小林登志子『古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2020年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が対象とするのはメソポタミアで、年代では都市文化が始まる紀元前3500年頃からおもに紀元前539年の新バビロニア王国の滅亡までで、その後もアラブ人勢力による支配の始まりとなる紀元後651年のサーサーン王朝の滅亡までが扱われています。メソポタミアは地理的に大きくは、南部のバビロニアと北部のアッシリアの2地域に区分されます。メソポタミアは現在の国境線ではおおむねイラク共和国に相当しますが、この南北の違いは、現在のスンニ派(北部)とシーア派(南部)の対立にも続いている、と本書は指摘します(妥当な見解なのか、疑問は残りますが)。
世界最古の都市文化は、紀元前四千年紀後半にユーフラテス河畔で勃興しました。ユーフラテス河はアジア南西部における交易の大動脈で、それが都市の発展を促したのでしょう。ユーフラテス河の東方を流れるティグリス河は、ユーフラテス河と比較する短く、支流が山地から直接本流に流れ込むため水位が急増し、大洪水が頻繁に起きました。そのため、メソポタミアの災害といえば洪水で、「大洪水伝説」が語り継がれ、それは『聖書』にも取り入れられました。ユーフラテス河とティグリス河という「(両)河の間の地」を意味するギリシア語がメソポタミアです。メソポタミア南部のバビロニアは地理的に、北部のアッカドと南部のシュメルに二分されます。ただ、シュメル人は自らをシュメルではなく「キエンギ(ル)」と呼んでおり、シュメルは後代のアッカド語となります。
メソポタミア南部に人々が最初に定住したのはウバイド文化期(紀元前5500~紀元前3500年頃)で、歴史時代は都市文化が成立したウルク文化期(紀元前3500~紀元前3100年頃)に始まります。その担い手は、「民族」系統不詳のシュメル人です。広い沖積平野が続くメソポタミア南部では高度な灌漑農業が営まれの下が、鉱物や石材や木材には恵まれず、オオムギなど農産物を対価としてそれらの物資を入手しました。都市文化の当初より、内向きでは生き残れず、外部との関係が不可欠だった、というわけです。そのため、メソポタミア南部全体が共通の経済観念を有していたようで、その証拠が文字の祖型とされるトークン(小型粘土製品)です。紀元前三千年紀後半には、メソポタミアやシリアなどで次々と都市が形成されていきますが、都市の周辺には、都市と関わる遊牧社会も存在しました。
紀元前3100~紀元前2900年頃となるジェムデット・ナスル期にはバビロニア全域に都市文化が広まり、初期王朝時代が続きます。シュメルでは複数の都市国家が交易路や領土問題で争いました。初期王朝時代には第I期(紀元前2900~紀元前2750年頃)に都市を囲む城壁が出現し、第IIIB期(紀元前2500~紀元前2335年頃)に覇権をめぐる都市間の合従連衡が活発になり、ついにはウルクがシュメルを統一します。ウルクはアッカド語の呼称で、シュメル語ではウヌグです。ウルクにはすでにウバイド文化期に定住が始まり、紀元後634年のアラブ人によるメソポタミアへの侵攻の前後に放棄されたようです。ウルクで発明された文字が完全な文字体系(楔形文字)に整備されたのは紀元前2500年頃でした。メソポタミアの都市国家の王は、都市全域を支配して全住民に人頭税や地租を課すのではなく、広大な耕地と所属員から構成される家産的な独立自営の組織に依存していたようです。
メソポタミア南部のバビロニアを統一したのは、ウルクではなくバビロニア北部のアッカドのサルゴン王(在位は紀元前2334~紀元前2279年)でした。シュメルとアッカドでは、言語により呼称は違うものの、ほぼ同じ神々が祀られていました。たとえば大地母神は、シュメル語ではイナンナ、アッカド語ではイシュタルです。余談ですが、これが高橋克彦『竜の柩』の設定にも取り入れられていたことを思い出しました。アッカドはバビロニアを統一しましたが、その後もシュメル人がたびたび反乱を起こしました。こともあり、支配が安定したのは第3代のマニシュトゥシュ王の時代だったようです。アッカドの衰退後、シュメル人による最後の統一王朝を築いたのがウル第三王朝でした。ウル第三王朝時代には、現存最古の法典となるシュメル語の『ウルナンム法典』が作成されました。『ウルナンム法典』では、傷害罪は銀で償うと規定されており、『ハンムラビ法典』などに見られる後の同害復讐法とは異なります。ウル第三王朝の滅亡とともに、シュメル人は政治的・「民族的」独立を失い、日常語はアッカド語となりますが、その後も学校ではシュメル語が教えられ、シュメル語の文学作品が作られました。
ウル第三王朝滅亡後のメソポタミア南部は古バビロニア時代と呼ばれ、前半は群雄割拠の混乱期だったイシン・ラルサ時代、後半はハンムラビ王(在位は紀元前1792~紀元前1750年)以降のバビロン第一王朝時代と区分されます。紀元前二千年紀前半のメソポタミアで大きな役割を果たしたのは、シリア砂漠からメソポタミアへ侵入してきた、西方セム語族のアムル(アモリ)人でした。メソポタミア北部のアッシリアの歴史は、紀元前2000年頃以降にようやく明確になってきて、アッシリア時代(紀元前2000~紀元前1600年頃)と呼ばれます。アッシリアはアナトリア半島やシリアとメソポタミアとの間の遠距離交易活動を優位に展開した商業国家で、紀元前三千年紀にはアッカド王朝やウル第三王朝に従属していました。バビロン第一王朝は、ヒッタイト王国に攻められて紀元前1595年に滅亡しましたが、都市としてのバビロンの優位は失われず、バビロンを首都とする王朝が新バビロニアまで1000年以上にわたって断続的に続きました。
紀元前二千年紀後半のメソポタミアでは、同じくアッカド語を使い、同じ神々を祀るなど同一文化を担う二大勢力として、バビロニアとアッシリアによる覇権争いが展開します。この間、バビロニアを長期にわたって支配したのが、「民族」系統不詳のカッシート王朝(紀元前1500~紀元前1155年)でした。一方、アッシリアは不明な点が多くいミタンニ(ミッタニ)王国(紀元前16~紀元前14世紀)に制圧されていましたが、紀元前14世紀後半にミタンニの支配から脱し、メソポタミア北部で勢力を回復します。ただ、アッシリアがバビロニアに軍事的に勝利しても、バビロニア文化に圧倒されることは珍しくなかったようです。この時期のメソポタミアには、このミタンニやアナトリア半島中央部のヒッタイト王国が関わり、さらにはエジプトもアジアへと侵出してきます。こうしてメソポタミアも含めてアジア南西部で諸勢力が並存し、「世界最古」の「国際社会」が形成されます。ミタンニはフリ(フルリ)人の国で、その言語は膠着語であり、紀元前千年紀前半にアナトリア半島東部およびアルメニアを支配したウラルトゥ王国(紀元前9世紀中期~紀元前6世紀初頭)の言語と類縁関係にあります。こうして諸勢力が興亡を繰り返しつつ政治・文化・経済的に交流を続けた「国際社会」は、「紀元前12世紀の危機」で大打撃を受けます(関連記事)。
「紀元前12世紀の危機」を経た後、紀元前千年紀前半のメソポタミアでは「世界帝国」の興亡が繰り広げられます。この時代の「世界帝国」としてまず台頭したのは、「紀元前12世紀の危機」で中期アッシリアが衰退した後に復興した新アッシリア(紀元前1000~紀元前609年)で、その武力により版図を拡大しました。その背景には鉄器時代の到来があり、鉄製の農具や工具の普及により人類の居住世界が大きく広がるとともに、鉄製武器と騎兵の本格的出現により軍事力が向上しました。この間、アラム語がアジア南西部で広く用いられるようになります。
紀元前8世紀後半のティグラト・ピレセル3世(在位は紀元前744~紀元前727年)の代にアッシリアは大きく拡大し、「帝国」としての実態を有するようになっていきます。その後、紀元前8世紀末から紀元前7世紀前半にかけて、アッシリア帝国全盛期を迎え、ついにはメソポタミアのみならずエジプト全土も支配しますが、この支配は長続きしませんでした。新アッシリアは複雑な官僚組織で広大な帝国を運営し、多くの属国が存在しました。しかし、アッシュル・バニパル王が紀元前627年に死ぬと、新アッシリア帝国は急速に崩壊していき、紀元前609年に滅亡します。
新アッシリア帝国を単独では滅ぼせなかったものの、新バビロニアは新アッシリア帝国の滅亡後にメソポタミアで大きな勢力を有し、とくに有名な王は「バビロニア捕囚」を行なったネブカドネザル2世です。新バビロニアの都市住民は自由人と奴隷と「半自由人(王室や宮殿または個人に属している人や小作人)」に分かれ、商人の経済活動が活発だったようです。しかし、新バビロニアはペルシアに勃興したハカーマニシュ王朝により紀元前539年に滅ぼされ、本書はこれを古代メソポタミア史の終わりと指摘します。もはやメソポタミアは歴史を動かす主役たり得ず、以後はもっぱら東西の強国に蹂躙されていった、というわけです。紀元後7世紀のアラブ人勢力の支配により、メソポタミア地域の言語がアラビア語へと変わったのは、それを象徴しています。
世界最古の都市文化は、紀元前四千年紀後半にユーフラテス河畔で勃興しました。ユーフラテス河はアジア南西部における交易の大動脈で、それが都市の発展を促したのでしょう。ユーフラテス河の東方を流れるティグリス河は、ユーフラテス河と比較する短く、支流が山地から直接本流に流れ込むため水位が急増し、大洪水が頻繁に起きました。そのため、メソポタミアの災害といえば洪水で、「大洪水伝説」が語り継がれ、それは『聖書』にも取り入れられました。ユーフラテス河とティグリス河という「(両)河の間の地」を意味するギリシア語がメソポタミアです。メソポタミア南部のバビロニアは地理的に、北部のアッカドと南部のシュメルに二分されます。ただ、シュメル人は自らをシュメルではなく「キエンギ(ル)」と呼んでおり、シュメルは後代のアッカド語となります。
メソポタミア南部に人々が最初に定住したのはウバイド文化期(紀元前5500~紀元前3500年頃)で、歴史時代は都市文化が成立したウルク文化期(紀元前3500~紀元前3100年頃)に始まります。その担い手は、「民族」系統不詳のシュメル人です。広い沖積平野が続くメソポタミア南部では高度な灌漑農業が営まれの下が、鉱物や石材や木材には恵まれず、オオムギなど農産物を対価としてそれらの物資を入手しました。都市文化の当初より、内向きでは生き残れず、外部との関係が不可欠だった、というわけです。そのため、メソポタミア南部全体が共通の経済観念を有していたようで、その証拠が文字の祖型とされるトークン(小型粘土製品)です。紀元前三千年紀後半には、メソポタミアやシリアなどで次々と都市が形成されていきますが、都市の周辺には、都市と関わる遊牧社会も存在しました。
紀元前3100~紀元前2900年頃となるジェムデット・ナスル期にはバビロニア全域に都市文化が広まり、初期王朝時代が続きます。シュメルでは複数の都市国家が交易路や領土問題で争いました。初期王朝時代には第I期(紀元前2900~紀元前2750年頃)に都市を囲む城壁が出現し、第IIIB期(紀元前2500~紀元前2335年頃)に覇権をめぐる都市間の合従連衡が活発になり、ついにはウルクがシュメルを統一します。ウルクはアッカド語の呼称で、シュメル語ではウヌグです。ウルクにはすでにウバイド文化期に定住が始まり、紀元後634年のアラブ人によるメソポタミアへの侵攻の前後に放棄されたようです。ウルクで発明された文字が完全な文字体系(楔形文字)に整備されたのは紀元前2500年頃でした。メソポタミアの都市国家の王は、都市全域を支配して全住民に人頭税や地租を課すのではなく、広大な耕地と所属員から構成される家産的な独立自営の組織に依存していたようです。
メソポタミア南部のバビロニアを統一したのは、ウルクではなくバビロニア北部のアッカドのサルゴン王(在位は紀元前2334~紀元前2279年)でした。シュメルとアッカドでは、言語により呼称は違うものの、ほぼ同じ神々が祀られていました。たとえば大地母神は、シュメル語ではイナンナ、アッカド語ではイシュタルです。余談ですが、これが高橋克彦『竜の柩』の設定にも取り入れられていたことを思い出しました。アッカドはバビロニアを統一しましたが、その後もシュメル人がたびたび反乱を起こしました。こともあり、支配が安定したのは第3代のマニシュトゥシュ王の時代だったようです。アッカドの衰退後、シュメル人による最後の統一王朝を築いたのがウル第三王朝でした。ウル第三王朝時代には、現存最古の法典となるシュメル語の『ウルナンム法典』が作成されました。『ウルナンム法典』では、傷害罪は銀で償うと規定されており、『ハンムラビ法典』などに見られる後の同害復讐法とは異なります。ウル第三王朝の滅亡とともに、シュメル人は政治的・「民族的」独立を失い、日常語はアッカド語となりますが、その後も学校ではシュメル語が教えられ、シュメル語の文学作品が作られました。
ウル第三王朝滅亡後のメソポタミア南部は古バビロニア時代と呼ばれ、前半は群雄割拠の混乱期だったイシン・ラルサ時代、後半はハンムラビ王(在位は紀元前1792~紀元前1750年)以降のバビロン第一王朝時代と区分されます。紀元前二千年紀前半のメソポタミアで大きな役割を果たしたのは、シリア砂漠からメソポタミアへ侵入してきた、西方セム語族のアムル(アモリ)人でした。メソポタミア北部のアッシリアの歴史は、紀元前2000年頃以降にようやく明確になってきて、アッシリア時代(紀元前2000~紀元前1600年頃)と呼ばれます。アッシリアはアナトリア半島やシリアとメソポタミアとの間の遠距離交易活動を優位に展開した商業国家で、紀元前三千年紀にはアッカド王朝やウル第三王朝に従属していました。バビロン第一王朝は、ヒッタイト王国に攻められて紀元前1595年に滅亡しましたが、都市としてのバビロンの優位は失われず、バビロンを首都とする王朝が新バビロニアまで1000年以上にわたって断続的に続きました。
紀元前二千年紀後半のメソポタミアでは、同じくアッカド語を使い、同じ神々を祀るなど同一文化を担う二大勢力として、バビロニアとアッシリアによる覇権争いが展開します。この間、バビロニアを長期にわたって支配したのが、「民族」系統不詳のカッシート王朝(紀元前1500~紀元前1155年)でした。一方、アッシリアは不明な点が多くいミタンニ(ミッタニ)王国(紀元前16~紀元前14世紀)に制圧されていましたが、紀元前14世紀後半にミタンニの支配から脱し、メソポタミア北部で勢力を回復します。ただ、アッシリアがバビロニアに軍事的に勝利しても、バビロニア文化に圧倒されることは珍しくなかったようです。この時期のメソポタミアには、このミタンニやアナトリア半島中央部のヒッタイト王国が関わり、さらにはエジプトもアジアへと侵出してきます。こうしてメソポタミアも含めてアジア南西部で諸勢力が並存し、「世界最古」の「国際社会」が形成されます。ミタンニはフリ(フルリ)人の国で、その言語は膠着語であり、紀元前千年紀前半にアナトリア半島東部およびアルメニアを支配したウラルトゥ王国(紀元前9世紀中期~紀元前6世紀初頭)の言語と類縁関係にあります。こうして諸勢力が興亡を繰り返しつつ政治・文化・経済的に交流を続けた「国際社会」は、「紀元前12世紀の危機」で大打撃を受けます(関連記事)。
「紀元前12世紀の危機」を経た後、紀元前千年紀前半のメソポタミアでは「世界帝国」の興亡が繰り広げられます。この時代の「世界帝国」としてまず台頭したのは、「紀元前12世紀の危機」で中期アッシリアが衰退した後に復興した新アッシリア(紀元前1000~紀元前609年)で、その武力により版図を拡大しました。その背景には鉄器時代の到来があり、鉄製の農具や工具の普及により人類の居住世界が大きく広がるとともに、鉄製武器と騎兵の本格的出現により軍事力が向上しました。この間、アラム語がアジア南西部で広く用いられるようになります。
紀元前8世紀後半のティグラト・ピレセル3世(在位は紀元前744~紀元前727年)の代にアッシリアは大きく拡大し、「帝国」としての実態を有するようになっていきます。その後、紀元前8世紀末から紀元前7世紀前半にかけて、アッシリア帝国全盛期を迎え、ついにはメソポタミアのみならずエジプト全土も支配しますが、この支配は長続きしませんでした。新アッシリアは複雑な官僚組織で広大な帝国を運営し、多くの属国が存在しました。しかし、アッシュル・バニパル王が紀元前627年に死ぬと、新アッシリア帝国は急速に崩壊していき、紀元前609年に滅亡します。
新アッシリア帝国を単独では滅ぼせなかったものの、新バビロニアは新アッシリア帝国の滅亡後にメソポタミアで大きな勢力を有し、とくに有名な王は「バビロニア捕囚」を行なったネブカドネザル2世です。新バビロニアの都市住民は自由人と奴隷と「半自由人(王室や宮殿または個人に属している人や小作人)」に分かれ、商人の経済活動が活発だったようです。しかし、新バビロニアはペルシアに勃興したハカーマニシュ王朝により紀元前539年に滅ぼされ、本書はこれを古代メソポタミア史の終わりと指摘します。もはやメソポタミアは歴史を動かす主役たり得ず、以後はもっぱら東西の強国に蹂躙されていった、というわけです。紀元後7世紀のアラブ人勢力の支配により、メソポタミア地域の言語がアラビア語へと変わったのは、それを象徴しています。
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