上峯篤史「存否問題のムコウ」
本論文はまず、2000年11月5日に発覚した旧石器捏造事件の影響もあり、日本列島における4万年以上前の人類の存在に慎重な意見も少なくないなか(関連記事)、日本列島には4万年以上前に人類が存在したと断定し、そもそも4万年以上前の遺跡の存否問題はずいぶん前に決着している、と指摘します。その根拠は岩手県遠野市の金取遺跡で、第III文化層からはハンドアックス(握斧)を彷彿とさせる両面調整石器や円盤状石器やシンボリックな石器群が発見されました。接合資料をも含むこれらの石器群について、人工品でないとする意見を寡聞にして知らない、と本論文は指摘します。
金取遺跡の石器群はⅢ層上面に集中し、下位のⅢd層はYk-M(焼石村崎野軽石)から構成されます。Yk-Mそのものの年代は未詳ですが、北上低地ではYk-Mの直上にYk-Y(焼石山形軽石、82000±19000年前)が堆積していて、両者の年代は近いと推測されます。Ⅲd層上面は波状帯となって。Ⅲb 層下部におよび、第Ⅲ文化層の遺物分布を乱します。の波状帯は、北上山地一帯で観察される周氷河インボリューションです。周氷河インボリューションの形成機構を考慮すれば、波状帯の凹み最下底で出土したカバノキ属近似種炭化材の放射性炭素年代測定値(46480±710年前)は、第Ⅲ文化層の年代下限の定点になります。
周氷河インボリューションより上位ではIw-Od(岩手-生出火山灰、5万~3万年前頃)由来の火山ガラスが検出され、この年代観と矛盾しません。Iw-Yu(岩手-雪浦軽石)のフィッション・トラック(FT)年代(67 ± 7ka, 伊藤ほか2007)をIw-Od年代の近似値とみなし、第Ⅲ文化層の年代に関連づける意見もありますが、Iw-YuはIw-Od(ないしは生出黒色火山灰、OBA)の火山ユニットの最下部で、Iw-Od はやや長期にわたる堆積物とされているので、Iw-YuのFT 年代は第Ⅲ文化層の年代根拠には採用しにくく、第Ⅲ文化層の年代が4 万年以上前であることは明らかです。
存否問題を乗りこえれば、日本列島各地に20ヶ所弱ある4 万年以前の遺跡候補地の再点検、とくに4万年以上前の年代測定がますます重要になってきます。OSL(光励起ルミネッセンス、光刺激ルミネッセンス法)法にかかる期待は大きいものの、その測定値のセカンドオピニオンをもつ意味でも、火山灰編年学を徹底したい、と本論文は提言します。金取遺跡の年代研究では、発掘調査区のみならず、遺跡を載せる地形面、同一水系の地形面群へと調査範囲を拡大し、この地域の地形形成史のなかで金取遺跡の堆積物が年代づけられました。これは地形層序学的手法のお手本です。遺跡候補地の再点検にあたっては、考古学研究者自身が周辺地形・地質調査に取り組むことも辞さない、発掘区と周辺地形とを関連づける調査が存在感を増すでしょう。
石器と自然破砕礫の識別、すなわち石器認定をめぐる潜思も避けられませんが、科学的コンセンサスを醸成していくには、方法の整備と検証可能な根拠の明示が求められます。著者が以前に指摘したように、割れ痕跡の判読が安定しない不均質石材でも、手間をかければ、黒曜岩などのガラス質石材と同様に観察所見を蓄積できます。この方法に則る限り、島根県出雲市の砂原遺跡の石製資料の割れ経過にはパターンが認められます。他方、すべての出土物を堆積物と再認識したうえで、その場からその資料が出土する事実を自然現象で説明できるかという観点からも、石器認定を議論できます。砂原遺跡では、原位置性を示す堆積学的根拠をもった石製資料群が、乾裂面が示す旧地表面上でいくつかの集中部を見せていました。長野県大町市の木崎小丸山遺跡では、火山灰由来の細粒堆積物から剝離痕を持った石製資料が複数出土しました。
割れ現象や出土状況に関わる、奇妙なようで見慣れた現象を自然現象で説明する妙案が浮かぶまでは、出土物は人が関与した遺物であると考えるのが妥当だろう、と本論文は指摘します。空想を語る場面ならともかく、研究者が意見を述べるにおいては根拠が必要で、その根拠は特定の対象から明確な方法に基づいて導かれていなければならず、夢や信念、ましてや学統の出る幕ではない、というわけです。科学の舞台で語る以上、すべては方法と根拠の問題で、確からしい判断と、より確からしい判断が鎬を削ることになるだろう、と本論文は指摘します。
参考文献:
上峯篤史(2020)「存否問題のムコウ」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P24-25
金取遺跡の石器群はⅢ層上面に集中し、下位のⅢd層はYk-M(焼石村崎野軽石)から構成されます。Yk-Mそのものの年代は未詳ですが、北上低地ではYk-Mの直上にYk-Y(焼石山形軽石、82000±19000年前)が堆積していて、両者の年代は近いと推測されます。Ⅲd層上面は波状帯となって。Ⅲb 層下部におよび、第Ⅲ文化層の遺物分布を乱します。の波状帯は、北上山地一帯で観察される周氷河インボリューションです。周氷河インボリューションの形成機構を考慮すれば、波状帯の凹み最下底で出土したカバノキ属近似種炭化材の放射性炭素年代測定値(46480±710年前)は、第Ⅲ文化層の年代下限の定点になります。
周氷河インボリューションより上位ではIw-Od(岩手-生出火山灰、5万~3万年前頃)由来の火山ガラスが検出され、この年代観と矛盾しません。Iw-Yu(岩手-雪浦軽石)のフィッション・トラック(FT)年代(67 ± 7ka, 伊藤ほか2007)をIw-Od年代の近似値とみなし、第Ⅲ文化層の年代に関連づける意見もありますが、Iw-YuはIw-Od(ないしは生出黒色火山灰、OBA)の火山ユニットの最下部で、Iw-Od はやや長期にわたる堆積物とされているので、Iw-YuのFT 年代は第Ⅲ文化層の年代根拠には採用しにくく、第Ⅲ文化層の年代が4 万年以上前であることは明らかです。
存否問題を乗りこえれば、日本列島各地に20ヶ所弱ある4 万年以前の遺跡候補地の再点検、とくに4万年以上前の年代測定がますます重要になってきます。OSL(光励起ルミネッセンス、光刺激ルミネッセンス法)法にかかる期待は大きいものの、その測定値のセカンドオピニオンをもつ意味でも、火山灰編年学を徹底したい、と本論文は提言します。金取遺跡の年代研究では、発掘調査区のみならず、遺跡を載せる地形面、同一水系の地形面群へと調査範囲を拡大し、この地域の地形形成史のなかで金取遺跡の堆積物が年代づけられました。これは地形層序学的手法のお手本です。遺跡候補地の再点検にあたっては、考古学研究者自身が周辺地形・地質調査に取り組むことも辞さない、発掘区と周辺地形とを関連づける調査が存在感を増すでしょう。
石器と自然破砕礫の識別、すなわち石器認定をめぐる潜思も避けられませんが、科学的コンセンサスを醸成していくには、方法の整備と検証可能な根拠の明示が求められます。著者が以前に指摘したように、割れ痕跡の判読が安定しない不均質石材でも、手間をかければ、黒曜岩などのガラス質石材と同様に観察所見を蓄積できます。この方法に則る限り、島根県出雲市の砂原遺跡の石製資料の割れ経過にはパターンが認められます。他方、すべての出土物を堆積物と再認識したうえで、その場からその資料が出土する事実を自然現象で説明できるかという観点からも、石器認定を議論できます。砂原遺跡では、原位置性を示す堆積学的根拠をもった石製資料群が、乾裂面が示す旧地表面上でいくつかの集中部を見せていました。長野県大町市の木崎小丸山遺跡では、火山灰由来の細粒堆積物から剝離痕を持った石製資料が複数出土しました。
割れ現象や出土状況に関わる、奇妙なようで見慣れた現象を自然現象で説明する妙案が浮かぶまでは、出土物は人が関与した遺物であると考えるのが妥当だろう、と本論文は指摘します。空想を語る場面ならともかく、研究者が意見を述べるにおいては根拠が必要で、その根拠は特定の対象から明確な方法に基づいて導かれていなければならず、夢や信念、ましてや学統の出る幕ではない、というわけです。科学の舞台で語る以上、すべては方法と根拠の問題で、確からしい判断と、より確からしい判断が鎬を削ることになるだろう、と本論文は指摘します。
参考文献:
上峯篤史(2020)「存否問題のムコウ」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P24-25
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