ハンガリーのアールパード朝のベーラ3世のDNA解析

 ハンガリーのアールパード(Árpád)朝のベーラ(Bela)3世のDNA解析に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。現代ヨーロッパ人の大半はインド・ヨーロッパ語族の言語を話していますが、その起源と拡散はひじょうによく議論されてきた主題です。インド・ヨーロッパ語族の根源を年代測定するために適用されたベイズ法は、紀元前6000年頃の推定年代を提供し、アナトリア半島をインド・ヨーロッパ語族祖語の故地として示唆します。

 代替的な仮説では、インド・ヨーロッパ語族祖語話者はポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の遊牧民で、車輪付き乗り物の発明後にその言語がヨーロッパに拡大した、と提案されます。新石器時代と青銅器時代のヨーロッパ全域の古代人遺骸の遺伝学的データは、紀元前3000年頃に始まるヨーロッパ東部草原地帯からの牧畜民の拡大により媒介された、大規模な人口集団置換を明らかにしました(関連記事)。報告された人口移動は、元々の言語の置換と、「草原地帯」遺伝的構成要素の寄与につながったかもしれません。「草原地帯」祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)は、「狩猟採集民」祖先系統および「農耕」祖先系統とともに、ほとんどの現代ヨーロッパ人の遺伝的構成要素を占めます。

 この草原地帯とインド・ヨーロッパ語族との相関には例外が知られており、たとえば、草原地帯関連祖先系統を有するにも関わらず、非インド・ヨーロッパ語族言語を話すバスク人です。遺伝学的研究では、バスク人はイベリア半島の新石器時代および鉄器時代の個体群と最も密接な現代人集団で(関連記事1および関連記事2)、新石器時代以降の在来言語存続の可能性が示唆されます。バスク人については、最近その遺伝的構造の包括的な研究が公表されました(関連記事)。ヨーロッパにおいて二番目によく話されている非インド・ヨーロッパ語族言語は、いわゆるフィン・ウゴル語派で、現在ではフィンランドとエストニアとロシア西部とハンガリーに分布しています。フィン・ウゴル語派はフィン諸語とハンガリー語に区別され、両者ともユーラシア北東部にまで広がっているより大きなウラル語族の一部です。

 現代人集団に関する遺伝学的研究では、ヨーロッパでは人口集団間の遺伝的距離が地理的距離と相関している、と示されています。しかし、これは現在のフィンランド人には当てはまらず、フィンランド人はユーラシア東部人口集団に向かってヨーロッパ人の遺伝的まとまりからずれています。フェノスカンジアの人類遺骸の最近の古代DNA研究は、遅くとも紀元前3500年頃までにはフェノスカンジアに到達した、究極的にはガナサン人(Nganasan)のようなアジア北東部人口集団と関連する、追加の遺伝的寄与を特定しました(関連記事)。この遺伝的構成要素は、フィンランド北部の現代サーミ人個体群により低い割合で存在し、ヨーロッパ中央部祖先系統と大半が混合したフィンランド人にはさらに低い割合で存在します。

 注目すべきは、推定されるシベリア人関連祖先系統の分布が、ほとんどのウラル語族話者人口集団には存在するものの、現代ハンガリー人では欠けていることです。フィンランド人とは対照的にハンガリー人は、わずかしかアジア東部人構成要素を有さないヨーロッパ現代人の遺伝的多様性内にほぼ完全に収まります。ハンガリーの古代人遺骸のゲノム分析は、前期新石器時代における「農耕」祖先系統の到来に伴う大規模な遺伝的置換と、ヨーロッパの他地域で観察されるように、その後の中期新石器時代における在来「狩猟採集民」祖先系統の復興の過程を明らかにしてきました(関連記事)。さらに、後期新石器時代から前期青銅器時代の移行において、「草原地帯」祖先系統がハンガリー全域に拡大し、ほとんどのヨーロッパ現代人に存在する第三の遺伝的構成要素をもたらしました(関連記事)。

 ハンガリーの遺伝的歴史の次の期間は、あまりよく特徴づけられていません。じっさい、鉄器時代後の個体群に関するほぼ全ての古代DNA研究は、Y染色体内の遺伝子型もしくは多型の配列や、ミトコンドリアDNA(mtDNA)配列や、表現型の一塩基多型に依存しており、経時的なハンガリーの人口集団の詳細なゲノム規模の特徴づけはできません。鉄器時代後の紀元前35年から紀元後9世紀前半までハンガリーはローマ帝国の一部で、紀元後4~6世紀のフン人や、紀元後6世紀のランゴバルド人や、それに続く紀元後6世紀後半~紀元後9世紀前半のアヴァール人など、いくつかの「蛮族の移住」を経てました。これまでゲノムデータはパンノニアのランゴバルド関連墓地の遺骸でのみ利用可能で、遺伝的に異質な個体群と明らかになっているので、この集団は以前もしくは現在のハンガリーの人口集団と似ていないさまざまな起源の人々の集合だった、と示唆されます(関連記事)。

 利用可能な文献記録によると、紀元後530年(以下、紀元後の場合は省略します)に「マジャール」という名前と関連づけられてきた「ムゲリウス(Muageris)」王が、黒海北側のクトゥリグール(Kutrigur)フン人の支配者でした。数世紀後、ハンガリーの大王子であるアールモシュ(Álmos)1世は、同じ地域で850年頃に君主制国家を組織化しましたが、以前の人口集団との関連は完全には解明されていません。アヴァール可汗国(Avar Khaganate)の崩壊(紀元後822年頃)から数十年後、アールモシュとその息子のアールパード(Árpád)が862~895年頃にかけてカルパチア盆地を征服しました。この征服期間に、ハンガリーの征服者はテュルク語族話者のカバル人(Kabars)とともに、アヴァール人およびスラブ人集団を同化した、と示唆されています。

 興味深いことに、いわゆるアールパード朝(この用語は18世紀にハンガリー最初の王家として提唱され、その名称はハンガリー征服を完了したアルモスの息子のアールパードに由来します)の復元された系図は、大王子アールモシュ(862年頃に最初の征服を主導しました)からハンガリーのアンドリュー3世(1301年に死に、これが王朝終焉を意味します)まで、父方継承が常に続いてきた、と示します。この父系継承で最も著名な王の一人であるベーラ(Bela)3世(在位は1172~1196年)は、ハンガリー王国の象徴として「二重十字架」を採用した最初の王です。ベーラ3世はゲーザ(Geza)2世の息子で、フランスのアンティオキアのアンナと結婚し、第一子の息子は後にイムレ(Emeric)王となりました。ベーラ3世は最初に妻のアンナおよび恐らくはアールパード朝の他の特定されていない構成員とともにセーケシュフェヘールバール(Székesfehérvá)の王立大聖堂に埋葬されましたが、後にブタペストのマティアス(Matthias)教会に再埋葬されました。

 2012年に、王室と関連する骨格の発掘の一部として、ベーラ3世とアンティオキアのアンナの解剖学的要素が収集されました。以前の研究では、ベーラ3世のY染色体縦列型反復配列(STR)ハプロタイプが遺伝子型決定され、Y染色体ハプログループ(YHg)R1aと予測されました。別の研究では、ベーラ3世のY染色体配列が報告され、4500年前頃にアフガニスタン北部付近を中心とする地域にたどれる系統と明らかになり、現在のバシキール人(Bashkirs)が2000年前頃に分離した最も密接な父系親族でした。本論文は、ベーラ3世のゲノムがアジア中央部人と現在のハンガリー人のどちらの遺伝子プール内でまとまるのか解明するため、ベーラ3世の遺骸のゲノム規模の特徴づけを試みました。ベーラ3世と関連する墓から4点の骨片が収集されました。ヒトゲノム全体で39万~124万ヶ所の一塩基多型を標的として、対象となる一塩基多型の網羅率は6.154倍となりました。常染色体と性染色体の比率から、標本の個体は男性と判断されました。


●片親性遺伝標識

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、ベーラ3世のmtDNAハプログループ(mtHg)はH1bで、mtHg-Hは現代ヨーロッパでは最も一般的です。ベーラ3世のmtDNAでは、改定ケンブリッジ参照配列(rCRS)に対する多型の一覧が見つかりました。本論文のベーラ3世のmtDNA分析結果は、以前の研究と一致します。mtDNA集団データベースプロジェクト(EMPOP)でベーラ3世のミトコンドリアゲノムのハプロタイプを探すと、おもにヨーロッパで報告されているものの、アジア中央部でも見られるmtHg-H1bの211標本が見つかりましたが、ベーラ3世と正確に一致するハプロタイプは見つかりませんでした。ベーラ3世のYHgはR1a1a1b2a2a1(Z2123)で、アジア中央部でとくに高頻度となるYHg-R1a の主要な下位系統であるYHg-R1a1a1b2(Z93)の下位系統となり、以前の研究の結果と一致します。


●ゲノム規模常染色体遺伝標識データ分析

 さらに、ゲノム起源データを用いて、ベーラ3世の祖先系統が調べられました。まず主成分分析が実行され、ユーラシア西部現代人のデータにベーラ3世の常染色体データが投影されました(図1)。ベーラ3世のゲノムはクロアチアとハンガリーの現代人集団に近接しています。同じようなパターンは、ADMIXTUREに実装されたクラスタ化アルゴリズムから得られ、ベーラ3世はヨーロッパ東部現代人集団と類似の遺伝的特性を共有します。以下は本論文の図1です。
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 次にf3外群統計を用いてユーラシア西部現代人集団とのベーラ3世のゲノムの類似性が検証され、共通の外群であるアフリカのムブティ人集団と比較して、共有される遺伝的類似性が計測されました。主成分分析の結果と一致して、ベーラ3世のゲノムはヨーロッパ現代人の多様性内にまとまり、ほとんどの他のヨーロッパ人口集団とは区別できません(図2)。以下は本論文の図2です。
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 クロアチア人およびハンガリー人と比較した、ベーラ3世との他の現代人集団のあらゆる類似性の違いを評価するため、f4統計(X、ムブティ人;クロアチア人およびハンガリー人、ベーラ3世)が検証されました。Xは世界規模の現代人集団の一覧です。検証された比較のいずれも、0からの優位な偏差を報告せず、ベーラ3世の遺伝的祖先系統のほとんどがクロアチアおよびハンガリーの現代人と共有されている、と確認されます。しかし、パプア人やアミ人や漢人などユーラシア東部およびオセアニア人口集団を用いた検定では、ベーラ3世にわずかに有意な誘引がありました。これは、ベーラ3世のゲノムと現代アジア人との間には、主成分分析空間ではベーラ3世と最も密接に位置するヨーロッパ人口集団とよりもわずかに高いアレル(対立遺伝子)共有があることを示唆します。


●表現型分析

 表現型関連の一塩基多型を詳しく調べて、ベーラ3世の外見と代謝の特徴が推測されました。歴史的表現で報告されているように、ベーラ3世は明るい肌と青色もしくは緑色の目をしており、それはSLC45A2とSLC24A5とHERC2の各遺伝子について定義された遺伝子座における派生的アレルが存在するからです。さらに、ベーラ3世は乳糖耐性だった可能性が高く、成人期のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するLCT遺伝子の一塩基多型(rs4988235)の派生的アレルを示し、一方でほとんどの現代ヨーロッパ人のように、毛髪の厚さと関連するEDAR遺伝子の祖先的多様体を有していました。


●考察

 822年頃のアヴァール可汗国の崩壊から数十年後、アールモシュとその息子のアールパードは862~895年頃にかけてカルパチア盆地を征服しました。カルパチア盆地に拠点を置く三つの草原地帯帝国は、ローマ帝国後の統治モデルの代替を提供しました。征服期間に、ハンガリー人の侵略者はテュルク語族話者のカバル人とともに、アヴァール人とスラブ人の集団を同化させました。さらに、ハンガリーの征服者は、テュルク語族話者のカバル人とともに移動し、オノグル人(Onoghurs)や祖型ハンガリー人などを含む「アヴァール」人領域へと侵入し、統合したことも示唆されます。

 ハンガリー人を征服した人々のmtDNAとY染色体と常染色体の遺伝標識の研究は、ユーラシア東西両方の遺伝的構成要素により特徴づけられる混合祖先系統を明らかにしてきました。しかしハンガリーでは、複数の中世初期のヒトの移住がローマ帝国崩壊後に起きました。したがって、アールパード朝樹立までのハンガリーで起きた人口動態の再構築は、この中間期の考古遺伝学的データが必要となるでしょう。じっさい、フンおよびアヴァールと関連する個体群のmtHgとYHgは、ハンガリー征服期の集団よりもさらに強いユーラシア東部の遺伝的影響を示唆します。

 本論文は、アールパード朝の最も著名な王の一人のゲノム特性を直接的に調べることにより、歴史時代のハンガリーの個体の最初のゲノム規模分析を提示します。歴史的証拠から、895年のハンガリーの部族連合によるカルパチア盆地の最初の征服から12世紀後半のベーラ3世まで父系継承が常に行なわれた、と明らかにされています。1170年にベーラ3世は、戦略的外交関係の構築もしくは維持のためヨーロッパの他の高貴な家系の構成員と結婚するという一般的な伝統にしたがって、ルノー・ド・シャティヨン(Raynald Châtillon)の娘であるアンティオキアのアンナと結婚しました。ベーラ3世から120万ヶ所以上の一塩基多型のゲノム規模データが再構築され、その平均深度は6倍となります。

 ベーラ3世の常染色体DNA特性は、クロアチア人やハンガリー人のようなヨーロッパ東部現代人集団の変異内に収まります。これは、ベーラ3世がヨーロッパで最も一般的な母系であるmtHg-Hであることにより、さらに裏づけられます。さらに、ベーラ3世は以前に、より詳細な系統地理再構築に基づいて、アジア中央部にたどれるYHg-R1aだと明らかになっています。確立された系図に基づくと、このY染色体系統はベーラ3世とその祖先であるアールパード朝の開祖アールパード(845~907年)との間の直接的つながりを提供しますが、それはこの間に系図と生物学的な父子関係が一致しない場合(ペア外父性)がなければ、という条件付です。したがって、大王子アールパードとその後の(ベーラ3世の前の)アールパード朝の構成員は、ベーラ3世よりもユーラシア東部祖先系統の割合を多く有している可能性があります。しかし、これはベーラ3世の代には失われていたかもしれません。それは、アールパードとベーラ3世との間には18世代約300年が経過しており、ヨーロッパ系の貴族との結婚が繰り返し行なわれていたからです。

 それにも関わらず、ベーラ3世とアールモシュとの間の父系関係は、ハンガリーにおけるこのユーラシア東部型のYHgの存在を、少なくとも9世紀末まで拡張する可能性があります。しかし、そうしたユーラシア東部関連のY染色体は、ハンガリーでも獲得できたかもしれません。それは、フンや初期アヴァール期のエリート軍人3個体が、同じYHg-R1a1a1b2(Z93)だと最近明らかになったからです。あるいは、このユーラシア東部の遺産は、東方からの追加の人口移動を通じてハンガリーの部族の征服とともに、ハンガリーに到来した可能性があります。

 注目すべきことに、当時の地元の人口集団の遺伝的構成は、支配王朝の構成員で観察されるものとは異なっていた可能性があります。したがって、征服する部族がハンガリーに現在の言語をもたらしたと考えられるので、ハンガリーのエリートのさらに早い代表者のゲノムを遺伝的に特徴づけることが重要でしょう。これは、ベーラ3世のY染色体で報告されたユーラシア東部祖先系統がハンガリーで獲得されたのか、それとも東方から西方への移住を通じて到来したのか、決定するでしょうし、大王子アールパードと後のアールパード朝構成員が、さらにその後のベーラ3世よりも、常染色体でユーラシア東部祖先系統をずっと多い割合で有しているのかどうか、検証するでしょう。


参考文献:
Wang CC. et al.(2021): Genome-wide autosomal, mtDNA, and Y chromosome analysis of King Bela III of the Hungarian Arpad dynasty. Scientific Reports, 11, 19210.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-98796-x

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