分布するいくつかの異なるまとまりを形成し(図2)、その主要な主成分はユーラシア東西の人口集団を分離します。以下は本論文の図2です。
アルタイ山脈近くの阿依托汗および松樹溝遺跡のEBAジュンガル盆地個体群(ジュンガル盆地EBA1)は、その北方のアルタイ・サヤン山脈のEBAアファナシェヴォ文化草原地帯牧畜民の近くに位置します。ADMIXTUREでの遺伝的クラスタ化は、この観察をさらに裏づけます(補足図3)。以下は本論文の補足図3です。
天山山脈近くの尼勒克遺跡の同時代の個体群(ジュンガル盆地EBA2)は、PC1軸に沿ってわずかに後のタリム盆地個体群へと移動します。EBAジュンガル盆地個体群とは対照的に、タリム盆地東部の小河遺跡および古墓溝遺跡のEMBA個体群(タリム盆地EMBA1)は、古代北ユーラシア人(ANE)祖先系統を高水準で共有する青銅器時代前のユーラシア草原地帯中央部およびシベリアの個体群、たとえばボタイ(Botai)文化銅器時代個体群と近い密集したまとまりを形成します。タリム盆地南部の北方遺跡の同時代の個体群(タリム盆地EMBA2)は、タリム盆地EMBA1からバイカル湖地域のEBA個体群に向かってわずかにずれます。
●ジュンガル盆地におけるアファナシェヴォ文化集団の遺伝的影響
外群f3統計は、ジュンガル盆地集団とタリム盆地集団との間の緊密な遺伝的つながりを裏づけます。それにも関わらず、ジュンガル盆地集団は両方、タリム盆地集団とは有意に異なり、ユーラシア西部人口集団との過剰な類似性を示し、ANE関連集団とのアレル(対立遺伝子)共有は少なくなっています。この混合された遺伝的特性を理解するためqpAdmを用いて、供給源として、タリム盆地EMBA1もしくはシベリア南部中央のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の末期更新世個体(AG3)との混合モデルが調べられました。AG3はANE祖先系統の遠位代表で、タリム盆地EMBA1との高い類似性を示します。タリム盆地EMBA1個体群はジュンガル盆地集団よりも年代がずっと後となりますが、ジュンガル盆地集団よりも、アファナシェヴォ文化集団の遺伝的にはより遠く局所的な在来祖先系統のより高い割合を有している、と示唆されます。本論文は、より新しく到来した集団と関連しているのではなく、何千年も地域に存在してきた遺伝的特性を示すために、「在来」と定義します。
ジュンガル盆地EBA1およびEBA2は両方、3方向混合モデルでの説明が最適と明らかになりました(図3c)。このモデルでは、両者はアファナシェヴォ文化からの主要な祖先系統(ジュンガル盆地EBA1では約70%、ジュンガル盆地EBA2では約50%)と、残りがAG3/タリム盆地EMBA1(19~36%)とバイカル湖EBA(9~21%)の混合としてモデル化されます。したがって、IAMCの寄与なしのアファナシェヴォ文化関連祖先系統は、ジュンガル盆地個体群のユーラシア西部構成要素の説明には不充分です。
また、EBA牧畜民文化であるチェムルチェクは、ジュンガル盆地とアルタイ山脈の両方でアファナシェヴォ文化を継承し、その個体群のゲノムは、祖先系統の約2/3がジュンガル盆地EBA1で、残りはタリム盆地EBA1およびIAMC/BMAC 関連供給源に由来する、と明らかになりました(図3)。これは、以前にチェムルチェク文化個体群で指摘されたIAMC/BMAC両方の 関連祖先系統と、報告されたアファナシェヴォ文化集団との文化的および遺伝的類似性の両方を説明するのに役立ちます(関連記事)。まとめると、これらの結果から、ジュンガル盆地へのアファナシェヴォ文化牧畜民の初期拡散は、局所的な在来人口集団とのかなりの水準の遺伝的混合を伴っており、シベリア南部におけるアファナシェヴォ文化の最初の形成とは異なるパターンです。
●タリム盆地集団の遺伝的孤立
タリム盆地EMBA1およびEMBA2集団は、地理的には600km以上の砂漠で隔てられていますが、かなりの人口ボトルネック(瓶首効果)を経てきた均質な人口集団を形成します。これは、密接な親族関係なしの高い遺伝的類似性と、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のハプログループの限定的な多様性により示唆されます(図1および図2)。qpAdmを用いて、タリム盆地個体群は2つの在来アジア遺伝的集団の混合としてモデル化されます。一方はシベリアのエニセイ川上流地域のアフォントヴァゴラ遺跡の上部旧石器時代個体(AG3)に代表されるANE(約72%)で、もう一方はバイカル湖EBAに代表される古代アジア北東部人(約28%)です(図3a)。北方遺跡のタリム盆地EMBA2も、タリム盆地EMBA1(約89%)とバイカル湖EBA(約11%)の混合としてモデル化できます。タリム盆地の両集団について、アファナシェヴォ文化集団もしくはIAMC/BMAC集団をユーラシア西部供給源として用いると、混合モデルは全て失敗するので、牧畜および/もしくは農耕経済を有する近隣集団からのユーラシア西部の遺伝的寄与は却下されます。
タリム盆地EMBA1の遺伝的特性の深い形成年代が推定され、ユーラシア西部EBAとの混合の欠如と一致し、この遺伝子プールの起源は、標本抽出されたタリム盆地個体群の183世代前、もしくは1世代29年と仮定すると9157±986年前です(図3b)。これらの知見をまとめて考慮すると、タリム盆地個体群の遺伝的特性は、小河考古学層位の最初の個体群が古代の孤立した在来アジア人遺伝子プールに属する、と示唆します。在来のANE関連遺伝子プールは、アジア中央部およびシベリア南部の牧畜民よりも前のANE関連人口集団の遺伝的基盤を形成した可能性が高そうです(図3c)。以下は本論文の図3です。
●タリム盆地の牧畜
タリム盆地の過酷な環境は、この地域への遺伝子流動の強い障壁として機能した可能性がありますが、着想もしくは技術の流動の障壁ではありませんでした。それは、酪農牧畜やコムギおよび雑穀農耕など外来の革新が青銅器時代タリム盆地経済の基礎を形成したからです。小河遺跡や古墓溝遺跡の墓地の上層から、毛織物、ウシやヒツジやヤギの角や骨、家畜の糞尿、乳やケフィアのような乳製品が回収され、コムギや雑穀の種子、麻苧属の小枝の束も発見されています。紀元前1650~紀元前1450年頃のミイラの多くは、チーズの塊とともに埋葬されてさえいました。しかしこれまで、この牧畜民生活様式が小河遺跡における最初期層も特徴づけているのかどうか、明確ではありませんでした。
最初の考古学的期間の食生活をよりよく理解するため、紀元前2000~紀元前1700年頃となる小河遺跡の7.個体の歯石のプロテオームが分析されました。7個体は全て、β-ラクトグロブリンやα-S1カゼインやα-ラクトアルブミンなど反芻動物の乳に固有のタンパク質について強く陽性で、ペプチドの回収は、ウシやヒツジやヤギの乳との分類学的診断の合致を提供するのに充分でした。これらの結果から、乳製品は小河遺跡墓地の最下層に埋葬されていた在来祖先系統の個体群(タリム盆地EMBA1)により消費されていた、と確認されます。しかし重要なことに、以前の仮説とは対照的に、タリム盆地個体群は遺伝的にはラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続ではありませんでした。むしろ、タリム盆地のミイラは、アジア内陸部および東部の先史時代酪農牧畜がラクターゼ活性持続遺伝子型とは無関係に拡大した、との証拠の増加に寄与します(関連記事1および関連記事2)。
●考察
新疆におけるヒトの活動は4万年前頃までさかのぼれますが、タリム盆地における持続的なヒトの居住の最初の証拠は紀元前三千年紀後期から紀元前二千年紀初期にしかさかのぼりません。その頃には、小河遺跡と古墓溝遺跡と北方遺跡において、木製の棺内に埋葬され、豊富な有機物の副葬品群と関連づけられた、よく保存されたミイラ化したヒト遺骸が、タリム盆地の最初の既知の文化を表します。紀元後20世紀初期における最初の発見と、その後1990年代に大規模な発掘が開始されて以降、タリム盆地のミイラは、その起源、他の青銅器時代の草原地帯集団(アファナシェヴォ文化)やオアシス集団(BMAC)や山岳集団(IAMCおよびチェムルチェク)との関係、インド・ヨーロッパ語族のタリム盆地への拡大とのつながりの可能性に関する議論の中心となってきました。
本論文で提示された古代ゲノムおよびプロテオームデータは、以前の想定とはひじょうに異なる、より複雑な人口史を提示します。IAMCは文化的および経済的要素をタリム盆地に伝播させる媒介となったかもしれませんが、IAMCの既知の遺跡群は、小河遺跡人口集団に祖先系統の直接的供給源を提供しません。代わりに、タリム盆地のミイラは、アジア起源が前期完新世にたどれる孤立した遺伝子プールに属しています。この遺伝子プールは、かつて地理的にずっと広範に分布していた可能性が高く、ジュンガル盆地とIAMC とシベリア南部のEMBA人口集団にかなりの遺伝的痕跡を残しました。タリム盆地のミイラのいわゆる西洋的な身体的外見は、おそらくANE遺伝子プールとのつながりに起因し、そのきょくたんな遺伝的孤立は、文化的つながりを反映している近隣の人口集団とのかなりの遺伝的相互作用を経た、EBAジュンガル盆地やIAMCやチェムルチェク人口集団とは異なり、ヒトの移動の障壁としての極限環境の役割を示します。
しかし、それらの顕著な遺伝的孤立とは対照的に、小河考古学層位の人口集団は文化的に「国際的」で、はるか遠くの起源を有する多様な経済的要素と技術を取り入れていました。小河考古学層位の人口集団はケフィア的な発酵を用いて反芻動物の乳からチーズを作り、おそらくはアファナシェヴォ文化集団の子孫から製法を学びました。また小河考古学層位の人口集団はコムギやオオムギや雑穀を栽培し、その起源は近東と中国北部にあり、新疆には紀元前3500年前頃以降に、おそらくはIAMCの近隣集団経由で導入されました。小河考古学層位の人口集団はアジア中央部のBMACオアシス文化を想起させる様式の麻苧属の小枝とともに使者を埋葬し、新疆もしくは他地域の他の文化では見られない文化要素を発達させました。それは、ウシの皮で覆われ、木材の棒もしくは櫓で示される船形の木製の棺や、土器よりも織り籠を明らかに好むような要素です。これらの知見をまとめて考えると、小河考古学層位を築いた緊密な人口集団は、タリム盆地外のさまざまな技術と文化をよく知っており、タクラマカン砂漠と緑豊かで肥沃な川辺のオアシスという極端な環境に対応して、独自の文化を発展させたようです。
この研究は、新疆のジュンガル盆地とタリム盆地の青銅器時代人口集団の起源を詳細に解明しています。とくに、本論文の結果は、青銅器時代タリム盆地のミイラの起源について、ユーラシア草原地帯もしくは山岳地帯の農耕経済からのかなりの移動を想定する仮説を支持せず、むしろ、タリム盆地のミイラは文化的には「国際的」であるものの、遺伝的には在来人口集団を表している、と明らかにしました。この知見は、IAMCが、紀元前四千年紀から紀元前二千年紀にかけて異なる人口集団をつないでいた地域的な文化的相互作用の地理的回廊および媒介として機能した、とする以前の議論と一致します。
新疆北部のジュンガル盆地における紀元前3000年頃となるアファナシェヴォ文化人口集団の到来と混合は、この地域にインド・ヨーロッパ語族をもたらした可能性があり、紀元前2100年頃以降のタリム盆地のミイラの物質文化と遺伝的特性は、遺伝子と文化と言語との間の関連についての単純な仮定に疑問を呈し、青銅器時代タリム盆地人口集団がトカラ語祖語を話していたのかどうか、という未解決の問題を残します。その後のタリム盆地人口集団に関する将来の考古学的および古代ゲノム研究、および最重要なこととして、紀元後千年紀のトカラ語文献が回収された遺跡と期間の研究が、タリム盆地の後の人口史の理解に必要です。
最後に、タリム盆地の古代ゲノムの特性は、かつて広範に存在した更新世ANE祖先系統特性の、いくつかの既知の完新世における遺伝的子孫集団の一つだったことを、意外にも明らかにしました。したがって、タリム盆地のミイラのゲノムは、完新世人口集団の遺伝的モデル化とアジアの人口史に重要な基準点を提供します。最近公表された、宮古島の先史時代人のゲノム解析でも示されたように(関連記事)、遺伝子と文化を安易に相関させてはならない、と改めて思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
遺伝学:青銅器時代のタリムミイラの起源に関する意外な知見
中国の新疆ウイグル自治区のタリム盆地で発見された、自然に保存されてきた青銅器時代のミイラが、遺伝的に孤立した地域集団に属していたことが、DNAのゲノム規模の解析によって明らかになった。このことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、タリムミイラが現在のシベリア南部、アフガニスタン北部、中央アジアの山岳地帯から移住してきた集団の子孫だとする従来の仮説と一致しない。
タリムミイラとこれらが属していた小河(Xiaohe)文化の起源については、ミイラが20世紀初頭に発見されて以来、議論が続いており、特にその理由となっているのが、ミイラの独特の外観とそれに関連した服飾技術と農耕技術だった。この点に関しては、3つの主要な仮説を巡って議論が続いている。つまり、現在のシベリア南部のステップ遊牧民の子孫とする仮説、中央アジアの山岳地帯出身の農民とする仮説、アフガニスタン北部の砂漠地帯のオアシスから移住してきた農民とする仮説だ。
今回、Chuongwon Jeongたちは、新疆ウイグル自治区南部のタリム盆地で出土した紀元前2100~1700年ごろのミイラ13体と、ジュンガル盆地北部で出土した紀元前3000~2800年ごろのミイラ5体のゲノムDNAを解析した。これらのミイラは、これまで新疆ウイグル自治区で発見された最古の人骨だと考えられている。ジュンガルのミイラは、ほとんどの場合、祖先がアファナシェボ(現在のシベリア南部にあるアルタイ–サヤン山脈のステップ遊牧民)にあり、地元の遺伝的影響も一部見られた。一方、タリムのミイラは、地元の祖先しか見つからなかった。7体のタリムミイラの歯の堆積物の中から乳タンパク質が発見され、このタリムの集団が酪農に依存していた可能性が非常に高いことが示された。これらの知見をまとめると、従来の移住説とは一致せず、地元のジュンガル系集団とアファナシェボからの移民の遺伝的系統が混合した可能性があるものの、タリム盆地の文化は遺伝的に孤立した地域集団から生じた可能性が非常に高いことが示唆された。ただし、Jeongたちは、この地域集団の文化は国際的であり、近隣の牧畜民や農民と密接な関係を維持していたと示唆している。
同時掲載のNews & Viewsでは、Paula Dupuyが、Jeongたちの論文に記述された重要な知見と、それが先史時代の内陸アジアに関する我々の知識に対して持つ意味をさらに掘り下げている。Dupuyは、結論として、Jeongたちが「小河文化の遺伝的起源という疑問に答えた。内陸アジアの青銅器時代を決めたダイナミックで多様な文化交流のパターンをさらに説明できるかどうかは、今後の学者たちの共同研究にかかっている」と述べている。
ゲノミクス:タリム盆地で出土した青銅器時代のミイラのゲノム起源
ゲノミクス:タリム盆地のミイラの意外な起源
シルクロードの一部である中国の新疆ウイグル自治区は、ユーラシアをまたぐ交易の重要な拠点であった。新疆南部のタリム盆地からは、西洋風の衣服を身にまとい、青い眼や金髪などの表現型の特徴を持つミイラ化したヒト遺骸が発見されており、その起源については議論が交わされ、さまざまな仮説が立てられている。今回C Jeongたちは、タリム盆地の紀元前2100~1700年頃の個体および新疆北部のジュンガル盆地の紀元前3000~2800年頃の個体に由来する古代DNAを解析している。その結果、ジュンガル盆地の個体のDNAは大部分がアファナシェヴォ人系統に由来していた一方、タリム盆地の個体のDNAには同地域の系統しか見られないことが分かった。こうしたデータに基づいて、タリム盆地の人々が、アルタイ/サヤン山脈のアファナシェヴォ集団を祖先とするという「ステップ仮説」と、バクトリア・マルギアナ考古学複合の移動性農耕民を祖先とするという「オアシス仮説」の両方が否定された。著者たちはこれとは対照的に、タリム盆地のミイラがこの地域において遺伝的に隔離された集団から生じた集団に属していたと結論付けている。
参考文献:
Zhang F. et al.(2021): The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies. Nature, 599, 7884, 256–261.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04052-7
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