黒田基樹『下剋上』
講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、戦国時代の重要な特徴と一般的に考えられている下剋上の実像を個別の事例から検証していきます。下剋上という言葉は戦国時代の前から低頻度ながら使用されており、その意味は、家臣による主君の排除だけではなく、百姓が領主支配に抵抗したり、下位の者が上位の者を殺害したり、分家が本家に取って代わったり、下位の者が上位者を追い越したりすることなど広範でした。共通しているのは、下位の者が主体性を有し、実力を発揮して、上位者の権力を制限したり排除したりすることです。これは時代を超えて普遍的に見られますが、自力救済を基調として、さまざまな水準での戦争が絶えず、社会秩序の流動性が高かった中世ではとくに頻繁でした。その中でもとくに一般的によく知られているのが戦国時代の武家社会の事例で、家臣が主君を排除し、取って代わりました。ただ、戦国時代にそうした行為は頻繁に見られるものの、当時の史料で下剋上と表現されている事例は確認されておらず、それは江戸時代以降となります。
本書がまず取り上げるのは、戦国時代初期に主殺しを意図して大規模な叛乱を起こした長尾景春です。景春は山内上杉の家宰(家臣筆頭で、主家の家政や分国・領国支配を統括)だった長尾景信の嫡男で、山内上杉の有力宿老である長尾一族の庶流で、孫四郎家と呼ばれています。景春は父の死後、祖父と父が就任した家宰を継承できなかったことから、1477年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)正月、主君の山内上杉顕定に対して叛乱を起こします(長尾景春の乱)。山内上杉の家宰は長尾嫡流か一族の最有力者が就任することになっていたものの(遷代の論理)、享徳の乱を契機に景春の祖父と父が継承したことから、景春とその家臣・与党は孫四郎家を継承した景春が就任すべきと考えたようです(相伝の論理)。伝統的な「遷代の論理」と直近に形成された「相伝の論理」との衝突の結果として起きた長尾景春の乱は、当時の山内上杉方勢力を二分する大規模なものでした。家宰には権益分配の役割も果たし、それを通じて与党が形成されていったわけです。主君の顕定殺害後の景春の政治抗争は不明ですが、顕定に代わる当主を用意していないことから、自らが主君に取って代わろうとしたのではないか、と本書は推測します。しかし、景春は頼みとしていた叔母婿の太田道灌が敵に回ったことにより敗走し、古河公方足利成氏の支援を受けてその支配下に入り、独自の政治勢力ではなくなります。景春はその後も北武蔵で蜂起するなどしぶとく抵抗を続けますが、1480年には武蔵から没落して東上野に退き、これをもって長尾景春の乱は終結したとされます。景春は敗者となったわけですが、景春による叛乱成功の可能性もあった、と本書は指摘します。本書は、長尾景春の乱について、主君としての器量を問題にしたもので、その後もしばしば類例が見られることを指摘します。その後の景春は、短期間和睦したこともあるものの長く顕定に抵抗し続け、その執念は実らず没します。
伊勢宗瑞(伊勢盛時、北条早雲)は通俗的には下剋上の典型で、出自不明の牢人から戦国大名に成り上がった、と言われていますが、現在の有力説では、室町幕府政所頭人の伊勢氏一族で、下剋上とされてきた行動も幕府中枢と連携したもので、何よりも宗瑞自身は晩年まで今川の一員との意識を強く持ち続けた、とされています。宗瑞は京都で生まれ育ったと考えられ、足利将軍の近臣の一人として活動していました。その宗瑞が駿河に赴いたのは、姉が今川義忠の正室だったからで、宗瑞は今川の一員として関東で独自の勢力を築いていきます。本書は、下剋上とされる宗瑞の行動について、名誉回復的な性格が基底にあったことを指摘します。宗瑞の事績とその背景については、著者の『戦国大名・伊勢宗瑞』を当ブログで取り上げたさいにやや詳しく述べたので(関連記事)、今回は省略します。
朝倉孝景は室町幕府管領の斯波家の重臣で、朝倉家は基本的には当主に従って在京していましたが、すでに越前に本拠的な所領として一乗谷があったようです。孝景は応仁・文明の乱において、将軍の足利義政の命により西軍から東軍へと鞍替えする約束で1468年に越前に赴きますが、孝景にとっては越前における勢力の確保の方が優先されただろう、と本書は推測します。孝景は1471年に幕府から事実上の越前国主と認められますが、守護に任命されたわけではありませんでした。ここで孝景は明確に東軍への加担を表明して放棄し、敗北しつつも1474年には越前を平定します。朝倉は越前の戦国大名として一般的には有名ですが、その過程は平坦ではなく、とくに斯波家との関係は後々まで問題となり、孝景の死の直後には斯波家を名目的な守護に推戴せざるを得ませんでした。朝倉が名目的にも越前国主としての地位確立するのは、1516年でした。尼子経久は京極家重臣でしたが、主君と対立し、応仁・文明の乱以後の戦乱が恒常化する時代に、一旦は没落しつつも、出雲の領国化を進めていきます。本書は、出雲における尼子と京極の争いは、当主と家宰のどちらが分国と家中の維持を担えるか、という器量をめぐるもので、こうした対立構造は戦国時代には珍しくなかった、と評価しています。経久は出雲を領国化した後、周辺諸国へと勢力を拡大し、西国有数の大名となります。朝倉も尼子も守護家重臣の立場から自立し、実力により領国支配を達成し、主家の影響力を排除して戦国大名化しました。
越後では1450年から守護の上杉房定が在国するようになり、1471年からは恒常的に在国して領国化が進められました。長尾為景は越後上杉家の家宰で越後守護代でしたが、1507年に主君の房能(房定の三男)と抗争して敗死させ、房能の従兄弟の上杉定実を擁立します。これは先代からの守護と守護代との対立という側面があり、先に仕掛けたのは房能の方だったようです。ここまでの為景の行動は主家における主導権確保と言えそうです。1509年には房能の実兄である山内上杉顕定が越後に侵攻してきましたが、為景は顕定を討ち取って危機を脱しました。1513年、定実は為景を追い落とそうとして両者の抗争が始まりますが、為景が勝って定実を傀儡化し、実質的な越後国主の地位を確立します。為景は1527年には幕府からも守護家相当の地位を認められますが、この後に守護一族の叛乱や内乱が起きて為景の求心力が低下し、一方で定実の発言力が強まるなか、為景は1540年には嫡男の晴景に家督を譲ります。その後も続く越後の内乱の中で晴景と弟の景虎(上杉謙信)が対立し、定実の仲介により景虎が家督を相続します。定実は1550年に没し、後継者がいないため越後上杉家は断絶し、この直後に景虎は幕府から守護家相当の地位を認められ、1551年には越後を領国化します。越後長尾家は親子二代にわたって下剋上に成功したことになりますが、主君とその一族からの抵抗は執拗で、主家との関係は微妙でした。景虎がそれを克服できたのは、主家に後継者がなく断絶した、という幸運があったからでした。越後の戦国大名としての地位を確立した景虎にとって、越後の上杉一族との関係が問題として残りましたが、景虎が山内上杉憲正の養子として家督を継承し、関東と越後の上杉一族全体の惣領家の当主になったことで解決しました。
斎藤利政(道三)は、他国から美濃に来て長井家に仕えてその一族となった父の長井新左衛門尉(豊後守)の息子で、親子二代かけて美濃国主に成り上がる下剋上を達成したことになります。長井新左衛門尉は京都妙覚寺の法華宗の僧侶で、還俗して西村の名字を称して長井秀弘に仕えて長井の名字を与えられました。長井新左衛門尉の活動が確認されるのは1526年からで、すでに利政は23歳になっており、当初は新九郎規秀と称していました。当時、美濃では土岐頼武とその弟である頼芸が争っており、土岐家の家宰で守護代は斎藤利良で、斎藤家の家宰である長井家の当主は秀弘の息子である長弘でした。新左衛門尉は長弘とともに主人の斎藤利良から離れて土岐頼芸に加担し、頼芸が勝って斎藤利良は討ち死にしました。この功績が高く評価されたのか、新左衛門尉は土岐家直臣となり、惣領の長井長弘とほぼ対等の地位を認められたようです。新左衛門尉の動向が確認されるのは1528年までですが、その後に豊後守を称しており、1532年頃まで活動していた可能性がある、と本書は推測します。息子の長井新九郎規秀が登場するのは1533年以降で、1535年までには長井長弘の嫡男の景弘を滅ぼして長井惣領家の地位を獲得していた、と推測されます。1535年、土岐頼武の嫡男の頼充が六角と朝倉の支援を得て美濃に復帰しようとして、美濃は内乱に陥ります。長井新九郎規秀は頼芸方の中心人物として活動し、斎藤利政と名乗るようになります。これは、頼芸から斎藤名字を与えられて斎藤一族の立場に引き上げられたからだろう、と本書は推測します。さらに利政は出家して法名道三と称していますが、その後還俗しています。1538年9月には頼芸と頼充の間に和睦が成立しましたが、頼充は美濃での在国を続けたので、頼芸にとっては妥協の結果でした。1539年に利政は斎藤一族の中でも、さらには土岐家の家臣の中でも第三位の地位にまで昇ります。頼芸と頼充は再び対立し、利政は1544年には頼充を尾張に追いやりますが、頼充は尾張の織田信秀の支援を受けて美濃に侵攻します。1546年9月、頼芸と頼充の間に再度和睦が成立し、頼充は頼芸の後継者とされます。頼芸と利政には、六角と朝倉と斯波(中心勢力は尾張の織田信秀)の支援を受けた頼充と戦う実力が備わっていなかった、と考えられます。利政は娘を頼充に嫁がせますが、1547年11月には頼充が急死し、後世には利政による毒殺と伝わりますが、当時の史料からは利政の関与はなかった、と考えられます。しかし、利政が土岐一族を粛清していったのは事実でした。この過程で利政は斎藤正義を暗殺し、斎藤家惣領の利茂も討った可能性が指摘されています。これにより、利政は斎藤家惣領に取って代わる存在となり、当主の頼芸に次ぐ地位に昇ります。利政は強引な手段で1548年までには美濃の戦乱を収拾し、1549年5月には再度出家して道三と称します。この間、利政は尾張の織田信秀と激しく抗争するようになり、頼充の妻だった自分の娘を信秀の嫡男である信長に嫁がせることで、和睦を結びます。信長の妻となった道三の娘は、1573年12月25日に死去したと推測されているそうです。こうして国外勢力との同盟を成立させた道三は、事実上美濃の戦国大名となり、1551年10月頃には頼芸を国外に追放し、幕府からも事実上承認されました。本書は、下剋上により戦国大名化した人物でも道三が最も大きな成り上がりだった、と評価します。道三は息子の利尚(范可、高政、義龍)に家督を譲ったと一般的には言われていますが、本書は、道三は利尚に家督を譲ったわけではなく、利尚と対立して戦い討ち取られた、と推測しています。本書は、能力と功績により身分を大きく上昇させていった道三は、織田信長や羽柴秀吉といった後の人々の意識に大きな影響を与えただろう、と推測します。
陶晴賢(隆房)は西国最大の戦国大名だった大内義隆の家宰で、周防守護代でした。隆房と義隆の対立が明らかになってくるのは1548年7月頃からです。1543年に尼子との戦いで大敗して以降の義隆は軍事行動に消極的になり、それに隆房は不満だったようです。隆房の謀反の動きは大内家中ではすでに知られているようになっていましたが、義隆は長くその可能性を信じなかったようです。義隆は主君失格と判断した隆房は、1551年8月に挙兵して義隆を自害に追い込み、義隆の嫡男の義尊も殺害しました。しかし、隆房は自らが主家に取って代わろうとしたわけではなく、豊後の戦国大名である大友義鎮(宗麟)の弟である晴英(大内義長)を後継者に迎えて、晴賢と改名します。晴英は以前に義隆の養嗣子として迎えられる予定でしたが、義尊が誕生したため、取り止めになりました。この謀反に毛利も加担していましたが、備後の所領をめぐる問題で陶と毛利との関係は悪化し、晴賢は1555年10月の厳島合戦で毛利元就に敗れて戦死します。本書はこの背景に、主殺しにより信用を失ったこともあるのではないか、と推測します。下剋上とはいっても、身分秩序や主従関係の意識がまだ強固だった時代には、主殺しの有無で周囲の反応が大きく変わったのではないか、というわけです。
戦国時代における幕府の統治地域はほぼ畿内に相当し、これが「天下」の範囲と認識されるようになりました。この「天下」における下剋上の最初が三好長慶(範長)となります。三好家は管領細川家(京兆家)の家臣で、長慶は晴元に仕えていましたが、晴元と氏綱の細川家の内乱において晴元と対立するようになり、晴元に対する優位を確立して細川家から自立し、幕府直臣となって畿内における戦国大名としての地位を確立していきます。長慶は1553年8月に将軍の足利義輝を京都から近江に追放し、実質的に「天下」を統治しました。これは、長慶がすでに幕府の政治秩序に依拠せず戦国大名として独自の領国支配を展開していたため、可能になったことでした。朝廷も長慶の「天下」統治に依存するようになります。しかし、足利将軍家の存在を否定し続けることはまだ難しく、将軍家とその支援勢力の反撃を受けて、1558年11月に和睦して義輝を京都に帰還させます。とはいえ、その後も長慶の領国支配は継続されました。長慶の「天下人」としての期間は短く、また1564年に一族の分裂が兆す中40代で没し、三好は内紛で没落していったので、一般的な評価はあまり高くないかもしれません。しかし、京都に将軍が不在で、将軍相当の人物も存在しない状況において、長慶が事実上の「天下人」となっていた期間が確かにあったわけで、これは後の織田信長による「天下」統治の直接的な前例となりました。長慶は、「天下」を統治する「天下人」には相応しい器量が求められ、特定の家系による世襲という観念が相対化される重要な契機を作った、と本書は評価します。
織田信長について、本書は典型的な下剋上の連続だった、と評価します。信長の織田家は、尾張守護の斯波家の重臣で守護代の清須織田家の重臣でした。信長の父の信秀は、すでに事実上尾張を代表する力な勢力になっていましたが、清須織田家や国主の斯波家との主従関係が完全に解消されていたわけではありませんでした。信長が幕府の政治秩序における「斯波家の代官」との立場を克服したのは、1568年に足利義昭を奉じて入京し、義昭を将軍職に就けて幕府を再興してからでした。この頃の信長は幕府内部に深く関わることを忌避していたようですが、それは、「天下」統治が将軍義昭の管轄で、自身は尾張・美濃・近江の戦国大名として支える立場を選択下からだ、と推測されています。「天下」統治を担っては、戦国大名として領国統治が疎かになり、自己の存立基盤を失いかねないと恐れたのではないか、というわけです。しかし現実には、朝廷は実力者の信長を頼り、信長は「天下」統治に関わらざるを得ず、その結果として次第に信長と義昭近臣との間に対立が生じます。信長はその後、対立した義昭を追放し、自ら「天下」を統治することになり、これは三好長慶と同様です。ただ、信長も当初は幕府秩序の全否定を考えておらず、義昭の息子(義尋)を将軍家後継としていました。信長と長慶との最大の違いは、信長が朝廷から足利将軍家と同等の身分を獲得し、名実ともに「天下人」の地位を確立したことです。信長が1582年6月2日の本能寺の変で横死した後、「天下人」の地位を獲得したのは、信長の家老だった羽柴秀吉でした。秀吉は主君を傀儡化し、対立した織田家当主の信雄を降伏させ、公卿となることで「天下人」としての地位を確立しました。秀吉の羽柴(豊臣)政権下で最大の大名だった徳川家康は、秀吉の死後に主君である秀吉の息子の秀頼を傀儡化し、関ヶ原合戦を経て秀頼を実質的には一大名の地位に追い落とし、将軍に就任することで主家からの自立を図りました。しかし家康は、織田信雄を配下に組み込んだ秀吉とは異なり、旧主家の羽柴家を完全に取り込むことはできず、1615年に羽柴家を滅ぼします。これにより、江戸幕府を中核とする新たに政治秩序が確立し、下剋上は封印されます。
本書は最後に、下剋上の特徴をまとめています。主君に取って代わるさいに必ず生じる問題は、主殺しや追放や傀儡化や当主挿げ替えなどといった主君の扱いです。下剋上が横行したとはいえ、身分制社会の戦国時代において、これらの行為は本来容易には社会で容認されないものでした。しかし、戦線の恒常化により、そうした行為が頻出するとともに、一定程度許容されていきました。とはいえ、上述のように主殺しへの視線はとくに厳しいものでした。こうした下剋上の正当化に用いられたのが、幕府からの国主・守護相当の家格の獲得でした。足利義昭が追放されて以降は、「天下人」の地位は朝廷の官職により正当化され、「天下人」としての信長の後継者となった羽柴秀吉は、官位を明確な政治秩序編成の手段としました。この頃には、一族による当主の地位をめぐる内紛はあっても、家臣が取って代わる下剋上は見られなくなっていきます。本書はこの背景として、個々の戦国大名家の領国の広域化と継続性により、戦国大名としての枠組みが確固たるものになっていたことと、統一政権の出現を挙げます。「天下人」たる羽柴秀吉による戦国大名の従属や討滅で「天下一統」が達成されると、大名家の地位は実力ではなく統一政権の承認に基づくようになり、自力解決が制御されることで、下剋上は封じ込められていきます。本書は下剋上を、社会秩序が流動化したなかで、社会に求められた器量をもとに、実力により社会的地位を獲得する行為だった、と評価します。
本書がまず取り上げるのは、戦国時代初期に主殺しを意図して大規模な叛乱を起こした長尾景春です。景春は山内上杉の家宰(家臣筆頭で、主家の家政や分国・領国支配を統括)だった長尾景信の嫡男で、山内上杉の有力宿老である長尾一族の庶流で、孫四郎家と呼ばれています。景春は父の死後、祖父と父が就任した家宰を継承できなかったことから、1477年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)正月、主君の山内上杉顕定に対して叛乱を起こします(長尾景春の乱)。山内上杉の家宰は長尾嫡流か一族の最有力者が就任することになっていたものの(遷代の論理)、享徳の乱を契機に景春の祖父と父が継承したことから、景春とその家臣・与党は孫四郎家を継承した景春が就任すべきと考えたようです(相伝の論理)。伝統的な「遷代の論理」と直近に形成された「相伝の論理」との衝突の結果として起きた長尾景春の乱は、当時の山内上杉方勢力を二分する大規模なものでした。家宰には権益分配の役割も果たし、それを通じて与党が形成されていったわけです。主君の顕定殺害後の景春の政治抗争は不明ですが、顕定に代わる当主を用意していないことから、自らが主君に取って代わろうとしたのではないか、と本書は推測します。しかし、景春は頼みとしていた叔母婿の太田道灌が敵に回ったことにより敗走し、古河公方足利成氏の支援を受けてその支配下に入り、独自の政治勢力ではなくなります。景春はその後も北武蔵で蜂起するなどしぶとく抵抗を続けますが、1480年には武蔵から没落して東上野に退き、これをもって長尾景春の乱は終結したとされます。景春は敗者となったわけですが、景春による叛乱成功の可能性もあった、と本書は指摘します。本書は、長尾景春の乱について、主君としての器量を問題にしたもので、その後もしばしば類例が見られることを指摘します。その後の景春は、短期間和睦したこともあるものの長く顕定に抵抗し続け、その執念は実らず没します。
伊勢宗瑞(伊勢盛時、北条早雲)は通俗的には下剋上の典型で、出自不明の牢人から戦国大名に成り上がった、と言われていますが、現在の有力説では、室町幕府政所頭人の伊勢氏一族で、下剋上とされてきた行動も幕府中枢と連携したもので、何よりも宗瑞自身は晩年まで今川の一員との意識を強く持ち続けた、とされています。宗瑞は京都で生まれ育ったと考えられ、足利将軍の近臣の一人として活動していました。その宗瑞が駿河に赴いたのは、姉が今川義忠の正室だったからで、宗瑞は今川の一員として関東で独自の勢力を築いていきます。本書は、下剋上とされる宗瑞の行動について、名誉回復的な性格が基底にあったことを指摘します。宗瑞の事績とその背景については、著者の『戦国大名・伊勢宗瑞』を当ブログで取り上げたさいにやや詳しく述べたので(関連記事)、今回は省略します。
朝倉孝景は室町幕府管領の斯波家の重臣で、朝倉家は基本的には当主に従って在京していましたが、すでに越前に本拠的な所領として一乗谷があったようです。孝景は応仁・文明の乱において、将軍の足利義政の命により西軍から東軍へと鞍替えする約束で1468年に越前に赴きますが、孝景にとっては越前における勢力の確保の方が優先されただろう、と本書は推測します。孝景は1471年に幕府から事実上の越前国主と認められますが、守護に任命されたわけではありませんでした。ここで孝景は明確に東軍への加担を表明して放棄し、敗北しつつも1474年には越前を平定します。朝倉は越前の戦国大名として一般的には有名ですが、その過程は平坦ではなく、とくに斯波家との関係は後々まで問題となり、孝景の死の直後には斯波家を名目的な守護に推戴せざるを得ませんでした。朝倉が名目的にも越前国主としての地位確立するのは、1516年でした。尼子経久は京極家重臣でしたが、主君と対立し、応仁・文明の乱以後の戦乱が恒常化する時代に、一旦は没落しつつも、出雲の領国化を進めていきます。本書は、出雲における尼子と京極の争いは、当主と家宰のどちらが分国と家中の維持を担えるか、という器量をめぐるもので、こうした対立構造は戦国時代には珍しくなかった、と評価しています。経久は出雲を領国化した後、周辺諸国へと勢力を拡大し、西国有数の大名となります。朝倉も尼子も守護家重臣の立場から自立し、実力により領国支配を達成し、主家の影響力を排除して戦国大名化しました。
越後では1450年から守護の上杉房定が在国するようになり、1471年からは恒常的に在国して領国化が進められました。長尾為景は越後上杉家の家宰で越後守護代でしたが、1507年に主君の房能(房定の三男)と抗争して敗死させ、房能の従兄弟の上杉定実を擁立します。これは先代からの守護と守護代との対立という側面があり、先に仕掛けたのは房能の方だったようです。ここまでの為景の行動は主家における主導権確保と言えそうです。1509年には房能の実兄である山内上杉顕定が越後に侵攻してきましたが、為景は顕定を討ち取って危機を脱しました。1513年、定実は為景を追い落とそうとして両者の抗争が始まりますが、為景が勝って定実を傀儡化し、実質的な越後国主の地位を確立します。為景は1527年には幕府からも守護家相当の地位を認められますが、この後に守護一族の叛乱や内乱が起きて為景の求心力が低下し、一方で定実の発言力が強まるなか、為景は1540年には嫡男の晴景に家督を譲ります。その後も続く越後の内乱の中で晴景と弟の景虎(上杉謙信)が対立し、定実の仲介により景虎が家督を相続します。定実は1550年に没し、後継者がいないため越後上杉家は断絶し、この直後に景虎は幕府から守護家相当の地位を認められ、1551年には越後を領国化します。越後長尾家は親子二代にわたって下剋上に成功したことになりますが、主君とその一族からの抵抗は執拗で、主家との関係は微妙でした。景虎がそれを克服できたのは、主家に後継者がなく断絶した、という幸運があったからでした。越後の戦国大名としての地位を確立した景虎にとって、越後の上杉一族との関係が問題として残りましたが、景虎が山内上杉憲正の養子として家督を継承し、関東と越後の上杉一族全体の惣領家の当主になったことで解決しました。
斎藤利政(道三)は、他国から美濃に来て長井家に仕えてその一族となった父の長井新左衛門尉(豊後守)の息子で、親子二代かけて美濃国主に成り上がる下剋上を達成したことになります。長井新左衛門尉は京都妙覚寺の法華宗の僧侶で、還俗して西村の名字を称して長井秀弘に仕えて長井の名字を与えられました。長井新左衛門尉の活動が確認されるのは1526年からで、すでに利政は23歳になっており、当初は新九郎規秀と称していました。当時、美濃では土岐頼武とその弟である頼芸が争っており、土岐家の家宰で守護代は斎藤利良で、斎藤家の家宰である長井家の当主は秀弘の息子である長弘でした。新左衛門尉は長弘とともに主人の斎藤利良から離れて土岐頼芸に加担し、頼芸が勝って斎藤利良は討ち死にしました。この功績が高く評価されたのか、新左衛門尉は土岐家直臣となり、惣領の長井長弘とほぼ対等の地位を認められたようです。新左衛門尉の動向が確認されるのは1528年までですが、その後に豊後守を称しており、1532年頃まで活動していた可能性がある、と本書は推測します。息子の長井新九郎規秀が登場するのは1533年以降で、1535年までには長井長弘の嫡男の景弘を滅ぼして長井惣領家の地位を獲得していた、と推測されます。1535年、土岐頼武の嫡男の頼充が六角と朝倉の支援を得て美濃に復帰しようとして、美濃は内乱に陥ります。長井新九郎規秀は頼芸方の中心人物として活動し、斎藤利政と名乗るようになります。これは、頼芸から斎藤名字を与えられて斎藤一族の立場に引き上げられたからだろう、と本書は推測します。さらに利政は出家して法名道三と称していますが、その後還俗しています。1538年9月には頼芸と頼充の間に和睦が成立しましたが、頼充は美濃での在国を続けたので、頼芸にとっては妥協の結果でした。1539年に利政は斎藤一族の中でも、さらには土岐家の家臣の中でも第三位の地位にまで昇ります。頼芸と頼充は再び対立し、利政は1544年には頼充を尾張に追いやりますが、頼充は尾張の織田信秀の支援を受けて美濃に侵攻します。1546年9月、頼芸と頼充の間に再度和睦が成立し、頼充は頼芸の後継者とされます。頼芸と利政には、六角と朝倉と斯波(中心勢力は尾張の織田信秀)の支援を受けた頼充と戦う実力が備わっていなかった、と考えられます。利政は娘を頼充に嫁がせますが、1547年11月には頼充が急死し、後世には利政による毒殺と伝わりますが、当時の史料からは利政の関与はなかった、と考えられます。しかし、利政が土岐一族を粛清していったのは事実でした。この過程で利政は斎藤正義を暗殺し、斎藤家惣領の利茂も討った可能性が指摘されています。これにより、利政は斎藤家惣領に取って代わる存在となり、当主の頼芸に次ぐ地位に昇ります。利政は強引な手段で1548年までには美濃の戦乱を収拾し、1549年5月には再度出家して道三と称します。この間、利政は尾張の織田信秀と激しく抗争するようになり、頼充の妻だった自分の娘を信秀の嫡男である信長に嫁がせることで、和睦を結びます。信長の妻となった道三の娘は、1573年12月25日に死去したと推測されているそうです。こうして国外勢力との同盟を成立させた道三は、事実上美濃の戦国大名となり、1551年10月頃には頼芸を国外に追放し、幕府からも事実上承認されました。本書は、下剋上により戦国大名化した人物でも道三が最も大きな成り上がりだった、と評価します。道三は息子の利尚(范可、高政、義龍)に家督を譲ったと一般的には言われていますが、本書は、道三は利尚に家督を譲ったわけではなく、利尚と対立して戦い討ち取られた、と推測しています。本書は、能力と功績により身分を大きく上昇させていった道三は、織田信長や羽柴秀吉といった後の人々の意識に大きな影響を与えただろう、と推測します。
陶晴賢(隆房)は西国最大の戦国大名だった大内義隆の家宰で、周防守護代でした。隆房と義隆の対立が明らかになってくるのは1548年7月頃からです。1543年に尼子との戦いで大敗して以降の義隆は軍事行動に消極的になり、それに隆房は不満だったようです。隆房の謀反の動きは大内家中ではすでに知られているようになっていましたが、義隆は長くその可能性を信じなかったようです。義隆は主君失格と判断した隆房は、1551年8月に挙兵して義隆を自害に追い込み、義隆の嫡男の義尊も殺害しました。しかし、隆房は自らが主家に取って代わろうとしたわけではなく、豊後の戦国大名である大友義鎮(宗麟)の弟である晴英(大内義長)を後継者に迎えて、晴賢と改名します。晴英は以前に義隆の養嗣子として迎えられる予定でしたが、義尊が誕生したため、取り止めになりました。この謀反に毛利も加担していましたが、備後の所領をめぐる問題で陶と毛利との関係は悪化し、晴賢は1555年10月の厳島合戦で毛利元就に敗れて戦死します。本書はこの背景に、主殺しにより信用を失ったこともあるのではないか、と推測します。下剋上とはいっても、身分秩序や主従関係の意識がまだ強固だった時代には、主殺しの有無で周囲の反応が大きく変わったのではないか、というわけです。
戦国時代における幕府の統治地域はほぼ畿内に相当し、これが「天下」の範囲と認識されるようになりました。この「天下」における下剋上の最初が三好長慶(範長)となります。三好家は管領細川家(京兆家)の家臣で、長慶は晴元に仕えていましたが、晴元と氏綱の細川家の内乱において晴元と対立するようになり、晴元に対する優位を確立して細川家から自立し、幕府直臣となって畿内における戦国大名としての地位を確立していきます。長慶は1553年8月に将軍の足利義輝を京都から近江に追放し、実質的に「天下」を統治しました。これは、長慶がすでに幕府の政治秩序に依拠せず戦国大名として独自の領国支配を展開していたため、可能になったことでした。朝廷も長慶の「天下」統治に依存するようになります。しかし、足利将軍家の存在を否定し続けることはまだ難しく、将軍家とその支援勢力の反撃を受けて、1558年11月に和睦して義輝を京都に帰還させます。とはいえ、その後も長慶の領国支配は継続されました。長慶の「天下人」としての期間は短く、また1564年に一族の分裂が兆す中40代で没し、三好は内紛で没落していったので、一般的な評価はあまり高くないかもしれません。しかし、京都に将軍が不在で、将軍相当の人物も存在しない状況において、長慶が事実上の「天下人」となっていた期間が確かにあったわけで、これは後の織田信長による「天下」統治の直接的な前例となりました。長慶は、「天下」を統治する「天下人」には相応しい器量が求められ、特定の家系による世襲という観念が相対化される重要な契機を作った、と本書は評価します。
織田信長について、本書は典型的な下剋上の連続だった、と評価します。信長の織田家は、尾張守護の斯波家の重臣で守護代の清須織田家の重臣でした。信長の父の信秀は、すでに事実上尾張を代表する力な勢力になっていましたが、清須織田家や国主の斯波家との主従関係が完全に解消されていたわけではありませんでした。信長が幕府の政治秩序における「斯波家の代官」との立場を克服したのは、1568年に足利義昭を奉じて入京し、義昭を将軍職に就けて幕府を再興してからでした。この頃の信長は幕府内部に深く関わることを忌避していたようですが、それは、「天下」統治が将軍義昭の管轄で、自身は尾張・美濃・近江の戦国大名として支える立場を選択下からだ、と推測されています。「天下」統治を担っては、戦国大名として領国統治が疎かになり、自己の存立基盤を失いかねないと恐れたのではないか、というわけです。しかし現実には、朝廷は実力者の信長を頼り、信長は「天下」統治に関わらざるを得ず、その結果として次第に信長と義昭近臣との間に対立が生じます。信長はその後、対立した義昭を追放し、自ら「天下」を統治することになり、これは三好長慶と同様です。ただ、信長も当初は幕府秩序の全否定を考えておらず、義昭の息子(義尋)を将軍家後継としていました。信長と長慶との最大の違いは、信長が朝廷から足利将軍家と同等の身分を獲得し、名実ともに「天下人」の地位を確立したことです。信長が1582年6月2日の本能寺の変で横死した後、「天下人」の地位を獲得したのは、信長の家老だった羽柴秀吉でした。秀吉は主君を傀儡化し、対立した織田家当主の信雄を降伏させ、公卿となることで「天下人」としての地位を確立しました。秀吉の羽柴(豊臣)政権下で最大の大名だった徳川家康は、秀吉の死後に主君である秀吉の息子の秀頼を傀儡化し、関ヶ原合戦を経て秀頼を実質的には一大名の地位に追い落とし、将軍に就任することで主家からの自立を図りました。しかし家康は、織田信雄を配下に組み込んだ秀吉とは異なり、旧主家の羽柴家を完全に取り込むことはできず、1615年に羽柴家を滅ぼします。これにより、江戸幕府を中核とする新たに政治秩序が確立し、下剋上は封印されます。
本書は最後に、下剋上の特徴をまとめています。主君に取って代わるさいに必ず生じる問題は、主殺しや追放や傀儡化や当主挿げ替えなどといった主君の扱いです。下剋上が横行したとはいえ、身分制社会の戦国時代において、これらの行為は本来容易には社会で容認されないものでした。しかし、戦線の恒常化により、そうした行為が頻出するとともに、一定程度許容されていきました。とはいえ、上述のように主殺しへの視線はとくに厳しいものでした。こうした下剋上の正当化に用いられたのが、幕府からの国主・守護相当の家格の獲得でした。足利義昭が追放されて以降は、「天下人」の地位は朝廷の官職により正当化され、「天下人」としての信長の後継者となった羽柴秀吉は、官位を明確な政治秩序編成の手段としました。この頃には、一族による当主の地位をめぐる内紛はあっても、家臣が取って代わる下剋上は見られなくなっていきます。本書はこの背景として、個々の戦国大名家の領国の広域化と継続性により、戦国大名としての枠組みが確固たるものになっていたことと、統一政権の出現を挙げます。「天下人」たる羽柴秀吉による戦国大名の従属や討滅で「天下一統」が達成されると、大名家の地位は実力ではなく統一政権の承認に基づくようになり、自力解決が制御されることで、下剋上は封じ込められていきます。本書は下剋上を、社会秩序が流動化したなかで、社会に求められた器量をもとに、実力により社会的地位を獲得する行為だった、と評価します。
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