過去10年の古代ゲノム研究

 過去10年の古代ゲノム研究の総説(Liu et al., 2021)が公表されました。本論文は、ひじょうに進展の速いこの分野の過去10年の主要な研究を簡潔に紹介しており、近年の古代ゲノム研究を把握するのにたいへん有益だと思います。2001年にヒトゲノムの概要配列が公開され、分子の観点からのヒト生物学と進化理解向上が約束されました。2000年代半ば以降、高出力配列(HTS)技術の進歩とその後の広範な応用により、迅速で費用効果の高い真核生物のゲノムの配列が可能になり、古代DNAの分野でゲノム時代への道が開かれました。年代の得られた遺伝的データの提供により、古代DNAは現生人類(Homo sapiens)と以前には知られていなかった古代型人口集団との混合を明らかにし(関連記事)、重要な適応的変異の出現を解明し、現生人類の最近の進化的過去に関する長く続いてきた議論に光を当て、継続的に新たな証拠の断片を追加し、過去数万年における過去と現在の人口集団の遺伝的歴史を明らかにしました。

 本論文は、古代DNA研究により明らかにされた世界的な人口集団の移動と、中期更新世から歴史時代の現生人類と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の混合および置換を議論し、古代DNAの証拠から得られた洞察に焦点を当てます。本論文は現生人類に加えて、現生人類と最も密接な古代の近縁ホモ属であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)についての現在の知識も議論します。ネアンデルタール人(関連記事)もデニソワ人(関連記事)も、ゲノム規模の情報が得られています。本論文で検討された仮説のほとんどは古代人のひじょうに限定的な標本抽出に由来しており、それは、保存状態の良好なヒト半化石(完全に化石化されておらず、内在性の有機分子を含む遺骸)が不足しているからです。

 1980年代後半までに、DNAは生物の死後も長く生き残れるものの、本質的には高度に分解され、化学的に変化する、と示されました。古代DNAを特徴づける初期の試みは、短いDNA断片に限定されていましたが、DNA分解の詳細な理解とともに古代人へのHTS技術の適用により、2010年には3点の概要古代ゲノムの刊行に至りました。それは、ネアンデルタール人とデニソワ人とグリーンランドの4000年前頃の現生人類です。デニソワ人は、古代DNAデータのみを用いることで特定された新たな古代型系統を表します(関連記事)。

 実験室と計算実施要綱の改良により、極端に短い古代DNA断片の回収および識別と、現代の汚染DNA除去の手法が可能となったので、配列された古代人ゲノムの数は指数関数的に増加しました(図1)。これら古代ゲノムにより、古代系統、古代型ホモ属(非現生人類ホモ属)と現生人類、現代の人口集団の遺伝的構成と適応の調査が可能となり、過去数千年にわたる世界中のヒトの遺伝的歴史を垣間見ることができます。以下は本論文の図1です。
画像



第1部:非現生人類ホモ属と現生人類の相互作用

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムは2010年に再構築されました。常染色体の分析から、両者は相互に現生人類よりも密接に関連している、と示唆されました。共有された遺伝的多様体の水準から、非現生人類ホモ属は現生人類と55万年前頃に分離し、ネアンデルタール人とデニソワ人は相互に40万年前頃に分岐した(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、と推定されました(図2)。

 現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との遺伝的混合は、広く非アフリカ系現代人で検出されてきましたが、混合の割合と地理的分布は大きく異なります。ネアンデルタール人由来の混合は全ての非アフリカ系現代人で検出されており、アジア東部現代人のゲノム(2.3~2.6%)にはユーラシア西部現代人のゲノム(1.8~2.4%)よりも多いネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)が含まれますが(関連記事)、最近の研究では、アフリカ人口集団へのユーラシアからの「逆移住」の修正後は、ネアンデルタール人祖先系統の水準の地域差がより小さくなる、と推定されています(関連記事)。

 加えて、一部のアフリカ人口集団は、ネアンデルタール人および現生人類の共通祖先と分岐したより古い古代型系統からの祖先系統を有している、と仮定されました(関連記事)。さらに、ネアンデルタール人とデニソワ人から出アフリカ現生人類への遺伝子移入の複数回の波として、絶滅した古代系統と交配した古代の現生人類(関連記事)が提案されてきました(図2)。これは、現生人類への、デニソワ人からの最大4回の混合の波と、ネアンデルタール人からの最大3回の混合の波推定によって裏づけられており、現代人集団における、低酸素適応関連遺伝子(EPAS1)など適応的ないくつかの遺伝子移入を含む、非現生人類ホモ属に由来するDNAの存在を説明します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 現生人類系統と非現生人類ホモ属系統との間の混合は、双方向で起きたようです。ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は初期現生人類系統に置換され、37万~22万年前頃の現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入の結果(関連記事1および関連記事2)である可能性が高そうです(図2)。ネアンデルタール人と現生人類の混合は最近では4万年前頃まで起きたと特定されていますが、これらの系統は明らかに現代まで存続していません(関連記事1および関連記事2)。

 また、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性個体(デニソワ11号)は、母親がネアンデルタール人で、父親がデニソワ人です(関連記事)。最近の古代型祖先系統と特定された古代の個体数の増加を考えると、過去の人類は頻繁に混合した可能性があり、非現生人類ホモ属と現生人類を異なる系統とみなすべきなのか、むしろ現代人集団の多様性と類似した過去50万年の遺伝的につながった遺伝的多様性の連続体から取られた点とみなすべきなのか、という問題が提起されます(関連記事)。以下は本論文の図2です。
画像



第2部:現生人類の人口動態


第1章:初期現生人類集団の多様性

第1節:アフリカ

 遺伝的データは現生人類のアフリカ起源を強く裏づけており、初期現生人類集団の形態は更新世アフリカにおける地理的に分散した集団を示唆します。しかし、アフリカの祖先系統の起源を特徴づける単一のモデルを決定することは依然として困難です(関連記事1および関連記事2)。起源地として、アフリカの南部(関連記事)や西部や東部および中央部(関連記事)など、多くの場所が遺伝的多様性と分岐年代の推定から提案されてきました。部分的な現生人類の形態の最初の証拠は現在のモロッコで発見されており、その年代は315000年前頃です(関連記事)。現生人類は相互につながったアフリカ全域の人口集団から出現した、と仮定されていますが(関連記事)、このモデルの検証にはさらなる証拠が必要です。

 25万~20万年前頃の間に、初期現生人類の祖先系統へと寄与する5つの主要な分枝が短い間に分岐し始めました。第一は、おもにアフリカ南部狩猟採集民に祖先系統をもたらした人口集団です(関連記事)。第二は、おもにアフリカ中央部狩猟採集民に祖先系統をもたらした別の人口集団です(関連記事)。第三は、アフリカ西部人と非アフリカ人とアガウ人(Agaw)などアフリカ東部農耕牧畜民を含む他の人口集団です。第四は、アフリカ西部人およびエチオピア高地のモタ(Mota)洞窟で発見された4500年前頃の男性1個体(関連記事)に祖先系統をもたらした、標本抽出されていない人口集団です。第五は、東西アフリカ人に等しく関連する古代アフリカ北部人口集団で、モロッコのタフォラルト(Taforalt)の更新世遺跡で発見された、現時点で利用可能な最古のアフリカ人のゲノムの祖先系統の約半分に寄与しました(関連記事)。

 あるいは、現生人類の祖先系統の分岐年代は、合着(合祖)に基づく手法を用いると、35万~26万年前頃と推定されました(関連記事)。8万~6万年前頃に、非アフリカ人とアフリカ東部人(アフリカ東部の狩猟採集民と農耕牧畜民が含まれます)とアフリカ西部人を表す祖先的人口集団と関わる一連の分岐が、アフリカ東部で起きた可能性があります(関連記事)。非アフリカ人全員の祖先系統の大半は、6万年前頃に始まった世界規模の出アフリカ拡大に由来します(関連記事)。いくつかの遺跡および化石はより早期の拡大を示唆しますが(関連記事)、その年代と現生人類との分類は議論されています。


第2節:ユーラシア

 ゲノムデータが得られているユーラシアの初期現生人類の年代は、45000年前頃までさかのぼります。ユーラシア全域の化石記録は疎らで断片化されたままですが、遺伝的データはいくつかの初期現生人類系統(関連記事)を特定しました(図2)。これらの系統のいくつかは、後の人口集団への検出可能な遺伝的連続性を示しませんが、他の系統は現代の人口集団と遺伝的につながっている可能性があります。現在のロシア(関連記事)とルーマニア(関連記事)とチェコ共和国(関連記事)の4万年以上前の3系統は、現時点では最基底部で最古の現生人類ゲノムを表し、現代の人口集団には遺伝的に寄与しませんでした。なお、本論文ではこのように位置づけられていますが、ルーマニアの4万年以上前の現生人類については、出アフリカ現生人類の最基底部を表すのではなく、ブルガリアの4万年以上前の現生人類集団(関連記事)の(きわめて近縁な集団の)子孫で、現代人ではヨーロッパよりもアジア東部の方と類似している、との見解も提示されています(関連記事)。

 40000~24000年前頃の他の初期現生人類系統は、遺伝的に現代の人口集団とつながっています。ユーラシア西部現代人で見られる祖先系統のヨーロッパ古代人は、37000~35000年前頃の個体群に代表されます(関連記事1および関連記事2)。加えて、人口統計学的モデル化では、古代シベリア北部人(ANS)がユーラシア西部人から39000年前頃に分岐したと明らかになり、初期ユーラシア西部人および初期アジア東部人の両方との類似性を示す、と提案されています(関連記事)。さらに、ANSの子孫である古代ユーラシア北部人(ANE)は、ロシアで発見された24000年前頃の1個体で示されるように、アメリカ大陸先住民と密接に関連しています。(関連記事1および関連記事2)。アジア東部では、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(田園個体)が、アジア東部現代人と関連する人口集団(田園洞集団)を表します(関連記事)。これら初期現生人類に関する現時点での知識は乏しいにも関わらず、ユーラシア全域で経時的に、人口構造が増加し、人口集団の相互作用が大きくなり、より高頻度で移動が起きたことは明らかです。

 ユーラシアの初期現生人類のゲノムの利用可能性の増加に伴い、ユーラシアの更新世人口史がつなぎ合わされ始めつつあります。たとえば、田園洞集団とベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)に代表される人口集団(ゴイエットQ116-1集団)がどのように遺伝的につながっているのか、不明でした(関連記事)。両人口集団間の物理的距離を考えると、直接的な遺伝子流動の可能性は低そうです。興味深いことに、田園個体とQ116-1の両方とつながる人口集団が、最近ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された46000~43000年前頃の個体群のゲノム分析を通じて明らかにされました(関連記事)。

 遺伝学的および考古学的証拠両方の複素を考えると、直接的に裏づける証拠を得ることは依然としてひじょうに困難ですが、田園洞個体とQ116-1とバチョキロ洞窟個体群に表されるような人口動態は、オーリナシアン(Aurignacian)複合など、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)文化の同時代の拡大と移行に関連していた可能性が高そうです(関連記事)。なお、本論文はこのように指摘しますが、IUPとオーリナシアンは区別すべきかもしれません(関連記事)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)となる、少なくとも一部の初期上部旧石器ユーラシア人口集団は、高い遺伝的多様性と低い変異荷重(人口集団における有害な変異の負荷)を示しますが、多様性減少と関連するボトルネック(瓶首効果)がLGMに伴って北方で起きました(関連記事)。



第2章:LGMにおける人口動態

 本論文は、LGMと一致する人口変化を議論します。LGMは、ヨーロッパとアジア東部とシベリアにおいて過酷な環境条件の期間でした。ヨーロッパでは、ベルギーで発見された35000年前頃の1個体に表される初期人口集団の一つがこの地域から撤退したものの、LGM後の19000年前頃にこの祖先系統を有しているイベリア半島の19000年前頃の個体が、ヨーロッパ南西部で特定されました(関連記事)。LGMの後、さまざまなヨーロッパの退避地の狩猟採集民間で混合が観察されました(関連記事)。

 アジア東部では、田園個体および33000年前頃となるアムール川地域の1個体と関連する祖先系統が、LGMの前にはアジア東部北方全域に広く分布していました(関連記事)。LGM末には、アムール川地域の19000年前頃の1個体と関連して、人口集団の変化が起きたかもしれません。これは、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異の出現を伴っており、この変異はより太い毛幹やより多くの汗腺やシャベル型切歯などと関連しています(関連記事)。

 ヨーロッパやアジア東部と同様に、更新世のシベリアでも人口集団の変化が起き、シベリアには遅くとも45000年前頃には現生人類が居住していましたが(関連記事)、LGM後には、ANS(およびその子孫のANE)祖先系統を有する人口集団が、古代旧シベリア人(APS)に置換されました。APSはアジア東部古代人とANEとの間の混合により形成され、シベリア北東部からバイカル湖のすぐ南まで分布していました(関連記事1および関連記事2)。



第3章:LGM後の人口動態

 LGM後により温暖化して安定した気候が出現し、この期間の人口動態は一連の急速な拡大と移住と相互作用と置換により特徴づけられます。人口移動のパターンは地域によって異なっており、長期的な人口継続性と内部の相互作用にほぼ限定されるものもあれば(アジア東部本土やオーストラリア)、繰り返し起きる人口集団の混合と置換が支配的なものもあります(ヨーロッパやユーラシア草原地帯)。以下、ほぼ時系列に沿って、主要な人口統計学的事象が地理的に要約されます。しかし、人口史の理解は完全にはほど遠く、将来的にはまだ多くの間隙を埋める必要があります。


第1節:アフリカ

 アフリカ人は現代の人口集団において最も高い遺伝的多様性を有しています。しかし、アフリカの古代DNAの保存状態が悪いため、古代アフリカの人口構造と移動パターンの解明は始まったばかりです(図3)。古代ゲノムから、一部の初期アフリカ人は遺伝的に近東の人口集団とつながっている、と明らかになっており、それはモロッコで発見された15000~5000年前頃の個体群(関連記事1および関連記事2)と、アフリカ東部および南部の3000~1000年前頃の個体群(関連記事)により裏づけられます(図3)。5000~1000年前頃には、サハラ砂漠以南のアフリカにおける牧畜民と農耕民との間の複数の混合事象により、現代のアフリカ東部人口集団が生じました(関連記事1および関連記事2)。

 おそらく、最近のアフリカの人口史における最重要事象は、アフリカ西部関連のバンツー語族話者の拡散でした(図3)。それは世界で起きたと考えられている農耕集団の最大となる既知の拡大事象で(関連記事)、サハラ砂漠以南のアフリカの大半に農耕とアフリカ西部関連祖先系統を拡大させました(関連記事)。さらに、遺伝学的および考古学的証拠は、アフリカの東部から南部への2000年前頃となる牧畜民の拡大(関連記事)を裏づけます(図3)。アフリカの古代ゲノムの利用可能性が限定されており、完新世アフリカ集団間で複雑な遺伝子流動があったため、アフリカ内の人口構造と移動は議論され続けています。以下は本論文の図3です。
画像


第2節:ヨーロッパ

 古代DNA研究は、ヨーロッパへの農耕拡大と、インド・ヨーロッパ語族(445以上の現存言語と30億人以上の母語話者)など言語を伴う拡大の両方に関する理解を深めました。考古学的証拠から、農耕はヨーロッパ大陸で8500年前頃に始まる新石器時代に拡大した、と示唆されています。しかし、農耕拡大が移民によるのか、それとも着想や文化の横断的伝播だったのか、議論されてきました。古代DNA分析では、近東(アナトリア半島)からの新石器時代農耕集団がヨーロッパ全域に広く拡大し、その後の数千年に中石器時代からのヨーロッパ在来の狩猟採集民と混合した、と示されます。つまり、農耕拡大は着想の伝播よりもむしろ人々の移住による結果だったわけです。近東現代人とのつながりは、すでに早くも14000年前頃にはわずかに観察され、ヨーロッパ現代人の明るい目の色と関連する、HERC2遺伝子(HECTおよびRLDドメイン含有E3ユビキチンタンパク質連結酵素2)の派生アレルの出現と一致します(関連記事)。

 4900年前頃、現在のロシアで確認されたヨーロッパ東部狩猟採集民と、コーカサス狩猟採集民(関連記事)の祖先系統の、少なくとも2つの狩猟採集民祖先系統の混合である、草原地帯関連祖先系統が東西に向かって拡大しました(関連記事)。草原地帯関連祖先系統は、ヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連する個体群と最も密接に関連しており、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)全域に拡大した文化複合です(図3)。この祖先系統はヨーロッパ中央部に出現し、縄目文土器(Corded Ware)文化と関連する人口集団を4900年前頃に形成しました(関連記事)。

 4600年前頃には、草原地帯関連祖先系統を有する個体群がブリテン諸島に到来し、鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の拡大と一致し、在来の遺伝子プールの90%を数百年以内に置換しました(関連記事)。遺伝学的証拠から、この過程はほぼ男性により推進された、と示唆されています(関連記事)。なぜならば、ブリテン諸島とイベリア半島では、ほぼ全ての後期新石器時代のY染色体がヨーロッパ東部草原地帯関連のY染色体に置換されたからです(関連記事)。したがって古代ゲノムは、ヨーロッパ現代人の祖先系統が3つの主要な遺伝的構成要素から構成されることを明らかにしました。それは、ヨーロッパ狩猟採集民祖先系統と、初期農耕民祖先系統と、草原地帯祖先系統で、ヨーロッパ全域でこれらの祖先系統はさまざまな割合を示します(関連記事)。


第3節:草原地帯とアジア中央部および南部

 上述の草原地帯集団は、ユーラシアの人口動態に重要な役割を果たしました。4900年前頃、草原地帯集団は現在のヨーロッパだけではなく東方にも拡大し、アルタイ山脈の紀元前3300~紀元前2500年頃となるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と関連する個体群にも遺伝的影響を残しました(関連記事)。この草原地帯関連祖先系統は現在のモンゴル中央部の東方草原地帯に拡大しましたが、それ以上東方には拡大しませんでした(関連記事)。青銅器時代のアジア中央部では、現在のウズベキスタンとトルクメニスタンで見つかっているバクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex、略してBMAC)の祖先系統は、イラン農耕民(60~65%)とアファナシェヴォ文化農耕民(20~25%)の混合で、わずかにシベリア西部狩猟採集民(10%)とアンダマン諸島狩猟採集民(2~5%)の寄与があります(関連記事)。

 アジア南部では、古代世界で初期の大規模な都市社会となるインダス文化の5000年前頃の個体が、アジア南部現代人にとって最大の祖先系統供給源である人口集団を表します(関連記事)。後に、インダス文化関連人口集団は草原地帯関連祖先系統を有する北西集団および南西部集団と混合し、それぞれ祖型北インド人(Ancestral North Indians、略してANI)と祖型南インド人(Ancestral South Indians、略してASI)が形成されました。ANIとASIの混合は、現在のアジア南部における主要な遺伝的勾配につながりました(関連記事)。アジア南部における草原地帯関連祖先系統は、アジア南部現代人集団の祖先系統に最大30%ほど寄与し、草原地帯の拡大を通じての祖型インド・ヨーロッパ語族拡大の追加の証拠を提供します(関連記事)。


第4節:アジア東部および南東部

 上述のようにモンゴルでは、大きな遺伝的置換がアファナシェヴォ文化牧畜民など草原地帯牧畜民と、匈奴やモンゴルなど酪農牧畜民の拡大および移住と関連しています(関連記事1および関連記事2)。とくに、8000~6500年前頃の新石器時代人口集団はほぼ完全なアジア東部祖先系統を有しており、草原地帯関連祖先系統は5000年前頃に牧畜民の拡大と共にもたらされました(関連記事1および関連記事2)。その後、モンゴルの人口集団は3400年前頃にヤムナヤ文化およびヨーロッパの農耕民と関連する個体群に由来する祖先系統の混合を示します(関連記事)。東方草原地帯の遊牧民連合である匈奴と関連する個体群は2000年前頃に確立し、モンゴルおよびその周辺地域の人口集団の遺伝子を有していましたが、歴史時代のモンゴル人は、現在のモンゴル語族人口集団と類似した高水準のユーラシア東部祖先系統を有しています(関連記事)。

 アジア東部本土と列島では、新石器時代に多様な遺伝的系統が存在し、アジア東部北方祖先系統や、ホアビン(Hòabìnhian)文化と関連するアジア南東部の古代狩猟採集民祖先や、少なくとも二つの異なるアジア東部南方系統や、日本列島に存在する縄文文化と関連する個体群により最良に示される祖先系統を有する個体群が含まれます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。アジア東部現代人の最初の分枝となるアジア東部北方人と南方人との間の遺伝的分化は、早くも19000年前頃までさかのぼります(関連記事)。

 新石器時代の後、アジア東部北方祖先系統はアジア東部南方全域に拡大し、アジア東部南方人におけるアジア東部北方人との遺伝的類似性が経時的に増加していきました。南方から北方への遺伝子流動も、北方の漢人集団と一部のアジア東部北方人で特定された、アジア東部南方祖先系統(関連記事1および関連記事2および関連記事3)で見られます(図3)。アジア東部北方では、アムール川流域の14000年前頃の1個体が、シベリアのAPSに寄与したと明らかになっているアジア東部供給源と最も密接に関連しています。アムール川流域では140000年前頃から現在まで、遺伝的連続が維持されています(関連記事)。

 アジア東部南方人とアジア南東部人との間のつながりは複雑です。最近の遺伝学的証拠は、複雑なモデルを示唆します。そのモデルでは、アジア南東部の在来の狩猟採集民がアジア東部農耕民の複数の波と混合し(関連記事)、アジア南東部とアジア東部南方の狩猟採集民間の混合がアジア東部本土の南部地域で検出されており、それは農耕の拡大よりずっと前の9000~6000年前頃(関連記事)とされています(図3)。アジア東部本土と台湾海峡諸島の人々は、新石器時代オーストロネシア人(11500~4200年前頃)の祖先と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。これら海洋オーストロネシア人は、南東諸島から近オセアニア(ニアオセアニア)へと急速に拡大しました。


第5節:オセアニア

 考古学的証拠では、アジア南東部からの人口集団が5万年前頃以前に最初にサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)に居住した、と示唆されています。オーストラリア大陸では、東西沿岸の49000~45000年前頃となる単一の急速な移住に続いて人口集団が継続的に存在し、ミトコンドリアゲノム(関連記事)もY染色体(関連記事)も、オーストラリアへのより最近の遺伝子流動を示唆しません(図3)。

 オセアニアの島々では、在来のパプア人が、台湾海峡諸島およびその近隣から拡大した可能性の高そうなオーストロネシア人と遭遇し、移住および混合事象の複数の波が過去数千年以内に起きました(図3)。3200年前頃、ラピタ(Lapita)文化は遠オセアニア(リモートオセアニア)へと拡大し、おもにオーストロネシア人関連祖先系統を有していました(関連記事)。しかし、この祖先系統は2700~2300年前頃に、現在のバヌアツなどオセアニアの最西端諸島でパプア人関連祖先系統によりほぼ完全に置換され、おそらくはビスマルク諸島やニューギニア北東部からの継続的な遺伝子流動に起因します(関連記事)。

 現在のフィリピンからミクロネシアのマリアナ諸島への追加の移住が提案されており(関連記事)、オセアニアの移住の複雑さを浮き彫りにします(図3)。過去千年、ポリネシア人関連祖先系統の流入がバヌアツの人々で検出されました(関連記事)。ポリネシア人がアメリカ大陸先住民と混合したのかどうかは、依然として議論の余地があります。現代人のゲノム分析では、ポリネシア人は南アメリカ大陸先住民と800年前頃に接触した、と示唆されますが(関連記事)、別の研究はこの仮説を支持していません(関連記事)。


第6節:シベリア

 上述のようにシベリアでは、APS系統がシベリア東部のコリマ川(Kolyma River)遺跡の9800年前頃の1個体(関連記事)と、バイカル湖の14000年前頃の1個体(関連記事)により最もよく表されます(図3)。APSに加えて、アジア東部人と、ANE系統と関連する人口集団との間の混合を通じて形成された他の系統が、基底部アメリカ大陸先住民分枝を形成し、その子孫はベーリンジア(ベーリング陸橋)を渡って最終的にはアメリカ大陸に到達しました(関連記事)。APS祖先系統を有する個体群は、チュクチ人(Chukchi)やコリャーク人(Koryak)やイテリメン人(Itelmen)などシベリア北東部の現代人集団の祖先で、アメリカ大陸外ではアメリカ大陸先住民の最も近縁な集団を表します(関連記事)。

 前期~中期完新世のシベリア東部では、APS関連人口集団が新シベリア人に置換されました。新シベリア人はおもにアジア東部祖先系統を有しており、さまざまな割合のユーラシア西部草原地帯関連祖先系統が伴います。前期新石器時代から青銅器時代まで、バイカル湖では遺伝的移行が起こり、アムール川流域からのアジア東部祖先系統とANE関連祖先系統との間の長い遺伝子流動と関連しています(関連記事)。


第7節:アメリカ大陸

 シベリアで基底部アメリカ大陸先住民分枝が形成された後、ベーリンジアの最初の移住は停止しました(関連記事)。北アメリカ大陸先住民(NNA)と南アメリカ大陸先住民(SNA)の共通祖先は、アラスカで発見された11500年前頃の個体により最もよく表される古代ベーリンジア人と分岐しました(関連記事)。アメリカ合衆国モンタナ州のアンジック(Anzick)遺跡で発見された12800年前頃の子供1個体(関連記事)により示唆されるように(関連記事)、17500~14600年前頃、NNAとSNAはおそらく北アメリカ大陸の氷床の南側で相互に分岐した可能性が高そうです。アンジック遺跡は、北アメリカ大陸で定義された最古の広範な考古学的複合であるクローヴィス(Clovis)複合と関連しています。このアメリカ大陸の南北系統の分岐後、NNA祖先系統は北アメリカ大陸北部に限定されました。北アメリカ大陸では9000年前頃以前に、NNA集団とSNA集団との間の混合により、9000年前頃のケネウィック(Kennewick)人(関連記事)と古代アルゴンキン人(Algonquians)が生まれました。

 SNAはアメリカ大陸全域に広範かつ急速に拡大し、これは13000~10000年前頃となる南北アメリカ大陸の古代ゲノム間の遺伝的類似性(関連記事)により裏づけられます(図3)。アンジック遺跡個体がアルゼンチンとブラジルと地理の古代の個体群とさまざまな水準の類似性を有していることから、南アメリカ大陸へのSNAの拡散は少なくとも2回の波で起きたかもしれません。5000年前頃、アメリカ大陸北極圏の大半に居住していたのは旧イヌイットで(図3)、旧イヌイットは800年前頃に現在のイヌイットおよびユピク(Yup’ik)の祖先である「新イヌイット」系統によりほぼ置換されました(関連記事)。



第3部:今後の展望

 最初のヒトゲノムのアセンブリは技術的進歩を促進し、古代DNAを用いて人類史の理解を深めることが可能となりました。6000点以上の古代ゲノムがこれまでに再構築されましたが、まだ人類史の表面をひっかいただけであり、多くの間隙が埋められていないままです。利用可能性と保存に違いがあるため、古代ゲノムの大半、とくに3万年以上前のものはユーラシア北部に由来し、アフリカとアジアとアメリカ大陸とオセアニアの標本抽出は限定的です。したがって、これらの地域から古代ゲノムを得ることに注力すべきです。技術的および計算上の改善も、古代ゲノム利用の能力を拡張する、と期待されます。欠落情報の補完は、断片的な遺伝的データを補完する強力な手段で、堆積物からの古代DNAの捕獲により、半化石に依存しない古代DNAの回収が可能となり、古代DNA研究の資料の利用可能性を大きく向上させます。

 研究者は、古代人からプロテオーム解析(プロテオミクス)や同位体や微生物叢やエピジェネティクスのデータを回収することに取り組んでおり、古代DNA分野の範囲をさらに補完します。最近、100万年以上前の大型動物からDNAを得ることに成功しており(関連記事)、近い将来、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人だけではなく、まだゲノム情報が得られていない絶滅ホモ属のより深い進化の道筋を再構築できる可能性が高まっています。これらゲノムのあり得る供給源には、中国で発見され新たに報告された、種区分について議論が続いている化石(関連記事)も含まれます。

 人類史についての知識の増加とは別に、過去10年の古代DNA研究は、ヒト生物学の理解への洞察も明らかにしてきました。たとえば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)重症化の主要な遺伝的危険要因は、ネアンデルタール人から継承されました(関連記事)。遺伝子編集技術の進歩により、今や古代ゲノムから特定された適応的多様体を特徴づける準備が整っており、進化が現代人のゲノム構造をどのように形成したのか、よりよく理解できるようになりつつあります。

 最後に、我々の過去は、我々が新たな課題にどのように向き合うべきか導き、気候変動と世界的流行病の教訓を提供します。遺伝学的および考古学的証拠では、ヒトがひじょうに過酷な北極圏の条件を含むさまざまな環境を、探索し、生き残り、居住していった、と示唆されます。過去、とくにLGMに遭遇したような困難な状況の詳細な再構築は、極限環境へのヒトの適応を解明するのに役立つでしょう。本論文はヒトの進化に焦点を当てていますが、ヒトの病原体の古代DNA研究は、経時的な病原体の進化および宿主と病原体の相互作用について情報を提供し、感染性病原体へのヒトの適応をよりよく理解する見込みを示します。毎年分析されている古代ゲノム数の増加はヒトの過去の多くの物語を明らかにし、その知識はヒトの未来を受け入れるための指針にもなるでしょう。


参考文献:
Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック