平山優『戦国大名と国衆』
角川選書の一冊として、角川学芸出版より2018年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、甲信の戦国大名武田氏を対象として、その領国(分国)支配と軍事編成の特徴を、国衆の視点から解説します。戦国大名の領国は、大別して直轄支配地域と国衆が原則として排他的に支配する国衆領により構成されていました。直轄支配地域は、戦国大名が軍事的に制圧した地域で、敵方所領を没収し、直接支配することにより成立しました。国衆領は、戦国大名に従属した国衆が戦国大名により自治権を認められた所領で、戦国大名は原則としてその支配領域に干渉しませんでした。国衆領は戦国大名本国の縁辺部に位置していますが、戦国大名領国の拡大に伴い、混在状態になる地域もあります。この支配形態の違いが軍事編成にも反映されています。
国衆とは、室町期の国人領主とは異なる領域権力となった、戦国期固有の地域的領主と定義されます。重要なのは、国衆が自分の居城を中心に地域的支配権を確立し、一円領として地域的・排他的な支配領域(その多くは郡規模で、「領」と呼ばれ、「国」としても把握されていました)を確立していることです。国衆は平時には基本的に大名の介入を受けず、独自に「家中」を編成し、「領」支配においては行政機構を整え、年貢・公事収取や家臣団編成などを実施していました。この点で、国衆の領域支配構造は戦国大名とほとんど変わりません。国衆は大名と起請文を交換し、証人(人質)を出すことで従属関係を結びますが、独立性は維持されます。大名が国衆の「領」を安堵する代わりに、国衆は大名に奉公(軍役や国役など)します。大名と国衆との関係は双務的で、大名が援軍派遣を怠ったり、国衆の保護が充分ではなかったりした場合、国衆は大名との関係を破棄して(離叛)他大名に従属することを躊躇しません。大名は国衆統制のため重臣を「取次」として、さまざまな命令を国衆側に伝達し、国衆も「取次」を通じて大名に要望を伝えました。国衆と「取次」は戦時においては同陣(相備)として一体化し、国衆は「取次」たる重臣の軍事指揮に従います。「国衆」という用語の本来の意味は、在庁官人をはじめとして国衙領の住人でしたが、室町期に各国の守護のうち任国に居住した土着の武士を示すようになりました。つまり、地域の武士の総称という性格が濃厚というわけです。
戦国大名の定義については今でも明確化していないところがありますが、本書は先行研究により提示された要件を挙げています。まず、室町幕府や朝廷や鎌倉府や旧守護家など伝統的上位権力を「名目的に」奉戴・尊重する以外は、他の権力に従属しないことです。その上で、伝統的上位権力の命令を考慮してもそれに左右されず、政治・外交・軍事行動を独自の判断で行なうことです。次に、自己の個別領主権を超えた地域を一円支配し、「領域権力」を形成して、周辺諸領主を新たに「家中」と呼ばれる家臣団組織に組み込みます。その結果成立する戦国大名の支配領域は、おおむね一国以上が想定されるものの、数郡の場合もあります。
南北朝から室町期の在地領主は「国人」と呼ばれます。「国人」は地頭御家人の系譜となり、本領を所領支配の中核としつつ、その拡大を指向し、荘園の横領や他氏との抗争を展開する武士とされます。ただ、地方武士を「国人」と呼ぶ事例は鎌倉時代にもあり、室町期の地方武士が「国人」と呼ばれるのには、研究上の意図があり、史料に見える「国人」と一致しているわけではありません。「国人」はかつて、守護とともに荘園を侵食して荘園制を否定する存在と考えられていましたが、その後、ともに荘園制を否定せず、荘園諸職に依拠しつつ権益を拡大していった、と見解が変わりました。本書は、史料に見える「国人」と、「国人」以下の武士を一括し、在地武士層という把握で国人と呼びます。
室町期の国人領主は、守護や荘園領主など複数の主人に奉公することが常態で、各国は守護権力に一元化されていくわけではありませんでした。上述のように室町期にも守護と国人は荘園制を支え、その枠組みで権益を拡大していきましたが、この室町期荘園制は幕府の政治動向と密接に関連しており、嘉吉の乱を契機に動揺し、応仁・文明の乱により最終的に瓦解して、守護と国人と村社会との新たな支配関係構築をめぐる相克が始まり、戦国時代に突入します。これにより、遠隔地所領の維持が困難となって、国人領主による一円領の形成を促し、国衆が形成されていきます。従来の秩序が崩壊していくなかで、国人領主が村々を支配する主体となっていき、本領を中核に周縁部の村々を取り込んで排他的な一円領を形成し、国衆へと成長していったわけです。この国衆の「領」の本拠などに町場・市場などが成立して地域経済の軸になり、経済的にも一つの地域世界が形成されます。こうした「領」は、戦国期以前には見られず、それが室町期の国人と戦国期の国衆との明確な違いとなります。
具体的に武田領国の国衆を見ていくと、国衆領の多くは一郡もしくは半郡程度の規模や数十ヶ村などさまざまですが、土豪層をはるかに超える規模の支配領域で、拠点となる城郭があり、鎌倉御家人の系譜であることが多く、荘園や国衙領の地頭職を任ぜられ、それを足がかりに騒乱に乗じて荘園などの押領によりその枠組みを破り、独自領域を自力で確保して一円領を形成した、といったすでに国衆に関する議論で指摘されていたことが改めて、おおむね確認されます。ただ、これら戦国期の「領」が江戸時代の「領」にそっくりそのまま移行したわけではありませんでした。上述のように、これら国衆は独自に「家中」を編成し、大名に奉公しましたが、国衆が頼りにならない大名を見限ることがあったように、国衆の「家中」の構成員が譜代被官でも他家に鞍替えすることは珍しくなかったようです。大名権力はこうした鞍替えを抑制し、「家中」の安定を維持しようとしており、武田氏は国衆の被官の逃亡を厳しく罰しようとしました。これも大名にとって国衆から期待される保護の一環でした。
戦国大名の勢力争いに巻き込まれた「境目」の国衆では、双方からの調略により「家中」が分裂することもよくありました。また、「家中」は当主の擁立についても大きな力を有しており、当主の判断に従わず追放し、新たな当主を擁立することもありました。勢力争いに巻き込まれやすい「境目」の国衆にとって、大名の判断は存亡に直結し、大名の侵攻により国衆領が再編され、国衆の排他的・一円的支配が制約されることもありました。こうした大名の侵攻に伴い、国衆領で土豪や地下人が大名の被官となることは多くあり、大名がこうした新規の被官に諸役免除などの特権を与えると、国衆の支配に大きな影響を与えるため、国衆と国衆領内の大名被官との間に確執・争論が生じました。大名にとってこの問題は、領国の統制に深く関わっているため重要でした。じっさい、上述のように国衆が大名を見限ることは珍しくなく、武田氏の場合それが滅亡に直結しました。
戦国期国衆的な存在は豊臣(羽柴)政権により終焉を迎え、国衆は独立大名として取り立てられるか、独立領主としての権限を否定されて大名の家臣となるか、取り潰しになりました。本書は、国衆の終焉が戦国時代の終焉だった、と指摘します。大名と国衆は、庇護と奉仕という人類社会において珍しくない人間関係の一事例として把握できるように思います。たとえば、古代ローマにおけるパトロヌスとクリエンテスの関係です。これは、一方が庇護もしくは奉仕を怠れば解消され、時には殺害に至るような双務的関係で、人類史においてこのような関係がどう形成されてきたのか、その認知的というか進化的基盤は何なのか、という観点で今後も少しずつ知見を得ていくつもりです。
国衆とは、室町期の国人領主とは異なる領域権力となった、戦国期固有の地域的領主と定義されます。重要なのは、国衆が自分の居城を中心に地域的支配権を確立し、一円領として地域的・排他的な支配領域(その多くは郡規模で、「領」と呼ばれ、「国」としても把握されていました)を確立していることです。国衆は平時には基本的に大名の介入を受けず、独自に「家中」を編成し、「領」支配においては行政機構を整え、年貢・公事収取や家臣団編成などを実施していました。この点で、国衆の領域支配構造は戦国大名とほとんど変わりません。国衆は大名と起請文を交換し、証人(人質)を出すことで従属関係を結びますが、独立性は維持されます。大名が国衆の「領」を安堵する代わりに、国衆は大名に奉公(軍役や国役など)します。大名と国衆との関係は双務的で、大名が援軍派遣を怠ったり、国衆の保護が充分ではなかったりした場合、国衆は大名との関係を破棄して(離叛)他大名に従属することを躊躇しません。大名は国衆統制のため重臣を「取次」として、さまざまな命令を国衆側に伝達し、国衆も「取次」を通じて大名に要望を伝えました。国衆と「取次」は戦時においては同陣(相備)として一体化し、国衆は「取次」たる重臣の軍事指揮に従います。「国衆」という用語の本来の意味は、在庁官人をはじめとして国衙領の住人でしたが、室町期に各国の守護のうち任国に居住した土着の武士を示すようになりました。つまり、地域の武士の総称という性格が濃厚というわけです。
戦国大名の定義については今でも明確化していないところがありますが、本書は先行研究により提示された要件を挙げています。まず、室町幕府や朝廷や鎌倉府や旧守護家など伝統的上位権力を「名目的に」奉戴・尊重する以外は、他の権力に従属しないことです。その上で、伝統的上位権力の命令を考慮してもそれに左右されず、政治・外交・軍事行動を独自の判断で行なうことです。次に、自己の個別領主権を超えた地域を一円支配し、「領域権力」を形成して、周辺諸領主を新たに「家中」と呼ばれる家臣団組織に組み込みます。その結果成立する戦国大名の支配領域は、おおむね一国以上が想定されるものの、数郡の場合もあります。
南北朝から室町期の在地領主は「国人」と呼ばれます。「国人」は地頭御家人の系譜となり、本領を所領支配の中核としつつ、その拡大を指向し、荘園の横領や他氏との抗争を展開する武士とされます。ただ、地方武士を「国人」と呼ぶ事例は鎌倉時代にもあり、室町期の地方武士が「国人」と呼ばれるのには、研究上の意図があり、史料に見える「国人」と一致しているわけではありません。「国人」はかつて、守護とともに荘園を侵食して荘園制を否定する存在と考えられていましたが、その後、ともに荘園制を否定せず、荘園諸職に依拠しつつ権益を拡大していった、と見解が変わりました。本書は、史料に見える「国人」と、「国人」以下の武士を一括し、在地武士層という把握で国人と呼びます。
室町期の国人領主は、守護や荘園領主など複数の主人に奉公することが常態で、各国は守護権力に一元化されていくわけではありませんでした。上述のように室町期にも守護と国人は荘園制を支え、その枠組みで権益を拡大していきましたが、この室町期荘園制は幕府の政治動向と密接に関連しており、嘉吉の乱を契機に動揺し、応仁・文明の乱により最終的に瓦解して、守護と国人と村社会との新たな支配関係構築をめぐる相克が始まり、戦国時代に突入します。これにより、遠隔地所領の維持が困難となって、国人領主による一円領の形成を促し、国衆が形成されていきます。従来の秩序が崩壊していくなかで、国人領主が村々を支配する主体となっていき、本領を中核に周縁部の村々を取り込んで排他的な一円領を形成し、国衆へと成長していったわけです。この国衆の「領」の本拠などに町場・市場などが成立して地域経済の軸になり、経済的にも一つの地域世界が形成されます。こうした「領」は、戦国期以前には見られず、それが室町期の国人と戦国期の国衆との明確な違いとなります。
具体的に武田領国の国衆を見ていくと、国衆領の多くは一郡もしくは半郡程度の規模や数十ヶ村などさまざまですが、土豪層をはるかに超える規模の支配領域で、拠点となる城郭があり、鎌倉御家人の系譜であることが多く、荘園や国衙領の地頭職を任ぜられ、それを足がかりに騒乱に乗じて荘園などの押領によりその枠組みを破り、独自領域を自力で確保して一円領を形成した、といったすでに国衆に関する議論で指摘されていたことが改めて、おおむね確認されます。ただ、これら戦国期の「領」が江戸時代の「領」にそっくりそのまま移行したわけではありませんでした。上述のように、これら国衆は独自に「家中」を編成し、大名に奉公しましたが、国衆が頼りにならない大名を見限ることがあったように、国衆の「家中」の構成員が譜代被官でも他家に鞍替えすることは珍しくなかったようです。大名権力はこうした鞍替えを抑制し、「家中」の安定を維持しようとしており、武田氏は国衆の被官の逃亡を厳しく罰しようとしました。これも大名にとって国衆から期待される保護の一環でした。
戦国大名の勢力争いに巻き込まれた「境目」の国衆では、双方からの調略により「家中」が分裂することもよくありました。また、「家中」は当主の擁立についても大きな力を有しており、当主の判断に従わず追放し、新たな当主を擁立することもありました。勢力争いに巻き込まれやすい「境目」の国衆にとって、大名の判断は存亡に直結し、大名の侵攻により国衆領が再編され、国衆の排他的・一円的支配が制約されることもありました。こうした大名の侵攻に伴い、国衆領で土豪や地下人が大名の被官となることは多くあり、大名がこうした新規の被官に諸役免除などの特権を与えると、国衆の支配に大きな影響を与えるため、国衆と国衆領内の大名被官との間に確執・争論が生じました。大名にとってこの問題は、領国の統制に深く関わっているため重要でした。じっさい、上述のように国衆が大名を見限ることは珍しくなく、武田氏の場合それが滅亡に直結しました。
戦国期国衆的な存在は豊臣(羽柴)政権により終焉を迎え、国衆は独立大名として取り立てられるか、独立領主としての権限を否定されて大名の家臣となるか、取り潰しになりました。本書は、国衆の終焉が戦国時代の終焉だった、と指摘します。大名と国衆は、庇護と奉仕という人類社会において珍しくない人間関係の一事例として把握できるように思います。たとえば、古代ローマにおけるパトロヌスとクリエンテスの関係です。これは、一方が庇護もしくは奉仕を怠れば解消され、時には殺害に至るような双務的関係で、人類史においてこのような関係がどう形成されてきたのか、その認知的というか進化的基盤は何なのか、という観点で今後も少しずつ知見を得ていくつもりです。
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