諏訪元「人類化石の発見,いかに」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収のコラムです。人類史をさかのぼっていくと、次第に現代人的特徴が薄れていきます。19世紀異性、さまざまな化石人類の発見が、研究者だけではなく、社会一般でも興味を抱かれることになりました。初めて確認された太古の人類化石は、1856年にドイツで偶然発見されたネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の部分骨格です。これは進化論が提唱された時代であり、その後、比較解剖学を研究していたオランダ人のデュボア(Eugène Dubois)が軍医としてアジア南東部赴任を志願し、数年にわたってスマトラ島とジャワ島で人類化石を探しました。デュボアの発掘調査で特筆されるのは、情報の乏しい当時において計画的だったことです。デュボアは1891年に頭蓋冠化石、翌年には大腿骨化石を発見し、ピテカントロプス・エレクトス(Pithecanthropus erectus)と命名しました。これは「直立猿人」もしくは「ジャワ原人」として知られるようになり、現在ではホモ属に分類されています(Homo erectus)。

 次の重要な発見は、南アフリカのタウング(Taung)で1924年に発掘された最初のアウストラロピテクス属化石でした。これは子供の頭骨化石で、類人猿的な小さな脳ながらも人類のものだと気づいたダート(Raymond Arthur Dart)が発表しました。現在では、この化石はアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)と分類されています。アフリカ南部の猿人化石に遅れて、1960年頃以降、アフリカ東部で世界的に注目される人類化石が次々と発見され、その立役者はリーキー夫妻でした。リーキー夫妻の1930年代からの長期にわたる野外調査を契機に、さまざまな研究者がアフリカ東部で人類化石の発掘調査を行ない、現在に至っています。中でも有名なのは、1974年にエチオピアのハダール(Hadar)で発見された部分骨格化石「ルーシー」です。ルーシーはアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)に分類されています。ルーシーとその関連化石により、「400万年の人類史」が確立しました。1990年代には、まずエチオピアで440万年前頃となるアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)化石が発見され、2000年代にはさらに古い化石が続々と発見されます。それは、ケニアのアルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)とオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)、チャドのサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)で、「700万年の人類史」が語られるようになります。

 南アフリカ共和国の初期人類化石は、石灰岩の空洞に入り込んだ堆積物から出土し、1950年代頃までは、採掘業者が掘り起こした石塊からの発見が多かったものの、1960年代以後は研究者による系統だった発掘調査になっています。一方、アフリカ東部とチャドの調査はかなり事情が異なります。乾燥地帯が多く、古い地層が表面に露出し、数十万から数百万年にわたる地層が断層などで複雑に隣接し合いながら延々と続いています。地層の年代や堆積環境、さらには出土する動植物化石や同位体構成などから、とうじの景観や環境が可能な限り推定されるような全体調査で、稀に人類化石が発見されます。

 日本では、化石というと発掘が想起されますが、アフリカ東部ではまず荒涼とした露頭をひたすら踏査します。自然の侵食で露出している化石の破片の有無と種類や特徴を確認しながら、一定基準で化石の採集が行なわれます。稀な人類化石などとうてい発見されそうもない日々が続くなか、ある時、人類候補の化石が発見されます。そうした時には多くの場合、その周辺を簡易発掘して篩にかけ、あらゆる化石片を回収します。化石包含層そのものから化石が露出しかかっている場合もあります。そうした場合、発掘することで、ごく稀に全身にわたる化石などの大発見につながることがあります。「アルディ」と呼ばれているアルディピテクス・ラミダスの部分骨格化石は、後者の一例です。


参考文献:
諏訪元(2021)「人類化石の発見,いかに」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)P41-42

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