海部陽介「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」
井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。国連推計では2019年の世界人口は約77億人で、増加率は鈍化してきているとは、今後も増加し、2050年には約97億人に達すると予測されています。人類がこうした「繁栄」を示すようになった理由と時期、その過程で身体と社会はどう変わってきたのか、といった答えは全て人類進化史にあります。本論文は、広域分布と均一性という、現生人類(Homo sapiens)のきわだつ二つの特質に注目しながら、ホモ属の人類史を概観します。
現生人類は人類の1種で世界中に分布しており、これは完新世最初期から同様です。しかし、他の生物は異なります。現生人類のように、異なる気候帯や植生帯、広大な海をまたいで地球上のほぼ全ての陸地に分布している動物は、他にはいません。さらに、これだけ広域分布しながら1種であることも、現生人類の不思議な側面です。広域分布する哺乳類として、たとえばタイリクオオカミ(Canis lupus)はかつてユーラシアと北アメリカ大陸の大半に生息していましたが、基本的には北半球の動物で、北半球でもアジア南東部の熱帯雨林やアフリカ大陸には存在しませんでした。動物たち通常、広域分布するようになると多様な種に分化していきます。移動性の低い小型種ほどその傾向は顕著で、たとえば南極を除く全世界に分布するネズミ目の種数は2000から3000と推測されています。ヒトを宿主とする病原体ならば爆発的に広がる機会があるでしょうが、現生動物種では、自力で地球全体へと広がることがいかに困難なのか、了解されます。
霊長類(霊長目)では、これがより明確になります、現生人類霊長類は200~500種と推測されていますが、基本的には亜熱帯の森林を生活域にしています。霊長類の中には草原に適応した分類群もいますが、砂漠や高緯度地域には進出できませんでした。しかし、現生人類の分布域は、1種だけでこれら200種以上よりもはるかに広くなります。人類が、いつからどのようにして世界へ広がったのか、その過程で何が起こったのか、本論文は概観します。
●ホモ属の出現
700万~350万年前頃の「初期の猿人」や420万~140万年前頃の「狭義のアウストラロピテクス属」および「頑丈型の猿人」では、直立二足歩行が進化して地上への進出が強化され、330万年前頃には初歩的な石器が使い始められていた、と考えられています(関連記事)。しかし、これらの人類の脳サイズは現生大型類人猿並で、顔面や体系などの各所に(非ヒト)類人猿的要素が色濃く残っており、その長い歴史において最後まで故郷のアフリカを出ることはありませんでした。
そうした人類進化史に大きな変化が現れ始めたのは300万~200万年前頃で、アフリカ東部のこの時期の地層からは、歯や顎がやや小型化し、脳サイズは「猿人」よりも明らかに大きい人類化石が発見されています。このように頭骨と歯に「ヒトらしさ」が現れた人類はホモ属と分類され、「猿人」とは区別されています。日本では、このホモ属の祖先的集団をまとめて「原人」と呼ぶことが慣例となっています。「原人」はアフリカ東部に生息していた「猿人」から派生したと考えられますが、現時点では300万~200万年前頃の人類化石の発見例が少なく、その出現期の詳細について不明点が多いものの、以下の3点が重要です。
まず、この時期は地球史における第四紀氷河時代の始まりに相当し、アフリカでは古土壌の安定同位体や哺乳類の種構成などに、森林が減少し、草原が広がった痕跡を読み取れます。つまり、気候の乾燥化と植生の変化の中で、そこに暮らしていた人類は食性など生存戦略の変化を迫られたはずで、その新たな選択圧下でホモ属が出現したようです。
次に、石器の増加が注目されます。当時の主要な石器は、拳大の円礫の一部を打ち割って刃をつけた単純なもので、その石器製作伝統はオルドワン(Oldowan)、その特徴的石器はオルドヴァイ型石器と呼ばれますが、それがアフリカ東部の260万年前頃以降の地層から散発的に見つかるようになります。同時に、動物骨に石器で切りつけた解体痕(cut marks)の発見例が増えることから、「原人」たちは石器で動物を解体し、肉食の頻度を増やしていたようです。おそらく石器の使用と肉食への移行と脳の増大と歯の小型化には相互関連性があり、たとえば肉食による消化器官の負担軽減がエネルギーコスト面での脳の増大化への道を開いた、とする仮説が有力視されています。
最後に、この時期に生存していた人類が「原人」だけではなかったことです。ホモ属の登場と時期を同じくして、アフリカ東部には臼歯と顎が極端に大型化した、「頑丈型猿人(パラントロプス属)」が出現します。「頑丈型猿人」では脳サイズの変化は微増程度に留まっており、ホモ属とは別の道を歩んだ人類だった、と示されます。しかし、「頑丈型猿人」は当時のアフリカにおいて弱小なそんざいではなく、アフリカでは東部から南部まで化石が多数見つかっており、140万年前頃に化石記録が途絶えるまでは、一つの勢力としてホモ属と長期にわたって共存していました。
初期「原人」については、分類をめぐって長く論争が続いています。一部の研究者は、1964年に提唱されたホモ・ハビリス(Homo habilis)以外に、アフリカ東部には複数の初期ホモ属種が共存し、複雑な進化を遂げたと主張していますが、他の研究者は、それは種内の個体変異を過大評価しているにすぎない、と考えています。こうした論争を決着させる新たな化石の発見他のため、アフリカでは各国の研究者が調査を続けています。
●「原人」の出アフリカ
アフリカに登場した初期「原人」のホモ・ハビリスは比較的小柄で、脳サイズも現生人類の半分程度(約640cc)でした。近年、化石骨や石器の年代整理が進んだことで、「原人」のその後の進化について、一つの傾向が浮き彫りになりつつあります。それは、175万年前頃に、「原人」の身体と石器文化に大きな変化が現れたことです。175万年前頃を境に、脳サイズが約850ccと一層大きくなり、身長も現代人並に高くなったホモ属化石が見つかるようになります。専門家はこの人類をホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類していますが、アフリカのホモ属をエルガスター(Homo ergaster)と分類する見解もあります。ホモ・エレクトスの脳は現代人の2/3程度の大きさでしたが、現代人的な脚長の体型や股関節の構造などから、長距離走や投擲が特異なヒト特有の運動機能を発達させ、さらに発汗により効果的に体温を冷却するヒト的生理機構が進化していた、と推測されています。
ホモ・エレクトスの登場と同じ頃に、アシューリアン(Acheulian)と呼ばれる新たな石器文化が出現しました。その代表的石器はアシュール型ハンドアックス(握斧)と呼ばれる大型の打製石器で、左右や表裏に対称性があり、土掘りや動物の解体など、多様に用いられていたようです。アシューリアン(アシュール文化)の石器はその後、経時的にさらに洗練されていきました。
「原人」の出アフリカについて、20世紀の人類進化学の教科書では100万年前頃に初めてユーラシアへと広がった、と書かれていましたが、その後の発見と研究により、出アフリカはもっと古い、と明らかになってきました。黒海とカスピ海に挟まれたジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃にさかのぼるオルドヴァイ型石器と、178万年前頃の「原人」化石が大量に発掘されています。ドマニシ遺跡の「原人」は、報告者たちによりホモ・エレクトスに分類されていますが、その頭骨は実際にはかなり祖先的で、既知のホモ・ハビリスとホモ・エレクトスの中間的特徴を示しています。ドマニシ「原人」は人類化石として現時点ではユーラシア(非アフリカ地域)最古となり、脳が大きくないといった祖先的特徴を備えています。
ドマニシ遺跡を越えて西方に広がるヨーロッパでは、60万年以上前となる古い人類遺跡の発見例が乏しいものの、見つかった石器はオルドヴァイ型です。現時点では、スペインで見つかった78万年前頃の子供の頭骨や、120万年前頃とされる断片的な下顎骨化石が知られていますが、これらの人類化石と既知の「原人」との関連性は明らかではあれません。
アジア東方で最古の人類遺跡は中国北部の陝西省藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)の近くにある尚晨(Shangchen)に位置し、人類化石は出土していないものの、ドマニシ遺跡より古い212万年前頃の地層でオルドヴァイ型石器が発見されており、中国北部では、その他にも170万~120万年前頃になるかもしれない石器が、いくつかの遺跡で見つかっています(関連記事)。
中国での発見事例を考えると、より温暖なアジア南部および南東部にも、200万年前頃に「原人」が進出していたとして不思議ではありませんが、現時点ではその証拠はほぼ皆無です。インドネシアの「ジャワ原人」については、最古の年代が127万年前頃もしくは145万年前頃以降と推定されています(関連記事)。ただ、その化石にはかなり祖先的な特徴があるので、アジア南東部大陸部に200万年前頃に進出していた古い「原人」集団が、大陸部と接続したり切断されたりを繰り返していたジャワ島へ渡るのに数十万年かかった、と想定することもできます。
●アジアにおける「原人」と「旧人」の多様化
アジアに広がった人類からその後、ホモ・エレクトスの地域集団である「ジャワ原人」や「北京原人」が派生しました。かつて、最初にアジア東方へ広がったのはこのホモ・エレクトスで、その後100万年間近く、アジア東方にはホモ・エレクトス以外の人類は存在しなかった、と考えられていました。しかし近年になってアジア東方において、これまで人類化石が確認されていなかった地域で新たに人類化石が複数発見されています。
ジャワ島のフローレス島では、2003年に10万~5万年前頃(報告当初は18000年前頃と推定されました)の地層から新種の「原人」化石が発見され、新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と命名されました(関連記事)。これが大きな話題となったのは、身長が105cm程度とひじょうに小型で、脳サイズもチンパンジー並だったからです。過去200万~5万年前頃に、人類の身体および脳サイズは大きくなる傾向にありましたが、「フローレス原人」はこの傾向に明らかに反しています。フローレス「原人」の起源については激しい議論が続いていますが、本論文は「ジャワ原人」起源説を主張します。その根拠は、「フローレス原人」の諸特徴が「ジャワ原人」と酷似しており、それ以上の祖先性は認められない、という形態解析結果です。この見解が正しいならば、身長165cmで脳サイズ860cc程度の110万年前頃の「ジャワ原人」の状態から、身長105cmで脳サイズ426cc程度の「フローレス原人」の状態まで、劇的な矮小化が起きたことになります。そうした極端な進化はあり得ない、との見解もありますが、最近になってフローレス島で70万年前頃の人類化石が発見されたことにより、「ジャワ原人」起源説が改めて指示されました(関連記事)。
過去の海水準変動でアジア大陸部と接続・文壇を繰り返したジャワ島とは異なり、フローレス島はずっと孤立した島でした。動物学では、そうした島で動物の身体サイズや脳サイズに劇的な変化が起こり得る、と知られており、島嶼効果(島嶼化)と呼ばれています。フローレス島でもそれが起こり得ることは、フローレス島のゾウ類がウシのサイズに縮小している事実からも裏付けられます。「フローレス原人」の発見は、人類といえども、島嶼化のような動物進化の法則から独立しているわけではない、と改めて研究者に突きつけました。2019年には、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)で発見された人類化石が矮小化した「原人」と判明した、と報告されました(関連記事)。この「原人」は新種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)と命名され、島環境における特殊な人類進化がさらに注目されました。
台湾の西側の海底では、漁船の底引き網にかかって人類の下顎骨化石が発見され(澎湖人)、その年代は間接的証拠から45万年前頃以降で、おそらく19万年前頃よりも新しい、と推測されています(関連記事)。この下顎骨は頑丈で歯が大きい点で、より古い80万~75万年前頃の「ジャワ原人」や「北京原人」よりも祖先的に見えます。「原人」の歯と顎は経時的に小型化していく傾向にあるので、「北京原人」も「ジャワ原人」も澎湖人の祖先とは考えにくく、両者とは異なる系統の人類がアジア大陸の辺縁部に存在したことを示唆します。
現在はロシア領となるシベリア南部のアルタイ地方は、モンゴルと中国とカザフスタンの国境が入れ乱れる地域の付近に位置します。アルタイ山脈には古い人類遺跡のある洞窟がいくつか知られており、その一部は化石とDNA解析からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と同定されました。さらに、現生人類ともネアンデルタール人とも異なる人類の存在が明らかになり、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と呼ばれています(関連記事)。デニソワ人はDNAから同定された初めての人類で、その素性はまだよく分かっていません。その後、チベット高原で発見された人類化石がタンパク質の総体(プロテオーム)の解析によりデニソワ人と明らかになっており(関連記事)、チベット高原の洞窟堆積物ではデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されています(関連記事)。デニソワ人の遺伝的影響は、現代人でもアルタイ山脈やチベット高原から遠く離れたオセアニアおよびアジア南東部島嶼部の一部集団でとくに高いと示されており(関連記事)、その解釈をめぐって研究が続けられています。
このように新たな化石の発見と分析技術の進歩により、ホモ属の進化史はじゅうらいの認識よりも多様で複雑だった、と明らかになりつつあります。その状況は、「原人」よりも派生的な形態特徴を有する「旧人」が現れてからも、おそらくは変わっていません。おそらくヨーロッパでは60万年前頃以降、アジア東部では30万年前頃以降に「旧人」が出現し、ともに5万~4万年前頃まで存続していた可能性があります。しかし、その時点でアジア辺縁部にはなおも「原人」系統が存在しており、人類進化史の複雑性とともに、現生人類しか存在しない現代が特異な時代であることを示します。
●現生人類の出現
上述のように、5万年前頃までの地球上において人類はかなり多様で、世界の異なる場所には異なる種が存続しているのは普通でした。それから状況は大きく変わり、「原人」も「旧人」もいなくなり、現在では現生人類1種だけが、かつての人類の分布域を大きく越えて世界中で暮らしています。この激変を説明する理論が、現生人類アフリカ単一起源説です。1980年代頃までの学界では、多地域進化説が一定の影響力を有していました。多地域進化説では、これは、アフリカとユーラシア各地へ広がった「原人」の子孫たちが、隣接集団間の遺伝子交換により進化の方向性を共有しつつ、基本的に各地域で「旧人」を経て現代人へと進化した、と想定されました。これに対して現生人類アフリカ単一起源説では、現生人類がアフリカの「旧人」集団から進化して世界各地へ広がった、と想定されます。
2000年代以降、現生人類アフリカ単一起源説は遺伝学(ゲノムデータに基づく系統樹では、現代人は全員20万~10万年前頃にアフリカで派生したと示されます)や化石形態学(現代人と同様の形態特徴を有する化石頭骨は、30万~15万年前頃にアフリカで最初に出現します)や考古学(装飾品や模様などの「先進的」行動はアフリカで最初に始まります)など、さまざまな証拠により固められ、定説となりました。現生人類の起源が明らかにされたことで、現生人類の歴史を本格的に語る枠組みが得られました。これまでの歴史叙述の多くは「文明」の誕生と発展に力点を置いてきましたが、人類史は「文明」誕生以前から始まっており、地域によっては「文明」とは縁遠い暮らしを続けてきた人々もいます。そうした全ての人々を視野に含めた歴史を語るならば、現生人類自身の歴史にもめを向けるべきで、現生人類アフリカ単一起源説の確立を受けて、今はそれが可能となっています。近年脚光を浴びている「グローバルヒストリー」の背景には、こうした流れがあります。
●世界へ広がった現生人類
「原人」や「旧人」はユーラシアへと拡散したとはいえ、その分布域は世界の陸域の半分にも満たないものでした。「原人」や「旧人」のそれ以上の拡散を何が阻んでいたのか、逆にそれを突破した現生人類の新規性がどこにあるのかを、読み取れます。遺跡証拠に基づく現生人類の拡散経路の復元地図は直接的証拠なので、遺伝学に基づくそれよりも確度が高くなります。現生人類が世界へ広がった最終氷期後半(5万~1万年前頃)は、海水面が最大で現在よりも125~130m下がっていました。
現生人類の出アフリカの年代については、10万年前頃や7万年前頃や5万年前頃などの仮説がありますが、現代人の系譜へとつながるユーラシア全土への本格的な拡散が始まったのは、5万年前頃以降の上部旧石器時代(後期旧石器時代)です。その時点で、ユーラシアの中~低緯度地域には多様な「原人」や「旧人」の先住者がいましたが、なぜかこの時期にその大多数は姿を消しました。アフリカからユーラシアへと拡散していった現生人類は、ネアンデルタール人やデニソワ人などと部分的に混血したことが、化石人類および現代人のゲノム解析から判明しており、非アフリカ系現代人は、そうした非現生人類ホモ属由来のゲノムを数%程度継承しています。
出アフリカ後の現生人類は、直ちに「原人」や「旧人」の分布域全体へ広がり、さらにその先の無人領域へと拡散しましたるまず、何らかの舟で西インドネシアの海に進出した現生人類集団が、ニューギニアやオーストラリアへ到達しました。そのような海洋進出は、やがて西太平洋のアジア大陸部辺縁地域に転がり、38000~35000年前頃には対馬海峡や台湾沖の海を越えて、日本列島への移住を果たした集団が現れました。島へ渡った現生人類は、海洋航海に限らず、いくつかの新規的行動の痕跡を残しています。たとえば本州や九州では、現時点で最古となる3万年以上前の狩猟用落とし穴(罠猟の証拠)が多数発見されています。沖縄島南部のサキタリ洞遺跡からは、現時点で世界最古となる23000年前頃の釣り針が発見されました。世界最大級の海流である黒潮が行く手を阻み、島が水平線の向こうに見えないほど遠い台湾から与那国島への海峡を、丸木舟で渡る実験航海では、古来の航海術で45時間かけて与那国島へたどり着けました。
アジア大陸内陸部では、同じ頃にシベリアへの現生人類の進出が始まっていました。現生人類は45000年前頃には、バイカル湖の南側の「旧人」生息域の本源に達し、32000年前頃までには、それをはるかに超えて現在の北極海沿岸にまで進出しています。その背景には、寒さに耐えるための住居建設、裁縫による毛皮の衣服、食料や道具素材の貯蔵など新たな技術開発がありました。シベリアの奥地へ到達した現生人類集団の一部は、やがてアラスカへと進出し、さらにアメリカ大陸へと広がっていきました。
こうして最終氷期が終わって気候の温暖化が顕著になる1万年前頃までに、南極大陸を除く全ての大陸が現生人類の分布域となりました。その後、一部地域で農耕が始まって新石器時代になると、より規模の大きい海洋進出が始まり。3500~1000年前頃には、木造の大型帆つきカヌーを有する集団が出現し、アジア南東部を起点に太平洋の中央に位置するポリネシアや、インド洋のマダガスカル島に拡散しました。
このように現生人類は、ヨーロッパで「大航海時代」が始まるずっと前から、南極を除く地球上のほぼ全ての陸域で暮らすようになっていました。その拡散の様相をたどると、他の動物とは異なる現生人類の特異性が浮き彫りになります。他の動物が新たな環境に進出するさい、身体構造の進化を伴うのが普通ですが、現生人類は海を越えるために舟を発明し、寒さに耐えるために他の動物の毛皮を利用するというように、技術と文化でそれを解決しました。
●現代人の多様性の逆説
20世紀後半以降に急速に発展した人類遺伝学は、現生人類アフリカ単一起源説の確立に大きく貢献しましたが、その他に重要な発見が一つあり、それは、外見から受ける印象とは異なり、現生人類の遺伝的多様性は低い、ということです。世界各地の現代人は、肌の色や体型や顔や髪質などでかなりの多様性を示すので、外見からその人の出身地を大まかに言い当てることもできます。一方でチンパンジーには、現代人の視点ではそれほど外見の多様性はありません。しかし、非ヒト類人猿と現代人のゲノムの比較では、現代人の方が遺伝的多様性は低く、これは、現生人類は誕生(より正確には現代人の遺伝的分化の開始)以降の歴史が浅い、と示します。このように、見かけと遺伝的多様性の様相が相反することを「現代人多様性の逆説」と呼びます。
この逆説の理由は、現生人類が急速に世界へと拡散したことと関連しています。つまり、気温や日照条件などが異なる各地へ拡散した現生人類は、各地に適応するような選択圧が作用し、関連する一部の遺伝子が変異して(あるいは非現生人類ホモ属から適応的な変異を得て)外見上の多様性が生まれました。具体的には、肌の色は紫外線照射量と相関しており、身長や体型もある程度は気温と関連している、と示されています。現生人類では、一部の遺伝子が多様化して見かけの集団間の多様性が生まれましたが、ゲノム全体の種内多様性は低く、この逆説を正しく認識することは現代社会において有益です。現生人類は視覚で判断する性向を有するので、外見が異なる他者を異質と決めつけて排除してしまう危険性があります。これは無用な差別の温床になり得るので、これを避けるには、個々人が多様性の実態を理解しなければなりません。
●世界拡散以後の四つの革命
現在、多様な現生人類の言語や文化が存在しますが、これも上部旧石器時代以降の歴史の産物です。古代「文明」以降、そうした文化の地域的多様性はさらに増し(と本論文は指摘しますが、「文明」以降、逆に均質化が進んだのではないか、と私は考えています)、やがて支配する集団と支配される集団の関係が生まれました。しかし、こうした差異を集団の優劣の反映と安直に考えるべきではありません。「グローバルヒストリー」の観点から、どの地域でどのような文化が生まれるかは、その集団の移住先の地政学的要因や歴史に強く作用される、との認識が提示されています。こうした文化や社会体制の多様化の経緯も、上述の身体形質とともに、現生人類の歴史として理解すべきです。異文化に敬意を抱き、多文化共生を目指すならば、そうした姿勢が必須となるでしょう。
進化ではなく歴史が社会を変えてきた具体例として、人類史でよく知られたいくつかの「革命」があります。それは、認知革命や農業(食料生産)革命や産業革命や情報革命などです。千年単位の長い過程の結果である農耕の発生に革命という呼称は相応しくない、との見解もありますが、興味深いのは、革命により生じた文脈です。認知革命の定義はあいまいですが、一般的には、創造力や想像力や認識力や言語による複雑な情報伝達力や未来予見性や計画力にたけた、現生人類の認知能力の進化を指しています。農業革命と産業革命と情報革命は現生人類の世界への拡散後に生じたもので、認知能力の進化を伴うわけではありません。それは、食料生産や工業生産や情報技術のどれも、発明者から近隣集団へとすぐに伝わったことからも明らかです。
つまり、現生人類は特別な進化なしに、過去5万年間に技術や社会体制を飛躍的に発展させました。考古学によると、そうした大変革の萌芽はすでに上部旧石器時代に存在しており、文化が地域的多様化や時代的変遷を示すことは、上部旧石器文化の特徴の一つと把握されており、たとえばヨーロッパ西部の上部旧石器文化は、オーリナシアン(Aurignacian)やグラヴェティアン(Gravettian)など細分化され、日本列島の後期旧石器時代も前半と後半と末期では様相が異なります。つまり、先代の技術や知識を継承しながら次々と発展させていく行為そのものが、現生人類の特徴と言えます。進化していく過程で新たなものを獲得する他の生物とは異なり、独自に歴史を創出して変えていくのが現生人類で、上部旧石器時代の世界規模の拡散もそうして達成されました。現生人類はこうした能力を共有していますが、各地域の歴史的経緯が異なったので、文化や暮らし方は多様になりました。
●現生人類の功罪
このように右肩上がりの発展と多様化を遂げてきた現生人類ですが、今やその行動には、有用と判断した動植物の生育を制御し、有害と判断した生物を排除し、陸の地形を変え、気候に影響を及ぼし、海にも宇宙にも廃棄物があるなど、自然を左右するほどの影響力があります。その功罪一覧は膨大になるでしょうが、人類史の視点から二つ挙げると、大絶滅および「文明病」と呼ばれる疾患です。現生人類が世界各地へ拡散した更新世末には大絶滅が起きたとされており、ユーラシアの非現生人類ホモ属とともに、各地の大型哺乳類や地上性鳥類が次々と絶滅しました。気候変動がその絶滅の一部を説明できるかもしれませんが、現生人類に大きな責任があることは否定できないようです。絶滅の影響は、それまで無人だったオーストラリアやアメリカ大陸などでとくに大きく、日本列島でも、ナウマンゾウやケナガマンモスやステップバイソンやオオツノジカやヒョウなどが、現生人類の到来後に消滅しました。つまり、現生人類による環境破壊は上部旧石器時代から始まっていたわけです。
「文明病」と呼ばれる一連の疾患には、高血圧や心筋梗塞や虫歯などがあり、食生活の変化に起因します。1990年代末に登場した進化(ダーウィン)医学では、これが身体と生活環境の不一致という視点で解釈されます。つまり、現生人類にとって最適な食生活とは、長期にわたる旧石器時代の狩猟採集生活に合うよう調整されてきたはずなのに、「文明」の発展に伴って環境が急激に変わり、祖先がおそらく経験しなかった、飽食や糖分の過剰摂取が容易な社会を形成してしまい、その環境に身体がついていけずに生じている新たな病的状態が一連の文明病である、というわけです。このように人類史の次元で歴史を把握し直すことにより、現代人は自身の再発見の機会を得られます。そのため、学際的な人類史のさらに詳しい復元が今後も必要となるでしょう。
参考文献:
海部陽介(2021)「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第3章P43-58
現生人類は人類の1種で世界中に分布しており、これは完新世最初期から同様です。しかし、他の生物は異なります。現生人類のように、異なる気候帯や植生帯、広大な海をまたいで地球上のほぼ全ての陸地に分布している動物は、他にはいません。さらに、これだけ広域分布しながら1種であることも、現生人類の不思議な側面です。広域分布する哺乳類として、たとえばタイリクオオカミ(Canis lupus)はかつてユーラシアと北アメリカ大陸の大半に生息していましたが、基本的には北半球の動物で、北半球でもアジア南東部の熱帯雨林やアフリカ大陸には存在しませんでした。動物たち通常、広域分布するようになると多様な種に分化していきます。移動性の低い小型種ほどその傾向は顕著で、たとえば南極を除く全世界に分布するネズミ目の種数は2000から3000と推測されています。ヒトを宿主とする病原体ならば爆発的に広がる機会があるでしょうが、現生動物種では、自力で地球全体へと広がることがいかに困難なのか、了解されます。
霊長類(霊長目)では、これがより明確になります、現生人類霊長類は200~500種と推測されていますが、基本的には亜熱帯の森林を生活域にしています。霊長類の中には草原に適応した分類群もいますが、砂漠や高緯度地域には進出できませんでした。しかし、現生人類の分布域は、1種だけでこれら200種以上よりもはるかに広くなります。人類が、いつからどのようにして世界へ広がったのか、その過程で何が起こったのか、本論文は概観します。
●ホモ属の出現
700万~350万年前頃の「初期の猿人」や420万~140万年前頃の「狭義のアウストラロピテクス属」および「頑丈型の猿人」では、直立二足歩行が進化して地上への進出が強化され、330万年前頃には初歩的な石器が使い始められていた、と考えられています(関連記事)。しかし、これらの人類の脳サイズは現生大型類人猿並で、顔面や体系などの各所に(非ヒト)類人猿的要素が色濃く残っており、その長い歴史において最後まで故郷のアフリカを出ることはありませんでした。
そうした人類進化史に大きな変化が現れ始めたのは300万~200万年前頃で、アフリカ東部のこの時期の地層からは、歯や顎がやや小型化し、脳サイズは「猿人」よりも明らかに大きい人類化石が発見されています。このように頭骨と歯に「ヒトらしさ」が現れた人類はホモ属と分類され、「猿人」とは区別されています。日本では、このホモ属の祖先的集団をまとめて「原人」と呼ぶことが慣例となっています。「原人」はアフリカ東部に生息していた「猿人」から派生したと考えられますが、現時点では300万~200万年前頃の人類化石の発見例が少なく、その出現期の詳細について不明点が多いものの、以下の3点が重要です。
まず、この時期は地球史における第四紀氷河時代の始まりに相当し、アフリカでは古土壌の安定同位体や哺乳類の種構成などに、森林が減少し、草原が広がった痕跡を読み取れます。つまり、気候の乾燥化と植生の変化の中で、そこに暮らしていた人類は食性など生存戦略の変化を迫られたはずで、その新たな選択圧下でホモ属が出現したようです。
次に、石器の増加が注目されます。当時の主要な石器は、拳大の円礫の一部を打ち割って刃をつけた単純なもので、その石器製作伝統はオルドワン(Oldowan)、その特徴的石器はオルドヴァイ型石器と呼ばれますが、それがアフリカ東部の260万年前頃以降の地層から散発的に見つかるようになります。同時に、動物骨に石器で切りつけた解体痕(cut marks)の発見例が増えることから、「原人」たちは石器で動物を解体し、肉食の頻度を増やしていたようです。おそらく石器の使用と肉食への移行と脳の増大と歯の小型化には相互関連性があり、たとえば肉食による消化器官の負担軽減がエネルギーコスト面での脳の増大化への道を開いた、とする仮説が有力視されています。
最後に、この時期に生存していた人類が「原人」だけではなかったことです。ホモ属の登場と時期を同じくして、アフリカ東部には臼歯と顎が極端に大型化した、「頑丈型猿人(パラントロプス属)」が出現します。「頑丈型猿人」では脳サイズの変化は微増程度に留まっており、ホモ属とは別の道を歩んだ人類だった、と示されます。しかし、「頑丈型猿人」は当時のアフリカにおいて弱小なそんざいではなく、アフリカでは東部から南部まで化石が多数見つかっており、140万年前頃に化石記録が途絶えるまでは、一つの勢力としてホモ属と長期にわたって共存していました。
初期「原人」については、分類をめぐって長く論争が続いています。一部の研究者は、1964年に提唱されたホモ・ハビリス(Homo habilis)以外に、アフリカ東部には複数の初期ホモ属種が共存し、複雑な進化を遂げたと主張していますが、他の研究者は、それは種内の個体変異を過大評価しているにすぎない、と考えています。こうした論争を決着させる新たな化石の発見他のため、アフリカでは各国の研究者が調査を続けています。
●「原人」の出アフリカ
アフリカに登場した初期「原人」のホモ・ハビリスは比較的小柄で、脳サイズも現生人類の半分程度(約640cc)でした。近年、化石骨や石器の年代整理が進んだことで、「原人」のその後の進化について、一つの傾向が浮き彫りになりつつあります。それは、175万年前頃に、「原人」の身体と石器文化に大きな変化が現れたことです。175万年前頃を境に、脳サイズが約850ccと一層大きくなり、身長も現代人並に高くなったホモ属化石が見つかるようになります。専門家はこの人類をホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類していますが、アフリカのホモ属をエルガスター(Homo ergaster)と分類する見解もあります。ホモ・エレクトスの脳は現代人の2/3程度の大きさでしたが、現代人的な脚長の体型や股関節の構造などから、長距離走や投擲が特異なヒト特有の運動機能を発達させ、さらに発汗により効果的に体温を冷却するヒト的生理機構が進化していた、と推測されています。
ホモ・エレクトスの登場と同じ頃に、アシューリアン(Acheulian)と呼ばれる新たな石器文化が出現しました。その代表的石器はアシュール型ハンドアックス(握斧)と呼ばれる大型の打製石器で、左右や表裏に対称性があり、土掘りや動物の解体など、多様に用いられていたようです。アシューリアン(アシュール文化)の石器はその後、経時的にさらに洗練されていきました。
「原人」の出アフリカについて、20世紀の人類進化学の教科書では100万年前頃に初めてユーラシアへと広がった、と書かれていましたが、その後の発見と研究により、出アフリカはもっと古い、と明らかになってきました。黒海とカスピ海に挟まれたジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃にさかのぼるオルドヴァイ型石器と、178万年前頃の「原人」化石が大量に発掘されています。ドマニシ遺跡の「原人」は、報告者たちによりホモ・エレクトスに分類されていますが、その頭骨は実際にはかなり祖先的で、既知のホモ・ハビリスとホモ・エレクトスの中間的特徴を示しています。ドマニシ「原人」は人類化石として現時点ではユーラシア(非アフリカ地域)最古となり、脳が大きくないといった祖先的特徴を備えています。
ドマニシ遺跡を越えて西方に広がるヨーロッパでは、60万年以上前となる古い人類遺跡の発見例が乏しいものの、見つかった石器はオルドヴァイ型です。現時点では、スペインで見つかった78万年前頃の子供の頭骨や、120万年前頃とされる断片的な下顎骨化石が知られていますが、これらの人類化石と既知の「原人」との関連性は明らかではあれません。
アジア東方で最古の人類遺跡は中国北部の陝西省藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)の近くにある尚晨(Shangchen)に位置し、人類化石は出土していないものの、ドマニシ遺跡より古い212万年前頃の地層でオルドヴァイ型石器が発見されており、中国北部では、その他にも170万~120万年前頃になるかもしれない石器が、いくつかの遺跡で見つかっています(関連記事)。
中国での発見事例を考えると、より温暖なアジア南部および南東部にも、200万年前頃に「原人」が進出していたとして不思議ではありませんが、現時点ではその証拠はほぼ皆無です。インドネシアの「ジャワ原人」については、最古の年代が127万年前頃もしくは145万年前頃以降と推定されています(関連記事)。ただ、その化石にはかなり祖先的な特徴があるので、アジア南東部大陸部に200万年前頃に進出していた古い「原人」集団が、大陸部と接続したり切断されたりを繰り返していたジャワ島へ渡るのに数十万年かかった、と想定することもできます。
●アジアにおける「原人」と「旧人」の多様化
アジアに広がった人類からその後、ホモ・エレクトスの地域集団である「ジャワ原人」や「北京原人」が派生しました。かつて、最初にアジア東方へ広がったのはこのホモ・エレクトスで、その後100万年間近く、アジア東方にはホモ・エレクトス以外の人類は存在しなかった、と考えられていました。しかし近年になってアジア東方において、これまで人類化石が確認されていなかった地域で新たに人類化石が複数発見されています。
ジャワ島のフローレス島では、2003年に10万~5万年前頃(報告当初は18000年前頃と推定されました)の地層から新種の「原人」化石が発見され、新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と命名されました(関連記事)。これが大きな話題となったのは、身長が105cm程度とひじょうに小型で、脳サイズもチンパンジー並だったからです。過去200万~5万年前頃に、人類の身体および脳サイズは大きくなる傾向にありましたが、「フローレス原人」はこの傾向に明らかに反しています。フローレス「原人」の起源については激しい議論が続いていますが、本論文は「ジャワ原人」起源説を主張します。その根拠は、「フローレス原人」の諸特徴が「ジャワ原人」と酷似しており、それ以上の祖先性は認められない、という形態解析結果です。この見解が正しいならば、身長165cmで脳サイズ860cc程度の110万年前頃の「ジャワ原人」の状態から、身長105cmで脳サイズ426cc程度の「フローレス原人」の状態まで、劇的な矮小化が起きたことになります。そうした極端な進化はあり得ない、との見解もありますが、最近になってフローレス島で70万年前頃の人類化石が発見されたことにより、「ジャワ原人」起源説が改めて指示されました(関連記事)。
過去の海水準変動でアジア大陸部と接続・文壇を繰り返したジャワ島とは異なり、フローレス島はずっと孤立した島でした。動物学では、そうした島で動物の身体サイズや脳サイズに劇的な変化が起こり得る、と知られており、島嶼効果(島嶼化)と呼ばれています。フローレス島でもそれが起こり得ることは、フローレス島のゾウ類がウシのサイズに縮小している事実からも裏付けられます。「フローレス原人」の発見は、人類といえども、島嶼化のような動物進化の法則から独立しているわけではない、と改めて研究者に突きつけました。2019年には、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)で発見された人類化石が矮小化した「原人」と判明した、と報告されました(関連記事)。この「原人」は新種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)と命名され、島環境における特殊な人類進化がさらに注目されました。
台湾の西側の海底では、漁船の底引き網にかかって人類の下顎骨化石が発見され(澎湖人)、その年代は間接的証拠から45万年前頃以降で、おそらく19万年前頃よりも新しい、と推測されています(関連記事)。この下顎骨は頑丈で歯が大きい点で、より古い80万~75万年前頃の「ジャワ原人」や「北京原人」よりも祖先的に見えます。「原人」の歯と顎は経時的に小型化していく傾向にあるので、「北京原人」も「ジャワ原人」も澎湖人の祖先とは考えにくく、両者とは異なる系統の人類がアジア大陸の辺縁部に存在したことを示唆します。
現在はロシア領となるシベリア南部のアルタイ地方は、モンゴルと中国とカザフスタンの国境が入れ乱れる地域の付近に位置します。アルタイ山脈には古い人類遺跡のある洞窟がいくつか知られており、その一部は化石とDNA解析からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と同定されました。さらに、現生人類ともネアンデルタール人とも異なる人類の存在が明らかになり、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と呼ばれています(関連記事)。デニソワ人はDNAから同定された初めての人類で、その素性はまだよく分かっていません。その後、チベット高原で発見された人類化石がタンパク質の総体(プロテオーム)の解析によりデニソワ人と明らかになっており(関連記事)、チベット高原の洞窟堆積物ではデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されています(関連記事)。デニソワ人の遺伝的影響は、現代人でもアルタイ山脈やチベット高原から遠く離れたオセアニアおよびアジア南東部島嶼部の一部集団でとくに高いと示されており(関連記事)、その解釈をめぐって研究が続けられています。
このように新たな化石の発見と分析技術の進歩により、ホモ属の進化史はじゅうらいの認識よりも多様で複雑だった、と明らかになりつつあります。その状況は、「原人」よりも派生的な形態特徴を有する「旧人」が現れてからも、おそらくは変わっていません。おそらくヨーロッパでは60万年前頃以降、アジア東部では30万年前頃以降に「旧人」が出現し、ともに5万~4万年前頃まで存続していた可能性があります。しかし、その時点でアジア辺縁部にはなおも「原人」系統が存在しており、人類進化史の複雑性とともに、現生人類しか存在しない現代が特異な時代であることを示します。
●現生人類の出現
上述のように、5万年前頃までの地球上において人類はかなり多様で、世界の異なる場所には異なる種が存続しているのは普通でした。それから状況は大きく変わり、「原人」も「旧人」もいなくなり、現在では現生人類1種だけが、かつての人類の分布域を大きく越えて世界中で暮らしています。この激変を説明する理論が、現生人類アフリカ単一起源説です。1980年代頃までの学界では、多地域進化説が一定の影響力を有していました。多地域進化説では、これは、アフリカとユーラシア各地へ広がった「原人」の子孫たちが、隣接集団間の遺伝子交換により進化の方向性を共有しつつ、基本的に各地域で「旧人」を経て現代人へと進化した、と想定されました。これに対して現生人類アフリカ単一起源説では、現生人類がアフリカの「旧人」集団から進化して世界各地へ広がった、と想定されます。
2000年代以降、現生人類アフリカ単一起源説は遺伝学(ゲノムデータに基づく系統樹では、現代人は全員20万~10万年前頃にアフリカで派生したと示されます)や化石形態学(現代人と同様の形態特徴を有する化石頭骨は、30万~15万年前頃にアフリカで最初に出現します)や考古学(装飾品や模様などの「先進的」行動はアフリカで最初に始まります)など、さまざまな証拠により固められ、定説となりました。現生人類の起源が明らかにされたことで、現生人類の歴史を本格的に語る枠組みが得られました。これまでの歴史叙述の多くは「文明」の誕生と発展に力点を置いてきましたが、人類史は「文明」誕生以前から始まっており、地域によっては「文明」とは縁遠い暮らしを続けてきた人々もいます。そうした全ての人々を視野に含めた歴史を語るならば、現生人類自身の歴史にもめを向けるべきで、現生人類アフリカ単一起源説の確立を受けて、今はそれが可能となっています。近年脚光を浴びている「グローバルヒストリー」の背景には、こうした流れがあります。
●世界へ広がった現生人類
「原人」や「旧人」はユーラシアへと拡散したとはいえ、その分布域は世界の陸域の半分にも満たないものでした。「原人」や「旧人」のそれ以上の拡散を何が阻んでいたのか、逆にそれを突破した現生人類の新規性がどこにあるのかを、読み取れます。遺跡証拠に基づく現生人類の拡散経路の復元地図は直接的証拠なので、遺伝学に基づくそれよりも確度が高くなります。現生人類が世界へ広がった最終氷期後半(5万~1万年前頃)は、海水面が最大で現在よりも125~130m下がっていました。
現生人類の出アフリカの年代については、10万年前頃や7万年前頃や5万年前頃などの仮説がありますが、現代人の系譜へとつながるユーラシア全土への本格的な拡散が始まったのは、5万年前頃以降の上部旧石器時代(後期旧石器時代)です。その時点で、ユーラシアの中~低緯度地域には多様な「原人」や「旧人」の先住者がいましたが、なぜかこの時期にその大多数は姿を消しました。アフリカからユーラシアへと拡散していった現生人類は、ネアンデルタール人やデニソワ人などと部分的に混血したことが、化石人類および現代人のゲノム解析から判明しており、非アフリカ系現代人は、そうした非現生人類ホモ属由来のゲノムを数%程度継承しています。
出アフリカ後の現生人類は、直ちに「原人」や「旧人」の分布域全体へ広がり、さらにその先の無人領域へと拡散しましたるまず、何らかの舟で西インドネシアの海に進出した現生人類集団が、ニューギニアやオーストラリアへ到達しました。そのような海洋進出は、やがて西太平洋のアジア大陸部辺縁地域に転がり、38000~35000年前頃には対馬海峡や台湾沖の海を越えて、日本列島への移住を果たした集団が現れました。島へ渡った現生人類は、海洋航海に限らず、いくつかの新規的行動の痕跡を残しています。たとえば本州や九州では、現時点で最古となる3万年以上前の狩猟用落とし穴(罠猟の証拠)が多数発見されています。沖縄島南部のサキタリ洞遺跡からは、現時点で世界最古となる23000年前頃の釣り針が発見されました。世界最大級の海流である黒潮が行く手を阻み、島が水平線の向こうに見えないほど遠い台湾から与那国島への海峡を、丸木舟で渡る実験航海では、古来の航海術で45時間かけて与那国島へたどり着けました。
アジア大陸内陸部では、同じ頃にシベリアへの現生人類の進出が始まっていました。現生人類は45000年前頃には、バイカル湖の南側の「旧人」生息域の本源に達し、32000年前頃までには、それをはるかに超えて現在の北極海沿岸にまで進出しています。その背景には、寒さに耐えるための住居建設、裁縫による毛皮の衣服、食料や道具素材の貯蔵など新たな技術開発がありました。シベリアの奥地へ到達した現生人類集団の一部は、やがてアラスカへと進出し、さらにアメリカ大陸へと広がっていきました。
こうして最終氷期が終わって気候の温暖化が顕著になる1万年前頃までに、南極大陸を除く全ての大陸が現生人類の分布域となりました。その後、一部地域で農耕が始まって新石器時代になると、より規模の大きい海洋進出が始まり。3500~1000年前頃には、木造の大型帆つきカヌーを有する集団が出現し、アジア南東部を起点に太平洋の中央に位置するポリネシアや、インド洋のマダガスカル島に拡散しました。
このように現生人類は、ヨーロッパで「大航海時代」が始まるずっと前から、南極を除く地球上のほぼ全ての陸域で暮らすようになっていました。その拡散の様相をたどると、他の動物とは異なる現生人類の特異性が浮き彫りになります。他の動物が新たな環境に進出するさい、身体構造の進化を伴うのが普通ですが、現生人類は海を越えるために舟を発明し、寒さに耐えるために他の動物の毛皮を利用するというように、技術と文化でそれを解決しました。
●現代人の多様性の逆説
20世紀後半以降に急速に発展した人類遺伝学は、現生人類アフリカ単一起源説の確立に大きく貢献しましたが、その他に重要な発見が一つあり、それは、外見から受ける印象とは異なり、現生人類の遺伝的多様性は低い、ということです。世界各地の現代人は、肌の色や体型や顔や髪質などでかなりの多様性を示すので、外見からその人の出身地を大まかに言い当てることもできます。一方でチンパンジーには、現代人の視点ではそれほど外見の多様性はありません。しかし、非ヒト類人猿と現代人のゲノムの比較では、現代人の方が遺伝的多様性は低く、これは、現生人類は誕生(より正確には現代人の遺伝的分化の開始)以降の歴史が浅い、と示します。このように、見かけと遺伝的多様性の様相が相反することを「現代人多様性の逆説」と呼びます。
この逆説の理由は、現生人類が急速に世界へと拡散したことと関連しています。つまり、気温や日照条件などが異なる各地へ拡散した現生人類は、各地に適応するような選択圧が作用し、関連する一部の遺伝子が変異して(あるいは非現生人類ホモ属から適応的な変異を得て)外見上の多様性が生まれました。具体的には、肌の色は紫外線照射量と相関しており、身長や体型もある程度は気温と関連している、と示されています。現生人類では、一部の遺伝子が多様化して見かけの集団間の多様性が生まれましたが、ゲノム全体の種内多様性は低く、この逆説を正しく認識することは現代社会において有益です。現生人類は視覚で判断する性向を有するので、外見が異なる他者を異質と決めつけて排除してしまう危険性があります。これは無用な差別の温床になり得るので、これを避けるには、個々人が多様性の実態を理解しなければなりません。
●世界拡散以後の四つの革命
現在、多様な現生人類の言語や文化が存在しますが、これも上部旧石器時代以降の歴史の産物です。古代「文明」以降、そうした文化の地域的多様性はさらに増し(と本論文は指摘しますが、「文明」以降、逆に均質化が進んだのではないか、と私は考えています)、やがて支配する集団と支配される集団の関係が生まれました。しかし、こうした差異を集団の優劣の反映と安直に考えるべきではありません。「グローバルヒストリー」の観点から、どの地域でどのような文化が生まれるかは、その集団の移住先の地政学的要因や歴史に強く作用される、との認識が提示されています。こうした文化や社会体制の多様化の経緯も、上述の身体形質とともに、現生人類の歴史として理解すべきです。異文化に敬意を抱き、多文化共生を目指すならば、そうした姿勢が必須となるでしょう。
進化ではなく歴史が社会を変えてきた具体例として、人類史でよく知られたいくつかの「革命」があります。それは、認知革命や農業(食料生産)革命や産業革命や情報革命などです。千年単位の長い過程の結果である農耕の発生に革命という呼称は相応しくない、との見解もありますが、興味深いのは、革命により生じた文脈です。認知革命の定義はあいまいですが、一般的には、創造力や想像力や認識力や言語による複雑な情報伝達力や未来予見性や計画力にたけた、現生人類の認知能力の進化を指しています。農業革命と産業革命と情報革命は現生人類の世界への拡散後に生じたもので、認知能力の進化を伴うわけではありません。それは、食料生産や工業生産や情報技術のどれも、発明者から近隣集団へとすぐに伝わったことからも明らかです。
つまり、現生人類は特別な進化なしに、過去5万年間に技術や社会体制を飛躍的に発展させました。考古学によると、そうした大変革の萌芽はすでに上部旧石器時代に存在しており、文化が地域的多様化や時代的変遷を示すことは、上部旧石器文化の特徴の一つと把握されており、たとえばヨーロッパ西部の上部旧石器文化は、オーリナシアン(Aurignacian)やグラヴェティアン(Gravettian)など細分化され、日本列島の後期旧石器時代も前半と後半と末期では様相が異なります。つまり、先代の技術や知識を継承しながら次々と発展させていく行為そのものが、現生人類の特徴と言えます。進化していく過程で新たなものを獲得する他の生物とは異なり、独自に歴史を創出して変えていくのが現生人類で、上部旧石器時代の世界規模の拡散もそうして達成されました。現生人類はこうした能力を共有していますが、各地域の歴史的経緯が異なったので、文化や暮らし方は多様になりました。
●現生人類の功罪
このように右肩上がりの発展と多様化を遂げてきた現生人類ですが、今やその行動には、有用と判断した動植物の生育を制御し、有害と判断した生物を排除し、陸の地形を変え、気候に影響を及ぼし、海にも宇宙にも廃棄物があるなど、自然を左右するほどの影響力があります。その功罪一覧は膨大になるでしょうが、人類史の視点から二つ挙げると、大絶滅および「文明病」と呼ばれる疾患です。現生人類が世界各地へ拡散した更新世末には大絶滅が起きたとされており、ユーラシアの非現生人類ホモ属とともに、各地の大型哺乳類や地上性鳥類が次々と絶滅しました。気候変動がその絶滅の一部を説明できるかもしれませんが、現生人類に大きな責任があることは否定できないようです。絶滅の影響は、それまで無人だったオーストラリアやアメリカ大陸などでとくに大きく、日本列島でも、ナウマンゾウやケナガマンモスやステップバイソンやオオツノジカやヒョウなどが、現生人類の到来後に消滅しました。つまり、現生人類による環境破壊は上部旧石器時代から始まっていたわけです。
「文明病」と呼ばれる一連の疾患には、高血圧や心筋梗塞や虫歯などがあり、食生活の変化に起因します。1990年代末に登場した進化(ダーウィン)医学では、これが身体と生活環境の不一致という視点で解釈されます。つまり、現生人類にとって最適な食生活とは、長期にわたる旧石器時代の狩猟採集生活に合うよう調整されてきたはずなのに、「文明」の発展に伴って環境が急激に変わり、祖先がおそらく経験しなかった、飽食や糖分の過剰摂取が容易な社会を形成してしまい、その環境に身体がついていけずに生じている新たな病的状態が一連の文明病である、というわけです。このように人類史の次元で歴史を把握し直すことにより、現代人は自身の再発見の機会を得られます。そのため、学際的な人類史のさらに詳しい復元が今後も必要となるでしょう。
参考文献:
海部陽介(2021)「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第3章P43-58
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