中沢祐一「北回りルートと北海道における更新世人類居住:論点の素描」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P45-63)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 人類のアジア東部への拡散の中でも、北緯40度以北の高緯度への移住は、ベーリンジア(ベーリング陸橋)やアメリカ大陸への拡散を達成する前提であり、アジア東部の東端に位置する日本列島の居住史を理解するうえでも重要な課題です。後期旧石器時代(上部旧石器時代)初頭の考古学的遺跡の分布からは、石刃技術や装身具などに代表される上部旧石器的要素の存在により、アジア中央部から東方への拡散が確認されており、北回り経路として知られています(関連記事)。この北回り経路はステップ環境が広がる地域であり、石刃技術の利用がステップ環境での生存にとって適切であった、と指摘されています(関連記事)。最終氷期の北海道には草原と針葉樹が広がっており、北回り経路の延長線上にある生態環境と言えます。

 北海道は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3以降の最終氷期にはユーラシア大陸と地続きの半島の一部でした。この古サハリン/北海道/クリール列島(Paleo-SHK)と呼ばれる半島は、アムール川下流域から南に突き出した半島であり、その南端は津軽海峡によって古本州島と切り離されていました。後期更新世における北海道の地理的な特性は動物の拡散にも影響しており、最終氷期には北海道へと北回りで拡散したトナカイやバイソンやマンモスやヒグマなどのマンモス動物群がいました。この時期に北回りで拡散した草原性の動物の中には、完新世以後も居住域を縮小しつつも生き残ったエゾナキウサギ(キタナキウサギの亜種)のようなレリクト(残存種)もおり、氷期の北海道がステップ性動物群の生息環境を備えていた、と示唆されます。

 こうした古生物地理的な特質に加えて、後期更新世の北海道における考古記録は石器製作技術や遺跡のパターンなどの側面に、古本州島とは異なる特徴をもつ点があります。古本州島の後期旧石器時代末に確認される細石刃技術のうち、クサビ形の細石刃核をもつグループは、しばしば「北方系」や「削片系」や「削片-分割系」という名称でくくられており、北海道の後期旧石器時代に展開したいくつかの細石刃技術(湧別技法、ホロカ技法)との共通性が高い、と指摘されています。地理的に近い東北地方や北関東の削片-分割系の細石刃技術は北海道のそれと対比可能なことから、細石刃技術が17000~16000年前頃に津軽海峡を越えて北海道から南下した、と提示されています。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の直後に北海道から古本州島北部へ人類集団が南下した、という想定です。

 「故地」とされる北海道の細石刃技術の出現は、確実な層準から細石刃が検出された柏台1遺跡の年代を基準とし、LGMまでさかのぼります。一方、近年までの調査で、LGMの技術的多様性やLGM以前の細石刃や石刃をもたない考古記録の特徴や課題も明らかになってきました。本論文は、北海道の後期旧石器時代の考古記録の通時的な特徴や変化を、パレオアジア文化史学で重点的に扱ってきた技術や行動の選択、居住活動、拡散(とくに北回り経路)との関係といった論点によって整理し、見解を提示します。

 現在までに明らかになっている北海道の考古記録を年代軸に沿って配置すると、LGMを真ん中に挟んで前後に大きく3つの時期に分けることができます。年代の古い段階から、LGM以前、LGM、LGM以後の3時期で、それらの時期に伴う特徴的な剥片石器の製作技術(細石刃技術、石刃技術、剥片技術など)が確認されます。LGM以後については当該期に多様化する細石刃技術に代表される技術的特徴や石器組成などから、おおむね前半と後半に分けて把握されます。なお、年代および層序が確実な遺跡はLGMに集中しており、年代が得られていない遺跡も少なくなく、前後の時期にどの遺跡やどのような技術が該当するのかについては、研究者間で一致していない部分もあります。


●LGM以前

 層位と放射性炭素年代の整合性という観点からみて、LGM以前を代表する遺跡は、北海道中央部の石狩低地帯に位置する祝梅遺跡三角山地点(通称、祝梅三角山下層)です。祝梅遺跡は、1970年代に発掘調査され、剥片石器が出土し、当時はナイフ形石器として分類された石器を介して本州や中国との関係が示唆されました。発掘調査で回収された炭化物の放射性年代測定から、21000年前(未較正)という年代値が得られ、北海道最古の石器群の位置づけがなされました。その後、2015年に改めて炭化物が標本抽出され、加速器質量分析(AMS)法により再測定され、29500~28500年前という較正年代値が得られました。これはMIS3とMIS2の境界年代となり、古本州島の後期旧石器時代の前半期と後半期を区分する基準となるAT(姶良丹沢火山灰)層年代ともほぼ対応します。

 しかし、北海道ではATが層位的に検出されることはほとんどないため、AT以前・以後という対比は容易ではありません。ATに相当する噴出年代をもつテフラが乏しい中で、経験的に後期旧石器と関連するテフラには、2万年前頃のEn-a降下軽石(恵庭降下軽石)といった段階まで新しくなります。北海道中央部(石狩低地帯)や東南部(十勝平野)では、En-a下位に遺跡が一定数残されていますが、柏台1遺跡などLGMの遺跡も含んでおり、層位的根拠のみで前半期の遺跡を抽出するには至りません。こうした地理的特徴から、北海道においてAT下位相当の後期旧石器時代前半期の存在を示唆するのは、古本州島前半期を代表する石器器種である台形様石器といった示準的な石器の認定とその評価です。

 祝梅遺跡三角山地点より出土した石器は点数が少なく、器種認定可能な掻器や錐形石器などを除くと、微細な剥離痕を残す剥片であり、形態的な多様性が乏しい、と指摘されています。後者の、二次加工や微細剥離を残す寸詰まりの剥片を台形様石器とし、後期旧石器時代前半期と関連づける見解があります。一方、剥片の端部に二次加工を施した「基部平坦加工石器」や「裏面微細加工石器」などの中立的な呼称を用いることもあります。剥片素材の石核や円礫に対して打面調整を施さずに、寸詰まりの剥片を(おそらくは直接打撃により)剥離している特徴があります。石核から推測される剥片剥離工程はいくつかに類型化できるものの、打面調整や石核調整を施さないため、石刃や細石刃製作でみられるような特定の手順を踏んだ体系的な「技法」は抽出しにくくなっています。こうした剥片がいかなる作業に用いられたのかについても、まだ具体的な研究が進んでおらず、古本州島では台形様石器の一部は着柄や飛び道具として機能したという説や、直接保持して切る作業などに用いたという説などがあります。LGM以前の剥片石器に関しても、いかなる道具としての視点が成立するのか、といった検討が必要となるでしょう。

 祝梅三角山下層とともにLGM以前として注目されるのは、若葉の森遺跡(帯広市)のEn-a降下軽石の下から検出された剥片石器群です。祝梅三角山下層と同様に器種が乏しく、縁辺に微細な剥離を残す剥片が一定量あるものの、台形様石器といった形態をもつ石器は見られません。大部分は搬入した転礫に対して、分割や打面転位を繰り返して剥離された剥片です。石刃とは言えませんが、縦長剥片と呼べる形状の剥片が一定量あるところは、祝梅三角山下層と違う点のようです。En-a降下軽石の下のローム層の石器群に近接して残された焼土から得られた炭化物の年代は、27600~24000年前となります。IntCal20(関連記事)による較正年代は32025~31159年前で、AT降灰直前でMIS3の後半と考えられます。また、石器が残された後に焼土が形成されたという所見から、年代値よりも石器群の形成年代が古いと推測されています。遺跡形成過程の検討が必要ですが、MIS3の人類集団の存在が問われる例です。

 LGM以前の北海道では、若葉の森遺跡の例のように、台形様石器とは関連が薄そうな石器群が残されていますが、その一方で台形様石器と認定できる資料もあります。とくに、秋田10遺跡(置戸町)の資料は、表面採集ですが注目されます。台形様石器や局部磨製石斧と認定可能な石器が抽出されており、古本州島の後期旧石器時代前半期に相当する石器群と関連づけられました。具体的には、MIS3の北海道には、古本州島に生息したナウマンゾウやオオツノシカなどの動物化石が確認されることから、北海道における台形様石器の存在を森林性の中小型獣を狩猟対象とした人類集団の北上によって残された、という生態学的な仮説が提示されています。

 北海道と古本州島東北部に文化的関連はありそうですが、台形様石器の認定は難渋しています。万人が見ても明瞭に台形へ加工された「タイプ」のみを抽出して、形態的特徴や加工技術から比較検討するオーソドックスな型式学的手法をもっても、帰属時期(前半期か後半期か)の推定は揺れています。おそらく、台形様石器の素材となる寸詰まりの剥片は素材剥離に至る工程が石刃製作などに比べて短いため、原石の形状や大きさなどに影響され、素材作成時点での形状の変異幅も大きく、遺跡間および地域的・時間的ばらつきが生じる、と予想されます。一般論ですが、似ている・似ていないといった評価には、研究者の依拠する分類(型式認定)基準が反映されやすく、今期待される議論の方向性は、進化論的な観点に思えます。そこで定式化されているように、同系統の技術であるがゆえに形態が同じなのか(相同)、形態が似ているだけで非なる技術であるのか、似た技術といえるが古本州島からの系統ではないのか(収斂・相似)、といったいくつかの想定を技術の関連・非関連の形成過程として考慮していく必要があるでしょう。

 地域を隔てた石器の形態的相似をどのように説明するかという難題を抱えているのに対して、北海道と古本州島の関連は石材利用に明確に見られます。古本州島東北部の清水西遺跡(山形県)では、後期旧石器前半期に相当すると考えられる類米ヶ森型の台形剥片や石刃や局部磨製石斧などが出土しており、蛍光X線分析によって、黒曜石で製作された石器のいくつかは北海道置戸山産(置戸町)と推定されています。ATの検出場所と石器の出土地点が異なるものの、清水西遺跡は古本州島の前半期と評価されています。この遺跡例に基づいて、北海道から古本州島への集団の南下を評価する見解もあります。ナウマンゾウ-オオツノシカ動物群の北上に加えて、MIS3における人類集団の南下も想定され、北海道と古本州島の間に双方向移住があった、と示唆されます。

 ストーンボイリングなど石器製作以外の考古記録に関する論点に関して、ヨーロッパやアフリカでは上部旧石器時代や中期石器時代になると、技術革新や採食活動の多様化や象徴の利用など、「現代人的」行動がそれ以前よりも急速に広がる、と指摘されています。こうした視点から想定される石器群には、器種分化や製作・使用技術の多様性が表れると期待されますが、LGM以前の北海道における後期旧石器相当の石器には、そもそも狩猟具といえる石器も未確認で、台形様石器に伴う局部磨製石斧などの磨製の加工具の存在も秋田10遺跡などの例を除くと希薄です。少なくとも、技術革新や多様性が顕在化しているようには見えません。同様に、象徴的あるいは様式的な要素も確認しがたく、現状ではむしろ、石器として可視化される考古資料の限定的な側面に囚われすぎず、石器石材の選択と剥片剥離工程の関連、使用痕跡、遺跡形成過程などの多方面の検討から活動に関する理解を柔軟に求める必要がありそうです。

 そこで注目されるのは、礫群の存在です。祝梅遺跡三角山地点では報告されていませんが、年代的に近い上似平遺跡下層には礫群があり、ほぼ同時期と考えられる勢雄遺跡や上似平遺跡や大成遺跡にも礫群があります。いずれも十勝平野に位置する開地遺跡で、LGM以前の北海道東部に居住した人類が食資源を利用したさいに好んで用いた加熱調理技術だった、と考えられます。日本列島では後期旧石器時代を通じて礫群が発達していますが、古本州島の南関東地方では29000年前頃以降のLGMにかけて増加する、と指摘されています。同様な増加傾向は東海地方や九州南部でも見られます。古本州島で礫群が増加し始める時期と、北海道で礫群が確認され始める時期とが一致することになります。異なるのは、LGMとそれ以降からの展開です。嶋木遺跡など礫群が確認される北海道のLGMの遺跡は少なく、同様な大規模遺跡である川西C遺跡(十勝平野)や柏台1遺跡(石狩低地帯)では礫群の影が薄く、むしろ北海道のLGMの遺跡では炉址が顕著となります。

 これまで日本列島の後期旧石器時代における礫群の機能に関しては、オセアニアの民族誌からの類推に基づく石蒸し調理法が想定され、実験研究も蓄積されています。同じく熱した石の熱を水へ伝達させて熱水へと換える加熱調理法である、ストーンボイリング法も着目されます。ストーンボイリング法に関する民族事例を渉猟した研究では、クリール・アイヌ、イテリメン、北アメリカ大陸先住民といった北半球の少数民族社会の中で、油脂抽出のためにストーンボイリング法が広く採用されていた、と明らかにされています。油脂の抽出とは、骨の中の海綿状骨に貯蔵された油脂を抽出することです。カリブーやヒツジでは、大腿部の遠位端(後肢)、上腕骨の近位端(前肢)、脛骨の近位端(後肢)には特に油脂が多く含まれます。ヨーロッパの上部旧石器時代の礫群の検討からは、油脂抽出のためにストーンボイリング法が採用された、と推論されており、資源の集約的利用が示唆されます。加えて、風味などの味への嗜好も影響することから、現生人類(Homo sapiens)による味覚や嗜好の多様化といった側面を示している可能性もあります。北海道の最終氷期における礫群の形成背景にもストーンボイリング法が想定されますが、仮にそうであれば、LGM以前の段階ですでに資源の集約的利用や嗜好の多様化をうながす程度に、地域人口が増加していた可能性もあるでしょう。

 LGM以前の年代値を示す遺跡が限られている現状では、LGM以前の人類居住がどこから始まるかについて、明確ではありません。LGM以前の集団が一定期間存続した場合、残された遺跡は本来残された遺跡を母集団とすればサンプルに過ぎません。化石人骨の年代値は、得られた年代値がその人類集団の存続期間のどのタイミングを示しているかが問題となりますが、考古記録についても同様です。つまり、最古の年代を示す遺跡の存在が、無人地帯に移住した最初の人類集団の居住を示しているとしても、それが最初に拡散した時期よりもやや時間が経過した段階の遺跡であることもあり得ます。むしろ、一定期間居住が継続しなければ地域内の人口が増えず、それゆえに考古記録(遺跡や技術)も可視化されにくくなります。とくに北海道に関してはLGM以前の年代値が片手に満たない程度なので、それらをもって居住の最初期と結論づけるよりも、もう少し年代値をそろえる必要があります。

 このサンプリング・エラーに加えて、タフォノミック・バイアスも考慮されます。具体的には、後期旧石器時代の遺跡が集中する石狩低地帯南部や、北海道東北部の屈斜路湖~オホーツク海沿岸などでは4万年前頃に大規模な火砕流(Spfa1、Kp1)が噴出しており、仮にこうした地域にMIS3の人類が居住していたならば、死滅したか人口が減少した、と想定されます。少なくとも、4万~3万年前頃となるLGM以前の北海道でも火山活動は活発で、北海道内でも生態環境や景観の安定性には地域差があった、と考えられます。上述の礫群の増加を資源の集約的利用と解釈するならば、LGM以前における地域内の資源分布の偏在に起因する地域間の人口移動を推測することも可能でしょう。


●LGM期

 LGMでは、石器群間変異と細石刃の出現をめぐる論点があります。LGMでは該当する遺跡数は限られるものの、それ以後の細石刃石器群よりも年代と層序に関するデータが蓄積されています。LGMには、細石刃石器群と剥片石器群と石刃石器群という技術基盤の異なる3種類の石器群があります。これらはLGMの中で同時併存していたと考えられ、それぞれが特定の集団の中でのみ伝達される排他性の強い技術だったのか、同じ集団が資源利用に対して適応した行動の違いが異なった技術の選択として表れたのか、という問題があります。これはボルド(François Bordes)とビンフォード(Lewis Binford)の間で交わされたムステリアン(Mousterian)論争と共通する、石器群間の変異・多様性に関する課題です。本論文は以下のように、行動様式の差による選択技術の違いが顕著に表れた結果ではないか、と推測しています。

 まず、LGMを26000~19000年前頃と把握するならば、北海道で最古の細石刃技術が確認された柏台1遺跡の年代が25000~22000年前頃となり、LGMにおいて細石刃技術が北海道に存在したことになります。世界的には細石器の出現をもって組み合わせ道具の普及と把握されていますが、形態的定義やその製作意図(機能・用途)の多様性や地域的差異は明確ではありません。ヨーロッパやレヴァントでは背付き細石器(backed bladelets)が頻出するのに対して、LGMの細石刃の中にはそうした刃潰し加工を施した細石刃は見られません。刺突による破損は一部に観察されるものの、使用された痕跡のある細石刃は少なく、これはLGM以後の北海道の細石刃石器群にも共通しており、大量製作した細石刃の一部を選択した、と推測されます。柏台1遺跡の石核の消費工程からは、細石刃の製作は石刃の製作と一体化していた、と考えられます。これを人類集団の一つの戦略と把握するならば、移動の最中にキャンプ地で細石刃・石刃を製作しながら狩猟具を補給することで、細石刃を剥離できるような良質の石材が獲得できる産地へと回帰する頻度を減らしつつ、狩猟活動を継続できる、という利点があります。北海道LGMの細石刃技術は、分散する資源利用に応じて長距離移動する動物を追尾することや、そうした資源を小集団に分散して獲得する移動式の生活様式には最適な技術だった、と考えられます。

 細石刃技術発生の背景の意義については、北太平洋を挟んだシベリアと北アメリカ大陸北部で細石刃技術の共通性が以前から指摘されています。進展するゲノム研究からは、アメリカ大陸先住民の祖先集団がアジア東部人との共通祖先から分岐した年代が36000±15000年前頃で、LGMとなる25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。アメリカ大陸への(現代のアメリカ大陸先住民と遺伝的につながる)人類の拡散はその後となりそうで、シベリア東部がLGMで無人化した可能性があることや、同様な細石刃技術は北海道にも広がり、その年代もLGMとなることから、単純にシベリア東部→ベーリンジア(ベーリング陸橋)東部という人類拡散の想定は再考されつつあります。北回りの人類拡散の過程で、北海道へも拡散の分岐があったことも論点となるでしょう。

 細石刃技術の出現ばかりが注目されがちな北海道のLGMですが、大部分のLGM遺跡から検出されるのは、剥片を素材とした石器が中心となる剥片石器群です。柏台1遺跡でも、細石刃関連の遺物と空間分布を違えて剥片石器が多量に残されています。柏台1遺跡の剥片石器は、円礫を主とする多様な石材(安山岩やチャートや頁岩など)から厚手の剥片を、おそらく直接打撃によって剥離し、石核素材に利用してさらに剥片を剥離し、二次加工を施して掻器や削器を量産しています。また縁辺に微細な剥離を残した剥片も顕著にあります。細石刃のような狩猟具をもたず、剥片素材の加工具(掻器、削器)が卓越します。LGM以前よりも加工具が量的に増えますが、LGM以前の剥片石器との技術的な連続性も窺えます。

 細石刃技術と剥片技術とは別に、石刃技術を基盤とする遺跡も少数確認されています。LGMの石刃技術は川西C遺跡(十勝平野)のEn-a降下軽石下のローム層から検出されており、炉より得られた年代からもLGMであることは明らかです。川西C遺跡では石刃を剥離した石刃核は残されておらず、遺跡外で石刃が製作され携帯されていた、と考えられます。遺跡に搬入された石刃は縁辺を二次加工によって再生し、折りとった面から樋状剥離を縁辺に施して新たな刃部を作り出すことにより、頻繁に刃部の更新をしています。その結果、掻器や削器や彫刻刀形石器という複数の器種に変形する様子が、接合資料から明らかにされています。

 石刃か剥片かという技術の選択については、どのような状況で両者が選択されるのか、簡単なシミュレーションが行なわれました。これは、行動生態学で用いられるコスト・ベネフィット分析です。石器のベネフィットが刃部の長さであるのに対し、石器のコストが運搬コスト、すなわち容量とされました。石器がつくられた当初の効用(IU)は長さの2乗と幅の和、初期のコスト(IC)は長さの3乗とされました。移動型の狩猟採集民が想定され、その石器が作られてから滞在した資源パッチ数をsとし、それぞれの滞在先で石器を使うことで石器の効用は減じられます。一方でコストも減ります。仮定としては、10回の滞在で石器の寿命が尽き、かつ途中で石器は補給されない、というモデルです。石器は剥片と石刃に限定し、長さ1幅1を単位とするヴァーチャルな剥片を基準とし、大きめの剥片(長さ2 幅2)、石刃(長さ2 幅1)、長めの石刃(長さ4 幅1)の4形態について、移動による効用に対するコストの値の変化が調べられました。

 その結果、移動を通じて効率性(効用/コスト)が最も高いのは剥片、次いで大きめの剥片、石刃、長めの石刃という順番でした。一方、パッチの移動にともなって安定した効率性が得られたのは、この逆の順番でした。つまり、効率性が比較的高かった剥片は、移動する資源パッチ間の効率性にばらつきが大きかったのに対して、石刃はばらつきが小さかった、というわけです。効率性のばらつきが大きいほど、使用する資源パッチによって効用が異なることになり、安定的な資源利用という観点からはリスクがあることになります。そうした中で石刃は効率性が低いものの、資源パッチ間での効率性のブレは小さいため、資源パッチを連続的に開発するパッチ選択型の狩猟採集活動では有用な道具だった、とみなされます。

 この結果からLGMの石刃と剥片の技術を解釈すると、道具を携帯しながら、移動の先々で資源を開発した集団にとっては、石刃が望ましいことになります。同じ状況は、柏台1遺跡の石刃製作と細石刃製作が一体化した技術体系にも見られます。原産地に回帰する頻度も他の石器技術を選択するよりも少なくなった、と考えられます。川西C遺跡と同様な遺跡が、石刃を製作するのに十分な大きさの黒曜石が豊富な環境下にある白滝遺跡群でもひじょうに少ないことは、その傍証と思われます。反面、石器を補充せずに移動し続けるという状況に迫られなければ、石刃よりも剥片を随意利用することが効率性の高さを保証することになります。剥片と石刃の効率性の観点から北海道のLGMの石器群間変異を説明するならば、それを残した狩猟採集集団がLGMの資源を利用するさいに何を重視したのかに応じて選択された技術の違い、つまり資源選択や移動様式の違いが、石器群の変異として表れたと考えられるでしょう。

 移動に対して居住に関しては、川西C遺跡では炉と石器の集中が重複しており、炉を中心とする活動空間が組織されたことは、被熱遺物の分布パターンから明らかです。遺跡形成過程の分析からは、炉にたまった廃棄物が遺跡内の別の場所に二次的に廃棄されたと推定できるため、一定程度の居住強度(遺跡滞在時間と滞在者数を合わせた概念)の高さが示唆されます。同じく炉と遺物分布が重複する柏台1遺跡についても同様の分析を経て、剥片石器を用いた集団の遺跡における居住強度の評価が必要です。現状では、単純に炉の規模や遺物数を見る限り、柏台1遺跡の剥片石器を用いた集団は、細石刃を用いた集団よりも居住強度が高かった、と予想されます。

 LGMの表徴行動をめぐっては、たとえばヨーロッパ東部のグラヴェティアン(Gravettian)などでは、女性像などの偶像(ヴィーナス像)という可動芸術が発達します。こうした「芸術性」の発露は、北海道のみならず日本列島の後期旧石器記録の中では稀です。北回り経路による人類拡散や文化伝達を経て、北海道へも可動芸術が到達した可能性は皆無とは言えませんが、芸術品と識別できるような遺物は極めて少なく、あえて挙げるならば、柏台1遺跡のLGMの居住面より出土した、コッペパンのような楕円な石の側面に沿って刻みが並列する石製品です。この石製品が検出された柏台1遺跡(B地区)からは約35000点もの遺物が出土していることから、ごく稀に残ったユニークな道具と判断されます。同じく柏台1遺跡では、琥珀玉が1点検出されており、同様の細石刃核型式(蘭越型)が出土した湯の里4遺跡と美利河1遺跡、広郷型細石刃核が伴う美利河遺跡E地点でも玉が検出されています。中国大陸部でも石製の装身具はダチョウの卵殻などよりも検出例が少ないことを勘案すると、日本列島の装身具記録の乏しさは化石生成論的偏りを反映している面がありそうです。

 玉は装身具に用いられたと考えられます。装身具の一種であるビーズは、つなげることを基本としつつも、石や貝殻や歯や骨や木の実やガラスなどの多様な素材を用います。LGM以前ですが、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡のように、墓に埋葬された人物の装飾品としてビーズ(マンモス象牙製)が確認されている例もあります。ユーラシア大陸部における旧石器時代の墓壙の検出例は一定数あるものの、ヨーロッパの後期旧石器時代の装身具(ペンダントなど)は特別にキャッシュされた状態で残されるとは限らず、石器や獣骨と同じく遺物層から検出されることが珍しくありません。湯の里4遺跡の玉は土坑に共伴しますが、一般に言われるように「墓壙」と推定するには、考古学的証拠(人骨や副葬品)が乏しいことは否めません。北海道におけるLGMの遺跡から検出された玉は、石製ビーズがほどけて遺存したといった、物の破損などに伴う日常的な物の廃棄に関わるコンテクストに位置づけることが自然かもしれません。

 一方で、装身具が集団や社会の表徴(いわゆるスタイル)であるとするならば、事例は少ないものの、北海道LGMの初源期の細石刃技術の中に特徴的に装身具を示唆する記録があるという状況は、細石刃技術を担った集団の中に自らを独自とみなす意識があり、集団的アイデンティティーが表れていた、と想定することも可能でしょう。アイデンティティー形成の背景には、他者への意識が存在したことになる。北海道のLGM社会には、細石刃技術を担った集団とそれ以外の技術を用いた集団が、互いを意識していた状況があったと想定されます。そうならば、それは資源をめぐる競合だったのか、協調だったのかが問われるでしょう。一方で、身体を飾る装身具が他者に対する自己の表徴となったことも自明であり、それを身に着けていた個人のファッション性や個人のアイデンティティーが表出した場合も考えられます。

 北海道のみならず日本列島の旧石器時代では、装身具と判断できる考古遺物の検出例は玉くらいで、あるなしというレベルに留まります。少なくともスタイルを示すようなパターンを抽出する程の、空間的・時間的ヴァリエーションは整っていません。仮に、細石刃技術などの特有の技術を共有する集団の中に個人を超えたアイデンティティーが物象化されたことを想定するならば、民族誌的現在で社会的意味が示唆されるビーズなどの装身具よりも、考古記録にパターン化されるような、長期的に維持された技術やそれを運用する知識のパッケージ(石器作り、狩猟方法など)に集団のアイデンティティーが覆いかぶさっている、という可能性を検討することが現実的と言えそうです。かつて、硬質頁岩製の荒屋型彫刻刀形石器が集団関係を取り結ぶ機能をもった、というアイデアが提示されましたが、LGM以後に顕在化する特定の石材と器種の対応関係などの経験的パターンは、集団の表徴行動を示している可能性も含めて、改めて注目されます。

 いわゆる現代人的行動とされる象徴行動の痕跡として、顔料の体系的な利用があります。北海道の後期旧石器時代の中でも顔料としての評価が可能な彩色鉱物は玉よりもはるかに検出例が多く、中でもLGMの遺跡に顕著に見られます。嶋木遺跡や川西C遺跡や柏台1遺跡や美利河遺跡(D・E地点)では、赤色および黒色の鉱物(褐鉄鉱、磁鉄鉱、マンガンなど)の小破片が多数出土しています。これらは概して破片化していますが、ナゲット状で表面に擦痕を残すものも少なくありません。LGM相当の南町2遺跡スポット1では台石の研磨面に赤色鉱物が残されており、実験からも、台石などを用いて研磨することにより粉末が作られた、と考えられます。同時に、LGM以前には影が薄い磨製の技術(ground technology)が、LGMの旧石器社会で顕在化することを示唆します。

 同様なナゲット状の赤色鉱物は、スペイン北部のエル・ミロン(El Mirón)洞窟遺跡に残されたマグダレニアン(Magdalenian)の文化層より回収された遺物の中にあります。エル・ミロン洞窟には壁画はありませんが、赤色のみならず黄色など多彩な鉱物破片は、石器や獣骨にまじった遺物層から多数出土していました。その後拡張した発掘区から、赤色鉱物(赤鉄鉱)を散布した埋葬人骨が確認され、ほぼ同じ時期に描かれたと推定される線刻のある石灰岩塊にも赤鉄鉱が残存していたことから、死者を弔う場面で用いられた顔料があったことは確実です。

 北海道の後期旧石器記録では、墓や芸術品が乏しいのに対して、赤色・黒色の鉱物は確実にLGMの段階で用いられています。これらは、LGMの剥片石器および石刃石器を伴う遺跡の多くに残されています。また、美利河遺跡D地点・E地点では黒色の鉱物(マンガン)が多量に搬入されており、その用途が注目されます。こうした色彩をもった鉱物を「顔料」(pigment)とすることにはやぶさかではありませんが、「顔料」の存在をもって象徴品の出現とみなす評価には異論があります。日本国内の旧石器記録については、少なくとも先に述べたようなスタイルや表徴をめぐる理論的考察も不活発であり、時期尚早と思われます。彩色鉱物の機能的側面も無視できず、赤色・黒色がモノの加工のために用いられた実用品(機能的側面)だった可能性もあります。例えば、平原部のアメリカ大陸先住民にみられる革をなめす活動は、水漬けや毛の除去など多工程を踏み、彩色には顔料を用います。

 掻器や削器といったスクレイパー類が主となる北海道のLGMの遺跡には、しばしば赤色・黒色の鉱物が伴います。LGMの寒冷乾燥気候下では、現代の北方狩猟採集民が身に着ける防寒具や移動式テントの覆いの製作といった、寒冷地への適応行動として皮革加工が北海道を含む高緯度域を中心とする地域に浸透していた、と想定されます。ただ、LGMの川西C遺跡の石刃の縁辺に残された使用痕跡からは、刃部再生を繰り返しながらも、カットを示す動作が大部分であり(111/144件)、スクレイピング作業はそれほど多くありません(24/144件)。LGMの石器の種類からみれば、鉱物利用と革なめし作業との関連性はありそうですが、現状では作業内容に関する分析結果は革なめしを素直にトレースするものではありません。LGMの人類集団、とりわけ石刃技術を運用した集団は、居住活動の内容に応じて刃部を調整しつつ多用途へ融通させており、比較可能なデータを集積する必要があります。

 象徴的側面が強調されがちですが、彩色鉱物の用途に関しては、アフロ・ユーラシア大陸の旧石器記録の研究から、いくつかの機能的説明が提示されています。薬説や接着剤説(関連記事)や着火剤説などです。たとえば着火剤説は、黒色鉱物が多数検出されたフランスのムステリアンおよびシャテルペロニアン(Châtelperronian)の遺跡についての実験研究があります(関連記事)。黒色鉱物は大部分が二酸化マンガンであり、着火の温度を低下させる効果がある、と指摘されています。ただ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺跡からの見解のため、現生人類もこうした知識をもって鉱物を利用したのか、定かではありません。細部の検証が果たせていませんが、北海道のLGMは生活様式の異なる二つの狩猟採集社会が併存した時期と言えそうです。一方は細石刃技術をもつ高頻度の移動を繰り返す狩猟採集集団で、もう一方は剥片・石刃技術を運用した移動性も居住強度も高い集団です。前者を「玉(装身具)をもつ社会」、後者を「彩色鉱物(顔料)をもつ社会」と大まかに区別することも可能かもしれません。


●LGM以後

 LGMが終わった後から更新世の終末までをLGM以後とするならば、それは19000~11500年前頃までの7500年間となります。考古学的には後期旧石器時代後半となり、北海道では細石刃技術の多様化(細石刃核型式の増加)により特徴づけられ、遺跡数も増加します。LGM以後の石器群は6種類13類型に分けることが可能で、広範囲に移動しつつ資源利用していた前半から、ベースキャンプをもちつつ兵站的な資源利用をするようになった後半へと居住様式が変化する、と指摘されています。

 LGM以後の石器技術は細石刃と石刃技術が普遍化し、石器の器種も彫刻刀形石器や掻器や削器や尖頭器など多様となります。技術面では両面調整技術が出現します。これは尖頭器(石槍)の加工技術のみならず、湧別技法による細石刃製作技術の中で、両面調整体を準備する中でも用いられます。柏台1遺跡にあるLGMの細石刃技術における石核の準備でも、下縁や側縁に面的な調整がなされますが、両面調整体を仕上げる方向ではありません。両面調整技術はむしろ、LGM以後の湧別技法の運用の中で頻繁に用いられる技術となります。

 石器の器種では、尖頭器や有茎尖頭器や舟底形石器などLGMにはなかった新たな道具が、細石刃技術や石刃を素材とする掻器や削器や彫刻刀形石器などの加工具と共伴します。尖頭器の出現は、細石刃(組み合わせ道具)とともに新たな種類の飛び道具が人類集団の道具立ての中に加わった、と示唆します。彫刻刀形石器はLGMの細石刃技術の中で初めて登場しますが、LGM以後になると形態も多様化します。忍路子型や広郷型の細石刃石器群にはしばしば斧形石器という磨製石器も加わり、器種は増えます。前半と後半の石器群における石器器種の種類を定量的に検討した結果でも、LGMを過ぎると器種の種類は明らかに増えます。

 LGM以後の石器群には、石刃と細石刃と両面調整という主要な3技術がまんべんなく見られますが、LGMと異なり、それらが遺跡や石器群に一対一対応するのではなく、いくつかの技術が組み合わされ、考古記録(石器群)として表れていることが多くなります。これは石器群相互がポリセティックな連結をもつ、いわば技術複合(technocomplex)です。石器製作技術の核となる石刃技術や細石刃技術も、LGMよりもはるかにヴァリエーションが増えます。端的には、石刃の打面調整方法や細石刃製作技法の増加に表れています。また、機能・用途が未解明ですが、舟底形石器のような、細石刃核の整形技術の一種(ホロカ型細石刃核)から分化したような石核石器が登場し、示準的な石器となります。

 ただ、技術複合をどのように把握するか、それらの出現・存続期間については資料の多さも相まって、研究者間で一致をみていない現状です。たとえば、石刃を素材として規格的な細石刃を製作する広郷型細石刃核は、北海道のみならず、サハリンや朝鮮半島をめぐる日本海沿岸に広がり、北回り経路による人類拡散との関連性も窺えます。しかし、数少ない放射性炭素年代値の評価をめぐり、後期旧石器時代後半とする見解とLGMまでさかのぼるとする見解に割れているのが現状で、北回り経路と関わるような、どこからどこへ技術が広がったのかという議論には至っていません。

 彩色鉱物と黒曜石の広域移動に関しては、石器は多様化するものの、LGMで確認された装飾品は乏しく、頻出した鉱物も減少するようです。たとえば、吉井沢遺跡(北海道東北部)では22265点の全遺物のうち鉱物は34点のみです。吉井沢遺跡では、彫刻刀形石器の彫刃面に赤色の粒子が付着している、と確認されており、かきとりや削り出しといった動作の過程で赤色鉱物との接触があった、と示唆されています。大部分の彫刻刀形石器の用途が骨・角であることから、LGMで想定されたような革なめしと彩色鉱物との関係を必ずしも支持していません。あるいは、鉱物自体の役割がLGMとそれ以後では変化した可能性も考えられます。

 石器に基づく技術複合の広がりよりも明確な空間的スケールを示しているのは、北海道産黒曜石の広域への移動でしょう。サハリンのLGM以後の遺跡(アゴンキ5、ソコルなど)では北海道白滝産の黒曜石が確認され、さらにアムール川下流域では前期新石器時代(8600~7200年前頃)には白滝産の黒曜石が確認されるようになります。こうした石器石材の移動を長距離に及ぶ人類集団の北上と把握するのか、Paleo-SHKにおける南北方向への交換ネットワークが確立していたのかが、論点となります。また、産地から遠くへ運ばれた石器がどのくらい保持され続けたのか、それはどのような社会であったのかといった、石器の管理性(curation system)やその意義をめぐる理論的課題もあわせて検討されるべきです。

 上述のように、LGM以後に北海道から人類集団が南下した、つまり17000~16000年前頃に津軽海峡を越えて東北地方へ南下した、という見解が提示されています。北海道と古本州島東北部の文化的関連は、削片-分割系という北海道とパラレルである石器技術の分布によって注目されており、背景にある石材を節約するといった行動面の共通性や、近年では北海道産黒曜石が古本州島東北地方でも確認されるという経験的データからも示唆されます。一方で、LGM以後の北海道からの南下仮説の前提は、中心である北海道から周縁の古本州島への移住に伴う伝播(demic diffusion)、ならびに水平方向の文化伝達モデルです。現時点では、なぜ南下したのかといった点に関する明確な仮説はありませんが、まずは南下仮説の当否を検証するため、その前提となるモデルの妥当性が問われるでしょう。つまり、中心部の北海道における削片-分割系の初源年代が17000~16000年前頃かそれ以前であることが必要条件となります。たとえば、湧別技法をもつ上幌内モイ遺跡(北海道厚真町)の炉の炭化物の年代のうち、最古の年代は14770±70年前で、石川1遺跡(北海道函館市)の炭化物は13400±160年前です。IntCal20による較正年代では、それぞれ18240~17892年前、16627~15667年前となります。オルイカ2遺跡(石狩低地帯)の14690±70年前という放射性炭素年代値は、IntCal20による較正年代では18209~17813年前です。仮に湧別技法が北海道で発生したとしても、ほとんど時間差なく古本州島で同様な技術が出現した状況となります。いずれにしても、各地域で年代値の信頼性やLGM以後の古環境条件を吟味しつつ、拡散のベクトルを議論することが必要です。


●まとめ

 北海道は最終氷期を通じてPaleo-SHKの南端であったことから、陸路による北回り経路のどん詰まりであり、吹きだまり地勢を呈します。また、古本州島の旧石器文化の形成といった観点からはしばしば「北方系」の要素を見出し、多くの考古学者がその背後に、北海道およびその先のシベリア東部などアジア東北部大陸部からの人類の南下や文化伝播を想定しています。一方で北海道の考古記録の変遷には多様性と独自性が顕著であり、それがいかにして形成されたかに関する北回り経路の果たす役割は、まだ議論が始まったばかりとも言えます。さらに、LGM以前で想定されるようにMIS3の段階で津軽海峡を越えた古本州島からの北上経路も、北海道の旧石器記録の形成に影響を及ぼしている可能性があり、吹きだまり特有の人類拡散があったのかもしれません。より微細に見るならば、細石器などの組み合わせ道具、ストーンボイリング法による油脂抽出、装身具、彩色鉱物などの要素の展開は、ヨーロッパを含むユーラシアの各地やアフリカでも見られる事象です。こうした現生人類の多彩な技術の諸相が北海道の旧石器記録にも確認されるわけですが、遅れる場合とパラレルに生じる場合の両方がありそうです。これは、二重波モデルとの関連でも興味深い問題です。

 古本州島でも後期旧石器時代を通じて朝鮮半島からの人類の東進や文化伝播の証拠が示されており、緯度は異なるものの、Paleo-SHK同様に古本州島も吹きだまり地勢であることに変わりありません。現生人類の北回り経路をめぐる現時点の議論では、トランス・バイカル地域やモンゴルや中国東北部などアジア北東部内陸部の旧石器記録が積極的に意義づけされていますが(関連記事)、その先にある地域へ最終氷期の人類がいつどのように拡散したのかを関連づけることで、北回り経路の吹きだまりである北海道(古本州島との関連を含みます)の旧石器文化の成立過程といった、史的過程の構築が可能となるでしょう。一方でアジア北東部からの北回り経路による直接的な人類移住に対して、アジア南東部から現生人類が北上してアジア北東部地域にいた集団が押し出された結果、Paleo-SHKに吹きだまったという想定もあり得るでしょう。


参考文献:
中沢祐一(2021)「北回りルートと北海道における更新世人類居住:論点の素描」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 33)』P45-63

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