畑中章宏『廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、有名でありながらよく知られていない明治維新のさいの廃仏毀釈の実態と意義を解説しています。私も廃仏毀釈についてよく理解しているとはとても言えず、江戸時代の時点ですでに萌芽があり、地域差が大きかった、という程度の理解だったので、たいへん有益でした。本書はまず、廃仏毀釈の前提として古代と中世の神仏習合を解説しており、一般向けに配慮されていると思います。

 日本列島には、仏教到来以前より体系的ではなかったかもしれないとはいえ、神への信仰があり、本書では、自然神信仰、祖先神信仰、水田稲作起源信仰(農耕や土地の神)に区分されています。仏教到来後、神仏習合が進み、それは(1)神は迷える存在で仏の救済を必要としている、(2)神は仏法を守護する存在である、(3)神は仏が衆生救済のため姿を変えて現れた、という論理で進みました。このうち(1)と(2)は奈良時代に、(3)は平安時代に出現しました。(1)の典型例は神社に隣接してもしくは神域に建立された神宮寺です。古代から中世にかけて神仏習合が進み、特定の神には決まった本来の姿である仏(本地仏)があるとする本地垂迹説が大きな影響を与えました。

 近世においても神仏習合状況は続き、庶民は神仏の信仰にさいして区分や拘りはありませんでしたが、知識層では神仏を分けるべきとの観念が浸透していき、神仏分離と廃仏毀釈の傾向も現れます。これは、僧侶による横暴・収奪への反感が根底にあったようです。仏教を批判したのはまず儒学者で、復古神道を主張する国学者が続きました。江戸時代の神仏分離は地域的で、水戸や岡山や会津で行なわれました。幕末には廃仏意識がさらに高まり、水戸や薩摩では過激な寺院整理が行なわれ、津和野では独自の寺社・寺院改革が行なわれました。

 本格的な廃仏毀釈は、慶応4年3月の神仏分離令で始まります。しかし、この神仏分離令は破壊を命じたものではありませんでした。それでも地域によっては廃仏毀釈が過激化し、その先駆けとも言うべき役割を担ったのが、延暦寺と深く結びついていた日吉社でした。他に激しい廃仏毀釈が起きた地域は、佐渡や富山や松本や苗木や津和野や土佐や薩摩などです。一方で本書は、こうした廃仏毀釈の言い伝えの中に誇張されたものがある可能性を指摘します。

 本書は廃仏毀釈について、上述のように過激化した地域もあったものの、神仏分離令は実行されても廃仏毀釈に至らなかった地域も多く、廃仏毀釈を免れた仏像や仏画や堂塔も少なくはなかった、と指摘します。神仏分離令の本質は神と仏を明確にする「判然令」で、明確にできない権現と牛頭天王がその矢面に立たされました。こうして、現在のような社寺の景観が形成され、それは近世までとは大きく異なるものでした。日本史における前近代と近代との大きな違いの一つが社寺の在り様で、廃仏毀釈は重要な影響を及ぼしただけに、今後も時間を作って調べていくつもりです。

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