現生人類の出アフリカを可能とする気候条件
現生人類(Homo sapiens)の出アフリカを可能とする気候条件についての研究(Beyer et al., 2021)が公表されました。化石と遺伝的証拠の分析は、現生人類のアフリカ起源の強い裏づけを提供しますが、アフリカからの現生人類拡大の年代が最近の議論の焦点となっています(関連記事)。ほとんどのアフリカ外の化石、およびミトコンドリアと全ゲノムデータに基づくユーラシアとアフリカの人口集団間の分岐の年代は、主要な出アフリカが65000年前頃であることを示します(関連記事1および関連記事2)。
しかし、現生人類遺骸の考古学的発見は、サウジアラビアでは少なくとも85000年前頃(関連記事)、イスラエルでは少なくとも10万年前頃で、議論もあるものの(関連記事)おそらくは194000年前頃(関連記事)まで、ギリシアでは21万年前頃(関連記事)までさかのぼり、現生人類の65000年以上前の出アフリカを示唆しています。さらには、少なくとも8万年前頃、おそらくは12万年前頃までさかのぼる中国における現生人類の痕跡も指摘されていますが(関連記事)、疑問も呈されています(関連記事)。
これらもしくはそれ以前の出アフリカの波は、パプアニューギニアの現代人で小さな遺伝的寄与(1%程度)も残したかもしれません(関連記事)。あり得るもっと早い出アフリカのさらなる証拠は、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動の痕跡で、遺伝的に13万年以上前にさかのぼり(関連記事1および関連記事2)、25万年前までさかのぼる可能性もあります(関連記事)。ユーラシアにおける中期更新世現生人類の存在を確認するにはさらなる研究が必要ですが、現在の証拠から強く示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散できたものの、その回数と年代と経路とそうした初期の出アフリカの波の運命は不明である、ということです。
古気候の再構築は、出アフリカのあり得る出口への洞察を提供できます。ほとんどの研究では、アフリカ北部の気候条件の再構築を用いて、定性的にあり得るシナリオが議論されてきました。その気候条件の再構築は、ユーラシアへの気候的に実行可能な移住経路の空間的に完全な図を提供することがひじょうに稀な経験的記録か、いくつかの時間的断片からのモデル依拠データに基づいていました。
アフリカからのあり得る出口を定義する定量的試みは、ヒト拡散モデルに適合する人口統計学的法則を、考古学的記録(関連記事)もしくは遺伝的データのいずれかに合致させてきました。そうした法則を見つけることは可能ですが、生物学的にどれほど現実的なのか、不明です。たとえばその考古学的記録に基づく研究では、ヒトの温度の生態的地位の変化は50度で変わり、沿岸の移住速度は125000年前頃にほぼ6000%増加した、と仮定されています。さらに、考古学的記録は、とくに現生人類の初期拡散と想定される時期に関してはひじょうに疎らであり、遺伝的データは子孫が標本抽出された出口のみを反映しています。
本論文は、現生人類がアフリカを離れた可能性のある適切な期間を特定するため、別の手法を採用します。まず、過去30万年間の高解像度の古気候シミュレーションを用いて、特定の年代に現生人類がアフリカから出ることができるのに必要だっただろう、低降水量と乾燥への耐性を推定します。第二段階では、これらのデータを、人類学的および生態学的データに基づく狩猟採集民の実際の気候耐性の推定と組み合わせ、アフリカから拡大できる気候的期間の年代を再構築できるようにします。次に、推定された接続期間が、利用可能な出アフリカ拡大の経験的考古学および遺伝的証拠とどれだけ適合するのか、調べます。
本論文の分析は、考古学的および遺伝的データに基づいて以前に提案された出アフリカの経路と年代が、ユーラシアへのじゅうぶんに湿潤な回廊の存在と一致することを明らかにし、古気候的条件がアフリカからの拡大における重要な要因だったことを示唆します。あり得る接触の期間にあるアジア南西部の厳しい環境条件と、アフリカからの人口流入の中断、他の人類とのあり得る競合は、65000年前頃に始まる世界規模の植民以前の初期の現生人類移住者の消滅を説明できる可能性があります。
●出アフリカに必要な降水量耐性
最近まで、準時系列的に連続した古気候の復元は、HadCM3などの地球循環モデルや、中間程度の複雑さの単純な地球モデルから得られた過去125000年のものしかありませんでした。本論文は、最近開発されたHadCM3モデルのエミュレータを用いて、過去300年の高解像度気候を1000年間隔で生成し、約0.5度に規模を縮小し、観測された気候条件に合わせて偏りを補正しました。次に本論文は、これらの再構築を年間の古気候変動のシミュレーションと組み合わせ、気候図の時間的解像度を10単位まで改善しました。
また、アフリカ北部とアジア南西部における現生人類の生存と関連する2点の別の気候変数である、年間降水量と乾燥度が考慮されます。乾燥度については、ケッペン(Wladimir Peter Köppen)の乾燥度指数が用いられ、これは古気候において最も信頼できる乾燥度指標と提案されてきました。降水量と乾燥度への注目は、地域の生態学的制限要因で、したがって初期現生人類がアフリカから移動するさいに、狩猟採集や水といった生存に関わる要因を制約する重要な気候条件だった、と考えられるからです。
本論文では、アフリカからユーラシアへの初期現生人類の拡散経路として、ナイル川とシナイ半島の陸橋と、バブ・エル・マンデブ海峡というあり得る2経路が考慮され、前者は北方経路、後者は南方経路と一般的に言われています。まず、現生人類がアフリカから移動するために耐えねばならない年間降水量の最低条件が10年単位で推定されました。この値を推定するため、一般的な南北両経路それぞれで、低降水量の閾値で現生人類がユーラシアに到達できただろうあらゆる経路が考慮され、次にアフリカからの経路を接続する最低水準の降水量が決定されました。乾燥度についても、別に同様の分析が行なわれました。
本論文の推定では、ナイル川デルタは局所的な降水量や乾燥度に関わらず、常に横断可能と仮定されました。湖や小川のような他の特徴を経時的にモデル化することは困難ですが、そうした特徴は、ヒトの居住の比較的低い降水量と乾燥度の閾値よりも湿潤な地域で起きた可能性が高そうです。さらに南方経路の分析では、バブ・エル・マンデブ海峡は常に横断可能と仮定されました。この海峡横断に必要な航海技術が当時じっさいに利用可能だったのかは未解決の問題です(後述)。航海が原則的に可能だったならば、バブ・エル・マンデブ海峡横断の難易度は、海峡の幅が4km~20km以上に変わる海面変動に依存していたはずです(図1b)。図1では、過去30万年間に現生人類によるアフリカからの移動を気候条件的に実現するために必要となっただろう、降水量耐性の推定が示されています。以下は本論文の図1です。
●狩猟採集民の降水量耐性
現生人類のアフリカからユーラシア大陸への移動を可能とした気候条件期間は、推定される耐性要件を初期現生人類のじっさいの耐性閾値と組み合わせることで推定できるようになります。低降水量に対する妥当な閾値を確定するため、環境条件に応じた初期現生人類の空間動態を調査するために以前に使用された大規模な人類学的データセットから、現代の狩猟採集民の分布がまず調べられました。淡水源の近くに居住していると知られている3人口集団を除くと、年間降水量が90mm前後の閾値があり、それ以下での狩猟採集民の記録はありません(図2a)。
この水準は、草食獣集団を維持できる最小降水量とも一致し(図2a)、砂漠から乾燥性低木環境への転換点近くに位置します。現在のアフリカ北部とアラビア半島の降水量はこの程度で、継続的に草で覆われるには乾燥しすぎていますが、散在するアシや草や小さな低木もしくは散在する樹木間の低木や草の斑状により特徴づけられる、擬似サバンナの存続が可能です。こうした植生では、レイヨウやガゼルやキツネやネコやトガリネズミや齧歯類など現生人類の獲物となり得る、ひじょうに乾燥した環境に適応したいくつかの哺乳類の生存が可能です。以下は本論文の図2です。
●出アフリカが可能な気候的条件
本論文の降水量の推定閾値である年間90mmに基づくと、過去30万年間にアフリカから南北どちらかの経路での拡大が気候的に可能だった時期(グリーンベルト)がいくつかありました(図2b・c)。最終間氷期以前には、ナイル川とシナイ半島の陸橋は246000~200000年前頃の間のいくつかの期間で横断可能だったはずです(図3a)。アフリカからユーラシアへの出口は13万年前頃に再開された後(図3c)、96000年前頃までは継続的に、78000~67000年前頃には再度横断可能だった、と考えられます。その後、この北方経路は湿潤な完新世まで閉ざされていた可能性が高そうです。
海上移動が原則的に可能だったならば、過去30万年間にかなりの割合で南方経路を開かせていた気候条件が存在したでしょう。最終間氷期の前には、充分な降雨量と比較的高い海水準が、275000~242000年前頃(図3a)と230000~221000年前頃と182000~145000年前頃の3回にわたって続きました。135000~115000年前頃には、その開始期を除いて、海水準がとくに高くなっています(図3c)。この時期は提案されている北方経路での現生人類の初期出アフリカの時期に近いので、もし移動があったならば、南北の経路でアフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類がアラビア半島で遭遇したかもしれません。
南方経路が遮断されていた長期間の後、65000~30000年前頃に充分に湿潤な気候のかなりの出口が開かれました(図3e)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)直後と中期完新世には、ユーラシアからアフリカへの人類の「逆流」と一致する、さらなるつながりがありました(関連記事)。現代の狩猟採集民に基づくケッペン乾燥度1.7付近には、降水量についての本論文の推定値と類似した閾値が存在し、アフリカとユーラシアとの間の気候的接続性の推定期間は、降水量に関する推定値とほぼ同じです。以下は本論文の図3です。
本論文の再構築から、現生人類の出アフリカを可能とする南北両経路のどちらかで、適切な気候の期間がいくつかあった、と示唆されます。これらの期間のいくつかは、アフリカ外の最初の現生人類遺骸に先行しますが、25万~13万年前頃の間のある時点と推定されている、現生人類からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)への遺伝子移入の年代と完全に一致します(関連記事1および関連記事2)。最近では、イスラエルで194000年前頃(関連記事)、ギリシアで21万年前頃(関連記事)の初期現生人類遺骸が報告されています。
アフリカからユーラシアへの現生人類の移動は、最終間氷期には南北両経路で可能だったと考えられ、考古学的証拠はより大きな期間を指摘します。考古学的および遺伝学的証拠に基づいて、アフリカからの主要な拡大は65000年前頃だったとする南北両経路の仮説は、本論文の推定と一致します。この時期には、4万年におよぶ気候不順の前に北方経路が最後に開かれた直後の時点とともに、南方経路が最終間氷期以来初めて再度開けた時点も示します。南方経路は、経験的な古環境的記録に基づいて議論されてきており、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3(57000~29000年前頃)には、アラビア半島はヒトの移動には継続的に乾燥しすぎていたとの主張から、断続的な湿潤期間だったとの主張や、長い多雨期、だったとの主張まであります。
いずれにしても、これらの推論は本論文の結果と直接的には比較できません。なぜならば、一つには、いくつかの経験的代理指標(洞窟二次生成物など)は本論文で考慮されたような小規模の降雨量の検出には適していないからです。もう一つには、各経路について、低降水量の最小限の耐性を必要とするアフリカからの特定の経路が経時的に変動するからで、図1に示された降水量が最も少ない区間の地理的位置も変化するので、本論文の推定値は局所的な経験的気候再構築と同じパターンを経時的に示すとは予測されません。
●降水耐性に対する気候期間の感度
現代の狩猟採集民のデータに由来する降水量や乾燥耐性の閾値を初期現生人類の代理指標として使用できるとの仮定に、限界がないわけではありません。民族誌に記録されている人口集団は世界中で一様に分布しているわけではなく、おもに北アメリカ大陸とオーストラリアと南アメリカ大陸とサハラ砂漠以南のアフリカとアジア南部および南東部に居住しており、気候や土壌の水文学的条件がアフリカ北部やアジア南西部とは大きく異なる可能性があります。さらに、水の貯蔵や輸送の能力などにおける技術的違いは、初期狩猟採集民にとってより高い閾値水準(つまり、より高水準の降雨量)を意味するかもしれません。
現在利用可能な証拠では、現代のデータに由来する耐性閾値を定量的に改善することはできないかもしれませんが、アフリカとユーラシアとの間の気候的接続性の窓をもたらすさまざまな閾値の影響を調べることは可能です(図2b・c)。北方経路では、本論文のデータが示唆するのは、年間110mm以上の降水量の耐性閾値ならば、以前に推定されていた期間でアフリカからの拡大が可能となったのは、降水量が千年規模の平均値を上回るより短い期間に限られていた、と考えられます。この想定では、最終間氷期(13万年前頃)が最も好適な条件だったでしょう。
年間降水量が130mm以上の耐性閾値では、移住はひじょうに困難で、異常に湿潤な期間に限定されていた可能性が高そうです。南方経路では、より高い降水量耐性水準へのより多くの機会を提供したでしょう。閾値が年間降水量200mm以上だと、最終間氷期にアフリカから移動する機会があったでしょう。この時点から湿潤な完新世までの間に、年間降水量が130mmまでの耐性水準ならば、65000~55000年前頃の好適期間にアフリカからユーラシアへの移動が可能だったでしょう。
●紅海横断の難しさ
気候的制約に加えて、バブ・エル・マンデブ海峡の横断は、南方経路にとって重要な課題になったでしょう。初期狩猟採集民が紅海を渡ったのかどうか、遺伝学的証拠に基づいて示唆されていますが、この想定を裏づける考古学的証拠がきわめて限定的であるため、議論となっています。海水準が低い期間には、アラビア半島は現在のジブチやエリトリア南東部から見えていたでしょうから、そうした時期に海峡を渡るに際しては、洗練された舟や航海の技術が必要なかったかもしれません。
しかし、初期現生人類が紅海西部沿岸に居住し、海洋食資源を利用した可能性は高いものの、舟や航海の直接的証拠はまだ見つかっていません。さらに、アラビア半島とアフリカ北東部のいくつかの遺跡間で技術的類似性が示唆されてきましたが(関連記事)、他の遺跡はそうした関係を示しません。したがって、本論文のデータにより提案された南方経路のより好適な気候との解釈は要注意です。むしろ、アフリカからの拡大におけるバブ・エル・マンデブ海峡の役割を明らかにするには、一連の遺伝学的および考古学的証拠を拡大し、一致させることが重要です。
●短期的な気候変動と初期現生人類の人口統計
過去30万年間にアフリカから移動する現生人類の気候的実現可能性に関する本論文の分析は、年間降水量と乾燥度の10年規模の変化に基づいています。経験的手法もシミュレーションに基づいた手法も現時点では、堅牢性を損なわずに同じ期間と地域のより高い時間解像度での気候条件を再構築できないように見えますが、重要なのは、短期の気候変動が人口集団の動態に重要な役割を果たす可能性がある、と留意することです。嵐とモンスーンの雨に続いて、乾燥した期間が長く続くと、同じ総降雨量が長期にわたって続いた場合とは異なる問題が発生したでしょう。
本論文の結果は、現生人類にとってアフリカとユーラシアとの間の移動が気候的に実現可能だった時期を推定するものであり、これらの可能な期間にじっさいに現生人類の移動があったのかどうかを示すものではありません。初期現生人類が実際にアフリカから移動したのかどうか確認するには、本論文のデータと、時空間的な人口動態を明確に再現する現生人類拡散モデルとを組み合わせる必要がありますが、本論文はそれを試みていません。
人口成長率や拡散速度など、人口統計学的過程と関連するパラメータの現在の推定値が数桁の幅に及ぶことを考慮すると、そうした手法と関連する不確実性はかなり大きい可能性が高いでしょう。同様に、初期現生人類の移動パターンの程度がどの程度方向性を有していたのか、あるいは無作為だったのか、初期現生人類はさまざまな環境や人口規模の変化への対応でどう変わったのか、という重要な問題については、ほぼ定量的な回答が欠けています。人類学と考古学と遺伝学のデータを統合することは、既存の不確実性を減らすための最も有望な方法のように見えます。
●ユーラシアには定着しなかった初期現生人類
考古学的および遺伝学的データでは、現生人類は65000年前頃に始まる大規模な移住の波の前に少なくとも1回ユーラシアに拡大した、と強く示唆されていますが、アフリカ外の恒久的居住の最初の失敗の理由は、あまり明らかではありません。アラビア半島を越えての移動は、トロス・ザグロス山脈を越える能力に依拠していたでしょう。北方ではネアンデルタール人と競合し(図3f)、これは以前には、最終間氷期における現生人類の拡大の限界と主張されていました。また、おそらくは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような他の人類と、現生人類は東方で競合したでしょう。デニソワ人の範囲は不明ですが、アジア東部の大半に存在した可能性が高そうです(関連記事)。
さらに、本論文の再構築から、南北両経路で気候的に好適な期間は、ヒトの生存には不充分な降雨量の期間によりしばしば中断されており(図2b・cおよび図3b)、アフリカから拡散してきた初期現生人類を事実上孤立させたでしょう。アフリカからのさらなる移住による人口流入が欠如していたため、アラビア半島に残された人口集団は気候変動による確率的な局所的絶滅に陥りやすかったでしょう。当時は4kmの幅のバブ・エル・マンデブ海峡の航海が南方経路での移動を可能にしたならば、この制約は、65000~30000年前頃のほぼ好適な気候の前例のない長期間において、南方経路ではさほど重要ではなかったでしょう。
この長い期間は、成功した大規模な拡散にとって理想的な前提条件であり、アラビア半島の人口集団を安定させただろう、アフリカからの定期的な人口流入を可能としたでしょうから、ユーラシアへの現生人類のさらなる拡大を促進したでしょう。このような動態は、現生人類社会における技術と経済と社会と認知の変化を補完し(関連記事)、それはおそらくネアンデルタール人の衰退とともに(関連記事)、現生人類によるユーラシアへのその後の拡大において後期の拡散の成功を説明するでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。
ヒトの進化:アフリカからの人類の移動には気候上の制約があった
ホモ・サピエンスがアフリカから移動する際に利用できた時期と経路は、気候の影響を受けていたことを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、現生人類の分散における古気候の変動性の役割を強調しており、ホモ・サピエンスの進化史を理解する上で役立つ可能性がある。
初期人類がアフリカから他の地域に移動したと一般的に考えられているが、これに関連する化石や古代のDNAが稀少であるため、ユーラシアへの移動の時期や経路については論争がある。
今回、Robert Beyer、Andrea Manicaたちは、古気候の再構築結果と狩猟採集民が生存するために最低限必要な降雨量の推定値を用いて、アフリカからユーラシアへの移動を容易にする良好な気象条件と十分な降雨量が得られる時期と経路を評価した。著者たちのシミュレーションによって示唆された推定時期と推定経路は、考古学的証拠と遺伝学的証拠との整合性が認められ、このため過去30万年間にアフリカからの移動が複数回起こった可能性が示唆された。ホモ・サピエンスは、初期のいくつかの移動の波では、ユーラシアに永住できず、その後の約6万5000年前に、より大きな規模の移動の波が起こって移住に成功した。著者たちは、その理由として、南西アジアの厳しい環境条件、アフリカからの移住者の到着が断続的だったことと、他のヒト族との競争の可能性を挙げている。
著者たちは、今回の研究で、ホモ・サピエンスがアフリカから移動することが気候的に可能だった時期が実証されたと結論付けている。ただし、そうした時期に実際に移動があったかどうかを調べるためには、さらなる研究が必要とされる。
参考文献:
Beyer RM. et al.(2021): Climatic windows for human migration out of Africa in the past 300,000 years. Nature Communications, 12, 4889.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-24779-1
しかし、現生人類遺骸の考古学的発見は、サウジアラビアでは少なくとも85000年前頃(関連記事)、イスラエルでは少なくとも10万年前頃で、議論もあるものの(関連記事)おそらくは194000年前頃(関連記事)まで、ギリシアでは21万年前頃(関連記事)までさかのぼり、現生人類の65000年以上前の出アフリカを示唆しています。さらには、少なくとも8万年前頃、おそらくは12万年前頃までさかのぼる中国における現生人類の痕跡も指摘されていますが(関連記事)、疑問も呈されています(関連記事)。
これらもしくはそれ以前の出アフリカの波は、パプアニューギニアの現代人で小さな遺伝的寄与(1%程度)も残したかもしれません(関連記事)。あり得るもっと早い出アフリカのさらなる証拠は、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動の痕跡で、遺伝的に13万年以上前にさかのぼり(関連記事1および関連記事2)、25万年前までさかのぼる可能性もあります(関連記事)。ユーラシアにおける中期更新世現生人類の存在を確認するにはさらなる研究が必要ですが、現在の証拠から強く示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散できたものの、その回数と年代と経路とそうした初期の出アフリカの波の運命は不明である、ということです。
古気候の再構築は、出アフリカのあり得る出口への洞察を提供できます。ほとんどの研究では、アフリカ北部の気候条件の再構築を用いて、定性的にあり得るシナリオが議論されてきました。その気候条件の再構築は、ユーラシアへの気候的に実行可能な移住経路の空間的に完全な図を提供することがひじょうに稀な経験的記録か、いくつかの時間的断片からのモデル依拠データに基づいていました。
アフリカからのあり得る出口を定義する定量的試みは、ヒト拡散モデルに適合する人口統計学的法則を、考古学的記録(関連記事)もしくは遺伝的データのいずれかに合致させてきました。そうした法則を見つけることは可能ですが、生物学的にどれほど現実的なのか、不明です。たとえばその考古学的記録に基づく研究では、ヒトの温度の生態的地位の変化は50度で変わり、沿岸の移住速度は125000年前頃にほぼ6000%増加した、と仮定されています。さらに、考古学的記録は、とくに現生人類の初期拡散と想定される時期に関してはひじょうに疎らであり、遺伝的データは子孫が標本抽出された出口のみを反映しています。
本論文は、現生人類がアフリカを離れた可能性のある適切な期間を特定するため、別の手法を採用します。まず、過去30万年間の高解像度の古気候シミュレーションを用いて、特定の年代に現生人類がアフリカから出ることができるのに必要だっただろう、低降水量と乾燥への耐性を推定します。第二段階では、これらのデータを、人類学的および生態学的データに基づく狩猟採集民の実際の気候耐性の推定と組み合わせ、アフリカから拡大できる気候的期間の年代を再構築できるようにします。次に、推定された接続期間が、利用可能な出アフリカ拡大の経験的考古学および遺伝的証拠とどれだけ適合するのか、調べます。
本論文の分析は、考古学的および遺伝的データに基づいて以前に提案された出アフリカの経路と年代が、ユーラシアへのじゅうぶんに湿潤な回廊の存在と一致することを明らかにし、古気候的条件がアフリカからの拡大における重要な要因だったことを示唆します。あり得る接触の期間にあるアジア南西部の厳しい環境条件と、アフリカからの人口流入の中断、他の人類とのあり得る競合は、65000年前頃に始まる世界規模の植民以前の初期の現生人類移住者の消滅を説明できる可能性があります。
●出アフリカに必要な降水量耐性
最近まで、準時系列的に連続した古気候の復元は、HadCM3などの地球循環モデルや、中間程度の複雑さの単純な地球モデルから得られた過去125000年のものしかありませんでした。本論文は、最近開発されたHadCM3モデルのエミュレータを用いて、過去300年の高解像度気候を1000年間隔で生成し、約0.5度に規模を縮小し、観測された気候条件に合わせて偏りを補正しました。次に本論文は、これらの再構築を年間の古気候変動のシミュレーションと組み合わせ、気候図の時間的解像度を10単位まで改善しました。
また、アフリカ北部とアジア南西部における現生人類の生存と関連する2点の別の気候変数である、年間降水量と乾燥度が考慮されます。乾燥度については、ケッペン(Wladimir Peter Köppen)の乾燥度指数が用いられ、これは古気候において最も信頼できる乾燥度指標と提案されてきました。降水量と乾燥度への注目は、地域の生態学的制限要因で、したがって初期現生人類がアフリカから移動するさいに、狩猟採集や水といった生存に関わる要因を制約する重要な気候条件だった、と考えられるからです。
本論文では、アフリカからユーラシアへの初期現生人類の拡散経路として、ナイル川とシナイ半島の陸橋と、バブ・エル・マンデブ海峡というあり得る2経路が考慮され、前者は北方経路、後者は南方経路と一般的に言われています。まず、現生人類がアフリカから移動するために耐えねばならない年間降水量の最低条件が10年単位で推定されました。この値を推定するため、一般的な南北両経路それぞれで、低降水量の閾値で現生人類がユーラシアに到達できただろうあらゆる経路が考慮され、次にアフリカからの経路を接続する最低水準の降水量が決定されました。乾燥度についても、別に同様の分析が行なわれました。
本論文の推定では、ナイル川デルタは局所的な降水量や乾燥度に関わらず、常に横断可能と仮定されました。湖や小川のような他の特徴を経時的にモデル化することは困難ですが、そうした特徴は、ヒトの居住の比較的低い降水量と乾燥度の閾値よりも湿潤な地域で起きた可能性が高そうです。さらに南方経路の分析では、バブ・エル・マンデブ海峡は常に横断可能と仮定されました。この海峡横断に必要な航海技術が当時じっさいに利用可能だったのかは未解決の問題です(後述)。航海が原則的に可能だったならば、バブ・エル・マンデブ海峡横断の難易度は、海峡の幅が4km~20km以上に変わる海面変動に依存していたはずです(図1b)。図1では、過去30万年間に現生人類によるアフリカからの移動を気候条件的に実現するために必要となっただろう、降水量耐性の推定が示されています。以下は本論文の図1です。
●狩猟採集民の降水量耐性
現生人類のアフリカからユーラシア大陸への移動を可能とした気候条件期間は、推定される耐性要件を初期現生人類のじっさいの耐性閾値と組み合わせることで推定できるようになります。低降水量に対する妥当な閾値を確定するため、環境条件に応じた初期現生人類の空間動態を調査するために以前に使用された大規模な人類学的データセットから、現代の狩猟採集民の分布がまず調べられました。淡水源の近くに居住していると知られている3人口集団を除くと、年間降水量が90mm前後の閾値があり、それ以下での狩猟採集民の記録はありません(図2a)。
この水準は、草食獣集団を維持できる最小降水量とも一致し(図2a)、砂漠から乾燥性低木環境への転換点近くに位置します。現在のアフリカ北部とアラビア半島の降水量はこの程度で、継続的に草で覆われるには乾燥しすぎていますが、散在するアシや草や小さな低木もしくは散在する樹木間の低木や草の斑状により特徴づけられる、擬似サバンナの存続が可能です。こうした植生では、レイヨウやガゼルやキツネやネコやトガリネズミや齧歯類など現生人類の獲物となり得る、ひじょうに乾燥した環境に適応したいくつかの哺乳類の生存が可能です。以下は本論文の図2です。
●出アフリカが可能な気候的条件
本論文の降水量の推定閾値である年間90mmに基づくと、過去30万年間にアフリカから南北どちらかの経路での拡大が気候的に可能だった時期(グリーンベルト)がいくつかありました(図2b・c)。最終間氷期以前には、ナイル川とシナイ半島の陸橋は246000~200000年前頃の間のいくつかの期間で横断可能だったはずです(図3a)。アフリカからユーラシアへの出口は13万年前頃に再開された後(図3c)、96000年前頃までは継続的に、78000~67000年前頃には再度横断可能だった、と考えられます。その後、この北方経路は湿潤な完新世まで閉ざされていた可能性が高そうです。
海上移動が原則的に可能だったならば、過去30万年間にかなりの割合で南方経路を開かせていた気候条件が存在したでしょう。最終間氷期の前には、充分な降雨量と比較的高い海水準が、275000~242000年前頃(図3a)と230000~221000年前頃と182000~145000年前頃の3回にわたって続きました。135000~115000年前頃には、その開始期を除いて、海水準がとくに高くなっています(図3c)。この時期は提案されている北方経路での現生人類の初期出アフリカの時期に近いので、もし移動があったならば、南北の経路でアフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類がアラビア半島で遭遇したかもしれません。
南方経路が遮断されていた長期間の後、65000~30000年前頃に充分に湿潤な気候のかなりの出口が開かれました(図3e)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)直後と中期完新世には、ユーラシアからアフリカへの人類の「逆流」と一致する、さらなるつながりがありました(関連記事)。現代の狩猟採集民に基づくケッペン乾燥度1.7付近には、降水量についての本論文の推定値と類似した閾値が存在し、アフリカとユーラシアとの間の気候的接続性の推定期間は、降水量に関する推定値とほぼ同じです。以下は本論文の図3です。
本論文の再構築から、現生人類の出アフリカを可能とする南北両経路のどちらかで、適切な気候の期間がいくつかあった、と示唆されます。これらの期間のいくつかは、アフリカ外の最初の現生人類遺骸に先行しますが、25万~13万年前頃の間のある時点と推定されている、現生人類からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)への遺伝子移入の年代と完全に一致します(関連記事1および関連記事2)。最近では、イスラエルで194000年前頃(関連記事)、ギリシアで21万年前頃(関連記事)の初期現生人類遺骸が報告されています。
アフリカからユーラシアへの現生人類の移動は、最終間氷期には南北両経路で可能だったと考えられ、考古学的証拠はより大きな期間を指摘します。考古学的および遺伝学的証拠に基づいて、アフリカからの主要な拡大は65000年前頃だったとする南北両経路の仮説は、本論文の推定と一致します。この時期には、4万年におよぶ気候不順の前に北方経路が最後に開かれた直後の時点とともに、南方経路が最終間氷期以来初めて再度開けた時点も示します。南方経路は、経験的な古環境的記録に基づいて議論されてきており、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3(57000~29000年前頃)には、アラビア半島はヒトの移動には継続的に乾燥しすぎていたとの主張から、断続的な湿潤期間だったとの主張や、長い多雨期、だったとの主張まであります。
いずれにしても、これらの推論は本論文の結果と直接的には比較できません。なぜならば、一つには、いくつかの経験的代理指標(洞窟二次生成物など)は本論文で考慮されたような小規模の降雨量の検出には適していないからです。もう一つには、各経路について、低降水量の最小限の耐性を必要とするアフリカからの特定の経路が経時的に変動するからで、図1に示された降水量が最も少ない区間の地理的位置も変化するので、本論文の推定値は局所的な経験的気候再構築と同じパターンを経時的に示すとは予測されません。
●降水耐性に対する気候期間の感度
現代の狩猟採集民のデータに由来する降水量や乾燥耐性の閾値を初期現生人類の代理指標として使用できるとの仮定に、限界がないわけではありません。民族誌に記録されている人口集団は世界中で一様に分布しているわけではなく、おもに北アメリカ大陸とオーストラリアと南アメリカ大陸とサハラ砂漠以南のアフリカとアジア南部および南東部に居住しており、気候や土壌の水文学的条件がアフリカ北部やアジア南西部とは大きく異なる可能性があります。さらに、水の貯蔵や輸送の能力などにおける技術的違いは、初期狩猟採集民にとってより高い閾値水準(つまり、より高水準の降雨量)を意味するかもしれません。
現在利用可能な証拠では、現代のデータに由来する耐性閾値を定量的に改善することはできないかもしれませんが、アフリカとユーラシアとの間の気候的接続性の窓をもたらすさまざまな閾値の影響を調べることは可能です(図2b・c)。北方経路では、本論文のデータが示唆するのは、年間110mm以上の降水量の耐性閾値ならば、以前に推定されていた期間でアフリカからの拡大が可能となったのは、降水量が千年規模の平均値を上回るより短い期間に限られていた、と考えられます。この想定では、最終間氷期(13万年前頃)が最も好適な条件だったでしょう。
年間降水量が130mm以上の耐性閾値では、移住はひじょうに困難で、異常に湿潤な期間に限定されていた可能性が高そうです。南方経路では、より高い降水量耐性水準へのより多くの機会を提供したでしょう。閾値が年間降水量200mm以上だと、最終間氷期にアフリカから移動する機会があったでしょう。この時点から湿潤な完新世までの間に、年間降水量が130mmまでの耐性水準ならば、65000~55000年前頃の好適期間にアフリカからユーラシアへの移動が可能だったでしょう。
●紅海横断の難しさ
気候的制約に加えて、バブ・エル・マンデブ海峡の横断は、南方経路にとって重要な課題になったでしょう。初期狩猟採集民が紅海を渡ったのかどうか、遺伝学的証拠に基づいて示唆されていますが、この想定を裏づける考古学的証拠がきわめて限定的であるため、議論となっています。海水準が低い期間には、アラビア半島は現在のジブチやエリトリア南東部から見えていたでしょうから、そうした時期に海峡を渡るに際しては、洗練された舟や航海の技術が必要なかったかもしれません。
しかし、初期現生人類が紅海西部沿岸に居住し、海洋食資源を利用した可能性は高いものの、舟や航海の直接的証拠はまだ見つかっていません。さらに、アラビア半島とアフリカ北東部のいくつかの遺跡間で技術的類似性が示唆されてきましたが(関連記事)、他の遺跡はそうした関係を示しません。したがって、本論文のデータにより提案された南方経路のより好適な気候との解釈は要注意です。むしろ、アフリカからの拡大におけるバブ・エル・マンデブ海峡の役割を明らかにするには、一連の遺伝学的および考古学的証拠を拡大し、一致させることが重要です。
●短期的な気候変動と初期現生人類の人口統計
過去30万年間にアフリカから移動する現生人類の気候的実現可能性に関する本論文の分析は、年間降水量と乾燥度の10年規模の変化に基づいています。経験的手法もシミュレーションに基づいた手法も現時点では、堅牢性を損なわずに同じ期間と地域のより高い時間解像度での気候条件を再構築できないように見えますが、重要なのは、短期の気候変動が人口集団の動態に重要な役割を果たす可能性がある、と留意することです。嵐とモンスーンの雨に続いて、乾燥した期間が長く続くと、同じ総降雨量が長期にわたって続いた場合とは異なる問題が発生したでしょう。
本論文の結果は、現生人類にとってアフリカとユーラシアとの間の移動が気候的に実現可能だった時期を推定するものであり、これらの可能な期間にじっさいに現生人類の移動があったのかどうかを示すものではありません。初期現生人類が実際にアフリカから移動したのかどうか確認するには、本論文のデータと、時空間的な人口動態を明確に再現する現生人類拡散モデルとを組み合わせる必要がありますが、本論文はそれを試みていません。
人口成長率や拡散速度など、人口統計学的過程と関連するパラメータの現在の推定値が数桁の幅に及ぶことを考慮すると、そうした手法と関連する不確実性はかなり大きい可能性が高いでしょう。同様に、初期現生人類の移動パターンの程度がどの程度方向性を有していたのか、あるいは無作為だったのか、初期現生人類はさまざまな環境や人口規模の変化への対応でどう変わったのか、という重要な問題については、ほぼ定量的な回答が欠けています。人類学と考古学と遺伝学のデータを統合することは、既存の不確実性を減らすための最も有望な方法のように見えます。
●ユーラシアには定着しなかった初期現生人類
考古学的および遺伝学的データでは、現生人類は65000年前頃に始まる大規模な移住の波の前に少なくとも1回ユーラシアに拡大した、と強く示唆されていますが、アフリカ外の恒久的居住の最初の失敗の理由は、あまり明らかではありません。アラビア半島を越えての移動は、トロス・ザグロス山脈を越える能力に依拠していたでしょう。北方ではネアンデルタール人と競合し(図3f)、これは以前には、最終間氷期における現生人類の拡大の限界と主張されていました。また、おそらくは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような他の人類と、現生人類は東方で競合したでしょう。デニソワ人の範囲は不明ですが、アジア東部の大半に存在した可能性が高そうです(関連記事)。
さらに、本論文の再構築から、南北両経路で気候的に好適な期間は、ヒトの生存には不充分な降雨量の期間によりしばしば中断されており(図2b・cおよび図3b)、アフリカから拡散してきた初期現生人類を事実上孤立させたでしょう。アフリカからのさらなる移住による人口流入が欠如していたため、アラビア半島に残された人口集団は気候変動による確率的な局所的絶滅に陥りやすかったでしょう。当時は4kmの幅のバブ・エル・マンデブ海峡の航海が南方経路での移動を可能にしたならば、この制約は、65000~30000年前頃のほぼ好適な気候の前例のない長期間において、南方経路ではさほど重要ではなかったでしょう。
この長い期間は、成功した大規模な拡散にとって理想的な前提条件であり、アラビア半島の人口集団を安定させただろう、アフリカからの定期的な人口流入を可能としたでしょうから、ユーラシアへの現生人類のさらなる拡大を促進したでしょう。このような動態は、現生人類社会における技術と経済と社会と認知の変化を補完し(関連記事)、それはおそらくネアンデルタール人の衰退とともに(関連記事)、現生人類によるユーラシアへのその後の拡大において後期の拡散の成功を説明するでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。
ヒトの進化:アフリカからの人類の移動には気候上の制約があった
ホモ・サピエンスがアフリカから移動する際に利用できた時期と経路は、気候の影響を受けていたことを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、現生人類の分散における古気候の変動性の役割を強調しており、ホモ・サピエンスの進化史を理解する上で役立つ可能性がある。
初期人類がアフリカから他の地域に移動したと一般的に考えられているが、これに関連する化石や古代のDNAが稀少であるため、ユーラシアへの移動の時期や経路については論争がある。
今回、Robert Beyer、Andrea Manicaたちは、古気候の再構築結果と狩猟採集民が生存するために最低限必要な降雨量の推定値を用いて、アフリカからユーラシアへの移動を容易にする良好な気象条件と十分な降雨量が得られる時期と経路を評価した。著者たちのシミュレーションによって示唆された推定時期と推定経路は、考古学的証拠と遺伝学的証拠との整合性が認められ、このため過去30万年間にアフリカからの移動が複数回起こった可能性が示唆された。ホモ・サピエンスは、初期のいくつかの移動の波では、ユーラシアに永住できず、その後の約6万5000年前に、より大きな規模の移動の波が起こって移住に成功した。著者たちは、その理由として、南西アジアの厳しい環境条件、アフリカからの移住者の到着が断続的だったことと、他のヒト族との競争の可能性を挙げている。
著者たちは、今回の研究で、ホモ・サピエンスがアフリカから移動することが気候的に可能だった時期が実証されたと結論付けている。ただし、そうした時期に実際に移動があったかどうかを調べるためには、さらなる研究が必要とされる。
参考文献:
Beyer RM. et al.(2021): Climatic windows for human migration out of Africa in the past 300,000 years. Nature Communications, 12, 4889.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-24779-1
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